ちょっといい女

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続ちょっといい女の秘密の部屋



幻影

その日の朝も、子供を駅へ送った後、会社に向かった亜希子だった。

そして、いつも通り、車を駐車場に停め、暫し、時間を潰そうとしていると、

向こうから懐かしい翔の顔が近付いてきた。

『お久しぶり。』

驚きで声も出せずにいる亜希子に、翔は、

『元気?』 

と続けた。

『どうして、ここがわかったの?』

信じられない面持ちで亜希子は聞いた。

『家の近くから、ここまで、ずっと追い駆けて来たんだよ。

 本当は昨日から来ていたんだけど、昨日は会えなかったよ。』

以前、こんな事を夢見たような気もする。

でも、非現実的な妄想でしかないと思っていた。

『覚えていてくれたの?』

『覚えているよ。』

あれから数年経つのに、電話の一本もなしに、いきなり県外から会いに来るなんて、

いかにも翔らしくもあったけれど・・・

『仕事、長期休暇が取れたんだよ。今日、仕事、何時に終わるの?』

『5時半。』

『じゃ、その頃また来るよ。仕事、頑張ってね。』

屈託なく笑ってそう言うと、翔は自分の車に乗り込んだ。

落ち着かない気持ちながらも、その日の仕事を終え、5時半に駐車場へ行った。

でも、翔は来なかった。

亜希子は、今朝、見たのは幻想だったのかと思い直してもみた。

もしかして、翔に何かあったのだろうかと一抹の不安が胸を過ぎった。

臆病

翌朝も、亜希子は、いつも通り会社へ向かった。

会社の駐車場で翔が待っていた。

『おはよう。』

『昨日どうしたの?』

『ゴメン。あれから他県に用事があって行ったら、渋滞で帰って来れなかったんだ。』

翔は、今朝も家の近くから亜希子の車を追い駆けて来たらしい。

『昨日、何処に泊まったの?』

『車の中だよ。』

12月も半ば、車の中じゃ寒かっただろうに・・・

『今日、何時に終わるの?』

『昨日と同じ。』

『じゃ、また来るから。』

あっさり立ち去ろうとする翔を亜希子は呼び止めた。

昨日のようになる事を恐れた亜希子は少しでも、そばにいたかった。

『まだ時間あるのよ。』

『じゃ車に乗る?』

翔は亜希子を自分の車に乗せた。


何処から話せばいいだろう。

翔と会わなかった数年間に、亜希子にあった様々な出来事を。

亜希子の話が終わらない内に、翔は亜希子を抱き寄せた。

そして何度も何度もKISSをした。

翔は温かかった。

決して幻影なんかじゃなかった。

『今日、仕事、行くなよ。』

翔は切なそうに、そう言った。

『今日中にしなきゃいけない仕事があるの。』

この期に及んで融通の利かない自分自身に苛立ちを感じながらも、

亜希子は、危険を冒すことなく無難に過ごしたかったからか、

数年間も放っておいた翔を責めたかったからか、休む事を拒んだ。

数年の間に臆病になっている自分に亜希子は気づいた。

あきらめた翔は、

『じゃ5時半に待ってる。』

と言い、もう一度KISSをした。

いつだって年上

亜希子が5時半に仕事を終えて出て来ると、翔は待っていた。

会社から少し離れた場所まで車二台で走り、そこに翔は車を置いて、

亜希子の車に便乗した。

『何処、行く?』

『何処でもいいよ。亜希子が行きたい所で。』

翔は、ずるい。

いつだって亜希子に主導権を握らせる。

『ホテル行く?』

『うん、行こうか?』

亜希子は、ホテルへと車を走らせた。

部屋

ホテルの部屋に入ると、翔は

『お風呂行ってきて良い?』

と浴室に入っていった。

その間、亜希子は、スープを入れながら、部屋で翔を待った。

浴槽にお湯を張るようにして翔が浴室から戻って来ると、

『スープ飲む?』

と亜希子は聞いた。

『うん。』

数年のブランクなど、なかったような、まるで夫婦のような会話だった。

『温まるね。やっぱり、こっちは寒いよ。』

翔はスープを飲みながら、そう言った。

『私に会えると思ってた?』

亜希子がそう聞くと、翔は

『うーん・・・五分五分かな。』

と言って亜希子を抱き締めた。

亜希子の存在を確認するかのように。

『お風呂、見てくるよ。』

翔は重い空気を払拭するように、そう言うと、浴室に入って行った。

『私も入って良い?』

亜希子が言うと、翔は笑顔を見せた。

『奥さんと上手くいってる?』

浴槽にもたれながら、亜希子は聞いた。

『まあまあかな。』

『まあまあなら良いんじゃない?』

亜希子は、今更、翔の結婚に嫉妬しようとは思わなかった。

冷めたのではなく、お互いの生活を壊さないため。

翔は、それ以上、何も言わなかった。

だから亜希子も、それ以上は、何も聞かなかった。

返事

『おいで。』

そう言って、翔は亜希子をベッドに誘った。

翔に力強く抱き締められ、翔のものが亜希子の敏感な部分に触れた時、

それまで抑えていた感情が怒涛のように溢れてきて、亜希子は

翔の腕の中で、堪え切れず泣いた。

そして溢れた涙を翔は唇で拭った。

それから翔は、年上のように亜希子の頭を撫でた。

『あの時、あなたが切ってくれなかったら、私からは切れなかったわ。』

ようやく落ち着きを取り戻して亜希子がそう言うと、

『切れた方が良かったと思ってる?』

翔は、心配げに、そう聞いた。

『そんな事、思ってないよ。私は頭を冷やさないといけなかったのよ。』

翔は、2人の関係をまだ切ったつもりは、なかった。

以前、自分が結婚しても2人の関係を続けたいと言った翔の言葉に、

亜希子は、まだ返事をしていなかった事を思い出した。

亜希子は布団に潜り込み、翔のものを大事そうに唇で包んだ。

『有難う。』

翔の愛し方は、以前の情熱的で無鉄砲なものではなく、

大人の落ち着いた情の深いものに変わっていた。

『もう若くないから。』

翔はそう言って苦笑した。

『私より8歳も若いのに?』

『最近ちょっと疲れてるんだ。だから亜希子から元気をもらいたかった。』

翔が初めて吐いた弱音だったように思う。

『でも元気になるどころか、精力搾り取られそうだよ。』

そう言って笑うと、翔は、亜希子を再び抱き締めた。

数年の空白を埋めるように濃密な時間が過ぎていった。

数年の間

翔は、亜希子に会わない数年の間に、父をなくしていた。

母を亡くした翔を男手ひとつで育て上げ、大学まで出した翔の父。

息子を立派に育てる事に夢中で、自分の健康管理が疎かになっていたのだろう。

翔の子供の顔を見てから亡くなったという事だけが唯一、救いだった。

でも、翔の父は、きっと、それで人生を全うしたと思ったのかも知れない。

亜希子は面識こそなかったが、翔を育ててくれた彼の父に、心の中で手を合わせた。

実は、亜希子が最初、駐車場で翔を見た時、翔の父の影を見ていた。

その人が翔の父だったのだと、ようやく気づいた。

翔の父は、もしかして翔を心配でついて来たのだろうか。

翔は、そんなに疲れているのだろうか。

数年前、人生に疲れ果てていた亜希子に、翔が希望を与えてくれたように、

亜希子は、翔の心を癒したかった。

でも、どうして良いかさえ、わからない無力な自分に無念さを感じた。

亜希子も、数年の間に、姉と祖父母を亡くしていた。

2人は互いの傷を舐め合うように、愛し合った。

『私、翔に会わない間、一度だけ他の人と付き合った事があるの。

 多分、その人に、翔を重ねようとしたんだと思う。でも無理だったわ。

 今は、もう思い出したくもないくらい、後悔しか残ってないけど。』

翔の逞しい腕に抱かれると、亜希子は素直な自分に帰ることができた。

今度会いに来る時・・・

『明日、私お休みなの。』

帰り際、亜希子は翔に言った。

『どうしようかな。3日連続、車の中で寝るのもツライし・・・

 もし、駅にいなかったら帰ったと思って。』

翌日、子供を送って行くと、翔の車は駅近くで待っていた。

そのまま二台の車は昨日の場所まで走った。

車から降りてきた翔に、亜希子は

『朝、食べた?』

と聞いた。

『いや、まだ。』

二人は近くのファーストフード店に入った。

『昔は、よく食べに行ったよね。』

『うん、そうだなあ。』

『あの頃は幸せ過ぎて怖かったわ。いつか反動が来そうで・・・』

翔は黙って頷いていた。

食事の後、翔は亜希子の車に乗り、車は昨日のホテルに入った。

三夜連続、車の中で寝た翔は少し眠そうだった。

亜希子の中で安心したように眠っていたのが、いとおしかった。

翌日、仕事の入っている翔は、今日の昼頃までしか居られなかったから、

翔が目を覚ました時に、亜希子は言った。

『もう解放してあげる。』

『今度会いに来る時は、もっと溜めて来るから。』

と翔は笑った。

今度会いに来る時・・・それがいつなのか、亜希子は聞かなかった。

約束する事が翔の負担にならないようにと思ったから。

そして多分、いつ来てくれても、数年前と何も変わらず愛し合える気がしたから。

それから翔が、昔、

『ずっと付き合おうな。』

と言ってくれた言葉を信じたからかも知れない。

亜希子の姿が見えなくなるまで見送る翔の優しさを背中に感じながら、

亜希子は、もう振り向かなかった。

頬に一筋の涙が光った。

追記

亜希子は多分、彼への思いを胸に秘め、2人は、これから先も別々の道を歩むのだろう。

でも私は、2人の愛が静かに、そして、きっと永遠に続くのだろうと感じていた。


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