< 承前 >
国分寺の前にはコスモスなどの花が群れ咲いていました。
これは観光客への「お・も・て・な・し」という奴ですかな(笑)。
コスモスとルドベキアのお花畑。遠景の塔とよく似合う。
コスモスの 花越しもよし 大空に
吉備のみ寺の 塔は立ちける (偐家持)
国分寺を出て東へ。直ぐに大きな古墳が左手に見えて来る。こうもり塚古墳である。
(こうもり塚古墳) <参考> こうもり塚古墳
・Wikipedia
こうもり塚古墳の東隣が備中国分尼寺跡である。こちらは、建物はなく文字通り「跡」である。復元であれ建物が存在すると却って想像力が制限されてしまってよろしくない。何もないのは寂しいが、石碑だの礎石だの偲ぶよすがが少しばかりあるのが一等いい。
森深く 道しづもりて みほとけの
慈愛もかくや 尼寺の跡 (偐家持)
国分尼寺跡から北東に1.5km程行くと造山古墳という巨大古墳がある。先に見た作山古墳よりも大きい。全国第4位の大きさと言うから仁徳陵、応神陵、履中陵に次ぐ大きさである。古代吉備の国力が大和のそれに劣らぬ強力なものであったことが分かるというものである。
どちらも「つくりやま古墳」であるが、地元では両者を区別するため、作山古墳は「さくざん古墳」、造山古墳は「ぞうざん古墳」と呼んでいるそうな。
万葉時代では吉備真備(下道真備)が先ず思い浮かぶ吉備氏の人であるが、万葉歌人では、志貴皇子の葬送をドラマチックに詠い上げた笠金村やその娘という説もあり、大伴家持との歌のやりとりで有名な笠女郎などが思い浮かぶ。笠氏も亦吉備氏の流れなのである。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人無しに
(笠金村 万葉集巻2-231)
皆人を 寝よとの鐘は 打つなれど 君をし思へば
寝
ねかてぬかも
(笠女郎 万葉集巻4-607)
(造山古墳) <参考> 造山古墳
・Wikipedia
作山古墳には巨大古墳に付き物の陪塚がないが、造山古墳には上のような陪塚が6基もある。
造山古墳の北側には観光牧場があって、引退した競走馬やポニーなどが飼われている。乗馬体験などもさせてくれるようだ。
柵の外側を白いポニーがポックリ、ポックリと気ままなお散歩を楽しんでいました。
造山古墳を後に東へ。高速道路の高架を潜ると足守川である。
足守川の上流に足守という地がある。適塾開設者の緒方洪庵は足守藩の下級武士の家に生まれたのであるから、この川の上流の出身である。ヤカモチの母校は緒方洪庵とは深い関係があるのだが、足守まで「足」を延ばす余裕は今回はありませぬ(笑)。下流に走る。
(足守川、津寺付近の橋の上から上流を望む。左奥に加茂小学校。)
(吉備路自転車道案内図、津寺地区黒住1号排水機場近くの緑地内)
県道270号線に出た処で自転車道は橋を渡り、右岸から左岸の道となるのだが、県道の向かいに鯉喰神社というのがあるので立ち寄って行く。
桃太郎伝説や温羅伝説に因む神社である。
(鯉喰神社)<参考> 鯉喰神社
鯉喰神社も倉敷市になるが、自転車道はここで倉敷市に入り、明治天皇惣爪御野立所碑の処で再び岡山市となり、吉備津神社へと続く。今日の記事はここまでとします。( つづく )
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