< 承前 >
昨日の「青雲会囲碁・木津川水門など銀輪散歩」の続きです。
新なにわ筋の下には地下鉄千日前線が走っている。長堀通りと交差する手前が西長堀駅。交差点を左折、西へ。直ぐの処に土佐稲荷神社がある。境内の南側・西側は土佐公園になっている。
MTBで走りながら、昼食の店を探していたのだが、なかなか見つからない。それで、見掛けたお弁当屋さんで「お弁当」を購入。この土佐公園で「お弁当タイム」にしようと考えた次第。木陰の石に腰掛けて、「優雅な」昼食であります(笑)。
折角なので、土佐稲荷神社にご挨拶して行く。
下の神社略記にある通り、大阪城築城の際に運ばれて来た石の中に霊験只ならぬものがあり、これをこの地に置いて祀ったのが、この神社の起源であるらしい。航海安全の神として広く信仰を集めたよう。
その後、土佐藩の蔵屋敷がこの地に置かれ、伏見稲荷から分霊を受けて祀るようになったことから土佐稲荷神社と呼ばれるようになる。
三菱の創業者岩崎弥太郎はこの地で事業を起こし、この土佐稲荷を篤く敬い、事業繁栄の守護神とした、とされる。
(土佐稲荷神社略記) <参考> 土佐稲荷神社ホームページ
土佐稲荷というと、随分の昔に堺事件のことを書いた本で登場したのが記憶にある。書棚のあちこちを探してみたが、その本は見当たらない。何処かの奥に入ってしまっているのであろう。
堺事件というのは、慶応4年(1868年)2月15日夕刻、堺港から無許可上陸したフランス水兵とこれを阻止しようとした土佐藩士との間に生じた刃傷事件。水兵11名が死傷。
フランス側は賠償と関係した土佐藩士20名の切腹を要求。新政府はこれを呑み、土佐藩士20名の切腹を命じる。
土佐藩邸に蟄居謹慎させられていた関与の藩士は29名であったが、20名という命令であったので、彼らはこの土佐稲荷神社の前で籤を引いて切腹する者20名を決めたという。
切腹は堺市堺区材木町東4丁にある妙国寺にて日仏立会人の面前で行われたが、フランス側立会人がその凄絶な様に堪え切れず、12人目の切腹が行われる前にその中止を求めた、という。
<参考> 妙国寺
・Wikipedia
お稲荷さんの使いは狐であるのに、何故か境内には馬です。
廃藩置県で、土佐藩邸の土地建物は岩崎家の所有地となり、岩崎弥太郎はその一画に居を構えたよう。周囲は今はマンションが林立している。そのような地の一つに「岩崎家旧邸跡」の碑が建てられていたようだが、今は土佐稲荷神社の境内地に移設されている。
「千代までも くちぬ命と この石を まつる願いは 神もまもらん」と刻まれた歌碑にて、作者で歌碑建立者は兵庫谷源次郎という人物。その曾孫なる人物による副碑によって、その由来などが知れるのであるが、ご両名共にここにて初めてお目にかかるお名前にてあれば、ふむふむ、であります。
拝殿の西側、奥には其角の句碑がある。
こちらは、芭蕉の門弟の一人。どなたもご存じのお名前ですな。
裏面を見ると嘉永4年3月建立とある。
<参考> 宝井其角
・Wikipedia
明星や 桜定めぬ 山かつら
江戸時代から土佐稲荷は桜の名所として親しまれていたらしい。
現在も桜の木が沢山あって、花見が楽しまれているよう。
しかし、近頃のお花見衆はマナーがよくないのか、土佐公園内の随所に「火気・宴会禁止」の立て札が立っている。どうやら筵を延べて飲食しながらの宴会スタイルのお花見は此処では禁止されているようである。
ひとしきり土佐神社境内を歩き回った後、新なにわ筋からなにわ筋に移り、靭公園を横切って四ツ橋筋に出て、暫く北に走った後、御堂筋に移り、淀屋橋、大江橋を渡り、裁判所の前の庭に駐輪。囲碁例会の会場となっている青雲会交流センターへ。
丁度入口前で藤◎氏と出会い、一緒に会場へ。こんなことで、小生の最初の対局相手は藤◎氏となった次第。会場の部屋に入ると既に数名の方が来て居られてそれぞれに対局が始まっていました。
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