20、21日と魚津から富山へ蜃気楼ロードを銀輪散歩して参りました。いくつかの万葉歌碑を訪ねつつ海辺を銀輪散歩しようというものであります。JR魚津駅下車。駅前でトレンクルを組み立て出発。
(魚津駅)
駅前から雪を戴いた立山連峰が見える。
(魚津駅前)
地下通路で駅の北(海)側に出て、先ず「懐かしの灯台塚公園」にあるという大伴家持の歌碑を目指す。海に出ると望遠レンズを構えた人がいる。「蜃気楼ですか?」と声を掛けると、「今日は駄目だ。」と仰る。
(懐かしの灯台塚公園)
「懐かしの灯台塚公園」は草むしりのボランティアの人達で一杯。作業のお邪魔にならないように、写真を撮る。「蜃気楼を見に来たのか。」と仰るのに「いいえ。」と答えると悪い気がして、「ハイ。」と言うと、「今日は駄目だ。昨日ならB級の蜃気楼が見えたのに。」とのこと。「そうですか。それは残念なことです。」と失望して見せるヤカモチでありました(笑)。

そう言いつつ、傍らの大伴家持の万葉歌碑をしっかりと写真に。
(大伴家持万葉歌碑)
越の海の 信濃の濱を 行き暮らし
長き春日も 忘れておもへや (大伴家持 巻17-4020)
この歌は天平20年春正月29日に家持が作った歌4首のうちの1首。歌碑の方は何故か「長き春日も」が「長き春日を」と間違って刻まれている。左の白文の方は「奈我伎波流比毛」と「乎(を)」ではなく「毛(も)」になっているのだが。
(蜃気楼ロードから海を望む。)
突堤には双眼鏡を構える人、望遠レンズでカメラを覗く人。蜃気楼目当ての人が何人も居られるが、今日は「大蛤さん」もご機嫌うるわしくないようですな。いづれにせよヤカモチの弱い視力では蜃気楼なんぞ見える筈もないのであります。突堤を富山方向へと走る。
(突堤の道)
天気も好し。風が心地よい。海の駅蜃気楼、魚津埋没林博物館を過ぎ、魚津港に。浮玉と漁船のかもす景色も旅人の目には新鮮である。
(魚津港)
(同上)
漁港の先で道を右に取り、海沿いを行くと諏訪神社があった。突堤には車を停めて双眼鏡を持って海を見ている人がここにも何人かがいる。この道を走る人は皆、当たり前のように双眼鏡を車に備え置いているようですな。海を指して、沖合いに塔のようなものが見えるという。あんな処に塔がある筈もないから蜃気楼に違いないと言う。しかしヤカモチの目にはそれらしきものは何も見えない。カメラを構えて写してみるが勿論何も写らない。ただ茫洋とした海があるばかり。
(諏訪神社)
更に行くと小さな川に出る。角川である。突堤の「道」はここで行き止まり。昔はこの角川の河口が魚津港であったそうな。川に沿って左に入ると万燈台があった。慶応4年(1868年)に建設された魚津港最初の灯台であるそうな。

(万燈台)
米騒動の発祥となったという米倉と魚津城跡へは、少し来過ぎていたようなので、一つ内側の道を引き返す。
(旧十二銀行倉庫・米騒動の発端となった米倉)

(米騒動発祥の地の碑)
<参考> 1918年米騒動
何故か撮った写真がモノクロ写真のようになっている。コンデジカメラもタイムスリップしたようだ(笑)。米倉建物の前の三叉路を上がって行くと大町小学校の通用門に突き当る。ここが魚津城のあった場所とのこと。同小学校の正門横には魚津城跡の石碑が設置されている。通用門脇の校庭には上杉謙信の歌碑もある。
<参考> 魚津城の戦い
魚津城
(魚津城跡碑)


(上杉謙信歌碑)
もののふの 鎧のそでを かたしきて
まくらに近き はつかりの声

もののふの 鎧の影も かき消えて
われに返れば わらべらの声 (偐家持)
魚津城は上杉・織田戦争で織田軍に包囲され落城する悲劇の城であるが、今はその一角を校庭とする大町小学校の児童たちの明るい声が響き渡っている。
城を出て、いや、小学校を出て南西に向かうと先程の角川に出る。角川書店の名はこの角川に由来するとは、今回初めて知りました。なかなか風情のある川である。遠く立山連峰も見える。
<参考> 角川

(角川)
この後、海沿いを更に南西へ、早月川を目指すのでありますが、本日はここまでとします。
<続篇>魚津から富山へ銀輪万葉
(その2)
(その3)
(その4)
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