< 承前 >
JR月ヶ瀬口駅前から国道163号線に出る。予定外の行動にて、地図もないので、道は分かり易い国道を走るのが無難と考えた次第。
月ヶ瀬口駅のこの辺りは「今山」と呼ぶらしい。此処から国道は北上して上り坂となっている。やがてゆっくりと西(左)にカーブし再び北(右)にカーブする辺りで「登攀道路終了」となる。押原地区で再び西(左)にカーブ、木津川の支流を渡り、蛇行して来たJR関西本線の下を潜る。暫く離れていた木津川に再び出会い、JR線と木津川の間を行くようになると大河原駅という次の駅の前に出る。
駅前が道路工事中で誘導員の方の指示によっての交互通行。暫く待たされた後、指示された通路を行くと、木津川の中に沈下橋。四万十川で見たのと同じようなのがあった。珍しいので、河川敷に下って行き渡ってみました(笑)。
沈下橋から1.5kmほど進んだ処に小さな神社があったので立ち寄ってみた。国津神社とあるから、山城の国津神を祀っているのであるか。
国津神社から2km弱進んだ処で、左手に川を挟んで見えて来たのは布目川発電所。JR関西本線は国津神社の手前で川を渡って対岸を走っているので、発電所の前にその鉄橋が架かっている。
発電所の前を過ぎると道は上りとなり、笠置トンネルに入る。
笠置トンネルを出ると直ぐに笠置橋。橋を渡って右に行くと笠置駅、左に行くと笠置寺である。
写真で左から下がって来ている山の稜線が笠置山のそれであるが、後醍醐天皇が行宮を置いた笠置寺はその山上にあり、うねうねと曲がる道を上って行くことになるので、自転車には厳しい道である。何年か前に訪ねたことがあるが、今回は勿論立ち寄らない。
笠置橋から2.5kmほどで再びトンネル。今度のトンネルは短い。湾漂山トンネルという難しい名前。「わんびょうざん」と読む。
天平16年(744年)正月11日に大伴家持は市原王と
活道岡
に登り、一つ松の下で宴をし、歌を詠んでいるが、この「活道岡」が湾漂山のことであるという説もあるから、もしそうなら、一つ松の下を潜っていることになるのかも知れない(笑)。
<参考>
一つ松 幾代か
歴
ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも
たまきはる 命は知らず 松が
枝
を 結ぶこころは 長くとぞ思ふ
(大伴家持 万葉集巻6-1043)
トンネルを出ると直ぐに和束川に架かる菜切橋である。この和束川の上流の丘に安積皇子の墓がある。随分の昔の夏に今は亡き父と訪ねたことのある墓である。
この辺りまで来ると恭仁京の地域。万葉の息吹が其処彼処に感じられるのである。
和束川は登場しないが、安積皇子が亡くなった時に大伴家持が作った歌には「和豆香山」(巻3-475)、「和豆香そま山」(巻3-476)と詠われている。
安積皇子は聖武天皇の皇子で、反藤原の家持などは大いにこの皇子に期待していたものと思われるが、若くして急死してしまう。藤原系でなかったことから藤原氏にとっては目障りな存在。仲麻呂などによる毒殺かとも言われている彼の死である。
国道からお別れし、恭仁大橋へと向かう。
恭仁大橋の手前に古い道標があった。
南 加茂ステンショ十五丁、浄瑠璃寺二里
西 京都、奈良街道 木津一里半、奈良五里、京都八里余
とある。
恭仁京大極殿趾には回らないので、家持歌碑だけにご挨拶して行くこととする。道脇にある以上無視もならない(笑)。恭仁京大極殿趾の写真は下記の<参考>「加茂から京都まで」の記事に掲載されていますのでご参照下さい。
今つくる
久邇
の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし
(大伴家持 万葉集巻6-1037)
この歌は天平15年(743年)8月16日の作。家持27才。橘諸兄の下で希望に燃えていた若き家持の姿が彷彿として来る明るい歌である。
恭仁大橋を渡る頃には、日も西に傾き、川面がそれを映して金色に輝く。それは、そろそろ銀輪散歩を切り上げよとの合図でもある。
<参考> 「 加茂から京都まで
」 2009.10.17.
「 つぎねふ山背路を偐山頭火と走る
」 2007.5.12.
加茂駅到着。17時13分。月ヶ瀬口駅前発15時頃でしたから、2時間余の付録銀輪散歩でありました。本編4時間余、付録と合せて6時間半の銀輪散歩でありました。
これにて月ヶ瀬銀輪散歩完結であります。今回もお付き合い下さいました皆さま有難うございました。 ==完==
PR
キーワードサーチ
カレンダー
コメント新着
New!
MoMo太郎009さん
New!
ビッグジョン7777さん
New!
七詩さん
New!
☆もも☆どんぶらこ☆さん
New!
龍の森さん