オキナワの中年

オキナワの中年

目取真俊「希望」


2001/11/01 


 目取真俊の新刊『沖縄/草の声・根の意志』(世織書房)を読んだ。まず確認しておくならば本書は小説集ではない。本紙連載のエッセー「風流無談」を軸に、ここ三年ほどの時評的な文章が中心となっている。小説としては巻末に単行本未収録の六編の掌編小説が付されている。
 これら六編のうち、発表当時から物議をかもしたのが「希望」という作品である。本書において数々の政治的発言の後に付され、それらの主張と響き合う中で、この作品は、再び特異な色彩を放っている。なお本書の発刊日の翌日、アメリカで同時多発テロが発生し、一般における「テロ」という言葉の感触は激変した。今現在も刻々と情勢は変化しており、目取真自身も本書の延長上の発言を行っているが、ここではそれに直接言及するのは控えることにする。「希望」が発表された時点ではこのような状況ではなかったし、時局に対する論評は本欄の役割はないと考えるからである。
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 「希望」は一九九九年六月に朝日新聞に掲載された。この作品が議論となるのは、いうまでもなく米兵の幼児を殺害するというモチーフによる。実際発表後まもなく共同通信によるインタビューが行われ、その最初の質問がこの作品についてのものであった(本紙九九年八月三十日付)。その後この作品は一般読者の手を離れ、冨山一郎の肯定的な発言(『みすず』二〇〇〇年一月)、賛否ともつけがたい向井孝の論評(『反戦インターネット情報』六号)などが出され、最近では『ユリイカ』八月号で徐京植による好意的な批評がある。
 これらの論評については後述するとして、まず「小説」としての特徴をみておきたい。
 この点は上記の論評には抜け落ちているのだが、この作品は単にモチーフが衝撃的だというだけではなく、表現においても様々な試みがなされているのである。ひとつは現在の書き手の中で最高水準と言って過言ではない、目取真の描写力である。特に殺害場面のリアリティーは直接感性に響く衝撃力を持っている。
 この目取真文学全般の特色に加え、「希望」の特色として、特殊な視点の構造が指摘できる。作品はまず三人称客観小説のように始められるのだが、いつのまにか犯人の視点に移行し、結末では再び当事者を客観視する視点へと戻る。この境界がはっきりしない二重の視点の上に、エッセーを通読した上でこの作品に至った読者にはある奇妙な感覚が宿る。犯人の主張はどこかで読んだことがあるのだ。まさに犯人を犯行へと駆り立てる衝動、「お行儀のいいデモをやってお茶を濁すだけのおとなしい民族」「軍用地料だの補助金だの基地がひり落とす糞の様な金に群がる蛆虫のような沖縄人」という趣旨は既に前半のエッセーで主張されている内容なのである。ただエッセーでは不屈の闘争といった抽象的な言い方が作品では「最低の方法だけが有効なのだ」すなわちテロという具体的な形を与えられているということになる。
 この作品では主観と客観、幻想と現実、作中人物と作家、さらには小説と小説外部の現実とが重層的に呼応しあい、そこに現実以上に現実的な描写力が加わるという、まさに特異な「小説」なのである。それゆえ例えば先に述べたインタビューにおいて、記者は「小説」ではなく「仮想ながら衝撃的なエッセー」と呼ぶのであるが、目取真は特に訂正していない。
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 さて表現に続き、本題となるモチーフであるが、目取真にとってテロリズムは条件次第では容認されるものである。これは目取真の思想を突き詰めていけば、必然的にそうなる。目取真の前には動かしがたい多数の障害が立ちはだかっているからだ。
 三つだけ挙げるなら、まず代議制民主主義という現在の意思決定のシステムである。これについての説明は省略する。次に沖縄もまた全世界的には驚異的な豊かな地域になったことと、それに伴う社会の成熟化である。ウチナーンチュは今後も一定の文化的連帯感を保持するだろうが、政治的な連帯を求めるのは既に時代錯誤であろう。若者に接する機会が多い目取真はとっくに気づいているはずだが、彼らはウチナーンチュ以前に「私」なのである。
 三番目はやや唐突だが、言論の自由である。政治や権力をどのように挑発しても、わいせつ文書ほどにも規制されない。目取真の主張はしっかりと全国紙の紙面を飾るのである。長い歴史を経て、ようやくわれわれはこの場所まできた。これほど自由な発表機会を得て、なおかつ状況が変化しないとするなら、言論としては一種の敗北である。以上の前提を踏まえ、仮に状況を一変させようとするなら、「最低の方法」が浮上せざるを得ない。
 が、そうまでして一変させるほどの状況なのか、という問題が残る。実はこの作品についての論評は徹底的に追いつめられたマイノリティーにとってテロは容認されるのか、という部分を軸に展開している。一般的な常識からいえばいけないに決まっているのであるが、時にインテリというものはこういう議論をするのである。既に紙数は限界だし、これから先は本欄の趣旨を越えるので結論だけを述べる。現在の沖縄は徹底的に追いつめられたマイノリティーではないし、漸進的に改善しうる余地は多様である。したがって到底テロは容認されない。以上である。




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