魂の還る場所

魂の還る場所

第二夜   TELEPHONE LINE

 「絶対に電話するから」---
 ---その言葉を、信じていた訳じゃない。…ただ、期待していただけ。
 信じさせてほしくて。
 いつも浮かべた笑顔の狭間で見せる真剣な表情。それが嘘ではないと信じさせてほしかった。積み木を積み上げていくように。言葉も笑顔も約束も、みんな。一つ一つを。どんなことでも。
 一回でも破ったら、それでアウト。冷たいと思われるかもしれない。だけど、わかってほしい。
 どれほど切実か、ということ。
「私の時計が十二時を一秒でも過ぎたらさようならね」
 強い口調で投げつけて、背中を向けた。一瞬だって振り向かなかった。もし振り向いて、ずっと見つめられていたらなら嫌だったし、背中を向けられていたり、立ち去っていたら…と思うと怖かった。理想主義と高慢さ、臆病な心が同じ所でぐるぐると回っている。
 自分自身に苛立って、足早に立ち去ってから、何時間も過ぎていた。
 いつも通り、家族と一緒に夕飯を食べ、風呂に入った。
 バラエティ番組に声を上げて笑った。
 部屋に戻って、雑誌のページを捲ったりした。
 壁掛け時計も、目覚し時計も、腕時計も、ポケットベルやミニコンポの機能も時間も刻み続けている。耳に届く音も、そうでない音も、今日一日の出来事を曖昧にしてしまった。
 夕食のメニュー、テレビの内容、雑誌の記事…尋ねられても、きっと答えられないほど。
 それなのに、電話は一言も喋らない。
 家族は眠りに就き始め、無音着信の留守番電話にに切り換えられた。小さな光だけが着信を知らせるから、目の前の子機も、見張っていなくてはならない。
 下手に動くこともできず、溜め息が洩れる。ベッドの上でクッションを抱き締めながら、ラジオをつけた。
 流れて来るのは明るい音楽と、陽気な声。
「…をお送りしました!えー、現在十一時五十五分!もうすぐ日付が変わります…」
 聞いた途端、クッションを壁に投げつけたくなった。「後五分」と思ったら、決壊した河みたいに、たくさんのものが溢れてきて。
 …待っているほうが楽かもしれない。けれどそれだって、いつもじゃない。時と場合によるのだ。自分から動くことができればと思うことだってある。ちょうど、今みたいに。
 …言ったのに…
 …約束したのに…
 「分かった」なんて言わなかったけれど、了承したことは伝わっているはず。だから向こうは、電話を掛けるという約束を履行するべきなのだ。
 机に手を伸ばし、腕時計を取った。
  -ラジオから流れてくる時報。
 相も変わらず陽気な声が、時間を知らせ、曲名を告げる。そしてまた、明るい曲が一曲流れた。
 腕時計を握り締めると、乱暴な手つきでラジオを切った。
「…もう知らない…寝てやる。二度と電話したりするもんか…」と呟いて、頭からシーツを被ろうとした。
 …それでも枕許に置こうと手にした子機。
 突然、小さな光が点滅した。
 考えるよりも先に、
「はい」
 受けると、数瞬の沈黙が広がった。
『…ごめん…一〇分近く過ぎた…』
 ためらいがちに届いた声に、同じに数瞬の沈黙を返す。
 そして…。
「…なに言ってんの?」
 不機嫌な声が、言葉を繋げた。
「まだ五分あるじゃない」
 部屋中の時計が、時を刻み続けている。
『…え…?』
 困惑の色を見せる相手の顔を思い浮かべながら、腕時計に視線を落とした。
「私の時計は,まだ十二時になってないわよ」
 …この部屋の時計は、一つ一つ同じ時間を知らせてはいない。
 どれが正しいのか…だが、手にして、見ている時計は十二時を過ぎていない。日付変更線を越えるまで、少しだけ間がある。
『…それじゃあ…』
 次の答えが返るまで、秒針は半周していった。
『俺の時計は進んでるらしい』
 さっきまでとは少し違って聞こえる声に、「そうよ。合わせた方が良いわよ」と冷たく言った。
「…それで?どうだったの?人との約束を反古にしてまで優先させたんだから、当然…」
『あぁ、上手くいった。…また忙しくなるけど仕方ない』
 語尾に重ねるようにして続けた言葉は、嬉しげなものから申し訳なさそうなものへと、グラデーションを形成した。
 それを聞きながら、欠伸が姿を見せる。
「…あのね…悪いけど、私、すっごく眠いの…」
 不機嫌そうに呟くと、『あぁ、ごめん。切るよ』の声。
「…だから…」
 そこで、腕時計が十二時を知らせた。
「…だから、昨日と同じ時間に。話はその時、聞いてあげるから…」
 欠伸が語尾を隠してしまうと、受話器の向こうで小さく笑ったような気がした。
『…わかった。同じ時間に、いつものところ、だな』
 確認するのも上の空で…。
「…じゃあね」
『あぁ』
 切ろうとして、どうにか頭を働かせた。
「…待ってるから」
 いうだけいって回線を閉じると、安らかな眠りが今日という日に終わりを告げた。  


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