< 承前 >
足守川を渡り、川沿いに左岸の道を下って行くと、明治天皇惣爪御野立所と刻された石碑のある小さな緑地に出る。
明治43年(1910年)11月に陸軍の大演習がこの付近で行われ、明治天皇がこれを統監した場所が此処だという碑である。背後の小高い処には「龍蹤表彰之碑」というのもある。皇帝は「龍」に喩えられるから、これも同じ趣旨の碑であり、こちらの碑の方が古いものなのであろう。

(明治天皇惣爪御野立所の碑) (龍蹤表彰之碑)
銀輪万葉としては、これらの碑よりも、この近くにある惣爪塔跡の方を見て置くべきであったのだが、下調べが杜撰でこれを見落としました。
奈良時代にあった大寺の塔の跡と見られているらしい。「岡山県の国指定文化財」というサイトの「 惣爪塔跡
」というページに掲載されている写真(下掲)によると、直ぐ近くで、首を廻らせば目にすることが出来たのに、まことに迂闊なことでした。
(明治天皇御野立所の碑から惣爪塔跡を見る。
ウェブサイト「岡山県の国指定文化財」から転載。)
足守川にお別れし、東へと走る。前方の山が所謂「吉備の中山」であるのだろう。吉備津神社の社殿が遠目にも見えて来る。
自転車道を外れて集落の中の路地を走る。やがて鳥居のある辻に出る。吉備津神社である。どうやら、吉備津神社の裏口のよう。此処でもヤカモチは裏から入ることとなりました(笑)。
(吉備津神社鳥居) <参考> 吉備津神社
・Wikipedia
(吉備津神社・西側入口)<参考> 吉備津神社公式サイト
長い回廊が西から東へと続いている。奥に本殿があるよう。前方に高校生の一団が賑やかな声を上げている。行ってみると、皆、袴姿の凛々しい出で立ち。弓道の試合か何かのよう。
吉備津彦は薀羅と弓矢で戦うのであってみれば、この神社で弓道の試合なり奉納があるというのも似つかわしいことと言うべきか。
暫し、弓を射る姿を拝見させて戴く。高校生達の群れをやり過ごして更に奥へ。
漸くにして本殿・拝殿のある場所に着く。本・拝殿は東を向いている。西から入って来たので、本・拝殿の背後からやって来たことになる 。
正面の門に回って、正面から拝殿へと入り直す(笑)。まあ、そんなことは頓着しないヤカモチなのであれば、これは神門を写真に撮るための行為に過ぎなかったのでありますが・・。
自転車は裏口に停めてあるので、回廊を西へと引き返す。
裏から外に出て、東へと回る。中程にも入口があったが、これは、高校生達が居た弓道場のある辺りの回廊へと繋がっているのであろう。
東側の正面入り口の方に回るとそこが正面の参道となっていて松並木が北へと延びている。
吉備路自転車道はこの参道の横から脇へ入って東方向に続いている。それを辿ると、鼻ぐり塚というのがあった。
立ち寄ってみたが、何やら勝手に入ってはいけないようなので、奥には入らずに引き返しました。帰宅後ネットで調べてみると、無人の受付で参拝料を払えば、入ることが出来たようだ。
参拝者以外立ち入り禁止、のようなニュアンスの表示であったので、遠慮したのでしたが、中は下記の<参考>にある通りで、牛の鼻輪(鼻ぐり)を供養している処のようです。
<参考>
鼻ぐり塚・福田海本部
(藤原成親遺跡碑)<参考> 藤原成親
・Wikipedia
鼻ぐり塚の入口前に、藤原成親遺跡碑なるものが建てられていた。
成親と言えば、平重盛の妻・経子の兄。平家打倒の陰謀・鹿ヶ谷事件で西光、俊寛らと共に捕縛された御仁。重盛が父・清盛に助命嘆願してくれたお陰で、備前国配流の処分となるのだが、結局はこの地で殺されることとなる。
鼻ぐり塚の少し先に、歌碑がありました。古今集の歌です。
まかねふく 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ
(古今集巻20-1082)
<黄金を産出する吉備の国の中山が、帯のようにめぐらせている細谷川の水音の澄みわたって清らかなことよ。>
この細い川が細谷川と言うのだろうか。吉備津神社付近の川の名とする固有名詞説と「細い谷川」という意味の普通名詞とする説もあるのであってみれば、此処であってもいいことにはなる。
<参考> 吉備の中山
(吉備津彦神社への道)
(吉備津彦神社駐車場にある桃太郎像)
吉備津彦神社に到着です。先ず迎えてくれたのは桃太郎。しかし、もう字数制限のようです。続きは明日に。( つづく )
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