< 承前 >
27日の銀輪散歩の続きです。万葉歴史館口交差点の万葉歌碑で前ページ記事が終わりましたので、其処から始めます。
万葉歴史館口から200mほど行くと気多
(けた)
神社口。
此処にも万葉歌碑があった。
秋の田の 穂向見がてり わが背子が ふさ手折りける 女郎花かも
(大伴家持 万葉集巻17-3943)
これは、天平18年(746年)8月7日に越中守の館で開かれた宴会で家持が詠んだもの。万葉集から知ることの出来る出席者は、主人役の家持のほか、大伴池主、秦八千島、僧玄勝、土師道良である。主賓の池主がオミナエシを持参したのに対して、主人の家持が「これはあなたがお持ち下さったオミナエシですね。」と詠んだもの。これに対して池主は「 女郎花咲きたる野辺を行きめぐり君を思ひ出たもとほり来ぬ
」と答えている。
因みに、この宴席で僧玄勝が口誦した古歌が大原高安の歌と伝承される「 妹が家に伊久里の森の藤の花今来む春も常かくし見む
」である。小生はこの伊久里の森のことをかつてブログ記事にしたことがあり、その記事が契機となって、ブロ友の英坊3氏を通じて、新潟のふぁみり~キャンパー氏のブログを訪問することとなったというようなこともありました。この歌碑からこのようなことも懐かしく思い出されたのでありました(笑)。
気多神社に立ち寄って行くこととする。気多神社訪問は、調べると1995年6月25日以来で、実に20年ぶりということになる。
気多神社への途中に越中国分寺跡がある。現在ある薬師堂は金堂跡に建てられているとのこと。
国分寺跡から400mほど北西に行くと気多神社である。
気多神社のこの社名石碑は平成元年建立とあるから、以前来た時にはこれは無かったことになる。しかし、そのような細かいことは勿論記憶の外である。
<参考> 気多神社
気多神社本殿のお隣に大伴神社がある。
家持生誕1200年に当たる1985年(昭和60年)に地元有志の大伴家持卿顕彰会によって建立された神社である。以前訪ねた時は建立されて10年、朱色も鮮やかな真新しい社殿であったという記憶があるが、それから20年、「年深からし神さびにけり」で、すっかり周囲の雰囲気に馴染んでいる。
この神社の祭神は大伴家持。しかし、デラシネの家持。彼には遺骨も遺品もない。それで、生誕地の奈良、越中国庁跡、越中国守館跡、彼が亡くなった地と見られる多賀城、遺骨が流された隠岐の5か所の土地の土を壺に入れたものをご神体としているそうな。
(大伴神社)<参考> 大伴神社(高岡市)
・Wikipedia
気多神社境内、大伴神社の前、一段低い場所に大伴家持卿顕彰碑が建っている。これも大伴家持卿顕彰会により建立されたもののよう。
顕彰碑の奥には立派な万葉歌碑がありましたが、これもやはり家持さんの歌でした。
馬並めて いざ打ち行かな 渋谿の 清き磯廻に 寄する波見に
(大伴家持 万葉集巻17-3954)
この歌も上述の宴会で詠まれた歌である。宴会の終わり頃に「明日は皆で海岸に出て打ち寄せる波を見ようではないか」と詠ったもの。この歌の通りに翌8月8日に海に出掛けたかどうかは万葉集からは分からない。
この後9月25日に家持は弟・書持の死を哀傷む歌を作っている。弟が亡くなったという知らせが都から届いたのであろう。その哀傷歌に付された短歌2首の内の1首がこれ。
かからむと かねて知りせば 越の海の 荒磯の波も 見せましものを
(同巻17-3959)
或は、宴会での歌の通りに、皆と渋谿の磯に馬を並めて波を見て居り、前月のその楽しかった思い出と重ねて、弟の死が一層悲しく悔しいものに思えたのかも知れない。その渋谿の海がこれである。
気多神社から国道に戻り、雨晴トンネルの手前で迂回の坂道を上り、トンネルの上を行くことに。清き海見に、である。
この方向に立山連峰が見える筈だが、湧き立つ雲に隠されている。残念。能登半島氷見から七尾方向はくっきりと島影が見える。眼下の氷見線もいいアクセント。
道から少し入った処に小さな公園。もみじ姫公園と記されていたように記憶する。そこから階段を下りると国道415号である。雨晴トンネルの出口に当たる。
再び国道を走る。
本日はここまでとします。( つづく )
PR
キーワードサーチ
カレンダー
コメント新着
New!
MoMo太郎009さん
New!
ビッグジョン7777さん
New!
七詩さん
New!
☆もも☆どんぶらこ☆さん
New!
龍の森さん