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天気は、弱い日差しが射したり、厚めの雲が覆ったり、急に激しい雨が降ったり ハッキリしない天気の日曜日です 選挙の日ですから、選挙で働いている人もいるので、ここは部屋の中で大人しくしていましょう どうせ、今夜は遅くまで、ああでもないこうでもないとテレビが煩いはず 隅田川の花火もそうでしょうが、昨日、横浜市の栄区では「キャンドルナイト・イン栄」という、地球環境を考える催しがありました どちらも、選挙の前の日狙いではなく、選挙後を狙ったはずなのに いつの間にか、選挙前日になってしまったのでしょうさて、キャンドルナイト・イン栄です 『でんきを消して、スローな夜を。』電気を消して、キャンドルを灯し、ゆったりとした時間を過ごしてみませんか?忙しい日常の中で、つい、忘れてしまう大切なこと。地球環境や世界平和、そして、家族のこと。夏至と冬至の夜の2時間 キャンドルの灯りの中で忘れがちな、でもとても大切な、いろいろなことについて ゆっくり 考えてみる時間をつくってみませんか?どうです、素敵な呼びかけでしょう そして、呼びかけは続きます「キャンドルナイト」という運動を知る"きっかけ"電気などの便利さに慣れすぎてしまった生活を見直す"きっかけ"ゆったりした時間の中で、いろんなことをじっくりと考えてみる"きっかけ"キャンドルの灯りを囲み、家族でゆったりと語らう時間を過ごす"きっかけ"自分を取り巻く、たくさんの人やもののありがたさを知る"きっかけ"駅前広場周辺のお店などにもまちのイベントに協力してもらう"きっかけ"こんなイベントをやるこのまちって、なんだか素敵だな と思う"きっかけ"この催しのサイトは、こちらです キャンドルナイト運動のサイトはこちらです ちなみに、わが家でも、キャンドルナイトを愉しんでいます
2007年07月29日
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ヨコハマ経済新聞から、最近の横浜の話題を三つ、ご紹介します その一は◎日本のビール発祥の地・横浜ならではのこだわり 関内・野毛エリアで個性派ビアバーを堪能する!今年もビールの美味しい季節がやってきた! 日本の夏の風物詩とも言えるビール。実は1871年、ノルウェー人によって日本初のビール醸造所が山手の丘に建てられたのが始まりだという。日本ビールの発祥の地・横浜で見つけた個性派ビアバーをリポートした。結構、力の入った記事です。記事本文は、こちらから 続いては、この記事です◎みなとみらいに新施設「高島中央公園」完成-エリア4番目みなとみらい21中央地区で4番目の公園となる「高島中央公園」(横浜市西区みなとみらい)が、7月25日に開園した。同園は、同地区で「日本丸メモリアルパーク」「臨港パーク」「グランモール公園」についで4番目となり、公募市民により決定した基本構想を基にして「市民の多彩な活動の舞台となる都心のオアシス」をテーマに建設された。高層集合住宅地の建設が相次ぐみなとみらいの居住者のほか就業者、観光客などの利用を見込む。面積は約1.4ヘクタール。横浜市と都市再生機構により計画され、サカタのタネ(横浜市都筑区仲町台)が施工した。建設費用は約3億800万円。記事本文は、こちらです そして、三つ目の記事です◎旧桜木町駅舎がアートの拠点に-明和電気も登場旧東横線桜木町駅舎で7月28日から、「ヨコハマEIZONE2007」関連イベントとして「明和電気」をはじめとするアーティストを招きライブや映像上映を行うほか、期間限定カフェ「Station ART Cafe」がオープンする。イベントは、9月から創造活動の場として正式オープンする「旧桜木町駅」を実験的に活用するもので、会場に設けられるカフェ内で開催される。カフェは夕方まで4面スクリーンで「ヨコハマEIZONE」参加クリエーターの映像作品を上映し、17時以降はラウンジ風クラブをイメージした「Club E」としてイベント会場となる。座席数は約32席。メニューはブレンドコーヒー(300円)などのソフトドリンクのほか、地ビール「横浜ビール」4種(各500円)を提供する。記事本文は、こちらです
2007年07月28日
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緑、というと何を思い浮かべますか あっしは、色の中では好きな色であります その「緑」をWikipediaから、探してみます まず、「定義」です緑(みどり)は、寒色の一つで、植物の葉のような色。黄と藍(青)の中間色であり、光の三原色の一つである。1931年、国際照明委員会は緑色の波長を546.1nmと定義した。 漢字では、碧や翠といった字も使われるが、いずれも藍緑色を指す。 マヤ文明や漢字圏文化(日本、中国、ベトナムなど)では、"green" と "blue" を明確に切り分けないが、別の文化圏においては厳密に区別される。これは色の区分に物理学的な根拠が無く、文化によって区切られていることによる。続いて、「緑に関する文化」です緑は寒色であるが、他の寒色(藍、紫)と比べて、暗い所でも識別が容易である。特に「緑と白」との対照は、「黄色と黒」と同様に目立つ組み合わせとなっている。この為、寒色の灯火には緑色灯が多く用いられ、蛍光塗料には緑で塗装される物が多い。例えば、非常口の看板・灯火は緑と白の組み合わせで示され、非常に目立つ対照となっている。 緑色の物一般を「緑」と呼ぶ事がある。又、広く植物、自然やアウトドアなどを表す。 植物の葉の色は緑色である。葉の緑色は、葉緑素(クロロフィル)によるものである。 葉のイメージから転じて、「安全」「成長」「少年」「幼稚」のイメージを伴う事が多い。日本では、幼稚な様子を「緑い(あおい)」「青二才(緑二歳)」と表現する。 植物→良好な自然環境のイメージから、政治的には、環境主義を掲げる緑の党を象徴する。 中国語圏では台湾独立支持派を緑で表す。 宗教的には、緑はイスラム教を象徴する。特にリビアの国旗は緑一色のみである。 アイルランドおよびアイルランド人を象徴する色(ナショナルカラー)として使われることがある。 日本テレビのマスコット「なんだろう」は、緑の飛行船を描いた物である。 理由は不明だが、フランスでは、緑は性の対象として認識される傾向がある。フランスでは色欲の深いお爺さんを、「緑のお爺さん」と呼ぶ。 特に12月が夏にあたる南半球の国における雪の降らないクリスマスを、「グリーンクリスマス」という。 日本の人名では「みどり」がさまざまな字で表されるが、一般に女性名である。 透明感のある鮮やかな緑は、宝石にちなんでエメラルドグリーンと呼ばれる。 緑は野菜など食材に多く用いられる色であるが、緑は食欲を殺ぐ色とされる。緑黄色野菜が敬遠されることが多いのは、このためである。しかし、黄緑に近づくにつれて食欲を増進させる効果がある。サラダや青菜の煮物に対して食欲をそそるのは、青々とした色が褪せ、黄緑色に近づくためである。 緑色は目を休ませる色でもある。 英語で"嫉妬"のことを、「グリーンアイド・モンスター」(Green-eyed-monster:緑の目の怪物)と呼ぶ。 アメリカメジャーリーグ・アメリカンリーグ所属の球団・ボストン・レッドソックスの本拠地球場であるフェンウェイ・パークには、狭い左翼側に「グリーン・モンスター」と呼ばれる巨大なフェンスが設置されている。塗られた色が緑色であることに由来する。 さらに、「地理・交通に関する緑」です交通信号の進行は緑で示される(「青信号」と言われるが、色としては緑。日本では赤緑色弱の人でも見易いように青に近い緑色灯を用いる場合が多い)。現代の中国では、交通信号を「紅緑灯」という。⇔赤 転じて、緑は「許可」「合格」の色としても使われる。例:グリーンゾーン(=安全圏) 交通安全のルールを児童に遵守させたり、登下校の際に児童を誘導し安全に歩道を横断させるなどの女性を、「みどりのおばさん」という愛称で呼ぶ。正式名称は学童擁護員。ボランティアのこともあるが、都市部では給与の出る仕事として"勤務"している自治体もある。 日本では、自動車専用道路で表す際に、緑の看板が使われる。 NEXCO東日本のコーポレートカラーは緑。 地図上では、温帯は緑で示される。 方位や季節では、緑は「春」や「東」を表す事が多く、五行思想でも同様である。⇔黄 東京都のシンボルマークとなっている「イチョウ」の色は緑。 キャセイパシフィック航空やエアリンガスのコーポレートカラーは緑系である。 最後に、「緑の色材」です天然に大量に存在する緑色は葉緑素で、化学的にはポルフィリン構造(ポルフィリン環)と呼ばれる特殊な有機構造を持つ分子の中心に金属元素(マグネシウム)を配位している。古くから絵の具に使われたのは孔雀石の粉で、銅の銹(緑青)と同じ成分。ただ今日では有毒かつ不安定なので使われず、無機顔料では毒性のない酸化クロム(ヴィリジアン、オキサイド・オブ・クロミウム)がよく使われる。現在使われる緑は、黄と藍の混合色が多いが(代表的な例として黄鉛と紺青の混合物であるクロムグリーンがある)、鮮明な緑色には葉緑素に良く似た構造のフタロシアニングリーンを用いる。ポルフィリン構造を持つ合成顔料は、緑のほかに鮮明な藍のフタロシアニンブルーがある。いずれも化学的に安定な構造で、安価に大量生産されている。また、セラミック顔料のピーコックも緑の顔料である。ちなみに、「緑区」という地名ですが、横浜市のほかに名古屋市、千葉市、さいたま市にそれぞれあります
2007年07月21日
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実は、親しい方のお母様が亡くなった 今日の昼、ある方から、ご連絡を戴きました この歳になると、そんなこと、結構あるのですが、それでもやはり悲しいことです しかも、ずっと暮らしておられた、遠い山形県赤湯温泉で亡くなったとのことで、悲しみは倍加しています 亡くなられた方には、深くご冥福をお祈り申し上げます ご家族には、ご愁傷のお気持ちをお伝えいたしますそれは、宗教の形を超えて、心よりお祈り申し上げます
2007年07月18日
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ひょんなことで、鬼怒川のホテルの宿泊券が手に入ったので、日光・鬼怒川へひとっ走り行ってきました どうせ、梅雨空の季節、ろくな景色は望めない そんな気持ちで出かけたのです 朝、六時前に首都東京を抜け、東北道へ出ます まず、行き着く先は日光市です 日光の街です 東武日光駅から神橋へ向かう、日光のメインストリートです 左に見える、ひしやは羊かんがおいしいです 背中の右側に、日光金谷ホテルがあります 休みの日の朝とはいえ、この寂しさはなんなのでしょうか・・・ 今回は、あまりあちこち寄り道しませんでしたが、奥日光へは行きました 湯滝です 湯の湖の水が、標高の低い、戦場ヶ原に流れ落ちます そこが湯滝です ここは二度目ですが、本当に見事な滝です 新緑に滝が映えています 奥日光、戦場ヶ原には有名な小田代原なんていいところがありますが、今回は立寄りませんでした いろは坂や日光街道の杉並木、クルマを飛ばして、鬼怒川の先の川治温泉へ向います 最初、龍王峡というところがいい、と聞いてきたのですが、通り過ぎてしまい 川治ダムの直ぐ下、川治湯元へ来てしまいました その一角に、あじさい公園というところがありました 横浜では、もう紫陽花は終わりますが、さすがは鬼怒川です 今が盛りと咲いていました っで、今回のメインイベントは、これ 鬼怒川ラインくだりです 東武・鬼怒川駅にほど近い、乗船場から船に乗ることになります 鬼怒川の温泉郷から、約40分間、さほどの激流でもありませんが鬼怒川を下ります 初めての経験でした 一人、大枚2500円は安くはありませんが、船はそこそこ人が乗っていました 前と後ろに船頭さんがついて、前の船頭さんが案内をしながら、ゆったり川を下ります なかなか面白かったですよ泊ったのは鬼怒川温泉ホテル 金谷ホテル系なんですかね 部屋もまあまあ、お風呂は超豪華でした 風呂は堪能しました 泊り客は、日本語以外、特に中国語客が飛び交っていました でも、鬼怒川温泉もやや寂れていますかね 川向こうに見えた鬼怒川観光ホテルは、無人で、廃墟のようでした
2007年07月08日
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だって、名前が「横浜道」ですよ こんなミチ、紹介せずにはいられません 名前が示すほどの道ではありません、マップ・ファンで図ったら3.4キロほどの道です ネタは横浜市の西区役所サイトからです安政5年(1858)6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。しかし、ミナト横浜の街づくりは開港3ヶ月前の3月になって、やっと工事が始まるという状況であった。当時は、東海道筋から横浜への交通は非常に不便であったため、幕府は東海道筋の芝生村(しぼうむら・現浅間町交差点付近)から横浜(関内)にいたる「横浜道」と呼ばれる道路を開いた。(当時、東海道と連絡するには、保土ケ谷から井土ケ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかなかった。)この道は、芝生村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路を築くとともに、新田間(あらたま)、平沼、石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切り通しを開き、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けたものだ。記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同等の幅員であったと考えられる。工期3ヶ月の突貫工事で、橋材は欄干には杉を、杭には松を使用した。新開地横浜への主要道路として大いににぎわい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、今では住時の面影をわずかにとどめるのみである。 地図をご覧ください 今では、ほんとに目立たない、さもない裏通りです こんな通りに、こんな歴史があったのです 「湿地帯だった岡野・平沼の各新田」って、ここは今では、横浜駅西口の繁華街です 地図の左上、浅間下のところに、旧東海道が通っています 東海道から横浜村へ至る、横浜の歴史道です あれから、たった150年ですが、杉や松を使った突貫工事の橋はもうありません 横浜は再来年、開港150年になります
2007年07月08日
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木曜日(5日)、梅雨空の横浜です みなとみらい、パシフィコの展示ホールで仕事関係のイベントがあったので、行って その帰りに、道すがら、携帯電話カメラでパチリです 写真は右側高いところがインターコンチネンタル・ホテル、低いところはパシフィコの会議センターです 左側は、国立横浜国際会議場です 景色が、あまりに人工的な街の景観だったので、パチリです あっしみたいな情緒的な人間は、日ごろから、人工的な景観やなんかに違和感をもちます しかし、余りに人工的だと、暇も手伝って反応します 左側のビルは、今の名はパンパシフィック・横浜ベイホテル東急です 右は、クイーンズタワーのCになります こちらも人工的だったので、パチリです 建物に入っても、パチリです ここは、ランドマークプラザの5階から、見下ろしています ここは冬、高いところから、人工の雪が降ったりします 横浜のみなとみらい、って どこもかしこも人工的なのですが、それもそのはず、ここは埋立地なのですから
2007年07月07日
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梅雨空の下、横浜は三渓園へ行ってきました 大池の向うに、小高い丘があり、三重塔がそびえる景色が迎えてくれます 梅雨空とはいえ、もうすぐ夏です はすの花が咲いていました もうしばらくすると、早朝(五時頃から)、はすの花見ができます 三渓園をご存じない方のためにWikipediaからご紹介します 三渓園(さんけいえん)は、横浜市中区本牧三之谷にある庭園で、敷地面積は17.5ha。実業家で茶人の原富太郎(号:三渓、1868年-1939年)によって作られた。 原富太郎は岐阜県出身の実業家で、横浜の原商店に養子として入り、生糸貿易で財を成した。原は事業のかたわら仏画、茶道具などの古美術に関心を持って収集した。平安時代仏画の代表作である「孔雀明王像」(国宝、東京国立博物館蔵)をはじめ、国宝級の美術品を多数所蔵し、日本の美術コレクターとしては、益田孝(鈍翁)と並び称される存在であった。彼は古美術品のみならず室町時代の旧燈明寺三重塔をはじめとする京都ほか各地の古建築を購入して移築、庭園も含めて整備を進めていった。1906年(明治39年)5月1日に市民に公開し、その後も建造物の移築は続けられた。 三渓園は、国の重要文化財建造物10件12棟(移築元:京都5棟、神奈川2棟、和歌山3棟、岐阜1棟、東京1棟)、横浜市指定有形文化財建造物3棟を含め、17棟の建築物を有する。単に各地の建物を寄せ集めただけではなく、広大な敷地の起伏を生かし、庭園との調和を考慮した配置になっている。2000年には、会議、パーティーなどにも利用できる、鶴翔閣(かくしょうかく)を復元した。この建物は横浜市指定有形文化財に指定されている。 第二次大戦中、横浜大空襲で被害を受け、一部の建造物を失った。原富太郎の古美術コレクションは戦後の混乱期に散逸し、建造物だけがかろうじて残った。1953年(昭和28年)に財団法人三溪園保勝会が設立され、再び庭園の整備を行い、今日に至っている。なお、旧燈明寺本堂、合掌造の旧矢箆原(やのはら)家住宅などは第二次大戦後に三渓園に移築したものである。 園内にある国の重要文化財建造物10件12棟は、全て京都など他都市から移築した古建築であり、移築自体に本来の価値に対する評価を投げかける意見もあるが、中には現地で荒廃していた建築物を修復して移築したものも含まれている。 2006年11月17日に国の名勝に指定された。 三渓園の中庭にある、比較的大き目の茶室、白雲邸の庭です この写真は、白雲邸の縁側から写しました 白雲邸の反対側の庭です 景色ばかりアップしましたが、ここ白雲邸で、7月1日お茶会が開かれました あっしも行きました、って言っても荷物運びとか・・・
2007年07月03日
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東京お散歩写真、その2です まずは旧岩崎邸庭園です 旧岩崎邸庭園は越後高田藩江戸屋敷から旧舞鶴藩知事・牧野弼成などを経て岩崎家本邸へと変遷しました。当時は1万5000坪余りの敷地に20棟もの建物があったのですが、現在の敷地はその半分ほどです。が、半分とはいえ広大な面積に洋館・和館・はなれに撞球室が現存し、青々とした芝生に憩いの場として散策してみる価値はあります。 洋館は有名なジョサイア・コンドル設計により、明治29年(1896年)に完成。木造2階建て地下室付きの洋風建築。 建物の中の、有名な階段です 17世紀の英国ジャコビアン様式を基調にルネサンスやイスラム風のモチーフなどが採り入れられています。 洋館と結合して作られている和館は書院造りを基調としたもので、完成当時は洋館を凌ぐ広さだったそうですが、今は洋館よりも小さい建物として残っています。 洋と和の調和だけでなく、限りない贅沢を感じさせます 旧岩崎邸庭園は、上野公園の不忍池から東大病院へ歩いていく坂道、無縁坂の左側にありますね 続いて、清澄庭園です 公園の案内によると、 泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式築山山水庭園」です。この造園手法は、江戸時代の大名庭園に用いられたものですが、明治時代の造園にも受けつがれ、清澄庭園によって近代的な完成をみたといわれています。この地の一部は江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています。享保年間(1716~1736年)には、下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷となり、その頃にある程度庭園が形づくられたようです。明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、明治13年に「深川親睦園」として一応の竣工をみました。弥太郎の亡きあとも造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」が完成しました。清澄庭園は、関東大震災で大きな被害を受けましたが、この時図らずも災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命を救いました。岩崎家では、こうした庭園の持つ防災機能を重視し、翌大正13年破損の少なかった東側半分を公園用地として東京市に寄付し、市ではこれを整備して昭和7年7月に公開しました。 岩崎家ものが二つ続きました 最後に、清澄庭園のすぐそばにある深川江戸資料館をご紹介します 施設案内によると、 火の見やぐらが聳(そび)えて猪牙舟(ちょきぶね)の浮かぶ掘割に、影を落しています。船宿のたたずまい、白壁の土蔵。お店(たな)が並ぶ江戸深川、佐賀町。その裏長屋に暮らす人びとの日々の営みと心を伝える「深川江戸資料館」の総合展示です。「深川江戸資料館」は新しく開発された「情景再現、生活再現展示」という展示技術を活用し、期待と話題を集めている展示施設です。ここには最新の科学技術と古来の伝統技術が結集し、なつかしい人情と心意気の世界をくりひろげています。 この日は、写真の新内流しが出ていました いかがでしょうか 東京と言っても、あっしの出没しそうな場所がほぼお解かりいただけましたでしょうか
2007年07月01日
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