天文5年(1536)4月連日の雨がやまず、同月28日竹田川、矢送川等出水氾濫し堤防を破壊し、奔流怒激、見日町を災すること甚だしかった。
されど町民復興に努力して、殆ど旧状を見るにいたり、人々業に安んずることができた。
後8年して、天文13年(1544)8月烈風暴雨連日止まず。忽ちにして山崩れ堤潰え、洪水地を没し狂浪家屋をさらえ、実に古今未曾有の惨状を呈したし見日千軒の中央部は忽ち根底より奪い去られ、居民の死傷其の数をしらず、人力にては到底復旧すべからざる水域と化した。(関金町史より)
なおこの洪水で、見日千軒上流小鴨川の鹿首村(現在の生田・丸山)が流出し、小鴨川の流路そのものが、西側の天神野裾を流れていたものが、現在の東側に変更しました。鴨川が昔の流路のなごりをとどめています。
天文13年は、尼子経久が倉吉を領した「大永の5月崩れ」大永4年(1524)があって20年めのことでした。


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