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五十代 0
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「ビッグX」と「8マン」も大好きなアニメでしたが「ビッグX」は薬の注入が注射器で「8マン」は頭痛がするとタバコ型冷却剤だったのがどちらも中毒患者を連想させられましたね。
2022.11.18
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「鉄人28号」は、初回から観た記憶があります。犯罪組織が「鉄人28号」を音声認識させる声を初期登録した時に拉致していた「正太郎」君の声が誤って登録されてしまうと言う今でも使えそうなエピソードなんですよね。何故かその部分だけが記憶にあります。今なら「再インストールしろよ」って言う感じですね。
2022.11.18
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子供の頃にアニメで一番嵌ったのは「スーパージェッター」でした。特にAIを装備したタイムマシンの「流星号」や腕時計型の通信機などは当時は夢のようなアイテムでした。「流星号」が好きすぎて小学校の図画の時間に描いた事がありましたがそれを見た先生はきっと「クルマが空中を走っている」なんて呆れたんじゃないでしょうか。
2022.11.18
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小学生の時に「二十日鼠」を飼っている同級生がいて「回し車」を回している姿に魅せられて分けて貰った事があった。しかし、飼っていたら間もなく「ハツカネズミ」も色が白くて小さいだけで鼠に変わりがないと気が付いた。
2016.05.15
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「十姉妹」を飼った事があった。本当は「手乗り文鳥」を飼いたかったのだが何故か「十姉妹」になってしまった。十姉妹も番だったので春になると卵を抱いて孵化させていたが時々、巣から卵が落ちている事があって駄目な卵は親鳥が巣から落としているようだった。餌は「稗」や「粟」だったが「十姉妹」が餌を食べても殻が残るので常に餌箱を吹いて殻を取り除いてやらないと餌が無くなったのが分からなかった。
2016.05.14
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「緑カメ」を飼った事があった。水槽に水を入れて陸の部分も作ったが当時は、市販の亀の餌など手に入らなかった。小魚を獲ってきて一緒に飼っていたが小魚は知らぬうちに亀の餌になっていた。
2016.05.13
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当時、我家は練炭のコタツだったのでコタツで寝ていると「タマ」が一酸化中毒になることがあったが外に出して新鮮な空気を吸わせると救命できた。しかし、ある朝家族が居ない時に一酸化中毒になった「タマ」が絶命してるのが見つかった。苦しかったのか口から嘔吐して横たわっている「タマ」を見ると私はとてつもない後悔の念に押しつぶされた。それ以来、暫く猫を飼うのは止めた。
2016.05.07
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小学校の高学年の時だったと思うが学校の図書館が宝庫に見えた時期があって毎週本を借りては読んでいた。「シャーロックホームズ」の推理小説が多かったかな・・・?貸出カードなんていうのも懐かしい。
2011.01.18
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小学校に入学した時に叔母さんや叔父さんから「小学生」と「冒険王」という雑誌をプレゼントされた。どちらかを定期購読をする様に薦められたので私は迷った挙句「冒険王」を選んが家族は「小学生」を選ばせたかったようだ。私の本(マンガ)好きはこの時から始まったのかも知れない。
2011.01.17
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小学生の時に叔父さんから小さな鉱石ラジオを貰った。電灯線にアンテナ線を巻きつけると電源も無しでイヤフォンからラジオ放送が聞こえてくる。私の科学好きはこの時から始まったのかも知れない。
2011.01.14
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五、六年生の頃は、身体に合う服が無いと言うことで三歳半年上の姉のお下がりをよく着せられた。今になって思うと大した事では無いがエンジ色のセーターなどは、ちょっと恥ずかしかった。うちは、裕福ではなかったね。
2010.11.29
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小学六年生の時だったと思うがキャンプ研修に行かされた事があった。教わりながらの初めてのテント張りや料理は戸惑う事ばかりだったが一人の女の子が料理の仕方を付きっ切りで教えてくれてキャンプファイヤーの時のフォークダンスも手取り足取り教えてくれた。今でも「オクラホマミキサー」を聞くたびに思い出される。
2010.11.28
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小学六年生の頃の友達トンピリピのN君と柿の種のT君の家は会社員で休日は家の手伝いをする事も無く遊んでいたが私の家は農家だったので農閑期にならないと休日に一緒に遊ぶことは出来なかった。この頃は農家の長男に生まれた事が本当に恨めしかった。
2010.11.27
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小学六年生の成人の祝日にトンピリピのN君と柿の種のT君と三人でN君の家に集まって遊んでいた。誰かが成人の日なのだからタバコを吸ってみようと言い出しN君の家にあったタバコを吸ってみた。一口吸っただけで口の中が気持ち悪くなりその後は二度とタバコを吸ってみたいとは思わなくなった。
2010.11.26
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六年生の時に何故か女の子達とクリスマス会をした。その時に姉から「女の子の前でガツガツ食べるな」とアドバイスされたのを覚えている。出席したのは自宅を会場として提供してくれたMさんとOさん、Tさん。男の方は「柿の種」で唇が真っ赤に腫れたT君と途中で逃走したトンピリピのN君は印象に残っているが他は誰が居たか覚えていない。後にも先にも女の子とのクリスマス会は、この一回だけ・・・。
2010.11.25
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何の授業だったか忘れたが先生が「家で洗濯を夜しているか?朝しているか?」と質問した事があった。何故か夜派はうちと「硬めのご飯が好きな女子」の家の二軒だけだった。後で母に何故、夜洗濯するのか訊いたところ「朝は忙しいから」との単純な返事だった。
2010.11.24
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六年生の時に家庭科の授業で料理を作った時私が米研ぎを仰せつかった。当時、私は毎晩のように母親の代わりに米研ぎをしていたのでお手の物だったが同級生からは「なんで水を捨てて研ぐんだ」とか、炊き上がれば「ご飯が硬すぎる」とかのヤッカミ半分の中傷の言葉が出た。その時、ある女の子が「私は硬めのご飯が好きだな」と言った言葉が忘れられない。
2010.11.23
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小学六年生の新学期に一人の女の子が転校生して来た。何故かその時のチェックの上着と右手を後ろに回して左手の肘の辺りを掴んでいる立ち姿が脳裏に焼きついている。休み時間になった途端、面倒見のいい同級生の女の子達が世話していたっけ。田舎だったので転入生なんて珍しかった。この頃は運命の出会いなんて言葉も知らなかったね。
2010.11.22
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小学六年生の時に親友が居てよく一緒に遊んでいたがその親友に誘われて駅前の学習塾に通う事になった。確か土曜日の夕方一時間英語を勉強して日曜日の午前中に英語と数学を一時間ずつ勉強した。六年生の時は初めて教わる英語が新鮮で面白かったのだが中学生になったら塾でやっている勉強が教科書の予習だけだと言う事に気付き二年足らずで行くのを辞めてしまった。その代わり家で予習だけはキチンとやって相変わらず毎月塾代を親から貰っていた。
2010.11.21
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小学校の中では、やはり六年生が一番思い出の多い学年だったと思う。やっと入れた新校舎、最終学年、転校生、初恋・・・。
2010.11.20
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小学生の頃はマンガ本を読みながらの通学だった。学校まで約2キロ位だったがバラス道の右側を一列に並んで私は、ずっとマンガ本を読みながら歩いていた。
2010.11.18
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小学生の時に近所にK君という同級生が居た。K君は自分の検便の代わりに登校途中で犬の糞を採って行ったりスーパーの店先のおでんを万引きして食べたり当時では小学生とは思えない悪童ぶりだった。高校生になってからは遭う事も無くなったが噂によると婦女暴行で少年院に入ったりしていたらしいやがて親の家業が不振で一家で夜逃げをしてしまった。
2010.11.17
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確か六年生の時に初めて自分用の自転車を買って貰った。友達と同じドロップハンドルの自転車が欲しかったのだが父親が買ってきてくれたのはセミドロップの自転車だった。どうしてもドロップハンドルが諦められきれなかった私は後で自分でハンドルを買って付け替えてしまった。
2010.11.10
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五年生の頃は何故か少女漫画が面白くて件の女班長さんにマンガ本を借りて読んでいた。「マーガレット」とか「りぼん」だったかなぁ?絵がゴチャゴチャしてるのは余り読まなかったなぁ・・・。
2010.11.09
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五年生の時の旧校舎のトイレは汲み取り式のトイレだった。トイレ掃除が終わると女班長のAさんが一つ一つ見回ってチェックするのだが予想通り私の掃除したトイレを指さして「ここは誰が掃除したの?」と訊いて来た。実は私は金隠しにまで水をかけて綺麗に見えるようにしておいたのだった。
2010.11.08
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小学生の頃、病院の建設予定の空き地で草野球をしていた時靴の中に土が入るのが嫌で裸足でやっていた事があったがガラスの欠片を踏んでしまい親指の裏側を切ってしまった。家に帰ると母親が洗面器に灯油を入れてその中で足を洗って消毒してくれた。そんな灯油の使い方もあるのかと、やけに印象に残っている。
2010.11.07
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小学生の頃に近所の空き地や田んぼで野球をした時期があった。しかし、試合をするほど人数は集まらなくて「フライを捕れたらバッターになれる」と言うルールの草野球だった。親父がグローブを買ってくれたが小さくてフニャフニャして使いづらい物だった。うちは金銭的に余裕が無かったようだ・・・。
2010.11.06
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我が家に冷蔵庫が入ったのは随分遅かったと思う。初めて製氷皿で氷が出来た時には今でも子供がやるように私も氷を舐めて舌が貼り付いた記憶がある。
2010.11.04
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新校舎の掃除は雑巾がけからモップがけに替わった。ある日、私は掃除の時に友人とふざけていてモップの柄を曲げてしまった。当時は先生のゲンコツ、梅干(こめかみを拳骨で挟む)、正座などの体罰は当たり前の時代で私と友人はかなり滅入った。ところが丁度通りかかった教頭先生に事情を話すと教頭先生は何でも無いといった顔で「こうすれば直るんじゃないかな?」と言って柄を逆に曲げて真っ直ぐに直してしまった。この出来事は今まで体罰教師しか知らなかった私には感動的だった。
2010.11.03
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私の小学校に何かにつけて体罰を加えるKという先生が居た。廊下を走ると拳骨。宿題を忘れると石の文鎮で頭をゴツン。騒いでいると梅干(両手の拳骨の中指でこめかみを挟んで持ち上げる)。喧嘩をすればビンタ。まぁこちらにも叱られる理由があるのだから仕方が無いのだが一緒に騒いでいても「K先生の甥っこ」だけには何のお咎めが無かったのは理不尽だった。
2010.11.02
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私が小学生の頃は両毛線は蒸気機関車が現役で石坂浩二がチョコレートのCFを撮りに来たりTV番組の撮影で駅が使われたりしていた。今では考えられない事だがそろばん塾への行き帰りでは列車のドアを開け放したり身を乗り出して風に当たったりと想像も出来ない様な遊びをしていた。通学定期をトイレで落とすとそのまま線路上に在るんです。・・・。
2010.11.01
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小学四年生か五年生の頃、何故か珠算塾ブームがあり私も親から「そろばんで段を取らないと高校へ行けない」と言われて騙されて友人のO君と汽車で珠算塾へ通った。後で知ったのだがこの珠算塾は学校のすぐ傍の公民館でも出張塾をやっていた。O君は一生懸命通学して昇段していたけれど私の方は三級の試験(伝票計算)で一度落ちた時自分に適性が無い事に気づき珠算塾を辞めてしまった。でも高校へは全く問題なく入学できた。
2010.10.31
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四年生になると学級委員長なるものが出来た。先生に言われるままにクラス投票で委員長を決めたが今になって思うと、内容もろくに知らない子供達の投票で一人の学級委員長が決まる筈も無くあれは先生の陰謀だったんだろうと思う。とにかくその時から人前に立つのが嫌いな私の憂鬱は始まった。
2010.10.30
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小学校の四年生の時に校舎の建て替え工事があった。建て替え工事中は私たちは仮設のプレハブで一年間授業を受けた。そして一年後新校舎が出来た時には私たちは五年生になったのだが新校舎に全生徒が入りきれずに五年生だけは古い木造の旧校舎で勉強する事になった。
2010.10.29
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近所には私の同級生が男だけでも五~六人居て母親同士がなんとなくライバル意識を持っていた。子供達にしてみれば本当に迷惑な話だがこの意識は子供達が大人になった今でも続いているようだ・・・。
2010.10.28
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小学校の頃は自宅での勉強は一切しなかった。しかも農家の長男だった為農繁期には休日も手伝いをさせられてテストの時は勉強出来ない、いい言い訳になった。それでもまったく日曜日に手伝いの無い会社員の家に生まれた同級生が羨ましかったね。夏休み、冬休みの宿題は「一夜漬け」が多かったな~。
2010.10.27
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確か小学六年生の図工の授業で「エッジング」なるものをやった。割り箸の先に針を固定して下敷きに絵を彫るのだがふざけていた私は隣のOさんの指を針で刺してしまった。「あっ勘弁ね」とくらいしか言えなかった私に「大丈夫」と騒ぎもせずに指先の血を押さえていたOさんに私はグッと来るものがあった。私は健気な女性に弱い・・・。
2010.10.26
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小学校の五年生の時だったろうか?無理やり生徒会に立候補させられた。私は人前に立って話すのが本当に苦手で選挙演説くらい苦痛なものは無かった。そのせいで今でも政治や組合活動に全く興味が無いのかも知れない。
2010.10.25
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東京留学中に祖母の義弟に東京タワーに連れて行って貰いました。その時にだいぶ無理を言ってお土産にカメラを買って貰った記憶があります。今にして思えば相当高価なお土産でしたがフィルムの入れ替え方も知らず、一度も現像しなかったような気がします。本当に馬鹿な子供でした・・・。
2010.10.24
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東京留学中に人生で初めて映画館に連れて行って貰い映画を観ました。多分、この映画だったと思うのですが・・・。ラストはとても悲しい結末だったような気がします。
2010.10.23
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東京留学では初めて「ピンポンダッシュ」なる遊びを知りました。公園で騒いでいるので見に行ったら蝉を捕まえて大喜びしていました。最初の二三日は夜、車が走る音で寝付けませんでした。静けさと自然が懐かしくなりました。
2010.10.22
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あれは小学校三年生の時だったと思うが東京のハトコの家で夏休みを過ごした事があった。私の換わりに東京のハトコ(次女)が私の家で夏休みを過ごすと言う都会と田舎の交換留学。今思うと「都会のネズミと田舎のネズミ」の人間版だったね。
2010.10.21
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東京のハトコのH君は私よりも一つ年下だったが夏休みと冬休みになるとプラモデルをお土産に毎年群馬に泊まりに来た。私もプラモデル作りが大好きだったので楽しみにしていたが私が高校生の夏休みの合宿中に泊まりに来た時に私は家に居なくて相手をしてやれなくてH君もその後は高校へ進学したせいか翌年から泊りには来なくなって疎遠になってしまった。私の父親が死んでからはH君の親とも会う事はなくなり結局H君とはそれが最後になった。子供の頃の夏休みの懐かしい思い出だ。
2010.10.20
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道楽三昧小学生の頃の学校での遊びは教室内では「ビー玉」昼休みは校庭で「サッカー」放課後は「缶蹴り」「S」休みの日は近所で「メンコ」「野球」が多かったかなぁ・・・。
2010.10.17
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小学校に入学した時に同居していた叔母さんが「小学一年生」と「冒険王」を買って来てどちらかを定期購読させてくれると言った。私は迷わず「冒険王」を選んでここから私のマンガ好きが始まった。
2010.10.16
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小学校の四年生の時の社会科の授業は最初から最後まで先生が黒板に書くことをノートに書き写すだけの物だった。この先生はノートに転記させる事が好きらしく宿題を忘れた時の罰も教科書を何ページも転記させるものだった。そのうちに私は授業中の黒板丸写しを止めた。書き写しても二度と読む事が無かったからだ・・・。
2010.10.15
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小学校に入学した一日目に担任の先生が最初に言った話「ヤギさんには子供が十人、ウサギさんには子供が十五人居ます、それよりももっと沢山の子供達に囲まれて居るのは誰でしょう?」「先生!」私は先生の期待通りに答えてあげた。
2010.10.15
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小学一年生、二年生、三年生位までは授業中の想い出と言うのは全くありませんね。担任の先生に全教科教わったのでしょうが休み時間になるのだけが楽しみだったような気がします。担任は女の先生が多かったかなぁ?
2010.10.14
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小学校の入学式の帰り道母親の自転車の後ろに乗っていた私は足元で回っている後輪のスポークに足を擦ってみたくなりそっと靴の先で触れてみたら意外と大きな音がしてその音に驚いた母親が心配して大騒ぎした事を今でも鮮明に覚えている。
2010.10.13
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