古代日本人の食生活
■「古代日本人」という言い方はいささか語弊があるが、縄文や先土器の時代、この、現「日本」なる地域に住んでいた人々の食生活に思いを寄せてみよう。
トーゼン、狩猟採集経済なワケだが、この頃の遺跡などを調べると多様な食材を食していることがわかる。
■草の若芽、木の芽、どんぐり、栗、とち、ぶどう、あさり、はまぐり、かつお、まぐろ、イルカ、クジラ、サケ、トド(!)、猪、鹿、鳥・・・・。
原人くらいまではさかのぼって火の使用も確認されているので、調理方法も多彩であったろう。
で、獣の類はみな内臓から食べたらしい。(そういえば、肉食動物も獲物の内臓から食べるなあ)栄養のことを知っていたかどうかは別として、結果的に栄養OKだった。
■ もひとつビックリが、クッキーを焼いて食べていたらしいということ。クルミの粉にイノシシやシカの肉を混ぜ、血や骨髄を練り込んで、卵でつないで焼いて食べていたらしい。(これまた栄養価高い!)
■ どう?想像以上に豊かな食生活。「ギャートルズ」の連想ばかりではいかんなあ・・・。
「おもしろい」っていうけれど・・・。
■「おもしろーい」「おもろーい」よく使う言葉。漢字で書くと「面白い」。ツラが白くて、なぜおもしろいのだ?なんなのだ?
■今や世の中美白ブーム。へたに道を歩けば、黒スーツにサングラスの男に「ファンデーションは何をお使いかと奥様が・・」と声をかけられ、美白の女王(故人だが)はビジネスで大儲けする時代。
■ ところが古代日本においては、人々はあまり化粧などしなかったらしい。
もともと化粧は、身分の低いものが、目上の人に近づくためにおこなったといわれ、普及もしなかった。健康的な肌色(私もこっちの方が好き)が常の状態で、裏を返せば美人の条件であったのではないか。
だから「白い顔」は「めったにないこと」→「普通でないこと」→「滑稽なこと」→「楽しいこと」と意味が変化し、「面白い」の現在の意味になったという。
■でも、これじゃあ「色白の美人」にはつながらないじゃあないか。・・・・これについては、宮殿が暗かったので目立たすために顔を白く塗りはじめた、というところに起因してるんじゃないか、という話を聞いたことがある。フムフム。
お・・・、勘弁して・・・・
■平安貴族の女性といえば、十二単に白い顔、そして長い長い髪。 この長い髪こそ平安美人の条件だけれども、なんと、身長ほどの長さが最低条件だとよ。村上天皇の娘なんて7メートルも髪があったんだって。もし彼女がうちの家に遊びに来たら、客間に入ってもらっても髪の毛はまだ玄関どころか、前の道路に残っちゃってるくらいだ。
■それだけの髪の毛なら、お手入れも大変。洗ったら乾かすのに2日はかかったそうな。なんでも「髪の毛を洗う」ための休暇が女性に与えられていたようだ。・・・・ん・・・ちょっと待てよ。休暇ってどのくらいのサイクルでとるの?・・え?半月に一度?じゃあ、1ヶ月に2回しか頭洗わないの?
■そうなのよ。そうなのよ。だいたい平安時代に入浴の習慣なんてないしね。頭はさすがにギトギトするから洗っとこか、てなもんよ。体は拭くか、よくて蒸し風呂。(それもたまにのことじゃないのかなあ)普段は厚着、そして風呂なし。当然クサーイよな。
それをかくすためにみんな強い香りのお香をたいた。平安貴族は、「体臭」と「お香のにおい」のミックスした、(絶対想像したくない)なーんともたまらん臭いがしていたに違いない。
■平安時代の恋愛を描いた読み物、マンガはみなロマンチック。しかし、抱き合ったり、チューしたりするシーンをイメージするとき、その臭いも一緒にイメージしてみてちょうだい。・・・おお・・勘弁して・・・・・。
なんともおもしろい!
黒船来航前後の人々!
■開国に際しての有名なアメリカ人といえば、もちろん「ペリー」。
彼は黒船を率いての2度の来日で、日米和親条約を締結し、日本の鎖国の終焉に大きな影響を及ぼした、というか「きっかけになった」人物である。
■では日本史の復習。「黒船」って何?まあ、そりゃ「黒い船」だよな。用途は・・・・・そう、軍艦。1回目の来航(1853)では4隻、2回目の来航(1854)では7隻の軍艦が、砲台をこちらにむけてやってきたのだ。
当然、世の中は大パニックに陥った。そりゃそうだよ。鎖国体制の中で、突然異国の船が、それも軍艦がだよ、砲台向けて押し寄せてくる。来たところも浦賀と江戸だあ。いやあ、こわいこわい。
■一回目の来航時には、海岸付近の住民を中心に、家財道具を背負って避難する住民の様子が記録されている。「それー、逃げろー!」なんて、背負子を背負ったり、大八車を押して歩く人々の列ができたに違いない。
浦賀来航のこのとき、江戸でもそれは大変な騒ぎになった。「アメリカがおそってくる」「きっと戦争が起きる」「オランダやロシアも来るに違いない」と噂が流れ、避難する人はあるわ、食糧確保に歩き回る人もあれば、立ち向かおうとアツーくなっている人もあった。
「黒船撃破だ!」アツーくなった人の中に、水中を潜って敵船に近づく方法を考えた職人がいた。「ワシの発明したこの革袋をもって潜ればどこまでも潜れる!」残念ながらその袋はただの袋で息の通う方法なく、彼はただの「アツーいアホな男」になってしまった。
■ 2回目の来航の時には、不思議な光景が確認されている。
条約締結後のこと、アメリカ人の前で広がる意味不明の行動。それは・・・・「お相撲さん大集合」である。「全然不思議じゃないじゃない。日本文化を見せようってんじゃないの?国技だし。」その意見はごもっとも。だから「相撲を見せた」とは書いてないでしょ。
「お相撲さん大集合」で、相撲の取り組み以外に見せたもの。
それは・・
あるお相撲さんは米俵をいくつも担いで見せ、あるお相撲さんは米俵にひもを結び、そのひもをくわえて歯でぶらさげ、あるお相撲さんは米俵をかかえたままとんぼ返り(前方宙返りだな)をしてみせた・・・ってものだ。
■異様でしょ。何でそんなことをしたかっていうと、日本人にもすごい体格の持ち主と力のある者がいるぞ!って伝えたかったみたいななんだけど。伝わったのかなあ。
「そんなことするわけない!」「ほら吹き!」って言って信じてない君。これ、ほんとなんだよ。なんせ、ペリーの手記「日本遠征記」に書いてあるんだから。
いやな人は読まないで!切腹のお話。
■切腹・・せっぷく。この言葉は古代文献には見られない。記録にないだけなのか?それともそんな習慣はなかったのか?・・・・・・現在の見解では、古代に切腹は存在しなかったとされる。そんなことするやつはいなかったんだな。「心中」の記録はあるけどね。
■じゃあ、いつごろからこんなことしてるの?ってことになるけど、どうやら平安の頃からあるんじゃないかということだ。源平争乱の頃にはすでに一般化(一般化ってのもいやだなあ)している。
百科事典を引いてみた。「切腹とは腹を切って死ぬことで、自殺または死刑の方法として用いられた。〈かっぷく〉〈はらきり〉ともいい、日本の習俗として〈ハラキリ〉の名で知られている。」このあとえんえんとその方法について解説してあるが、教育上配慮(といいながら、私が気持ち悪くなってきたので)から割愛する。
■ 刑罰としての切腹は、中世から始まり、江戸時代に制度化され、「上級武士への刑罰とし、大名家の庭または牢屋の庭で、夕方から夜にかけて執行する」などとの規定が定められた。また、白い着物を着る、名前を名乗る、介錯人の姿勢なども規定されていった。この刑罰としての切腹は1870年の法律で廃止された。
■他方、武士の自殺の観点から調べると、細かい変遷が見えてきた。南北朝時代、いわば武士の裏切りが続出した時代であるが、この時代にはたくさんの切腹記録がある。「切腹作法」なる文書が発見されているところからすると、相当数の事例があったに違いない。ところが江戸時代になると切腹は形式化し、扇で腹を切るまねをするというセレモニーをした上で、ほかの方法で命を絶ったというものが多かったようである。
■ 明治時代になると武士階級の崩壊で切腹の意味も変わり、切腹をすることで相手に対する恨みがどれだけ深いかを示すという意味が色濃くなった。
■樋口清之によれば、外国人で初めて切腹を見たのはフランス人レオン・ロッシュの一行らしい。土佐藩の箕浦猪之吉の切腹がそれで、自分の腹を切ったあげく、その腹の中に手を突っ込み、内臓を引っぱり出して投げつけたともいわれ、フランス人一行の数名はあまりのことに貧血を起こし卒倒したとか。
いや、あのね。別に気持ち悪くさそうとか、興味本位で書いてるわけじゃないよ。そういう風習があったことも知っておけば、学習のひろがりがあるかな、なんて思ったんだけど(一応最後に自己弁護)。
「ワオッ!ハロー」
■うむむむむ、この出だしでは何のはなしかわからん。昔流行った歌の一部なんだけど・・。ではもうちょっと歌わせてもらおう。「明日は卒業式だから(ジャンジャーン)これが最後のチャンスだよ(ジャンジャーン)胸のふるえをおさえつつ(ジャンジャーン)ぼくはダイヤル回したよ(ジャンジャーン)君のテレフォンナンバーしっくすせぶんおうおう ワオッ!ハロー ・・・」わかった?この歌。え、まだ?じゃあ前奏からもう一度。「リンリンリリンリンリンリリンリン リンリンリリンリリリリリン・・・・」え、もういいって?正解はフィンガー5の「恋のダイヤル6700」。1974年の歌だ。フィンガー5って知ってる?沖縄出身の兄弟姉妹5人組。「学園天国」を歌ってたのも彼らだよ。
■で、何の話かというと、「電話」のお話。今や「電話中毒」「電話依存症」(電話なしでは精神の平穏がない、ってやつね)などの現象が生まれるくらいに、生活に密着した電話。世帯ごとの加入電話(ふつうの家の電話)契約率は90パーセントを越え、携帯電話に至っては、大人の世界ではもっていることを前提に話が進められたりするから怖い。この間も出張で携帯電話の番号を聞かれ、「私、持ってないんです」と、なぜか恐縮して小声で答えてしまった(その後ついに携帯を買ってしまったが)。恐ろしい普及率だ。
■ さてさて、日本国内で初めて電話が開通したのは、明治23年のこと。しかし、初期において電話はなかなか普及しなかった。なぜか?って、用事があれば、近くの人ならひとっ走りすればいいし、遠くの人なら手紙書けばいいんだからね。また、慣習として、使用人に伝言を頼むという風習もあったし。さらに、自分の家だけ電話を引いても、他の家になければ何の意味もないしね。そしてもう一つ、電話で話をすると、声だけでなく伝染病も伝わるという噂が立ったのだ。カメラ普及初期、姿を写すと魂が抜かれるっていう噂が流れたけど、同じような例だね。
最初の加入者は東京で150くらい,横浜でそれを少し下まわるほどだったとか。
■使っている人々の様子を見て、徐々に加入者は増えていく。爆発的普及のきっかけになったのは商人が電話を導入したことだった。今もそうだが「情報利用が成功の鍵」。それに気がつきはじめたんだね。電話開通から10年後、街角には公衆電話も登場した。
ところで電話といえば「もしもし」。この語源は電話開通当時の様子に見ることができる。当時の人々の電話での第一声はこうだった。 「申し上げます。申し上げます。」
自動車大国ニッポン初の車の顛末
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