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お買い物の際のレジ袋が有料化された生活にも皆さまそろそろ慣れていらっしゃるのではないでしょうか。私は大きなマイバッグを持ち歩いています。その中に更に、折り畳んだ大きなマイバッグが入っています。さて、自宅での話。燃えるゴミは、一旦スーパーで頂いた空き袋に入れてから有料の市指定ゴミ袋に移していました。しかし、スーパーで袋が頂けなくなったので、自前で購入することに。そこで、水分を含まない燃やすゴミは、新聞広告で作った簡易ゴミ受けに入れることにしました。たまったら、有料ゴミ袋にそのままポイ。おかげで、自前購入分の袋が減りました。マニラでは、以前からコンビニでもスーパーでも本屋さんでも、紙の袋でした。
2021年01月23日
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以前バンコクでたくさん購入していた、スポンジ入り布巻きリボン付きのハンガー。経年劣化で変色した物などを処分していて初めて気付いたこと。それは、中は木製であったということです。私は針金だと思っていたので、ゴミの分別のためにリボンを外し、布を剥ぎ、スポンジをめくりました。すると、その中はなんと、3層構造の木の板を貼り合わせたもので出来ていたのです。長年愛用していたのに全く知らず、ハンガーに申し訳ない気持ちになりました。という訳で、取り除くのは引っかける部分の針金のみとなりました。手で固い針金を曲げながら引き抜くのはなかなか大変でした。お世話になったハンガーちゃんたちに、感謝しながらお別れしたいと思います。
2021年01月17日
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新年おめでとうございます。熊本市は予想よりは積雪が少なく、ひとまず安堵しています。しかし母が昨日、昼食中に歯が抜けたとのこと。おせち料理などは小さく刻んで提供したり、いただいたリンゴはコンポートにするなどしています…皆さまにとりまして、穏やかな一年となるよう願っています。
2021年01月01日
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さすがに怯えております。これまで取り組んできたことは、通常の準備の他に、冷蔵庫、冷凍庫の中身を極力減らすこと。数日前から新たな生鮮食品は購入していません。停電必至だと思っています。冷蔵物、冷凍物ダメになります。せっせと作り貯めていた一食分ずつの冷凍食品を、消化しました。家が吹き飛ばされたら、途方に暮れてしまいます。今回の台風10号は、壊滅される可能性のある威力ですね。どうか皆さまご安全にご準備のうえお過ごしください。
2020年09月05日
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先日、台風の合間に庭先で手持ち花火をしました。思っていた以上に母が楽しんでくれて、意外と言うか、いえ、嬉しかったです。またやりたいな。
2020年09月05日
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昨日は自分の毛布2枚と、薄めの布団2枚を洗濯しました。大きな洗濯物は、干す場所に困ります。そこで目に入ったのが、テラスの介護用手すりです。素材と晴天の影響もありますが、風通しが良いので、時折向きや表裏を返しながら…まぁ、なんと乾きの速いこと😵黒猫のヤマちゃんが日陰に入って来ました。布団の向こうは、草取りして乾燥中の雑草です。庭の物干し竿も使うと、倍量洗えます。実は倉庫にも小屋にも物干し竿がありますが、猫ちゃんたちの匂いが付くので使っていません。今日は、母の毛布と薄めの布団、シーツを洗って干しています。※いま自分のブログを見て、ギョッとしました。お布団の手前側の色が、ブルー😱😱😱😱😱😱ゴールドです✨ 陽射しの関係でしょうが、ショック…💦
2020年06月23日
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昨日、郵便とは別便で、アベノマスクが2枚届きました。やっと…やはり小さい。以前すでに母用にケアマネージャーさんから1枚いただいていました。リメイクしようと分解し、何かとバタバタでまだ完成していません。市販のマスクもあるので…
2020年06月02日
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一年前に屋敷のリフォームをしました。バリアフリーに。お世話になった業者さまから、使い捨てマスク5枚が郵送で届きました。ご丁寧な添状と一緒に。お心遣いが嬉しいです。
2020年05月21日
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母の部屋で探し物をしていたら、懐かしいセピア色の写真がありました。私が生まれるはるか前の我が家の画像です。中学1年までこの屋敷で過ごしました。垣根の向こうには、父が鉄棒とブランコを手作りで設置してくれました。小学校5年生の時に父と二人で新しい屋敷の間取りの図面を引き、翌年新築しようとしていた矢先に…祖父が他界し、祖父の部屋がなくなるので図面も引きなおし。その後、現在の我が家となっています。親族の棟梁に建てていただきました。
2020年05月15日
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お久しぶりです!の方も、初めまして!の方も、こんにちワンボクはあおぞら家の愛犬・ロンです。これまで☆サニーお姉ちゃんのヒコーキでボクもたくさんフライトを楽しんできた。楽しんでいるボクを見て喜んでいるお姉ちゃんを見るのが嬉しくて、毎日ワクワクしながら過ごしてきたよ。そんなボクに皆さまからもたくさんのコメントをいただいて、ボクの肉球では到底お返事も書き込めないのに、本当にありがとう。 このたびボクは、新たな世界へ旅立つべく、転職を決意したんだ。これまでのお仕事は、お母さんやお姉ちゃんたちを楽しませる“癒し系コメディアン”だった。長年の実績が認められて、この度あおぞら家を見守る“ナイト”の位を授かったんだ。定年退職はない。ずっと続けられるお仕事なんだよ。 あおぞら家には昔から身内の誕生日や命日に自分も“ナイト”の仲間入りをするというマジックのようなご先祖さまのご配慮があるんだ。ボクは、あと数日後3/22のお母さんのお誕生日まで頑張ろうと思っていたけど、今日3/17はおばあちゃんの命日で、お迎えに来てくれたから先に一緒に逝くことにしたんだよ。道に迷わずお父さんのもとに連れて行ってくれるので安心だね。お母さんのお誕生日には悲しませたくないし、ご先祖さまがお彼岸パーティで歓迎会を開いてくれるよ ☆サニーお姉ちゃんやお母さんはここ数日毎朝出かけ前に万一のことを考えて、もしそれが最期でも悔やまぬ挨拶をしてくれていた。ボクはもう十分満足なんだ。心に迷いが生じないように、ボクは誰もいない間におばあちゃんの道案内で旅立った。お姉ちゃんは今季初運行の恋人に逢いに行っていたよ ボクのちっちゃな身体での17年3ヶ月の犬生は、人間の皆さまの110歳の人生に相当する。大病することもなく、最期苦しむこともなく想い出いっぱいの我が家で静かにボクは永久の眠りについた。 そしていま、ボクは初代ご主人さま・お父さんと再会できているよ!お父さんは2代目ご主人☆サニーお姉ちゃんにありがとう!と言っているよ。お父さんが11年前に旅立ってから1年後にお姉ちゃんがお家に帰って来た。その日からボクは☆サニーお姉ちゃんを2代目ご主人さまと決めたんだ。お母さんにはご飯係やお散歩係ばかりしてもらって申し訳なかったけど、お父さんが居なくなって数年後にお母さんが言ってくれた一言は一生の宝物だよ。「ロンがおったけん(旦那の死を)乗り越えられた。」だからお姉ちゃん。これからはボクの分までお母さんのことをよろしくね。ボクはお父さんと、ずっと近くでみんなを見守っているからね。 これまで本当にありがとうございました。皆さまにとっても、人生が素晴らしい悔いのないものでありますように心より願っているワン
2012年03月17日
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先ほどNHKさんの小学生向け理科のTV番組を見ていてとても懐かしく思ったことをポツリと・・ 「ほうせん花」というお花をご存知でしょうか?我が家は小さい頃からずっと庭にありました。そう言えば‥ 今、なくなっていますが‥ 「ほうせん花」の想い出。女の子ならではの想い出と言えるでしょうか。花びらで、爪にピンクや赤、オレンジなどの色を押し付けて“マニキュア”でお洒落気分になり、すこし大人気分を味わうのがちょっとした楽しみでした。ほうせん花の花の汁、なかなか落ちません。爪が伸びきるまで落ちないので、途中でまた塗り足したりして遊んだものです。 他には、春には田んぼでれんげ草やしろつめ草でネックレイスを作っていました。 田んぼで、セリも採ったりしてよく遊びました。田んぼと言えば‥ イタイ思い出もあります。 ↓過去記事より抜粋 こどもメロンと思ひで話メロンの産地ならではの話ですが、メロンは玉を大きくするため、かなりの実を若いころに摘果します。まだ直径5センチくらいの頃でしょうか。その摘果メロンは最近では販売もされているようですが、お漬物として重宝されています。わが家でも毎年大量に頂いて、塩漬け、しょう油漬け、ビール漬けなどにしています。お漬物にしなければ、捨てられるか畑の肥やしとなります。小さい頃は、放課後よく近所の子供たちと田んぼで遊んだものです。何していたんでしょう?ただワーワー言いながら走り回っていたのかも知れません。ある日も、10人くらいで田んぼで遊んでいました。小学3年の頃です。ちょうどこの摘果メロンがたくさんバラ撒かれていたときでした。しゃがんでいて、ふとふり返った瞬間、サニーの目に星が5つ飛びましたナニガオコッタノ・・わけが分かりません・・。あとで聞いたら、同級生の男の子が冗談半分でサニーの頭めがけてこの摘果メロンを投げたのだとか。そんなことはつゆ知らず、その瞬間にサニーがふり返ってしまったのです 投げられたメロンは粉々だったそうです。その男の子、野球部のピッチャー・・サニーは、それから1週間"お岩さん" こんなのサニーじゃなーい左の眉あたりにヒット。周辺も腫れているので目が開きません。あと少しずれていたら、失明していたそうです。危なかった野球部クン、相当反省したようで、毎日毎日謝ってきました。別に悪気はなかったのだし、サニーも怒っていた訳ではなく、ただこの痛さと顔を何とかして~という気持ちでした。お陰さまで、1ヵ月後にはほぼ傷も残らずきれいに治りました唯一の後遺症は、怖くてキャッチボールが出来なくなったことです。小学校の夏休み、毎年地区対抗の親子ソフトボール大会がありました。時おり早朝から練習もあります。これが・・ 恐怖と苦痛でした。もちろん今でもキャッチボールは出来ません。いや、絶対しません かわいい後日談がありますサニーは幼少よりピアノを習っていまして、小学5・6年生のとき、たまたまその野球部クンのお姉さん(20代)に習うことになりました。野球部クンのお宅まで、当時の足だと徒歩7分。自転車で数分。週に1回放課後通っていました。野球部クンは家に居たり居なかったり。レッスンのときは別に先生としか向き合わないので、よく分かりません。野球部クンに対しては、あのメロン事件のわだかまりなどすっかりなくなり、その後も普通にみんなで一緒に遊んでいたのですが・・本人は、気にしていたのかな。小学6年のバレンタインデーの日。別のクラスだった野球部クンが、わざわざサニーの教室まで来て「チョコレートちょうだい・・ 明日でいいから」と言ってきたのです。もちろん用意していなかったので、その日の夕方、家の向かいの駄菓子やさんで普通に食べるような可愛げもない板チョコを買って、次の日「ハイ!」と渡しました。1ヵ月後のホワイトデーの日。朝、登校したら、サニーの机の中にやっと入るぐらいの大きな箱が入っていました。リボン付き。名前もメッセージもありませんが、サニーは野球部クンにしかチョコを渡していなかったので、それは野球部クンからのお返しであるとすぐに判りました。廊下ですれ違ったとき、「ありがとう」とだけ言いました。照れた感じで頭をかいていました。あんな板チョコ1枚だったのに、逆に申し訳ないと思いました今でも、メロンと野球を見ると、この思ひでがよみがえります今年は、食べてみるかな ‥という記事を4年前に書いておりました。あ。いまもメロンがあります。あした食べようかなNHKさんの教育番組から、思いがけず懐かしいことをたくさん思い出した一夜でした
2011年07月08日
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九州新幹線全線開業まで、あと88日となりました。カウントダウンポスターもまもなく第6コーナーを通過します。 今日は新幹線熊本駅の発車時のメロディーが決まりました。「おてもや~ん」です。早くホームで聴いてみたいです。 『ゲキ★ヤスきっぷ』の旅の続きをご報告したかったのですが、本日はお休みさせていただきます。早く帰りたいからロンに、「今日は美味しいもの買って帰るからね」と約束しました。今日12/14は、亡き父と愛犬ロンのお誕生日なのです。父は、いつもサニーと一緒に居てくれています。赤ワインで乾杯しましょうロンは、人間でいうと90歳ぐらいのおじいちゃんです。足腰がめっきり弱り、数十センチの段差でも上り下りが出来なくなりました。今日は何かスペシャルフードを差し入れしてあげましょう。ふたりとも、私たち家族の大きな心の支えとなっています。ありがとう 以下の画像は全て今年のものです。↓ 1/20 頭かくして、・・・。↓ 1/23↓ 5/7↓ 10/16↓ 11/10↓ 今朝3時半ごろ
2010年12月14日
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本日は、あおぞら家にまつわる“海苔”のお話をいたしましょう。長崎・佐賀・福岡・熊本にぐるりと囲まれた有明海は、さまざまな問題にも負けず海苔やアサリ貝、ハマグリの宝庫であります。我が町は農業と漁業の町。あおぞら家周辺の一角に限っては、農業と、漁業は魚よりも海苔とアサリ貝が主流でした。はい、過去形です。サニーが幼い頃は近所にアサリ貝も海苔も加工場があり、よく遊びに行ってはあれこれ いじっていました。大人にとっては 超~邪魔だったでしょうねご近所には個人で海苔をされている方も多く、堤防にはズラリと海苔の養殖用の網が干してあり、これが乾くと なかなか臭います懐かしい思い出です用水路は、個人宅の海苔の処理の排水で赤く染まっていました。生の海苔をしょっちゅうご近所さんから山盛り頂戴して、大きな鍋いっぱい、お醤油とお砂糖で煮て毎日食べました。食べだしたら止まらないほど美味しかったです。あの磯の香り、煮た海苔といえどしっかり残っている食感は絶対に生海苔でないと味わうことの出来ないものです。今ではなかなか手に入りませんので 恋しいです・・ 小学生の頃、近くに港を造る計画が決定し着工がはじまるとアサリ貝も海苔もイカも、我が家の目の前ではとれなくなりました。地元漁師さんたちの大変な地道な努力により、数キロ離れた所ではハマグリ漁の状況がやっと近年回復し、干満の差の大きい有明海のハマグリは絶品で高い評価を得ています。我が家もいまでも漁業権を持っており、時おり漁協の会議があります。 なぜ本日この記事かと言いますと・・サニーにとっては海苔を食べることや海苔のストックが常にたくさんあることは当たり前です。数ヶ月前にTV番組『秘密のケンミンSHOW!』を見ていたら転勤シリーズで東はるみさんが(確か佐賀県に転勤?)夫・京一郎さんの上司の奥様とスーパーでお買い物をされていて、奥様が海苔の束を手にとって買い物かごに入れられた時に「奥様!そんなに海苔を買って、どうされるんですか?」と目を丸くしておられました。それに驚かれることの方が、我が町民にとっては驚きだったのです。 ↓昨晩の我が家の海苔のストック集合写真板海苔250~260枚ぐらい、海苔のふりかけ3本、海苔の佃煮1瓶。ふりかけと佃煮は、一気に一瓶食べてしまいそうに美味しいのですが塩分を考えて、もっと食べたいところを必死にガマン!板海苔は、焼いてほとんど毎日10枚ずつ食べています。↓10枚x10束で100枚すべてご近所さんからの戴きものです。この量はまだ少ない方で、御中元や御歳暮の時季になるともっともっと戴き物の海苔が増えます。梅干やラッキョウを浸けるような大きな容器に入った海苔を戴くこともしばしばあります。 母はほとんどお野菜も海苔も食べないのでサニーとは全く違った食生活をしています。(なので、健康のためサニーが調理してお野菜を食べさせています。本人は農作業はしますが、お料理は面倒くさいみたいです・・)そんな母が、昨夜海苔を食べているサニーに言いました。先日、何かのTV番組で「海苔が身体に良い」というのを見たそうで、自分もこれからは毎日少しずつ進んで食べるようにする、とのことでした。 ↓「風雅巻き」 海苔屋さんが作っている、豆菓子を海苔で巻いたお菓子。(画像は株式会社風雅さんのHPより拝借しました)これ、とっても美味しいんです!以前、姉に連れられて松浦あやさんのコンサートに行ったら、コンサート中に“熊本のお菓子のお気に入り”としてご紹介されていて嬉しかったです。このお菓子もご近所さんからよく頂戴して、年中必ず我が家にあります。サニーも、お客さまの手土産を選ぶ際のトップ3のひとつとしてひんぱんに利用しているお品です。この「風雅巻き」の利点は、美味しいのはもちろん、熊本銘菓であり、なおかつ重量が軽いのでお客さまが持ち運びやすいこともありがたいのです。楽天市場さんにもきっとあると思いますし、あそ熊本空港や熊本の主要な駅の土産物売り場にも必ずあります。 海苔を食べよう、日本人
2010年10月01日
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溜りに溜まっている旅日記を報告してまいりたいのですが、なにぶん公私ともにやることも溜まっており余裕が無く・・全国各地で「熱中症」が相次いでいるので 本日はサニーの「熱中症」の苦く熱い思い出話にいたします。いまでは暑い夏が大好きなのですけれどね 熊本市は本日も快晴で、夕刻から雷を伴った夕立が一時激しかったです。傘をお持ちでなかった方はびしょ濡れですね サニーの熱中症の思ひ出・・それは、まだ「熱中症」という言葉が浸透もしていなかった小学生時代にさかのぼります。えーと・・ 10年前ということですね サッカー部だったサニー。夏休みも、お盆以外は毎日練習がありました。連日、片道40分歩いて小学校に通っておりました。当時、ガリガリの体で真っ黒に日焼けしておりました。今でも、手の親指と人差し指で、足首をぐるっと握れます。 グラウンドで練習をして走り回っていると、ふっと コーチの指示や周りの音がだんだん遠のいていくのです・・耳が聞こえなくなり、同時に視界も真っ暗になって、ボールが飛んで来ているから自分が走って行ってヘディングしなくてはならないと解ってはいるのですが、もう意識もうろうで、ぶっ倒れ・・とりあえず担がれて木陰に運び出され、(邪魔だからグラウンドから出ろ!という感じで・・)お食事中の方にはスミマセンが、そこでゲーゲー吐いておりました夏休み、毎日のように。。。 本当に辛かったのですが、当時は練習中“水分補給”すらさせてもらえない時代。サッカーはヘディングするから帽子もかぶりません。何より、ひと昔まえですから、スパルタ教育の時代です。担任の先生からビンタや蹴られたりは当たり前。それに文句を言う生徒や保護者も居ませんでした。今でしたら大問題ですよね・・小学校で同じクラスだった子で一度もビンタ喰らったことがないのはおそらくサニーだけだったと思います。 サッカーもそんなスパルタ教育でしたが、最後である小学6年生のときには県内の学童オリンピックで銅メダルを取ることが出来ました。顧問の先生が、6年生部員が引退時に記念にとトロフィーを作ってくれました。 先生、ありがとう。辛い練習を乗り越えたからこそ、いまでも、熱い、熱い夏の思い出です
2010年08月18日
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亡き父と愛犬・ロンのお誕生日に皆さまの温かいコメント、本当にありがとうございます ロンには、セーターは先日母が2着買ってきていたので一番の楽しみである美味しそうなドッグフードにしました。ワインで乾杯 安モノですが、酸化防止剤無使用です。我が家は年中 常にトマトを大量に頂戴しています。昨夜は赤ワインに合うものを、と残り物のベーコンを炒めて玉ねぎとトマトを投入。味付けは塩のみ、あおぞら菜園のパセリとブラックペッパーを挽いて出来上がり。今日もお仕事なので、大好きなニンニクは使いませんでした。母がリクエストするほど美味しいですスープ状になっていますが、水は足していません。すべてお野菜から出た水分です。美味しいお塩を使うと、トマトと玉ねぎの甘みをぐっと引き出せます。 もうひとつ、とっておきの肴がありました。注文していた「JRカレンダー」が昨日届いたのです「SL&RAIL」バージョンと、「新幹線」バージョン。ヘッドマークシールやポストカードも付いています。↓『SL人吉』クン 球磨川第一橋梁は人気の撮影スポットです。↓『特急リレーつばめ』九州新幹線未開通区間の、博多=新八代を結び、新八代では降りてすぐのホームで九州新幹線「つばめ」鹿児島中央行きが待機していて3分乗換えで発車します。↓先月乗った『SLやまぐち号』 津和野=新山口を走ります。↓九州新幹線『つばめ』800系ひらたい箱にてネコちゃんが届けてくれましたが、丸めて持ち運べるようにビニールも入っていました。カレンダーは、先日ブログお仲間さんから毎年とても楽しみにしている素敵なものも頂戴しています。そのお方がお撮りになった写真が載っているのですコレクションさせていただいて、3年目です。ありがとうございます実名入りなので、ご紹介は控えさせていただきます。(鉄道関係ではありません。) 首を長くして待っていたJRカレンダーが昨日届いたのは、父からの早めのクリスマスプレゼントに思えるのです。8年前を思い起こせば・・その1年前に父が他界して、東京で働いていたサニーは帰熊するかどうか、悩みに悩んだ1年間でした。ついに帰熊する決心をし、では一体熊本で何のお仕事をしよう?と悩んでいたら、熊本にいた姉が現職場の新規開業を教えてくれました。サニーにとっては、絶対ここで働きたい、と思う職場でした。履歴書と熱烈なラブレターを投函する日を、父の誕生日に託しました。「サニー帰って来るから、待っててね」と願いを込めて、誕生日に投函しました。すると、クリスマスの日に現職場から電話があり面接試験を受けに来て下さい、とのこと。ちょうど年明けが父の一周忌で帰省予定だったので面接日時を合わせて下さいました。クリスマスプレゼントとなったのでしたその後もう一度面接試験に呼ばれ、無事入社に至りました。 昨夜は数年ぶりに鍵盤に触ってみました。小学生のころピアノを習っていましたが、(↑痛かった思ひで話があります・・) そのピアノの先生がご懐妊で引退されて他の先生には移らず、中学以降は独学です。高校・大学受験直前になっても、勉強時間よりピアノに触れている時間の方が長かったです。中学・高校と毎日弾き続けたピアノは、富山在住のサニーが名も知らぬ遠い遠い遠い親戚の方のもの。お住まいの事情により置けないので、自由に弾いていいから半永久的に置かせて欲しい、と口から手が出るほどピアノが欲しかったサニーに何ともありがたいお申し出があったのでした。アップライトピアノを置くために、ちょうど新築予定だった屋敷のサニーの部屋の床を補強しました。高校卒業後、大阪の大学に進学。ある日、数年ぶりに一時帰省した際に、ピアノがタンスに変身していました。姉の部屋に移動したのかと思ってもどこにもなく・・持ち主が引っ越して置けるようになったので持って行かれたそうです。仕方ないのですが、せめて最後のお別れをしたかったです・・もっとショックだったのは、親に楽譜を全部捨てられたことです。思い出がいっぱい詰まっていた、サニーだけの楽譜だったのに・・「ピアノがないからもう要らないだろう」と思ったようです。 そんなショックから約10年後の数年前に、懇意にしていただいている方からお誕生日祝いにと、電子ピアノをお贈りいただきました。最近はプチ家出に忙しくて練習をサボっていました。久しぶりに触ると、やはり指が動かない・・それでも、昔、父のギターの楽譜のコードを見ながら弾いた1970年代のフォークソング等を心の楽譜から引っ張り出してみました。聴こえたかなぁ
2009年12月15日
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お誕生日と言っても、サニーのお誕生日ではないのです。亡き父と愛犬・ロンのお誕生日です赤ワイン買って早く帰ろうまた画像がご機嫌斜めですね・・
2009年12月14日
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昨夜自分でバッサリと切りましたお団子にしていたので毛先がくるりんとなっていますが、腰まであった切り落とした髪は50センチあります。それでもまだ残っている髪は肩まであります。 いつもお団子にしているので、サニーがここまで髪が長いとご存知の方は居ません。顔や首周りに髪の毛が触るのがイヤなのです。シャンプーが楽ですね~そして何より頭が軽いいまはポニーテイルにしています ここまでバッサリ切っても、たぶん誰にも気付いてもらえないと思います・・今朝、母も気付きませんでした・・
2009年11月23日
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先日、ただいま公開中の映画 『おくりびと』 を観てきました。第32回モントリオール世界映画祭で最高賞のグランプリ受賞作品です。本木雅弘さんが演じる“新人納棺師”が、さまざまな死と向き合う中で、家族の絆や人間愛の深さを学んでいくお話。滝田洋二郎監督、キャストは広末涼子、山崎努、余貴美子など、味のある実力派ぞろいです。ハンカチなしでは見られない感動作ですが、随所にユーモアが見られ、笑いもあります。ぜひ皆さんにもご覧いただきたい作品です。 ~ 人は誰でもいつか、おくりびと、おくられびと・・ ~サニーが送り出した肉親では、祖父母と父。まだサニーが幼いころに他界した祖父母の時は、通夜・葬儀ともに自宅でした。数年前に他界した叔父が、当時現役で葬儀社に勤めており、いろいろと親身になってやってくれて、よいお見送りが出来たと思います。 7年前の父の時には、叔父はもう現役を退いておりました。父は、ある日突然帰らぬ人となりました。最後の会話も出来ないままのお別れです。別の病院で看護士をしている姉とサニー2人で40分間心臓マッサージをしましたが、ふたたび目を開けてくれることはありませんでした。解剖後、処置室に入れてもらい、父の遺体を清め、着物を着せ、お化粧をし・・親族の手も借りて、棺に納めました。「ありがとう、お疲れさま。そしてこれからもよろしく」と言って送り出しました。 身内に“おくりびと”するのは悲しみに打ちひしがれている時ではありますが、どうか悔いのない“おくりびと”を、感謝の気持ちを込めてやりたいものです。
2008年10月17日
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昨夜は姉と久しぶりに二人でデートでしたここのところ再三誘ってくれてはいたものの、なかなか都合をつけられず・・しかも先日はお誘いメールをくれていたのに旧携帯が“圏外”でセンター止まり昨日のお昼に携帯機種変更して受信し、大慌てで2日後の返信となりました 昨日はまず退社後に、先日大腿骨を骨折された方のお見舞いに行ってきました。街中の病院から、少し郊外に移っておられます。まだ60歳代だと思っていたら、70超でした お若いです。骨や全身の状態もお若くて、この年代にしては脅威の回復を見せておられます。お怪我から現在3週間。歩行器を使っての歩行訓練や筋トレなどの日々です。思ったよりもはるかにお元気そうで、ホッとしました。前回行ったときはまだ手術前で、とても痛々しかったのです手術の傷跡も、とてもきれいでした。また元気をお届けに行きたいと思います さて、街に戻って姉とお食事父が他界した後、まだサニーが東京にいる頃、母と姉を東京に呼んで遊びました。その時もんじゃ焼き屋さんに案内したところ、2人ともハマッてくれ、以来こちら熊本でも時おりホットプレートで自宅で焼いたり、街のもんじゃ屋さんにコンサート後などに寄ったりしています。具は、姉の好みを尊重。嬉しそうに焼いていましたやはり鉄板はいいですね~ お後は、サニーたちの定番コース。このもんじゃ屋さんの斜めにペットショップがあり、覗いて行きます。写真撮影は禁止 愛くるしいワン・ニャンがたくさんいて癒やされます。“蛇”もいて、「触られたい方は店員までお知らせ下さい」とのこと。け、けっこうですでもちょっと触ってみたいかも・・ そして、姉がカラオケ好きなので、すぐ近くのカラオケ店に行きます。ここは偶然発見しましたが、なかなかマイクが良いので定番になりました姉は若モノの曲などを歌うのですが、サニーは歌えません「○○(←アーティスト名)も知らんとね?」 毎度の会話です2人とも今日は休みなので、延長延長で4時間、も追加追加母がいま仕事が忙しくて来られなかったのが残念でしたが、久しぶりに姉と楽しい時間が過ごせました。ありがとう
2008年05月10日
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最近では、念のためセットした携帯アラームがなる前に、午前4時に目が覚めます今朝も、目が覚めると午前3時56分。アラームセットを解除して起き出すと・・ 寝室のガラス戸を開けると、暗がりの中で視界が何だか白くぼやけて見えます。コンタクトレンズなので目が疲れているのかなと一瞬は思ったものの、その思いは即座に消え去ります。何かをいぶしたような臭い 煙です 目に沁みます 真っ先にキッチンへ灯りが点いています火にかけっぱなしのゆで卵母が、夜のうちに今日のお弁当の具としてゆで卵を作ろうとしたものでしょう。すぐに火を止めて換気 全くもう、あと少しで火事になるところでした母はよく夜中に、テレビも電気もつけっぱなしで爆睡しているのでサニーが消しに行くこともしばしばですが、昨夜はサニーが床に着いた後に火にかけていたのです。つい3日ほど前に、500メートルも離れていないご近所で火災が発生、ちょうど起きたばかりの午前4時にけたたましいサイレンが鳴り響きました。我が家はスピーカーの真下なので相当うるさいのですが、母は目覚めることも無く・・常々「もし火事になっても起きらんバイ」と自分で言っています。今朝も、「もし一人だったら焼け死んどった」と。笑いごとではありません 厳しく教育し直さねば。 言えた立場ではありませんが、皆さまも万一の場合に備えて、 日頃から消火器の場所と使い方を確認しておかれて下さい。 なかなか“練習”は出来ないものですが、 その辺りはクルー時代の訓練に感謝しています 以下は換気し始めた後の画像ですが・・↑ふすまの向こうの(廊下あり)ガラス戸の向こうがサニーの寝室↑あおぞら航空の事務所です。↑キッチン
2008年05月06日
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前記事のロアッソ熊本・試合記事に、動画のリンクを追加しました。高橋選手の、痛々しくも素晴らしい角度のヘディングシュートがご覧いただけます。 今日から4月。熊本市内中心部の禁止区域での歩きたばこやポイ捨ては、1000円の過料となります。昨年7月から「歩きたばこ禁止条例」がスタートし、十分な周知期間を経ての過料実施。厳しく取り締まってもらいたいものです。 サニーは熊本での社会人生活・丸6年が過ぎ、今日から7年目となります。社会人としては誰ひとり知らないところからのスタートでしたが、お陰さまで本当にたくさんの方々に支えられて、日々楽しく過ごせています。感謝の心を忘れず、新たな気持ちで頑張ります。今後ともよろしくお願いします。 7年前の東京時代に父が他界し、6年前に帰熊して現在に至ります。今でも父は、私たちと共に生き続け、見守ってくれています。突然の他界はとても辛いものでした。最後まで諦めることが出来ず、ドクターが心臓マッサージを止めた後も、私と姉(看護士)の手で続けました。 ここから先は、今日未明の夢のお話です 父と母の寝室のお布団に、父の遺体が安置されています。もう7年以上も、目を開けてはくれません。 ある日サニーが、「どうして動いてくれないの?」と泣きながら人工呼吸をしたところ、目が開いたのです。大急ぎで母を呼びに行くと、信じないながらも見に来てくれた、その時には父はゆっくりと体を起こし、「おぉ、久しぶり~」と言いながら自らの足でリビングまで歩きました。あまりに突然のことで目を丸くしている私たちに、父が言うには・・「思ってくれる気持ちがとても強いので、特別に“外出許可”がもらえた。でもちょっとの間しか居られない。15分後には帰らなくてはならない。」一人暮らしの姉もたまたま実家に帰ってきて、積もる話をしました。 15分間なんてあっという間。また自分の足でお布団まで歩いていきます。「行かないで」とせがんでも、おきて破りはご法度。「じゃぁ、絶対また来て」 「うん、また来るけん」リラックスしたのか、長いあいだ寝すぎて腰が痛かったのか、横向きにお布団の中に入り、また固く、動かなくなっていきました。 4月1日午前3時33分。現実にはあり得ない話ですが、しばらく「夢」だと理解できませんでした。夢でもいいから逢いたい。こういうエイプリルフールなら、毎日大歓迎です。逢いに来てくれて、ありがとう 焼酎用意して、また待ってるよ
2008年04月01日
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おっと、ビックリ いま記事を投稿しようといつもの場所を適当に(笑)クリックしたら、「下書き保存」というのを押してしまいました。下書き保存ができるようになったのですね 助かります。これまで、打ち途中で(自分の都合で)時間がなくなり、何度となく消去してまた打ち直していました 携帯からの機能といい、楽天さん、最近頑張ってますね さて、次回の記事では、プチ家出・飯塚編の続きをお届けします。その前に今回は、サニーが生まれ育った屋敷についてお話します。以前「サニー家ものがたり ~潮害編~」で少し触れた、あの古い屋敷からです。いくら田舎町とは言え、さすがにご近所でもあのような古い屋敷はもうサニーの小学校時代には1軒もありませんでした。サニー邸は、サニーが小学6年生の頃まで本当に昔ながらの、昭和初期のお屋敷でした。高床式で通気性がよく、玄関を入ると広い土間がありヒンヤリとします。お座敷の横には分厚い木材の縁側。少し隙間が空いていて、小さいものをよく落として、高床の下に潜って取りに行きました。この高床の下にはよく野良猫も迷い込んできていました。テレビアニメ「サザエさん」宅の床を、もっと高くしたようなものです。今のサニーの腰の高さ程でしょうか。梁や柱には太い木材が使用されており、「大黒柱」の意味を実感したものでした。台所、洗濯場は広い土間です。台所と中庭には枯れ井戸があり、台所の土間では保育園児の頃、料理の手伝いをしながら母に「あいうえお・・」と50音を教えてもらったのを鮮明に覚えています。洗濯場はとても広くて、通路には排水用の溝が流れていました。ここでよく、お祭りの縁日ですくった金魚や、家の前の用水路で捕ってきたメダカやフナをバケツで飼っていました父のウナギの仕掛けや投げ網の保管場所も、ここが定位置。水がふんだんに使えるので、捕ってきたウナギは大桶に入れ、ここで父が自作の長いまな板の上でさばいていました。お風呂は五衛門風呂。槙で沸かすので、雨の日は湿っていて火がつきにくいです当然ながら、小さい頃から斧で槙割りもやっていました。火に当たりながら、祖父が戦争のことも含め、昔話をたくさん語ってくれていました。唐芋(サツマイモ)をホイルに包んで残り火に放り込み、焼き芋をつくったりもしていました。五右衛門風呂は、風呂釜の内側や底が熱いので、踏み板を平行に静めないと大変なことになりますが、小さい頃から入っているので、慣れたものでした。よく父と一緒に入りましたが、さすがにある日、断られました お手洗いは外にあり、もちろんボットン便所。男性用の小は別にあります。土間から通じる2階は物置で、家宝と呼べるものは何もありませんが、木箱を開けてみると何でも出てくるのでとても面白く、一度上がったら何時間も下りてきませんでした。中庭を挟んで屋敷がコの字型になっており、笹藪や大きなびわの木があって、よく登って遊んだり、かくれんぼしていました。笹の葉で笹舟も、よく作って川に流していました。七夕前にはご近所や学校からたくさん笹をもらいに来られていました。笹薮と屋敷をぐるりと半円で取り囲んで砂利道(私道)があり、その向こうにあおぞら菜園と倉庫、小屋、車庫がありました。当時は今より広かったのです。私たち姉妹が生まれてからは、母屋の横に増築して(父が自ら造った)、祖父母と今でいう2世帯住宅になりました。まだ若かった父が、寝室にキャンディーズのポスターを貼っていたのを覚えています。今は弾けませんが、あの部屋では父にはギターも教えてもらいました食事をしたりテレビを見たりは、母屋の方でみんな一緒にしていました。サニーが4~5歳の頃に祖母が他界ました。次女ということで、大層可愛がってくれていたそうなのですが、あまり記憶がありません・・ このとき、父が近所に自らの手でお墓を作り、サニーもセメント塗り塗りして遊んでいたのはよく覚えています。その後、屋敷の老朽化のため新築を計画。祖父と両親、二人姉妹の5人の家です。母と姉は興味なし、小学5年のサニーと父と2人で毎晩顔を突き合わせて図面を作成。具体的に建て替えを進めようとしていた矢先、祖父が突然、帰らぬ人となりました小学6年のことです。不幸があってから1年間は屋敷に触ってはいけないので、その間に計画していた祖父の部屋のない図面を父と引きなおし、祖父の一周忌を終えてから着工。まずは古い屋敷を取り壊すのですが、家族揃って傍でクレーン車で取り壊されるのを見ていると、いろんな思い出が走馬灯のように駆け巡り、とても寂しいものでした。「おじいちゃんの家が、なくなった・・」仮住まいは現存する倉庫。これまた父がコツコツと造って、サニーもセメント塗り塗りしましたが、家族4人で1年近く住みました。ロフトもあり快適で、ピアノやタンスで仕切り部屋を作っていました。台所も、普通のシンクとガス台を持ってきていました。水道・電気の配線も全部父がやりました。現在の家は、昔より少し奥に寄せて建てています。祖父の他界に伴い、土地の一部を遺産分与で父の弟家族に分け与えたためです。サニーが高卒後大阪に出て、ある日久々に帰省すると、そこには叔父家族の家が建っていました。今も隣りに住んでいます。以上がサニー邸の変遷です。次回は飯塚の「旧伊藤伝右衛門邸」という、旧サニー邸とは違ったご立派なお屋敷をご紹介いたします。なお、おそらく頂戴するであろうコメントが予測できますので先に申し上げておきますが・・「サニーのアウトドア好きはこの屋敷が原点であった」と思われる方も多いかも知れません。確かに、この育った屋敷の環境もありますが、同じように育った姉は全く魚釣りやらセメント塗ったりなどには興味がなく、昔から正反対でした。結局は性格の問題かと思います。私はそういうのが大好きだったので、自然と父と趣味が合い、いろんなことを教えてもらいました。手先のとても器用な人で、その影響は多分にあります。この経験と知識は、私の大切な思い出であり、また、いまや財産の一つです
2007年12月08日
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8月15日は、終戦記念日でした。お亡くなりになられた方のご冥福を、心よりお祈りします。サニーが幼いころは、まだ周りに戦争のことを語ってくれる年配者がたくさんいました。祖父も、そのひとりでした。 「臨時召集令状」いわゆる“赤紙”です。大正9年生まれの祖父にもついにこの召集令状が届き、お国のためにと出兵準備をしていたところ、終戦。祖父は、命拾いをしました。父は戦後生まれです。もし祖父が出兵していれば、父も、そして私もこの世に存在しなかったかも知れません。昭和20年8月9日 午前11時2分、西の空が激しく黄色く光ったのが見えたそうです。長崎に原爆投下。しばらくして、こちら熊本市の西の果てでも黒い雨が降ったそうです。祖父が他界してから、老朽化のため屋敷を建て直しました。本当は祖父の部屋も計画していたのです。図面も完成した矢先、突然祖父は逝ってしまいました。不幸後1年は屋敷に触れないので建て直しを延期、その間、サニーと父とで図面を引き直して、新築しました。そのどさくさで、もうこの赤紙は残っていないかと思っていたのですが、ふとありそうな気がして、「父ならここだろう」と思った場所をいま見てみたら、一発で見つかりました。黒塗りの箱に桐箱に入れて、父が保管していました。「ここにあるよ」と、教えてくれたのですね。戦争を、風化させてはいけません。世界平和を切実に願います
2007年08月18日
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お盆の風習は、地域によってずいぶん違うものです。7月盆のところもありますね。サニーの住む熊本市西部は8月盆。我が家の習慣をご紹介します。我が家ではこれが当たり前ですが、皆さまのところと違う点もあるでしょうね。8/13夕方、ご先祖さまをお迎えに、お墓に行きます。(迎え火)お墓は我が家から徒歩5分もかかりません。この墓地にお墓を持つ家は遠くても徒歩15分もあれば来れるでしょう。近年は車でお墓参りのご家庭も多く、少し寂しく感じます。提灯を持って、点けずに行きます。お墓に着いてお参り。帰るときに提灯を点けます。ご先祖さまの案内役、道しるべです。自宅仏壇両脇には電気で回転式の盆提灯を飾り、落雁やご先祖さまの好物をお供えします。我が家はあおぞら家の本家なので、こちらから親族のところへ出向くのではなく、皆をお迎えする側です。幼い頃は、盆正月は同年代の従兄弟たち家族が泊まっていき、それはそれは賑やかで幼心に楽しみでした。しかし若くして祖母が他界、ついで祖父も‥負担をかけてはいけないという先方の配慮でしょう、それ以降、お泊りはなくなりました。それでも13~15日のいずれかにはご訪問いただいています。15日夕方、ご先祖さまをお墓へお送りします。(送り火)送る前には、うるち米の粉で作ったお団子を仏壇にお供えし、ロウソクの提灯を点けてお墓まで向かいます。道しるべ帰りには、提灯のロウソクは消して持って帰ります。でないと・・最近は、初盆以外ではなかなか提灯を提げて歩いているのを見かけません。父の初盆のときまだ東京にいて、送り火にだけ何とか休みが取れて帰熊。親族一同でぞろぞろとお墓まで歩きました。サニーの提灯だけ、火を点けても点けても消えるのです。叔母(父の姉)曰く、「帰りたくないて言いよらすとよ。」 私だって、帰って欲しくない初盆のときには、お墓に支柱で棚を作り、提灯をいくつも置いて帰ってきます。後日、回収に行きます。この支柱を作るのに、我が家はご近所さんからよく相談があり、農作業用の長さ2メートル以上ある棒を何本もお貸ししています。お墓なので画像は控えますが、今年も何ヶ所か初盆のところがありました。 私のお墓の前で 泣かないで下さい~ ヒトは誰しも、必ず最期のときを迎えます。健在のときに自らお墓を選ぶ方も、増えていますね。父のように、自らお墓を作った人はまだ多くはないかも知れません。祖母(父の母)が若くして他界、当時父はまだ30歳手前。春に他界し、その年の夏、いまの場所にお墓を建てました。我が家にはそれこそ昭和初期以降、不幸がなかったのでご先祖さまの遺骨は納骨堂にお世話になっていました。墓石は取り寄せましたが、大理石を埋め込んだり階段やら灯籠、セメントで固めたり、設計はじめその他一切業者さんの力を借りず、夏の暑い日に父が手づくりしました。サニーはまだ保育園児でしたが、セメントを塗っている父の横で遊んでいたのをよく覚えています。一家の主が、30歳手前にしてあおぞら家の墓を自らの手で造る。あのとき父はどういう気持ちだったのでしょう私がそれより年を取ってしまった今、思い返して、父の偉大さをあらためて感じています。 父はいま、自ら築いたお墓に眠っています。遺骨は、祖父と祖母の間に安置しました。自分で築いた安住の地。 幸せだなぁ
2007年08月15日
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熊本市では、本日正午過ぎにまた「大雨・洪水・波浪・強風・雷注意報」が発令されました。今夜から明日夕方までに、さらに200ミリ降るとの予報。雨も降らなくては困りますが、これでもかと言うほどまとめて降られては、これまた新たな災害の危険があります。台風4号も週末接近します ちなみに熊本市では、「熊本市水防注意報発令態勢」で3名態勢を配備、これが警報に変わると69名態勢となります。「熊本市災害情報メール」に登録すると、動きが逐一判ります。熊本市ホームページトップにも出ています。今日は、「サニー家ものがたり ~潮害編~」をお届けします。わが家は熊本市の西の果て。昔は有明海の海の底でした。江戸時代に干拓されて移住。徒歩5分で有明海。阿蘇に降り注いだ雨が、いくつもの支流となって西の有明海へと注ぐ、河口にあります。また、台風が高潮・満潮と重なると、海も河川も怖いです。昭和2年、9月13日。台風と高潮・満潮が重なり、わが家の前一帯の堤防が決壊。当時は今よりももっと低い堤防だったそうです。2キロ内地まで、海水は濁流となって、家も人も一気に飲み込みました。わが家も流され、曾祖母が亡くなりました。遺影が、まだとても若いです。祖父が大正9年生まれ。昔ですから、今のサニーよりも若かったでしょうね。その後、建て直した屋敷に中学1年まで住んでいました。築、約60年でした。昔の屋敷はおもしろかったです。この話は後日また改めて取り上げたいと思います。まだ幼くて何も知らなかったある日、姉(サニーより1歳上)が父と祖父に言いました。「夜中にあっち(母屋のあった方)からピチャン、ピチャンと水の音が聞こえる。若い女の人が“助けて”って泣いてる」と。 曾祖母だったのでしょう。このとき初めて、私たち2人姉妹は昭和2年の潮害の話を聴かされました。5年前に帰熊してすぐの頃、自宅に届いた出身小学校の100周年記念誌には、当時の見るも無残な画像がたくさん載っています。とてもよく出来た100年史です。これを作製した5年前当時の校長先生は、サニーが小学5・6年のときに隣りのクラスの担任でした。町民誰もが知っている素晴らしい先生です。うれしくて、中学以降のサニーの報告も併せて書簡にしたためたところ、すぐにお返事を下さり、担任でなかったのに覚えていて下さり感激です。いまは隣町の小学校の校長先生。やがて定年退職です。いまは堤防も頑丈になり、台風が来ても決壊まではしないでしょう・・。各民家も基礎を上げてあるので、ところどころ道が冠水するくらいですが、道路・用水路・田んぼがつながって、湖のようになるところがあります。当時のことを語れる人が、だんだん少なくなってきました。被災者の子孫として、風化させずに後世に語り継いでいきたいと思います
2007年07月10日
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