Napping of Woog

詩論(6)20世紀の2つの潮流

20世紀の2つの潮流


(前書き)

 だじゃれをひとつ。
ディラン・トマス・スターンズ・エリオットはいかが?
今回はエリオットとトマスについて考えてみようと思っています。


(本文)

 20世紀に英語で書かれた詩のみならず、世界の詩に影響を与え、
いまだにその影響力が衰えないとさえ言えるのが、
T. S. エリオット(1888-1965)とディラン・トマス(1914-1953)である。
単純な図式化ではあるが、この2人に古典主義とロマン主義、
主知主義と言語肉体主義(これは私の造語かもしれない)の
対立を見るのは容易であろう。

 「詩人は思想をバラの花のように嗅ぐべきだ」と自ら述べ、
実践したエリオットはその類まれな知性を言語化できた天才であった。
彼は主にヨーロッパの伝統を咀嚼し、新たな光を当て、19世紀の、
特にイギリスにはびこっていた似非ロマン主義を痛烈に批判した。
自らの感情から詩が生まれるという常識の誤謬を
論理的にも詩作においても実証した。
フリーヴァース(口語自由詩)を世に広めたのも彼である。
英詩には厳格な韻律や韻があるが、彼は詩をそれらの支配から解放した。
しかし、彼は韻律や韻を軽蔑したわけではなく、優れた詩の職人でもあった。
彼の傑作は、言葉が自ずから保持しているリズムに従って作られている。
これは、決まり切った規則に従うことより、はるかに難しいのである。
一見簡単にさえ見える彼の作品を完全に理解するのは極めて難しい。
一般人にはなじみのない知識が散りばめられているからである。
英詩の伝統に反旗を翻したエリオットではあるが、
39歳で英国国教会に加わりキリスト教による慰めを求めた。

 最も初期の作品である「アルフレッド・プルーフロックのラブソング」で
彼は「自分が言いたいことをちゃんと言うのは不可能だ」と書いていたが、
ノーベル賞をもらった詩人でさえ、詩によって救われることはなかった。
最後の作品「4つの4重奏」でさえ言葉が不十分であることを
詩に歌った彼は詩に、言葉にひいては人生に絶望していたのかもしれない。

 それにに対し、「私は最初から言葉というものに
すっかりほれこんでいたため詩を書きたかったのだ。」
「私の書いたもののどこにも、読み書き出来る程度の人に
馴染みのない知識など入っていない。」と述べたトマスは、知性ではなく、
言葉の魔力とさえ言ってよい力強さ、
言葉を生み出した生命力に身を委ねることによって、
新たな輝くばかりの詩の数々で世界を魅了した。
彼も韻律や韻の職人であった。
豊かな言葉に満ち溢れた作品は官能的であり、
時にはエロティックでさえある。

 10代ころから言葉遊びが好きだった彼は、言葉「へ向かって」ではなく、
言葉「から」創作した。
また。彼は、朗読の名手としても名高く、
イギリスやアメリカで絶賛を博していた。 
賢明になることを、成熟することを拒み、
徹底して反知性主義者あったトマスではあるが、若くなくなるにつれ、
この反知性主義が彼の作品に悪影響を及ぼし始める。
彼は自ら「創造的破壊、破壊的創造」と呼んだ第六感で詩を書いていたが、
それが衰え始めると、言語とは決して妥協しない現実を前にして
言語の可塑性、柔軟性をあまりにも愚かに信用することの弊害が
目立つようになった。
言い換えれば、単なる言葉遊びによる、
幻想の世界を作ることしかできなくなってしまったのである。

 二人の20世紀の偉大な詩人から我々は何を学ぶべきであろうか。
言葉に絶望したエリオットと言葉をどこまでも信じていたトマス。
どちらかを選ぶのではなく、どちらも必要ではないだろうか。


(後書き)

 好きな英語の詩があれば、たとえ訳と首っ引きでも読んでみたい、
と思われる方も多いと思いますし、是非そうしていただきたいと思います。
エリオットはなんとかなるかもしれません。しかし、トマスは・・・。
'Poem in October'(「10月の詩」)という美しく、
ぼくもかなり好きな作品があります。
10月に30歳の誕生日を迎えたトマスが幼い日々を回想したり、
それはそれは素敵です。

 さて、皆さん、中学校で習った「so・・・that~」の構文は
覚えているでしょうか。
これは「とても・・・なので~だ」などと訳します。
She is so cute that everybody loves her.などという例文は
よく見かけますね。

 で、'Poem in October'に戻りますが、
あるスタンザ(連のこと)の真ん中へんの行にsoがありました。
それからスタンザも変わり6行後にthatが出てきて、
so・・・that~と読めと言われても。。。
ハイハイ、どうせぼくは英語が読めませんよ~だ。
解説書を読んでいた23歳のぼくはグレてしまいました(笑)




 以上が10年前の考察です。
当時はまだWoogというハンドルネームは使っておらず、
本名で投稿していました。
上の第6部の後に、当時の日本の詩の状況を分析して、
何か意見をまとめて、出来ることなら提言もしたかったのですが
挫折して、現在に至ります。

 あの頃は、「現代詩手帖」など、詩関係の雑誌も読んでいました。
詩の流れは主知的だったような気がします。
内容は情緒的であっても、作者にはかなりの技術が要求されたようです。

 抽象的で、ありきたりな結論で恐縮ですが、
今現在、ぼくが詩に求めるものは、19世紀以来言われてきたことで、
他の芸術作品にも当てはまることです。

 詩は言葉の喜びを忘れてはいけない。
 しかし、同時に真実を無視してもいけない。
 たとえ、どんなに不快であっても、世間から非難されようとも
 真実を求め続け、真実に目を背けることなく
 毅然と存在してもらいたい。

 もちろん、最大限、読者に感動を与えるのは
 プラトンが2500年前に言ったように、真、善、美の融合だが
 真、善、美に媚びてはいけない。
 真実さえ忘れなければ、詩は永遠に求められるだろう。

                     (2007年1月25日) 


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