本日は、2月24日の記事(下記参照)でも触れた、昔の職場仲間5人組のウオークの日でありました。
<参考> 飯盛山へ
2016.2.24.
宝塚の蝶麻呂氏、滋賀県の鯨
(いさな)
麻呂氏と草麻呂氏、奈良県の健麻呂氏の4人と偐家持とで5人組という次第。元々は健麻呂氏を除く4人で福井県武生の味真野を歩いたのが最初で、その後、大和三山歩き、天王山歩きなどを経て今回が4回目になるウオーク。今回から新しく健麻呂氏が加わり、それまでの4人組から5人組と相成りました。
健麻呂氏と小生・偐家持は近鉄バスで野崎観音前バス停下車、JR野崎駅へと向かう。鯨麻呂・草麻呂・蝶麻呂3氏はJR線で野崎駅下車ということで、当駅改札口前が集合場所。定刻の11時には全員が集合。
週間天気予報では此処大東市は曇り・雨で、予備日の翌11日に順延することも考慮に入れて、この数日間予報の推移を見守っていたが、鯨麻呂氏は晴れ男らしく「雨は降らない」と強気の予想。その予想通りに昨日9日の予報では曇り・一時晴れに好転したので、予定通りに本日実施の運びとなりました。
出発時点では薄日も差す状態、雲は多いものの雨の心配はまずないという絶好の空模様。先ず、野崎観音へと向かう。
以下は、先(2月24日)の下見の折に撮影した写真も交えての記述であります。青空が写っているのは、下見の折の写真で本日撮影のものではありません。
今日は、野崎駅から参道を直進、西門から境内に入りましたが、小生が自転車で来る場合、南門から入ることも多い。下の写真は、その南門である。本堂に正対しているので、寺の正門はこの門ではないかと思う。門の佇まいも禅寺らしきそれである。
(野崎観音・慈眼禅寺山門)
山門脇の石灯ろうは安永6年(1777年)建立の古いものである。寄贈者は紀伊国平戸住・紙屋和三郎とある。
2月24日の下見の折に撮影し忘れた芭蕉句碑がこれ。
涅槃会 (ねはんゑ) や皺手 (しわで) 合 (あは) する数珠の音 (芭蕉)
此の句は芭蕉句集などでは「灌仏
(くわんぶつ)
や皺手合する数珠の音」となっている。「続猿蓑撰集」(元禄11年<1698年>)では「ねはん会や・・」とあり、これが初案らしい。上の句碑はこの初案に依っているのであろう。その後の「蕉翁句集草稿」(宝永6年<1709年>以前)では、芭蕉自身の自筆で「灌仏や」に修正されているとのこと。句碑は見事に二つに割れているようで、これを繋ぎ合わせて復元したもののようであるが、その辺の経緯を語るものは何も示されていない。
まさか、芭蕉さんが自身で「これはワシが没にした古い方の句や、新しい方の句と取り替えんかい。」と足で蹴ったら割れた、というのではあるまいと思うが、そんなことを空想してみるのも面白い(笑)。
(お染久松の塚)
野崎観音と言えば、浄瑠璃や「野崎まいり~は屋形船で参ろ♪♪」の野崎小唄でも有名な「お染・久松」であるが、境内には野崎小唄の歌詞碑やお染久松の塚もある。
本堂の写真などは、これまでに何度も掲載しているので省略です。本堂軒裏には、安産の祈願か子どもが授かるようにとのそれかは知らぬが犬の張り子がびっしりと吊り下げられている。
<参考> 朝は北へ夕べは南へ
2009.5.30.
(本堂軒裏・安産祈願かそのお礼参りの犬の張り子がびっしり。)
野崎観音の裏から飯盛山へのハイキング道がある。
芭蕉句碑「観音のいらか見やりつ花の雲」や九重石塔を見て、吊り橋コースから野崎城趾へ。芭蕉句碑・石塔・野崎城趾の写真は上の「下見の記事」を見て下さい。(上の下見の、とややこしい言い回しは駄洒落のつもり<笑>)

(吊り橋)※写真は鯨麻呂氏撮影・提供
野崎城趾からいったん下って、小さなせせらぎを渡り、再び上りに入る。「絵日傘コース」という「粋な日傘の~♪」という野崎小唄の一節を連想させる名が付けられているが、やがて七曲という急坂コースになって行くのである。
七曲の急坂は数えてみると11回スイッチバックの折り返しのある道。なので、正確には「十 (とお) 余り一 (ひと) 曲がり」と呼ぶべき坂道なのである。
辻ノ新池を廻る道は落葉降り積むなだらかな道、それを過ぎて最後の急階段道を上り、上り切る少し手前で右へと脇道を下って行くと、尻池、桜池があり、大東市青少年野外活動センターの域内となる。
我々は「青少年」の範疇から「少しだけ」(笑)はみ出しているので、センターの手前の「尻池」畔の東屋で昼食をとることとする。野崎観音などで時間を過ごし過ぎたか予定の時間よりも30分前後遅い行程にて、既に12時26分になっていたのでありました。
(以下、小さい写真など読み辛いものは、クリックして大きいサイズ
に変換してからご覧下さい。)
桜池をひと巡りして対岸の道を再び上りに入ると楠公寺への道である。杉林の中を行く。
杉林の中の道を歩いていると、前方から若い男性2人組がやって来た。スマホの画面を示し、そこに映し出されている「権現の滝」へはどう行けばいいか、という質問。滝のことは知らないが権現川は以前その川べりの御机神社に行ったことがあるので知っている。その川の上流だろうから、方向違いではないか。健麻呂さんがネットから印刷に打ち出したハイキングコースのマップを持って居られたので、それで確認すると、権現川は御机神社のずっと上流で右(南)に折れて、こちらに切れ込んでいることが判明。しかし、その谷へと下って行く山道がどの辺りなのか地図からは正確には読み取れない、と言うか3か所ほどそれらしき線があって、どれとも定め難い。
楠公寺の西北に一つ線があるので、それを下るのではないか、と彼らと一緒に楠公寺へと向かう。彼らは電通大の学生でタクシーで近くまでやって来て山道に入ったとのことだが、地図も持たずに来ているので、道が分からなくなったよう。で、健麻呂氏が自分の持参した地図を彼らに差し上げたのであるが、地図によってもどの道が正解なのかは直ちには分かり兼ねる次第。
楠公寺の横に下へと下る急坂の細道があったので、これではないのか、などと小生が話している処へ、おばちゃん3~4人組が飯盛山側からやって来られたので、彼女らに権現滝のことを尋ねると、その下り口は我々が通り過ぎた青少年野外活動センター近くにあるとのこと。彼女たちはその方向に行くというので、学生さんは彼女たちが案内することになり、この件は一件落着となりました。
楠公寺から更に少し上ると飯盛山山頂である。
頂上には展望台とその下の展望休憩所、楠木正行銅像、飯盛城趾碑、国威宣揚の鉄塔の残骸などがある。
如何なる機能を果たしていた鉄塔かは存じ上げぬが、昭和14年建立、警防団、国威宣揚などの文字からは軍国日本の姿と言うか、景色と言うか、そんなものが彷彿としてくる代物である。
史蹟碑(大正時代建立)には飯盛山の標高が318mとあり、近くの木製の立て札には315mとある。来る途中のせせらぎ近くの道脇などで見た表示には、314.3mとあるなど、標高の表示が一定していない。
ところで、ネットで調べると全国には飯盛山という山が沢山ある。福島県会津の飯盛山は有名であるが、それを最北に鹿児島県や小笠原諸島にかけて54もあるらしい。但し、そのうちの5つは「いいもりやま」ではなく「めしもりやま」と訓むのこと。
それはともかく、ここからの眺めも素晴らしい。
ここから四条畷神社にかけては急な下り坂が続く。ひたすら下る。
桜の古木やヤブツバキの木が目立つ。椿は沢山の花をつけて元気であるが、桜の木は多くは枯れてしまっている。
午後3時頃に四条畷神社に到着。
上の由緒記には正行は従二位とある。大伴家持は従三位であったから、正行は家持より上である。もっとも、この後に訪れる正行墓所の石碑には従三位と刻まれているから、どちらが正しいのか。どちらも正しいとすれば、石碑が建立された時点では従三位であったが、その後に追贈があって従二位に昇進したということになるが、若しそうなら、正三位を飛び越えての昇叙ということになる。「四の五の言うな」という声も聞こえて来ますが、これは「二か三かの問題」なので「四の五の」という批判は当たらないのである(笑)。
で、調べてみたら、明治9年に従三位が追贈され、明治23年四条畷神社創建、明治30年従二位追贈ということが分りました。因みに、父・正成には明治13年正一位が追贈されている。
父・正成が湊川の戦で討死した時の正行は11歳(これには異論もあって、既に20歳前後の青年であったという説もある)。上の母との像は、父の死を知った時の正行とその母の像であるのでしょうか。拝殿への通路をはさんで反対側には父・正成と少年正行の桜井の別れの像がある。
(御妣神社)
四条畷神社の祭神は、楠木正行、その弟の楠木正時、家臣の和田賢秀であるが、本殿左側にはその母を祭神として祀る御妣神社もある。その脇の絵馬掛けに風が当たると絵馬がこすれ合ってカラカラと乾いたかそけき音の立ち流れるのもいい雰囲気である。
下の梅の木と参道をはさんで反対側にクスノキの巨木があり、その前に小楠公慰霊塔の小さな五輪塔がある。かたわらの木札には「武士
(もののふ)
の堅き心はさくら花散りてののちぞ人や知るらむ」の歌が記されているが、下三句が消えかかって判読し辛くなっている。
四条畷神社の参道を西へと下る。
参道脇の一軒の空家・売り物件の玄関先に三人組(三匹組?)の猫が居て、道行く我々五人組を見て居りました。1,3,5と数字も揃って、二の三の、四の五のという問題は無しであります。
参道を西へ約1km、突き当りにあるのが楠木正行墓所。飯盛山山頂の正行像、正行を祀る四条畷神社と廻って来たのであれば、正行墓所にも立ち寄るのが礼儀ですかな。
(楠木正行公御墓所)
正平3年(北朝年号では貞和4年)<1348年>に四条畷の戦で高師直軍に敗れた正行は、弟の正時と共に自害して果て、この地に葬られたとのこと。
かへらじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる (楠木正行)
正行、辞世の歌である。
同じく、この戦を兄正行と共に戦い、共に死んだ弟の方の、正時の影は薄い。嫡男と次男では同じ行動を取ってもかくも違いがあるのでありますな。
かへらじと われも思へど 梓弓 堅きこころも 名をも知らえず (偐正時)
墓石碑はいつの建立かは知らぬが「贈従三位」とあるから、明治9年以降、従二位が追贈される明治30年以前の建立ということであろう。明治23年の四条畷神社創建に合わせて建立されたものかも知れない。石碑は高さ地上7.5mという巨大なもの。威容を誇るという雰囲気で隣のクスノキの巨木に負けていない。
因みに、このクスノキは幹回り12m以上あるとのこと。
正行墓所からJR四条畷駅へと引き返す。
途中にあった喫茶店に入ってコーヒーブレイク。1時間余、あれやこれやの雑談をして午後5時過ぎに解散。健麻呂氏と小生は四条畷駅前からバスで帰途に。次にこの5人組で歩けるのはいつのことになるのやら。
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