祝祭男の恋人

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事件（２）

「いや、あの子だけじゃあない、親に捨てられて託児所で育つ子は大勢いるんだあ」突然何を言い出すのかと思った。「でも、兄妹でああ働いたって、そんなさあ、儲かりゃしないよお」じゃあおまえが金を恵むとでも言うのか。
「何が言いたいんだよ」ぼくが息を詰めてそう言うと、「辛いことは見たくないってことだよ」当たり前のことを聞くなという風に、偉そうにフジオは言った。
「脅迫でもされてんのかおまえは、脅迫されて金でも払ってんのか、あ」ぼくは雨を避けるために前屈みになりながら、皮肉たっぷりに言った。
「だからガキだと言うんだ」
「どうせ親の金じゃないか」何様のつもりだ、とぼくは思った。
「そうさ、だから俺はまた浪人するのさ。何一つ苦労しないで人を助けることはできんよ。世の中そうなってるんだ」
おまえの場合は挫折したくってそうしてるだけだろう、とぼくは口まで出かかったが敢えて言わず、そう言い放たなかった自分に腹が立った。
「人間として、当然だろ」とフジオは言ったが、去年の夏に女を殴り飛ばし、ついさっきまではやりまん女だ何だのと口汚く罵っていたような奴など、どうひっくり返ったって人間として当然なことができるものか。金で女を騙して浪人することが十字架を背負うことのように勘違いして、オトウサンオカアサンミンナキリコロシたい気持ちは見て見ぬ振りをするというのか。おまえはくだらない相手とくだらない遊びをしているだけだ。

「俺はさあ、金を渡しても、他の客みたいなことは絶対しないんだあ」ぼくの思いに反して、拳に力はこもらなかった。
「電話するとさあ、うれしいのよおって思いあまって涙ぐむんだ。そんなことしてくれるのはフジオちゃんだけよってさあ、人は必ず自分のもとから去ってくと思ってんだ、彼女」けっとぼくは思った。それはそうだろう。フジオみたいにおめでたい奴など滅多にいるもんじゃないし、人は自分のもとを去っていくもんだろう。今更そんなことを新発見のように言うフジオにぼくはいらいらした。ぼくがなお黙ったままでいると、奇妙なほどすがすがしく歯を見せてフジオは笑い、一体何のつもりかとぼくは驚き、電車に乗っても一言も口を聞かなかった。

　それが昨日のことだった。ベッドに横たわりながら窓を開けると、やはり空はごうごうと鳴っていた。パトカーのサイレンが近づき、アパートの前で止まるのが分かった。きっとこれから、隣で起きた殺人事件の現場検証が行われるのだろうとぼんやりとした頭で考えながら、ふと思い当たった。フジオはあの女に惚れているのだ。そんなことかと思いながらも、ぼくはあの狭い部屋で、フジオが真剣な顔をして「愛してるよ」と言っている姿を想像した。しかし、女がどう答えるのか、うまい言葉が見つからなかった。一瞬その部屋にいるのがフジオではなく、自分だったらと想像し、すぐにその考えをうち消した。馬鹿らしい。愛する、アイスルなんてのは堪らなく嘘臭いし、嘘臭いだけではなく、そう言ったぐちゃぐちゃとしたことは大嫌いだ。愛されるものか。そう思った。ぼくは愛されない、絶対にない。心の中で強く怒鳴ると、ぼくの体に亀裂が生じ、今まで目を背けていた自分の死角が皮膚と筋肉を食い破って飛び出してくるような気がした。たとえぼくがそう思っても、妹の思い出を汚すことにはならない。いや、もしそうなってしまうものならもとからそういうものだったのだ、とも思った。ぼくの中にあった善意というものが死んだからではなく、元々なかったということに他ならない。そう改めて心に決めた途端、急に廊下がさっきよりも騒がしくなった。窓を閉め、光に背を向けて、毛布を頭から被り、無理にでも眠ろうと思った。

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