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地域センターになっている役場跡から50mほど歩いてきました。DSC_0335 posted by (C)Traveler Kazuこの道路は国道7号線と県道56号新国道に挟まれながらも、比較的交通量の多い路線になっております。バスの本数も多く、訪れるのに不便はしないでしょう。とても古い神社があります。DSC_0334 posted by (C)Traveler Kazu古四王神社・田村神社歴史はとても古く、平安時代に記録された『日本三大実録』の、「貞観7年」(865年)の項に登場している神社がこの古四王神社であるとされています。創建はさらに古く、658年頃、飛鳥時代の将軍阿倍比羅夫が祀ったのが始まりとされています。このような事から、武運の神様とされています。DSC_0336 posted by (C)Traveler Kazu明治神宮や平安神宮などの官幣大社を筆頭とする(※)近代社格制度においては、国幣小社に列せられました。これは、有名なところでは青森県の岩木山神社、神奈川県の箱根神社、熊本県の藤崎八幡宮などと同格でした。秋田県において官幣社に列せられた神社はこの古四王神社のみです。古い社格制度の「延喜式」には載っていませんので、歴史が明治政府を動かしたと見られています。※現在は、国の制度としての「社格制度」は廃止されています。※伊勢神宮は全ての神社の頂点とされ、格付け自体がなされませんでした。DSC_0338 posted by (C)Traveler Kazu階段を上がると、本殿です。社務所は、階段の下にあります。かつて国(大日本帝国)の保護を受けた社格の神社ですが、今は訪れる人もまばらで、ひっそりしています。しかし、やはり官幣社の風格が漂う神聖な雰囲気です。なお、かつての「官幣社」は、社格制度が廃止されて以降も、神社本庁により「別表神社」として、神職の配置や予算配分などで別格の扱いを受けているそうです。DSC_0337 posted by (C)Traveler Kazu田村神社古四王神社の境内社で、社務所の向かいに建っています。征夷大将軍坂上田村麻呂が、蝦夷征討の折にここで戦勝祈願をしたと伝えられています。わずか100m程度の範囲に見所が詰まっていた寺内地区ですが、足を伸ばせば秋田城跡(古代城柵)やいくつかの古墳、菅江真澄の墓、湧き水「高清水霊泉」などがあります。歴史散策にもってこいのエリアです。寺内地区・古四王神社秋田駅前(西口)より、秋田中央交通バス「寺内土崎線」「将軍野線」に乗り、「寺内地域センター前」下車。おおむね、1時間当たり3~4回運行。片道350円。秋田城跡へは、「護国神社入口」下車。国道7号線「港大橋入口」(スケート場)より、5分程度。駐車場は、古四王神社駐車場を利用できます。(地域センター駐車場は来庁者を優先して下さい)Wikipedia古四王神社近代社格制度秋田城跡坂上田村麻呂秋田県青年会館寺内神屋敷・港大橋入口交差点角
2009年09月12日
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当ブログで年に数回取り上げている「秋田市旧町村めぐり」。そして、今日の記事が、クチコミテーマ「ちいさな旅~お散歩・日帰り・ちょっと1泊」を使って書く300回目の記事ですさて、今回はお手軽に、秋田市中心部から近い所に行ってきました。旧・南秋田郡寺内町1889年の町村制施行時に「南秋田郡寺内村」成立、1933年(昭和8年)町制施行。1941年(昭和16年)隣の土崎港町とともに秋田市に編入され消滅。現在の秋田市寺内一帯です。秋田市中心部の山王・八橋から通称「旧国道」と呼ばれる秋田市道を通って土崎に至る途中に当たります。秋田市民の方なら、一度は通過したことがある地域でしょう。住居表示上は、国道7号(臨海バイパス)、県道56号(通称新国道)も寺内地区を通ります。しかし、国道7号線は埋立地、新国道は戦後住宅が広がったエリアで、旧来からの「寺内」は、この旧国道沿いを指します。また、秋田で初めて政権の役所が置かれた(733年出羽柵→秋田城)歴史上も重要なエリアです。DSC_0326 posted by (C)Traveler Kazu旧役場跡地 寺内地域センター役場の跡地は、秋田市の他の旧町村と同じく「地域センター」に転用されています。建物は残っていません。コミュニティセンター機能の他、証明書発行等の一部の窓口業務を取り次いでいます。門の脇には、マンホール埋設型ですが「水準点」があり、全国水準網整備の時期にここを通る道路が幹線国道だったことがうかがえます。残念ながら、「寺内村道路元標」は消失していました。DSC_0327 posted by (C)Traveler KazuJA新あきた寺内支店寺内農業協同組合→秋田市農協を経て新あきた農協。地域センターの真向かいにあります。かつて各市町村にひとつづつ組織されていた農協。支店すらなくなったところも多いですが、寺内には支店が残り、JAバンクの文字も見えます。寺内地区は秋田砂丘の一部で砂地なので、水田は砂丘の下に広がっていましたが、宅地化がほぼ完了しています。砂丘上では零細な耕作が行われています。今でこそ水道完備ですが、井戸が点在し、水遣りに使っているそうです(但し15年前の聞き取りの記憶)。かつて「高野せり」「寺内なす」は、城下の通町で開かれた市で一種の「ブランド野菜」的扱いを受けていたそうです。DSC_0325 posted by (C)Traveler Kazu土崎消防署寺内出張所秋田臨港警察署寺内警察官連絡所農協の北隣にあります。これで、役場、農協、警察、消防の4点セットが揃いました駅と郵便局がないか。鉄道が通っていないので駅が無いのは仕方がないですね。消防にはポンプ車が1台います。警察官連絡所は、以前は駐在所だったようですが、現在警察官の常駐はありません。現在、寺内地区は新国道沿いにある将軍野交番の管轄区域に入っており、ここは防犯巡回の時のみ使っているようです。ちなみに、「寺内郵便局」は別の所に存在し、JA寺内支店の脇の細い道を入り、急坂で砂丘を下りた先にあります。小学校は「寺内小学校」が、同じく坂の下にありますが、同校は1992年(平成2年)の新設校で、寺内地域の旧来からの小学校は将軍野南一丁目にある「高清水小学校」です。寺内小学校は高清水小学校と泉小学校からの分割、しかしエリアによっては高清水小へ通う児童もいる。中学生は将軍野中学校と泉中学校。小中学校の学区割りに関しては、ややこしいエリアです。DSC_0346 posted by (C)Traveler Kazu酒屋「むらかみ酒店」さん昭和レトロな酒屋さん。明かりがついて、商品も陳列されて営業中。サントリーのロゴが何とも古風ですね。酒屋さんの軒先に、赤い物体が…ズームイン!DSC_0331 posted by (C)Traveler Kazuおお、絶滅危惧種「丸ポスト」。「郵便差出箱1号(丸型)」という立派な名称があります。旧国道を車で走ると、イヤでも目に入る物件ですが、ここでまじまじと見たのは初めてです。DSC_0344 posted by (C)Traveler Kazu理容長谷川&名称不明の食料品店上記の各物件からおよそ50m土崎寄りに、これまた昭和レトロな理髪店と(看板はありませんが)食料品店。理髪店には客がいました。また、食料品店にも灯りがともり、商品は陳列され、おばあさんがひとり店番をしていました。寺内の旧国道沿いエリアには、コンビニ・スーパーがないのです。上記の酒屋さんを含め、地域の人たち(特に、車がない人たち)の食料調達源として健在です。写真は撮りませんでしたが、食料品店の前には、かなり古い「ガチャポン(ガチャガチャ)」玩具販売機がありました。ちゃんとカプセルも入って。でも、ハンドル動くのかな?その1でご紹介したのは、全て半径50mくらい以内の範囲。戦前に合併したにも関わらず、「それらしい」物件がこれだけ密集して残っている場所は珍しいかも。次回、その2として、古い神社をご紹介します。(なお、本シリーズは役場跡周辺にスポットを当てていますので、後城、児桜、三千刈など他エリアはご紹介いたしません)地域情報「東北」参入中!
2009年09月09日
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すばらしくスローペースな更新をしている「秋田市旧町村めぐり」。前回「河辺郡上北手村」をご紹介してから3ヶ月経ちまして、やっと次のご紹介です。(次は「河辺郡仁井田村」と予告していましたが、もう少しお待ち下さい)南秋田郡下新城村面積18.14平方キロm、戸数669戸、人口4367人役場所在地 笠岡堰場昭和29年、秋田市に編入され消滅現在の秋田市下新城地区。JR奥羽本線上飯島駅より県道を黒川方面へ入り、飯島(そこは旧飯島村)の集落を抜けた一帯です。付近の地図(Yahoo!Map)(別ウインドウ)役場の跡は、現在「下新城地域センター・下新城コミュニティセンター」になっています。「地域センター」とは、秋田市において「出張所」の役割をもつ施設。合併直後は「出張所」と呼ばれていたそうですが、昭和50年代に「地域センター」に改められました。センターの後ろは下新城小学校になっています。実は、地形図の発行年度により、「下新城村役場」の位置が異なり、どれが本当か、あるいは移転していたのか、分からないままでした。ところが、現地に行ってみると、あるモノがあり、役場跡であるということに確信を持ちました!その、あるモノとは下新城村道路元標!これがあれば、まず「役場跡」だと考えて差し支えないでしょう。各市町村の道路の起点に置かれた石柱で、現在でも制度は存在しているそうですが石柱を置く必要はないそうです。秋田市内で知る限り、ここと旧仁井田村、県内を見渡しても、旧富津内村、旧白岩村、旧上川大内村、旧生保内村、旧田沢村…現存数は少ないです。その貴重な1基が、ここにありました。地域センター前より黒川方面を望む。この先に大きな変電所があり、秋田火力で発電した電力を各地へ送っています。集落を抜けると田んぼです。同じくセンター前より飯島方面を望む。やはり、集落が途切れると田んぼですが、すぐ飯島の集落が始まり、家並みは土崎港まで途切れることなく続いています。道路が狭くなっているところは堰場橋、新城川をまたぐ橋です。新城川は海(秋田港)に流れ込む頃にはそこそこの川幅になっていますが、ここではまだ小川同然です。しかし大雨が降ると氾濫するので、川幅は広く取ってあります。バス停ならぬ「タク停」。過疎化でバスの乗客が減り、乗合タクシーになってしまいました。上飯島駅近くのバス停で、路線バスに乗り換えるようになっています。ここから、上飯島駅まで歩くと30分以上かな?近いうちに、仁井田村も紹介したいと思います。市町村合併で「地名」を殺すな地形図片手に日帰り旅NHK趣味悠々 見かたがかわると景色がかわる 地形図片手に日帰り旅 地形図で自然を歩くNHK趣味悠々 見かたがかわると景色がかわる 地形図片手に日帰り旅 地形図で町を行くテキストDVDDVD
2009年07月06日
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昨日の続きです。地域センター(旧役場跡)の向かいに、地域の案内図がありました。やたら古びているので、すわ…昔のまま??と思いましたが、残念ながら「H4」との表示が隅っこにありました(よくみると、国道13号の御所野のBPも横金線も描かれているし)。日赤病院や遊学舎は、平成4年以降にできたのですが、特大のテプラで修正してあるのがご愛嬌この図を見ると、中北手(エリア上は上北手の1集落)上小山田と、この上北手の奥のほうが道路で繋がっているような標記になっていますが、マップルなどでは道路はないことになっています。さて、どちらが本当でしょうか。集落を更に奥の方へすすみ、バイパスと旧道が合流する直前に、学校があります。上北手小学校です。綺麗な校舎です。昭和63年に改築されたそうです。帰ってから調べたところ、児童数は168名で、ニュータウン開発を反映してか、旧村部の学校としては、珍しく児童数は増加傾向(前年比+14)にあるようです。中学校は1966年(昭和41年)まであったそうですが、現在は城南中学校へ通うようになっているそうです。城南中といえば、JRの車両基地の近くです。バス・自転車通学でしょうか?道路はこの先、バイパスと合流し、山間に分け入ります。最終的には「古野」というところで、国道13号線に突き当たります。来た道を戻りましょう。地域センターを過ぎると、T字路の角にJAの農業倉庫があります。典型的な農協の倉庫です。しかし、売りに出されているようです。買い手は付くのでしょうか。同じT字路のところに、上北手駐在所の跡地があります。四ツ小屋駐在所と統合され、御所野に移転した(御所野交番新設)ようです。現在は警察官連絡所とかいう名称で、地域防犯拠点あるいは緊急時の警察官詰所として使われているようです。ここに警察官の常駐はなくなりましたが、秋田署から分割された秋田東警察署(機動捜査隊も置かれているらしい)は、この上北手地域内の横金線沿いにあります。これで、上北手探索は終了。この後、珍しく2ヶ所目に回りましたので、明日ご紹介します。次の場所には、旧役場の目印として欠かせない?「ある石碑」がありました。こんなバナーもあるんだねぇ限界集落と地域再生日本の気候景観増補版風と樹風と集落
2009年04月10日
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さて・・・旧旭川村の続きです。 戦前のうちに秋田市に併合となっているので、「ムラ」という感じは余りしません。 しかしよく凝らしてみると、いかにもな雰囲気なのです。 旧役場向かいにある立派な杉の木。 村のシンボルだったか。でも特に保存樹等には指定されていません。 ちょっと線路側に近づいてみましょう。 駐在所です。「秋田東警察署 泉駐在所」。 「交番」ではありません。警察官が家族共々お住まいになって地域を見守る「駐在所」。 山奥の田舎ならまだしも、こんなに住宅地化が進んだところにあっても、未だに「駐在」。 管轄は秋田東警察署ですが、この駐在所から200mほどのところを通っているJR線を越えると、秋田中央署の管轄区域です。東署は御所野に行く途中にありますので、どう考えても、ここのお巡りさんは本署に行くよりも隣の署に行く方が近いのです。 ちなみに、ここから土崎方に10分ほど車を走らせると、中心部からは遠くなるのにも関わらず、何故か「交番」があります。そこは秋田臨港署の管轄です。 「北泉学校跡」、何らかの寺子屋か教習所跡らしいですが、現地に説明は一切ありませんでした。 駐在所、学校跡の前の道は県道指定されています。「土崎港秋田線」といいます。 以上で旧旭川村中心地はお仕舞です。機会があれば、旭川地区のいまの中心地である旭川小学校~秋田温泉周辺を散策して見ましょう。 また、天徳寺は過去に紹介していますので、合わせてご覧くださいませ。2006-8-16 天徳寺寺宝公開-12006-8-22 天徳寺寺宝公開-2投票してくれぇ~~~~秋田温泉プラザ・・・旧旭川村内に当たります。楽天トラベル「ホテル・旅館ランキング秋田県第2位」 いつも日帰りで利用するところ。思いがけずスゴイっ 詳細クリック地形図の手引き5訂版・・・地形図読みに欠かせない本。地図は「見る」のではなく「読む」物です。 図上から当該地域の状況を読み取りましょう。道順を追うだけが地図の役目ではありません。
2008年06月18日
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旧旭川村役場跡周辺散策を続けましょう。 その1 街並みはこちら なお、このシリーズで紹介している範囲は非常に狭い範囲です。 さて、旧役場跡(土地改良区)のはす向かいに、鳥居があります。 旧旭川村の総鎮守「熊野神社」であります。立て看板によりますと、806年、白坂右近将監という人物が秋田に来た際に、家老が熊野権現を祀り、1749年に神社を建立した…とされています。 良く分かりませんです、ハイ。 明治維新以後、戦前までは近代社格制度による「村社」に列せられており、標柱には「村社」の文字をコンクリートで埋めた跡が見られます。なお、「村社」は下から2番目の社格だそうです。 秋田県内の最高位は秋田市寺内「古四王神社」の社格「国幣小社」でありました。旧寺内村を取り上げるときに詳しく紹介します。 ★近代社格制度については難しいので、Wikipediaをご覧下さい★ 参道には橋がかかっています。名も無き疎水を跨ぐ橋です。この疎水(用水路)は旭川右岸の沢水を集め、泉地区の水田を潤すためにありました。現在は泉地区は完全に住宅街となり、この疎水も奥羽本線を越えたあたりから徐々にドブ川と化し、泉地区では暗渠となっています。 長い階段を上りますと、社殿があります。この階段は近年修復された形跡があり、この神社が大切にされていることが伺えます。 というのも、秋田市内の地元の小正月行事として「西国三十三番札所めぐり」(通称:札打ち)というのがあります。故人の霊を弔う行事ですが、この熊野神社が第一番札所になっているのです。本家は中部、近畿地方ですね。和歌山県の熊野大社から始まって、33番目の美濃の谷汲寺で終わる33ヶ所。 催行日は毎年1月17日午前0時からと決まっています。 人々はこの「第一番熊野さん」を皮切りに、市内33ヶ所の寺(ここだけ神社で残りは全部お寺)を一晩で巡ります。これを3年連続で行う決まりです。西国三十三か所ガイジン巡礼珍道中…本当の「三十三番」(中部・近畿地方)を巡った外人さん 近年では巡拝する人々の数はだいぶ少なくなり、500人ほどだそうですが、昭和28年の秋田魁新報では「善人善女一万人」と報じられたそうです(たふらんけさん「二十世紀ひみつ基地」の2006年1月16日の記事)。当時を知る人の話では、寺院を巡る人の波が、夜が明けるまで途切れず、沿道の各家庭では温かい飲み物などを夜通し振舞ったそうです(聞き取りによる)。 今では車で回る人がほとんどですが、各寺院では夜通し明かりをつけ、もてなしをしているそうです。 社殿はこじんまりとしています。昭和52年に放火に遭い、再建されたものです。現在なんらかの修繕工事が行われているらしく、工具が置かれていました。 社殿より街並みを見る。かつては眼下に水田が広がっていたんでしょうけれど、今は住宅が広がっています。木立が気持ちいいですね。 神社を後にもう少しだけ歩きました。以下次回(一応完結)。街歩き、テーマを決めると格段に充実しますよ
2008年06月17日
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昨年の春に第1回を載せ、「シリーズ化します!」と宣言したもののその後が続かなかった「旧町村めぐり」の、第2回をようやく執筆いたします。秋田市は平成の大合併で雄和、河辺両町を併合しましたが、それ以前にも昭和30年までに複数の町村を併合しています。 かつてそれら町村の中心地だったところは、いまでも中心地だった面影が残っています。第1回では「旧 南秋田郡上新城村」を取り上げました(←リンク) 今回は、現在では秋田市街地の一角をなす中堅住宅街に成長した、「旧南秋田郡旭川村」の役場跡を訪ねました。 基礎データ 南秋田郡旭川村面積19.28平方キロメートル、世帯数979戸、人口5792人役場所在地 三嶽根1933(昭和8)年、秋田市に編入され消滅※1909(明治42)年、鉱山学校(現・秋田大学)敷地のみ秋田市に編入 旭川村は、秋田市を南北に流れる一級河川「旭川」の河谷沿いに人々が生活した村で、行政上の村域はいまの旭川小学区・秋田東中学区とほぼ同じで、旭川の最上流部、太平山の山頂までおよぶ広大な村域を有していました。おおよそ、いまの奥羽本線よりも北東の旭川河谷一帯だと思っていただければいいと思います。国土地理院ウォッちず「秋田西部」「秋田東部」「松原」「太平山」主要産業は林業、酪農業と、旭川の沖積低地を生かした零細な稲作であったと記録されています。 村役場は旧秋田市街に近い泉三嶽根(現・泉東町)に置かれていました。 路線バスでは、秋田中央交通の添川線の「天徳寺前」より先が該当します。 役場跡は、現在「旭川筋土地改良区事務所」になっています。 私が中学の頃くらいまでは、2階建ての非常に古い木造建築が建っていました。「村役場」然とした建物でした。おそらく旧役場の建物だったと思われます。写真を残して置かなかったのが残念です。その建物の解体後、現状の建物が建てられましたが、門柱などはそのままです。 泉三嶽根の交差点です。もともと横方向(東西方向)の道路はありませんでしたが、都市計画により開通しました。いまバスが曲がろうとしている先の細い道が元からあった道です。 隅の建物が「旧旭川農協」。農協の合併後も「JA秋田市→JA新あきた旭川支店」として営農指導や金融などを担ってきましたが、現在は移転し、「中央支店」となりました。産直「彩菜館」があるところです。そこは、もともとは古い木造の農業倉庫があったところでした。 農協移転後もバス停名はしばらく「旭川農協前」でしたが、今は「泉上丁」です。 旧農協の並びに酒屋、郵便局(秋田泉局)。本屋もあります。旧役場跡に近い方には、床屋もあります。 その酒屋の駐車場に、「庚申塔」(庚申塚)がありました。道教由来の信仰に基づく石塔で、全国各地に分布していることはよく知られていますね。秋田市内でも各所で見られます。この酒屋から300mほど南に行ったところにある「泉踏切」(奥羽本線)の三叉路にも建っています。 その庚申塚の向かいに、「馬頭観音」の石碑を見つけました。馬が死んだところや、馬の処分場だったところなど、馬事文化が根ざしていた地域に見られる石塔です。旭川河谷流域で畜産が盛んであったことを匂わせる遺物です。 今回は、役場跡周辺に重点を置いて紹介します。ここは今や市街地の一部で、県庁市役所からも車で20分ほどで到達します。しかし歩けば色々と面白いものを見つけられます。 次回は「村社熊野神社」をご紹介します。庚申待と庚申塔
2008年06月16日
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秋田県南秋田郡上新城村面積52.1平方キロメートル 377戸 人口2410人昭和29年、秋田市編入により消滅以前、話題に載せた「昭和の大合併以前に存在した役場めぐり」をしました。秋田市にはこのときまでに20の町村が編入されて消滅しています。役場があった場所は、文字通り地域の中心地でした。そして、現在でもそこは地域の中心たる雰囲気が残っています。第1回は、秋田市北郊に広がっていた「上新城村(かみしんじょうむら)」を訪ねました。このシリーズは1回が長文になりますのでご了承の程。国土地理院地形図閲覧「ウォっちず」 1:25000土崎(北東)昭文社刊「スーパーマップル東北道路地図〔2007年〕2」をお持ちの方は、P63「土崎」を参照されますと、ご理解が深まります。秋田市北部の中心地「土崎」から北東へおよそ4km。秋田平野が丘陵の谷間に入り込むところが上新城地区です。秋田市では基本的に、旧町村名がそのまま大字名になっています。これは今般の「平成の大合併」で河辺、雄和両町を編入した時も同じです。役場は「五十丁(ごじっちょう)」という集落にありました。現在ではどこに役場があったのか、見ただけでは分かりません。しかし、旧町村中心地の特徴として、住宅が密集していることのほか…・小学校、中学校・JA(農協)・郵便局・土地改良区事務所・神社・市役所支所・何らかの記念碑…以上の物件が存在している事が多いです。上の写真、上新城農協(現・JA新あきた上新城支店)です。見づらいですが画像右奥に「記念碑」が写っています。これは、地元の聖農を称え、当時の村有志が建立したものです。農協の向かい、秋田市立上新城小学校です。校舎は建て替えられています。同校HPによると、昭和56年竣工のようです。その前の校舎は昭和5年竣工とのこと。現在の児童数は計41人。一部の学年を除き、10人未満、3年生はたったの3人とか。中学校は少し離れた高台にあります。実は、この小学校の隣、農協の真向かいに、モルタル造りの非常に古い構造の2階建て建造物があるのです。今日は聞き取り調査までは至らなかったのですが、それがもしや、旧役場?記録では、編入後、役場跡には市役所の支所が置かれたことになっています(秋田市に編入した旧町村全て同じ)。現在は「地域センター」という名称で、上新城地区では他所に移転しています。郵便局も、地区の入口(県道41号と231号の交点)に移転してしまいました。五十丁集落を奥に進むと、集落の外れに神社がありました。「真山神社」というそうです(扁額より)。ここが「村社」(近代社格制度<廃止>による神社のランク付け:村の代表神社)かどうかは、現地では分かりませんでしたが、集会所が併設されていて、扁額も新調され、上新城の人々に大切にされているようでした。神社の傍らには、沢山の石碑がありました。これは、「太平講中」という、秋田市最高峰「太平山」の山岳信仰に由来するものです。この講中は現在でも存在し、太平山では参拝の登山者が見られます。ある研究者の研究では、秋田県内一円に講中が分布し、一部は県外にも存在するとのことです。最も新しい石碑は画像一番手前のもので、碑文によると、昭和59年に上新城の講中再結成50年を記念し建立されたようです。また、画像には写っていませんが、大きな石碑があります。碑文によると、戦没者慰霊の為に、昭和19年、当時の上新城村が建立したようです。更に車を走らせましょう。だんだん谷が狭くなってきました。この先、集落や住居はないのでは?と思うところですが、実は前方を郵便のバイクが走っており、先に何らかの人間の気配があることが分かります。沿道には太平講中の石碑の他、庚申塔(道教由来の「庚申講」の碑)が各所に見られます。上新城湯の里。最奥の趣の山里、村の雰囲気を強く遺しています。戸数は僅かですが、狭い道路の片側に住居、もう片側に倉庫。…「最奥の趣」…隣の谷には、もっと奥に集落があるので…農家の庭先に咲く桜。田畑では人々が耕起に当たっていました。風にそよぐ「こいのぼり」も。クルマ…秋田市土崎の国道7号「相染こ線橋北側」(マックスバリュ・マルダイのところ)交差点を上新城方向へ。「飯田街道」を直進。途中1ヶ所だけ峠(尾根越え)があります。国道交点より五十丁の真山神社までは県道231号線「上新城土崎港線」です。バス…秋田駅前より(土崎駅入口経由)秋田中央交通「上新城線」があります。地元を見つめる 歴史・地理ブログランキング「地域情報(東北)」
2007年04月26日
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