売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2022.09.05
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ちょうどその頃繊維製品課では、WFF(ワールド・ファッション・フェア)の開催とFCC(ファッション・コミュニティー・センター)の設置が議論されていました。簡単に言えば、全国各地にイベントや展示ができる施設を作り、スケールの大きなファッション振興イベントを開催する。そんなの意味あるのかなあ、と思いました。

ハコ作ってイベントやることより、ファッションビジネスのプロを育成することの方が国策としてもっと重要ではないか、日本は服飾専門学校がたくさんのデザイナーやパタンナーを輩出してきましたが、本格的なファッションマーチャンダイジングや実践的マーケティングを教える高等教育機関がありませんでした。当時ファッションと名のつくものは文部省(現・文部科学省)の分類では「家政学」の中の「被服」、家政学部を有する大学すなわち女子大学でしか教育できませんでしたから。

長年日本アパレル産業協会などの業界団体で産業教育について議論され、海外視察団も送ってきましたが、この文部省のカテゴリー分類が障害、なかなか具体的な話が前に進みません。そこで、「人材育成というのは、教えてみようと思う人が寺子屋でも塾でも形式にとらわれず始めたら前に進むのではないでしょうか」、と私は発言しました。委員会後、お役人が「言うのは簡単、誰がそれをやるんですか」と言うので、「じゃあ、私が始めてみましょうか」。CFD事務局で開講した「月曜会」はこうして始まりました。

毎週月曜日夕方、一般公募で集めた若者25人を受講生に、CFDのデザイナーやそのマネジメント人材、ショープロデューサーや雑誌編集長、大手アパレルや小売店幹部を講師に参加費無料でスタートしました。FCCを墨田区役所庁舎の場所に建てる計画を練っていた墨田区役所のスタッフが月曜会を見学、できれば将来建設する墨田区FCCの中にこうした人材育成プログラムを入れたいとなりました。

こうして墨田区のファッション産業人材育成戦略会議が始まり、どういう人材を育てるのか、どういうカリキュラムで誰が指導するのかがほぼまとまり、文部省系統では身動き取れないので通商産業省の下で財団法人として立ち上げ、学長は松屋会長の山中鏆さんにお願いしようとなりました。ここでミスター百貨店は人材育成事業のステージに登場しました。

山中さんも戦略会議に加わってさらに議論を進めるうち、この構想は墨田区主導ではなく通商産業省主導で墨田区に設置することになりました。「墨田区にできる墨田の学校か、それとも墨田区にできるオールジャパンの学校か」、区長選挙を控えた区長は後者を選択したようです。墨田区戦略会議の委員はここでお役御免、一人私だけが次のステージでも委員を続けるよう役所から依頼されました。

私一人残留を認めたら墨田区の会議でみんなと決めた学長案も白紙にされかねません。私は通商産業省に出かけて当時の繊維製品課長に面談し、墨田区の山中学長案を白紙にせず、山中さんを委員に加えてもらえないなら自分は委員を降りると食い下がりました。東京都でもなく、ひとつの区で議論してきた案をそのまま国が引き継げない、リセットして最初から議論をやり直す方針だったのでしょう。

しかし、課長は最後に折れ、山中さんを委員に加えてくれました。あそこで課長がもっとプライドの高い人だったら、初代の理事長兼学長は合繊または紡績メーカーの会長さんか、財界の重鎮経営者だったかもしれません。

通商産業省で改めて人材育成機関の検討が始まり、墨田区20億円、東京都10億円、民間企業から出捐金20億円の合計50億円で財団法人として発足することになりました。正式名称はファッション産業人材育成機構(IFIビジネススクールの運営母体)、理事長兼学長は東武百貨店社長だった山中鏆さんに決まりました。このとき山中さんから「ハシゴを外すなよ」と強く言われました。

墨田区人材育成戦略会議に山中さんが登場してから、山中さんとのミーティングの中身が変わりました。それまでは主に松屋あるいは移籍後の東武百貨店のマーチャンダイジングや店頭整備案に関するものでしたが、人材育成が主たるテーマになり、山中さんの口から「実学」と「問題解決能力」という言葉を何度も聞くようになりました。「立派な校舎なんかいらない、寺子屋で良いんだよ」、「学校で教えたから優秀な社長が生まれるわけではない」、これが学長としての基本的考えでした。



山中イズムの一例を。売り場を回って問題点を見つけ、それを早く解決すること。売り場の広い東武百貨店に移ってからも午前中のアポは入れず、社長自ら売り場を頻繁に歩いていました。「売り場で販売員にいくつか質問すると、柱の陰に隠れて様子をうかがってる部長たちがあとで俺が何を言っていったか販売員に聞くんだよ」、子供たちと広場でかくれんぼを楽しんでいるかのようにニコニコ笑いながら説明されたことを覚えています。松屋の幹部もそうでしたが、山中門下生にとって売り場のリニューアルなどで迷ったら「問題解決は売り場で」、でした。

山中さんが亡くなって10年以上経過した開店直前の東武百貨店、ガラス越しに根津公一社長が電動車椅子に乗り、社員数名を連れて売り場を回る姿を目撃したことがあります。根津社長は体調を崩されたのかなと思っていました。後日、たまたま根津さんとご一緒する機会があったので質問したら、話は予想とは全然違いました。

1999年山中さんが癌で入院されるとき、根津さんにこうおっしゃったそうです。「今度退院しても、もう歩いて売り場を回れないかもしれない。電動車椅子を用意しておいてくれないか」。根津社長は言われた通り電動車椅子を用意して山中会長の帰りを待ちました。が、残念ながら山中さんは電動車椅子に一度も乗ることなくこの世を去りました。残された電動車椅子をたまに動かさないと故障するかもしれない、根津さんはそう思って時々乗っていただけでした。

​ミスター百貨店の売り場への執念、すご過ぎるエピソードを後世に伝えたいです。


写真:墨田区ファッション産業人材育成戦略会議の座長だった繊研新聞編集局長松尾武幸さんは密着取材を一冊にまとめました。上梓の数ヶ月後、山中さんは亡くなりました。





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Last updated  2022.12.24 11:12:13
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