121.ザ・ゴールデン・カップス



ザ・ゴールデン・カップス


ゴールデン・カップス

横浜を拠点に、R&Bやブルースを中心に、当時の最新洋楽ロックを演奏し、GS界からも、その音楽的な先端性と、ハーフとルックスで羨望の眼差しで見られていたバンド。

ザ・ゴールデン・カップスの中心メンバーの一人、エディー藩が'61年(中学3年生)の時にバンドを組んで同級生や先生から大喝采を浴び、高校入学後は、米軍キャンプなどで演奏して、一回の演奏で$50から$100のギャランティ(当時$1は360円)を得ていた。

やがて、エレキ・ブームによってテレビ局は競ってエレキのコンテスト番組の放送を始める。エディー藩もそれらの番組参加するために、日頃のバンド活動で知り合った仲間達を集め出場することになる。

当時の最強メンバーで構成されたグループが、伝説的なザ・ファナティックスである。
メンバーは、小林輝雄(Ds)、田彗 敏(Bg)、ジョニー野村(Vo)、平尾時宗(Vo)、藩 広源(Eg)の5人。

ザ・ゴールデン・カップスの中心メンバーのもう一人が、この時の平尾時宗である。
その後、数々のエレキ・コンテスに出場して大暴れするが、勝ち抜きエレキ合戦では、1点差でザ・サベージに惨敗してしまう。

その後、大学に入学したエディー藩を待ち受けていたのは、'70年安保の学生運動で、授業は全く行われず、学校の傍の逗子海岸で釣りなどをして音楽とは離れて過ごすようになる。しかし、一大奮起し、気を取り直しアメリカに向けて出発する。
アメリカではジェフ・ベックなど有名なミュージシャンのステージを見て歩いた。

帰国直前のサンフランシスコで高校時代の仲間の平尾時宗と偶然再会する。(平尾時宗は、'66年のザ・ビートルズ公演が開催された次の日に、音楽感覚を研ぎ澄ますために渡米していた。)
その後二人は帰国し、ある日、平尾時宗から本牧のゴールデン・カップという店で歌を唄っているから、見にこないかと誘われる。
しかし、エディー藩の思いとは裏腹にバンドの演奏する音楽はブルース・マインドのないバンドだった。
それを率直に平尾時宗に伝えたところ、逆にメンバーを集めてバンドを結成しないかと持ちかけられる。
そこで、結成したバンドが、グループ・アンド・アイである。
その後、バンド名をザ・ゴールデン・カップスに改める。

メンバーは、エディ藩(Lg)、ケネス伊東(Sg)、ルイズルイス加部(Bg)、マモル・マヌー(Ds)、デイブ平尾(Vo)の5人。その後に、ケネス伊東がビザの関係(兵役)でアメリカに帰国し、ミッキー吉野(Og)が新たに加入する。当時、ミッキー吉野は16歳。更に末期には、柳 ジョージやアイ高野なども加入する。

デビューのきっかけは、TBSのプロデューサーが本牧で暴走族のリーダーのドキュメント番組の制作中に、偶然本牧で演奏していた彼らを見出し、ヤング720で放送したこと(視聴者から大反響があったという)から始まる。

大手芸能プロダクションの争奪戦の結果、東亜企画とプロ契約を結んだ。
'67年6月東芝音楽工業からリリースした、「いとしのジザベル/陽はまた昇る」でレコードー・デビューする。初ステージは博多のフォーカスで公演を行う。

8月には日劇ウエスタン・カーニバルに初出演して、新人賞を受賞する。
'70年には、エディー藩が脱退し、ニュー・ロック色を高めていくが、'72年1月、沖縄公演を最後に解散する。

この頃の沖縄は本土返還直前で、ザ・ゴールデン・カップスが演奏していたクラブから漏電により火災が発生し全焼した。楽器。機材、などの所有物も一瞬のうちに焼失してしまった。

ザ・ゴールデン・カップスはデビューから解散までに、次の10枚のシングル・レコードをリリースした。

「いとしのジザベル/陽はまた昇る」'67年6月15日発売、「銀色のグラス/ドゥ・ユー・ノー・アイ・ラブ・ユー」'67年11月15日発売、「長い髪の少女/ジス・バッド・ガール」'68年4月1日発売、「愛する君に/クールな恋」'68年9月1日発売、「過ぎ去りし恋/午前3時のハプニング」'68年12月5日発売、「本牧ブルース/4グラムの砂」'69年11月10日発売、「ルシール/君は僕に首ったけ~悲しい叫び」'69年5月1日発売、「蝶は飛ばない/もう一度人生を」'69年7月10日発売、「にがい涙/悪魔にだまされた」'70年5月5日発売、「人生は気まぐれ/たった一度の青春」'71年11月5日発売(全て、東芝キャピトルより発売)


僕が好きだったケネス伊東(正確なカッティングのギタリスト)の晩年について。

ケネス伊東は、ギターも上手かったがベーシストとしても一級のテクニックを有していました。'46年1月1日にハワイオアフ島で日系アメリカ人二世として誕生しています。愛称はブッチ。「銀色のグラス」の画像の左から2人目

順風満帆だったザ・ゴールデン・カップスのケネス伊東に徴兵(ベトナム戦争)の足音がヒタヒタと迫ってきます。

そこで、徴兵を裂けるためケネスの父親が一計を案じ『軍需関係の仕事に就く事』を強く勧め、'70年の秋にザ・ゴールデン・カップスを脱退します。

が、暫くは何度も日本に来日しバンド活動を行っています。ケネス伊東の後任として参加したミュージャンが、柳 譲治(後の、柳 ジョージ)でした。

ケネス伊東は、軍需関係の仕事に就き、ベトナム、フィリピン、沖縄等を往復する米軍貨物船に乗り込み戦場へ赴く戦士は免れました。

'72年に米軍貨物船の仕事から解放され、第二の祖国の日本へ永住する決心を固め外務省に帰化申請等の手続きを何度も申請したが、許可は下りませんでした。

途方に暮れたケネス伊東は愛する日本を家族共々離れ、生まれ育ったオアフ島へ帰国します。

帰国後は傷心の痛手(日本に見捨てられてしまったという思い)からか音楽関係を離れ、友人が経営していたゴルフ・ショップを手伝ったりギフト・ショップの共同経営など事業家してその手腕を振るいます。が、エクササイズ中に急性心不全で倒れ'97年3月2日に享年51歳という若さで天国に旅立ちました。



2008年11月11日付サンケイスポーツ


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↑のトップ・ページには↓ 平尾さんは食道がんが発見され、療養中だった。通夜、告別式は平尾さんの遺志により近親者で執り行い、後日お別れの会を開く予定。 ザ・ゴールデン・カップスのリーダーデイヴ平尾さんが、かねてより食道がん療養中のところ11月10日午前8時14分永眠致しました。(享年63才)ここに生前のご厚誼を深謝し、謹んでご通知申しあげます。

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デイヴ平尾(本名:平尾時宗)は、'45年11月17日に誕生。 ※詳細はボクのフリー・ページに 病院で食道がんの手術を受けて回復に向っていましたが、'08年11月10日午前8時14分に永久の眠りに旅立ってしまいました。 後、数日で64歳の誕生日を迎えるところでした。 また、今月28日には文京区のJCBホールで、THE GOLDEN CUPS単独のライブが行なわれる予定で、このライブで元気な姿で復帰する計画でしたが…… 享年63才

素敵なミュージシャンがまたひとり旅立ってしまいました(泪) こころからお悔やみを申し上げます。

ザ・ゴールデンカップスのデイブ平尾さんが死去

「長い髪の少女」「愛する君に」などのヒットで知られるGS(グループ・サウンズ)「ザ・ゴールデンカップス」のリーダーでボーカル、デイブ平尾さん(本名・平尾時宗)が10日、死去したことがわかった。63歳だった。

ミッキー吉野が追悼…デイヴ平尾さん急死、まだ63歳

「長い髪の少女」などのヒットで知られるGSバンド「ザ・ゴールデン・カップス」のリーダーでボーカルのデイヴ平尾さん(本名・平尾時宗)が10日、食道がんのため死去した。63歳だった。平尾さんは先月下旬に手術を受け成功したが、容体が急変した。手術前日の様子をカップスのキーボード、ミッキー吉野(56)が、サンケイスポーツに語っている。 「時さん(平尾さんの愛称)は『痛くもかゆくもないし、何で手術するのかわかんないよ。不思議でしようがない』って文句言ってたぐらいで、すごく元気でした。本当にショックですよ」

平尾さんは、3週間ほど前に体調不良を訴え、先月20日に喉を切開するなど10時間超に及ぶ大手術を乗り切っていた。 亡くなった10日は午前6時ころまで元気だったが、看護師が7時に見回った際に意識がなかったという。人工呼吸などの処置がなされたが、兄弟が見守る中、息を引き取ったという。

霊安室で平尾さんに対面したミッキーは、「『ブー』と呼んでかわいがってくれた。リーダーでボーカルなのに、みんなに『歌え、歌え』と言って、必ず全員に歌わせる人だった。あんなリーダーはもう出ないと思う」と偲んだ。 もともとカップスは28日に東京・水道橋のJCBホールで公演する予定で、平尾さんは復帰を楽しみにしていたという。平尾さんの兄弟から「弟はハデ好きだったし、酒も好きだった。にぎやかにやってほしい」と頼まれたミッキー。メンバーのエディ藩(61)、ルイズルイス加部(60)、マモル・マヌー(59)らと話し合い、追悼公演として行うことを決めている。

ザ・ゴールデン・カップス レコード・ジャケット集





'08年8月16日現在



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