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2022年 こんなご時世ですが『年末のごあいさつ』こんにちはVoyager6434です今年も色々あった一年でしたが仮にもウチは映画レビューサイトを名乗っている以上せめて月に一つは映画レビューを更新しないとという事でいつもよりも少ない文字数でライトな感じの更新をしようと取り敢えず 話題作となった『竜とそばかすの姫』をチャチャっと言いたいことだけ書いて更新してこのペースで月一更新を目指そうと思っていた所その後、映画を根本的に見間違えていた事に気付いてから記事を加筆修正して、それでも言い足りなくて別記事にして更新したら結局いつもの出版クラスの増量となりそれでアクセスも増量すればと思っていた所折しも歴史的円安で日本のお株は下落しついでにGoogleのコアアップデートでウチのアクセスは半分以下に下落し加えて私のやる気も底値に付くという例年通りの一年となりましたw映画ファン的には、こんなご時世もありせめてアバターの新作位は観に行こうかと 思っていた所結局今年も映画館には一度も足を運ぶ事も無くwワールドカップは世間の盛り上がりとは裏腹にサッカーファンでも何でも無いウチは早朝の試合に何の興味も示さず普通に寝ていた所普通に早朝目が覚めて聴いたラジオの実況がドイツに勝ち越して残り時間7分という「何ーーーーっつ?!!」と年々面白さが無くなってきた地上波放送に失望しNetflix、U-NEXT、Hulu、Paravi をルーティンしてきた今日何の興味もなかったサッカーに付けたテレビで観戦したわずか数分でサポーターと化して日本が勝利した瞬間、おそらく日本中がそうだった様にたった7分のにわか観戦でも泣きそうになる程の感動がTVにはある事を再確認した一年でもありましたw■という訳で、ココで年末恒例(?)となった今年一年を駆け足で振り返るイントロコーナーの始まりですそれでは参りましょう今年も残す所わずかとなりましたが皆様に於かれましては 今年も色々あった一年と思いますマクドナルドでは輸入の遅れでポテトがSサイズ限定となりMLサイズの販売が休止になったと思えばコンビニではSサイズのコーヒーカップにMサイズ分のコーヒーを注いだ男が逮捕され東京ビッグサイトでは「コミックマーケット」が3年ぶりに開催されたと思えば東京・臨海副都心では「パレットタウン」が23年の歴史に幕を下ろし長野県では長野銀行と八十二銀行が合併したと思えば埼玉県では九十九川の堤防から水があふれ「うまい棒」が12円に値上げしたと思えば「相棒」は寺脇康文が14年ぶりに復帰し長寿番組だった『おかずのクッキング』が1974年からの放送を終了したと思えばグルメサイトの『食べログ』は不当に店舗の評価点を下げたとして3840万円の損害賠償命令を受け濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』がアカデミー外国語賞を受賞したかと思えばどこかの女性都議会議員は無免許運転を繰り返し新型コロナウイルス対策のまん延防止等重点措置が全国で解除されたと思えば「供給予備率」が下回り初の電力需給逼迫警報の発令で暖房は20度の設定をお願いされ鈴鹿サーキットでは3年ぶりにF1世界選手権が催行されたと思えば航空自衛隊小松基地ではF-15戦闘機が海上に墜落し「楽天モバイル」が通信容量「1GB(ギガ)」プランを廃止したと思えば「SEGA」が名称のゲームセンターは「GiGO(ギーゴ)」に変更され任天堂は「Nintendo Switch」の累計販売台数が1億台突破と発表したと思えばイーロン・マスクはサルがゲームをプレイする動画を披露しJR東海は高山線で同社初となるハイブリッド気動車「特急ひだHC85系」を運行開始したと思えば東北新幹線で「やまびこ223号」の16輛が脱線しおよそ2年ぶりに外国人観光客の入国制限を緩和したと思えばゆうちょ銀行は、大量の硬貨預け入れに手数料を導入し新海誠のアニメ最新作『すずめの戸締まり』が日本で公開されたと思えば国の天然記念物『オオワシ1羽』が北海道の牧場で衰弱して死亡し改正動物愛護管理法施行で販売されるイヌやネコは6月1日以降「マイクロチップ」の装着が義務化されるかと思えば「マイクロソフト」はwindows11のアップグレードを10月5日以降有料化するのではと話題になり参議院本会議では「こども家庭庁」設置が可決され愛・地球博記念公園内には「ジブリパーク」が開業し「スシロー」は提供できない商品のおとり広告を出し「かっぱ寿司」は「はま寿司」の営業機密を所得し「カヤク・ジャパン」の工場は爆発し、トンガの火山は噴火し航空会社のAIRDOとソラシドエアが経営統合し京急電鉄では「ドレミファ」発車音が自販機で復活し成年年齢は18歳に引き下げインターネット上の誹謗中傷対策で法定刑を引き上げ外来種のアカミミガメとアメリカザリガニは家庭用ペットとして飼育を認められたと思えば岡山県では市内に搬入されたコンテナから発見された多数のアリを駆除し国葬儀を村上様がメタバースでリスキリングしたオーディオブックを キーウでSPY×FAMILYの令和の怪物にスマホショルダーできつねダンスしてヤクルト1000をてまえどりした宗教二世はヤー!パワー!のルッキズムで顔パンツとなり丁寧な説明で大谷ルールのインボイス制度をオミクロン株でこども家庭庁は悪い円安となりインティマシー・コーディネーターがヌン活したBIGBOSSのOBN(オールド・ボーイズ・ネットワーク)は知らんけど青春って、すごく密なので#ちむどんどん反省会でガチ中華した・・・ な 今日この頃をいかがお過ごしでしょうかさて今年も色々な事件や社会問題が起きましたが高齢者率が2025年には3割に達する超高齢化社会を控えそれと共に労働人口減少に伴う人口急減の問題が議論される様になりましたこれは人口が減少し それによって国内の市場が縮小して行く事により労働人口が減少しての人材不足からと働き手と支えられる層との社会のバランスが崩れる事で企業が社会を活性化させる為の社会の中心となる人々へ向けての経済活動が上手く行かずそれによって企業力が低下し投資先としての魅力も成長力も低下しそれで国内の市場が低下し・・・と労働人口減少に伴う成長率の低下による「人口オーナス」化による日本の社会が「減少スパイラル」に陥っている現れと言えますこれは15~64歳人口の割合が2021年の統計で59.4%となり比較可能な1950年以降過去最低と言われる人口推計からも明らかと言えます簡単に言えば・・・企業は人口率が最も「低い」労働層の「若者」を購買層の「中心」に添えてこぞって経済活動をしているという事になりますので企業は新たな人材と最大のヒット商品の購買層を巡り「争奪」と「つぶしあい」を繰り返し力の弱い企業や、イノベーションが不発に終わった企業はどんどん弱体化して消えていく事になる事を意味しますであれば今後社会の大半を占める事になる年齢に於いても高い「資産」を有している「高齢層」にターゲットを絞った経済活動をすれば新たな購買層を開拓できて良い様に思えるのですが世の中の動きはむしろその逆で例えば、今年の11月97歳のドライバーが6人の死傷事故を起こした事が社会問題となった事件がありました原因はアクセルとブレーキの踏み間違いによる車の暴走との事でこの様な事件が起こると毎回議論されるのが「高齢者の免許返納」問題ですSNSでの「高齢者の自動車免許を取り上げろ」という高齢者の運転に潜在的不安を感じる層による近視眼的な声とは異なり今回は「さすがに97歳では・・・」という一般的な主観論にも 理解できるものがあり「15歳以下は運転をしたくても運転免許所得には下限が設定してある為免許は取れない仕組みになっている同じ様に高齢にも上限を設定すべきである」という一理ある疑問に対しての建設的な意見も聞かれる程の社会的な関心事となって来た昨今新たに「危ない年齢」の上限を運転免許所得に設定する事は高齢者を持つ家族に取っても、高齢となった本人に取っても不幸な事故を失くす為の他に社会人として生きていく上の一つの括りとしても考慮すべき事であるという「時流」がある様です高齢層が車を所有する理由の一つに山間部の様な山を降りた所に市道がある様な環境だとバスを利用するにも山を登り降りするのは高齢者にとっては負担が大きく地方では車は必須で車が無ければ買い物一つできないという「地方難民」の問題がありますこういう問題に対して専門家の中には老後の田舎暮しはやるべきでは無く利便に長ける都会へ移り住み助けとなる信頼できる人との付き合いを確立する為に50代の内に家屋を売却してマイホームにこだわるよりも生活できる環境作りを優先しシニア時代に備えるべきという具体策を述べる意見もあり新たな時代の新たな価値観による新たなライフスタイルを提唱するその様な時流の中でシニア世代はこの後訪れる超高齢化社会に備えなければならないというそんな世相がある様ですこれらは今後高齢層が増加する事に対しての社会への影響を考慮した問題意識の現れという社会が高齢層を「負担」に感じている一つの証だと言えるものがありますこれらの社会現象に付いてはウチの様な弱小隠れ家的サイトが語るべきことは何もありませんが・・これはいつも言っている事ですが「物事」とは常に何層にも真意が重なったレイヤー構造になっていて「真相」には幾つもの真意を掘り下げなければ辿り着く事が出来ないのが「社会のしくみ」と言えます従って一見 的を得た様なこれらの意見は表面的問題 をすくっているだけの本当の問題 を考慮したものとは言いがたい ものがありますたとえば「高齢層免許返納」に付いて推進する理由が「危険な年齢層には運転免許を発行すべきでは無い」と言う主張がその根拠なのであれば警視庁発表 平成3年度の免許所有者10万人当たりの事故件数は「85歳以上」が 524.4件に対し「16歳~20歳」が 1043.7件 と 「高齢者」のほぼ倍でありそれに続くのが「21歳~24歳」の605.7件となっていますその中で死亡事故の場合が免許所有者10万人当たりの事故件数は16~19歳が4.49件で80歳以上は8.35件となっているので一見 高齢者が倍近くの死亡事故を起こしている様な印象があります がこれは事故を起こした時にドライバーである本人の死亡となる単独事故が高齢者の場合が約4割だと言う事であり、対して人をはねる 死傷事故が2割未満である事に対して75歳未満、つまり「若者」層の単独事故が2割に対し人をはねる死傷事故が約4割というデータからも人に危険を及ぼす事故を引き起こす世代が真逆という実情があります加えて今回の97歳の死傷事故が地方に存在する万単位の同年齢層ドライバーの中でも1人しか居ない事実があるのならばむしろ他のどの年齢層のどれよりも安全運転をする年齢層と捉えるべき事であると数字が証明している事になりますこれだけを見る限りでも「危険な年齢の人から免許を取り上げろ」と本当に言うのであれば最も人をはねて死傷させている24歳未満には免許を与えてはなら無いが正しい という事になるのですその様な見解に対して、いやそうではない 若者には未来がある従って我々社会人が若者たちの後見人の様な存在となり成長の助けとなりながら若者達を舞台の中心に立たせるそんな社会作りをしていかなければならない逆に高齢者は社会人としての取るべき態度を熟知しながらそれが叶わなくなる肉体的衰えによる支障が自分ではどうする事も出来ない所に不安要素があるという意見もあると思われます が自分ではどうする事も出来ないという点に於いては少なくとも「意識」する事は出来る高齢者層の場合はその「時」取る行動にもまだ最悪を避ける「善処」が期待できるものがありますしかしその意識を自覚すら出来無い事が明らかに事故に繋がっている若者層の場合は何も期待できるものはありませんそれよりも問題なのはその様な「高齢者の死傷事故」が本当に社会の関心事の重要事項になっているのであればなぜ今回この「97歳の死傷事故」が「サッカーワールドカップ」の報道で割かれてリアルタイムでは報道されなかったという「関心意識」の問題です仮にもTVの報道が「警視庁発表の自動車死傷事故白書」を知らないで報道をしている訳が無いのでつまりTVの報道は「社会関心」の高いニュースを取り上げている訳では無く危機感を煽る様な報道をしてでも関心度を上げるという如何に視聴率に繋げるニュースを作かを重要視しその様な報道をする企業体質とそれを真に受けて高齢者に対しての「認知バイアス」を固めていく視聴層に問題があると言えます加えて先程から語っている「経済活動」の観点からもはや家にテレビを置かないTVチューナを内蔵しないモニターを所有してテレビと言えばYouTubeというネット世代にターゲットを搾り50歳以下の団塊世代ジュニア オタク向けな放送内容となったもはや意味消失した様な赤白対抗歌番組を放送し続ける某国営放送の本当のTV視聴世代の50歳から上の高齢者層の琴線に触れる番組を作る気が無い姿勢も成果を上げるよりもメインストリームから外れ無い事を選んだ「実利」を捨てて「対面」を重視する行為も、又「高齢者の都会住まいのライフスタイル」に付いても只でさえ都会に労働層が集中して以前に比べて収まっている印象があっても未だ猛威を振るう「コロナ禍」の中で医療崩壊が囁かれ電力不足が問題視されるその様な都会の喧騒の中でライフスタイルを確立させよという高学歴高収入投資コンサルタントあたりが語るいま生きる社会無視の経済観点を真に受ける守るものが「財産」で「人間」では無くなっている証であり現在の社会が超高齢化に向かっているという中この様に、高齢者をアボイドする時流が続くのは今の社会に高齢者は不要というあくまで若者が社会の中枢を占める筋肉質な社会づくりを理想とするもしどら的価値観が未だにまかり通っているからでありどうしても「定番神話」を頑なに死守してしまい少ない収益ながらも確実なマーケットを手放せないわかっていてもやれない現在の社会の体質に問題があると言えます現在の時流を真に受ければ安心できる都会で信用できる人たちの中で生活を固める事が最優先の事の様に感じられますが現在地方には郡上の山の中に巨大な「ゲンキー」があると言った様な地方型企業の進出が著しいものがありまたコロナ禍となり リモートワーク環境が確立して地方移転や地方を拠点とする「サテライトオフィス」が総務省の調べでは1348箇所の開設が確認され現在も増えつつあるという働く場所についての見直しからそれに伴う生活環境の改善など高齢者層が都会に出るのでは無く若者層や企業が地方へと向かう時流がある事を都会から一歩も出た事が無い様なネットでの成功で都会のヒルズに自宅を持つ天上の人物達がSNSで語る「自称新たなライフスタイル」がそれらを考慮して語っているとは到底思えませんしその様な「流言」を「時流」と感じて「トレンド」を真に受けるそれこそ 「LINE」の返事に「。」の様な句読点を使うと嫌われるという2000年以降登場した「Z世代」と呼ばれるネット世代のそんな細かいレベルの感覚にまで気に留めて社会の中心となる若者に対しての表面的な行動原理にまで余りにも振り回されすぎ て 理念を感じられない経済活動を行う全ての層に対しての「認知バイアス」が捨てられない社会に輪をかけて振り回されている事を私達はもっと良く考えるべきだと思います今回はどうも切れが悪く長くなりましたがwという事が、私を含めた全ての人々に冬の寒空に冷えた頭で眺めた景色を通してそろそろ見い出して来た頃なのではないか とこんなご時世の世の中ではありますが来年の世に期待するばかりですという訳で・・・w当サイトとしましてはウチの柱となる「映画レビュー」はこれまでの方針同様に「好き」「嫌い」「面白い」「面白くない」の様な主観に基づいた表現を一切廃した文章で「人気ブロガー」の映画サイトに見られる特徴のサイト主の人柄で映画に興味を持ってもらうブログ運営上の一つの大きな「売り」を放棄した様なサイト主の人柄が見えてこないというマイナス要因を逆に一つの「切り口」としSNS全盛の世の中に逆行した様なまるで出版の様な大量文章の記事を更新するブログを続け誰もやらない事を一つの「強み」とし今後も変わらぬいつもの内容で更新するつもりでおります。という訳で今年もあと残りわずかとなりましたがこの年末でサイト開設12周年となったのもひとえに皆様方のご支援の賜物と心より感謝しておりますこれからも数ヶ月に一度の様な更新が見込まれると思われますがw今後共ご愛顧を賜りますようお願い申し上げます☆(画像参照:wikipedia)本日はお忙しい中ご観覧頂き誠にありがとうございましたそれでは皆様 来年も良いお年をお迎え下さいませブログ主 : Voyager 6434■年末のMarillion■Marillion - Sounds That Can't Be Madefrom Marillion Weekend Hollandよりマリリオン - サウンズ・ザット・キャント・ビー・メイド~創られざる音律~収録アルバム『サウンズ・ザット・キャント・ビー・メイド~創られざる音律~』演奏:マリリオン【楽天ブログ】2022年 こんなご時世ですが年末のごあいさつ https://t.co/FS5mu9gDRE #r_blog— Voyager6434 (@voyager6434) December 31, 2022 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■【CD】マリリオン/サウンズ・ザット・キャント・ビー・メイド 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2022年12月31日
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●宇宙開発で貨幣経済は終りを迎える?☆TOPページARCHIVE☆『Wikiの写真で一言』-第8回-■2022年12月年末特別号■■お久しぶりです Voyager6434ですwさて、今年も残り少なくなりましたが今年も数少ない記事でお茶を濁してきた当サイトの年末にお得意の妄想を大いに語り濁したお茶に追い打ちをかけるいつのながらの当サイトの年末がやってきましたがいかがお過ごしでしょうかというわけで今回も、使い回しのイラストを添えましてトップページを飾る「小ネタ」として2020年5月から2022年11月まで掲載した分は後日 改めて更新するとして・・・w今回は年末特別掲載としまして今月の2022年12月に掲載した「wikiの写真で一言」を、ちょっとした散文に妄想を添えてまとめてみました。全然ちょっとしない、年末らしいいつもよりもスケール感溢れる「妄想」なのですが・・・wwという訳でまずはコチラの「小ネタ」を御覧ください・・・■2022年12月掲載■『wikiの写真で一言』Murga La Corre y Vuela at the annual Uruguayan murgas feminist festival. Meeting of Murgas of Murguistas Women and Women. (画像参照:wikimedia)『・・・あれ? 何だか空気が違うな・・・w!え あ!あああwwwいやいやいやいやw違う違う違うはははははははwww私は一応こう見えてアレですよ・・・wwwも...持って・・・来たーーーw的な~?wwwwwあははははははははははははhwwwwwwwwwww参ったなこりゃ・・・wwさ...wwさあああ~wwwwわ....私はああ~w一体w...だだ誰でっつ...しょおおおっつ!!!www』(舞台袖から小声)『繋げてっつ!!!繋げてっつ!!!・・・』『(小声で訴える様に)・・・もう限界ですよおっつ!!!何で忘れるのっつ!!!サンタの衣装っつ!!!(泣)』(※よもやと思い、念の為に書いておきますが、コレはフィクションのネタで写真と、台詞と、ムルガと、サンタとは一切関わりはありませんのでご注意を・・・w)■という訳で今回の「大いに語る」シリーズのお題は・・・■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■サンタクロースのプレゼントの起源からなぜかSNSで見かける現金100万円プレゼントの真の理由に隠された民間宇宙旅行成功から見えてくる来たるべく貨幣経済の崩壊とお金の無い世界の未来予想図までを忙しい年末の最中妄想を交えて大いに語るの巻■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■になりますでは、書かれた事を余り真に受けない様にしながらごゆっくりご観覧ください・・・w■さて、この時期巷では「年忘れ〇〇」なんて言いまして師走での息を付くのも忘れてしまう程の忙しさにそんな喧騒を忘れて一年の締めくくりを厳かに過ごしましょうと言う古来 貴族が年末に執り行ってきた宴を現すものだった事が近年、年の瀬に職場の仲間と過ごす「忘年会」に変化した日本人が年の瀬を過ごす一般的な表現の一つとなった言葉が聞かれる様になったこの時期にそれら全てを忘れたかの様に平然とサンタクロースネタを出すという盆も正月もクリスマスも一緒にやってくるこれ以上のない「喧騒」を体感するかの今回は「プレゼント」に関した「お金」の お話となります。■さて「忘れる」と言えば元ZOZO創業者で実業家の前澤友作氏が再び宇宙へ乗り出し今度は8名のゲストと共に「月旅行」を行う事に対しかつてから言っていた「アーティストを連れて宇宙へ行く」発言を忘れていなかった代わりに剛力彩芽を連れて行く事は忘れていた件ですがWこの月周回有人宇宙飛行計画は成功すれば民間初となる快挙であるだけでなく今現在、新しい星が発見されると発見者の名前を付ける事が慣例となっている他はこれまで数十年もの間 惑星や小惑星など科学的探査をしてきながらも「結局宇宙って誰のもの?」という肝心の点をフワッとさせてきた宇宙開発に於ける所有権の権利の所在を今後も「国家」抜きで語れる訳がないと考えてずっと保留にして来た所を今回民間が成功するという事になればこれまで世界が忘れていた宇宙開発に向けて間違いなく各国が熾烈を極める事になると言われていますが問題はそういう事では無く今後 民間が宇宙開発に乗り出してくれる事は国家間での管理の元のものでは無くなる杞憂もありながらも現在ウクライナ侵攻で戦争状態にあるロシアがこれまで宇宙ステーションへ巡航できる唯一のロケット所有国という立場を強調して言わば世界が所有してきた宇宙ステーションが事実上「ロシアの人質状態」だった事に対しての打開策となった事に宇宙開発関係者達の胸をホッとさせているという複雑な事情があるのでしたw■さて「クリスマス」と言えばサンタクロースですがw聖夜の夜にトナカイを従えたソリで夜空を飛んでやって来たサンタクロースが子供が寝静まった家の屋根の煙突から入ってベッドに下げた靴下の中にプレゼントを入れるというそんな話なのにクリスマスには任天堂Switchが欲しいというそんな話を両親にしたらなぜかクリスマスの朝にヤマダ電機の包装紙に包まれた任天堂Switchとゲームソフトの詰め合わせがベッドの枕元に置いてあるというそれで全てを察した子供がサンタの贈り物が来たと喜ぶ子供の顔を見たいと願う両親の願いを叶えるために朝っぱらからテンションを上げて喜んで見せてそんな茶番劇に付き合う今どきの子供の方がよっぽどサンタクロースだと思うそんな身も心もすっかり汚れてしまったブログ主ですがWサンタクロースはともかくとしてそもそも「プレゼント」と呼ばれるものは昔から雑誌などの「懸賞」の「景品」としてのものやその様なワードで括られたプレゼントイベントや「慈善事業」の一環で贈られる「品物」という形が多く2010年頃に伊達直人名義で群馬の中央児童相談所にランドセルが届いた事を皮切りに全国の児童施設にランドセルが届く現象が同時多発的に起こり『タイガーマスク運動』として話題となった事がありましたが時には「寄付」として現金が贈られる事もある「無償」で配布されるものというイメージがあります只「現金」の場合だとそうでもなくこれが「寄付」では無く「プレゼント」という形を取る事になりますと「その場で当る現金3万円を3名様にプレゼント」など「現金」プレゼントは昔からTV ラジオ 雑誌 新聞 などのメディアに加えてどの企業もやっている「懸賞」の「定番」の一つでもTwitterで見かける「現金100万円をプレゼント」などの文句には途端に「倫理」的問題が頭をよぎる所に「現金」そのものが「NG」という訳でも無くても場合によっては不遜なものを感じる所に「プレゼント」には何らかの「定義」がある様な印象を受けるものがあります例えば「Amaz○nギフト券1万円分」や「図書券500円分」などの現金相当の「金券」である場合などは「現金ではない」事によって抵抗は無くなりますがそれが「現金」でも何かを競うコンテストであったりクイズの答えや合言葉を添えて応募するものなどの大なり小なり応募者の功労や功績が認められた「賞金」として受け取るものには抵抗は感じられない様に思われますつまりこれらの懸賞が 応募者の功労に報いる形のものであり社会的な行為としても「無償」では無い所に倫理的にも「クリーン」な印象を受けある種の「信頼」を感じるものである場合に「抵抗」が生まれない理由がある様な印象がありますしかしこれらの懸賞の多くは賞品が「現金」であろうと無かろうとどんなに「クリーン」であろうとも多かれ少なかれ「個人情報収集」が一つの目的としてありますので個人情報保護の観点から言えば応募そのものをすべきでは無いというのが正解の様な感じもありますそれでも「クリーン」な懸賞の場合にその様な抵抗を感じないのは懸賞がクリーンな場合は「信頼」を感じる分「個人情報収集」の利用目的もサービス向上の一環であってそれ以外の目的には使用しないだろうという「信用」から「抵抗」が生まれない理由があると言えます又「現金プレゼント」をする側が「歯磨」「石鹸」「シャンプー」の様な「健康 化粧用品メーカー」や「風薬」「頭痛薬」などの「薬品メーカー」の様な潜在的な「クリーン」なイメージを持ったものやTVやラジオなどのメディア媒体はSNSやネットの影響力が大きくなったとは言っても未だ発言力が強く「信用」がありますのでTV ラジオでの番組現金プレゼント告知にも抵抗を感じさせないものがあると言えますこれらの「信用」のあるものとは違い聞いた事の無いメディアや企業の「プレゼント」告知の場合は「個人情報収集」目的があからさまだと感じたり「あやしい」という先入観が働き「悪用目的」の可能性が上昇して「抵抗」が起こるのだと捉える事が出来ます先程の前澤友作氏と言えば100万円を贈呈する1000人の応募者をTwitterで募り通算32億円を無償で一般人に配った通称「お金バラマキおじさん」が有名で類似行為が出る程の社会現象となりましたがこれなどは先程の「信用」という点ではかつては巨大企業の代表だったという肩書がありながらAmazonの創業者のジェフ・ベゾスが歌手のドリーパートンの慈善事業に1億ドルの寄付をしたという行為が全米で「美談」としてニュース報道がされたとしても「あやしい」「裏がある」などの考えがよぎるのはその点では同様で資産家に限らず巨大企業の慈善事業への巨額な寄付などもこれらは「売名行為」というワードが100人中100人が頭に浮かぶ最たる例の様に感じられます個人の資産家の行動には本人しか分からない「真意」があるので社会通念上「売名行為」的に取られても致し方ない立場ではあるという「疑念」を持たれるというのが正しい捉え方だと言えますが企業の場合はそこに務める社員が「税金対策」などの裏事情を知る場合も多く(「企業」+「慈善事業」)÷「寄付」=「売名行為」の様に一般の方々がイメージするとしたらそれはそこに務める社員も含めてイメージしたものだと捉える事が出来るので言わば「生証人」の答えを含めた極めて信憑性の高いものであると捉えて概ね間違いないというものがありますまた資産家の場合は先程のジェフ・ベゾスの例の様に個人で巨額の寄付行為をする事に受け取る側がどんなに恩恵を受けて感謝しても素直に支持できない計り知れない「思惑」と「疑惑」しか感じられない所に受け取っても今後何らかの「対価」が要求される とか寄付した側に金銭以上に有益な利益が生じる印象が強い事から「抵抗」が生まれる理由がある様に思われます前澤氏の「お金バラマキおじさん 100万円贈答」に付いては堀江貴文YouTubeチャンネルにゲスト出演した際のインタビューでホリエモンから「お金バラマキおじさん」は何だったのかの質問を受けて「プレゼントが好きだから」と返答しこのイベントによって1200万人のフォロワーが出来た事が成果であると回答していますので前澤氏の言葉通りならばTwitterのフォロワーを募る為に「寄付」という形でお金を贈答したのが目的という事になります1200万人と言えば 日本の人口の1割なのでテレビやラジオやネットで何かを伝えても今の世の中TVの視聴世帯約800万に対して視聴率が14%で大ヒットの世の中なのでそもそもメディアで何かを伝えようとしても視聴していなければ意味はありませんし視聴率が悪ければ成果もありませんそれに対してメディアを利用せずにTwitterの「呟き」一つで確実に1200万人に伝える事が出来るという事は「方法」はあからさまですがこの様な巨大な「手段」を得たという巨大な成果を上げたと言えます。今でも「お金バラマキ」類似行為が SNSで見られるのはこの「手段」欲しさの行為では無いかと思う訳ですしかし国から紺綬褒章を受賞する様な数々の支援活動を精力的に行って来た前澤氏とは異なりお金を贈呈をしようとするこの人物達の思惑以前にその類似イベントに群がる「金目当て」ユーザーのあからさまなまでの「浅ましさ」丸出しの応募行為や本当にお金に困っている人々の生死に関わる「訴え」を目にしているとネットが荒れるだけでは無く只々、人を「弄ぶ」行為にしかなっていない事に「反感」しか湧くものはありません又この様な類似行為が後を絶たないのは類似行為をする大部分の者がそんな巨大な「手段」を手にする事が出来れば天下を取れる と思い込んで「神」にでもなったつもりになりたいのか分かりませんがそんな思惑が「透けて見えてくる」様なそんな「空虚」な目的に一体何の意味があるのか全く理解できるものはありませんし間違っても関わりたくもありませんただ「金銭」の「プレゼント」に関してそもそもプレゼントの大家となる「サンタクロース」の話にサンタのモデルと言われている聖ニコラオスが娘を身売りに出さなければならない貧しい一家を助けようと窓に投げた「金貨」がたまたま暖炉に掛けていた靴下に入った事で娘が身売りから救われたという伝説があって(※諸説あります)それが「美談」として語り継がれてサンタクロースに受け継がれて行ったというエピソードがあるのでつまりサンタのプレゼントの起源は何処の誰か分からない人物からの「現金」という歴史的事実があった訳ですつまり我々はサンタのルーツとなる「現金を贈る」行為の美談を数千年の時を経てネット時代となった現代に「得体の知れない行為」として警戒する様になり進化と引き換えに人を疑う事を覚えた末に「現金を贈る」行為を不遜なものを得る行為へと変えてしまい現代を真のサンタ不在の世界にしたのだと言えるのでしょうw■ここで話を「お金」の話に絞りますが前澤氏の場合はシングルマザーの家庭1000件に100万円を贈答した所ほぼ全ての家庭が子供の学費に当てたり将来の為の貯蓄にしたりと贈答した100万円は計画的に使っている事を知りよく言われる「お金に困っている人にお金を渡したらお金の心配が無くなった分、意欲を失わせて人間を駄目にする」という社会学者や経済学者によるこれまでの一般的な「見解」を覆し全くその様な事は無いという事実が判明し「ベーシックインカム」の研究の一環としても社会学的に貴重なデータが採取出来たというこれまで誰も成し遂げる事の無かった成果を上げたと語り近日中に論文を発表する予定があるとの話をした後に「お金のない世界」「お金という束縛から開放された世界」の可能性を考えているという一般人の私には想像も出来ない様な未来予想図への関心を語っておりましたこの話から分かる事としてはウチのお得意の妄想を働かせて想像しますと・・・まず頭に浮かんだのは人気SFドラマ「スタートレック」で描かれる「お金が存在しない未来」の世界観でした「スタートレック」は今更説明の必要のない「スター・ウォーズ」よりも歴史の古い1960年代に誕生したアメリカの人気SFシリーズですが「お金の無い未来」という設定は意外に知られていない様でスタートレックは「差別」の無い「国境」の無いそして「貨幣経済」の無い宇宙時代を生きる人類の開拓精神を描いたドラマでここで描かれる人類は数度の世界戦争と宇宙人との交友関係を経験した事でそれを期に地球人類が一つとなりお金を稼ぐ事を目的としない自分自身を高めて社会に役立つ事を目的として行動する世界の垣根が無くなった貨幣制度を廃止した個人で資産を保有する事を止めた お金に縛られない新たな価値観に基づいた世界で宇宙へと挑む姿が描かれておりますつまりスタートレックの世界から見た現代は地球での価値観に捕らわれて宇宙へ進出出来る程技術も精神も進歩をしていない世界だという事になりますスタートレックの世界での「生活面」はどうかと言いますとまず食事は基本配給制の様ですが現代の様に食材を料理する様な事はせずエネルギーとなる元素を飲食物に変換する「レプリケーター」と呼ばれる物質複製装置で提供されますこれは宇宙空間に存在するダークマター的なエネルギーを材料にして分子レベルで合成し それを「ステーキ」「スープ」「サラダ」の様な調理した形で「飲食物」を精密に再現して宇宙での食の問題を解決しますまたこのレプリケーション技術を使って「服」「道具」「本」「機械」なども再生しこれらはSFドラマではおなじみの「物質転送装置」にも使われる「分子変換技術」を使って「3Dプリンター的」に作り出されて行きます「掃除」は自動で行われ「ゴミ」や「排泄物」は分子レベルで分解されます分解された分子はエネルギー変換され「レプリケーター」で「衣服」「靴」などに再利用されます「医療」では殆どの「病気」は根絶され「怪我」や手術が必要な「宇宙病」などは「執刀」による原始的な方法は使わず病巣や損傷した箇所を分子レベルで治療し損傷部位の細胞を再生するので病気や怪我はその日の内に立って食事が出来る位に瞬時に回復しますそんな スタートレックの世界では 一体「何」によって社会が回っているのかと言いますと例えばX-MENのパトリック・スチュワートが主演する『新スタートレック』の場合は主役のピカード艦長は「大佐」でライカーは「中佐」で副長であったり「エンタープライズ号」が所属する宇宙艦隊は軍隊なので更にその上の「提督」や「元帥」が存在する事になりますその宇宙艦隊に入る為には士官学校があってその中でも優秀な生徒は「エリート」として認知され士官学校を卒業した後 任地に配属された後は成果を上げれば能力査定で昇進が決まる仕組みになっています又成果次第で与えられる「境遇」も変わりピカード艦長はエンタープライズ号の1等室となる艦長室に部屋を持つ事になります従って「ヒエラルキー」は存在する事になりますつまり彼らは功績によって待遇や立場が変わって行くのは資本主義の現代と同じではあっても資本主義の現代に於いてはその功績に見合う「お金」が「報酬」として与えられそれの有り無しで社会的な立場や発言力が決まる事に対してスタートレックの「お金の無い未来」ではその功績に見合う「評価」をされる事が言わば「報酬」となりそれによって社会的立場や発言力が決まる評価によって回る公平な社会である事が分かりますこれは一見、SFドラマの世界観という名の「絵空事」の様に見えて実はかなり「信憑性」のある、特に今後「宇宙開発」が現実のものになった時の「未来予想図」を想像する上で軽視できないかなり経済の本質を付いた世界観だと言えますこれはまず現在の「資本主義社会」を支える「貨幣経済」に於いて「お金」の「本質」というものを考えると分かる事だと思いますが私達が普段買い物に使っている「お金」とは「一万円になります」と店員に言われれば財布から「一万円紙幣」を出す事を当たり前の様に行ってきましたが本来紙幣や硬貨には「一万円札」に「一万円の価値」がある訳でも「100円玉」に「100円の価値」がある訳でも無く「印刷された紙券」「プレスされた白銅玉」に過ぎないものに価値を「委譲」した物々交換と同等の尺度によって定められた「価値の数量化」による「社会的信用」を内包した「数値」がお金の本質なので手にしたお札やコインはお金そのものではないという事になります預金通帳に書かれた「数値」が「財産」ではあっても「預金通帳」を本人確認する「手続き」によって「財産」を引き出す事は出来ても「預金通帳」そのものが「財産」ではない事と同じですつまりお金とは「数値」そのものに財産的な価値があるのでは無く「数値」が「金銭」に「両替」出来る「社会的信用」の方に本来の「価値」があるのだと言えますそうであるならば将来人類の進歩によってこの「尺度の数値化」による「金銭」で計る経済から「数値」という「絶対的価値観」に頼らない「信頼」に足る「評価」で計る方法を開拓する事が出来たら「相対的価値観」で回る「評価経済」とも言える社会の元で「お金の無い世界」の実現が可能になるのかもしれませんというか妄想できると言えますwそもそも資本主義の成り立ちが食料品や物資を得るのに「略奪」「侵略」を繰り返して来た歴史からそれを無くす為に「貨幣制度」を設けて「貿易」を生み出し18世紀の経済学者で「国富論」でも知られるアダム・スミスが提唱した「売りたい者が居れば買いたい者がいる」その様な状況での「売値」が「買値」と兼ね合いが付かない時に両者が妥協点を見出して自然と「適正価格」に落ち着く良く言えば「神の見えざる手」悪く言えば「妥協点の手探り」による「協調」を求める社会が生み出した制度であるので「資本主義」が経済の核となった20世紀までの時代から「ネット社会」となった21世紀の時代は「資本主義」がネットを想定していない所に「数値」のみの「運用」が可能となり「データ」を賞品化する「流通」がワンセットとなって資本主義社会を支えてきた「取引」を「手配」する「中間管理」を無用なものにした事で一般人が賞品を購入するに必要な「窓口」としての「小売店」「問屋」はおろか「貿易商社」の様な「取引の間を司る」代行業が将来無用のものとなる可能性が出てきて加えてAmazonの様なネットサービスが主流となりこの様なユニコーン企業がビックテックとなった事で経済が地球規模で書き換えられて現在の地球の資産の半分が 数人の資産家が所有するとまで言われる程となった「巨大な偏り」が資本主義が限界に達したと言われる所以であり未来の経済の征くへが懸念される所でもある訳です■ここで今世紀に出てきた 民間による「宇宙進出」に話を戻しますがこれが今後の世界の経済を書き換える「起爆剤」となる事を本当の意味で理解している人は余り居ない所にも現在資産家と呼ばれる人々が突然の「慈善事業」に乗り出した理由と繋がって来る訳ですどういう事かと言いますと「宇宙進出」によって人類がスタートレックの様に「宇宙開発」へと乗り出す現代が「黎明期」であるのならば中国が無人月着陸の報道に世界が仰天した後それを受ける様に米国が有人宇宙計画を推し進めようとしているのは宇宙開発に於いては「宇宙は誰のものでもない」という定説を覆してその後中国が有人月着陸に成功した際に「我が国が着陸した場所を中国とする」と宣言して月の資源の私有化を主張して来るとも限らない「危機感」があるからでありそうしてどこかの国がどこかの島を我が国の領土と主張し続ける様に「月」の場合もその様な「前例」が一度でも作られてしまえばなし崩し的に各国が宇宙開発に於いて「月」の領土を主張しはじめて「月」が資源争奪の闘いの場になるとも限らないわけですそうして「月」が第二の「アフリカ」と化しイギリスあたりがまた定規で月の地図に線を引き始める・・・と言った、新たな争いの火種となる可能性が出てきた事で大国が宇宙へ乗り出したという事情があるのではないかという事です(妄想です)しかしそこで「民間」が宇宙へ乗り出した事でこの「未来予想図」に大幅な変更が入っていく事になり宇宙が再び「国家」主導のものから「誰のものでもない」前提へ戻る事になる訳ですそこで今度危惧されるのは宇宙に於ける「資源開発」による「世界経済」への影響です現在「鉱石」は社会にとって有用な資源で石油に鉄鉱石などの経済的資源、金、銀、銅、などの貴金属資源に加えてダイヤモンド、ルビーなどの鉱物の宝石資源なども人間の経済活動にとって有用な資源となるものであり希少なものになる程 経済的にも価値のあるものだと言えますその中でも希少価値があるものは高額で取引され「円安ドル高」の様に日々変動する金融価値とは異なり希少になればなる程高騰する貴金属類は「お金」の様に変動しない古来から信用価値のある「資産」として所有されて来ましたしかし現在「宇宙旅行」と呼ばれるものが「宇宙開発」へと進化を遂げた時惑星での新たな「資源開発」によってこれまで地球での限りある資源でしかなかったものが宇宙での資源確保が見込める様になりこれによっておそらく「衣食住」の心配もなくなり貧困や格差も解消され一見 未来は明るいものになる 様に思えますしかしもし仮に「月」か「火星」あたりで大量の「金」や「ダイヤモンド」が発掘されでもしたらそれによって希少価値のあった鉱石鉱物の価値が変動して「金」や「ダイヤモンド」が単なる「石ころ」程度の無価値のものに下落し資産を貴金属類で所有してきた資産家は破産に追い込まれるとも限らないわけで・・・つまりは地球外惑星で大量にこれらの資源が発掘された時に現在の社会でお金に換算できる尺度で測れる希少価値のある貴金属類は惑星開発によって無価値になる可能性が大いにあるものばかりで占められている事が分かる訳ですそうなると人類が宇宙へ進出する「惑星開発」とは新たな物資の発掘や開発により恩恵を被るものであると同時に貴金属類が「お金」としての価値を失いその価値による信用で取引が行われてきた経済がリーマンショックどころの騒ぎでは無い程の大混乱を来たし我々の貨幣経済を根底から覆すものにもなりかねない「諸刃の剣」でもある側面を持っている事が分かります(※あくまでブログ主の個人の意見の妄想です)そうなると先程話した「お金のない世界」の話が急にリアリティーのあるものになっていく訳ですそうやって考えますと というか妄想しますとwつまり私が以前「100万人のフォロワーが居るユーザーはそれによって一億円を作る事は可能でも1億円あっても100万人のフォロワーは作れない」と説明した後に「21世紀のネット社会となりTwitterのフォロワーも一つの「財産」となったそんな折「評価」というお金では買えない「財産」が出現した」と語った事がありましたがというか妄想しましたがw前澤氏は32億円で1200万人フォロワーを作った訳なので1億円ではありませんでしたが大体3億円位あれば100万フォロワーは可能というデータが取れた事になりますのでこの先の世の中では分かりませんが「今ならまだ大体可能」だと言えますのでかつてはTVかラジオでしか出来なかったリアルタイムで多数の人間にモノを伝える「手段」を手に入れた事になりますこれは「32億円」という資金の力もありますが前澤氏が1200万人のユーザーから「評価」された事で得ることが出来た「財産」だと言えますまた世界随一の資産家であるAmazonの創始者のジェフ・ベゾスにしてみてもTwitterを買収したイーロン・マスクにしてみてもZOZOタウン創業者の前澤友作氏にしてみてもロケットで宇宙へ乗り出したかと思えば 巨額の寄付をしたりとこれらの一見常人には理解できない度が過ぎるお金持ちの荒手の道楽に思えたこれらの行動には意外な共通点があり彼らは宇宙に進出したら社会がどうなるのかを想定しながらロケットに乗り宇宙開発によって現在の貨幣経済が消滅した「お金のない未来」でお金に代わる経済は何になるのかを見据えて「評価」を得る為の「寄付」をしているのかもしれませんしこれらは地球上で最も「資産」を所有し「お金」に縛られない立場である故に想定出来る「未来予想図」があっての人類の未来を見据えた上の行動という事なのかもしれません■ちなみに前澤氏の「月旅行」ではアーティースト、アスリートなど剛力彩芽は除き・・・w8名のゲストを同乗者として招くそうですが理由はインタビューでも語っている通り「宇宙を眼にして何か生まれたものを創作や活動で表現して欲しい」という「イメージの提供」を目的としているそうですがこれに付いては期待している方も多い中敢えて言いますと確かに私の様な凡人が宇宙を目の当たりにしたら腰を抜かして『宇宙スゲーーっつ!!!ww超デケーーっつ!!!ww』と 狭いコクピットの中でまるでタレントがワイプで眺める中美味しい以外気の利いた事が言えない新人Dのグルメ食レポの様に至極 素朴 な感想を少しでも凄い印象を残そうとただ大きな声で叫び正常な空調の船内を凄い空気にした後余りのアウェイ感に耐えきれず『剛力彩芽の30間近のJK姿にアンビリバボーーーっつ!!!』と訳の分からない事を言いながらコサックダンスを力尽きるまで踊り狂い鼻血を出して気絶する位しか出来ませんが・・・仮にも「アーティスト」と呼ばれる人物であれば凡人には無い「想像力」というものがありますのではるか昔の昭和の歌謡曲には作曲家も作詞家も唄った本人も行っても居ない北海道の見た事も無い摩周湖に本当かどうか定かでない霧がかかるという『霧の摩周湖』という嘘八百の歌を大ヒットさせたという実績が既にあるので何もない所からイメージの翼を拡げて見たこともない景色を描くのが「アーティスト」と呼ばれる所以であって「体験」としては意味があっても宇宙旅行によって得たイメージに意味があるとは思えません逆に「宇宙」を見てしまった事でイメージが「宇宙」で狭められて何処か見た事のある「ラッセン」みたいなものに落ち着くのかもしれませんwと言う訳で良い一日を☆ちなみに剛力彩芽の30間近のJK姿はコンナ感じ(インスタへ飛ぶ)ですw【楽天ブログ】(年末に妄想を大いに語るの巻)『Wikiの写真で一言8』2022年12月特別号■宇宙開発で貨幣経済は終わる?■ https://t.co/WUU0jUcQjn pic.twitter.com/ez213PuhcH— Voyager6434 (@voyager6434) December 28, 2022■【Blu-ray】私の嫌いな探偵 Blu-ray BOX [ 剛力彩芽 ]価格:16544円(税込、送料無料) (2022/12/29時点)タイガーマスク DVD-COLLECTION VOL.1 [ 富山敬 ]価格:12552円(税込、送料無料) (2022/12/29時点)Nintendo SwitchJoy-Con(L) ネオンブルー/(R) ネオンレッド価格:32978円(税込、送料無料) (2022/12/30時点)【中古DVD】 9時から5時までジェーン・フォンダ/ リリー・トムリン/ 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2022年12月29日
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『なぜログアウトしない?』『どうして大人が同行しない?』『なぜ竜はUで迫害されるのか本当の理由』『クジラの正体は?』『本作が「現代版 美女と野獣」である理由』『本作はなぜ意味不明なの?』などetc...PART2 補完解説編竜とそばかすの姫Belle2021年7月16日公開 日本 121分■監督 細田守■声の出演 中村佳穂/成田凌/染谷将太/玉城ティナ/役所広司/佐藤健----------------------------------------------------------------------------------------■■■もくじ■■■『PART1 映画解説編』≫ 前回記事は コチラ■1. はじめに■2. 賛否両論となった本編に付いての閑談■3. 主人公ベルが竜を救おうとする理由■a. 死を掛けた母の行動が理解できないすず■b. なぜ竜に「あなたは誰?」と問いかけたのか■c. 恵の父親が腰を抜かす本当の理由■4. 恵の父親の態度から見える恵達のその後『PART2 補完編』-前のり編-■恵の父親が窓を眺めていた訳■■恵の父親もDV被害者?■■中洲の場面ですずの手を取ったのは?■※文字数制限で掲載できなかった分をコチラに特別掲載w-------------------------------------------------------------『PART2 補完解説編』 もっとディープに解説 !!!■ 補完編について■5. 本作の批判に回答してみる「映画への批判を検討し なぜログアウトしない? などの「疑問」「なぜ?」に回答解説」批判例01『最後まで見ていられませんでした』に回答批判例02『意味不明』に回答批判例03『全体的に微妙』に回答批判例04『つまらない』に回答批判例05『感情移入出来ない』に回答批判例06『脚本が浅くてチープ』に回答批判例07『描き方が雑』に回答批判例08『母性を理解していない』に回答批判例09『兄弟だけで虐待に対処する結果が酷い』に回答批判例10『どこに主軸があるのか分からない』に回答批判例11『美女と野獣の引用は必要ない』に回答批判例12『ベルに戻る展開は筋が通らない』に回答批判例13『なぜログアウトしない?』に回答批判例14『納得できない展開に呆れた』に回答■6.竜はなぜ「U」全体から迫害を受ける?■a. 拡散する流言を真に受ける社会と偏った正義感■b. 気軽に発散出来るネットと根拠なき正義■c. 自警が主体の欧米の保安官■d. 見た目を重視する清潔化(ルッキズム)の浸透■e. 竜への迫害は竜自身が原因■7. 割れた額縁に飾られた女性は誰?■■8. 恵はすずに振られたのか?■■a. 愛と恩の違いの「ありがとう」■b. 本当の自分を好きになってくれた「ありがとう」■c. 母に向き合えた「ありがとう」 ●弟「とも」は病気?● ●クジラの正体は何?● ●3人が抱き合った意味●■d. 救えた事への「ありがとう」 ●恵の父親は逮捕されてもそれで終わりでは無い理由●■e. 恵達を救った事で救われたすずの母 ●すずがアンベイルしても再びベルになった本当の理由●■f. 暴力の連鎖を断ち切ったという意味■g. DVの連鎖を断つという意味■h. DV被害者に追い打ちをかける世間とその戦いという意味■9. 大人が同行しない本当の理由■ ■a. リアルではこれが当たり前 ■b. ジャスティンと対峙した事で既に経験済み ■c. すず以外招かれていなかったから ■d. 大人が付いて行くと恵達の死を招く危険■10. ジャスティンは恵の父親?■■a.「ペギー・スー」という名前に潜んだ意味 バディー・ホリーと「音楽の死んだ日」 ●「ペギー・スー」はすずの母が救った子?■b. 恵の父がジャスティンだった場合の坂の場面の解釈■11.すずにとってのしのぶくんの存在とラストの「ありがとう」の意味■■12.「まとめ」■●a. 本作が「現代版美女と野獣」である理由●b. 本作はなぜ意味が分からない映画なのか そして本作の「隠されたメッセージ」とは▲目次へ▲■補完編■「もっとディープに解説 !!!」ここからは補足として「なぜ竜はUであそこまで迫害されるのか」を解説して欲しいという要望が出ましたので重複する所があるかも知れませんが 解説しながら本作を更に深く考察していきたいと思います■今回は「批判」を込めた映画の解説という小規模な更新だったはずでしたがその後 改めて考察をし直しまして再び目を皿のようにして映画を再鑑賞してみた所次から次へと新たな真実が見えてきまして・・・映画を再考察すればするほど製作者の意図はもっと隠れた所にあってそれを読み間違えていた事が段々と分かってきたのでした前回の更新では「鑑賞者にミスリードをさせる困った映画の失敗作」と評した本ブログでしたが前言は撤回しまして・・・この映画は以前当サイトでも解説した大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』やマーティン・スコセッシ監督が演出したマイケルジャクソンのMV『BAD』や庵野秀明の『旧劇場版エヴァンゲリオン』クリストファーノーラン監督作のミステリー『プレステージ』などの「鑑賞者にミスリードを体験させる為に鑑賞に必要な情報を意図的に抜いたタイプの作品」と捉え「意味が分からないのには意味がある」「人が見た目では中身が分からない事と同じである」という世の中の当たり前な「道理」を描いた映画としてその真意を更に深く探って行きたいと思います補足編の今回は10万文字もの大長編となり加筆修正したPART1も加えた全編はもはやいつもの出版クラスの文字数となりましたwともあれ 順を追って説明していきたいと思います▲目次へ▲■1.本作の批判の検証■PART1 の記事にも書きましたが本作は大ヒット作でありながら賛否両論となった事でも異色作と言えますがその批判の多くがその批判の要因となるものさえ無ければ最高の映画であるという意見も多い事からある意味その批判の要因である事が解決出来ればこの映画が再評価される事に繋がるという事になりますそこでまずは主な「批判」を検討しそれはどういう性質の「批判」なのかそれは本当に「批判」なのか確認する所から始めてそれを本作に於ける「疑問」と捉えて解説して行きたいと思います▲目次へ▲■1.本作の批判の検証■批判例1『最後まで見ていられませんでした』に回答映画の結末まで観ていないという事は映画の構造上の問題を指摘しているのでは無くて鑑賞者の方の「メンタル」の問題になるのである意味批判に値する意見として尊重いたしますそういう事では無く「最後まで見ていられなくなる程意味不明だった」という比喩の意味での意見という事なのであれば批判という意味では主観的過ぎますしどちらかと言えばある種の思い込みで鑑賞していた事で想像と違っていた内容に対しての抗議という意味が強い印象がありますのでその場合は次の批判例を参照されてから再考されるのも良いかもしれません▲目次へ▲■1.本作の批判の検証■批判例2『意味不明』に回答これは本作の批判の中でも圧倒的多数を占める意見でしたただこれに至っては映画の意図を把握できるかどうかというある程度の映画鑑賞歴と映画の目利きが出来る能力が必要とされる事でもあるので一般の方の鑑賞での場合は傾向としてこの様な意見はどの映画にも見られる現象ではあります本作にこの様な意見が出る背景には一般の観客の方々が映画に臨む事がまず「分かりやすい」というのが第一にある所に理由があると言えます本作の様に観た人に答えを投げかける様なタイプの作品は呟きにコメントやナイスをする事でコミュニケーションを取るSNS全盛の現代に於いてはマッチした作風と言えるのですが良い映画には劇場でも声援を送り駄目な映画にはスクリーンに向かってビール瓶を投げつけてサムダウンの意思を示す欧米の鑑賞スタイルとは異なり日本の映画観客層は鑑賞するのみの「受け身」が主体なので本作の様な「描かない所は各自で想像する」タイプの作品は脚本に「穴」が開いている様に感じるのだと思われ「意味不明」では無くて「意味が分からない」というのが本当の所なのではと思います▲目次へ▲■1.本作の批判の検証■批判例3『全体的に微妙』に回答これも批判の多数を占める意見です映画の鑑賞後感に対して「面白くない」という様な映画の出来が明らかに悪い事を端的に示す言葉とは異なり「微妙」という感想は多分に観念的で90年以降の上から目線で物事を評価する風潮下での「マウント文化」を堺に誕生した言葉という印象があり80年代までは無かった表現ですが映画の完成度には触れずに自分の「琴線」に触れなかったという評価の中心が「映画の出来」では無くあくまで「自分」にありその鑑賞が「退屈」だった事を訴える鑑賞に於いての「居心地」を評価の基準に捉えた感覚的な言葉の様に思われます従って本作の鑑賞が「琴線」に触れる所が無く鑑賞中の「居心地」も「退屈」だったのであれば当サイトの解説を読んで本作の真意を理解して頂けたとしてもそれで見た目の「感覚」の「微妙」さが変わる事はありませんので「なるほど」としか言えません▲目次へ▲■1.本作の批判の検証■批判例4『つまらない』に回答これも先程の『微妙』同様 感覚的な意見ではありますが私の様な平成以前世代でも使う言葉なのでマストな言葉だと言えますこれに至っても当サイトの解説を読んだ事で映画の鑑賞感が変わる訳では無いので「そうですか」としか言えませんが先程の『微妙』とは異なり映画の構造に対して出た言葉という意味にも取れるものがあり映画のプロットに魅力を感じられないという事なのであれば本作に潜んだ真意を掘り下げる事で又評価も変わる可能性もありますのでその様な方々は是非当サイトの様な「映画解説」を観覧して再度、鑑賞して頂きますと面白く鑑賞できる 新たな発見があるかもしれません▲目次へ▲■1.本作の批判の検証■批判例5『感情移入出来ない』に回答私は映画レビュアーの端くれですが通常 映画に引き込まれる様に鑑賞するという事はあっても映画を特に個人的な感情移入をしながら鑑賞するという事は殆どありませんし周りの鉄壁の映画ファンの方々の中にも「感情移入」の入り具合で映画の良し悪しを計る方は知る限り聞いた事は無いです従ってこれはこの方特有の鑑賞法という事になりますので「そうですか」としか言う事は出来ませんただ、映画鑑賞に対してこの様な意見を述べる方は多くそういうタイプの方々は映画を「体験」だと捉えて映画に感情を揺さぶられる何かを期待して鑑賞しているという印象がありますつまり「演劇」の要素や「音楽」の要素「映像」「美術」などの要素を含んだ「総合芸術」を愉しむという「鑑賞」を嗜むのでは無く映画の登場人物達が自分に近しい存在や同じ道のりを歩んでいるなどの「共感」できる何かを求めたり「全米が泣いた」「ハンカチをご用意下さい」などの感情に訴えるコピーに惹かれて映画館に足を運んで「癒やし」を求めたりするなど映画を「エモーショナル」に捉えて自分の気持ちを投影する「受け皿」となりえるものが良い映画として捉えている印象がありそんな感情を揺さぶられるドラマに心を寄せて自分とは異なる人生を対外的に「体験」する事を望んでいると思われますのでその様な鑑賞をされるのは非常に豊かな感受性を持っている方だという事が分かります故に本作の主人公は社会から自分を隔絶した中で世界に身を置こうとしている「自閉」して自分の気持ちを周りに出さない社会にコミットしない「Z世代」ならではのタイプの人物なので主人公が作る音楽のエモーショナルで多彩な創造性とは裏腹に行動原理は全てに於いて自閉的であり「情報」の観点からも主人公の感覚を「共有」して実存感を持つ事は同じ感性の持ち主で無ければ難しいものがありその辺りに感情移入出来ない要素があると言えます本作の「U」空間での多彩なビジュアルの拡がりは人間の「内面」を反映させた「深淵」でもあるのでこの様な現実世界とは異なった「異世界」的空間は例えば「ファンタジー」作品の様に「ラノベ」「アニメ」「ゲーム」などの舞台としておなじみのビジュアルや世界観などがある程度の認知度が望めるものとは異なり感情を投影出来る様な共有する要素を見付けにくい事からも感情移入出来ない「違和感」につながっているのだと言えますまた本作で描かれる「DV」は いわゆる社会問題ではあってもどう対処するべきかという様な具体策が提示される内容では無い事などがそれが映画の重要な「要素」ではあってもそれ以上でも以下でも無いという印象を与えるという核となるプロットに対しての不信感が感情移入以前に「共感できない」要因になっていると言えますそれはこの映画の「感動」が共感する「感情」を超えた所の心のもっと深い場所にある「琴線」に触れる「信念」や「良心」に訴えるタイプの作品である故に「感情移入」とは 異なる要素 を中心に添えた演出にその様な印象を持つのだと思いますのでこれは感情移入出来る出来無いの問題では無く「そういうものです」と言うしかありません▲目次へ▲■1.本作の批判の検証■批判例6『脚本が浅くてチープ』に回答本作での「U」の中でのやり取りや世界のユーザー達の描き方がやや画一的である方向に偏った描き方になっている所に私もその様な感覚を持った事はありましたただ、この様な意見を言う方々の多くは本作に限らず最近の映画がその様な傾向にあると言う様な映画全般の総評になっていたりとおそらく本作が『バケモノの子』まで担当していた『八日目の蝉』の脚本家 奥寺佐渡子の不参加に対して異を唱えた映画に詳しい方の意見と捉える事が出来ますしかしその多くは「使い古されている」「アマチュアレベル」といった画一的なワードを多用した 観念的 な論評で占められことさら「脚本」というワードを使っているだけにどう脚本が浅いのかを具体的に上げて映画の構造的欠陥なりを深く掘り下げた意見という訳では無い所に信憑性という点に於いて欠けている印象を受けるものがあります本作はむしろ「正解はない」という理念で脚本を書いているという印象があり「虐待」という要素一つ取ってみてもアニメの監督が答えを出せる様なものでは無く社会全体が取り組んで考えていくべき社会問題であるというその様な問いかけで全編が出来ているという性質から「チープ」というよりも「空欄」だと言う所にその様な印象を受けるものがあるのかもしれません▲目次へ▲■1.本作の批判の検証■批判例7『描き方が雑』に回答「面白さが見いだせない」という意見の中に「キャラクターの役割や行動の動機の描き方が雑」という理由を述べているものがあり多分に主観的な印象はありますが具体的で興味深い意見だと思いましたこの様な方に取って映画とは場面を丹念に積み上げる事がクライマックスのダイナミズムに繋がり鑑賞に於けるカタルシスを産み出す という様な映画の完成度を求めた上で「感動」があるという何事にも集中して事にあたるタイプの方だという印象がありますこれに付いても先程の『脚本』のケースと同様で本作は描き方が「雑」というよりもそもそも「描かない」演出になっているので「描き方が雑」では無くて「描き方が丹念ではない」と捉えるのが正しい様な印象があります▲目次へ▲■1.本作の批判の検証■批判例8『母性を理解していない』に回答「SDGs」をスローガンに差別のない世の中を目指し誰も取り残さない社会作りが叫ばれる昨今「母性」という言葉は 子育てありきで女性を縛る言葉として女性蔑視発言に当たると問題視される様になった現在に於いて批判ワードに「母性」を使う方がおられた事に若干の戸惑いを感じるものがありましたがこの様な言葉を使う真意とは何かを考えるとおそらく「親の資格」の話をしているのでは無いかと思った訳ですつまり 親だったら行動を起こす前にまずは自分の子供の事が頭によぎるのが普通であるとしかしこの映画の母親は自分の子供の事を考えるよりも自分の主義主張を優先し行動しその盲目的信念に基づいて命を落としている事から全く人として理解できない、異端者であるという事を言いたかったのでは無いかと想像した訳ですであるとすれば「SDGs」の精神にある「多様性」に基づけば子育てよりもまず主義主張を優先する「生き様」も又人の世の「多様性」であると捉える事が出来るのでその様な捉え方をする人が居るという事を認めるとしてもその様な人物の行動を理解する必要は一切無いと言えます本来差別のない公平で平等な世の中とはその人物が白人で「白人最高」と本当に思っているならその人物が女性が「母性」があると本当に思っているならその様な事を口にする人物を理解する必要は無く問題視する事も無くなるのでその様な事を普通に口に出来る社会が本当の差別のない社会だという事になりますしかし人種問題や差別問題などの人類の歴史がそれを不可能にしているのであって何かを口にする度過剰に問題視したり問題視される事を気にする様な内はそれはまだ「問題に取り組む前の状態」ではないかと思ったりもしますともあれ・・・人の信念や行動に対して「理解できない」という主観では無くて「理解していない」という意見を言う事はこれからの世の中ある種の「リスク」を伴うという事をそれこそ「理解」してから言うべき事になるのかもしれませんので気を付けたい所だと思います▲目次へ▲■1.本作の批判の検証■批判例9『兄弟だけで虐待に対処する結果が酷い』に回答この世の中にこんな酷い家庭があるのかという感想であればその通りでありこの映画の兄弟の例の様に社会は「誰も助けてくれない」というよりも社会に「余裕がない」現れが この様な家族を孤立させる最大の要因と言えますこの映画の対処の結果が酷いと感じるのであればではどの様な世の中になれば この様な家族が取り残されないのか「SDGs」の取り組みは単なる念仏では無くて一人ひとりの意識の改革の問題でもあるという「社会に余裕が無い」では無く余裕を生み出す為の気持ちの「ゆとり」を持つ事がこの映画の結末を酷いものにはしない今誰にでも出来る唯一の方法だと言えますが、そういう事では無くて・・・単にこの映画の結末が酷いという意見なのであればそれは脚本の問題というよりも鑑賞者の主観の問題なので「全くその通りですね」としか言えません▲目次へ▲■1.本作の批判の検証■批判例10『どこに主軸があるのか分からない』に回答本作は現実世界と仮想世界が舞台で主に仮想世界でのやり取りが現実世界に反映される内容になっているのですが最終的に到達する場面での答えが私達に対する「問いかけ」である為映画全体から明確なものが受け取れ無かった様に捉えられその様な印象を持たれたのかもしれませんこの映画の造りはどちらかと言えば「竜は誰?」に集約されており悪の権化とまで言われ様々な人物が容疑者となって取り沙汰される中驚くべき人物が竜だと分かりその衝撃の真相が明らかになるという「ミステリー」の要素が強い印象がありますその様に捉えれば「何処に主軸があるのか分からない」物語もミステリーならではの 布石 だと捉えれば当然と言えば当然という印象もありますのでその様な評価となるのはミステリー映画的には「実に良いお客様」という事になりますwそういう事では無く・・・主人公すず と その周りの人々の他に仮想空間「U」での体験の他すず達と絡まない 遠く離れた外国の人物達も登場しそれらが有機的に絡んでいる様には見えない所にそう感じるものがあるという事なのであればその様な様々な要素が 同時多発的 に進む事が『主軸』が分からない様に見える要因があると言えますしかしこれは正に手のひらサイズで世界にアクセスしては次の瞬間目の前の仕事に準じて来訪者と語りながら離れた者と連絡を取り時には癒やしの時間を過ごし秒単位で変わる世界の情報を入手してその様な日々の生活を生きる生活にネットが欠かせなくなり日常の行動が複雑化して『主軸』となる生活が『多様化』した「私達の姿そのもの」だと言えます従って本作の『主軸』の分からなさはネット社会となった 社会の多様化した姿 の現れとも言えるのかもしれません▲目次へ▲■1.本作の批判の検証■批判例11『美女と野獣の引用は必要ない』に回答「必要ない」のでは無くそもそも本作は 現代版「美女と野獣」として制作された映画ですそれはインタビューで細田守が言及しておりますがこの意見の主旨はそこでは無く『美女と野獣』の要素が余りにも表面的過ぎて物語のコアとして機能していない故に引用に過ぎないという事を言っているのだと思います確かに本作を鑑賞していると学校での現実社会と「U」での仮想世界とを繋ぐ要素としての「美女と野獣」が機能しておらず表層的というよりも唐突感が著しく全体の物語にコミットしていない印象がありましたが、それは私もそうでしたが、この映画が「ダメ映画」で「ダメ脚本」の「失敗作」に見えるのはこれは鑑賞側がこの映画を「表層的に観ている」現れでありこの映画を観る視点が「一般的な視点」であればある程その様に取れる様に出来ているからだと言えますこれは「映画解説編」でも書きましたがこの映画が「薄っぺら」に見えるのはこの映画が描いているものが多層に渡ったレイヤー構造を持った言わば「玉ねぎの皮」の様に何層にも重なった意味を持ち層の一枚一枚に意味があって本当の意味は奥の芯の中にあって普通の人には分からない様に隠されているという「社会の構図」そのものであり通常私達はその表面にあるもので判断し目に見えるものを「全て」だと捉えがちになる所に理由がある様な印象があります説明しますと「人」は他人の心の中は見えないので目に見えるもので評価して捉えるしかありません又、その様に評価された「その人」も本当の自分の姿はそうでは無いと感じているものですつまり他人が下す人への「評価」とその人の「真の姿」の間には「いくつもの隔たり」がある訳ですそれは複雑な人物であればある程幾つもの「階層」の様に重なった「様々な面」を持ちその様な人物の「真の姿」に辿り着くにはその人物を「深く掘り下げる」必要がありますしそれが「人」だと言えます同様に社会で起こっている出来事の「真相」や「真実」や「真意」なども多くの場合 表層的な事しか捉える事は出来ませんそれを知るには「情報」を集めて「真相」に迫るか「裏事情」を知って「真実」を知るか当事者に真相を語ってもらい「真意」を求めるか物事が複雑になればなるほど様々な実情が階層の様に重なって「本当の事」に辿り着くには物事を深く掘り下げなければなりませんしそれが「社会」だと言えますある出来事に対して本当は何が起こっていたのかという様な後に書籍化された本などで真相を知った時の真実だけが持つ深みと重さに驚天動地な程の衝撃を受ける事は多々ありますがその様に「自分が知っていたのは真実の中のほんの上っ面だけだった」という様な事を知るのが「体験」でありその様な人々の体験が経験度として仕分けられて階層化したものが「社会の構図」だと言えますその様な見えるものの下にあるもっと奥にある真相に迫ろうとするにはそれが「人」だろうと「社会」だろうと「映画」だろうとそれを紐解く「鍵」に気付く必要があるという事になります本作の「鍵」は【PART1映画解説編】で解説しておりますので参照して頂くとして・・・その様な「鍵」の存在が認められる場合は映画が「階層化」している「証」となる訳ですそして人は心の中の「本当の自分の姿」に対して社会的な立場としての社会人を演じる「社会の顔」を持って社会を生きておりある種「仮面」を付けて社会を生きているという事になります本作で描かれる「美女」や「野獣」は「仮面」を付けた姿でありこの場合の「仮面」とはネットの「匿名性」だと捉える事が出来ますつまり本作「竜とそばかすの姫」の「美女と野獣」の「仮面」はSNS全盛のネット社会のユーザーである私達自身の姿を差していると言えますつまり私たちはこの「匿名性」を利用して「美女」にも「野獣」にもなっているのだと映画はその様に問いかけているのでは無いかと思える訳です原作での「野獣」は「いわれのない罪」を「背負う者」として描かれ「美女」は いわれのない罪を「背負う者」を「理解する者」として描き「いわれのない罪」は「第三者」の「思い込みをする者」によるものして描かれ物語に投影されていました本作での「美女と野獣」の描かれ方は現代の複雑な社会の事情が反映された内容になっており現代に於ける「いわれのない罪」とは事情を知る由もない第三者達による「デマや誹謗中傷」でありそのデマや誹謗中傷を生み出す要因となるのが「匿名性」という「仮面」であるとして物語に投影されているのでこれは物語を「引用」しているのでは無くこれが本作が『現代版 美女と野獣』として描かれている所以だと言えます加えて本作が描く「野獣」とは「攻撃性」を指してはいても「匿名性」に潜む「攻撃性」には「悪意」が潜むものがあり先程「階層」の所でも語った「表面的」な「仮面」の下の「真の姿」は「異なる姿」があり同じ「攻撃性」でも全く「性質」が異なる事が分かりますそれは「美女」も同様に「悪意」が潜む「攻撃性」を持つものすらある事を意味しますそしてそれらの「攻撃性」を生んでいるのは他ならないこの「ストレス社会」であると捉えその様な複雑なネット社会を通した現代社会の事情を「美女と野獣」に投影して描いた本作の「野獣」も「美女」も「仮面」であるならば表層的な捉え方では本当の事は分からないという事になりますそうして捉えてみますと賛否両論となった 本作のあのダンスの場面の真意はダンスが成り立つにはお互いを尊重する必要があるという「大前提」を考慮すると主人公の二人がどの様に人として繋がっているのか深く掘り下げるまでも無く分かる 様に見せたという映画ならではの「表現」としての狙いとそれ自体が映画を紐解く「鍵」としての役割を持っていた事が見えてきます故に本作は「階層化」の存在と「美女と野獣」の必然性があると言う事になる訳ですつまり映画が語る「美女と野獣」の「仮面」である「匿名性」に潜む「悪意」とはネットユーザーである私達一人ひとりに潜んでいるかもしれない事として自分が相手に見えない故に自分の言動によって相手がどうなったのかを知る事も無い「無知」が生み出すものだと語っているのであり「匿名」とは個人情報保護の為の「盾」であると同時に「匿名」故に見えない相手を気にせず攻撃できる「矛」でもあると語っていると言えます本作の「野獣」こと「竜」とは家庭の問題に苦しむ少年を救う事が出来ない社会を憎悪する「負の群像」であり本作が語るそれらの問いかけは本作が『美女と野獣』だと気付いた時に初めて見える事なので本作の『美女と野獣』が引用程度に感じるのもそれによって批判されるのも「匿名性」に準ずる「社会の構造」故に見えないのだと「映画」そのもので自虐的に語っているのではないかと思う訳です▲目次へ▲■1.本作の批判の検証■批判例12『ベルに戻る展開は筋が通らない』に回答本作が「臆病だった少女が偽りの仮面を脱いで素顔の自分を受け入れる」という内容であるならばジャスティンの緑の石の光を自ら浴びてベル の仮面を外しアンベイルした「すず」が普通の女子高校生である事を全世界に晒した時にすずのままで歌った唄に世界が感動して一つになりそれをきっかけに「U」で野獣の竜となり社会から孤立してきた恵が現実社会で家庭の事情と向き合い問題と闘う事を決意し「U」で歌姫のベルとなり社会と途絶してきたすずが実社会でも現実と向き合い閉ざしてきた心を開きありのままの自分を受け入れすれ違ってきた父親とも打ち解けしのぶくんとの恋も実りもう「ベル」の仮面を付ける事無くありのままの自分のままでこれまでよりももっと積極的に現実世界に関わっていくという展開を期待していたら謎のクジラの登場ですずのベイル(Veil 覆い)が復活して又ベルに戻って唄い始める展開にこれでは「仮面では無く素顔を選んだ」という本作が描いてきた事に対しての 筋が通らないという意見での批判だと思います本作がその様な筋立てで物語が進んでいるのもひとえに「美女と野獣」の現代版として描かれている為と言えますがそれだけに「美女と野獣」の結末を投影させたものであるべきという意見が出るのも至極当然だと言えますつまりはそういう作品では無かった訳です簡単に言えばあの場面の「ベル」とは「アーティストとしてのすず」の姿であって「すず」そのものでは無いので歌っている時は「ベル」になったのは「正解」だと言えますつまりこれまで現実逃避として利用してきた「ベル」という存在から「すず」を切り離した姿が今の「ベル」でありあくまで「U」に居る時に「ベル」になる事にしたという「すず」の中で折り合いをつけた表れがこの場面となったという事だと言えますもう少し深い意味としては・・・本作は今後、特にネット社会に関わって来る「メタバース」を描いた作品でしたがSNS全盛以前の社会では「個人情報保護」の必要性すら感じられなかった事がスマホの普及と共に不特定多数がユーザーとなるネットが社会の第二のインフラと認められる様になると「Twitter」や「Instagram」などで通常私達が「匿名」という「仮面」を付けてアクセスするのは今ではネットにおける社会行為となりそれと共に「個人情報保護」の必要性が重要視される様になった様に「メタバース」がネット社会に導入されて以降の社会は現在の価値観では必要性すら感じられない新たな価値観が付随される事は想像に難しく無く故に本作の主人公がアンベイルして「仮面」を取る行為は現在の価値観を投影したネットの「匿名性」を捨てる行為とは異なる主人公すずの個人的思惑で行った意思表示に他なりませんこの仮面に当たる匿名性とは先程も語った様に盾であり矛でもあります同時に私たちは現実社会でもある意味「社会人」を演じている様にこの仮面とはネット社会でも「キャラクター」を演じる為のネット社会に於ける必要な「人格」でもありますスマホが普及する前にネット以前の社会なら本当の自分に戻る結末は美しい終わり方だったのかもしれませんしかし現代の現実社会に社会人としての「人格」がある様にこれからの未来はネット社会にもネット社会人たる「人格」が不可欠だという事をすずが再びベルの仮面を付けネットにおける「人格」を受け入れる事で映画が示唆したとも取れるものがありますその理由として人は「ありのままの自分」を見せたくても様々な障害があって見せられないというある意味現在の社会に「囚われた状態」にあると言えますこの場合の「ありのままの自分を見せる」というのは映画の中でジャスティンがする様な強制的にアンベイルして「個人情報を晒す」という事では無く「匿名」という「仮面」を付ける事で余計な「個人情報」を晒さずに「ありのままの自分」を見せられる「自由」を得るという「囚われの状況からの開放」がそれに当たりそれが本作の真のテーマだと言えるからです元々「ベルじゃなくすずのままの姿で呼びかける」と言い出したのは しのぶくん でしたがこの一見突飛に思える発想は北九州に住む一般の方がSNSで受けたデマを書き込まれたという実際の事件で「アカウントを実名にすれば不要な誹謗中傷や嫌がらせは無くなる」という被害者の実体験を通した着想に付いての言及にもある通り「匿名」とはある種の「責任感の放棄」でありこれが「不要な発言」の温床となっている事からも責任が伴う意見を語るには「匿名」という仮面を外して自分がどれだけ本気なのかを意思表示するのはネットも現実社会も同じであると語っているのだと言えますしこれが今後の「メタバース」社会に於いてのスタンダードな捉え方となる可能性を示唆したとも考えられますこの場面のしのぶくんの意見が突飛に感じるのは私達がまだ「メタバース」社会以前のネット社会しか知らないからという事なのかもしれませんSNSやネットを仕事や学校、交友関係で日常的に利用している現在、不要なデマや誹謗中傷の被害を受ける可能性は常にあると言えます故に ある種の「匿名」という保護措置は必要に迫られるものでありそれだけに「匿名性」が持つ仮面の「盾と矛」という二面性の意味と「自由を得る」というありのままの自分を見せる方法としての意味をもっと深く考えなければならない次の「フェーズ」が来ている事を映画が提示しているとも取れるものがありますかつて2016年の都知事選に出馬した鳥越周太郎氏は「ペンの力」を信じるリベラル派としては最右翼にあたるジャーナリストの立場で誰も取り残さない都政を牽引する事を力説して来ましたが「ネットはしょせん闇社会」発言がきっかけで「ネット社会」の理解の無さを有権者の知る所となってSNSを味方に付けた小池候補に全ての風向きが代わっての落選だと言われましたいち早くネットのホームページに取り組んだ事のある鳥越氏程の人物でもこの様な思い違いをする程今や私達の社会には無くてはならない存在のネットを当時の社会ではまだ予想する事が出来なかった良く分かる例だと言えますこの場合の「理解の無さ」とはその様な新しい物事を「理解」出来ない層が新しい物事を受け入れる事が出来ない余り「存在しない」事にしてしまおうとして端的に「切り捨て」様としてしまう働きでありその様な層が世の中がネット社会という新たな「フェーズ」に入った事を理解できずにそれを否定する事で世の中から淘汰される行為を無意識に取っているという意識も無い故の一つの現われだと言えます「メタバース」の場合も同様で今後「メタバース」がネット社会でどの様な位置を占めるのか想像することが出来ない事が背景となり本作の「U」空間の描き方に対して現在の価値観 を投影してすずがベルに戻る事を否定 してしまう事は「メタバース」は元よりこれからのネット社会そのものを否定する事に繋がり鳥越周太郎の「闇社会」発言同様の失言となる可能性があるのか・・・までは分かりませんが今後「メタバース」がネット社会にどう関わって行く事になるのか注目する所ではあります▲目次へ▲■1.本作の批判の検証■批判例13『なぜログアウトしない?』に回答これもこの映画に対する圧倒的多数な意見の一つでジャスティンに捕まりそうになったのなら直ぐ様ログアウトすれば逃げられるだろうという演出に対する素直な苦言という素朴な疑問だと思われますしかしこれは「やってはダメ」な理由があるから主人公はログアウトしないわけですこれは先程語った「ネット社会に於ける次のフェーズ」まで思考を巡らせなくても普通に考えれば駄目な理由が自然と出て来る事なので理由が分からないという方もどういう事なのか少し考えてみながら読んでみて下さいかつてSNSで誹謗中傷を受けた事を警察に訴えた時に「SNSをやらなければ良い」と答えた日本の警視庁はネット社会が現在の様なものになる事が微塵も想像できなかったと言えますが・・・w現在の「ネット社会」が第二のインフラと呼ばれる様にこの映画の世界は「メタバース」が第二の故郷と呼ばれる世界を想定したネット社会の次のフェーズを描いたものなので現在はSNSやメールが「証明」として使用されSNSの投稿ではその発言によって社会的責任が問われ「逮捕」すらある世の中になって来た事で現実社会もネット社会も「生きる世界」となった様に映画で描かれる世界で生きる人々にとっては「現実社会」も「メタバース」もどちらも「生きる世界」である事になります「世界」であれば現実世界同様に「社会」であり「社会」であれば「警察機構」も存在する事になります映画の中では「U」の創造主の「Voices」は「公平」を理念に「警察機構」は作らなかったとなっているので「ネット」の出現を想定しなかった現在の「資本主義」が限界に達したと呼ばれる現在「平等」よりも「公平」な社会を目指している所にこの様な作品が新たな社会理念を提示したと感じるものがありますがその様な「新しい社会」の枠組みを想定したメタバース空間である事を念頭に置きながら本作を見てみると映画の中でのジャスティン達は話が進むに従って 自分達の理想を人に押し付けているだけの単なる「徒党」である事が判明しますがそれは私達が映画として内容全体を鑑賞して把握しているから分かっているだけの事であり少なくとも問題の場面の時点ですずがジャスティン達の高圧的なやり方に「疑問」は持っていたとしても「単なる徒党」とまではまだ考えが及んで居ないと捉える事が出来ますであるならば、ジャスティン達は自警団ではあってもある種選ばれた立場の、欧米で言う所の「保安官」であり事実上の「警察」である事をすずは 認めていた事になります従って少なくともその様な「警察」に追われて「逮捕」を逃れる為にログアウトして「逃走」する様な真似はスピード違反で警官に捕まったら逃走すれば良いと言っている様なものでまともな人物であれば普通やりませんという理由で「ログアウト」しなかった訳です日本にはない「保安官」制度に付いてはこの後説明するとして・・・仮にジャスティン達を認めないという考えで「ならず者」となる事を覚悟して「ログアウト」したとしてジャスティンに捕らわれたベルが親友の機転で逃げた時にスパンコールの様なものを落としそれがいわゆる「クッキー」か「IPアドレス」的な痕跡として残る描写がある事からも「ログアウト」するにも正式な手順で行わないと所構わず行えば残留物が残りそこから痕跡を辿られてしまう様な「不用意に行動できない」ものがあると捉える事が出来どちらにしても「ログアウト」すれば済む様な問題ではないという事が言えます一方で「それならそうとメタバース空間はやおら「ログアウト」すれば良いという場所ではないという事をもっと明確に描いておくべきだ」という意見もあると思いますがこれは映画の解説でいつも言っている事ですが物事を明確にする「演出」は「手法」の一つではありますが明確に描かないのも「演出」だと言えますのでそれはただ観客の理解に繋がらない「リスク」が伴う事であるか無いかという「選択」に於ける「結果論」に過ぎません90年代に一世を風靡したアクション映画の金字塔の第二作『ダイ・ハード2』での空港内のやり取りの中で当時世界のオフィスに普及していた「FAX」を使って指紋を参照し便利な時代になった事を強調したり携帯電話が一般的ではなく「ポケベル」が全盛だった頃ポケベルが重要な役割を果たしたりとハイブリッドな時代になった事を明確にする為これらの「アイテム」を積極的に利用した演出が取られましたがそもそも「ポケベル」をリアルタイムに知らない世代はともかくとして今や時代遅れとなったこれらのアイテムはむしろ懐かしさすら感じるものがあり映画が提示する「ハイブリッドな時代」を強調するには今では過不足であると言わざる負えないのでむしろ明確な強調は無しにしてこれらの機器を説明無しに「普通」に使えば今見たとしても「そういうもの」に映るので数十年後に苦笑混じりの鑑賞になる事は避けられたと思われます「明確に描く事」とはそれと同じで今では必要な事が今後過不足となり助長的にすら感じる事に繋がる可能性も出てくるそういう「リスク」もある訳です本作の場合はメタバース空間は既に社会に浸透して既成の事実として捉えて描いている所から今後訪れると思われる「メタバース社会」が浸透した時の余計な説明を省いた「先取り」な演出だったと取ればその様な説明に割く時間を割愛したリスクを負った演出ではあったというのが正しい捉え方なのではと言えます▲目次へ▲■1.本作の批判の検証■批判例14『納得できない展開に呆れた』に回答これはこの映画を批判する方の大半が持つ意見であり逆に捉えれば、展開に納得できれば再評価する様にも捉えられる意見でもありますこういう発言をされる方の多くは映画の鑑賞の仕方が極めて「受け身」であり映画で描かれる事は映像と台詞で完結されるものだと捉えて物語に集中して鑑賞し物事の「裏側」まで余り気持ちを馳せる事はしない何事にも「フェア」な姿勢を持ったタイプの方がこの様な意見を持たれる傾向がある様な印象がありますこの様な方々も 様々な文献や映画を解説したレビューを読むことで評価も変わるかもしれませんので是非 ご一読される事をオススメ致しますw▲目次へ▲■6.竜はなぜ「U」全体から迫害を受けるのか前回の記事に付いてこの様な質問が寄せられたので解説して行きたいと思います有り体に言えば父親からのDVを訴えても何も出来ない社会とトレンドに群がり人の不幸をネタにして拡散するネット社会に対しての巨大に膨れ上がった憎悪の全てを「U」にぶつけて来て跳ね返ってきた「結果」なのですがこの質問には 一つは「多様性」に対しての描き方に於ける疑問という全ての人が一つの事に対して同じ考えを持ち同じ意見で同じ行動を取り同じ様に物事を捉えている描写に対して違和感を持ったという道理からの疑問であることもう一つは「U」全体を巻き込んでこれ程までの巨大な迫害を受ける「理由」とは何かという理解できない違和感に対する素朴な疑問であることこの2つの答えるべき疑問がありますこれには「多様性」に付いてはコミュニティーで生まれる「正義」の問題である事と「理由」に付いてはネット社会でコロナ禍となった近年の「清潔化」の問題そしてそれ以外の 通常全く認知出来ない「無意識」の問題というそれぞれ「時流」の問題が潜んだ複雑な理由があると言えますでは順番に説明していきます▲目次へ▲■6. 竜はなぜ「U」全体から迫害を受けるのか■■a.拡散する流言を真に受ける社会と偏った正義感「欧米は自警が基本」という「世界標準」と「多様性」に於ける「正義」の是非まず「多様性」に於いては そもそも人とは異なる考えを持った異なる意見で異なる捉え方で異なる立場を取る様々な対立した中で調和を生み出しコミュニティを形成する社会性のある生き物だと定義すると少なくともこの映画の世界観はアニオタ御用達萌的マニアック作品でもクレしん的突飛で極端な作風の冒険親子映画でも炭治郎的怪奇幻想異能残酷鬼退治国民的作品でも無くアニメでありながら現実社会を彷彿とさせるリアル志向な作風で「U」という場所が世界中の人種が集う社会空間を謳っているのでそれに則れば本作は最低限反感を持つ立場に対して 相反する 養護する立場の者が居る対立する関係 を描く必要があると捉える事が出来る訳なので全員が同じ様になって「竜」を一斉に憎悪する描写はコミュニティ社会という見地から捉えても現実性に欠けていておかしいとなる訳ですそこでこの様な描写を「あるテーマを描く映画」という性質に於ける意図する結末に向けて誘導するベクトルと捉えてみますとこの極端に感じる描写は製作者が「あること」を描く示威的な演出の一環という今現実社会で起こっている社会問題の何かをこの様な形に変えて描いているのではないかという可能性を考える事が出来ます例えば映画の中ですずがしのぶくんに手を握られた事で学校のSNSが炎上した出来事がありましたがこれはネット特有の「拡散」が生む「流言」をユーザーが真に受ける様を描いていましたこれは何を意味しているかと言いますとSNS上で起こる炎上の仕組み と「U」で竜が憎悪を買う仕組み を重ねてみると2つの出来事は本質は全く同じだと分かる事から「しのぶくん炎上事件」とはその為の「布石」として描かれた場面だった事が分かります「しのぶくん炎上事件」では幼なじみで全校女子憧れの的の「しのぶくん」と手を繋いだとしてすずが全校女子の怒りを買う所が描かれていますしかし正確には すず は しのぶくん に手を握られたに過ぎないのでこの情報は間違っておりすず にしてみれば完全な「濡れ衣」な訳ですしかし女子達はすずがしのぶくんに手を握られたという事実のみロックオンして怒りに任せ勝手に自分達の思惑を上乗せし無責任に歪んだ情報を拡散しますこの現象は映画の中でも「こびてる子もこびられなくて苛ついていた子も我慢して牽制していたのが一気に火を吹いた」と言及している通り色々な考えや見解で物事を捉えて来た集団がある「一つの問題」で「軋轢」を生んだ時に「軋轢」という同列の事象で一つにまとまり一斉に「ガス抜き」先を求めるという問題を起こした、ただそれだけの理由で問題を起こした者が「生贄」とされる様子を捉えすでに問題は問題では無くなり個々の「ストレス解消」の為に「問題が利用される」様を描いたものと言えます取り巻き組は誰も出し抜かない様に皆で調停を結びながら結果しのぶくんと一定の距離を取らなければならない事への不満があり取り巻きに入れないその他の層はあからさまに媚びて近づこうとする取り巻きへの嫉妬がありその様な様々な思惑で溜まりに溜まった女子達のストレスがすずの一件で頂点に達して誰かの「調子乗ってる女に認定」という書き込みがトレンド一位になるのをきっかけにこれまで溜まりに溜まったのストレスのはけ口をすずに据えてすずを一斉に攻撃してきたというのがこの場面の真意でありこれが「U」で竜が迫害を受ける要因と同様のSNSでの「憎悪」を纏めて買う仕組みという事になる訳ですすずがしのぶくんの件で炎上したのも竜が「U」のユーザー全てに迫害を受けるのもユーザー達のストレスのはけ口を求める行為という事は分かりましたがここで真の問題となるのは行為そのものにあるのでは無くそれはユーザーにしてみても分かっていても止められないだから「止まらなくても良い方法」を探そうとするその心理にあると言えます炎上を起こすヒステリックな行為は「感情」から湧き出た事が要因となっているので人間の心の動きから「罪の意識」が働く訳です従ってこの様なケースでは「罪の意識」を感じない様に「ストレス」の為に「はけ口」とされる「生贄」は「正義」の為に「退治」される「社会悪」という風に仕立て上げられてこれは「正義感」からの「悪」を排除する行為だから何の問題も無いのだと思い込 む事で何のためらいも無く攻撃出来る様になるというある種の「すり替え」が集団で行なわれる社会的心理に真の問題があると言えますこれは近年、問題を起こしたタレントなどに対して世間が一丸となって問題の是非 罪の軽重は無視してまるで社会悪でも退治するかの様に一斉に非難を浴びせ叩こうとする寛容 が無くなった現在の社会の時流を警鐘 を込めて表現したものでもあると言えます竜が ユーザーに「悪」扱いされる理由はベルのコンサートに乱入する初登場場面でも分かる通り武闘会でのルールやマナーを無視した蛮行がユーザーからの非難を浴びた事に端を発したものだと言えますがその行為が「U」全体へSNS的に拡散され知れ渡る中で「許せない行為をするユーザー」としてハッシュタグが付きトレンドのトップに表示されるとその流れに乗る様に拡散する行為そのものが社会悪を許さない正義の行いの様な様相となりやがてその行為に参加する事自体が意味を持つ様になってそれが「祭り」の様な関心事へと変貌するという様に気軽に呟けるSNSの特性からまるでスナック感覚で投稿しながら非難を浴びせる事が「祭り」に参加する状態 となる所に一つの要因があると言えますそのトレンドに乗る様に如何わしいサイトへ誘導させる「釣り」目的の無数の解説と称する偽情報サイトが湧いて出てその様にネットが騒然となって行くとそうなるのも全て「悪」のせいだとその社会的責任は全て「悪」にあるとそんな風に世間は捉える様になるという「トレンドを真に受ける」ネット上の性質に理由があると言えますそうして情報に疑問を持つ層が出てもトレンドを真に受ける層が強大な数になれば「同調圧力」が生じて周り全てが同じ意見を持つ様になりベルの様な新参者にも「竜=悪人」という形で知る所になる訳です▲目次へ▲■6. 竜はなぜ「U」全体から迫害を受けるのか■■b. 気軽に発散できるネットと社会の偏った正義感「竜が蛮行を行う仕組みとしての社会」なぜ竜こと恵が「U」でその様な蛮行をするのかに付いては家庭内DVが原因のストレスによる憂さ晴らしが過ぎた事が発端と言えますがこちらもネット特有の「気軽さ」によって「格闘技ゲーム」のヘビーユーザーとなった所に理由があると言えます従って竜のホストである恵にとってみれば「U」とは単に格闘技ゲームをする「ネトゲの場」に過ぎないので周りから蛮行と謗られる行為も言わば「氏ね氏ねっつ」と言いながらストレスを発散するネットゲームユーザーにありがちな「普通の行為」に過ぎない事が分かります従って「マナー違反」に当たる行為はあったとしても「U」全体の憎悪の対象となり挙げ句自警団に追い立てられるのは竜にしてみればなぜそこまでの目に遭うのか訳の分からない話でありもはや追ってくる者を追い払う様に倒すしか無くなったというのが事の経緯だと言えます加えて竜は束になって襲いかかる自警団を纏めて倒せる程の「U」の中でも最強の「怪物」だった事が事情を知らないユーザー達に正義の自警団を攻撃する「悪」として印象付け更なる憎しみを買う結果に繋がったと言えます実は「問題」はこれでは無くここで言う「正義」が「法律」で定められた絶対的で社会的根拠を持つものではなく個々に持つ相対的で多様な価値観に基づくものでそれこそ人によって言う事や考える事がまるで違う価値観の中で「正義」と一括りにする事の「危うさ」に加えて「ジャスティン」を名乗る自警団が巨大企業の後ろ盾があるというただそれだけの有利さで強制的にユーザーを晒す事が出来る「アンベイル」出来るその様に処分を下せる特権を持ってしまう事で民主的に選ばれた訳でも法的根拠を持つ「警察組織」でも何でも無い匿名の何処の誰とも知れない 経歴も知れない 徒党にすぎない存在が事実上の警察になっている様な場であるのがネットであるという事の危険性をネットユーザー達はそれを「リスク」として本当に理解できているのかどうかというのが「本当の問題」でこの危うい価値観で自分勝手に「悪」を憎んだりその資格が無い存在が「悪」に罰を与える権限を持つ事こそが「虐待」であると 製作者は語っている訳ですそれは逆に言えば先程の「すず炎上事件」も事の本質は同じである事からこの映画で竜が虐げられる場面があるのは竜が虐げられる事も、SNSで炎上する事も、本質は「虐待」であるとかなり辛辣な事を描いていたという事が分かります▲目次へ▲■6. 竜はなぜ「U」全体から迫害を受けるのか■■c. 自警が主体の欧米の保安官ちなみに、なぜ映画の様な自警集団が認められるのかという背景ですがまず「U」が全世界の人々が集う空間という性質から欧米の価値観が強い空間である所に理由があると言えます米国の警察機構は郡警察、市警察、州警察を始め非常に数が多く日本の様に一本化しておらず主に郡警察は「保安官」と呼ばれる「自警」でまかなっているという歴史があります「自警」と言っても誰でも出来る訳ではなく「保安官」になる為には立候補をし選挙によって選ばれなければならないので市民に認められたという点では警察官というよりも政治家に近い立場と言えます全米で事件があった時に保安官が市民の前に立って説明したりするのも市民代表という立場だからであり保安官出身者が政治家になるのもそういう理由があるからですつまり欧米人にしてみれば自分自身で志願してなる 警察官 は誰にも選ばれていない人間が勝手になっている存在であり立候補して市民に選ばれる保安官の方が信頼度に於いては警察官よりも高い感覚があると言えます「U」での自警団は自ら宣言してなったという意味では巨大企業がスポンサーに付いているという「箔が付いた」状態である事で社会的に認められたも同様という事で警察官の拳銃に当たる「アンベイル」の「緑の石」を持つ資格を得たと言えますが市民代表で立候補して市民の投票による当選で選ばれた訳では無いという意味では誰にも選ばれていない保安官ですらない存在であり志願してなってはいても警察官の様な法的根拠も持たない本来人を裁く資格が無い只の徒党に過ぎない存在と言えますしかし巨大企業がスポンサーに付く認知度の高さがあり「U」で事実上ユーザーを裁く権利を持つ「アンベイル」出来る権限を持っている事から「金を持っている人間は正しい」という欧米の「資本主義的」価値観に則れば市民に「警察機構」として認知される「根拠」があると言える訳ですこの様な欧米の価値観とは大きく異なる日本人の感覚に従えば本来人を裁く資格が無い存在が「悪」に罰を与える権限を持っているのがこの自警団の実態だと言えますこの様な集団に対して過ちを裁く仕組みが無いとやがて、自分の考えは正しい 自分の行為は正しいだから自分自身が正義であるという思考である種の「特権」意識が生じて何をしても許されると思い込む様になり増長して自分達の主張を周りに力ずくで押し付ける様になりこの様な行動原理は「テロリスト」と同じだと言えますベルが竜の城から出てきた時 自警団に呼び止められる場面でも確固とした証拠に基づく疑惑では無くただ何となく怪しいという理由だけでベルを脅迫して力任せに尋問をする様な「悪人」同様の行動を取っている様に見えたのはその為ですその後この自警団は自ら自分の姿を晒したすずの魂を込めた唄に「U」のユーザー達は合唱する事で同調の意思を伝える中で「アンベイル」は信念を持つ者には効果がない事とその様なものを「正義」と称してきた自警団の「正義」と「権力」を履き違えた 思い上がった本性を晒しユーザーの素顔を晒す権限を持った自警団が素顔を晒した者によって自分達の本性が晒されるという皮肉な結果を生んだ事で民意を失い自警団のスポンサーだった企業も全て撤退し事実上の「解雇」を宣言されて「解散」する末路をたどる訳ですそうして改めて捉えてみますと一見ニューヨークのタイムズスクエアーの様な華やかさがある「U」のメインストリートは実際には腕力と銃の腕が立つというだけの保安官が統治して法も秩序も無いならず者だらけの街の酒場で歌う歌姫と乱暴者と謗られて嫌われている流れ者が集う200年も昔の西部劇の舞台と何も変わらない場所だという事が分かります■ネットが誕生して約20年余り今や社会のインフラとして「ネット社会」と言われるまでに認識されたインターネットですが法整備が未だ議論の段階で行き届かない基本「自警」の精神で利用しなければならないその本質はまだまだ「西部劇」の舞台と変わらないならず者だらけの未開拓空間というのが本当の所なのだと言う事を製作者は描いており私たちはその様なネットの本質を理解した上で正しいあり方を考えながら安全に利用して行くべきだと言えます▲目次へ▲■6. 竜はなぜ「U」全体から迫害を受けるのか■■d. 見た目を重視する清潔化(ルッキズム)の浸透「コロナ禍で加速する社会の清潔化」竜が迫害を受けるもう一つの理由に見た目で判断する社会 「ルッキズム」の浸透が根底にあると言えますこれはコロナ禍となって極まって来た事なのですが元々「ルッキズム」というのは見た目で判断する差別や外見で価値を付ける偏見を差した言葉で近年コンプライアンスの意識が高まりこれまでバラエティー番組で見られてきた「不細工いじり」の様な見た目が悪かったり、立場が弱かったりするタレントをイジる事は差別や偏見に当たるとしていけない事だからやめましょうという考えに社会が変わって行く中で無くなりつつある事である一方ドラマの主要キャストに加えて悪人までもイケメン美女で占められたりアーティストと呼ばれる人もイケメン美女ばかりが目立つ様になると言った私はコレを「日本のエンタメの韓流化」と呼んでいるのですがw近年の日本の映画、ドラマ、芸能界には見た目主体の傾向が強まってきている印象があって最近、若者が出てる日本のドラマがまるで韓流ドラマでも観ている様な錯覚をする事があるのがその理由なのですがこれは「ルッキズム」が浸透した末に倒置してその裏返しの「美しさは良い事」と捉える社会が浸透して来ている一つの現われではないかと言われていますコロナ禍以降の社会で清潔な環境作りをするのが当たり前の社会となり食の場合も「清潔」を求める傾向から「清潔で食べ物も美味しい」という店の評価が高まり「店内が汚くてもウマい店」がだんだんと支持されなくなったり寿司やおにぎりなどを手で握る行為にも徐々に違和感を感じる様になる感覚がじわじわと浸透してきている事もあり「清潔なものは美味しい、美味しいものは正しい、だから美しいものは正しい」という捉え方を持つ様になって来ていると言われこれらの捉え方は同時にその裏返しとなる「負」の感覚にも影響し「醜いものは不味い、醜いものは間違っている、だから醜いものは悪である」という「ルッキズム」がコロナ禍以降の社会に浸透して来ているのではないかという訳です映画の中では竜の初登場場面で 竜の事を説明する台詞に「Uに住む醜いモンスター型Asだよ」というのがあったり他でも竜の城に来たベルに対して竜が「醜さを笑いに来たか」と言い放ったりと随所に「醜い」を強調する演出が見られるのでこれは製作者が近年の「ルッキズム」の浸透を意識している事の現れだと捉える事が出来ます「U」で「As」というアバターを作る仕組みが自分の生体情報とパーソナルな面が投影される仕様になっている事で「醜い」アバターを作る者は「心が醜い悪人」だと「U」のユーザー達は捉えているという事になりますつまり竜が怪物で「醜い」という事そのものが「U」のユーザー達に「悪」として忌み嫌われる理由なのであり先程説明したSNSでの炎上に於ける「虐待」の図式が加わりストレス社会を逃れて「U」に集うユーザー達がストレス解消になる良い「生贄」を求めて又は 自分が感じる「正義感」に過敏に反応する者達が或いは その様な時流に追随する性質の集団が更には 事情を知らずに額面通りに捉える多くの人々が「悪」を排除する事は「正義」の行いであり「正しい」事であると捉えて「罪悪感」というリミッターを外してスナック感覚で「批判」を浴びせて速攻で「憎悪」する集団ヒステリー状態となる事で社会悪を許さない正義の行い の様相となりやがてその行いそのものに参加する事自体が意味を持つ様になりそれが「U」全体に飛び火して起こった「炎上」現象が「U」全体から竜が「迫害」を受ける「要因」だと言えますつまり今回の質問にあった「なぜ竜はUであそこまで迫害されるのか」が分かりにくいのは「ダメ映画」だからと思っていましたが、これは完全に私の思い違いで・・・wSNS炎上の「虐待」の図式と「醜い」アバターを作る者は「心が醜い悪人」だと認識される「ルッキズム」による偏見が本当の理由だと言う事を普通に観ているだけでは鑑賞者に理由が分からない様に製作者が意図的に誘導して真意から逸らせていると思われそれでいて「醜い」という「ワード」を随所に「鍵」として潜ませて「意図」する事の存在の痕跡を残す布石を惜しまないその様な「分かりにくい」映画を作る行為を「分かりやすい」映画を「良い」と評価する裏返しとして本作を「悪い」「駄目」「失敗作」だから「悪」であると判断する私を含めた鑑賞者が「ルッキズム」を体現する為のものだという事なのかもしれませんこの場合「体現」は良いとしてその事を「自覚」出来なければ意味が無い様に思うかも知れません・・・が往々にしてSNSで炎上する様な忌み嫌われている人物が居たとしても書かれている様な酷い人物なのかどうかネットや文献以外で確認する方法は接点のある人物以外 不可能なので本当の素顔や真実は「分からない」のと同じで「人は、真実は、見た目では分からないもの」だと言えますそれを「体現」する為に「鍵」となる布石を全体に散りばめて「答」は敢えて分からない様にすると多くの場合「悪い」作りの映画という評価が下ったとしても「感動」という要素が鑑賞者に残れば「納得できない」箇所が「フック」となりモヤモヤした様な形で「記憶の印象」として頭に残りますすると後日「フック」となった「記憶の印象」と合致する様な事を何気ない日常の中で体験する事が合った時にそれがある種の「既視感」を覚える事で新たな形で記憶に定着してそれまで無意識に行ってきた行動に「問題意識」を抱くきっかけとなる・・・かもしれない可能性を生みたいというのが「答」を分からなくする理由の「答え」になります製作者がなぜその様な造りで映画を作ったのかという理由はSNSのハッシュタグでトレンドに上がった事が真実だと思い込みをするのが「偏見」の始まりでありその「偏見」から生まれた偏った「正義」で批判をして社会悪を裁いた気になる事は「虐待」となる恐れがあるという事を「ダメ映画」「失敗作」と評しながらそれを映画の中で「体感」をしているだけの内ならまだ「間に合う」というネット社会への「警鐘」としようとした意図からだと思うのでした▲目次へ▲■6. 竜はなぜ「U」全体から迫害を受けるのか■■e. 竜への迫害は竜自身が原因恐らく細田守もこの事を念頭に置いて作品を作っていると思われ実はこれが竜が「U」で迫害される「本当の理由」だという「悲しい理由」の原因がありました恵は虐待のストレスを「U」の中で「竜」となって格闘技プログラムの中で発散していましたそれは言ってみれば「暴力」に対して「暴力」を振るう事で発散して来た事になりますこの様な行為を行う衝動の「核」となるものは親から日常的に受けてきた「虐待」が影を落としていると言えます幼少から親から虐待を受けて育った子供が親との関係の中で「癒やしや助けを求めれば求めるほど拒絶され暴力を加えられる」という認識が子供の中に作られたとしますその様に認知された「認識」の事を臨床心理学では「内的ワーキングモデル」と言います子供は、自分の「愛着人物」となる親からいかに受容されているか、いかに助けを与えられるに足る人物として判断されているかが「ワーキングモデル」を構築する上の「中心事項」となる事から「国立社会保障人口問題研究所」がまとめた「児童虐待における世代間連鎖の問題と援助的介入の方略」という報告書によりますと子供にDVを働く様な社会的行動に明らかな問題のある人物には我々社会人は「行動が異常」であると認識する事が出来ますがその様な認識をまだ持てない成長途上の子供が親のDVに晒され先程の「ワーキングモデル」で親子の関係を認識した時に「どうして親は自分を憎むのか」分からずに「理解できない親の行動」を理解しようとして「助けを求めても応じられる事は無く、無力で価値のない、愛されるに値しない自分は悪い子なので、敵意を向けられ、暴力を振るわれても仕方がない」という考えを抱くようになり既に構築した「ワーキングモデル」に補完を加えて自分を納得させると言われていますするとその様に認識した「ワーキングモデル」はそのまま他者や周りの世界での認識としても使用され家庭外の他者との関係や交流に於いても親から感じた時と同じ不安や脅威、恐怖が潜んでいる可能性を感じる事に著しく敏感になり「他者という存在は、自分に敵意を持ち自分を拒絶する存在」と考え自分は親に嫌われているだけでは無く「他の誰からも望まれない存在」だと確信するようになりこの様な認識を固めて行くと「世界には何の慰めになるものが無く世界からは拒否され脅威を感じる敵意しかなく世界とは予測が付かない、不可解で混沌としたもの」の様にしか捉える事が出来なくなると言われています映画の中での「お前には何の価値もない」となじる恵の父親の激昂に「僕が悪いんだ」を繰り返す恵の態度やネットで竜のオリジンを割り出して恵の自宅に辿り着いた時にすず達を敵視して「助ける」を連呼し相手への憎悪を増幅させる恵の態度は正にその「ワーキングモデル」に当たり「U」全体から忌み嫌われ迫害される様な目に遭っても恵にとってはそれが世の中の摂理で当たり前な事に感じている事が分かりますつまり恵にとって世界とは、脅威を感じる敵意に満ちた安堵する場所など無い「戦場」なのでありそんな、助けを求めても応じられる事は無く、無力で価値のない、愛されるに値しない敵意を向けられ、暴力を振るわれても仕方がない様な、自分は「悪」だと思い込んだ考えが「U」のアバターにも影響して忌み嫌われ迫害される様な「醜い野獣」を自ら生み出して「U」の対戦プログラムで相手を完膚なきまでに叩きのめす行為とは「虐待」される事でしか自分以外の存在との繋がり方を知らない竜になった時の恵なりの世界との関わり方だったと言えますそれが結果的に本当に忌み嫌われ迫害される原因を自ら生み出すという皮肉に繋がる事になってしまった訳です竜がなぜ醜い野獣で迫害を受けるのかという理由は虐待の「ワーキングモデル」で全ての説明が付くので今回「虐待」をテーマに描いた細田守がその事を考慮しないで物語を作っているという事はまずあり得無いと思いますつまり今回の質問にあった「なぜ竜はあれ程の迫害を受けるのか」という本当の理由は「竜自身が生み出した」という悲しい理由が答えなのです▲目次へ▲■7. 割れた額縁に飾られた女性は誰?■「ルカちゃん」にはめられたと思い込んで人を信じられなくなったすずが「U」で竜の城へ入った所で顔の所に殴って付いた様なヒビが入っている額縁に入った女性の写真が壁に飾られていたのを観るという場面がありました映画ではその写真についての言及はありませんでしたが状況からその写真の主は恵の母親だと考えられます恵達親子は父親を含めて3人だという事は分かっていますが母親に付いては「居ない」という言及しかありません従って問題は「恵の母はどうして居ないのか」ですが恐らくは「死んだ」のではないかと思われますそれがなぜ分かるのかですが・・・例えば額縁の写真の顔のヒビが「故意」に入れられたものだとすれば母親が居なくなった理由は「離婚」だといえます離婚の理由なら父親がアノ様に暴力的な人間なのでいくらでも想像が付くでしょうそれで恵があの様な写真を飾っているのは母に捨てられた事への「憎悪」とそれでもたった一人の母だと思っている「愛情」とがせめぎ合う「愛憎」の現れであると捉える事が出来ますただこの時点では竜のオリジンの年齢も性別も判明して無いので状況的に額縁に飾られた女性は竜にとって「大事な存在」でそれが割れているので「かつては大事な存在だった」という「仲を引き裂かれた恋人」かという事くらいまでしか推し量ることは出来ませんなのでこの時点での竜は「かつて愛していた女性に裏切られ心に傷を持つ」という人物像が当てはまって竜とは何者なのかという映画での謎が深まって行く訳ですしかし映画が進んですずがネットで竜の居場所を特定した時の場面では竜のオリジンは恵という名の14歳の中学生の少年で父親から虐待を受けているという衝撃的な事実が判明しますその時に恵の懐から落ちたスマホ画面があの額縁の写真と全く同じ様に液晶が割れていて同じ女性の画像が壁紙になっていた事で恵が竜である事が確実となる訳ですそしてこの時点で割れた額縁の女性の写真の意味も全く変わってくる事になります通常スマホの壁紙は気に入った画像を貼るものですそのスマホの液晶が割れていたのは恐らく父親から受けた暴力が原因だと考えられます普通なら買い替える所ですが実の息子に向かって「消えてくれ」と言う様な「異常者」の父親では定かではありません仮に買い替える事が可能だった場合でも未だ液晶が割れたままのスマホを持っている訳ですからどちらにせよ なぜ持っているのかという「理由」がある事になりますそれはつまり「母との思い出」が詰まった大事ないわば「形見」の様なスマホだからと言えますその様なスマホを大事に持っているのですから恵の母はもう死んでいると考えられる訳です割れた額縁に飾られた女性が誰でどうなったのかは分かりましたが「なぜ竜の城の母の写真まで割れているのか」についてはこれは始めに述べたように「色々と想像をさせて真相を煙に巻くミステリーとして演出の一環」というのが理由ですが真の理由は「母の形見のスマホの画面そのまま」だというのが一つ、もう一つは、「もう絶対に取り戻すことは出来ない絶望」の現れだと言えます恐らく恵達兄弟は母親の事が大好きで母親が生きていた頃の家庭はもっと明るくてひょっとしたらかつては父親も厳しいというだけで穏やかでマトモな人物だったのかもしれませんし家庭の中は暖かかったのかもしれません壁紙の写真も恵が自分のスマホで撮ったもので良かった頃の時代を思わせるものがありますそしてそれが母親との最後の思い出となったのかもしれませんそれだけに母の最後の写真も母を最後に撮ったスマホも恵に取ってはどちらも欠かせない大切なものである事が割れた液晶のスマホを持っている理由となりそんな割れた状態の母の写真を飾るのもそれ位 決して失ってはならない存在だったという恵の心の傷がどれ程深いのかを物語っているという事だと言えます▲目次へ▲■8.恵はすずに振られたのか?■金ローの放送があった時 SNSやネットでも「大好きだよベル」「ありがとう」というやり取りが「恵がすずに振られたw」という風に取られた書き込みや記事が見られたのでこの場面に付いて解説したいと思います■恵の父が退場した後のやり取りで恵の「ありがとう」の後「大好きだよベル」と言った事に対してすずが「ありがとう」と返した事に付いて鑑賞した多くの人が「恵はすずに振られた」と解釈している様で有り体に取れば年上のお姉さんに恋した大人の階段を少しだけ登った少年という『銀河鉄道999』的 出逢いと別れという事でも良いのですが事情はもう少し深い所にあると思われますこれは言ってみれば、先程「社会の構造」の説明でも語った何層にも意味が重なっている状態になった玉ねぎの皮の様な階層のレイヤー構造になっている中でのやり取りを描いた場面の為意味がいくつもあって、それが重なっていて本当の意味は更に深い所にあるという普通では分からない造りになった場面だからと言えます「振られた」という風に見えるのは、その皮を剥いていない真相に迫っていない表層的な解釈と言うことになります▲目次へ▲■8. 恵はすずに振られたのか?■■a. 愛と恩の違いの「ありがとう」最初の皮を剥いたとしてまずこれが すずへの告白という意味があったとして「年下過ぎる」「相手は子供」という至極当然の理由は当たり前過ぎるので置いておきw恵にとってすずは「命の恩人」という 巨大な「借り」がある存在なので年齢以前に人として対等な関係とは言えません従って「恋愛」と思っている感情も「恩」からそう思っている可能性が強く恋愛関係は成り立たない事をすずは分かっていて子供ながらもその様に気を使ってくれて「ありがとう」と言ったとも 捉える事が出来ます▲目次へ▲■8. 恵はすずに振られたのか?■■b. 本当の自分を好きになってくれた「ありがとう」更に皮を剥きましてwこれは淡い「恋」を描いた場面というよりはこれまで自分の事や人の恋路にアタフタしてきたすずがあまりにも平然としている事と恵も「大好きだよ」の台詞を言う前に若干はにかむ所が非常に子供っぽい態度から心を許せる友達との会話という印象がありますつまりこのやりとりの真意はこれまで家庭内の問題から逃げる事が出来ず行き場を求めてのめり込んだ「U」でも迫害を受けて誰も信じられず心の平穏な時が無かった恵がすずとの出逢いでそんな囚われの状況から開放されて竜の仮面を外して本当の自分に戻った本来の少年らしさを取り戻した喜びを表現した場面だと言えますすずが「ありがとう」と言ったのはベルの仮面を被った自分にでは無く心を閉ざして「生徒」に準じる高校生の自分にでも無く映画を観た一部の層には子を持つ親の行動では無いとして批判される行動を取ったとしたそんな母の教えを抱いて行動した本当の自分に竜では無く本当の素顔を見せた恵が「大好き」と言ってくれた事に対しての報われた様な感謝の気持ちだったと言えます▲目次へ▲■8. 恵はすずに振られたのか?■■c. 母に向き合えた「ありがとう」さらに 玉ねぎの皮を剥きますとw恵が父親のDVから弟の「とも」を守る姿は「父親からのDVから弟を守る兄の姿」と言うよりはまるで子供を守る「母親の姿」の様でありそれは家族の問題で全てが壊れない様に耐える「家庭を守る姿」そのものだと言えます▲目次へ▲●弟「とも」は病気?●恵の弟「とも」は 「U」では 天使 のアバターで綺麗な声で唄うふわっとした印象の少年として描かれていますいつも首を傾けて 人とは視線を合わせず話し方は恵とは異なり余り抑揚がなく独り言の様な不思議な話し方をしますこれは何らかの「自閉症」の症状の様な印象がありましたので調べてみますと「発達障害」について書かれた記事の中の「自閉症スペクトラム障がい(ASD)」という項目が「とも」の症状と合致しましたので恐らく自閉症を患っているのでは無いかと思われましたこの障害の特徴としては人への反応やかかわりの乏しさ、社会的関係形成の困難さ興味や関心が狭く、特定のものにこだわることなどがあり話し言葉に抑揚がなく一本調子奇妙な行動として首かしげ、横目などの症状があるとの事ですこの「発達障害」は生まれ付いて持つ障害の為恵の場合とは異なり父親のDVによって引き起こされたものでは無い事が分かりますであるとすれば恵の父親のDVとは母親が居なくなり仕事も子育てもこなさなければならなくなった上に自閉症を患っている子供の世話も加わった事でこれら全てをひとりで抱える事のストレスから暴力的な人格へと変貌して行った事から引き起こされた経緯が感じられますベルが竜の城に訪れる場面で床にうずくまる竜の背中が光って新たな模様が出来るシーンがありましたがあれはリアルでは弟をかばい背中に父親の暴力を受けている証で父親の暴力で背中にアザが出来る程の痛みに耐えながら弟を守りその間 その痛みを逸らす為に 心を「U」に馳せるという恵が「U」を利用する理由とは過酷な状況にある現実に耐える為にその間「U」に心を置いて何とか精神を保とうとする為に使っていた事が分かりますそれ程までして父親の暴力に耐える理由とは・・・恵達兄弟の行く末を考えた時 殆どの方は「父親は逮捕され恵達兄弟は保護される」というのがベストな解決法だと思われている様ですが映画の40分辺りで すずが動画を観覧している場面の中に恵達家族が映り 父親が良い父親ぶりをアピールするというこの動画を観る限りでもこの父親の厚顔無恥振りは相当なもので恵の自宅と繋がった時にも既に警察かどこかの相談所へ訴えたが無駄だったという内容の恵自身からの怒りに満ちた態度での言及があった事からでも分かる様にこの父親は警察に出頭しても妻を失くした子育てのストレスとか誰もが納得する様な家庭の事情を「盛って」話して真摯に反省した様な演技をして逮捕を逃れた経緯があった事が見て取れますDVを訴えて警察に駆け込んだ子に対して出頭した父親が嘘の供述をして子供を引き取った後に父親の手に掛かって命を落とすという痛ましい事件が起こっている事を考えても日本の警察と行政はDVやストーカー被害に対して先進国の中でも取り組みが極めて遅く群を抜いて無力な機関だという印象がありますのですずが恵の弟の唄を追って恵のPCカメラの配信に辿り着いてDVの現場を目撃した場面で恵の態度が怒りに満ちてやさぐれて絶望に打ちひしがれながら怒鳴っていたのも困っていても何の役にも立たない警察や行政のお役所体質な社会とこの時の配信を観ていたすず以外のユーザーの面白いものが見れるぞとばかりにチャットで仲間を呼ぶ様なまるでYouTubeに上がった動画でも観覧する様に興味本位で観ているダケの単なる無責任な野次馬書き込みしか出来ない集まりの心無い者達が巣食うネット社会に向かっての怒りの表明であり東京での坂の場面での 恵の家の周りは都内で持ち家を持つ住宅街特有の閉鎖感を持った他人の家庭の事情に出来るだけ関わらない様にしている様子が見て取れるという様な何処に訴えても誰一人手を差し述べる事は無く既に打つ手は全て打ってもはや父親の暴力に耐えるしか道が無いという絶望感からせめて弟にだけは類が及ばない様身を挺して父親の暴力を自分に向けさせる行為が家庭を守る母親の様に見せるのだと言えますこれは身を挺して子供を守ろうとしたすずの母の様でもありますすずは恵の為に自らアンベイルして自分がベルだという事を身を挺して信じて貰おうとした時にすずの母が子供を救う場面がフラッシュバックして母の取った行動と今の自分とが重なりハッとし家庭で父親からの暴力を受けその間逃避する先の「U」でも迫害を受け何処にも行き場の無い竜を身を挺して救おうとしている今の自分がアノ時の母 だと気付きますその瞬間 すずは 母の気持ちを理解すると同時に自分の中にも母と「同じ想い」がある事を知りそれは居なくなった後もこれまで母はずっと自分と共に居て見守っていてくれた事を知った瞬間でもありましたそんな想いが込められたすずの歌に心を揺さぶられて呼応した人々がすずと「同じ想い」で繋がって「U」が一つになるとその空間に共鳴する様に「U」の守り神の様なクジラが登場して歓喜の歌声を上げたと言えます▲目次へ▲■8. 恵はすずに振られたのか?■■c. 母に向き合えた「ありがとう」●クジラの正体は何?●ちなみに この「クジラ」は何かという事ですが例えば高尚な生き物として自由を選んで火と風を選び世界の秩序が崩壊した時 共食いする獣と化した『ゲド戦記』に出てくる竜の様なものだと捉えればネットが炎上して乱れている時は消滅しネットが慈悲の心で一つになった時などにネットが共鳴する力で実体化してその姿を現すというユーザー一人ひとりの利用が作用して生み出すネットで起こる「時流」をエネルギーとするネットの海の中に潜み「時流」を司るネットの化身の様なユーザーが生み出す「時流」が実体化して「具現化」した存在という印象がありますつまり「U」の創造主はいつか「U」がそんな慈悲の気持ちで一つになる様なそんな日が来た時の為にこの様なプログラミングをイースターエッグの様に仕掛けていたという事なら人間の本質は「欲」であるという達観した視点で警察機構の無い自由な空間を創造したというそんな経緯も浮かび上がって来る様で興味深いです▲目次へ▲■8. 恵はすずに振られたのか?■■c. 母に向き合えた「ありがとう」●3人が抱き合った意味●すずの母は目の前で危機に晒される子供を救い代わりに命を落とし、すずは母を失いました子供を救う事は尊い事でも自分の命を犠牲にして実の子供が母親を失ってまでする意味があるのかそもそも母がしなければならなかった事だったのかすずは理解できませんでしたしかし自分の目の前で迫害を受ける竜を見てそれを「迫害」だと感じているのが自分だけだと知り竜の為に行動出来るのは自分しか居ないと悟った時に誰も救おうとしない中洲に取り残された少年を母だけが救いに行ったあの時の状況が重なりすずは初めて母の行動の意味を知りますそうしてすずがアンベイルする犠牲を払って人前で唄えない自分を乗り越えて全世界に向けて唄ったのはたった一人の少年の為に願う命の祈りでしたそれは全世界の人が理解してくれる程に意味のある事だとすずの母が命をかけて残してくれた贈り物でもあったのです「U」で迫害を受け家庭内DVを受ける恵は中洲に取り残された子供同様に助けを乞う少年でした同時に父親の暴力に耐えながら弟を守りしいてはたった一人で家庭を守ってきたすずやすずの母と同じ身を犠牲にしてでも大切なものを守ろうとする者でもありましたそれは坂の場面で恵と顔を付けて近付きたくなる程に恵の中に母と同じものを感じる肉親に出逢えた様な感覚だった訳ですここでの「ありがとう」は恵へ向けての言葉であると同時に恵の中に感じる「母」に向けての言葉でもあったのかもしれませんすずは母への不信感から、恵は弟と家庭を守る一心からお互いの大切な母親を失ったという事をすずも恵もこれまで本当の意味で向き合って来なかったと言えますお互いの出逢いはすずは臆病な自分を開放して、恵は立ち向かい闘う事を誓った事でお互いの大切な母親を失うという事を本当の意味で向き合う事になるのでしたここで三人がまるで血を分けた兄弟の様に抱き合ったのは同じ苦難を生き抜いて同じ痛みを知った魂で繋がった肉親にも似た、もう一人の自分の様な「同じ想い」を持った者同士が物理的な距離を超えて邂逅した奇跡への感謝とお互いこれまで向き合えなかった同じ悲しみと痛みを絆を確かめ合う様に分かち合いながら失ってはならないものを失った喪失感を皆で向き合い耐え忍ぶ当事者にしか分からない苦難の重みがそうさせたのだと言えます▲目次へ▲■8. 恵はすずに振られたのか?■■d. 救えた事への「ありがとう」更に玉ねぎを剥きますとw恵の父親は恵達の母がいなくなってから(おそらく亡くなった)元々の人間的な骨格の弱さから人が変わったと思われ妻が存命していたらこの暴力的な性質は現れる事は無かった人格だったとすれば恵は父親のDVに耐える事で母親が居た時には存在していた平和な家庭を母親に代わって守っていると捉える事が出来ます恵が父親のDVに耐える意味は先に説明した様に被害を訴えても社会は救ってくれない為せめて自分が弟を守るしかないというのが理由なら存命なら母がしていた役割を代わりにやっている事になるのでその様な理由で母親の様に振る舞うという事は本当の意味で母の死を受け入れる時間が与えられていない可能性が大きく恵が母親の様に見えるのも恵が母親そのものになり恵の中で生き続けている表れだと言えます▲目次へ▲■8. 恵はすずに振られたのか?■■d. 救えた事への「ありがとう」●恵の父親は逮捕されてもそれで終わりでは無い理由●父親の暴力を受けながら悪いのは自分だと口にして暴力で受ける痛みを逸らす為に「U」で気を紛らしてまで過酷な状況に耐え様とする息子に手を上げるこの父親はおおよそ人の親の資格のない人の痛みの分からない妻を失い失意の底にいようとどんな事情があろうと何の共感も同情も出来ない逮捕され牢屋に入るしか罪を償えない様な人間ですが恵の家の問題は父親が逮捕されたとしてもそれで終わりではありませんなぜならこの父親は刑期を終えれば出所して再び恵達兄弟の前に姿を現し再び恵達を傷付ける可能性があるからですこの様な「ならず者」の様な人物に対して現在の法律では釈放後に拘束出来る有効な方法は無く仮に裁判所命令で接近禁止処分が下ったとしてもそれはただの「命令」に過ぎないので単にこの父親の行動に制限を付けて破れば逮捕されるというだけの事実上何の拘束力も持たない「約束事」の様なものしか存在しないのが現状ですつまり恵の父親はこの命令を無視して勝手に子供に近づく事は出来るので恵達兄弟はこの先一生 父親の影に怯えて逃げ続けて暮らさなければならない事になります1999年に公開された映画に苛烈な舞台練習と激昂する演出で知られる舞台演出家 蜷川幸雄がメガホンを取った嵐 二宮和也主演『青の炎』という作品がありましたがこれは山本寛斎演じる離婚して出て行った暴力養父が10年経ってふらっと家族の前に現れた事でこの男のDVから妹を守る為に二宮和也演じる兄が養父を殺害する計画を立てるという衝撃作でしたがこの映画の様に 父親が一旦は去ったとしてもいつか二人の前に現れるとも限らない訳です恵達兄弟が父親のDVから本当に開放される為には父親がこの世から消えるか又は父親自身が、変わるしかありません父親がどう変わるかは 色々あり1. 心を改めて昔の人格に戻って子供達とやり直す2. この兄弟から離れて金銭の扶養以外生涯関わらない3. DVがどんなに酷い事か今DVを行なっている加害者を諭して止めさせて 今DV被害に遭っている人を救う活動をするなどありますが例えば 90年代のイジメが露見して東京五輪の仕事も公の場での活動も消えた○山田○吾氏の様な人物が悔い改めた証として被害者への救済を申し出たとしてもそんな資格は無いですし、今更もう遅いとしても逆に、今いじめを行っている加害者を説得していじめを止めさせるいじめ被害者を救済する活動をしていたというのであれば正に今いじめに苦しんでいる人を救済するという社会的にも意義のある福祉活動をしていた事になり小山○圭吾氏の過去の罪は消えなくても「3」の様な活動をずっとやってきていたとすれば少なくとも今回の様な騒ぎにはならなかったかもしれませんし何よりも小○田圭○氏からイジメ被害に遭われた方も自分の様な立場の人が救われて行く様子を知れば何か自分も救われた様な気持ちになったのかもしれません話を戻しますが・・・恵がすずに言った「戦うよ」という台詞は元々「U」で竜となり自分たち兄弟を苦しめる父親を憎悪して父親の暴力の「力」に腕力の「力」で対抗出来る強さを持とうとした考えを改める自分との闘いと父親の問題を含めて家族の今後の行末に対して「立ち向かう」事を意味し家庭の平和を取り戻そうとする意思表示だったと考えられ「大好きだよ」という言葉はその覚悟をもたらしてくれたすずへの感謝の言葉でもあったと捉える事が出来ますその様に捉えてくれた事に対して すず は報われた様な気持ちになって「ありがとう」と言ったとも考えられます▲目次へ▲■8. 恵はすずに振られたのか?■■e. 恵達を救った事で救われたすずとすずの母さらにもう一枚玉ねぎの皮を剥きますと・・・すずが恵を救おうとしたのは川で子供を救うために命を落とした母の真意を知る為に川で誰も救おうとしない子供の時と同じ様にUで誰も救おうとしない恵に手を差し伸べたという意味もあった訳なのですが恵も同様に 命がけで弟を、しいては家庭を守り救おうとした人物でしたそして川で子供を救おうとしたすずの母と同じ様にたったひとりで弟を救おうと身を挺してきていつか暴力者の父親の手に掛かり死ぬ運命にあったかも知れない人物でもありましたそうして恵達兄弟はすずのおかげで救われましたがこれはある意味恵がやろうとした事をすずが手を貸して成し遂げたという意味がある訳です▲目次へ▲■8. 恵はすずに振られたのか?■■e. 恵達を救った事で救われたすずとすずの母●すずがアンベイルしても再びベルになった本当の理由●これまですずは母の考えが理解できなくて心を痛めて来た事の他に濁流に一人身を投じた母に手を貸さないで諦観する人々や苦しんでいる家庭をSNSのネタにして喜ぶ者達に加え学校では「しのぶくん」の一件でいわれのない中傷を受けそれが友人と思っていた「ルカちゃん」が仕掛けた疑いなどで人間不信 がより強まり現実から逃げる様に「U」にのめり込みますそうして竜と出逢い竜に惹かれる様に竜の城を訪ね竜と分かり合うのですがそれは竜の中に 自分と同じものを見ていた 現れでこの時のすずは「悲しみ」と「怒り」に捕らわれて世の中を憎悪して物事を正しく捉える事が出来なくなっている 竜 とある意味 同類 になっていたと言えます後に誤解が解けた時にすずが囚われてきたものが物事を見失い誤った捉え方で眺めてきた自分の心だと分かり吹っ切れた すず は ベルを逃げ場所として利用して世の中を歪めて見ていた 偽りの仮面 を取り去り自分の中にある ベルでもある自分を受け入れ て現実社会もネット社会も見失った心では無く自分の気持ちのままに行動する事を決め竜 のオリジンを探して竜の抱える問題を理解しようと行動して恵の所まで辿り付き恵が父親の暴力から弟を守ろうとする盾となりました■母の子供を救おうとした行為に手を貸す事者は無く一人子供を救いに濁流に入った母は帰らぬ人となりましたが自分を犠牲にして弟を守ってきた恵に すず が手を貸した事は母にも手を貸そうとした人はあの時は居なかっただけできっとどこかに居た事を意味する事にもなった訳です世界を冷酷で非情で残酷なものと捉えて心を閉ざしてきたすずにとってその様に考える事はすずの母にもすずにも「救い」となり自分達の行為は無意味な事では無かったと思える世の中を受け入れるきっかけとなったと言えますそのように臆病で何も出来なかったすずがここまでの大胆な行動が出来たきっかけを与えてくれた恵に向けての「ありがとう」という意味もあったと思われます▲目次へ▲■8. 恵はすずに振られたのか?■■f. 暴力の連鎖を断ち切ったという意味もう一枚皮を剥きますと・・・「虐待の連鎖を断ち切る」という意味が見えてきます恵は虐待のストレスを「U」の中で「竜」となって格闘技プログラムの中で発散してきましたそれは言ってみれば「暴力」に対して「暴力」を振るう事で発散して来た事になりますこれは先ほど説明した子供の発達初期に親と子供の関係の中で幼少からの親からのDVを受け続けた事で認知して認識して形成される「内的ワーキングモデル」のものの捕らえ方の「中心事項」となる認識された対人関係が「暴力」でしか繋がれていない事を意味しそれが影響して家庭内で認識した「暴力」でつながった関係を他者や周りの世界に対しても そのまま当てはめて現実も「U」も自分は憎まれる存在だとして「U」の対戦プログラムでの相手を敵視してきた現れだと言えますこれが すず達が本気で恵達を救おうとしても憎悪しながら敵視した理由だといえますが匿名のアバターで行動する「U」ではほぼ「死」を意味する「アンベイル」を自ら行ったすずの犠牲的行為に心を動かされて他人との関係は争いしか無いと思ってきた恵に他人を信じる気持ちを初めて抱かせて暴力な親から虐待を受け続けた事で受け継いだ 暴力と虐待の連鎖を断ち切れた開放感からの言葉だと思われ『大好きだよ』という言葉は恋愛感情というよりもこれまで他人に抱いた事の無かった自分と近しい存在に感じる事が出来た すず への言い尽くせない 感謝や喜びにあふれる 少年に戻った気持ちの現れでありすずの『ありがとう』は同じ様に世界を拒絶してきたすずを受け入れて世界との関係も再び受け入れてくれた恵に対しての感謝の言葉だったという印象があります▲目次へ▲■8. 恵はすずに振られたのか?■■g. DVの連鎖を断つという意味更に一枚皮を剥きますと・・・世界的な子どもの擁護団体「セーブ・ザ・チルドレン」は2012年に『虐待の連鎖』を訴えたCMで良く知られる様になりましたがこれまで説明してきた様に「家庭内DV」は暴力による子供への肉体的な損傷よりも「内的ワーキングモデル」で形成された認識によって幼少期に親との正常な関係を形成できずに心理的特性の偏りが起こり「人を愛する」という様な人間の基本的情緒が大きく欠けたまま成長する事が背景となって子供の頃得られなかった愛情を過度に求めて相手に依存して期待するものが得られないと感情が爆発して制御不能になり本当は暴力は嫌なのに思い通りに行かなくなると「暴力的な行為」をする様になるという子供に正常な社会生活に支障を来す様な精神的な障害を残す大きな要因となるものと言えますこれはそのような環境で育った子供が虐待を受ける中で作られた親との関係性が「人との繋がり方」の全てとなって他にコミュニケーションの方法を知らない為に自分が受けてきた事と同じ事を相手に行ってしまう といった親から虐待を受けた子供が成長して大人になり結婚して家庭を持った時に親から受けた虐待を今度は自分の子供にしてしまうという『虐待の連鎖』と呼ばれる虐待の関係性の連鎖が約3割の確率で起こる事があるとされていますこの様な事が起こらないようにDVの家庭で育った子供は実の親との縁を切り里親に養育を任せる「里親制度」の取り組みなど様々な取り組みが行われています映画では恵が世間に対して憎しみをぶつけていた感情とはその関係性の連鎖による可能性が高いと言えるものがありましたが元々恵は母親の愛を強く求める気持ちが残っていた事で父親の暴力に晒される無力な弟を慈しみ守るという母親の愛情の様な情緒が育てられていた事がすずの献身的な行為がきっかけとなり恵の閉ざした心の奥に残っていた「愛情の情緒」が揺さぶられて心を開く事に繋がった事で虐待の連鎖の鎖を完全に断ち切る事が出来たと言えますすずへの『大好きだよ』という言葉は「人を慈しむ」という心が言わせている父親のDVに晒されてきた囚われの身からの「開放」を意味する喜びの言葉でありすずの『ありがとう』は父親から受けてきたDVの連鎖に打ち勝ち心を開いてくれた事に対しての言葉だったという印象があります▲目次へ▲■8. 恵はすずに振られたのか?■■h. DV被害者に追い打ちをかける世間に対する戦いという意味更に皮を剥きますと先程の続きになりますが・・・現在一般的に使われる「DV」という言葉はかつて1933年(昭和8年)に「旧児童虐待防止法」が制定されその後1947年(昭和22年)に「虐待」だけでは無く幅広い観点から子供を社会的に守る「児童福祉法」という呼び方に変更されてから約半世紀「家庭内暴力」という言葉で括られてきたものから1998年に家庭内暴力を描いた『愛を乞うひと』が日本アカデミー賞を受賞して以降警察から児童相談所への児童虐待通告数が年々増加して行った事を受け再び「児童虐待防止法」と制定された2000年以降社会保障審議会等における検討がなされ改正が行われた2004年に欧米で社会問題となった「DV」というワードへの関心の高さから日本で心理的虐待のひとつと認定される様になりましたしかしこの分野はこれらの問題に取り組む為の中心となる「臨床心理学」が脳科学の様に人間の行動原理を脳神経の観点から実験検証するのとは異なり被験者の「証言」を集めて検証実証する学問という性質から被験者が実態のどの程度の深さまで「証言」をしているのか加えてその「証言」の信憑性はあるのかどうか確かめる術は無い事から検証する為に集めたデータを検証したものがDVの実態と言えるものなのかどうか確定していない所がある事からも社会的な関心が高まり本格的な取り組みをする様になってからわずか20年余りの歴史しかない不完全な実証の元での不完全な取り組みという印象が否めないものがあり先進諸国の中でも日本の取り組みは様々な面で遅れているという印象は現在も変わっていないと言えますそこでよく言われるのは「関連機関に強い権限を与える」「親の権限を法的にもっと制限する」「子供を家に一人で放置する事を取り締まる」などの対策に対してですがこの様な子供の保護を第一に考えて問題解決を早急に行う欧米の様な取り組みを求める声に賛同して行く中で慎重さ故に腰の重い日本の行政ではすぐの実現は期待出来ないだけでは無く仮に関連機関が強権を発動して児童を保護したとしてもその後の養育を誰に任せるのかという受け入れ先が日本では不足しているという問題がありその様な課題が山積みの状態で被害者からのSOSに対応するにはまだまだ困難を極めるものがありますそこでまずは身近な交友関係の中でDV被害に気付いた人達が指摘や追求をする事で被害が進まない様くい止めて昭和の時代には当たり前だった街ぐるみで子供を守る精神を想起する様な福祉や社会的リソースのみに頼るだけではない専門家が派遣される前に不幸な事件を未然に防ぐ為の「ゲートキーパー」となり得る様な社会づくりが望ましく社会全体で取り組む意識 が必要だと言えますしかしこれは同時にこの分野の専門家がメディアなどの公の場で安易に「虐待の連鎖」を口にしてきた事でDV被害を受けた事が人の情緒や精神に影響を与えるという様なこの手の内容に過敏な人々の間で危機感を助長する様な情報のみが独り歩きをする事でDV被害者を受けた人々がまるで異常者か危険人物の様に奇異な眼で見られる様な偏見の温床となる事でもありましたそれはDV被害者が関連機関や福祉的サービスを得る過程で『第二のDV』と呼ばれる「社会的スティグマ」いわゆる社会による「偏見の烙印」を押されて不当に差別を受ける事に繋がる私達が認識すべき問題でもありますこの様な『第二のDV』の存在を認識した上で「虐待問題」を社会全体で取り組むという意識はまだ浸透して居ないという印象があります例えば悲惨なDV被害を無くす為に2021年4月 南青山に作られた児童相談所の建設の際に南青山の住民からの「青山ブランドの価値が下がる」「税金を使って法に触れる行為をした少年の施設を作るな」という地域住民の個人の事情で建設に異を唱える身勝手な反対騒動が起こる様なケースを見ても分かる様に説明会の席で同じ地域住民から出た「DV被害に遭って困っている人達を救う為の施設をブランド価値が下がるからという理由で反対するなどDV加害者に加担しているも同様」という反論意見が全てを現している様に物事とは往々にして自分達とは関係無い問題には無関心となり自分達のテリトリーに関する問題になった途端過敏に反応して急激に情報を得ようと躍起になりそれらの情報の中に誤情報が混ざっていたとしても問題に無関心で「無知」でいた事が「判断の妨げ」となり情報を得れば得るだけ「危機感」を助長する事ばかりに目を奪われ「偏見」が育って行く、事が常ですその様な世間の誤った理解からDV被害者だった人々が DVから開放されても今度は受け入れてもらえる筈の世間から奇異な眼で見られる様になりそれが「社会的スティグマ」と呼ばれる「偏見の烙印」を世間に押される「第二のDV」となって不当に苦しめられる立場へと追いやられるケースも少なくありません恵がすずに語った『戦うよ』という言葉は父親のDVに向けての言葉であると同時に考えうる 世間の偏見に対しての 今後の心構えの意味が含まれているという印象を受けるものがあります■さて、この様にこの場面を観て「恵がすずに振られた」という様に「恋バナ」に感じるのは恵達兄弟がこの先の平穏な日々を過ごせる事を期待しながら救われた様な気持ちで映画を観終わる事が出来る様に演出された製作者の意図もあると思われますが恵の家庭問題の今後がどうなるのか描かないのは「あなたならどう考える?」という製作者からの問いかけの様に思えます従って この一連の場面が批判されるのは今の日本のDV被害に於ける現状に対しての批判なのであり細田守の脚本に対しての批判と捉えてしまうと批判されるべき本質が見えてこない事になる訳です故に「DV」とは家庭内だけで帰結しないその様な立場を作り上げて孤立させ深刻化させる社会環境に左右される「社会問題」である事から恵の様な少年に『戦うよ』と言わせてしまう今の社会を作ったのは正に私達大人でありこの場面の台詞にはそういう「警鐘」の意味も込められている様に思うのでした▲目次へ▲■9. 大人が同行しない本当の理由■金ローの放送で すずが単身東京へ向かう場面を観て「なぜ大人が同行しない?」という書き込みがSNSで炎上し江頭2:50がYouTubeで金ローの鑑賞を実況していた事も加えて一時話題となりましたこれに付いては当初私もそう思い「まあ、マンガのやることだからw」で片付けていましたがしばらく経って冷静に考えてみますと、これは至極当たり前の事を描いている事に気付き、更に製作者の思惑も見えてきたので前言を撤回して解説しますと・・・これには3つの理由が考えられます▲目次へ▲■9. 大人が同行しない本当の理由■■a. リアルではこれが当たり前まず1つ目は「リアルではこれが当たり前」という理由ですこれが「映画」では無くて今 我々に起こっている事だと「想像」して考えてみます映画に登場する大人たちにとって「すず」とは小さい頃から付き合いのあるご近所さんだったり音楽仲間だったりで田舎特有の家族的な輪を感じるものがありますこれは私達に置き換えたら一番近い概念は「家に良く遊びに来る、自分の子供の友だち」位の関係が妥当だと思われますそうして冷静によく考えてこれは「自分の事」なんだと思って よく観てみますと自分の子供の友だちが「私は東京に行く」と言っていますそれに対して「良しっつ!!! 私も一緒に東京に付いて行ってあげるっつ!!!」と言う人は 「普通居ない」 と思いますこういう場合 普通は「普通に止める」でしょう或いは この子が行かなければならない様なそんな空気になった時でも普通考える事は「付いて行きたいのは山々だが自分にも都合があるまして緊急性があるからといって警察を差し置いて出過ぎた真似をするのは果たして家族がなんて言うか何よりも何かあったら 全部自分の責任だやっぱり止めないと」となるのが 現実的と言えますこの場合はその大人の忠告を振り切って出て行ってしまうというケースに当たりますので映画の様に車で駅まで送る事は相当な肉親的繋がりが無くては出来ない事だと捉えるとそもそも既存の物差しで推し量る事は出来ない事だと言えます又映画の中の大人は すずが出かけた後何をしたのかは描かれてはいないので想像するしかありませんがアノ場面で大人がすべき事とは普通に考えれば、すずが東京に向かっている間大人達はとにかく考えられる限りの関係各所に連絡し何とか恵の家のDVを通報して すずが恵の家に付く前にその筋の専門家を派遣しようと尽力する事だと言えますそれでも「大人には子供を守る責任がある」と考えて「私なら同行する」と言う方もおられるかもしれませんしかしすずの母が命を落とした子供が中洲に取り残された場面を思い出してみるとあの場面で大人がすべき事は、レスキューに通報する事であってすずの母の様に危険を冒して濁流の中に入ろうとする事では無いと誰もが考えると思いますつまり「プロに任せるべき」と考えて「何もしない」のが「普通」だと言えますそれがなぜ すず が東京に行く場面になると「大人はなぜ付いて行かないのか」となるのか矛盾していると言えますこの矛盾に目を向けても尚私なら同行すると答える方であれば批判をするだけの資格は充分にあると思います▲目次へ▲■9. 大人が同行しない本当の理由■■b. ジャスティンと対峙した事で既に経験済み2つ目は「ジャスティンと対峙した事で既に経験済み」だからという理由です前にも書いた様に 自警団のリーダー ジャスティンも 恵の父親も良い人に見える様に繕う性質と腕力に自信がある様な風体を持ち「自分勝手な考えを人に力付くで押し付ける」「人を自分の思い通りにしようとする」「思い通りにならないと力付くでも分からせようとする」という行動をする点では同類でこの様な事を平然と行う自警団も結局はやっている事は「虐待」でありそういう人物にありがちな「狭量」で「稚拙」な性質からの自分自身を客観的に顧みることが出来ない「心の弱い人間」だという事が分かります1時間6分辺りで ベルが自警団に拉致される場面でジャスティンが すず に対してマウントを取っていたのは「アンベイル」できる緑の石を持つ特権意識からであって「正義」などでは無い事は観て分かりますそうして ベル の正体を晒そうと緑の石を照射し始めた時に「その美しい皮膚の下にどんな顔を隠しているのか」と言い放ちますがこれは すず が 恵の父親と対峠する坂の場面ですず が 恵達をかばっている時に恵の父親が無理やり すず の顔をこちらに向かせようと顔に指を引っ掛けて傷を負わせた時の行動と全く同じと言えますその後 ベルが自らアンベイルして自分を晒した時その行為に死ぬほど怯えたジャスティンが自分の狭量を晒して 企業の後ろ盾を無くして全てを失う顛末は「U」全体が観ていた既成の事実なので恐らくすずは 東京へ行くバスの中でもその事を頭に置いて何をすればあの父親に対抗できるかずっと考えを巡らせていた筈です恵の父親がジャスティンと同じなのであれば恵の父親に取って一番の弱みとなるのは自分の本当の素顔が晒される事 に他なりません従って 恵の父親の本性が晒されるにはすず が何の防御もしないで自分自身を見せるという正に「何もしない」事だと言う事になりますつまり すず は無策で恵の父親と対峠したのでは無く恵の父親の様な 力付くで人を従わせようとする様な人物が無防備に自分を晒して見据えて何もしない事にひどく動揺する事をジャスティンの時に既に経験している事を知った上で力付くが無駄だと言う事を知らせて戦意を喪失させようとしたのでありそれはジャスティンや恵の父親にとっては自分を無防備に晒すという事が何も残らない空っぽな人間だと知られる行為でありましてや助けを求める者に身を挺して盾になる様な信念など無い事を思い知る事でもあるのでそれが出来る人間を前にする事は理解不能な行動への動揺と高過ぎるプライド故からの羞恥心で思考が停止して何も出来なくなる様な恐怖でしかないと言えますすずがそこまで計算したかどうかは分かりませんがその様な勝算があって立ち向かったのだと言えますこの事に気付けばこの場面は「絵空事」では無くなり江頭2:52も 納得して鑑賞していた筈ですw▲目次へ▲■9. 大人が同行しない本当の理由■■c. すず以外招かれていなかったから3つ目は すず以外招かれていなかったから です映画では車で駅に送ってすずを見送る二人の会話に「一人で大丈夫かな」「すずが決めたんだから」という台詞がありますそれは車の中ですずが二人にもし恵の父親と対峙する事になった時には想像通りの人物であれば先の様な行動をとれば力に訴える事を思いとどまるだろうという事を話して聞かせてこの二人が同伴して東京に行く申し出を断わったという経緯を感じさせるものがありますつまりここでの問題は「大人がなぜ同伴しなかった」という事では無くて「なぜ同伴出来ないのか」という理由にあると言えますなぜならこの時点で恵達が信じたのは「すず」一人だけで他の人達では無いからですしかも恵はまだまだ「すず」を信じ切ってはいない様子でもありましたそんな時にせっかく心を開こうとした恵達の前に部外者を連れてきた「すず」を見たら口では自分が助けると言いながら危険な目に遭ったら大人達に丸投げ出来る様に「安全を確保してやって来た」と「すず」の覚悟を上辺だけのものだと捉えて「すず」を信じてもらえなくなるかもしれませんなぜなら「すず」がやろうとしている事は「DV」からの「救済」であって危険地帯に居る人を「レスキュー」する為に「安全」を確保してから「危険」に望もうとしている訳では無いからです又、恵達の望みも「危険」地帯から「安全」地帯へ「非難」したいのでは無く皆と同じ「普通」の暮らしをしたい、それだけなのですこれはDV被害を受けている家族の心境というよりも善意の支援を押し付ける行為を拒否する被災者家族の感情に近いと言えます先の「東日本大震災」では「頑張れ日本」「がんばろう東北」をスローガンに震災に遭われた方達の支援と街の復興に向けて多くの方がボランティアとして駆けつけ現地での貴重な労働力となって貢献されましたその一方で善意の支援をしなければと感情が先走り自分の衣食住を確保しないまま現地に無計画にやって来たボランティア達の為に本来被災者に行くべき食料や寝床を回さなければならない結果を招いたりボランティア熱が高まり過剰な支援が集まり過ぎて現地の自立の妨げになってしまったりと善意が押し付けになるケースが「ボランティア」のあり方として社会的に問われる事となりました「被災」を「気の毒」に思い「支援」の要求に応えて「支援」しようとするのと「被災」した事で生活水準がこれまでよりも下がり「普通」の暮らしが出来なくなった事を「気の毒」に思って「支援」しようとするのは全く意味が違います「被災」した方の立場からすれば生活水準がこれまでよりも下がったというだけで自分達なりに「普通」の暮らしをしてる訳です従ってそれが「人情」からの「善意」であっても必要以上に自分達の「普通」を押し付けるのは不幸な被災を乗り越えて自立しようとしている方々に対して「失礼」に当たりそれはもはや「善意」とは言いません又その様に善意を押し付ける考えには自分達が考える「普通」に至っていない人々に対して知らず知らずの内に・・・正しい社会生活を送っていない自分達の様な「社会人」とは言えない と安易に思い込む「偏見の温床」になり得るものがある事を肝に銘じるべきですこの映画の場合も同様で父親の暴力から弟を守り「盾」となっている恵は哀れで気の毒な少年ではあっても今出来る事を精一杯やり切って家庭を守って「普通」でいようと「努力」している人間なのでありそれは「助ける」という言葉では片付けられない壮絶なものがある訳ですその様な事情を知らない他人からの安易な「助ける」という言葉は恵には何も刺さらない「普通」の押し付けであり恵達に対して「失礼」に当たる訳なのですだから すず は恵に自分の想いを信じてもらおうと「U」では「死」を意味する「アンベイル」を自ら行い自分を晒して 思いの丈を「U」に向かって謳い上げた訳ですそれは「U」の全ユーザーが涙を流して同調する程の尊い行為だったから 恵も すず だけは信じようとした訳です他の大人たちが付いて行かなかったのは「付いて行かなかった」のでは無くてあれ程の自己犠牲を行ってまで少年を救おうとした すず に付いて行く様な 資格が無くて「付いて行けなかった」訳なのでした▲目次へ▲■9. 大人が同行しない本当の理由■■d. 大人が付いて行くと恵達に死を招く危険先程は「なぜ大人が同伴しなかったのか」という理由を解説しましたそれでも大人が付いて行った方が早期の解決に繋がった筈だという考えを譲らない方はやはり多いと思いますではそういう方が言う様に大人が付いて来ていたら 何が起こるのか恵の父親のスムーズな逮捕に繋がり万事めでたしとなるのか「リアル」な場合を想定して 解説しますその場合「恵達」のみならず「すず達」の 命を脅かす「最悪なシナリオ」が 動き出す可能性が高くなりますではなぜそうなるのかと言いますと、この場合たとえ父親が逮捕されたとしてもそれで 危機が去った事にはならない からですむしろそうなった事によって本当の危機が訪れる 事になると言えるからです■では順に説明します・・・これは先程も解説しましたがこの父親は逮捕されて有罪となり実刑が決まって投獄されたとしても刑期が終われば 出所して社会に解き放たれますこの父親は恐らく初犯なので良い弁護士が付いたら状況次第では執行猶予付きで実刑を免れる可能性すらあります又刑法では実刑が付いても 控訴 すれば 再審 が認められますそこでこの様な人物が「実刑をのがれて執行猶予付で出てくる可能性」ですが東京の場合は東京高等裁判所という所で再審を行う事になりますこの東京高等裁判所とは実際に実刑の経験がある 堀江(ホリエモン)貴文氏 の言及では「世界一保守的な裁判所」という事で「疑わしきは被告人の利益に」と言われる通り合理的な疑いが一つでも残っていたら無罪判決を出すのが裁判の原則ではあっても有罪判決を出す事が非常に多い裁判所として知られここで裁判を受けると実刑になる可能性が高くなると言えますつまり逆に言えば、判決が不満で控訴した事で逆に実刑を喰らう事が言える訳ですなので 実刑が確定すれば ほぼこの父親の投獄も確定するのでこの期に及んで無傷で出所するという事は無いと思われますしかし検察が絶対実刑にするという巨悪な犯罪のケースならともかく恵の父親は慢性的な暴力と精神的苦痛を子供に与えた罪はあっても子供を殺した訳ではありませんむしろ止めに入った すず に対して拳を振り下ろせなかった事と事実上次男に手を出していない所に「減刑」の余地が入る可能性が高くなりアザが残る程の恵への暴力行為が判事にどう受け止められるかが裁判での争点になると思います恵の家は東京でも坂道のある高台なので高級住宅地の一軒家の裕福な家庭だと言えますこの場合、脱税や横領などの金銭の絡んだ犯罪とは違って資産が差し押さえられる訳では無いので腕のある弁護士を雇う余裕は充分にあると思われ刑期も 検察が5年の求刑をしたとしても実刑は2~3年というのが恵の父親が求刑される 現実的な刑期だと言えます日本の場合は有罪判決が確定してもそのまま「牢屋入り」にはなりませんまず裁判所に収監され その後東京拘置所に送られるとそこで様々な試験を受け「適正」を判断されます犯した罪にもよりますが通常は10日間の調査の後実際に刑期を過ごす刑務所に移って更に20日程の調査を行いますこれらの調査は刑の開始から2ヶ月以内に終了するとされていますここで受刑者は東京在住だから東京の刑務所に送られるのでは無く相応しい機関がある県の刑務所に送られます従って問題は然るべき機関の刑務所で刑期を終えた後どの様な人間になって社会に戻って来るかになる訳ですつまり私がここで言いたいのは一般的にイメージされる「受刑者」が収監先で被害者に謝罪の手紙を書きながら真摯に罪に向き合い心から反省して受刑者としての日々を過ごし社会に出た時には二度と罪を犯さない真人間として生まれ変わっているという「人の道」の「理想型」があるとしてそれは多くの場合「火曜サスペンス的殺人」のTV 映画 が生み出した「イメージ」であって恵の父親の様な「DV」犯罪者は刑を受け出所した後はどうなるのか実態は分からない という点にありますただこの場合考えるべき事は恵の父親は受刑中に真摯に自分を見つめ直して罪に向き合い心から反省して真人間になって出所するのかどうかという点です恵の父親はすずとの対峠で「人間力の差」を腹の底から思い知り青天の霹靂とも言える 衝撃的体験 をしたと言えるので自分がどれほど愚かで傲慢な人間だったか初めて思い知ったという事であればこれまでの「毒」が全て抜け落ちて真人間になって出てくる可能性は高いと思われますその様に真人間になって出所してきたからと言って果たして恵達兄弟がそれを受け入れるかどうかは又別の話で恵達が平穏な暮らしを取り戻す為にはそれを手にする為の本当の戦いが待っているのだと言えますしかし問題は「もし すずに大人たちが同伴していたらどうなっていたのか」という場合のシナリオです▲目次へ▲■9. 大人が同行しない本当の理由■■d. 大人が付いて行くと恵達に死を招く危険●大人たちが同伴していた時のシナリオ●坂の場面に戻りまして・・・恵達兄弟はすずを発見して 本当に来たんだ と信じられない気持ちと安堵する気持ちでいた所にすず の音楽仲間のおばさんたちがゾロゾロと坂に集まって来たとしますするとこんなやり取りが想像出来ます・・・意図しない大人達の姿を見て恵の表情が急に硬くなり「コイツラは誰だ?」となります当然大人達がこの場のイニシアティブを取るべきだと考えてすず が経緯を説明しようとするのを誰かが「一人では危険だと思って付いてきた」と割って入りこの問題は大人の力が必要である事を説いて笑顔で「もう大丈夫」と続けますこの不意に出た「大丈夫」というワードに反応した恵は「俺が信じたのはベルだけだ!」と憤りますすると大人の一人が恵を落ち着かせようと「あなた達を助けたいの」と思わず口にしますこれまで何度も煮え湯を飲まされたこの様な大人達との無為なやり取りがここに来てまたもや繰り返された事に幻滅した恵は「結局は大人のやる事は同じだ」と答えて再び誰も信じられないという態度に戻ります恵達が信じたのは「すず」だけという事を忘れた大人の使命感からの介入が裏目となりすずが「U」で素顔を晒した行為は全て水泡に帰す事になってしまいますするとここで 激昂する父親がやって来る訳ですここでもこの大人達は大人の責任を果たそうとして束になってこの父親に言い寄り害が及ばない所まで子供達を下がらせますそうして大人達の怒鳴り合う声で通りは大騒ぎになりますこれまで関わりあいたく無くて無視を決め込んできた近隣の住民達もさすがにもう無視する事は出来なくなり住民の誰かの通報で警察が駆けつけると大人達はDVがあった事を訴えて恵の父親は事情聴取で連行され恵達兄弟は警察が保護する事になります大人達はこれまでの経緯と父親によるDVの証拠の動画や息子への暴力行為で付いたアザなどの事を警察に訴え恵の父親は2日間の取り調べの後正式に起訴に持ち込まれる事になります恵達兄弟は児童相談所に送られて保護され然るべき対応が約束されてそれを確認したすず達は東京を後にしますそうして父親の実刑が確定して一見全てが終わった様に見えましたその一方で社会的地位も名誉も財産もある優秀な人間を自負してこれまでやってきた恵の父親はすず達の関与で全てを失った事を悟り無駄な控訴は断念し刑に服しようとしますしかし拘置所で何日にも渡る適正を調べられる質問とテストで精神状況を事細かに診断され子供時代の背景や育ってきた経緯や犯罪を犯す様な性質なのかどうかの確認に加え家庭内暴力のに於いては結婚生活や暴力性の診断に精神鑑定イデオロギーの傾向や反社会的行動の傾向など時として異常者として扱われる長期間に渡るこれらの事細かな適正判断を受けている内神妙な気持ちは消え去りエリートとして順風満帆に社会的ステータスを勝ち取って来た自分に取ってこれらの検査は屈辱以外の何ものでも無いと思いはじめこの茶番を早く終わらせ刑期を少しでも短くしようと社会適正試験を高得点でパスする為のあらゆる算段を駆使して比較的監視の厳しくない機関での受刑をものにしてそこでも模範囚に成り切って最短の出所を目指しながら平素は神妙に刑に服す受刑者を演じつつ心の奥底で自分を陥れた者達への復讐心をたぎらせながら受刑中知り合った「その筋」の人間とのネットワークを確立させながら 協力者を募りつつ資金源となる資産の運用を信頼できる人物に任せ誰にも毛取られない様出所後の計画を用意周到に立て出所の日を息を潜めて待つのでしたそうして長い年月が過ぎた頃には狭量で叩かれると弱い、尊大で心の弱かった以前の恵の父親の姿は消え去り代わりに失うものは何も無い無敵な人となり「報復」のみを目的に生きるこの上ない危険な人物の誕生となるのでした何だか「梨○院クラス」の見過ぎという感じもしますが・・・wそもそも実の息子に向かって「価値がない」などと言いながら暴力行為を行う様な人間は「異常者」としか言えませんのでその様な人物が刑務所の中で心を入れ替えずにいるとしたらやがて出所して野に放たれた時に恵達兄弟はもとより、すずとその周りの大人も命の危険に晒される事になるのは可能性は低くいとは言えませんこれはつまり、あの坂の場面で 恵の父親の本性が晒されすずの決意に圧倒された事で観念させた事で結果的に必要以上に追い詰めないで自滅させた事が解決へ導く事に繋がったのに対して「なぜ大人が付いていかない?」という声に応えて本当に大人達が付いていく事になれば結果としてすずの代わりに大人達が恵の父親と対峠する事になり寄ってたかって追い詰める様に恵の父親を力付くで警察の逮捕まで持って行く事になるのでこの人物の持ち前の尊大さは崩れないまま刑務所に入る事になりますそうなると服役中に改心する可能性は消えて代わりに「クズ共に破滅させられた」という反社会的感情をたぎらせて出所後には失うものが何も無い恐れるものが無い誰も止められない復讐心の塊となってすずや恵達だけで無く仲間の大人達にも牙を剥く事になるのかもしれません言わば本当の「怪物」を生み出す事に繋がる可能性が非常に高くなってしまうという訳です目先の「危険」に目を奪われる余り後の「危険」を生む可能性が見えないという危険人物の「犯罪者真理」を理解していない「普通の人々」の発想こそ「真の危険」が潜んでいると言えるかもしれません▲目次へ▲■10. ジャスティンは恵の父親?■という仮説がネットでも話題になりました先にも書いた様にジャスティンと恵の父親との類似点は多くこれが同一人物である大きな証拠の一つではないかという訳ですそれは言ってみればすずと対峙した場面で すずを見て怯えた態度を取った訳が「お前はベルっつ?!!」という驚きとそれがどういう訳か現実でも目の前に居るという衝撃で我を忘れた事があの態度に現れた となり恵の父親のアノ腰砕けの理由も納得が行く訳ですしかし疑問も残ります知っての通り「U」では自分のパーソナルなものがアバターとして投影され自分の理想の姿が具現化するのが「設定」なのですが唯一声だけは「地声」となるのが「仕様」でしたジャスティンの声はトム・クルーズの吹き替えで知られスタトレファン的にはスタートレックの第4のシリーズ『スタートレックボイジャー』のトム・パリス役としても有名な「帝王」の異名を持つベテラン声優 森川智之が努めており一方の恵の父親役は 日本のドラマで見ない日は無いと言われるほどの今や日本を代表する俳優の一人となった名優 石黒賢 が努めているのでそう言う意味では二人は「別人である」と言えます又 同一人物疑惑のある「U」での歌姫「ペギー・スー」もすずの母が助けた子供がオリジンという噂がありアンベイルしたすずを見た「ペギー・スー」の「私と一緒じゃん」という言及がすずと同世代であるという一つの布石からその様なリンクを張ったという事であれば非常に興味深いものがあります▲目次へ▲■10. ジャスティンは恵の父親?■■a. 「ペギー・スー」という名前に潜んだ意味 バディー・ホリーと「音楽の死んだ日」「ペギー・スー」という名前で思い当たるのは音楽に精通している人なら バディー・ホリー の楽曲のタイトルを連想すると思いますそれは同時に「音楽の死んだ日」というワードが頭に浮かぶ言葉でもあります△▼ △▼ △▼Buddy Holly & The Crickets - Peggy Sue (1957)バディー・ホリー - ペギー・スー(The Ed Sullivan Show, 1957)Buddy Holly (画像参照: wikimedia)バディー・ホリーの「ペギー・スー」は1957年のアメリカの大ヒット曲でローリングストーン誌が選ぶ「オールタイムグレイテストソング500」の194位に選ばれる国民的なヒット曲として知られるナンバーでペギースーという女の子が大好きな男子が主人公の大好き女子の名前を連呼する50年代に流行ったタイプの曲で至ってシンプルなロックンロールナンバーですその続編となる「ペギー・スーの結婚」はこの男子がペギー・スーが結婚したという噂を聞いて「ペギー・スーが結婚したのは嘘だろ」を連呼するこれも50年代に流行ったタイプのヒット曲でしたこの曲を発表直後 バディー・ホリーは飛行機事故で22歳の若さでこの世を去りますバディー・ホリーの音楽スタイルはロックンロールに「ヒーカップ唱法」を呼ばれる独特の裏声を加えたシンプルなものでしたが何十人もの演奏者による「ビッグバンド」が主流だった時代にギター、ベース、ドラムという現在のバンドスタイルを確立させて歌を際立たせる為ボーカルを二度重ねる「ダブルトラック」やストリングスを導入するポップなサウンド作りなど存命していれば60年代にビートルズが確立させたサウンドを10年も前に確立させていたとも言われる程の当時の音楽シーンにとってバディー・ホリーはアメリカの音楽発展を期待できるパイオニア的な存在だと言えましたこの若き才能を失った音楽界の計り知れない損失を称して1959年2月3日を「音楽の死んだ日」とされ1971年にドン・マクリーンが唄った「アメリカン・パイ」の中で「音楽の死んだ日」という歌詞がこの時代の出来事を良く表現したワードとして定着し今日知られるまでになったという訳です△▼ △▼ △▼Don McLean - American Pie (1971)ドン・マクリーン - アメリカン・パイDon McLean (画像参照: wikimedia)このアメリカンパイの歌詞の内容はボブ・ディラン や ビートルズ や ジャニス・ジョプリン などの60年代以降活躍したアーティストを彷彿とさせるワードを入れて50年代音楽のシンプルさに親しんで来た人々に取って50年代音楽は死んでしまった過去のものとされていて今流行の60年代以降の先進的でサイケで歌詞が難しい音楽は馴染まないという若者音楽が好きになれないシニア世代の嘆きが描かれた楽曲となっています現代でもヒップホップ全盛に馴染めない世代が80年代ポップは良かったと回顧する流れから世界的な80年代J-popリバイバルブームが起こる様にいつの時代もシニア世代の考える事は同じだと言えます▲目次へ▲■10. ジャスティンは恵の父親?■■a. 「ペギー・スー」という名前に潜んだ意味●「ペギー・スー」はすずの母が救った子?「ペギー・スー」のネーミングの話に戻りますがこの様に「音楽が死んだ日」を意味する様な曰く付きの名前を選ぶのはこの名前は誰かの 死を偲んだ ネーミングでその死が その人物を指すだけではなく何か「時代」の様なものが死んだという今の時代に「称える様な生き様」は存在しない過去のものとして現代は群像となるべき存在は「死んでいる」という意味から命がけで赤の他人の子供を救おうとする尊い行動をする様な「ヒーロー」は居ないというすずの母親を彷彿とさせるものがある所に「ペギー・スー」が すずの母親に救われた少女である可能性を感じさせるものがあります所で、これは当然命がけで行動することを推奨する一環では無くあくまで「時代」というスパンで人間社会を鳥観する視点で捉えた歴史的「群像」を崇拝する画一的な印象を映画に落とし込んだ演出を解説したものに過ぎないので誤解なきよう・・・これは 多分ですが子供の声は泣いていただけなので確認は出来ませんがきっと細田守は ペギー・スーの人に当てさせているだろう という様なそんな匂いは 確かに感じられます▲目次へ▲■10. ジャスティンは恵の父親?■■b. 恵の父がジャスティンだった場合の坂の場面の解釈さてここで「ジャスティンが恵の父親の可能性」に話を戻しますが例えば竜の声は 恵と同じ 佐藤建が演じてはいますが声は加工されており 佐藤健 の声には聞こえませんオリジンがアバターに影響する「U」の仕様にしては変ですがそれは竜が「怪物」という形態だからという異型による「変声」が理由という事なのかもしれませんしこれがオリジンと声の異なるアバターの存在を証明する証拠という事なのかもしれませんともかく 証拠にしては とても薄い線だと言うことですそれだけに ジャスティンが恵の父親の可能性がゼロでは無い事を示しておりこれは細田守が鑑賞者をその様に解釈する様に誘導するある種の「意図」を感じる事が出来ますつまり その様に当てはめる事が出来る知的好奇心を満足させる為の「布石」としての意図です理由は、真の理由を悟られない為のカモフラージュだと思われますともあれ、この意図からしますと、あの坂での恵の父親と対峙する場面はネットの解釈よりも、もう一歩深く踏み込む事が出来ますまず「しのぶくん」も すず の「音楽仲間のおばさんたち」も「すず」が「ベル」だと分かっていましたいくら「U」の中でとりわけ目立つ存在の「ベル」ではあっても50億人ものユーザーが存在する「U」で その様に感じるのは余りにもおかしいのでこれは肉親や身内それに近しい者にはオリジンが誰か分かる様なそれこそ「アバター」を見るだけで本人に見える位の本人の特徴を際立たせる様な 何か が「U」のアバターを作る「仕様」の中に存在していると「仮定」しますそれを念頭に置いて坂で恵の父親と対峙する場面を振り返ってみますと恵の父親は すずの顔を見て ベル だと悟り動揺しますするともう一つの事実も悟り始めますこれまで 「U」の平和を脅かす「怪物」としてずっと追い続け正義の為に素顔を晒す事に執着してきた「竜」とは目の前に立つ少女が「ベル」でその「ベル」が「ジャスティン」から守ってきたのが「竜」であった様に「ベル」のオリジンの「すず」がここまではるばるやって来た理由が「竜」のオリジンを守る為で今 「ベル」である「すず」が 「ジャスティン」である「自分」から同じ様に守っているのがその「竜」であるのならば「竜」とは自分の息子の「恵」だった事を悟りその事実に驚愕して腰が抜けた時に「U」で「竜」を追い立てて来た事が「正義」では無かった事ばかりでは無くこれまで恵に与えてきた「罰」が「教育」などでは無くどちらも単なる「暴力」だった事をようやく理解しまるで奇跡の様に仮想現実と現実を繋げて自分の前に現れたすずを見上げて「お前は何者だ?」と いう眼で見ると「私は「ベル」でも何でも無い只の少女、あなたも「ジャスティン」でも立派な父親でも何でも無い只の怯えた子供」と全てを見通した様な眼で見つめ返し恵の父親はまるで現実で「アンベイル」された様な自分の真の姿を晒された恐怖から 逃げ出したという事だと言えます仮に本当に「ジャスティン」が「恵の父親」ならば「竜」が「恵」だと知った瞬間に「恵」を見るのが普通の反応なのでそれが無い所が 疑惑は疑惑で終わる所では無いかと思うわけですつまり逆説的に取れば状況的に鑑賞者がその様に解釈する可能性を考慮して真実は一つしか無い事を知らせる「鍵」として「ジャスティンであれば絶対にやる行動」を取らせない事で同一人物では無いとした と言う事になります結論から言いますと ジャスティンと恵の父親は 別人ですそれがなぜ分かるかと言いますと細田守は二人は別人だと分かる様にしっかりと画面上でそれを示しているからですジャスティンがベルを捕らえた時 力付くでアンベイルしようとした場面で殴りつけるように腕を構えた腕に付いたアンベイルする緑の石は右手にありましたそれに対して恵の父親が 坂の場面で 恵達の盾となって立ちはだかるすずを殴りつけ様と腕を構えた手は左手でした通常 人を殴ろうとする時に使う腕は利き腕を使うのが普通ですつまりジャスティンが右利きに対して 恵の父親は左利きなので二人は別人だと言う事がこれで分かりますこれは そういう解釈でも構わないという細田守の意図からそう取れるものがありますが厳密には別人であるという証拠は示して敢えて言及しないでどちらにも取れる様な演出を施したと言えます例えば すずを殴りつけようとした腕に付けている時計がベルをアンベイルしようとした緑の石の様に見える と言ったジャスティンと恵の父親が同一人物かの様に見える一つの「誘導」がそれに当たりますなぜその様な事をするのかという理由は先にも述べた様に恵の父親とジャスティンのやっている事は本質は同じである事を印象付ける為に 同じ行為に見える様に演出して二人の行為は共に「支配」であり「虐待」であり「暴力」である事を言葉では無く映像で伝えようとした所にあるからだと言えますつまり その演出的手法が 分かりにくくて回りくどいのであれば「同一人物」という形で受け取っても良い様に別人である事を示す「鍵」は潜ませて敢えて言及しなかったというのが真意でそれが本作の全編に渡る分かりにくさに繋がっているではないかと思うのでした▲目次へ▲■11.すずにとってのしのぶくんの存在とラストの「ありがとう」の意味■これは映画内でも描かれている様に「恋する存在」ですが駅から出た時の交差点でしのぶくんと鉢合わせした場面で突然ベルだという事を看破されてパニックになって逃げ出したりとしのぶくんという存在はすずの心の中に真っ直ぐ入って来るまるで肉親の様にとても近しい存在の様でもあります本編を見ていてもしのぶくんの行動はすずの親友の「ヒロちゃん」が思った事を思ったままに時には無責任に発言したりしながら肝心な所はいつも保守的に行動するのとは異なり誰よりも常に深い所を見て何が本当にすずの為なのかを分かった上で発言し行動して時にはまるで試練を与える様な行為をすずに取るので「U」にのめり込み竜に惹かれる様に行動するすずにいち早く異変を感じて心配する姿は幼なじみの女子を想う男子というよりは娘の成長を促し時には間違いを指摘して見守る母親の様でもあります弟を守る為に身を犠牲にして盾となる恵もまるで母親の様でもありましたし親友のヒロちゃんや級友のユカちゃんにしても同世代の友人と言うよりは すずを母親の様に見守る所がありました子供の頃から母が大好きでいつも一緒に行動していたすずはある意味 母親に似た人に惹かれる とも言えますラストシーンでしのぶくんは 見守る事から開放されてようやく普通に付き合えると ほぼ告っている様な発言をしますが赤くなったすずは空を見上げて「ありがとう」と言ったのはしのぶくんに対してという意味と同時に母に対しての言葉 だったのだと思いますすずは 幼い頃母を失い母に見捨てられた様な想いのままで多感な少女時代を送りそんなすずとの距離を今一つ掴めない父はすず同様心が臆病なすずそっくりな人物で周りにも心を開けないままのすずを理解しながらも時間が解決するまで静かに見守る感じの人でしたすずの家は太陽を失った様に活気を失っていましたが目の前で助けを求めている少年を救う為にすずが閉ざした心で引きこもる様にのめり込んだ「U」からでは無くすず自身が日差しになろうと自分の殻を破り踏み出した一歩は世界の人々すら動かす程に大きな力となりました母から影響を受けて音楽に興味を持ち音楽を通して世界を知り 音楽で人の心を動かしすずの音楽に心が動いた人々によって臆病だったすずの心は開放され母から受けた影響は世界に波及する様な大切な財産となりどんな時もすずを救いそして「母の様な人達」から すず は見守られながら助けを求めている声に応える勇気を持つ程の母から授かった財産はすずの一部となっていましたそれはつまりすずの母はこれまでもすずと共にありずっとすずを見守ってきた証であり亡くなっても尚、親友の中に、友人達の中に、身内の人々の中に、救いたい人の中に、愛しい人の中に、いつも「母」の存在を感じながらいろいろな形ですずを見守りいつもすずと共にあった「母」へ「ありがとう」と言ったのだと思われますそれによって途絶してきた世間を受け入れてしのぶくんと向き合う事を決めたすずにとってのしのぶくんとは細い糸で結ばれた世間と繋がる為の唯一の扉を開く「鍵」の様な存在でありそれは唯一しのぶくんだけがすずの気持ちを悟りすずを世間と繋げようとしていたからだと言えますそうしてすずが世間と向き合う事を決めたという事はそれは同時に しのぶくんと向き合う事も決めたという事でもあるのでしのぶくん は すず を包み込む様に理解してくれる存在となりすずにとって「母」同様に大事な存在になったという意味からその様な人物に巡り会えた事への全てに向けて感謝の「ありがとう」という意味だったと言えます▲目次へ▲■12.「まとめ」と「意味不明」の意味■さて、冒頭でも書きました通り本作は大ヒット作でありながら賛否両論で批判の声も大きい異色作としてあらゆる意味での話題作でしたが本作を批判するならするで 観念的な感情論では無く映画の真意を知った後に正当に批判されるべき という当サイト主の歪んだ映画愛から更新された映画記事でしたが前編4万文字 後編10万文字 (!) 合計14万文字もの出版レベルの楽天ブログ史上初となる個人ブログとしては恐らく世界初の空前の更新となりました(※あくまで個人の偏狭な印象ですw)本作の特徴としての「意味不明」さは映画の中に「布石」として散りばめられた真意を解明する「鍵」の存在を示すものと断定してそれを一つ一つすくい取って解明して行ったものが本記事となりますので多分にウチの解釈が入った「妄想」に近い「想像」が加わった性質のものでもありますいわゆる「鍵」の存在にしても「これは鍵に違いない」という「前提」で解説しているので一応に説明が付てはいても「真意」という意味では「想像」の域を出ない「仮説」ではありますこれらに付いては後に製作者自ら映画の解説をしてくれる日を待つしかありませんがであればもっと万人に分かりやすい誰にでも理解できるような内容の映画にすれば済むことであると思う所ですそもそも本作は「理解できない」という理由で多くの鑑賞者に批判される程実際に「理解出来ない内容」で作られているので細田守はその様な映画を作った理由は何かと考えますとまずこの映画は『美女と野獣』を現代に置き換えた『現代版美女と野獣』である所に理由があると言えます▲目次へ▲■12.「まとめ」■■a. 本作が「現代版美女と野獣」である理由『美女と野獣』は 今日ではディズニー版が決定版として知られるまでになりましたがディズニー版で描かれている事は原作を大きく自己解釈した異なる作品と言っても良いものだと言えます例えば原作のテーマは「うわべが良いだけの尊大な人物が受ける迫害からの再生」ジャン・コクトーが監督した版では「両親が精霊の怒りを買い 親の因果が子に報う 怒りからの開放」ディズニー版は「見かけで人を判断した罰を受け見えない真実が何かを掴むまでの試練」と、ディズニー版だけでは無くて映像化された全ての作品が異なったテーマで描いておりこれには原作の捉え方の違いに理由がある様に思えます原作が出版された18世紀に於いてもヴィルヌーブが執筆した長編のオリジナルをボーモンによって大幅に短縮されたものが今日『美女と野獣』として知られる様になったという経緯があり18世紀の当時ですらオリジナルの8割以上を助長として捉えボーモン版が出るまで存在を知られていなかったと言いますオリジナルを大きくカットして再構成したボーモン版は大ヒットし後世に残る名著として世界中に愛読される様になりましたこれはオリジナルで描かれた「テーマ」よりも「美女」と「野獣」という相反する「要素」がどの時代の時流にも当てはまる魅力ある「プロット」として成り立ちながら「美女と野獣」が持つ「見えない心を見る愛」といういつの時代でも愛されるロマン溢れる物語がそれぞれの時流に合わせたテーマで描かれながら時代を超えて受け継がれて来たと言えます21世紀制作版では舞台を「ネット社会」に置き換え「親への不信感」という呪いで「ベル」の仮面の主となり「親からの虐待」という呪いで「野獣」の仮面の主となり互いに何処に向けても救ってもらえない「SOS」に絶望し互いに何処に向ければ良いか分からない「憤り」に捕われ同じ「痛み」を知る者同士の仮想空間での出逢いを通して「損失と再生」を経験する紛れもない現代版『美女と野獣』としての「見えない心を見る愛」が描かれております本作に於ける「見えない心」とは「迫害」を受ける「いわれのない」理由に対してのものであり「いわれのない」事をされる「理由」は「誤情報」を真に受ける「社会」にあるのであって「迫害」をしている側も「真相」を分かっていない状態に全ての問題があると言えますディズニー版『美女と野獣』の「見かけで人を判断すると、心の奥底の真実が見えなくなってしまう」というプロットを踏襲している本作も普通に観ているだけでは「意図的」に「真相」が分からない「意味不明」な「誤情報」を演出して作られた隠された真相は見えない本作が「意味不明」に見えるとしたらそれは私達が生きる社会も本当は何が起こっているのか真相を知るまで分からないのと同じでありそれは 当たり前 の事だと言えますつまり本作の意味不明の「意味」とは表面上に見える事だけで判断した事が大多数を占めた時それが真相とはまるで異なった事でもそれが「真実」となってしまう今の社会への「警鐘」が込められているのであり「真実は目に見えない」のが「私達の社会である」という本作からの「メッセージ」だと言えます▲目次へ▲■12.「まとめ」■●本作はなぜ意味が分からない映画なのかそして本作の「隠されたメッセージ」私達の世界は複雑な事情が絡むだけでなく様々な物事が積み重なり「真相」はそれらが折り重なった奥の奥の底にあり目に見える事を頼りに物事を捉えようとしても真実に辿り着く事は時として困難を極めるのが今の社会だと言えますその様に「世界」とは本当の事を知る者の方が少ないのが「現実」であり奇しくもこの映画の「真相」を知らずに「見た目」の印象で本作を評価をする私達鑑賞者はそれを「体現」した訳であり本作の製作者はその様な「世界」を観客が「体現」する事で「理解できない」と「批判」される事を知りながら自虐的に表現しようとしたという印象があります思えば前作の『未来のミライ』は意味不明な映画として批判されて叩かれた作品でしたしかし『未来のミライ』も 実は 数多くの布石が散りばめられた見えないメッセージが潜んだ映画で多くの人がその事を知らずに鑑賞した作品だと言えます『未来のミライ』の見えないメッセージとは何か?ですがそれは次回の更新で解説するとして・・・wメッセージが見えないタイプの映画では大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』や庵野秀明監督の『旧劇場版エヴァンゲリオン』クリストファー・ノーラン監督の『プレステージ』などがあります『プレステージ』に至っては当サイトで前後編に分けて トータル20万文字相当の出版クラスの更新で完全解説した事がありますので興味のお有りの方は後ほど観覧していただくとして・・・wそれらの作品がなぜメッセージが見えないのかは「見かけで判断すると奥底の真実が見えなくなってしまう」という『美女と野獣』で描かれたテーマ同様「社会はその様に万人に理解出来る様に出来てはいない」からであり「地球」ひとつ取ってみても美しい地表を支える地底では溶岩やマグマがうごめく地質変動が常に起こっている事からも言ってみればそういった決して表面に出てはならない物事を含めてはじめて世界は「正常」で「健康的」だと言えるのかも知れませんつまりもし本当に誰にでも理解できる様な「分かりやすい世界」があるとしたらそれは奥底で物事をある方向へと導こうとする事が表に出てきただけの「作為」に満ちた「思惑」が潜む「時流」を操ろうとする「暗躍」でしかなく映画やドラマの世界の中でしか存在しない「異常」な事なのだと本作の製作者は捉えていてこの様な分かりにくい映画を作り続けているのかもしれません☆【楽天ブログ】2ヶ月振りの更新は10万文字の出版レベルでW映画解説 第2弾!さらに深く!さらに探究!なぜ意味不明な映画になったのかを妄想を交えて解説!『竜とそばかすの姫』PART2 補完編 もっとディープに解説!https://t.co/wjbMKkbcZ3 #r_blog— Voyager6434 (@voyager6434) December 7, 2022【Blu-ray】戦場のメリークリスマス [ デヴィッド・ボウイ ]価格:6380円(税込、送料無料) (2022/12/6時点)【書籍】世界がぐっと近くなるSDGsとボクらをつなぐ本ハンディ版 (新時代の教養) [ 池上彰 ]価格:1430円(税込、送料無料) (2022/12/6時点)【書籍】過剰可視化社会 「見えすぎる」時代をどう生きるか(PHP新書) [ 與那覇 潤 ]価格:1056円(税込、送料無料) (2022/12/6時点)【書籍】立ち直りへの道 DV加害者カウンセリングの試み[ 松林三樹夫 ]価格:1870円(税込、送料無料) (2022/12/6時点)【書籍】子どもの虐待防止・法的実務マニュアル【第7版】[ 日本弁護士連合会子どもの権利委員会 ]価格:3520円(税込、送料無料) 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2022年12月07日
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