72.アルバイトに明け暮れた(大学時代編)

40万円の特注ギターを作った資金源(大学時代)




学生時代に40万円のギターを特注して購入できたのには理由がある。

さて、いよいよ大学編(何か、若大将のページみたいだ!次は社会人編か?)に入る。

バスケットで、高校の隣に隣接されている、TY大学にはバスケで入学できたのだが、敢て、通常の入試を受けて、千代田区にあるN大に入った。(理由は、中学・高校でバスケは卒業と決めていて、バラ色の文科系で思う存分、学生生活を謳歌したかったから。そして、N大を受験したのにも理由があって、父がその大学のOBだったので。だから、我が家は親子二代同じ大学卒業です。いやもう一人います。弟も、同じ大学です。正月の箱根駅伝は三人でN大を応援しているけど、中々勝てません)

流石にマンモス大学だけあって、新入生は本当に凄い人数。なんたって、入学式が数日間執り行われたのだから。
運よく、静岡県の校舎組みには入らず、四年間千代田区の本学で学んだ。
否、4年間学んではいなかった。

通学初日、ガイダンスなどが終わり、直ぐに探したのは、音楽関係のクラブだった。
大学ともなれば、音楽関係のクラブも様々あって、軽音楽、ジャズ、ロック、フォーク、何故か民謡なんていうのもあった。

当時は、ロックはハード・ロックで、やかましくガンガンとアンプを鳴らすのが主流だったので、高校時代から始めたフォーク系に入ろうと初めから決めていた。

しかし、簡単には入れてくれず入部する為のオーディションがあった。
先輩たちの前で、楽器を演奏する。楽器の種類は何でもよかった。
例えば、ギター、バンジョー、ベース、ピアノ、ドラム、歌など弦楽器や鍵盤や打楽器など得意な楽器や歌を演奏するのだ。

僕はその、オーデションで2曲演奏したが、エレキ(ベンチャーズの曲)とフォーク(シューベルツの曲)を演奏した。人前での演奏は慣れているので難なく、合格した。
第一関門通過。女性5名を含め、20名が1年生の新入部員として入部した。

この後が、結構大変だった。メンバー編成。女性を入れる入れないで随分揉めました。
僕たちは、4人編成でグループを結成。女性1名(ボーカル)、男性3人(ギター2本、ベース1本)でバンド名が、ニュー・フロンティアーズとみんなで話し合い命名した。

先輩達のグループの中には、フォーク・ソング同好会なのに、エレキ・バンドのグループがあって実は、そのリーダーから誘われたのだが、フォーク・ソングをやりたいのでと断った。その後、暫くは、その先輩達一派から、かなりイジメられた。

いよいよ、始まった!、バラ色の学生生活が。
殆ど、授業には出た記憶はありません。(語学と体育だけは別)出席確認後、直ぐに教室からエスケープしてた。

試験の時は、女の子からノートを借りて、生協でコピーして試験は無事通過。
一般教養の2年間で、80単位をを取ってしまった。

この4年間でギターを30本以上購入した。ヤマハの特注ギター当時40万円で作ったギターを含めて。

先輩達は、フオーク・ギターはマーチンやギブソン、エレキ・ギターはモズライト、フェンダーなど高額なギターを所有していた。
高額なギターの音色は素晴らしいのだが。自分の持っているヤマハのフォーク・ギター(確か、5万で購入したと思うが)など足元にも及ばない。(いいギター欲しいな~と真剣に思っていた)

1年生の秋だったと思うが、九州にある嬉野温泉のボンボンN君が(全国にあるN大の系列高校から入学してきて者が多く、卒業後殆ど地元に戻ってしまったが、素晴らしい友達が何人かいる)アルバイトしないか?と話があった。(現在では、その温泉の社長をしている)

高校時代の友人が卒業後、ホテル・マンとして働いていて、このN君は全くお金には困っていなかったが、将来家を継承する為にバイトするので一緒にやらないか?と誘われた。

これが、バラ色の学生生活の一番の思い出に残る、アルバイトになろうとはこの時全く思ってもいなかった。(大学卒業までこのバイトはやり遂げた)

'79年(昭和49年)にアルバイトをして手にした給料が52万円(1ヶ月間で)。
このお金で、40万円のギターを購入した。

ホテルでの3年半の仕事はハードだったが、沢山の人との出逢いがあった。

大学の、フォク・ソング同好会に入部して、慌ただしい学生生活を過ごしていましたが、ホテルのアルバイトを行うようになってから時間との格闘だった。

夏休みの8月だけは、高校時代から行っていた、T汽船のアルバイトを継続して行っていた。(大学の4年生まで、T汽船の社員が僕を辞めさせてくれなかった)
結果的に、学生だったのか社会人だったのか、今でもよく判らないのだが、不思議なことに、留年する事なく4年で無事に卒業している。

暫く、大学のことは横に置いて、ホテルでのアルバイトの事を書いていきます。

ホテルの名前は敢て、記しませんがフランス料理では3本指に入る、大手町にあるシティー・ホテル。

ホテルの中の仕事というのは、石の森章太郎原作の「ホテル」という漫画やテレビ・ドラマを見た事があれば、想像できると思う。

大学の仲間達5人で、面接を受けに行った。結果全員採用された。
採用してもらった処は、K配膳会といって当時は全く判らなかったが、ホテルの中で一番忙しいBANQUET(宴会)に多く人数を派遣している会社だった。

東京に様々なシティーホテルがあるが、殆ど、どのホテルにもこれらの配膳会が入っている。(お客様には、男性も女性も見極めるのは不可能だが、宴会場にいる着物を着ているおばちゃたちが大体そういう人。男性はホテルマンか配膳会か、判断は無理)

確か、時間給は900円からスタートしたと思う。見習いが終わった頃、千円にアップした。
最初の仕事は(大体は、洗い場から始まるようだが)僕たち5人は、宴会場のボーイ見習いからスタート。慣れるまで大変だった。

宴会は毎日(大部屋・中部屋・小部屋)、朝から夜中近くまでギッシリ詰まっている。
特に、大安吉日ともなれば結婚式のオンパレード、息抜く暇もない程慌ただし。(調理場や洗い場では、怒鳴り声、血管が浮き上がっているなんて事はざら)

特に、お客様の面前で、手に持った大きな銀皿から、サーバー(スプーンとフォークのセット)で料理を上手く挟んで、お客様のお皿に盛り付けを行うサービスをした。
そのサーバーの特訓を数日、更に、宴会場のセッティング(テーブル、椅子、クロス、銀器のセット、グラスのセットの仕方など)やメニュー(全てフランス語)を覚えたり、ワインやシャンパンの種類(注ぎ方)も覚えなければならないという超過密研修を短期間で修得させられた。

この期間は、精々5日程度だったけど、みんな必死だった。僕らは学生なんだけど。
慣れてくると、この仕事はハードだが楽しいかった。(土・日・祝日の繁忙期は、朝7時出勤で終わりは23時過ぎ、何ていうことはざらにあった)

お客様は、僕達がホテル・マンだと思っているのでいろいろ尋ねてくるので、これも教育を受けたが、心からの笑顔と、サービスを以て接することを心掛けた。
これは、サービス業だから行うのではなく、人と接する全ての業種に云えることだと思う。

宴会場のボーイは大変です。次から次えとコース料理を運んで行って、お客様が食べ終わった皿や銀器を下げ、洗い場まで運んですいく。
戦争です。現場は。この仕事は、体力がなければ勤まらない仕事。

話は変わるがが、この3年半の間に、フランス料理は全て食べつくした。
スモーク・サーモン、ロースト・ビーフ、キャビア、フォアグラ、エスカルゴなど書くと際限がない。

学校の授業も受けずに(バンド練習の時は参加してたが)、コンスタントに毎月20万円近くアルバイト料を取っていた。(朝から夜までやってたから)

ホテルは365日、24時間動いている。その中で人間はローティションで仕事を行いる。我々、アルバイトには労働基準法は適用していない。いや、してました、配膳会の管理の人から「一週間に一度は休みなさい」とは言われてたが、僕ら5人とも「休みはいりません」と働いた。しかし、一ヶ月しか持たなかった。(お金を稼ぐのは大変)

給料日当日(全て現金で月末支給された)は、仕事が終わると新宿や池袋に直行した。当時は凄いお金を手にしたけど、全く残っていない。きれいサッパリ使ってた。
「江戸っ子だから、宵越しの金は持たない」なんて言って遊んでいたなァ~。

この間にあった2件事件があつたのだが、事件簿ファイルへ移動させました。(新宿歌舞伎町ボッタクリ事件と渋谷井の頭線ガード下屋台のタコの足事件) 華やかな表舞台から、無味乾燥な裏方への配置転換

再び、話は元に戻って。
ホテルでのバイトで一番楽しい思い出というと、国鉄(現JR)などのストライキの時だった。でした不謹慎な云い方になるが。
ホテルは不夜城の如く動いている。ストライキが行われても、申し込まれた宴会は中止にはならない。

'73年の4月から、宴会場のボーイから裏方に回された。(配膳会の責任者に、ボーイの方がいいとお願いしたけど無理だった)

宴会事務所の直ぐ裏手にあるシルバー(翌日の宴会場の部屋毎のお客様が食事に使用する銀器=ナイフ、フォーク、スプーン等を人数分セットする係り)と酒庫の係りの担当者として。

ボーイが失格の烙印を押されたのかと思ったが、配置転換後直ぐに解ったのだが、その裏方の責任者の社員が僕の大学の卒業生だった。(ボーイをしている時も話などはしていていたが、学校の先輩だった事は知らなかった)尚且つ、その社員の下にいたバイトの先輩も同じ大学で(学部は法学部)で僕が、後輩だと云うのでどうやらボーイから引き抜かれたようだ。(他に4人居たのに今もって理解は出来ないが)

移動したての頃は、華やかな、宴会場の表舞台から地味な裏舞台に廻ってしまった事に嫌気がさしていた。(一緒に入って学校の仲間4人は、ボーイの仕事を楽しそうに行っていたから余計、なんか仲間外れにされたと錯覚してた)
そして、数日するとこの裏方の仕事が断然面白くなってきた。

調理場のコック長が直々に、翌日の宴会毎のメニューを運んできてくれる。それを、バイトの先輩が、会場名、人数、オードブルからデザートまでメニューを読み上げ(全てフランス語で書かれている)僕達数人で銀器のセットしていく。
ボーイ見習いの頃に研修を受けたが、最初は何のことやらサッパリ理解出来なかった。

この仕事は、宴会がスタートすると結構時間的にゆとりがある。この間を利用して、分厚い料理の本が宴会事務所にあったので、社員の方から借りて、メニューとつけ合わせて勉強した。

休憩もつかの間、宴会途中でボーイが下げて来た、皿や銀器を次から次へと洗い場では、機械洗浄する。それを、シルバーの係りが洗い場まで取りに行き、部屋の中で種類毎に区分を行うのです。
このシルバーで大変だったのは、インベントリー(棚卸し)です。月に一回(宴会の少ない仏滅の日)全ての銀器の数を数える。帳簿の数と最終的には照らし合わせのだが、これが毎月全く合わない。
特に、デミタスカップ用のデミスプーンやバター・スプレッターやバター・ナイフは帳簿の数とは毎月合わなかった。原因は、洗い場で料理の残り物と一緒にゴミ袋へ直行。
小さいから、皿や銀器はボーイが次から次へと運んでくるので、食べ残しに紛れ込んでも判らない。

一方、酒庫係りの仕事は、シルバーと同じ様に、宴会場毎にドリンクを準備する係り。
アルコール、ソフトドリンク、シャンパン、ワインなど。それと結婚式のテーブルに(最近は置いてないようです)配置する煙草の用意。
この酒庫は銘柄を間違えると、ホテルの信用が失墜してしまうので最新の注意がいる。

会社四季報で、宴会主催者の株主さん毎に銘柄を合わせセットしなければならない。
宴会を取ってくる、外商の社員が細かく書類を書いて、宴会事務所に回送されたモノと同じ書類が酒庫のに届けられる。一週間単位で届く。追加の宴会が決まれば新たな用紙が届けられる。
それを見ながら酒庫係りがチェックして用意をする。
銘柄をセットするというのは、これは大変な仕事だった。ビールの銘柄よりソフト・ドリンクをセットするのが大変だった(ジュース、サイダー、コーラなど)。特に、パーティの場合は何百ケースとなるので大変な作業だった。
空瓶が溜まってくると、ホテルの外へ台車を用いて移動させます。

ドリンクは宴会場の裏手にある巨大な冷蔵庫では用が足りず、地下2階に巨大な冷蔵庫があり、エレベーターを使って台車でのピストン輸送を行うなんて事は頻繁にあった。肉体労働そのもの。お陰で筋肉が沢山付き逞しくなった。
酒庫係りの仕事も毎月、インベントリーを行う。この作業も半端じゃなく大変な仕事。特に地下の冷蔵庫の中は冷えに冷えていて。長時間いると寒いの何の。
この仕事を、最終的には大学2年生から卒業間近まで行った。

高級なフランス料理を飽きるほど食べたけど、これって犯罪じゃないかな?

当時は、春闘が毎年恒例となっていて、国鉄(現:JR)や私鉄は労働側がストライキを行っていた。

宴会は(ホテル内全てのセクション同じだが)ゼネストがあっても営業をしる。
従って、社員や配膳会やバイトの人手を確保する為、ホテル内に留まる必要がある。社員には仮眠室が設けられているが、留まる人数が半端な数ではないので用が足りず必然的に、宴会場が宿泊場所に早代わりする。
貸し布団屋から大量の寝具が運ばれてきて、宴会場の裏手に業者が運び入れる。

ここで、話を変えます。
数日前からホテルの内部の話を記述していますが、もう30年以上も前の話。
もし、現在ホテル関係の方がこの文章を読んでも当時と今とでは環境は違うし、古き良き時代だったと、思い読んでほしい。
では、続けます。

ホテルの宴会は殆どがセットになっている。例えば、結婚式は一人当たり予算が幾ら。この一人当たりの中には、コース(このコースもランクがあるが)の料理代とドリンク代が込まれている。
即ち、結婚式(例えばですよ)の当日に、ドリンク(アルコールとソフト)が残っても、精算時にお客様が支払う金額からは引かれない。
よって、結婚式シーズンは、大量の(帳簿外の)ドリンクが余剰的にストックされるのです。セット料金だから。

自分も、25歳の時にこのホテルで180人の招待客をお招きして、挙式と披露宴を行ったが、ドリンクは残っていたがお金は返ってこなかった。
故に、セット料金は絶対曲者だと思う。(セットからオバーすれば追加ドリンク代は徴収されるのだが)

スト以外にも、宴会が深夜になって帰宅できない時も多々あり、このストと同じように夜中まで仕事をした。

話を戻し、各セクション(これも例えばですよ)フロント、レストラン、バイキング、和食屋(寿司、天ぷら屋など)のコックや料理人は食材を持っている、(帳簿外の)そして、ホテル内でドリンクを大量にストック(帳簿外の)しているのは宴会部門だった。
社員の方も大勢泊まりる。管理職やナイト・マネジャーもそうだが。従業員食堂で食事(ホテルの従食は、朝、昼、夕、夜食と4回ある)をしますが、流石に夜中は腹減る。

このような、泊り込みの時は殆ど夜中の25時過ぎぐらいまで仕事をしていた。 僕達は、銀器、金器(ナイフ、フォーク、スプーンなど)を、磨く(ピカール等の磨き粉で)作業を行う。そうすると、くすんでいた銀や金のナイフなどがキラキラと輝きを増します。
宴会担当の他の部門は、ゴブレットなどのグラス類や皿などを磨いている。一度、ウォーマーで温めた後に行う。

仕事をしてるから、タイム・カードは押しっぱなしとなる。この頃は24時間勤務していた。(例えば、28時に退勤し28時に出勤)3日間一睡もしないで仕事をした事もあったけど、若かったから出来たんで今じゃ絶対に無理だネ。

出勤から退勤してまた出勤とタイム・カード上では数秒の差で打刻される。
この夜中までの勤務を利用して、一カ月にどれだけ稼げるかとやった結果最高で、前記述したような給料を手にしたことがあった。(本当に大学生なの?学校に行ってんの~、て配膳会のおばちゃん達に言われたな~)
話を、泊り込みに戻す。

真夜中過ぎる頃、ホテル内のあちらこちらから、僕達の酒庫に内線電話が架かってくる。
コックさん達はドリンクを飲みたい。僕達(宴会管掌部門ですから宴会担当の社員も一緒)は、肉や魚や果物を食べたい。お互いのモノを取り替える。
所謂、バーターというやつですね。

ロースト・ビーフやスモーク・サーモン、ロブスターや寿司や天ぷらや時には処分するケーキ(当日製造して、残ったモノは全て廃棄する。お客様には販売できないが食べられます)やキャビア、ファグラ、果物など等とチェンジをする。
(当時、これら食材を廃棄する置き場に、人相不詳の人が大勢、廃棄した食材を取りにきていた)

夜中遅くに、ナイト・マネージャーや守衛が巡回にくるが、見て見ぬふりで「おおっぴらにやるなよ」とか声をかけて立ち去る。(本当は、入りたいのだろうが立場上出来ないから)守衛さんには、宴会で使用した残りモノの燗冷まし(これも本来廃棄するモノ)を差し入れに持っていった。そうそう、フラワー・ショップや地下3階にあったクリーニング部門にも持って行った。

'74年に、バイトの先輩で同大学の方が卒業(バイトも止めた。あたり前。この方は、卒業と同時に大阪にある有名なホテルマンとして就職し、現在は幹部として活躍している)して、僕がバイト連中の責任者となってしまった。

そうして、先輩から伝授されたホテル内の人脈をどんどん作っていった。(何の人脈なんでしょうか?)

ここに書いたのは、ごく一部ですが、ハッキリ云って犯罪?だと思う。

だけど会社は、損はしていない。帳簿上よりもドリンク(勿論食材も)などの数量は上回っていたから。

もっと凄い事が内部の中では行われていた。管理職の社員の指示の下に。でもこれ以上は流石に書けない。

何れも、30年以上も前の話。現在はこんな事絶対行われていない筈。

このように、学生時代の卒業直前までホテルの中で、沢山の方と知り合いになって、勤務状況はは無欠勤で一生懸命頑張った。'76年の最終の時間給は1500円だった。

実は、就職活動を行っていた時に、夏季限定のバイト先のT汽船の親会社のF観光と、このホテルの双方から就職しないかとありがたくも誘われたのだが、学生時代の延長線になるのも嫌だったのと、学生時代に勉強した労務管理・人事管理の仕事がしたかったので辞退させていただいた。オイル・ショック後の就職難の時代だったのだけど。

この時、誘われるままにどちらかに入社していたら全く違う人生を歩んでいたかも・・・。



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