オキナワの中年

オキナワの中年

「現代思想」臨時増刊号


2001/07/30 

 『現代思想』(青土社)七月臨時増刊号は「戦後東アジアとアメリカの存在 〈ポストコロニアル〉状況を東アジアで考える」を特集している。この雑誌は、かつては一種の知的ファッションという側面が少なからずあって、見慣れない用語がひしめき、門外漢には全く意味不明ということもまれではなかった。が、近年より具体的で、多くの人々にとって切実な問題を取り上げることが多くなったように思われる。
 今回の特集は、本年一月に東京外国語大学で行われた国際会議に基づくものである。副題の〈ポストコロニアル〉の問題とは、形式的に主権が回復された後も植民地支配の権力的構造がさまざまな形で残存することを指す。
 この特集を本欄で取り上げるのは、沖縄の戦後を考えるに際し、まず文学という媒体に大きな比重を置いていること、また文学のみならず広く沖縄を考える上で示唆深いと思われるからである。
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 波平恒男氏の「大城立裕の文学に見る沖縄人の戦後」は表題の示す通り、大城文学を通して沖縄の戦後を読み解こうとする試みである。大城立裕というきわめて多産かつ多様な作家(思想家)の全体像、その意義を限られた紙数の中で明快に論じるのと同時に、従来黙殺されがちだった『恩讐の日本』等の長編の意義に言及し、「カクテル・パーティー」の後半部について新たな読解を提示するなど、作品論としても重要な文献となっている。
 比屋根照夫氏の「五〇年代・沖縄の言論状況」は瀬長那覇市長誕生前後の状況を主要なテーマとするが、本論に入る前に新川明の象徴的な作品「掠奪の日の記録」を取り上げ、また『琉大文学』周辺の言論弾圧の問題を論じている。これらは文学を状況に置き直すという点できわめて示唆深いものである。
 またこの特集では沖縄以外の問題領域においても、在日文学あるいは「国民作家」としての司馬遼太郎が大きく取り上げた論考がある。これらを総合的に読むことで沖縄の文学の意義が立体的に浮かび上がるという構造になっている。
 論者たちはいわゆる文学研究者ではなく、本来このような重要なテーマは文学の領域でももっと真剣に議論されるべきなのであるが、八〇年代以降の文学研究は、具体的な社会状況との関連よりも、作品の自律的な構造、表現のメカニズムや言語学的なモデルに研究の比重を置いたため、作品がどのような状況から生まれたか、あるいは状況に対してどのように関与したか、という問題はそれほど重要視されてこなかった。したがって今回の特集における政治思想史、歴史学、政治学等の専門家たちによる作品の読解は、「文学」についての研究・批評としても貴重なものである。
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 直接文学には言及していないが、本来文学がもっと真摯(しんし)に問題化しなければならない主題を提起しているのが、屋嘉比収氏の「質疑応答の喚起力」である。この論文では国際会議において光州事件(一九八〇年、韓国の光州で、民主化を求める市民や学生と軍が衝突し、多数の死傷者を出した事件)と密接な立場にいた一人として報告を行った文富軾(ムンブシク)氏に対する質疑応答をとりあげている。
 質問は、暗い記憶ではなく、明るい記憶を継承しないのはなぜかという趣旨であり、報告の内容から大きく逸脱するものであった。しかし文氏はその質問を一蹴(いっしゅう)することなく、十分に耳を傾け、自分の思考の枠組みを再検討しつつ誠実に答えようとしたという。屋嘉比氏はこの場の強い印象を、数年前、沖縄を訪れた本土の学生が、ひめゆりの塔の資料館に対して嫌悪感をあらわにしたという出来事と結びつけ、嫌悪感をもった学生の声を沖縄サイドが十分に聴かなかったことを惜しんでいる。
 これら二つの事例の根本は、いずれも認識不足、理解不足によるものであるが、にもかかわらず、そのような地点から発せられた声に耳を傾けた文氏の態度に屋嘉比氏は大きな可能性を見いだしている。文氏の態度こそ「自らの解釈枠組みを肯定的に固執するあり方ではなく、自らの解釈枠組みを『絶えず自己破壊的に吟味し直す』ような持続的な思考行為」だからだ。
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 この論考については、無理解者に対して、そこまで譲歩する必要があるのか、といった疑問も生じるかもしれない。しかしこの論考は今回の特集のなかで、非常に単純に善悪を提示するいくつかの論文に対する批評性を備えているし、現在沖縄が抱えている記憶の継承の困難という問題とも関連している。
 例えばいくつかの論文で糾弾されている自由主義史観関連の書物は沖縄でもよく売れ、また私の個人的な経験の範疇(はんちゅう)においても、講義で沖縄の文学を取り上げると、露骨にいやな顔をする学生も少なくない。暗い話はもうたくさんだ、ということである。これに対し悲惨な事実から目を背けてはならないなどと紋切り型の説教をしても始まらない。
 なぜ自分の声が届かないのか、もしくはどのような組み替えにより反感や無関心を乗り越えられるのか。屋嘉比氏の指摘する「聴くという行為」の重要性は、現在という状況に一石を投じていると思われるのである。




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