2013.12.19
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NHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重の夫で、同志社英学校(同志社大学の前身)を設立した新島襄(じょう)が脚光を浴びている。彼の生涯初めての奈良旅行をたどり、明治初期の奈良を垣間みてみよう。

彼は天保14(1843)年、江戸の神田にあった上州(じょうしゅう)安中(あんなか)藩江戸屋敷で生まれた。本名は七五三太(しめた)という。元治元(1864)年、函館港から密航でアメリカに渡り、ボストンで洗礼を受けた。名門アマースト大学を卒業し、アメリカ訪問中の岩倉使節団に通訳として同行した後、明治7(1874)年11月、海外伝道組織アメリカン・ボードの宣教師となって帰国した。

翌年1月、大阪・川口の外国人居留地にあった同じ派遣宣教師のゴードン邸に仮住まいし、日本にキリスト教主義の学校を設立する運動を開始した。

来阪中で、岩倉使節団で親交があった木戸孝允を訪ね、大阪での学校設立への尽力を依頼した。しかしキリスト教嫌いの大阪府権(ごん)知事・渡辺昇の賛同を得られず、大阪での学校設立を断念。失望して頭痛と不眠に悩む新島に、ゴードンは気晴らしに奈良、京都への旅を勧めた。
新島は明治8年4月1日、リュックとつえと傘を持って1人旅に出た。5日間の行程を英文日記「奈良、宇治、石山、京都行ノ記」に残している。

1日目、暗越(くらがりごえ)奈良街道で奈良をめざした。午前8時大阪・川口のゴードン邸を出発し、徒歩で「フタツ神社(玉造稲荷(いなり)神社か)」へ。そこから人力車で暗峠登り口まで移動。徒歩で峠を越え、再び人力車で午後4時に奈良へ到着した。
人力車は明治3年、東京で発明された。翌年、東京・日本橋で営業を開始すると全国に広まり、ピークの明治29年には全国で21万台に達したという。
奈良公園での営業は明治5年に始まり、ピーク時の大正15年に397台となったが、自転車や自動車の普及で衰退した。


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当時の奈良は、慶応4(1868)年の神仏分離令の後で、興福寺が廃寺となるなど混乱の時期だった。日記にある新島の見聞を要約すると、以下の通りになる。

当時、東大寺大仏殿と回廊を会場に第1次奈良博覧会が開かれており、法隆寺や東大寺など各社寺の宝物類など千余点に加え、286件もの正倉院宝物が初めて一般に公開された。この博覧会は4月からの80日間に17万人が訪れ、大盛況だった。
日記に東大寺訪問について直接の記述はないが、鎌倉時代に東大寺を復興した重源(ちょうげん)上人の笠などの博覧会出展品や、大仏の寸法のメモが残っているので、訪れたのは間違いない。

奈良出発後は木津、宇治、石山、坂本、比叡山を経て、5日目に京都・三条大橋にたどり着く。
新島は明治8年11月、京都で同志社英学校を設立したが、京都に足を踏み入れた第一歩がこの旅行だったことになる。

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ちなみに新島八重も後に奈良を訪れている。八重が55歳の明治33年10月27日、老舗旅館対山楼(たいざんろう)に宿泊したという記録が残る。現在、対山楼の跡地には、天平倶楽部という料理屋さんが建っている。
明治時代の奈良をしのぶのも面白い。

産経新聞「奈良再発見」より・・・。






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Last updated  2013.12.19 20:28:20
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