アクセス件数が昨夜、深夜のうちに66666件を超えていたようです。朝、そのことに気付き、確認しましたが、遡れるのは直近50件までで、ゾロ目の66666件目がどなたであるかは、不明です。午前2時過ぎまでに確認して居れば、どなたであるかが分かったのですが・・(笑)。
本日は8日の奈良銀輪逍遥(4月9日の記事)の続編とします。理由は、その時の未掲載写真が少しばかり残っているから(笑)です。
奈良教育大学構内の吉備塚古墳訪問は空振りとなったので、来る途中で見かけた崇道天皇社に立ち寄ることにした。真備と何の関係があるのか?まあ、無関係なのであるが、敢えてこじつければ少しは関係がある。
崇道天皇とは桓武天皇の同母弟の早良
(さわら)
親王のことである。この兄弟の父親が光仁天皇(白壁王)であるが、聖武の娘・称徳天皇崩御後の天皇擁立に際して、白壁王擁立につき真備は藤原永手らと共に尽力したのであるから、早良親王が後に桓武天皇の皇太子(弟)となったのも、真備らの光仁天皇実現への尽力があった結果であるということになる。まあ、こういうのは法律家が言うところの相当因果関係に当たるというものでないのは勿論のことであるから、その後の早良親王の運命につき、真備は何の責任もないというのは論を俟たない。

(崇道天皇社)
早良親王は光仁天皇とその夫人高野新笠
(たかののにいがさ)
との間の第二皇子である。兄が山部親王(桓武天皇)である。光仁天皇の正夫人、井上皇后とその子、他戸皇太子の廃后・廃太子事件があって、皇太子の地位が山部親王に回って来る。桓武天皇となって弟の早良はその皇太子の地位につく。
平城京を長岡京に移すに当って推進派と反対派との対立が生まれるが、長岡京が完成した直後、新京造営の責任者で桓武の信頼厚かった藤原種継の暗殺事件が起こる(785年9月)。この時逮捕された大伴継人(橘奈良麻呂の乱で捕えられ獄死した大伴古麻呂の子)が「首謀者が家持で、早良皇太子も関与している。」と証言する。家持は事件の発生前の8月に68才で死亡しているが、生前、早良が皇太子となった時に、そのお世話をする春宮大夫になっている。
早良は無実を主張するが容れられず、廃太子、淡路への流罪となる。淡路への途次、早良は病に死す。後日に冤罪と判明するが、その後の都に次々と起こる災危異変は早良親王の祟りだと考えられるようになり、その魂を鎮めるため、崇道天皇という称号を贈り、丁重に祀ることとなる。所謂、御霊信仰である。
この神社もその一つである。この神社は桓武天皇の子の平城天皇の世、大同元年に創建されたとのこと。この神社から南東に行った処にも崇道神社というのがあったかと記憶する。
家持も、死んでいたにも拘わらず、墓を暴かれ、息子の永主共々、隠岐へ流されることとなる。後日に名誉回復となるが、悪霊となって世を騒がせない処が家持の家持たる由縁である。もっとも悪霊となるためには、死ぬ時に恨みを持っていることが必要なので、家持は死んでからの処罰なので、悪霊になり損ねたに過ぎないのであるか(笑)。
まあ、その代り、後世、大伴一族の末裔、伴大納言絵巻で知られる、応天門の変の伴善男が悪霊の仲間入りを果たして居りますな(笑)。いずれにせよ、悪霊歌人は戴けませぬ。家持さんはいい時に死んで下さったと言うべきか。
で、その後も生き続けている偐家持は何?これは人畜無害の人にやさしい亡霊(有機野菜のように)であって、悪霊では勿論ありませぬ。
崇道天皇社から循環道路を渡って「ならまち」に入ると、そこでも御霊神社があった。元興寺塔跡の南隣である。

(御霊神社)

(井上皇后・他戸皇太子を中央に、早良親王に加えて藤原広嗣も祀られている。やはり、広嗣も悪霊の一員なのだ。)

(拝殿の吊り灯籠と枝垂れ桜)
なら町から猿沢池に出ると三条大路である。東の突き当りが春日大社の一の鳥居。西に向うとJR奈良駅前を通り、近鉄尼ヶ辻駅に至り、駅西側の垂仁天皇陵の前に出る。この三条大路に面してJR奈良駅の手前500メートル位の処に第9代開化天皇陵がある。欠史8代の内の一人にて実在性については疑問とされているが、垂仁天皇から見れば祖父にあたる人物である。
なお、この三条大路をひたすら西に向うと暗
(くらがり)
峠へと続く暗越奈良街道・国道308号線となる。一度奈良から自宅までこのルートで走ってみようと思いつつ未だ挑戦していない。
(開化天皇陵)
(参考)光仁天皇陵(田原東陵) 「奈良銀輪散歩(その2)」
<追記訂正>
誤字が一部にあり、これを訂正。(
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