HANNAのファンタジー気分

HANNAのファンタジー気分

斎藤惇夫「ガンバ」他

斎藤惇夫「ガンバ」ほか

「旅」の物語―― 『グリックの冒険』 HPにあります。
旅立ちの秋―― 『グリックの冒険』
夏のいちおし! 『冒険者たち ガンバと十五匹の仲間』
海の冒険ロマン―― 『冒険者たち』 『たのしい川べ』
『冒険者たち』 の自由と愛と無思想性
絶滅という重圧にいどむ―― 『ガンバとカワウソの冒険』
時をさかのぼる鎮魂と再生の旅―― 『哲夫の春休み』

グリックの冒険
旅立ちの秋―― 『グリックの冒険』 (2005.9)

 秋から始まる冒険の物語です。町で飼われていたシマリスのグリックがかごから脱走し、野生のシマリスが住む「北の森」への旅に出ます。

 グリックは春生まれで、九月には大人になったばかり。すみかのかごはせまくなり、こっそり抜け出して家の中を駆け回ってもまだ運動が足りない。一緒に住む姉リスのフラックは、思春期の息子を持つ母のような気持ちでグリックを見守っています。

  一日一日と大きくなり、いつもなにかにいらだっているグリック…フラックは、グリックになにもしてやることができないまま、ただとどまるところもなく成長していくグリックを、毎日、せいいっぱい見つめていた。 ――『グリックの冒険』

 そこへ空から舞いおりたレース鳩ピッポーが、自由に駆け回るリスたちのいる広大な北の森の話をし、グリックに激しい憧れの気持ちをいだかせます。
 印象的なのは、「北の森」をピッポーもグリックも「きみの うち 」「ぼくの うち 」と呼ぶこと。グリックは鳥屋で生まれて、北の森のことなど知らなかったというのに、そこは疑いもなく彼の「 うち 」=故郷、なのでした。
 たぶん、自分はいったいどこから来たのか、自分という存在のルーツはどこなのか、それを探求したくなる「時」というのが、誰にでもあるのでしょう。どこから生まれ、最終的にどこを目ざして還ってゆくのか、という哲学的・宗教的な問いかけ。
 グリックの旅立ちにはそんな意味があって、それが「秋」という季節にぴったりだと…私は感じます。ちょうど、 『たのしい川べ』 の川ネズミが、南への旅立ちの憧れを断ち切って、おのが在所である「川」にとどまった(グリックとは対照的)のがやはり「秋」であったように。

 決まり切った狭い“日常”のかごの中をぐるぐる駆け回るグリック、一陣の風とともに大空から吹きこんだ、まだ見ぬ故郷への憧れ。何となく、他人事ではない図式ですよね。

 この物語は 『冒険者たち』 の作者、斉藤惇夫のデビュー作です(出版の後押しをしたのは、 『指輪物語』 の訳者である瀬田貞二だそうです)が、「あとがき」によると、彼が実際に飼っていたシマリスが逃げだしたのをきっかけに生まれた作品だそうです。
 逃げたペットについて、ああ彼はほんとうの故郷へ帰る旅に出たんだ――そんなふうに思うことのできる斉藤惇夫氏って、すごいです。彼の夢の中で、グリックは波瀾万丈の冒険の旅をつづけ、ついに「北の森」(そこはきっと新潟生まれの斎藤惇夫にとっても“魂の故郷”、なのでしょう)にたどりつきます。
 日本の秋の自然や景色の描写(そして藪内正幸の絵)がすばらしい、読書の秋にぴったりのお話です。



冒険者たち 冒険者たち
          上右の表紙は現在のもの(上左)とはちょっと違います。
          私はこちらのガンバの顔や姿勢の方が好きなので、あえて載せてみました。
夏のいちおし! 『冒険者たち ガンバと十五匹の仲間』 (2005.7)

  いいか、ガンバ、夏がきたんだぜ! 冒険の夏がよ!
  おれの血がうずく夏がよ! 夏は考えねえでやる時よ。
  …
  甲板へ行こう。海を見せよう。おれが船乗りをやめられねえ理由を教えてやろう。           ――『冒険者たち』

 船乗りネズミのヨイショのこのセリフに惹かれて、ガンバとともに海=冒険ロマンに出会ったのは、私が10歳ぐらいの時でした。

 この本には、児童書によくある、大人のナレーターのような語り口や、いかにも説明してきかすような文体、共感しやすい子どもの主人公、勧善懲悪式の教訓めいたところ、などがありません。
 かといって、子どもには理解不能な一般常識に縛られた現実の大人たちの世界でもない。

 ガンバと仲間たちは、私が初めて出会った、等身大で語られる“若者たち”でした。住み慣れた家を出て、勇気や仲間とのきずなを頼りに未知の冒険に乗り出していく、このカッコいいネズミたちへの憧れは、ちょうど大人の広い世界を知りたいと思い始める10歳ごろの子どもにとって、ものすごく強烈でした。

 そして、全編に流れる海の香りと、いわゆる“男のロマン”。
 たとえば、初めて船乗りネズミたちに会ったガンバは、まずウイスキーで乾杯。それからヨイショとの相撲勝負、歌え踊れの大宴会。そこへ助けを求めて現れる島ネズミ忠太にこたえ、ガンバはイタチに制圧された島へ乗りこんでゆく。イタチとの戦い、島の娘ネズミとの淡い恋、生と死。ラストでガンバは、船乗りネズミの仲間たちと、次なる冒険へと旅立ってゆく。

 何とも骨太で、躍動的で、甘く切なく、でもからりと明るい、男性的な物語です。ちょうど物語の始まるこの季節――じめじめした梅雨が雷雨の夜とともに明け、「冒険の夏」が始まる季節の、まっさらで期待に満ちた、力強い清涼感。

 『冒険者たち』の若々しいパワーは、夏ばてにガツンと効きそうで、毎年、この季節に読み返します。



『冒険者たち』 の自由と愛と無思想性 (2007.9)

 上にも、夏になるとこの本を読むのだと書きましたが、今年は5年生の息子に毎晩、読んでやりました。なんと言っても私の好きな本ナンバーワンなので、さりげない顔をしつつ実はすごい思い入れをこめて声に出して読んだのです。
 冒険者たちのテーマ・ソングである「冒険の歌」も、私はむかし我流でメロディーをつくって以来、時々こっそり歌って自分自身を元気づけてきたのですが、それもさりげな~く息子に歌って聞かせちゃいました。

 ♪さあゆこう仲間たちよ
  うずまきさかまく大海原を
  残照輝く水平線のかなたへ
  聞こえるだろう ほら
  あれくるう風の中に
  自由と愛のほめ歌が  ――斉藤惇夫 『冒険者たち』

 とにかく、これだけ長い物語となると、まずめったに自分で朗読なんてしませんから、新鮮な体験でした。
 ほかにもいろんな本を読み聞かせていますが、『冒険者たち』は読みやすいですねえ。描写が簡潔でしかも生き生きしているし、お説教じみた押しつけがましさがない。テンポのいいせりふと、そのせりふを口にしたときのガンバ(あるいは他の登場人物)のしぐさや口調が説明されるだけで、くどい内面描写もないです。
 そのくせ、舞台となる南の島の暑い日差し、海のにおい、くろぐろとした岩山に照る月の不気味な静けさ、などが肌で感じられるほどなまなましいし、ガンバや仲間たちのせりふも、いちいち説明がいらないほど親しみ深いノリがあります。

 ところが、この物語をそんなふうに読まない人も、いたみたいなんですね。
 というのは先日ネット上で、“児童文学評”というページに 三宅興子氏による、まじめでかなり手厳しい評 を見つけたんです。

 それによると、『冒険者たち』はストーリー展開の面白さという点ではすばらしいが、ガンバたち“冒険者”の生き方の「無思想性と意外な古さ」、「(“冒険の歌”に歌い上げられる)自由と愛という言葉に何ら実態がない」こと、「われわれ人間の状況と隔絶したところに作品を成立させている」こと、などなどにより、あまりにも奥行きのない一面的な作品になってしまっている、というのです。

  いかに読んでもガンバには、奥深いものがない。彼の無思想な行動は、世界中を住み家とするだけに、どこか危険きわまりないものを感じさせる。浪花節的でもある。戦い続けることが生きていることだという実感は、こわい。そこに戦いがあれば、生きている証のために、とにかく参加していきそうなガンバ、「カッコイイ!!」というだけですまされない作品である。大航海時代は、はっきりと大過去である。
    ――三宅興子『日本児童文学100選』(日本児童文学別冊)より

 こんなふうに、大好きな物語があまりにもバッサリやられているのでびっくりしましたが、この評論自体が1979年のものと分かって、なるほどとうなずいてしまいました。日本ではファンタジーがまだ異端視されていたころですから、現実(読者である人間とその社会)を排除したファンタジーは、精神的に不健康なものに見えたにちがいありません。

 それに私の直感的勝手な推量ですが、三宅氏はたぶんじゅうぶん成長した大人になってから『冒険者たち』を初めて読んだのではないでしょうか。

 私をふくめて、10代あるいは何歳であっても、まだ大人になりきれず自己を確立していない年頃にこの本を読んだ人々は、無思想で世界中を荒らし回り、内面的な奥深さも(まだ)ないガンバだからこそ、自分自身を重ね合わせ共感することができると思うのです。
 『冒険者たち』は、「人間」の状況と切り離して語られているのではありません。「現代の大人社会」の状況と隔絶したところに確かに存在する若者たちの社会(大人たちは知らない、あるいは理解しようとしない世界)をえがいているのです。一人前の社会人になる前、思春期~青年時代の主人公だから、人間ではなくネズミとして描かれているのです。
 主人公のドブネズミたちは、(人間の)港の倉庫で宴会を開き、(人間の)船に乗って世界を旅し、(人間の)フラメンコ大会の舞台裏で自分たちのフラメンコ大会を開いたりします。それでいて、人間たちとは交渉をいっさい持っていません。

  「人間に注意しろよ。やつら動きはにぶいが、おく病で、おれたちを見ると、ばかでかい声をだしやがる。見つかるとめんどくせえ。」
            ―――『冒険者たち』ヨイショのせりふ

 この「人間」というのは、実は、若者世代と徹底的な断絶を見せる大人世代のことなのだと感じます。人間(大人社会)と同じ舞台で生活しながら、人間のまったく気づかぬところで展開するネズミ(若者)たちの生死をかけた冒険。大人にとっては無思想で無意味でも、若者にとっては、その時の“今”を生きること自体が生死をかけた戦いであり冒険なのです。・・・ほんとうは大人の誰にでも、そんな疾風怒濤時代があったはずなんですけど。

 『冒険者たち』が世に出た70年代(政治運動、労働争議、学生運動など社会を揺るがすいろんな主張がまだあったころ)にくらべ、30年以上たった今現在は、当時よりもっと何の思想的よりどころもなく、多様化し刻々と変化する広い社会へと、若者は出て行かなければなりません。
 学校だの家庭だのに過保護に守られた子供時代を終えて、そんな多様な社会がバッと目の前に開け、そこへ踏み出すその解放感とおそろしさ、それこそがガンバたちの歌う「自由」の意味だと思います。10歳でこの物語を読んだとき、私はガンバの世界を、自分の未来に待ち受けているだろう世界と無意識に重ね合わせて、そう感じました。
 そのおそろしくも魅力的な未来に対する「自由」を、前世代の大人たちは理解するでしょうか?

 現代の若者像に通じる船乗りネズミたちは、故郷も定職も持っていません。飲めや歌えの大騒ぎをし、「あえて死地にのりこむ」(ヨイショのせりふ)冒険家きどりで夢見が島へ行く彼らの、根無し草的な無責任さを、じつは作者はじゅうぶんふまえています。
 なぜなら、守るべきふるさとのある島のネズミたちをガンバたちの対極の置いて、二つの生き方の葛藤を繰り返しえがいているのです。

 島から助けを求めに来た忠太はしょっぱなから、酔っぱらって騒ぐ船乗りネズミたちに不信感をいだいていますし、舞台が夢見が島に移ってからは、生き残っていた島の高倉ネズミたちが、はっきりとガンバたちの無責任さを非難しています:

 「こいつら、うぬぼれと好奇心とで島まできただけなんだ。おまえのほんとうの苦しみだって、おれたちの苦しみだって、ほんとうはわかるはずないだろう。」
 「こんなことになったのは、のこのこ島にやってきた連中の責任なんだ。」
           ―――斉藤惇夫 『冒険者たち』

 そして、ガンバ自身にもそれはわかっているのです:

 「おれたちさえこの島にのこのこやってこなければ、イタチと戦わずにすんだかもしれないと思っているかもしれぬ。そのことでおれたちのことをおこっているものがいたらゆるしてくれ。おれも最初は、島の仲間を助けるんだという生意気な気持ちを持っていたんだ。」―――『冒険者たち』

 ガンバたちと高倉ネズミは事あるごとに対立し、そのせいで仲間全体の結束はゆらぎそうになります。子供の頃は、高倉ネズミって何てやなやつらなんだろう、と思いましたが、いい大人になった今では、彼らの気持ちがよくわかります。
 けれど、高倉ネズミたちの態度を決定的に変えた、というか、彼らの覚悟を決めさせたのは、島から一人逃げ出した老ネズミ、オイボレ=トキの死でした。オイボレは、ふるさとを捨てようとして捨てきれず、ついにガンバたちとともに再び島に戻って来たのです。そして逃げるだけではだめだ、仲間と故郷を守ってイタチと戦い続けなければならない、ということを、我が身を犠牲にして、高倉ネズミたちに示すのです。
 守るべき成熟した社会を自覚した島のネズミたちは、本気を出し、強くなります。ガンバたちではなく彼らこそが、ついに流血の戦いとなった最後の時にふんばり、しぶとく食い下がるのは、それだけの確固たる基盤の上に彼らが立っているからなのでしょう。

  「やっと、おれたちの戦いを始めたところだというのに、ここでやめられてはかなわん。死んだトキに申しわけがたたん。いやトキだけではない。この島にわざわざやってきてくれた仲間にも、おれたちの力を見せずに戦いをやめるなんて、はずかしくてできん。」―――『冒険者たち』

 高倉ネズミ七郎のこのせりふは、前のせりふ(「のこのこ島にやってきた連中の責任」)と対照的で、それだけに感動を呼びます。
 このような高倉ネズミたちや、戦い終わると島に残り、冒険者にはならなかった忠太・・・、彼らの生き方こそ、地に足のついたまっとうな生き方だといえるのです。
 このことは、後年の 『ガンバとカワウソの冒険』 でシジン(=忠助)がふるさとを語る場面で、よりはっきりと主張されていると思います。

 しかし、(シジンをのぞき)ガンバたちは、最初から忠太とは違います。ヨイショとガクシャはふるさとをノロイによって破壊され失った、いわば亡命者ですし、都会育ちのガンバにいたっては最初から、よってたつ故郷も社会もない。床下の貯蔵穴で空疎な時をすごす『冒険者たち』冒頭のガンバは、都会のワンルームに快適に暮らす若者に似て、自分をもてあまし、孤独です。

  「故郷なんてしゃれたものおれにだってねえよ。・・・ガンバの台所の床下、へっ、あんなもの。」―――『ガンバとカワウソの冒険』イカサマのせりふ

 こうした現代の若者たちのかかえる、よりどころのない浮遊感、やりたいこともはっきりしない空疎感、そんな自分や現実へのかすかな不安・・・みたいなものが、「町ネズミ」ガンバにはあるのです。だからこそ、海へ、冒険へと、生きる意味を見つけに、とにかく出かけることが大切なのです。

 さいごに、そんな根無し草で無思想で無責任な冒険者たちの、「愛」とは何でしょう。私は、それはやっぱり、“仲間”意識だと思うのです。たまたま夢見が島行きを志願して船で一緒になったネズミたちですが、ともに冒険する=生きる、という体験を通して、仲間としての結束をかためていきます。
 一面的で奥行きがないと三宅氏に批評される一匹一匹のネズミたちが、見事なチームワークを発揮して、イタチの策略を打ち破る。
 また、何も知らずのこのこやってきたガンバたちこそが、高倉ネズミを倉から出させ、島の民謡の意味を解き明かし、オオミズナギドリを味方につけ、結局はイタチとの戦いに新局面を開くきっかけを作るのですが、それは“みんなで戦おう”という広い意味での仲間意識のあらわれだと思います。

 そして、この物語が出てから(三宅氏の評論から)30年ほどたった昨今、ファンタジーと冒険ロマンは復活を遂げたといっていいと思います。それだけ現実社会が高速で無機質になっているのかもしれませんが、想像力の大航海時代はよみがえって不滅です。

 というのは、大航海時代、無思想性、冒険のための冒険、という言葉を聞き、私はとっさに 『ワンピース』 の破天荒な主人公、ルフィを思い出したからです。彼の動物的な感性とタフさ、「海賊王になる」という、世の大人からみると無思想な信念。それが、コミックスならではの自由でメチャクチャなストーリーや一面的な登場人物たちの中心で、あれほど輝きをはなって活躍し続けるのは、時代と場所を問わぬ根本的な真実や正義、そして仲間意識=愛が、すべてをひとすじ貫いているからだと思うのです。

 空想物語の持つすばらしい性質は、すべてのものの根本にある真実、あるいは真理を突然のぞきみることだ、とは、トールキンの言葉ですが、『冒険者たち』の自由や愛は、一見空疎な言葉に見えますが、物語全体の冒険を通して、これから社会に踏み出そうとする若者たちの心にはするどく響いてくるにちがいないと、私は思います。



海の冒険ロマン―― 『冒険者たち』 『たのしい川べ』 (2006.2)

 「海賊」にひき続き、今日も海の冒険ロマンの話を少し。
 私が初めてはっきりと冒険ロマンを意識したのは、斉藤惇夫 『冒険者たち』 に出てくる船乗りネズミ(ガンバとその仲間たち)でした。
 小さなネズミでありながら、世界中の海を旅する、この自由。

  「港では愛する娘が、娘がよー
   おれをとめようと泣きさけぶ ソレッホイッ
   だがおれは船乗りさ ヨイショ!
   海の誘いに勝てやせぬ」 ――『冒険者たち』

 こんな歌で酒盛りをし、踊る彼らの、男のロマン。人間の船乗りだったらちょっとコテコテすぎてこちらが赤面してしまいそうですが、そこは動物ファンタジーのいいところ、海の男のロマンを小さいが勇敢なネズミたちにまとわせると、ぴったりはまる感じがします。

 このはまった感じは原型がありそうだな、と思っていたら見つかりました。ケネス・グレーアム 『たのしい川べ』 に出てくる旅のネズミです。斉藤惇夫は 『ガンバとカワウソの冒険』 にも引用しているぐらいこの本がお気に入りのようで、多分彼の船乗りネズミの原点は、川ネズミのしずかな生活に激しい憧れと興奮をもたらした、旅する海ネズミだろうと思います。
 『たのしい川べ』では川ネズミは、結局は海や旅の冒険ロマンを振り切って、落ち着いた平和な自分の生活に戻るのですが、斉藤惇夫の主人公ガンバは、逆に落ち着いた平和な生活を捨てて、海の冒険へ乗り出します。

 「冒険」がタイトルになっている本は(特に児童書には)多いですが、斉藤惇夫は特に「冒険」という言葉やその意味に特別こだわっているようです。

  冒険というふたつの文字が、僕の内部にある刺激を与えてくれる限り、僕はまだ自分のいる場所を見つけることができるのだ…。
  …このことばが含む、なんと大きな、遠い、想像の世界でしょう。 ――『冒険者たち』あとがき

 また彼の評論やエッセイなどを集めた本のタイトルにも、「冒険」という言葉が使われ、それには「ファンタジー」とルビがふられています( 『僕の冒険(ファンタジー)』 )。
 『たのしい川べ』の川ネズミが、海への憧れの発作にとりつかれて、夢見心地で自分も旅に出ると言いだすあたりを読んでも、「冒険」とはやはり現実とは違った次元にある一種の夢(ファンタジー)であるようです。




ガンバとカワウソの冒険
絶滅という重圧にいどむ―― 『ガンバとカワウソの冒険』 (2006.3)

 ここ数日寒くて、咲きかけた桜の花もこごえている感じですが、もう四月になりますね。 『ガンバとカワウソの冒険』 はちょうどこの季節、 『冒険者たち』 でおなじみのドブネズミ・ガンバと十五匹の仲間たちが、「四の島」(=四国)で、絶滅に瀕するニホンカワウソの仲間をさがして、川を旅する話です。

 ニホンカワウソは絶滅危惧種となっていますが、実際にはこの本の書かれた数年前の1979年、高知県で目撃されたのが最後だそうです。ガンバたちは「大川」(=仁淀川)の支流で子どものカワウソ2匹にめぐりあい、彼らとともに水源を越えて、カワウソたちの伝説の「豊かな流れ」(=四万十川)をめざします。
 最初は桜の咲くのどかな田舎の川辺を歩く旅も、カワウソの悲劇をまのあたりにし、野犬に襲われて奥山へと逃げるうちに、危険で困難で、おまけに希望の見えない旅になってゆきます。

 前2作の夢多き男のロマンみたいな冒険とは違い、この3作目で作者の斎藤惇夫は、種族の絶滅という問題に、まっこうから取り組んでいるようです。仁淀川や四万十川の地形はもとより、ほろびゆくニホンカワウソをとりまく危機的状況も現実そのもので、物語にはファンタジックな脚色を楽しむ余裕があまりありません。
 ようやく水源のトンネル(地図で見ると「八釜の甌穴」と呼ばれるあたりでしょうか)で、カッパやエンコウなど伝説の生き物たちに助けられ、「豊かな流れ」にたどりつきます。
 ファンタジー的には、ここでカワウソたちは仲間とめぐりあい、めでたしめでたしと終わりたいところです。
 ところが、「豊かな流れ」にも、もはや一匹もカワウソは生き残っていなかったのです。

  「わたしは知っていたわ。これが最後の賭であることを。そして今、わたしは、この賭にもまけてしまったようだ」
  「最初からわたしは、どこかに仲間がいるなんてことを、すこしも信じてはいなかった。わたしと父さんが最後だったんだ」
  「わたしは知っていたの。わたしの一生は、決して見つからないものを探すだけだったということを」 ――『ガンバとカワウソの冒険』

 絶望するカワウソの娘。もう一匹のカワウソの子は、口がきけない。どうしたらいいか分からず、無力感・焦燥感にとりつかれるガンバと仲間たち。

 斎藤惇夫の冒険は、いつもクライマックスで絶望のぎりぎりのふちまで追いつめられ、その状態がけっこう長く続きます。 『グリックの冒険』 でも吹雪の中を息も絶え絶えに前進するシマリスたちの疲労困憊の旅が極限まで書かれていて、読者もかなり苦しいですし、『冒険者たち』でも海とイタチにはさまれて身動きできず、飢餓状態で戦うネズミたち悲壮感は迫力満点です。
 この物語では、狂気の一歩手前まで追いつめられるカワウソと、それをまのあたりにしながらなすすべもないネズミたちの精神的な苦しみはものすごい重圧で、それがどんどん深まっていくものですから、さすがのガンバも叫びたくなります。

  「おれはもうあんたが恐ろしくも何ともない。…殺されたカワウソたちのすべてがあんただなんて、おれはもう思わない!」
  「あんたあんまり重いものをかかえていたから、おれ、恐ろしかったのさ。もうそんなことはどうでもいいんだ。」
  「おれは…あんたが、とことん最後までやるところを見ていたいんだよ。いいや、見てやる! おれ、すっきりとした気持で見てやる!」 ――『ガンバとカワウソの冒険』

 こうして、絶望を越えた何かが、ガンバの心に生まれます。それから絶望を越えたすがすがしいあきらめにも似た旅が、まだ続きます。そして最後に…、奇蹟が起こるのです。ああ、奇蹟を起こすためには、こんなにもつらくて長い旅が必要だとは、ニホンカワウソの危機がそれだけ重く重く、作者の筆にのしかかっていたのでしょうね。

 とにかく、ファンタジーですから、ガンバの仲間イカサマの言うように(そしてトールキンの言うように)「幸せなおおづめ」がついにやって来ます。その感動は、現実のニホンカワウソ生存への祈りとなって昇華していくようです。
仁淀~吾川  右の写真は、この物語が出てから3年後に、私が旅してみた仁淀川上流の渓谷です。ちょうどカワウソの子どもたちが生きながらえていた支流に近いあたり。
 四万十川ぞいも旅して、物語に出てくる「沈下橋」などの風景や美しい川の姿を楽しみました。宇和島市の南には「カワウソ村」という看板も見かけましたが・・・




時をさかのぼる鎮魂と再生の旅―― 『哲夫の春休み』 (2010.12)

『冒険者たち――ガンバと十五ひきの仲間』 の斎藤惇夫氏の新作、という新聞広告を見てびっくり、慌てて購入しました。処女作 『グリックの冒険』 が1970年、次の『冒険者たち』からかなりの年月を経て 『ガンバとカワウソの冒険』 が出たのが1982年でした。3作でガンバや個性的な彼の仲間たちはかなり描きこまれた感があり、しかも最後のテーマが相当重いものだったので、読者の私としても“完結した”気持ちがしていました。

 でも、作家は(いや人間はみな)新しい分野にチャレンジしていくものなのでしょう。ロフティングが「ドリトル先生」シリーズをいったん終わらせ(るつもりになっ)たあと、ジャンルのちがう 『ささやき貝の秘密』 を書いたように、斎藤さんもまた別の物語を語りはじめようとしていたのだそうです。
 それが28年後の今年ようやく出版された、というのです。

 ところで、『冒険者たち』の冒頭には、「哲夫と竜太に贈る」という著者の献辞があります。だから私は新作のタイトル 『哲夫の春休み』 を見た時も、知らない人でありながらなつかしい「哲夫」くんに、数十年ぶりに再会したような気がしました。

 物語は小学校を卒業し中学になる前の春休み、哲夫くんが父の故郷へ一人旅をするというもの。子供時代を終えたけれど、大人世界の住人にはまだなっていない、若者の旅。彼の目の前に開ける広い時空。それは、 以前私がこのブログでとめどなく垂れ流していた『冒険者たち』シリーズに共通するイメージ と重なっていて、ガンバの物語でなくてもこれはやはり斎藤さんのお話なんだなあと思いました。 折しもちょうど今年の夏 『児童文芸』 誌上に、私がブログをまとめたものがひっそりと掲載された もんですから、何てタイムリー!と個人的に盛り上がってしまいました。

 哲夫くんの旅は、ガンバというよりは、「ぼくのほんとうのうち」である北の森を目指すシマリスの旅(『グリックの冒険』)により近いものがあります。哲夫くんは列車の中や長岡の町で、父の子供時代、若者時代にタイムスリップを繰り返します。それもそのはず、哲夫くんは作者の息子さんであり、作者は息子の姿や心を借りて、この物語の中で自分のふるさとと人生とをたどりなおしているのです。
 だから、哲夫くんが歩いている道の風景がいつの間にかふっと過去のものにだぶったり、昔の人物がそのまま自然に現在の人物につながったりします。

 そのオーバーラップの容易さは、典型的なタイムスリップもの(たとえば 『トムは真夜中の庭で』 )のように、現在と過去がはっきり分かれていて境目を超えるのに何か儀式(時計が13時を打つとか)が必要な物語とは、夢の本質が違うことをも示していると思います。
 つまり、哲夫の行き来する過去の世界は、まだ完結していないのです。過去は、現在の登場人物ひとりひとりに何かしら影響を及ぼし、封印してきた思いを解き放つようにと働きかけています。過去をもう一度体験するというタイム・ファンタジーを通して、その解放が為されると、最後には癒しが訪れます。
 つらい思い、未消化な思いがそうやって解き放たれ癒されて、はじめて人は前へ進むことができる。逆に言うと、将来へ向かっていくためには、過去をときほぐす必要があるというわけです。

 『グリックの冒険』でも、吹雪の中で立ち往生した時、ヒロインののんのんが死んだ母の思い出を語ります。グリックはそれを聞いて、夢うつつにその話を反芻し、やがて再び立ち上がって旅を続けるのです。
 同じように、哲夫くんも彼と知り合った人々も、過去の再体験によって未来へと踏み出す力を得、物語は前へ向いて終わります。

 と、こんなふうにこの物語を一気に読み終えて、あとがきを読んだ時、私は初めて、斎藤惇夫氏の息子の哲夫さんが2年前に亡くなったことを知りました。私とほぼ同世代で、『冒険者たち』の献辞でその名を見て以来、まるで知っている人のように私が感じてきた哲夫くんは、お父さんを残して先に旅立ってしまっていたのです。
 現実の哲夫さんが逝ってしまった後、作者の心の中で20年以上も眠っていた12歳の哲夫くんがようやくふるさとへ、時をさかのぼる旅に出たのです。それを知ると、今度は、この物語はお父さん自身の心の旅であると同時に、やはり哲夫くんの旅――父惇夫氏の心の中の哲夫くんの旅でもあるということが、わかりました。
 そしておそらく、時をさかのぼる旅をやりとげる=この物語を書きあげるということで、作者の心も癒されたのだろうと思います。

 この物語の舞台であり斎藤惇夫氏のふるさとである長岡市は、私の母方の祖母の故郷でもあります。子供のころ疎開していたという母と一緒に、私も若い頃、見知らぬふるさとである長岡を訪ねたことがありました。哲夫くんのように、タイムスリップはできなかったですが・・・


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