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まずは、このイベント紹介記事 これはタウンニュース9月15日号です。 この秋、本郷台駅前が”大人の雰囲気”に―。本郷台駅前広場活性化推進委員会は10月1日(土)、初の試みとなる「さかエコオープンカフェ」を開催する。飲食をしながら、本格的なジャズ演奏を楽しめる同イベント。これまでにはない趣向で多くの区民を集め、栄区の玄関口活性化を目指す。 区内連合町内会や商店街の代表者、駅周辺の学校関係者、文化団体関係者など16人で組織している本郷台駅前広場活性化推進委員会は、平成14年11月に発足。これまでは区内の各種団体が駅前で開催するイベントの後援などにまわってきた。 しかし、区民からの「駅前が寂れている」「駅前で音楽を楽しむイベントが少ない」などの声を受け、今回は主催者となって同イベントを企画。同駅前での開催が恒例となっている大規模なイベントの中には、中学生が主体となる「SAKAEヤングフェスティバル」がすでにあることから、これまでにはない、「大人の雰囲気で楽しみ、憩うイベント」をテーマに1年ほど前から準備を進めてきた。 イベントは、駅前広場の広さを利用し、テーブルとイスを並べたオープンカフェスタイル。区内の商店街による飲食ブースでは、タコライスやデニッシュ、キッシュロレーヌ、ブランデーケーキなど、”大人の雰囲気”を意識したメニューの提供を予定している。また、特設ステージでは栄区民文化センター「リリス」イチオシの本格ジャズアーティストがおしゃれなジャズ演奏を披露、雰囲気を盛り上げる。会場の照明にはエコを意識し、ランタンを使用。駅前広場に隣接する公園では、リサイクル家具の販売やフリーマーケットも開催する。 関係者は今回のイベントを成功させ、来年以降も継続させたい意向で、多くの来場を呼びかけている。 「さかエコオープンカフェ」は午前11時から午後7時、フリーマーケットは午後5時まで。午後3時からのジャズライブ第1部には、スタンダードジャズのほか、シャンソンやポップスのジャズアレンジを癒し系ウィスパーボイスで歌うRYU MIHOさんとsakaeco strings、午後5時30分からの第2部には、海外の大物アーティストとも共演し、国内外のジャズフェスティバルに出演を重ねるジャズオルガンプレイヤー・KANKAWAさんを中心とした「THE KANKAWA BAND」が出演する。観覧無料。 ってんで、無料で寒川敏彦が見れる・・・こりゃ、見逃す訳にはいきません。 行きましたよ、JR本郷台駅前。 野外だし、やや場末の・・・って感は否めませんが・・・主催者たちは、はじめてのイベントを一生懸命にやっていました。なかなか愉しそうに、盛り上がっていました。初めて知りました、KANKAWA 寒川敏彦はここ 横浜市栄区在住だそうで、駅前のドトール・コーヒーに毎日、来ているらしい(本人談)・・・ King of Organ. この日は「ビール三杯以上飲んできた・・・」といいながら、ステージ上でも飲みながら・・・素晴しいJazzオルガンを披露しました。この日のパーソネルは、 KANKAWA(Org.) James Mahone(ts) ギター ドラムス の四人でした。しかし、圧倒的なオルガンJazzでした。約1時間半・・・こりゃ、シビレましたね。 《撮影期日 2011年10月1日 17時50分すぎ カメラ:iPhone4》
2011年10月04日
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大晦日、紅白の桑田クン!忘れられませんね・・・ これは桑田クンのヨメさん、原由子さんの手稿がAsahi.Comに載りましたね。明けましておめでとうございます。昨年の7月に桑田の病気が分かってから、サポートに専念するためお休みさせて頂いておりました「あじわい夕日新聞」。おかげ様で桑田も元気になり、年も明けたという事で、新たな気持ちで再スタートとなりました。どうぞ宜(よろ)しくお願い申し上げます。 まずは、桑田のニューアルバムのリリースやツアーの中止でご迷惑を掛けた皆様に心よりお詫(わ)び申し上げます。また、たくさんの励ましのお言葉やお見舞いの品、千羽鶴まで頂いて、本当に有難(ありがと)うございました。皆様から大きな力を頂いたおかげでここまで来る事が出来ました。 幸運だったのは、素晴らしいお医者様や病院のスタッフと出会えた事。主治医の先生が音楽大好きな方でしたので、「第一に命! 第二に声を守る!」と、桑田の声が変わらぬよう、渾身(こんしん)の手術と術後のケアをして頂きました。おかげ様で命も声も救われましたし、中断していたレコーディングも10月に再開。年末にはついにニューアルバム「MUSICMAN」が完成しました。まだ術後5カ月ですから体調が完全に戻ったとは言えませんが、年末の紅白歌合戦に出演させて頂き、ご心配をかけた皆様に元気な姿をお見せして2010年を締めくくれたのはとっても嬉(うれ)しい事でした。 波乱の2010年でしたが、今は元気でいられる事、生きている事自体が本当に幸せだと感じています。術後初めて声を出した、歩いた、ご飯を食べた、ついに歌ったとか、そんな事一つ一つが感動でした。まさに生まれ変わったようですね(笑)。大変な事もあるけど人生って素敵(すてき)だなぁ。そして……音楽があって本当に良かった♪ 桑田が手術に入る時のBGMはボズ・スキャッグス。私は、桑田の大好きなビートルズのアルバムを1枚目から順番に聴き、祈りながら手術が終わるのを待っていたのですが、心配がピークに達した頃に聴いた「レット・イット・ビー」には救われました。また、桑田がここまで順調に回復出来たのは、やはり「なんとしてもアルバムを完成させたい!」という強い思いがあったからこそとも思います。 退院後のアルバムレコーディングで一番最後に歌った曲は、ビートルズへのオマージュとも言える曲。今回の経験を経たからこそ出来た曲だと思っています。「現在(いま)がどんなにやるせなくても 明日(あす)は今日より素晴らしい」(月光の聖者達(ミスター・ムーンライト))。桑田がまた歌ってくれた事、そして、音楽の神様に感謝します♪ この夫婦は、歳を追うごとにいい関係に見えてきます・・・ 世間の多くの方々がウラヤマシがる関係です。
2011年01月11日
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エリック・クラプトンが、かって薬物やアルコールの依存症でリハビリ施設に入り、立ち直って復帰したことは有名なことですが。こんな記事がAsahi.Comエンタメに載っていました。英ミュージシャンのエリック・クラプトンさんは、グアテマラのアンティグアに自ら設立したリハビリ施設のため、ギターのコレクションのうち70本以上を競売に掛ける。 競売会社ボナムズが2011年3月9日にニューヨークで開催するこのオークションには、ギタリストのジェフ・ベックやJ・J・ケイル、ジョー・ボナマッサから寄付されたギターも出品されるという。 同社によると、各ギターやアンプの落札予想価格は最高で3万ドル(約250万円)。 目玉とされるのは、2005年にロンドンやニューヨークのクリーム再結成公演で使われたフェンダー社の特注ギターで、2万―3万ドルの値が付くとみられている。 しかし、70本のギターを競売にかける・・・何本持っているのでしょうかね。
2010年12月11日
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ジェイクのホール・ライブは始めて見ました。いいですねー IUKULELE TOUR 2010関内ホールです。 やはり、ウクレレって楽器から連想する日本人は、サザンの関口さん、高木ブー、そして牧伸二・・・ですね。まったく違いますね。ウクレレを侮るなかれ・・・ジェイクはあの小さなウクレレを実に細かく、素早く、曲想豊かに弾くのです。アップテンポの曲が多いこともあって、実にエキサイティング!ノリノリです。あっという間の約2時間でした。客層は、それこそ10歳の少年から若い女性が多いのは当然・・・ しかし我ら世代まで。満席でホールは熱気に溢れていました。 コンサートの様子は、カメラに収める訳にはいきません。 そうしたら、ジェイクのサイトにSTAFF ROOMがあり、そこには早くも昨夜の様子が書き込んであるのです。しかもフォト付きです(スミマセン!)。関東初日となったこの日は、早々にチケットも完売しておりました。 さて。J子が会場入りしたのは13時半頃だったでしょうか。この日、スタッフ部屋には、新たなスポンサーcrocsさんからご提供いただいたシューズが届くことになっています。crocsといえば、まあるい形のコンフォタブル・シューズが有名ですが、実は、スニーカーやサンダル、ビーサン、ブーツまであるんです。早速履いてみたらば、おぉ、なるほど、履き心地よく、物販の立ち仕事でも疲れなさそうな感じです。うふふ。 もうひとつの我々の興味は、高校野球の決勝戦。途中から思いがけずワンサイド・ゲームになってしまいましたが、とにもかくにも、初めて沖縄に優勝旗をもたらした興南高校のみなさん、そして島袋投手、おめでとうございます!! (神奈川出身、G党のJ子にはちょっぴり複雑な結果でもありましたが) 会場に到着したジェイクも興南高校の活躍に大喜び。してcrocsにも大喜び。「これ、すっごい、快適!」と。「今日、ステージはこれで演ろう!」 楽屋では、折りにふれ、ジェイク先生によるウクレレ教室も開催されている本ツアー。みんな、「MIDORI」サポート・アクトさんにも触発されているみたいです。 ライヴは唯一、「MIDORI」だけは観ました。10歳のミヤジマナオヤ君、なんと楽しそうに演奏することか!!微笑ましい共演に、大きな拍手がわき起こりました。 このミヤジマナオヤ君の席が、あっしたちの目の前でした。コンサート終わった後のナオヤ君への握手攻めがタイヘンな騒ぎでした! 愉しかったよ! ナオヤ君、アリガトー! ジェイク!キミの音楽とサービス精神には脱帽です!Your Music Very Nice! Wonderful!
2010年08月23日
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改めて桑田佳祐自身とサザンオールスターズの歌曲、数曲を聴きなおしています。桑田クンから送ってくるメッセージが次々と届きます。桑田クンが言いたいことが伝わってきます。桑田クン”生きようよ!まだまだやること 残ってるよ!” 記事はYOMIURI ONLINEからです。初期の食道がんを公表した人気バンド、サザンオールスターズの桑田佳祐さん(54)が31日深夜、レギュラーを務めるTOKYO FMのラジオ番組「桑田佳祐のやさしい夜遊び」で、がん公表後、初めて肉声で心境などを語った。 番組は、所属事務所が食道がんの事実を公表した7月28日に収録された。 桑田さんは、番組冒頭から15分以上にわたって、「正直落ち込んだ時期もありましたが、『ちょっと休んでみろよ』ということだと思って、がんに正面からぶつかっていこうと考えています。きれいな体になって必ず戻って参ります」と復帰にかける思いを述べ、自らのがんが「ステージ1」で、担当医から「(声は)時間が経過すれば必ず元に戻る」「1年後にはステージに立てるでしょう」と説明されたことを明かした。 桑田さんは8月早々に手術をする予定。
2010年08月01日
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横須賀経済新聞に ピアニスト、宮川久美さんの記事が載っていました。 これは是非ともご紹介したいと思います。横須賀市文化会館(横須賀市深田台)で6月12日、「ジャポニズム」をテーマに明治・大正・昭和期の作曲家を特集したピアノ演奏会が行われる。演奏は、横須賀出身でカナダ在住の国際派ピアニスト・宮川久美さん。主催は「世界で活躍する若手演奏家を応援する会」。 当日は、「浜辺の歌」で知られる成田為三の作品で最近楽譜が発見された幻の名曲「ピアノソナタ」、山田耕筰・作曲「夜の詩曲」、武満徹の前衛的なピアノ曲、浮世絵などジャポニズムの影響を受けたドビッシー、サンサーンスの作品なども演奏。明治期に作られたヤマハ初期の貴重なアップライトピアノ「山葉洋琴竪型ピアノ」を使った演奏も予定する。 同会館ロビーでは、明治期の珍しいアンティークピアノを展示するほか、宮川さんの衣装を担当するデザイナー・Kanakoさんが創作した日本の着物をリメイクしたイブニングドレス、江戸時代の着物コレクションなども展示。 横須賀生まれの宮川さんは、東京芸術大学を卒業後、故ウラディミール・ホロヴィッツの愛弟子ロナルド・トゥリーニさんに師事し、カナダに留学。1992年、ロンドンのミュージック・スカラシップコンペティションで優勝。2004年にはグアテマラ国立交響楽団の招待でグアテマラ国立大劇場にソリスト出演するなど、海外で積極的な演奏活動を続けている。 宮川さんは「演奏会で世界各地を旅しているうちに、日本と西洋が出会った明治期の邦人作曲家に興味を持つようになった」といい、成田為三の作品など入手困難な楽譜を借りることができたため今回の企画を考えたという。「一般にはあまり知られていない明治・大正期の名曲とともに、ヨーロッパ印象派の楽曲も交えてジャポニズムの独特な世界を紹介したい」と話す。 開催時間は14時~16時。入場料は、大人2,800円、高校生以下1,500円(全席自由)。問い合わせはサウンドウェーブ(TEL 046-866-3201)まで。 クラシックばかりでなく、幅広い演奏活動を続ける宮川さんです。
2010年06月10日
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4月16日、東京・日本武道館のコンサートへ行ってきました。(4月17日はパシフィコ横浜でコンサートあるのに・・・)ミゾレ混じりの寒い雨の中、クルマをとばして出かけました。 開演19:00とのこと。武道館の入口は、このように暗い中で、雨傘が並んでいます。例によって、演奏中の様子は撮影できませんので 入口のポスターです。 演奏が始まるまでは、撮影してもいいでしょう・・・ 武道館内部の様子です。 これは開演前なので、アリーナ席も空席が目立ちますが、演奏時は満席でした。そうだ、チケットの半券です。 2階南スタンド M列は、ステージのほぼ正面です。ステージからの照明が、真っ直ぐに届いて そりゃ眩しいめに遭いました。さて、ステージですが。J・テイラーの♪Blossomに始まりました。C・キングの1曲目も”Tapestry” から、静かな♪So Far Awayです。以下、二人がほぼ交互に1曲づつ歌います。二人は、最初の登場からアンコールの登場まで、仲良く手をつないで登場したり。演奏が終わるとハグしあったり・・・ C・キングは68歳とはとても思えない。演奏と動きを見せました。素晴らしい・・・ ほぼ往年の声も出ていました。切なく男心を擽る甘い声です。 J・テイラーも(頭はすっかり禿ていますが・・・)1970年頃のまま・・・ いや、もっとうまくなったのでは・・・と思うほど。20分間の休憩は挟みましたが、二人で唄う あの♪You've Got A Friendまで、実に一気に歌いました。 そして、アンコールの最後の曲は♪Locomotionでした。会場中が一緒に歌っていました。このコンサートは、ニュージーランドに続く東京、そしてこの後米国でのコンサートが続くそうです。副題が"Troubadour Reunion"っていいますが、本当に吟遊詩人二人のReunionって感がしてくるコンサートでした。 帰り道、雨の東京都心をクルマで走りながらアルバム"Tapestry" をヨメと二人聞きながら帰りましたが。何か暖かい、あの二人のステージが脳裏に残り続ける・・・ そんな満足なコンサートでした。
2010年04月17日
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これは、Asahi.Com「どらく」に載っている、松任谷正隆の連載もののうち、昨年12月に書いた原稿ですが。これが、なかなかな表現のです。 マイケル・ジャクソンの「This is it」をDVDで見ました。実は、松任谷と同じような感慨を持ったのです。マイケル・ジャクソン、偉大であったが悲しい存在だったのです。 マイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」見ました。終わってしまう1日前の日にね。それにしても、ものすごく評判のいい映画でしたね。マイケルになんか興味なさそうな人たちまで、感動した、もう一度行きたい、などと口をそろえて言っていた。これは絶対にDVDにならないから見ないとだめだ、なんて忠告してくれる人もいました。どういう根拠なのかよくわからないけど……。なかなかスケジュールが取れなくて、というよりも、ちょっと足が重くてチケットを取らないでいたんだけど、ここまで言われると行かないわけにはいかなくなった。結論から言いましょう。僕は非常に痛々しい気持ちになりました。そうか、彼はアメリカンショービジネスに飲み込まれた被害者だったんだ、とあらためて思った。考えてみたら、クインシープロデュースの「オフ・ザ・ウォール」あたりからみるみる今のマイケルが出来上がっていく訳だけれど、同時に常人では考えられない方向にシフトしていった。マイケルの心の中に闇が出来上がったのもこの頃からなんでしょう。大きなショービジネスに魂を売る代わりに成功をもらった、と言えるかもしれない。それも根こそぎ売ったように思います。久しぶりのツアー、それも想像を絶するほどのお金のかかったショーです。それを前に死んでいったマイケルの無念……とは実は思わなかった。マイケル自殺説、なんていうのもあるらしいですが、たしかに彼が華々しく散っていくとしたら、このタイミングしかなかったように思います。ツアーの途中でも、あとでもないと思う。汚れてない今、なんですよね。映画の中では、彼はキングです。誰も逆らわない。でも逆に、そこにはお金の匂(にお)いがぷんぷんします。マイケルの周りには常に、純粋ではない人たちがいました。もちろん純粋な人たちもいたけれど、それは出演者くらいでしょう。キングに仕立てられて、そうすることで流されて……マイケルが自分の意思で出来た最後の抵抗は、注射で命を絶ってもらうことだったんじゃないか、なんて思う。こんな邪推は熱烈なマイケルのファンには申し訳ないですけれどね。でも、アメリカのショービジネスは怖いですよ。日本のそれも怖いけれど、その比じゃない。マドンナくらい強くないとだめです。マイケルは繊細ですよね。僕は彼のレコーディングスタッフと20年近く仕事をしてきたので、いろいろなことを聞いています。ついたてを立てて、誰にも見せないように歌入れをしていたそうです。ものすごい音量でプレーバックするので、エンジニアもみんなスタジオの外に出て、マイケル一人でプレーバックを聞いていたそうです。アーティスト、というよりも一人の人間の孤独を感じます。亡くなって、こんな映画が公開されることまで、彼は分かっていたんでしょうか……。最後の血の一滴まで、アメリカのショービジネスに吸い取られた、やっぱり被害者にしか思えませんでした。
2010年03月20日
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ビートルズ、最後のアルバムは「アビーロード」か「レット・イット・ビー」か? なんて、言っていられません。アビーロード・スタジオの話題です。この記事はYOMIURIのエンタメニュースからです。経営危機が表面化した英音楽大手EMIグループが、ビートルズゆかりの「アビイ・ロード・スタジオ」の売却を見合わせたと22日付英フィナンシャル・タイムズ紙が報じた。 同紙がEMIに近い筋の話として伝えたところによると、売却計画が明らかになった後の反響と抗議の声の大きさに、「大変な財産だということに気づいたため」という。 売却計画は今月中旬、表面化。その直後に元メンバーのポール・マッカートニーさんはBBC放送のインタビューで、「あそこには多くの思い出がある。なんとか(スタジオを)救えれば良いのだが…」などと話し、ラジオの人気DJも保存運動に乗り出していた。 同紙によれば、EMIは昨年来、売却に向けた協議を始めており、3000万ポンド(約42億4700万円)で購入したいとの提案も受けたという。 ロンドン北部にある同スタジオでは、1962~69年にビートルズが行ったレコーディングの約9割が行われ、近くの横断歩道でビートルズが69年に出したアルバム「アビイ・ロード」のジャケットが撮影された。(2010年2月22日 読売新聞) 経営か?世論か? そりゃ、民意なきところに経営は成り立たない。
2010年02月22日
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Asahi.Comの「どらく」に載る「この日のビートルズ」は、1962年生まれの上林 格がいつもいい文章を並べていますが。今回もとてもいい文です。ついつい誘い込まれてしまいそうです。ウキウキと弾むような開放感が伝わってくる「Penny Lane」は、ポールが故郷リバプールで過ごした少年時代を回想した曲だ。 バッハの「ブランデンブルク協奏曲」を聞いて思いついたというピッコロ・トランペットのソロが、ウキウキ感をいっそう引き立てる。録音は1966年暮れに始まり、67年1月17日に完成した。 1カ月後、英国でシングル盤が発売される。少年時代のジョンが秘密の遊び場にしていた孤児院からインスピレーションを得た曲「Strawberry Fields Forever」とカップリングされた。 2曲ともノスタルジアの世界を素材にしているが、ジョンの曲が非現実性への郷愁と自己表現が同居する内なる世界を想像させるのに対し、ポールの作品は登場人物に躍動感をもたせつつ叙情性も漂わせている。 2人の才能の対比までも見事に示したシングル盤について、「私たちがつくった最高のレコードだった」とプロデューサーのジョージ・マーティンは語っている。 残念なのは、英国のヒット・チャートでエンゲルベルト・フンパーティングの「Release Me」に1位の座を阻まれ、2週連続2位に甘んじたことだ。63年2月の「Please Please Me」から12枚続けてきた、シングル盤連続1位記録は途切れてしまった。 「Penny Lane」はリバプール郊外に実在する街路だったため、この曲がヒットしたおかげで街路標識が何度付け替えても盗まれるという被害が続き、市の財政局が頭を悩ませたというエピソードはよく知られている。その後、標識はレンガ塀に直接ペイントされた。最近は頑丈そうな鉄製の立て看板になっているらしい。 ところで、曲のなかに登場する床屋や銀行、消防署も実在するのだが、いずれもこの街路には面していない。なぜなら、ポールが歌う「Penny Lane」とは、この街路のすぐ近くにあるスミスダウン・ロードとチャーチ・ロードの2本の道路が交わった環状式交差点(round about)の周辺をさしているからだ。 地元では通称「ペニー・レーン・ロータリー」と呼ばれ、市の中心部と郊外を結ぶ路線バスも発着している。近くにはジョンの生家があり、ジョンとジョージが通ったダブデイル小学校やポールがほんのちょっとだけ在籍した聖歌隊が入ったセント・バーナバス教会もある。 ロータリーには屋根付きの待合所があって、少年時代にジョンとポールはよくここで待ち合わせをしたという。退役軍人会による11月11日の英霊記念日になると、2人は空き缶に1シリングを入れる代わりにポピーをもらって帰った。「かわいい看護婦がトレーにのせたポピーを売っている」という歌詞は、ポールが実際に花を売る年上の看護婦にときめいた経験を織り込んだものだ。 脚色された部分もある。ロータリーの角に銀行はあるが、「どんなに土砂降りでもレインコートを着ようとしない銀行員」は実在しない。少し離れた場所に消防署があってピカピカに磨かれた消防車を見ることは難しくないだろう。だが、「ポケットに女王陛下の写真をしのばせる消防士」の存在は確かめられない。いずれもポールが作りあげた架空の人物だ。 ロータリーのそばにはビオレッティなる人物が経営した床屋があった。そこでポールや弟マイケルは髪を刈っていた。窓に色々な髪形の写真を見本用にはってあったのを、ポールは「写真を展示」していたかのように歌った。ただし、店の前を通りかかった人たちが、「立ち止まってはあいさつする」くだりは本当にあったことだという。 リバプールに対するノスタルジアの歌は、それ以前の65年10月に録音された「In My Life」がある。ジョンが「本当の意味で傑作といえる最初の作品」と誇りを持っていた曲のひとつだ。彼の死後、生涯の友や恋人をたたえる心温まるこの歌は、故人をしのぶ記念の曲として人気が高まった。 歌詞の中に具体的な地名は出てこないが、当初はメンローヴ・アヴェニューの実家から波止場を走っていた高架鉄道までに点在する、少年時代のお気に入りの場所すべてを回想した長編詩だった。遺品の草稿には、ペニー・レイン、チャーチ・ロード、ストロベリー・フィールド、路面電車の車庫、コールダー・ストーン公園などの地名が盛り込まれている。 しかし、ジョンは懐かしい場所が急速に姿を消していくと歌うだけでは退屈な作品になると感じていた。思案の末、具体的な地名をすべてのぞき、過ぎ去った少年時代と青春時代に哀悼の気持ちを込めることで、普遍的な作品に深化させた。 ただ、この曲の作者をめぐっては、ジョンとポールの記憶が大きく違っている。 ジョンによれば、歌詞はポールに聴かせる前に全部出来上がっていて、ポールはハーモニーのメロディーを手伝ってくれた、と話している。 ポールは、ジョンが詞の書き出しを用意していて、自分が彼の家にあったメロトロンでミラクルズをヒントにメロディーをつくり、残りの部分を2人で埋めていったと話す。イントロも自分が考えたと主張している。 レノン&マッカートニーの数ある作品のなかで2人の意見が違うのは、「Eleanor Rigby」とこの曲だけだ。 「2人の記憶が食い違うものがたった2曲だなんて、喜ばしい」。つねに前向きなのがポールらしい。 というものです。たった二曲とはいえ、ジョンとポールの関係を物語る一欠けらが見え隠れするエピソードです。いかがでしょうか。
2010年01月16日
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加藤和彦さんが、軽井沢町のホテルで亡くなったという 悲しい知らせに接しています。加藤和彦さんって言えば、フォーク・クルセダーズをはじめ、長い間 日本のポップ・ミュージックを牽引してきた人です。62歳、余りにも早い死です。Wikipediaによると、加藤和彦さんは生まれてすぐ鎌倉市に移り、逗子で小学校四年生まで暮らしたそうです。 その後、東京で育ったそうで都立竹台高校卒なんですね。その後、京都・龍谷大学へ進んだそうです。 あっしは、てっきり関西(京都)人だとばかり思っていました。加藤和彦さんの唄で忘れられないのは、北山修と歌った「あの素晴らしい愛をもう一度」です。この唄は1971年ですから、もう38年も昔の唄なんですね。「イムジン川」~「悲しくてやりきれない」もいい唄ですが・・・そういえば北山修さんは、精神科医です。長く付き合ってきたはずの北山も、加藤和彦さんの心の闇を察知することはできなかったのでしょう・・・ 加藤和彦さんの冥福をお祈りするとともに、加藤が作った素晴らしい唄よ 永遠なれと祈ります。
2009年10月17日
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ザ・ビートルズの最新リマスター盤の話題ですね。またまた、社会現象といったところですかね。記事は朝日です。ビートルズのCD16作品がアルバムチャートの100位以内に同時ランクインし、歴代最多タイ記録となった、とオリコンが14日発表した。6月に急死したマイケル・ジャクソンさんが死後に打ち立てた記録に並んだという。 ランク最高位は、アルバム14作を収めた「ザ・ビートルズBOX」(3万5800円)の6位。単体アルバムでは「アビイ・ロード」が12位、「レット・イット・ビー」が18位と順位が高かった。 ビートルズの全オリジナルアルバムのリマスターCDと、それらをまとめたボックスセットなど全16作品が9日に発売されており、それらがすべてチャート入りした。87年にビートルズ作品がCD化されて以来、音質を向上させた初めてのリマスター盤として注目を集めていた。 モノラル音源で録音したアルバム11作を収めた「ザ・ビートルズMONOBOX」(3万9800円)も10位となった。洋楽で3万円以上する作品が10位以内に入ったのは初めてという。 これだけ注目が出る、ということはいろんな世代に受けているということなのでしょう。売る側の企画も大型化していますが、回りが買うから・・・ ってことはないと思うのです。やはり、ザ・ビートルズは永遠 なのでしょう
2009年09月15日
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これは、朝日の「どらく」に上林格が連載しているビートルズ・スペシャルの最新号からの抜粋です。この記事は、いつも面白いですが、今回は、このアルバムの核心部分だけ抜書きさせていただきました。録音に先立って4人はジョージの自宅に集まり、インドで超越瞑想のキャンプに参加した際に書きためた27曲のデモ・テープをつくった。ところが、スタジオに移ると、ジョンはオノ・ヨーコを伴ってスタジオに現れ、常にヨーコが傍らにいるようになった。 スタジオでの音づくりの決定権は、マーティンとビートルズだけにあった。その不文律が乱されたことで、いやが上にもグループ内に緊張感が高まった。 最初に取り組んだのは「Revolution 1」。その長いテイクから抜き出した6分間のテープを元に、ジョンとヨーコはサウンド・コラージュの実験曲「Revolution 9」のベーシック・トラックを組み立てる。ほかの3人とマーティンが最後までアルバム収録に反対した曲だ。「テープ・ループ」作りのためジョンとヨーコがスタジオに籠もると、リンゴとジョージは米国に旅立ってしまい、ポールは1人で「Blackbird」を手がける。のっけから分裂のきざしをみせていた。 マーティンは、インドでつくった曲のなかにはリリース向きじゃない曲もあるとして2枚組の制作には反対した。だが、メンバーは自分勝手に曲をつくりたがった。同時に二つも三つもスタジオを使って録音が行われるようになり、音づくりの指揮官がすべての録音に立ち会えることは難しくなった。方向性の定まらないテイクの繰り返しや、メンバーやスタッフ間での辛辣なやり取りの応酬が生まれた。 コミカルな「Ob-La-Di,Ob-La-Da」は、ポールが理想とするジャマイカ風サウンドを追求するあまり何回もリメークやオーバーダビングを繰り返した。だが、曲が劇的に変化したわけでもなく、ほかの3人をうんざりさせた。この曲が完成するころ、険悪なスタジオの雰囲気に堪えかねた録音技術者ジェフ・エマリックが辞めた。 リンゴの自作曲「Don't Pass Me By」は1カ月も放置された。ジョージの自作曲のセッションも後回しにされた。辛抱強く待ってようやく順番が回ってきた「Not Guilty」は、100テイク以上録音したものの没にされる。 「Mother Nature's Son」はある日の夜、メンバーが帰った後にポールが1人で録音してしまった曲だ。ジョンは怒った。別の日の夜、ポールとマーティンがこの曲でブラス奏者と打ち合わせ中、リンゴとジョンがスタジオに入ってくると、その場の空気がピーンと張りつめた。グループ内の緊張は「リンゴの脱退」で頂点に達した。ポールがリンゴのドラミングにケチを付けたことがきっかけだが、出番が来るまでスタジオの外で延々と待たされたり、知らぬ間に自分のドラム・パートを他人に録音されたりした彼には、怒るだけの十分な理由はあった。アルバムのオープニングを飾る「Back In The U.S.S.R.」と、続く「Dear Prudence」はリンゴ抜きの演奏となった。 それでも奇跡は起きた。気を取り直したリンゴが復帰すると、ジョージは「While My Guitar Gently Weeps」の録音のためにエリック・クラプトンを強引に口説いてスタジオに連れてきた。他人の前では行儀良く背筋を伸ばすファブ・フォー。「あれ以来、みんなまじめに仕事をするようになった」とジョージ。 シングル曲「Hey Jude」のプロモ・フィルムの撮影では、全員が上機嫌になった。「Birthday」を1日で仕上げたときは、録音の合間にポールの自宅に全員が押しかけてロックンロール映画「女はそれを我慢できない」を見た。「Why Don't We Do It In The Road」は、ポールがリンゴだけを使ってつくった。ジョンは勝手に録音したことは怒ったが、ポールの傑作のひとつだと褒めた。 アルバムでの最高傑作は、三つの曲をつなぎ合わせたジョンの「Happiness Is A Warm Gun」だろう。ビートルズらしい変拍子と転調が披露され、ジョン自身「僕のベスト作品」と発言した。ポールとジョージもアルバムのなかで一番のお気に入りだと報道された。解散後のポールの傑作「Band On The Run」は、間違いなく「Happiness……」を強く意識して出来た組曲だ。解散後も2人の磁力は引き合っていた。 それでも長い引用となってしまいました。たった一枚のアルバム製作ですが、ビートルズの真実が凝縮した瞬間を伝える貴重な文章です。
2009年09月13日
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何だか、タイトル付けながら・・・ 爺が爺を語るのかよ・・・ なんて少し思いましたが。そう言わずに、ぜひご覧ください。スーパースターと政治家。一見、両極端なものだと思うかもしれないが、矢沢を尊敬してやまないこの現職大臣に限っては、その見方は当てはまらないようだ。「ひとつは同じ世代ってことだね。永ちゃんは俺のひとつ下で、お互い団塊の世代。相当苦労してきた人だし、俺も彼のように多額の借金を抱えてたから、共感が持てたんだ。必ずしも順風満帆で成功ばかりじゃない。それは音楽にも表れていて、つまり色で言うと、単色じゃなくていろんな色を見せてくれるんだ。それからなんと言ってもバラードだよ。“Anytime Woman”は本当にいい曲だ。『バラードは嫌い』って言うやつもいるけど、永ちゃんはね、やっぱりバラードがあるから円熟味が増している感じがする。それがすごくいい。それからライヴ観てても思うんだけど、全然お腹が出てないもんな(笑)。うらやましいよ。俺なんてライヴでタオル持って大騒ぎするのがやっとだよ。あと俺たちの時代はちょっとグレたヤツがファンに多かった。そういうところもすごく魅力的なんだよね」「スポットライトが当たって、武道館の端から端まで走り回る……まさにリーダーっていうのは、突出していないといけないと思うんだけど、ひとりで勝手にやってるかって言ったら、そうじゃない。バックにはバンドもいるし、観客と完全に一体化しないといけない。政治に喩えると、国民と一体化して盛り上がらないといけないってことだよね。しかもそのなかで、リーダーシップを発揮しないといけない。バック・バンドと音を合わせなきゃいけないし、勝手にやりすぎてバック・バンドや観客がついて来られないっていうのはダメなんだ。つまり、リーダーシップ、チームワーク、それから大衆と向きあってるってこと……こういうことが総理大臣に必要な資質なんだと思う」「どうだろうか。ただ少なからず、永ちゃんは原点がブレてないし、俺もそうありたいと思う。さっきバラードの話をしたけど、原点、つまりロックンロールがあるからこそ、バラードも引き立つ。バラードだけではダメなんだ。ビリー・ジョエルの名作『ニューヨーク52番街』(78年)はまさに同じことが言えるよね。もうすぐ還暦の永ちゃんが今も原点と同じ場所にいることって、世界的に見ても凄いことなんじゃないかな。体力的にもとてもじゃないけど、俺たちにはかなわないよ。だからこそ、俺たちの世代を代表してこれからも頑張り続けてほしい」 雑誌「ローリングストーン日本版」では、舛添のほか、やはり一つ年上の糸井重里も矢沢を語っているようです。永ちゃんも、来月には還暦を迎えるんですぞ! あぁ、団塊世代!
2009年08月23日
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YAHOO!JAPANがやっています、「ザ・ビートルズ国民投票」。ビートルズの好きなアルバムを選ぶ、ベスト・アルバム選。8月12日~31日までですから、まだ途中(23,665票)ですが。10位は「マジカル・ミステリー・ツアー」9位は「プリーズ・プリーズ・ミー」8位は「ヘルプ!」7位は「ハード・ディズ・ナイト」6位は「リボルバー」5位は「ラバー・ソウル」4位は「サージャント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」3位は「ザ・ビートルズ」2位は「レット・イット・ビー」そして、1位は「アビー・ロード」 です。かなり、順当な順位かなと思います。さすがに、国民投票です。好き嫌いがはっきりしていますね。
2009年08月19日
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スミマセン! 昨日から今日にかけて開催されているんですね。記事は、クルマのレスポンスに載っていました。7月25・26日の2日間、富士山を臨む山中湖畔で、本場ニューヨークのジャズシーンからトップミュージシャン約30名が集結する一大イベント「マウントフジ ミュージックフェスティバル2009」が開催される。 今回のフェスティバルのテーマは「AWARENESS」=「知ること」。富士山を望む山中湖畔の美しい環境の下、音楽を通して参加者それぞれが地球上にある人間や環境に関わる様々な問題を共有し、知ってもらうことがねらい。参加ミュージシャンは、「JABBERLOOP」「Teruo Nakamura & The Risng Sun」「Eve Cornelius &chip Crawford group」などジャズを中心としたニューヨークのトップミュージシャン13組。中央大学スウィング・クリスタル・オーケストラも参加する。 また、スバルの特別協賛により会場内には「SUBARU出展ブース」を開設。新型『レガシィ』の展示や、試乗会なども行う予定となっている。SUBARU LEGACY Mt.Fuji Msic Festival 2009■開催:7月25日・26日■時間:オープン 9時00分、スタート 12時00分両日とも終演は20時30分の予定■場所:山中湖交流プラザきらら山梨県南都留郡山中湖村平野479-2■料金:1日券 7500円1日学生券 5000円2日間通し券 1万2000円臨時駐車場駐車券 乗用車1000円/1日 一応、SUBARUネタということになります。
2009年07月26日
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そうなんです、7月15日水曜日。行ってきました、サイモン&ガーファンクルのコンサートです。会場は、地下鉄・九段下駅から歩いて、日本武道館ですね。日本武道館コンサートっていえば、1966年、ビートルズ来日コンサート みたいな年代ですが・・・ 武道館は久しぶりです。懐かしさがこみ上げてきます。ヨメと二人で行きましたが、S席一人20,000円するチケットを切ってもらって。いよいよ入場です。 コンサート始まると、写真撮影は厳禁!みたいな館内アナウンスが飛び交っているので、始まる前のアリーナ席の様子です。着いたのがちょっと早かったので、まだほとんど入っていませんが。一応、満杯にはなりました。武道館がいいのは、切り立ったようなスタンド席。臨場感が、スタジアムや大きなアリーナとは比べようがないほどいいです。ヨメが家でつくってきた、オカズつき握り飯をほお張って。いよいよ準備万端。あっしは、1992年9月のアート・ガーファンクルだけのコンサートに行っていますが。二人でのコンサートは、最初で最後になりそうです。その時も、感じたのですが。ガーファンクルのあの透き通ったような高音が出なくなったな・・・ 今回は、かなり出てはいましたが。やはり、ポール・サイモンのノリのりな表現が前面にでている。そんなコンサートになっていると感じました。小学校時代からの旧友である二人は、もう67歳になっています。これが最後かもしれない・・・ そんな思いもよぎりますが。やはり、20世紀を代表するフォーク・ポップ・ロックのアーチストです。それはそれは、素晴らしい・・・ あっという間の二時間でした。 それでは、演奏曲目です。1.Old Friends 2.A Hazy Shade of Winter(冬の散歩道) 3.I Am a Rock 4.America 5.Kathy's Song6.Hey Schoolgirl 7.Be Bop a Lula 8.Scarborough Fair 9.Homeward Bound 「卒業」の映像 ~The 59th Street Bridge SongがBGM 10.Mrs. Robinson 11.Slip Slidin' Away 12.El Condor Pasa (コンドルは飛んで行く) 13.Bright Eyes ※アート・ガーファンクルソロ 14.A Heart in New York15.Perfect Moment16.The Boy in the Bubble ※ポール・サイモンソロ 17.Diamonds on the Soles of Her Shoes 18.Still Crazy After All These Years19.The Only Living Boy in New York 20.My Little Town 21.Bridge Over Troubled Water (明日に架ける橋) アンコール1回目 22.The Sounds of Silence 23.The Boxer アンコール2回目 24.Leaves That Are Green25.Cecilia バンドメンバー紹介 以上です。
2009年07月18日
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横浜は根岸駅の近くに「ベアカフェ」ってお店があります。昨日の夜、このお店で斉藤哲夫さんのライブがあり、ヨメと二人で見に行きました。斉藤哲夫さんは、同世代のフォークソング・シンガーソングライターです。早川義夫プロデュースの「悩み多きものよ」でデビュー。吉田拓郎が歌った「されど私の人生」を作り、ミノルタのCMソング「いまのキミはピカピカに光って」を歌っている。 あっしは初見参です。20人も入れば、息苦しいほど狭い店内ではありますが。聴きに来ている客も、ほとんど同じくらいの年代のおっさんやおばさん(シツレイ!)。途中から、さがみ湘さんのキーボードが加わります。何とも、妙にノリがいい時間を過ごしました。ベアカフェ 小田和正の番組で「グッドタイム・ミュージック」を共演 スゲー!懐かしい曲「吉祥寺」(チキチキチー・キチ キチジョージ)斉藤哲夫は、やはり長くフォークソングを演っているので。息の長い、玄人の音楽を聴かせます。それから、すごく人懐っこい人物なのでしょう。こんな小さなライブでも、実に気さくに最後まで付き合ってくれました。根っから音楽の好きな、好人物と見ました。斉藤哲夫は、自分のオリジナルもいろいろあるのに、いろんな人のカバー曲を歌っているようです。この日も、高田渡やボブ・ディラン「くよくよするなよ」を歌っていました。加川良のようなメッセージ系とも違う。何か、現代の都会生活者たる表現のほうが、斉藤にあっているのでは・・・ と思いました。 実は、斉藤哲夫は同じ芝白金の大学出身者なのですが、始まる前に本人とちょっとハナシをしました。同じ学部、同じ学科だったのですが、彼氏は一学年下でした。さらに判明したのは、彼氏は付属高校から進学していたのです。付属から来る人は、やはりいいとこのお坊ちゃんが多いはずです(あっしはモチロン違います)。そんなことを聞きました。
2009年05月24日
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久しぶりに、音楽の話題を。ビートルズのアルバムは、レコードとCDで、一通り持っています。しかし、嬉しいリマスター版が出ると言うニュースです。記事は、朝日から。ビートルズのアルバムが初めてデジタルリマスター(デジタル技術による高音質処理)され、9月9日にCD発売される。ビートルズの版権を管理するアップルとレコード会社EMIが7日、発表した。リマスターされたのは、ビートルズのステレオ盤12タイトルと1987年の初CD化でコア・カタログに加えられた「マジカル・ミステリー・ツアー」、今回1つのタイトルにまとめられた編集盤「パスト・マスターズvol.1」と「同Vol.2」の計14タイトル。リマスター作業はロンドンのアビイ・ロード・スタジオで4年をかけて行われ、最新のレコーディング技術と年代物のスタジオ機材が用いられたという。当面はオンラインで販売される予定はないが、デジタルリマスター化によってダウンロード販売へ一歩近づくと考えられている。両社は発表で「デジタル音楽配信についての議論は、今後も続いていく」と述べた。ビートルズは、米アップル社の音楽・動画配信サイト「iTunes(アイチューンズ)ストア」で楽曲を購入できない数少ない大物アーティストの1組となっている。 デジタル化ですね。あっしも、iTunesも利用していますが、購入できない大物アーティストは多いですが。反面、(そういものだ)仕方ないものだと思い込んでいる一人です。いずれにせよ、ビートルズが20世紀を超えて生き残っていく。そんな未来が見えそうな話題です。
2009年04月09日
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朝日のドラクに連載されている「甲虫日記~この日のビートルズ」は、実によく調べ、解かりやすく丁寧に書いているところが好感がもてる記事です。最新記事が、これまた実に良いので。本題のところだけ、ジョン・レノン作になるビートルズの曲「Across The Universe」部分について引用します。「あの曲では、ビートルズはいいレコードを作っていない」68年2月3日に始まったオリジナル録音の出来について、作曲者のジョンは死の直前までこだわりを見せていた。この曲の素晴らしさは、超越瞑想の雰囲気を優美に伝える詞の美しさにある。「あの歌詞はまったくのインスピレーションとして出てきたんだ、与えられたものだよ」 屈折した光のイメージが/何億もの瞳のように/私の前で踊りを踊る/そして手招きをする/あの宇宙の果てへと……/郵便箱の中の落ちつかなげな風のように/私の思考は当てもなく曲がりくねる/そして盲人のように手探りをしながら/宇宙の果てへの道を求める(訳・山本安見「アンソロジー2」より) 「ベッドで前の妻の隣に寝ている時だった。妻はどうでもいいことを延々としゃべり続けていた。そのうち彼女は眠ってしまったけれど、僕の頭の中で、尽きることのない流れのように言葉が次から次へと聞こえてくる。ベッドを出て階下へ降りていった。そしたらイライラの歌から宇宙的な歌に変わったんだ」ジョンは自信を持って書き上げた。シングルA面に組まれる予定だった。ところが、ジョンは録音の出来上がりに満足せず、代わりにポールの「レディ・マドンナ」がA面に起用された。B面はジョージの「ジ・インナー・ライト」。最終日には、映画イエロー・サブマリン用の挿入歌「ヘイ・ブルドッグ」の録音と「レディ・マドンナ」のプロモ・フィルムの撮影も精力的にこなしたのに……。「あの歌がちゃんと演奏されたことなんてないんだ」ジョンは死の直前にあったインタビューで、ギターのキーが合っていなかったり、精神的に不安定だったために声の調子が外れていたりしたことを明かしたうえで、「潜在意識的なサボタージュだった」「僕の傑作をぶちこわそうとしていた」など激しい言葉でポールを批判している。「ポールの曲の時は時間をかけて実に細かいところまできれいにしていったのに、僕の曲になると……ルーズで、いい加減で、実験的な雰囲気になってしまうんだ」「Nothing's gonna change my world」というラインのコーラスは、スタジオの前に集まってくるファンの女の子2人をポールが連れてきて、歌わせた。「歌ったのはいいが、ずっと音をはずしていた」とジョン。しかし、2人の間で発せられる、こうした批判や賞賛の言葉を額面通りに受け取るべきではない。固い絆で結ばれた2人は、強力なライバルでもあった。その濃密な関係のなかで交わされる言葉には、2人だけの間に許されるものもあるし、2人しか理解できないものもあるはずだ。ジョンはこうも言い残している。「ポールを批判できるのは、ポールを発掘した俺だけに許されることだ」結局、「アクロス……」は、コメディアンのスパイク・ミリガンが67年12月に設立した世界野生動物保護基金のためのチャリティー・アルバム用に提供された。悪名高い69年1月のゲット・バック・セッションの際、リメイクの兆しもあったが、リハーサルだけで終わっている。初出バージョンは、69年12月、歌詞にちなんだLP「NO ONE'S GONNA CHANGE OUR WORLD」が発売されてようやく日の目を見た。ザ・ビー・ジーズやクリフ・リチャードら他のアーティストの曲も収められたオムニバス・アルバムだった。オリジナル録音の「第8テイク」をもとに、最終リミックスで鳥の羽ばたく音などが重ねられ、テープ速度も速められた。しかし、LPは英国限定発売のうえ、2~3年で廃盤になり、長い間、真のレアリティとなっていた。誰もがよく知るバージョンは、70年5月発売のアルバム「レット・イット・ビー」に収録された「第9テイク」だ。独特の多重録音システムで有名な「音の壁」を開発した、プロデューサーのフィル・スペクターが「第8テイク」を大改造した。テープ速度を落とし、余計な音を削除し、オーケストラや女声コーラスを加えた。「すごくうまく仕上げてくれた」とジョンは讃(たた)える一方で、「フィル・スペクターが『レット・イット・ビー』のために掘り起こしてきた」と客観的にみてもいる。 この曲、ご存知の方も多いと思いますが。実に良く出来た曲です。しかし、その裏にジョン自身とポールとの間で、こうした葛藤があったとは。ジョンとポールの作品は、例えば「ガール」と「ミッシェル」、「ディジー・ミス・レイジー」と「ロックンロール・ミュージック」、そしてこの「アクロス・ザ・ユニバース」と「レット・イット・ビー」というように、同じ傾向の曲を同じ時期にぶつけあっているように思ってきました。ジョンとポール、固い絆で結ばれたライバル同士という言葉がピッタリ来る二人なのです。
2009年02月08日
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「ユーブ・ガッタ・ア・フレンド(君の友だち)」。なんか、何時のときからか キャロル・キングは、何時も傍に居てくれたような気がしています。そんな、キャロル・キングが来日公演ですね。行って見たいですが・・・ 記事は、朝日です◎伝説のソングライター、キャロル・キング単独公演レビュー「わたしのリビングルームへようこそ~」(2008・11・10、於:渋谷・オーチャードホール) ゲストを招き入れる小道具を選ぶのは、案外むつかしいものだ。料理や酒の好みは人それぞれ、取り上げる話題にだって好き嫌いがある。18年ぶりの単独公演に臨んだキャロル・キングはしかし、一瞬にして、こころを掴(つか)みとってしまった。 グランドピアノ左手に置かれた小ぶりのフロアランプ。白い手が伸びてパチンとスイッチが入る。橙(だいだい)色の仄(ほの)暗い灯がともると、2100人余のゲストは催眠術にかけられたように、椅子にとっぷり体重をあずけてしまう。舞台にしつらえた品の良いソファとテーブル。高さ20メートルの天井のもと、客席と舞台は彼女の「リビングルーム」に早変わりした。 予定調和的といってしまえばそれまでだが、1・2部編成全27曲の選曲は、半世紀におよぶソングライターとしての真骨頂をまざまざと見せつけた。ジュークボックスやラジオを疲れ果てさせた名曲・佳曲の束となれば、それもあながち誇張ではない。 2500万枚を売り尽くしたセカンドアルバム「Tapestry(つづれおり)」(1971年LP発表)から選ばれた「Beautiful」、今回のツアー名にもなった「Welcome To My Living Room」(2005年CD発表)で幕が開いた。<笑顔がこころの内にある愛を表現する>とストレートに愛をひもとき、<ようこそ、こちらへ>と、仲間を迎え入れる。 30年以上も制作に開きのあるふたつの楽曲に導かれ、これから始まる客席と彼女の「会話」の行方に期待が膨らんでゆく。 サポートはルディ・ゲスとゲイリー・バー。アコースティックギター、ベース、マンドリンに、ときにはユニゾンのバックボーカルで歌姫を支える。高音部で微(かす)かにしゃがれてゆく落ち着いた声は相変わらず。ピアノのペダリングも、アコースティックギターのカッティングも、ぴんと冴(さ)えわたる。PAの調整にバラツキがあり、はらはらもさせられたが、咳(しわぶき)さえためらう音の振動は、耳に心地よい。 前のめりなシャッフルナンバー「Smackwater Jack」に続いて、第1部を締めるのは、元夫・ジェリー・ゴフィンとこしらえた60年代のヒット曲メドレー。6曲をノンストップで歌い継ぎ、最後は全米初の1位となった「Will You Love Me Tomorrow?」。 もとは女性コーラスグループ、ザ・シュレルズに贈った1曲だが、「Tapestry」でセルフカバーした。出すシングルレコードがまったく売れず、いったんは歌手として挫折した彼女だが、開演からおよそ1時間、声はますます艶っぽくなり、1942年生まれとはとても思えないほど伸びやかだ。 「Sweet Seasons」「It's Too Late」「Chains」などと、第2部も快調に滑り出し、観客を魅了していくが、思わずうなったのが「Pleasant Valley Sunday」だ。ザ・ビートルズに対抗すべく米音楽界が一気呵成に作り上げたザ・モンキーズに提供した、硬質感のあるヒット曲。67年の発表当時の雰囲気を残しながらも、ギターとピアノと肉声が、現代的な文意をつむぎだすのに成功した。 アンコール曲「So Far Away」「You've got a friend」「The Loco-Motion」に、会場の室温は確実に、2度は上がっただろう。 「The Loco-Motion」はキャロル&ジェリー夫妻のベビーシッターがひょんなことから歌って全米1位に輝いた、黒人霊歌もしのぐダンサブルな曲だ。マイクを握ったこの日の彼女のテンションは高く、まさに蒸気機関車なみ。 そして、「この日の1曲」をと問われたなら、間違いなく、ラス前の「You've got a friend」を挙げる。ササクレだったこの世の中にあって、友だちがいることの喜びや、傷ついた友だちを慈しみ、いたわりあうことを歌い上げる。 <目を閉じて考えて、ぼくのこと。もうすぐ、いくよ。君の真っ暗闇な夜を明るくするために> そんな一言がからだを温かく包み込み、リビングルームの3つのフロアランプの明かりは、ひとつ、ふたつと眼底へと吸い込まれてゆく。(デジタルメディア本部・小野高道) アルバム、「Tapestry」は、レコードでどれだけ聴いたことか。そして、CDも持っています。キャロル・キング 66歳ですか! まったく、愕きますが。コンサートに行けないのが ザンネンです
2008年11月14日
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今年の、中島みゆき夜会のことです「みゆきの歌に手が届く」をキャッチコピーとして1989年からスタートした舞台『夜会』。コンサートでもない、演劇でもない、ミュージカルでもない舞台『夜会VOL.15』が、今年は装いも新たな赤坂ACTシアターに登場します!舞台『夜会』。1991年VOL.3『邯鄲』からはストーリー性を強く打ち出し、 1997年VOL.7『2/2』からは楽曲・ストーリーともすべてオリジナルとなった。1998年VOL.10『海嘯』までは10年連続で公演を行い、現在は不定期公演として実施。2006年VOL.14『24時着00時発』では夜会史上初の大阪公演を実現。一度も聞いたことのない新曲を聞く観客に、どのくらい歌詞の意味が伝わるか、という"言葉の実験劇場"と位置づけられる中島みゆき独自の、コンサートでもない、演劇でもない、ミュージカルでもない舞台『夜会VOL.15』が2008年11月、装いも新たな『赤坂ACTシアター』に登場!2008年11月20日(木)~2008年12月19日(金)開場19:15/開演20:00 全席指定(税込):S席20,000円うちのヨメが、騒いでいます・・・ 何と、(いつ申し込んだかワスレテル)チケット2枚が送られてきた のだそうだ 当たらないだろう。とても無理だろう と思って、リクエストしていたらしい S席2枚 イッタイいくら払うんだ!!!
2008年11月13日
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朝日ドラクに連載されている上林 格の「この日のビートルズ」 実に、いい文章であり 幾度か紹介しています この度、新作も出ていますが 今日は、2007年7月27日の「ヘイ・ジュードのセッション始まる」をご紹介します なぜって、この文章にビートルズ音楽の源泉が 織り込まれている と思うからです「ヘイ・ジュード」は、ビートルズのシングルのなかで最大級の成功をおさめた曲だ。1968年8月26日にアップルレーベル初のシングルレコードとして英米でリリースされると、ビルボード誌の全米チャートで9週連続1位に輝くなど世界中のチャートを総なめにした。同年だけで、500万枚以上の売り上げを記録している。 7分11秒という曲の長さもポップ・シングルの常識を超えていた。当時は3分を超えてはならないというのが慣例だった。39年前の7月29日、アビー・ロード・スタジオで4人全員がこの曲のセッションを開始した。この時に6テイクが録音されたが、完全バージョンの3テイクは、曲の長さがそれぞれ6分21秒、4分30秒、5分25秒と短かった。ジョンがアコースティック・ギターを担当、ポールがピアノというライブ形式のラインナップだった。 このテイクはいったん破棄され、3日後に別のスタジオで36人編成のオーケストラを起用したレコーディングが行われる。曲の後半4分で聴くことができる手拍子と"Nah nah nah"のバックボーカルは、報酬を倍にして協力を求めたオーケストラ・ミュージシャンらが参加したものだ。 ポールがジョンの息子ジュリアンに捧げた曲として知られている。ジョンとオノ・ヨーコの関係が表面化して2人が同棲するようになると、シンシアが離婚訴訟の手続きをとりはじめ、ジョンとジュリアンは別居することになった。ジョンとシンシアのつきあいを最初から知るポールにとって、ジュリアンの将来は気がかりだった。この別離の際にも、ポールは赤いバラを1本たずさえて5歳のジュリアンと母親を元気づけようと車で彼らの自宅へ出かけた。片道1時間の運転中にジュリアンのことを慮りながら、「ヘイ・ジュリアン」と歌いはじめた。「ヘイ・ジュリアン」は「ヘイ・ジュールズ(ジュリアンの愛称)」と変わり、ポールは慰めと励ましをテーマにした歌詞を即興でつくった。「ヘイ・ジュールズ、悪くとるんじゃない、悲しい歌でも悲しくなくするんだ」 ジョンも同じ5歳のとき、心に深い痛手を負う。幼少のころから叔母夫婦の元で育てられていたが、そこへ行方不明だった船乗りの父親が突然現れてジョンを連れ去り、父と母のどちらをとるか過酷な選択を迫った。ジョンは母親を選び、母親がジョンを連れ戻したが、母親はすでに別の男性と同棲していた。叔母夫婦は、母親にはジョンを育てる環境にないと判断して再び引き取ることにした。母の名はジュリア。この心の痛みは、後にソロ作品「マザー」にストレートに表現されている。 「父親は死んだも同然だった」というジョンは、ジュリアンに対してどう接すればいいのか戸惑い、また自分が父親であることを恐れていたのかもしれない。ジョンとポールは思春期に母親を失うという共通点はあるが、ポールには父親がいた。ある日、ポールとジュリアンが仲良くじゃれ合う姿を見たジョンが「どうやったら(息子と)あんな風にできるんだ」とポールに真顔で耳打ちしたこともあったという。 「ジュールズ」は、歌詞を肉付けする作業に入ってから、力強く聞こえるという理由で「ジュード」に変更された。しかし、ポールは自分がつけた歌詞に最後まで自信をもてないでいた。「最終的なものじゃないよ」とジョンにみせた歌詞の中に「the movement you need is on your shoulder」(君に必要な動きは、君の肩の上にのっかっている)という一節もあった。ポールは単なる穴埋めとしか考えていなかったくだりだが、ジョンはそこを「すごいよ」とほめた。この時、自分の作品がいい出来なのかどうか、自分では判断できないのが自分だということを知った、とポールは回想している。 80年9月の月刊プレイボーイのインタビューでジョンは、「ヘイ・ジュード」は「ヘイ・ジョン」という意味で「これは僕に向けられた曲だ」と発言している。ジョンの解釈によれば曲の中に出てくる「go out and get her」という歌詞は潜在的には「go ahead, leave me」と言っていることだという。「her」とはヨーコを指し、意識のレベルではポールは僕に去ってほしくなかった、パートナーを失いたくなかったからだ、という解説だった。 ジュリアンはこうしたいきさつを、87年にニューヨークのホテルでポールと偶然出会ったときにじっくりと聞かされる。96年にはロンドンで行われた競売で「ヘイ・ジュード」のレコーディング用楽譜類を2万5千ポンドで落札した。自分の人生から避けて通れない曲だと悟ったのだろう。 2000年、父の20周忌を前にジュリアンは長い声明文を発表した。異母兄弟のショーンに対して深い愛を表してはいるが、ヨーコを厳しく非難。自分の父親に対しては「父のだらしなさと愛と平和への態度にものすごく腹をたてていました。父の言う愛と平和は家庭には全くなかったのです」など辛辣な批判を浴びせている。かなり長い文章ですが、敢えて載せました ザ・ビートルズという、20世紀最大のアーティストを理解する示唆があちこちに鏤められた文章だと あっしは思っています ザ・ビートルズの「ヘイ・ジュード」 新たな気持ちで、もう一度 聴いてみます
2008年10月11日
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今夏、日産スタジアムでのサザンのコンサートへ行ったことは書きましたそのコンサートで発表になった、『ライブで見たい曲リクエスト』が載っている記事を見つけました ベスト10と50位までのうち、あっしの好きな曲だけをピックアップします1位 真夏の果実 2位 希望の轍 3位 いとしのエリー 4位 LOVE AFFAIR~秘密のデート 5位 ボディ・スペシャルII 6位 TSUNAMI 7位 Ya Ya (あの時代を忘れない) 8位 マンピーのG★SPOT 9位 Oh!クラウディア 10位 夕陽に別れを告げて~メリーゴーランド16位 わすれじのレイド・バック 20位 ミス・ブランニュー・ディ 21位 逢いたくなった時に 君はここにいない 23位 Bye Bye My Love(U are the one) 24位 栞(しおり)のテーマ 26位 心を込めて花束を 28位 涙のキッス 32位 旅姿六人衆 47位 シャ・ラ・ラざっと、こんなもんですかね! 夏の終わりの、スタジアムでのライブ あれから、もう一か月経つのですね・・・ 「クワター・・・ 」、「桑田さーん・・・ 」 サザンオールスターズは永遠です このベスト10 皆さまは、いかがお思いでしょうか・・・ 以上です
2008年09月18日
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早いものです、ファイナル・コンサート日から もう一週間経ちます ということは、あっしが行ってから二週間が経とうとしています あちこちの新聞、それも文化欄で取り上げることで サザンのコンサートは、もう社会現象ともなっている ノリノリ サザン・オールスターズのコンサートですその飽きさせない 全46曲の曲目をメモりましたので ご紹介します ただし、メモったのは あっしでなく、うちのヨメです しかも、WORDにおとしたのも うちのヨメです 悪しからず・・・ S.A.S 30周年記念ライブ 2008/8/16・17、23・24 18時~ 於日産スタジアム1 YOU2 ミス・ブランニューデイ3 Love Affair 秘密のデートメドレー 「青山通りから鎌倉まで」4 女呼んでブギ 15 思い出のスターダスト5 いとしのフィート 16 夏をあきらめて 6 お願いDJ 17 Oh!クラウディア7 奥歯をくいしばれ 18 東京シャッフル 8 ラチエン通りのシスター 19 そんなヒロシに騙されて9 To You 20 あっという間のTonight10 C調言葉にご用心 21 メリケン情緒は涙カラー11 働けロックバンド 22 顔 12 松田の子守唄 23 バイバイマイラブ13 Hello MyLove 24 メロディ 14 朝方ムーンライト メンバー紹介25 愛の言霊26 シュラバ・ラ・バンバ27 爆笑アイランド28 ごめんよ俺が馬鹿だった29 ロックンロールスーパーマンサイドステージ(アコースティック)30 涙のキッス31 チャコの海岸物語32 夕陽に別れを告げてメインステージへ戻って33 いとしのエリー34 真夏の果実35 Tsunami36 I am your singer37 希望の轍38 OH Summer Queen39 エロティカ セブン40 Hotel Pacific41 ボディスペシャル242 マンピーのG Spotアンコール 即興歌あり43 夕方 Hold on Me44 みんなのうた45 勝手にシンドバッド46 Yayaあのときを忘れない如何でしょうか 相当に、誤字脱字がありますが 一生懸命に書いたことは、伝わりますでしょうか・・・ 以上です そ・れ・で・は
2008年08月28日
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1960年代のフォークソング ブラザーズ・フォアの名曲 「七つの水仙」をご紹介しますもう聞くことはないだろうと思っていたらYou TubeにありましたI may not have a mansion, I haven't any land Not even a paper dollar, to crinkle in my hand But I can show you morning, on a thousand hills And kiss you and give you seven daffodilsI do not have a fortune to buy your pretty things But I can weave you moonbeams for Necklace and then rings And I can show you morning, on a thousand hills And kiss you, and give you seven daffodilsOh seven golden daffodils, all shining in the sun To light our way to evening, when our day is done And I will give you music, and a crest of bread A pillow of piney bows to rest your head日本語訳は 僕には、豪邸も、土地もない。手の中で皺をなす紙幣一枚さえ無い。けれど、千もの丘に降りそそぐ朝を、君に見せてあげられるよ。そして、くちづけと、七つの水仙の花をあげよう。僕には財産なんて何一つ無く、君に綺麗なものを買ってあげられない。けれど月の光を紡いで、指輪やネックレスにしてあげられるよ。千の丘の上の朝をあげよう。そしてキスと七つの水仙の花を。ああ、七つの黄水仙が太陽に輝いている。日が沈んでも宵の道をなお照らしてくれようと...音楽と一かけのパンと香りの良い小枝で編んだ枕をあげよう。そこに君の頭を休めてほしいんだ。何とマア、甘い曲でしょうか こんな曲を、昔 今から四十年前の高校生ゴトキが歌っていたかと思うと・・・ ♪ いつでも 風のように うたが流れていた ことばの意味さえ 分らないまま ♪ ~(小田和正) でも、いい曲でしょう
2008年08月23日
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いよいよ、明日(八月16日)です 新横浜・日産スタジアムでサザン・オールスターズのコンサートです夕方六時開演の予定ですが、午後三時から入場できます まだ、何時に入るか決めていません怒涛の、猛暑のもと いずれにせよ盛り上がることでしょう・・・ 開演してしまうと、カメラって訳に行きませんので その前に何枚か撮って、お見せしましょうサザン 今年の新曲は「I AM YOUR SINGER」 1978年に、「勝手にシンドバッド」で衝撃のデビューを果たして以降、常にトップを走り続け、今年デビュー30周年を迎えたサザンオールスターズ。先ごろ、無期限の活動休止が発表され、多くのファンに大きな衝撃を与えています。 そんな中で届けられた新作は、「感謝」をテーマに、これまで支え続けてきた、さまざまな人たちに対しての「恩返し」とも受け取れるような、熱いメッセージソングになっています。この曲は、特別に盛り上がること マチガイないでしょう! それでは、行ってきます
2008年08月15日
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いよいよ八月になりますね 井上陽水はほぼ同じ世代ですが とりわけ、この歌は 共感を持って泣けてきます 歌は「少年時代」です この間、久しぶりに陽水のライブ番組を見ましたが 結構、年老いた陽水を見てしまいました「風あざみ」や「宵かがり」も陽水の造語だとか、違いとか それはどうでもいい そうでなくて、この歌で 泣けるかどうか (そんなこと、迫ってどうする)ってことでなく この歌聴いて、泣けますか? 泣けませんか? 。 この歌、沢田知可子、忌野清志郎、佐藤竹善、宇多田ヒカル、夏川りみらがカヴァーしているとなれば 気にせざるを得ないでしょう それでは、「少年時代」の歌詞です夏が過ぎ 風あざみ だれの憧れにさまよう 青空に残された 私の心は夏もよう 夢が覚め夜の中 長い冬が 窓を閉じて 呼びかけたままで 夢はつまり 想い出の後先 夏祭り 宵かがり 胸の高鳴りに合わせて 八月は 夢花火 私の心は夏もよう うーむ 泣かせますね・・・
2008年07月31日
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朝日新聞・ドラクに「この日のビートルズ」を連載している上林格の文は、本当にいい文章である 今回は、「ビートルズの」というより、「ポール・マッカートニーの」曲 イエスタディを取り上げている これがまた秀逸な文章なので、その極めの部分を抽出して お届けします学校の教科書に登場するずっと前の時代から、「イエスタディ」は特別な曲だった。弦楽四重奏をバックにしたこの美しいバラードは、ロック嫌いの大人も黙らせるキラー光線になった。(中略) 中学生のとき、1975年11月のウイングス豪州公演の模様をテレビの録画番組で見た。ショーの中盤、バンドのメンバーは一旦下がって舞台にはポール一人が残る。アコースティック・ギターを抱えたポールが「アイブ・ジャスト・シーン・ア・フェイス」「ブラックバード」とビートルズ・ナンバーを続けると、会場は「いよいよ」と期待で高まる。イエスタディのイントロをつま弾く。悲鳴にも似た歓声。それなのにポールが歌い出したのは、豪州の愛国歌「ワルチング・マチルダ」。会場はどっと沸き、一拍おいてから、お約束のバラードが始まる。この展開に誰もが満足したものだ。(中略) 65年春、ビートルズ主演映画「HELP! (4人はアイドル)」の撮影中、ポールはピアノで繰り返しこのメロディを弾き、監督のリチャード・レスターを閉口させた。あまりにも完璧な出来映えに、ポール自身が戸惑っていたようだ。 「最後には、落とし物を警察に届けた時みたいな感じになった。これだけ待っても持ち主が名乗り出ないなら、自分のものにしても構わないだろうって、ことだ」 ジョージ・マーティンが初めて聴いたのは、かなり前の64年1月、パリのジョルジュ・サンク・ホテルだった。(中略) ポールの背中を押したマーティンは、弦楽四重奏の導入をポールに勧めた。2人ともアコースティック・ギターだけでは物足りないと感じていた。スコアはポールとの共同作業で書き上げられた。マーティンは、この曲のレコーディングはメンバー全員ではなく、ポールのソロで行くべきだとも提案した。実際にそうなったことが当時のポップ・ファンを驚かせた。マスコミは、「イエスタディ」はビートルズ脱退を計画しているポールが、ソロ・キャリアを構築するための一歩だ、と騒ぎ立てた。(中略) 65年8月、通算5枚目のオリジナル・アルバム「HELP!」が発売されたが、B面6曲目という地味な扱いだった。米国では4週間連続でシングル・チャートの首位になったが、英国ではグループの活動期間中にシングル・カットされることはなかった。グループ内に亀裂を生じさせないため、何らかの配慮があったと考えても不思議ではない。 ジョンは、自分の曲だったら良かったと思ったことは一度もない、と断言していた。歌詞にも難癖をつけている。 「全体的にみてみると、何も言っていない。何がどうなったかわからない。彼女が去って行って、彼はそれが昨日だったらよかったのにって思うわけでさ。それだけじゃ、本当は何の解決にもなっていない」 しかし、恋愛が理詰めで解決するはずがない。多くのリスナーは、この歌詞の曖昧さを支持している。いかがでしょうか・・・ 細かく調べて、事実だけでなく 真実に迫ろうとする ジャーナリスト魂 みたいなものを記事から感じ取りませんか
2008年06月15日
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来週、横浜では「第4回アフリカ開発会議」って国際会議が開かれます 音楽で、忘れられないのが「ウィ・アー・ザ・ワールド USAフォー・アフリカ」ですもう24年も前の曲なのですね Wikipediaによると 作曲作詞はマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチー。1985年当時、アメリカ国内だけでシングル400万枚、アルバム300万枚を売り上げた。最終的にはアメリカだけで750万枚のシングルが売れ、シングルとアルバム、ビデオの合計で6300万ドルの収入となり、すべての印税はチャリティとして寄付された。ビルボード(Billboard)誌では、1985年4月13日に週間ランキング第1位を獲得。1985年ビルボード誌年間ランキングでは、第6位。 参加したアーティストは アル・ジャロウ ウィリー・ネルソン ウェイロン・ジェニングス キム・カーンズ クインシー・ジョーンズ(プロデューサー) ケニー・ロギンス ケニー・ロジャース ジェフリー・オズボーン ジェームス・イングラム ジャッキー・ジャクソン シンディ・ローパー シーラ・E スティーヴィー・ワンダー スティーブ・ペリー(ジャーニー) スモーキー・ロビンソン ダイアナ・ロス ダリル・ホール&ジョン・オーツ ダン・エイクロイド ディオンヌ・ワーウィック ティト・ジャクソン ティナ・ターナー ハリー・ベラフォンテ ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース ビリー・ジョエル ブルース・スプリングスティーン ベット・ミドラー ポインター・シスターズ ボブ・ゲルドフ ボブ・ディラン ポール・サイモン マイケル・ジャクソン マーロン・ジャクソン ライオネル・リッチー(元コモドアーズ) ラトーヤ・ジャクソン ランディ・ジャクソン リンジィ・バッキンガム レイ・チャールズ プリンスにも出演を頼んだが、直前でキャンセルされたためマイケル・ジャクソンが二回ソロを歌っている。 もう24年前の曲ですから、故人も結構いますが とにかく、ビッグ・ネーム揃いです 少なくとも、ポップ・ミュージックの世界では 歴史に残ることでしょう 「アフリカの貧困層を解消する目的で作られたキャンペーンソング」ですが アフリカの状況って、24年前と大きく変わっているのでしょうか・・・
2008年05月24日
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1969年1月30日っていうのは あっし的には、19歳、大学一年の冬 ヒドイ、閉塞感と敗北感に拉がれていた時期 ですかね しかし、海の向う イギリスはロンドンでは あの4人 ビートルズを巡って、こんな一日が起きていたのです ニュースソースは、朝日、ドラクの上林 格による文です映画「レット・イット・ビー」(80分)のクライマックスを飾る「ルーフ・トップ・コンサート」は、1969年1月30日、背広発祥の地で有名なロンドンの中心街サビル・ロウにあるアップル・ビル本社屋上で撮影された。 寒風をついての昼時の演奏。リンゴは妻モーリーンの赤いレインコートを借り、ジョンはヨーコの毛皮のコートを着た。風の音が入るのを防ぐため、マイクには女性用ストッキングがかぶせられた。演奏の合間、リンゴが鼻をかんだり、手がかじかんだジョンが「うまくコードが弾けない」とぼやいたりする。 4日前に発案された5階建てビル屋上でのライブ・パフォーマンスには、2つの目的があった。ひとつはテレビで放送予定だったドキュメンタリー番組のクライマックス・シーンの撮影であり、もうひとつは新作アルバムに収録する新曲のレコーディング(録音)だった。最初から映画制作の目的で撮影したのではなかった。 約42分間の屋上ライブでは3曲が複数回演奏された。「ゲット・バック」はリハーサルとオープニング、エンディングの計3回。「ドント・レット・ミー・ダウン」と「アイヴ・ガッタ・フィーリング」が2回ずつ。ほかに「ワン・アフター・909」と「ディグ・ア・ポニー」。キーボードにビリー・プレストンが参加している。 アルバム「レット・イット・ビー」には、この日演奏された「アイヴ・ガッタ・フィーリング」(1回目)と「ワン・アフター・909」「ディグ・ア・ポニー」の3曲が収録されている。 この「ライブ」が開かれるまでの物語を語るとき、長く複雑で、痛ましいエピソードにふれなければならない。 世間には伏せられていたが、68年に発表された「ホワイト・アルバム」を制作する過程で、リンゴが一時脱退するなどバンド内には亀裂が生じていた。 グループ活動を促す役回りになっていたポールが思い悩んだ末に考えついた解決策は、バンドの原点に立ち返ることだった。ギター、ベース、ドラムというロックンロールの基本スタイルに立ち返り、聴衆を前にしたライブを撮影し、全世界にテレビ放映する。 こうして動き出した「ゲット・バック・セッション」は当初、3つのライブのベスト場面をつなぎ合わせて全世界に放映する計画だった。これとは別にドキュメンタリーを制作するため、演奏のリハーサル模様はすべて撮影することになった。 年明けの2日からトゥイッケナム・フィルム・スタジオでリハーサルが始まった。ビートルズは新曲を8曲準備した。テレビ・ショーで初めて新曲を披露し、そのライブ盤を発売するという斬新な手法を考えていた。ジョージ・マーティンもその手法に価値を認めていた。 事件はまもなく起きた。ジョージの演奏に対するポールの注文に、ジョージがかんしゃくを起こす。その場面は映画にも登場する。「君がそうしろと言うなら何でも弾く。でなければ何も弾かないよ」という有名なセリフを吐くシーンだ。10日、ジョンとも衝突したジョージはバンドを抜けてしまう。 数日後、全員がジョージの家に行って話し合うことで復帰はかなったが、彼が乗り気でなかったテレビ・ショーの計画は中止になった。4人ができることは、新曲を完成させてアルバムに使うことと、録音場所をアップル・スタジオに移してもドキュメンタリーの撮影は続けることだった。 撮影されたフィルムは96時間分に及んだ。1時間のドキュメンタリーを2本制作し、2夜連続でテレビ放映する計画もあった。膨大な撮影フィルムを活用するため、映画制作が決定されたのは6月以降になる。おそらく、映画会社ユナイテッド・アーティスツとの契約に残されていた、「3本目の主演映画」問題をクリアするためだったのだろう。 僕が30数年前に初めて映画をみた時、端からアルバム制作の録音模様を撮影した映画だと信じていた。ところが、映画の前半にあるトゥイッケナム・フィルム・スタジオでの様子は、テレビ・ショーのためのリハーサルだったわけだ。気合いの入っていない演奏シーンが多いのもうなずける 屋上ライブが始まると、ビルの周辺は人だかりができて交通渋滞を引き起こした。何の告知もなく出し抜けに行ったライブは警察の介入を招く。ビルの屋上に上がってきた警官を前に、彼らは最後の曲「ゲット・バック」の演奏を始める。自分たちが逮捕されることを期待したのだ。映画のエンディングにふさわしいシーンになると。 ハプニングが起きた。演奏の途中でジョンとジョージのギターの音が出なくなる。映画ではその後、ジョージがアンプのスイッチを入れ直すシーンをみることができる。 アンプが故障したという説がある。だが、状況からしてアップル役員でもあったマル・エバンスが、演奏をやめさせようとスイッチを切ったのだろう。 ポールがアドリブで挑発的に歌う。「また屋上で演奏したね、ママはこれが嫌いなのを知っているだろう、そのうち逮捕されちまうぞ」 しかし、警官は「音を下げろ」と注意しただけで帰ってしまった。 曲が終わった。「ありがとう、モー」。ポールは熱心な拍手と声援を送ったモーリーンに軽く礼を言う。ジョンは芝居がかった口調で、こう付け足す。 「グループと自分たちを代表してお礼を申し上げます。オーディションに合格したかな」 小さな笑いが起きた。誰一人として、これがビートルズ最後のライブ・パフォーマンスとなるとは想像できなかった。この屋上ライブから、半年ちょっと後、ビートルズは決定的な解散を迎えます しかし、映画「レット・イット・ビー」を見ているだけじゃ、解からなかったシーンが多く書かれています この文は秀逸です
2008年02月03日
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蒼氓 山下達郎遠く翳る空から たそがれが舞い降りるちっぽけな街に生まれ 人混みの中を生きる数知れぬ人々の 魂に届く様に凍りついた夜には ささやかな愛の歌を吹きすさんだ風に怯え くじけそうな心へと泣かないで この道は 未来へと続いている限りない命のすきまを やさしさは流れて行くもの生き続ける事の意味 誰よりも待ち望んでいたいさみしさは琥珀となり ひそやかに輝き出す憧れや名誉はいらない 華やかな夢も欲しくない生き続ける事の意味 それだけを待ち望んでいたいTo find out the truth of life!たそがれが降りて来る 歌声が聴こえて来るLa La La La・・・・・・「蒼氓(そうぼう)」とは、大辞林によれば、「人民。国民」といった意味のようです また、昭和10年に、石川達三がこの題名の小説で芥川賞を受けていますね アルバム『僕の中の少年』は1988年です この曲は、このアルバム以降ですから この頃の作品と、見ています 山下達郎の、マニアックなまでの理屈っぽさが、如実に出た作品 桑田圭祐の歌詞は、言葉の洪水で「無駄じゃない」と思うような詞があるが 山下の、特にこの作品は、山下のある意味の誠実さを示している 桑田圭祐を出したのは、この曲の最後、リピート・コーラス部分を 山下夫妻と桑田夫妻、四人で歌っていることもある 山下夫妻とは、山下達郎と竹内まりや 桑田夫妻とは、桑田圭祐と原由子 四人とも大学へ行ったが、卒業したのは原だけ この二組の夫婦、同じ1982年に結婚しており、ともに銀婚式を終えている山下達郎と言うと、「高気圧ガール」や「さよなら夏の日」のような夏メロ、「クリスマス・イヴ」のような冬メロ、と思う人もいるかもしれないが かれこれ35年 一貫して、自分の音楽を追求してきたクロウト(玄人)だと思う 1973年、シュガーベイブ結成以来 アメリカン・ポップスに影響は受けているが、山下の音づくりに徹してきた 「一人アカペラ」は、コーラスの多重録音だけでなく、全ての楽器を自分でこなし 作曲・作詞・編曲をするだけでなく、音には実に厳格であるさて「蒼氓」だが、詞の中にあるように、山下は「蒼氓」を「人生の真実を発見した」とまで言い切っている 6分6秒という曲の長さは、山下の曲の中では、決して最長ではない でも、山下達郎の「魂」がこもった一曲であることは、間違いない 山下のライブを観に行ったとき、この曲の途中で、岡林信康の歌詞「私たちの望むものは生きる苦しみではなく、私たちの望むものは生きる喜びなのだ」という一節を挿入していた あの時は、正直、足が震えたあっしたちの時代、「蒼氓」と言えば「蒼氓の叛旗」だったですがね
2008年01月13日
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12月31日に、2007年の物故者を取り上げましたが、大事な人を忘れています オスカー・ピーターソンです今、「C JAM BLUES」を聞きながら、書いています オスカー・ピーターソンですが、Wikipediaによればオスカー・ピーターソン(1925年8月15日-2007年12月23日)はカナダケベック州モントリオール出身のジャズ・ピアニストでコンポーザー。 スイング期の流れを汲む奏法にモダンな和声感覚を取り入れたスタイルで、ジャズ界きっての超絶技巧を誇り、88鍵をフルに使いこなすダイナミックな演奏と流麗なアドリブから、「鍵盤の皇帝」の異名をとる。ミスタッチのほとんど無い極めて強靭なタッチと明快でハッピーな演奏が身上。 ベーゼンドルファー製のピアノを好む。 5歳より父からピアノとトランペットを習い始める。しかし7歳の時結核にかかり、ピアノに専念するようになる。アート・テイタムやナット・キング・コール等の影響を受ける。 1949年に、ノーマン・グランツの手により、ニューヨーク市のカーネギー・ホールにてアメリカに進出する。レイ・ブラウン、ルイ・アームストロング、エラ・フィッツジェラルド、ジョー・パス、カウント・ベイシーやスタン・ゲッツ等の著名なアーティストと共演をする。1959年にグランツが創設したヴァーヴ・レコードに籍を置き、彼は重要なキャリアを築く。1973年にはグランツはパブロ・レコードを創設し、このレーベルにおいても幾つかの名盤を残している。 1993年に脳梗塞で倒れ、歩く事が出来なくなるもリハビリを重ね、まだ左手に少し不自由が残ったが再びピアノを弾けるようになる。 2005年8月15日に80歳の誕生日を迎え、トロントのHMVにおいて祝賀会を開かれた。2007年12月23日夜、腎不全にてトロント郊外のミシサガ市の自宅で死去した。享年82歳。曲は「コルコバード」から「酒とバラの日々」に変ります あっしは、若いときから、本当によく聴いてきました ピアノに、ベースとドラムスという、今やごく当たり前のピアノ・トリオもオスカー・ピーターソンが確立しました ナット・キング・コールからの影響ですが、あの歌いながらピアノを弾くというスタイルを学んだんだそうです このLPの最後の曲は、Hymn to Freedom「自由への賛歌」です この曲は泣きますよ、ぜひお聴きください カナダ人、オスカー・ピーターソン 永遠なれ!
2008年01月06日
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大晦日であります それにしても、横浜はいい天気です 最低気温が1度まで下がるって言ってたけど、そこまで寒くないところで、昨夜はひょんなことで、横浜アリーナへ桑田佳祐ライブを見に行った よく寝たが、桑田のライブが脳裏に残る、朝を迎えている 左右のステージを走り回り、ステージ効果は至れり尽くせり、歌はたっぷり あの男、只者のサービス精神じゃない まったく、よくやる しかも、相変わらず放送禁止言葉や、世相批判はお手のもの・・・そう言えば、桑田と同じ歳に佐野元春がいる 佐野は、屹立とした作風をもつミュージシャンとして、ずっと好感をもってきた あの痩せ具合、が作風やマスコミに迎合しない生き方につながっているのでは・・・佐野は、東京・神田の生まれらしいが、桑田も茅ヶ崎 そんなことも、横浜育ちの、あっしの共感を呼ぶ 二人とも、音楽を通じて自己主張していることを見ても、相当に孤高の存在と見える ロックンロール歌わせたら、うまさも日本人じゃ、桁外れにうまい二人そんなことが脳裏をカスメル朝である
2007年12月31日
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横浜アリーナへ行ってきました桑田佳祐 LIVE TOUR 2007 呼び捨てでも構いません!!『よっ、桑田佳祐』SHOW」ヨメと次男坊が二人で行くはずで、チケット取ってあった 次男坊が、昨日から、風邪っぽいんで 「代わりに、アンタ行ってよ」 嫌だな と思いながらも、行ってきやした桑田(呼び捨てでも構いません コンサート)も、もう51歳になったそうです サザンのメンバーでなく、桑田バンドのメンバーで2007ライブです相変わらず、サービス精神旺盛な桑田 少しも飽きさせずに、あっという間の2時間半(ちょっと短め)でした コンサート始まれば、嫌だななんてすっ飛びます あっしはノリノリ 写真は、開演前のアリーナ内です 偶然、写ってしまいました 明日の夜は、年越しライブ WOWOWがライブ中継しますよね メンバーは桑田佳祐(ボーカル、ギター) 斎藤誠(ギター) 角田俊介(ベース) 河村"カースケ"智康(ドラムス) 片山敦夫(キーボード) 深町栄(キーボード) 三沢またろう(パーカッション) 山本拓夫(サックス) 西村浩二(トランペット) 清水美恵(コーラス) 安奈陽子(コーラス)
2007年12月30日
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マッシィー:ビートルズとして、デビューしてから45年が経つ。いま、この時期にビートルズを、君と語りたかった。 あっし:いやー。実は、ここんとこ、改めてビートルズを聴きなおしている。音楽のテクや、録音の技術は古いものがあるが、音楽そのものは実にいい。いま、聴きなおしても、ちっとも古臭くない。 マッシィー:前々から思っていたが、君は「ポール・マッカートニー」派だな。 あっし:そう言う、あんたは「ジョン・レノン」派だ。音楽を、難しく難しく、見ている。観念とか、思想とか、哲学とかに傾斜しがちだ。 マッシィー:そりゃ、そうだ。音楽だって、表現だ。芸術だ。思想なくして、芸術なんて語れない。その点、ポールは芸能か。 あっし:早速、お言葉だな。エンタテイメントと言って欲しいな。ポールの歌や音楽は、天才的であり、他人に感動と歓びを与える。そういう意味じゃ、エンタテイメントだ。 マッシィー:初期のビートルズは、ジョンがボーカルの中心になっている。ジョン中心のバンドといっていい時期がある。 あっし:あくまで4人のバンドだが、それは建前。ジョンとポールが中心だ。故人に悪いが、ジョージ・ハリソンは存在が薄い。リンゴ・スターは、もっと早くに、もっと巧いドラマーに代わっておけばよかった・・・ マッシィー:ジョンとポール中心のバンドであることは認める。ただし、ジョンが上だ。年齢も、音楽でのリードも。ポールが、あれほどの地位を築けたのも、ジョンあってのことだ。 あっし:すべて、そうだとは言わない。ビートルズの中期、ロックンロールの曲、ジョンの「ディジー・ミス・レジー」とポールの「のっぽのサリー」を聞き比べてほしい。フォークっぽい曲、ジョンの「ガール」とポールの「ミッシェル」を聞き比べて欲しい。 マッシィー:どういうことだ。ポールのボーカルのほうが優れている、って言いたいのか。 あっし:そうじゃない。ポールのエンタメ指向、ジョンの独善指向、がわかる。 マッシィー:お前は、世界中、数千万人のジョン・レノン ファンを敵に回すのか。 あっし:そんな大それたことは言っていない。あくまで、ビートルズはジョン中心のバンドだ。それはわかっている。しかし、解散のキッカケは、ジョンのキリスト発言など、身勝手な振る舞い。オノ・ヨーコの存在など、ジョンの独善さが大きく影響している。 マッシィー:最初に、一人で曲づくりして、売ったのはポールの「イエスタディ」だぞ。そんな勝手をしておきながら、ポールは、ビートルズの中心に居座りたかったんだ。 あっし:悪化した人間関係の中で、ビリー・プレストンが加わったりして、何とか乗り切ったアルバム「レット・イット・ビー」。しかし、四人が四人なりに、バラバラの状態だった。そんなときに出来たアルバムが「アビー・ロード」だ。しかし、これは出来がいい。特にB面のメドレー曲は好きだな。あの仕掛けもポールが考えたといわれている。 マッシィー:そして、1969年9月20日が来る。この日、ミーティング席上で、ジョンが脱退を表明する。しかし、マネージャーのアラン・クレインはひた隠しにする。そして、翌年4月にポールは、『デイリー・ミラー』紙にビートルズからの脱退を発表し、同年12月30日にはロンドン高等裁判所にアップル社と他の3人のメンバーを被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。その訴えが認められ、ビートルズは解散する。 あっし:そうか、その訴えを起こしたのが、今から37年前の今日ってわけか。 マッシィー:ジョンとポール中心のバンド、ビートルズは、ジョンとポールの対立を軸に、解散に至るってわけだ。 あっし:おセンチに言うわけじゃないが、やはり「ロング・アンド・ワインディング・ロード」を聴いて欲しいな。長く曲がりくねった道は「君=ジョン、ジョージ、リンゴ」へ続いているんだ。とポールは歌っている。ジョンのアルバム『イマジン』収録の『ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?』なんて、目じゃない・・・ マッシィー:わかった、わかった。ポールももう65歳だ。ジョンも、ジョージも、もうこの世にはいない。でも、ポールは元気に、芸能している・・・。レコード会社変わって、でもアルバムを出している。 あっし:ビートルズは永遠だ。ってことではキミと共有できる価値観だ。きっと、これからの時代、音楽ではずっと残っていくことだろう。ビートルズ・フォーエバー、ちゃんちゃん。
2007年12月30日
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ある日の会話《ユーミンと山本潤子》ヨメ:貴方が書いていたけど、唄「海を見ていた午後」の山本潤子を私も聞いたわ。 あっし:どうでした。荒井由美よりずっと、ウマイっしょ。 ヨメ:そうね、唄は山本潤子のほうがうまいかもね。 あっし:「かもね」って、そんなに感心していないのかな。アレだけ長く歌っていれば、この頃はちったあ、ライブでも歌ってるだろうケド、昔は、荒井由美のころは人前で、ナマで歌っていなかったハズ。 ヨメ:それは、どうでもいいんだけど。松任谷由美には、昔から、その、存在感っていうものがあるのよね。そこにユーミンがいる・・・ いるだけで、その存在感が漂っているのよ。それは、申し訳ないけど、山本潤子以外の人でも及ばない存在感だと思うわ。 あっし:ほうー、存在感ですかい。クリエーターとしてのユーミンは認めるな。しかし、ユーミンの作品を山本潤子が歌って、ホンモノの歌にした、って思っている。 ヨメ:この話は、余りしたくないけど、ユーミンはあたしと同じ歳、山本潤子は貴方と同じ歳でしょ。あんまり、貴方が山本潤子のことを言うのは、同世代人を贔屓していると、思えてくるのよ。 あっし:そりゃ、あんまりだ。そんなこと考えもしなかった。若い人達から見れば、何も変わらない世代でしょうーに。 ヨメ:・・・・もう一つ、ある日の会話《ザ・ゴールデンカップス》マッシィー:お前は、横浜、本牧のことをよく書いているけど、本牧生れのザ・ゴールデンカップスについてどう思っているんだ。 あっし:どうって、ちょっと年上(ミッキー吉野は別)のヨコハマっぽいバンドだと思っていたけど。 マッシィー:俺様が思っていたのは、本牧のワル達がバンドでもやって見ようか・・・ って始めたバンドじゃないかって思っていたな。 あっし:そりゃヒドイ。 あの頃は、本牧だけでなく、ヨコハマだけでもあちこちにワルはいた。沢山いた、ワルだらけ。そういう言い方はないだろう・・・ マッシィー:わかった、言い方が悪かった。 カップスが出来たイキサツは、平尾がアメリカへ音楽学びに行ってて、エディ藩に会った。日本に帰ったら、一緒にバンドやろうな。みたいなキッカケ。 リバプールで、ジョンとポールが同じ学校にいて、一緒にバンドやろう、に似ている。 あっし:そうだってね。その二人に、ルイズルイス加部、ケネス伊東、マモル・マヌーが加わって、1966年の暮れにカップスは始まった。 マッシィー:ところが、ワルばっか。いや失礼、個性的な連中ばかりで、ああでもない、こりゃ嫌だって文句ばかり。終いにゃ、一人抜け、二人抜け、結局解散した。 あっし:そりゃ、そうだ。嫌なヤツと解かったら、一緒にやっているほうが可笑しい。でも、結局、エディ藩とデイブ平尾の音楽性の違いが解散に至ったんじゃないのか。ジョンとポールの音楽性の違いと同じかもな。 マッシィー:平尾は、歌謡曲みたいなGSの歌でも、平気で歌っちゃう。エディ藩は、多分、嫌でしょうがなかった。ブルースとか、サイケデリックなアグレッシブ・ロックを演りたがってた。あるライブで、平尾がGSを歌って引っ込むと、エディ藩がヘビーなブルースばかり立て続けに弾いたって、聞いた事あるよ。 あっし:忘れられないのは、あっし達が19歳のころ(1969年12月)、横浜駅東口に昔のスカイビルの1階にライブホールZENってのがって、ここで、カップスのほかに、陳信輝や柳ジョージのいたパワーハウス、それから瀬川洋や山口富士夫のいたザ・ダイナマイツが参加したライブ・セッションがあった。 なんだか、スゴイ演奏の連続で、熱気と妙な高揚感がホールを埋め尽くしていた。 マッシィー:あれを見に行ってたんだ・・・ しかし、凄いメンバーだな。今や、伝説的なライブだな。 あっし:実はたまたま、行ったんだ。 あっし達は、アグレッシブ・ロックってな風でなく、どちらかって言えば、キャンパス・フォークみたいな学生だったから。 マッシィー:でも、たまたまでもスゴイ現場に出くわしたな。それはレコードにもなって、残っているはずだ。 歴史の生き証人だな、オドロイた。 あっし:でも、何が言いたかったって言えば、平尾とエディ藩の考え方のズレが、カップスの中にあって、それが決定的になっていくってことかな。 あっし:そうそう、その話だ。 一昨年だったか、「ザ・ゴールデンカップス ワンモアタイム」って映画が出たな。実は見ていないが・・・ マッシィー:俺も見ていないが、平尾はともかく、エディ藩や加部やマヌーたちが大人になったとは思えないしな。一時的な妥協の産物だろうな。 あっし:うーむ、そうなんだろうな。でも、みんな60歳くらいになって、またバンドやるのもいいもんじゃないの。 マッシィー:お前も、やったらどうだ。昔の連中が生きてる間にやったほうがいいぞ。 ビートルズは一人死に、二人死に、だぞ。 あっし:そりゃ、失礼な言い方だが、そうかも知れないな・・・ しかし、アタッテルかも。
2007年11月18日
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マイベスト・シリーズです 今回は、アイ・チューンの昭和歌謡曲ベストと銘打ちました第五位は、実は「オリビアを聴きながら」としたかったのですが「旅姿六人衆」です これはサザン・オールスターズの結構、初期の曲です サザンの曲、バラードですから、歌謡曲といったら失礼かもしれませんが、内容は結構、歌謡曲です イントロの「ごめん、俺が悪かった」という桑田さんの声に始まります コンサートの舞台裏の人たちへ捧げる名バラード 「Mr.Suizuらが・・・ 」は水津雄二デレクターのことですよね タイトルの「六人衆」とは、もちろんサザンのメンバー6人のことを指しています 大森さんは今いませんライブでもよく演奏される曲ですが、過去のライブでは全てラストに歌われています アンコールのラストを飾って、この曲を歌いながら目にきらりと涙を浮かべた桑田さんを見て、思わず涙をこぼしてしまった人は多いと思います第四位は、「海を見ていた午後」にしました 松任谷由美、荒井由美時代、昭和49年のアルバム「ミスリム」の一曲です この曲は、あっしとしては「ヨコハマ三部作」または「横浜ベスト」に入れたい曲でもありますが、第四位としました 「ソーダ水の中を 貨物船がとおる」とか、「紙ナプキンには インクがにじむから」とか、ユーミン感性の曲です この曲、あっしのアイ・チューンでは、山本潤子の曲が入っています 申し訳ないですが、歌、声はユーミンよりいいです 現在の山手のドルフィンは、あの頃と、店のコンセプトを変えているようです第三位は、「大阪で生れた女」です 昭和54年、BOROの曲ですが、オリジナルは萩原健一が歌ったはずです 「青春のかけらを 置き忘れた街」 何とも切ない、悲しい歌詞はブルースです BOROの原曲は、歌詞が十八番まであったそうですが、あっしのアイ・チューンはBOROの曲で入っています この曲も、あっしのカラオケ十八番で、よくガナって歌いましたです この曲も、本当は「悲しい色やね~OSAKAベイ・ブルース」、「浪花恋しぐれ」と並べて大阪三部作としたい曲です第二位は、尾崎紀世彦「また逢う日まで」です 作詞は阿久悠、作曲は筒美京平で昭和46年の大ヒット曲ですね この曲には、本当に長い間、お世話になりました カラオケ時代以前から、横浜・若葉町の飲み屋で、ギター片手に歌っていましたから 尾崎紀世彦は、もともとカントリー・シンガーですよね デビュー当時の、髪型やもみ上げが話題になりましたが、あれはカントリー・ウェスタンの方々の雰囲気ですよね 「二人でドアを閉めて 二人で名前消して」 今から見れば、どうってことない歌詞ですが、当時、あのハモのノリは最高でした・・・第一位は、都はるみ「小樽運河」です この曲は、昭和でなく、平成二年の曲です 企画原案・都はるみ 作詩・吉岡治 作曲・弦哲也 です 「精進落しの酒を飲み 別の生き方あったねと」 始まりは全くの歌謡曲です しかし「イエスタディを聴きながら」 展開は、何ともモダンな歌謡曲です バックも結構、ジャズのノリです イエスタディが幾度も出てきますが、ビートルズのイエスタディだけを聴いているだけでなく、男女の「過去」を暗示している言葉ではないでしょうか あっしの想像では、団塊世代男女が、友人の弔いで久しぶりに再会 離れられない関係に・・・ って感じじゃないですか 「四十路半ばの秋がゆき」 五十路半ばになった男が惚れ直す名曲です
2007年11月11日
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三歳年上ですが、吉田拓郎は気になる男、の一人です Wikipediaによれば、2007年8月21日、越谷公演を皮切りにツアー『Life is a Voyage TOUR2007"Country"』を開始。だが、ツアー2カ所目となる多摩公演が行われる予定だった8月24日、扁桃炎による延期が当日発表された。その後、喘息性気管支炎の診断を受け、当面の公演を延期。9月30日の熊本公演からツアー再開していたが、10月22日に慢性気管支炎と胸膜炎により、以後の公演中止を発表した。若い頃は、いろいろ言われたし、いろいろありました 三人の女性と結婚したり でも、拓郎の唄は、掛け値なしにいいです 捨て鉢な歌い方に見えるかも知れませんが、あれが男の色気です 素直に、世の中見ていないように見えますが、あれが団塊の世代です同じような時代を生きてきた男です 気になりますね
2007年11月03日
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10月9日は、ジョン・レノンの誕生日。生きていれば67歳になります。 ジョン・レノンは、1940年10月9日、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれた英国・リバプールで誕生しています。出生当時、父親は商船隊員として航海中で不在、母親も他の男性と同棲していたため、叔母夫婦のもとで育てられます。 1946年父親が帰国、父親に引き取られ数週間一緒に暮らすものの、母親がジョンを連れ戻す。しかし母親と暮らす事はできず、再び叔母夫婦のもとに預けられますが、父親もまた行方がわからなくなってしまう。 Imagine all the people living life in peace. (想像してみよう、すべての人が平和な人生を送っている姿を) 2001年9月25日、ニューヨークタイムズに、不思議な広告が載った。白地にただ、一行このメッセージが書かれている。広告主の名もない。 ニューヨークでは、忌まわしい同時テロという大惨事が9月11日にあったばかりで、ニューヨーク市民は、連日連夜、戦争や報復という言葉が行き交うのを目の当たりにしていた。 もちろんこの文句は、ジョン・レノンの名曲「イマジン」の歌詞であり、ニューヨークタイムズ社は、広告主がジョン・レノンの未亡人オノヨーコであることを認めた。すぐにマスコミのインタビューがあったが、ヨーコは「今、伝えたいメッセージは、すべてこの広告の中にある」とだけ語った。 9月11日以降、「イマジン」という歌は、ほとんどの局で放送禁止、あるいは放送自粛となってテレビやラジオで流されていなかった。「イマジン」の歌詞は、平和への希求の歌であり、テロリストに対する報復が、アメリカ国家の全てに優先するとされている時に、水を差すような歌と見なされていたからであろう・・・私たちは、知っています。ジョンの魂を・・・ ジョン・レノンは、永遠に語り継がれるでしょう。それは、ビートルズの一員としてだけでは終わらないでしょう。一人のロックン・ローラーとしてだけでは、終わらないでしょう。早すぎる一生も、語り継がれるでしょう。 ~ジョンの魂~ なぜ、ジョンが「戦争」と「平和」、「憎しみ」と「愛」にこだわったのかを。いま一度「イマジン」の歌詞を、一人ひとりが噛み締めてみようではありませんか。
2007年10月14日
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ドリカム、吉田美和さんの悲報を見ました Wikipediaからです吉田 美和(よしだ みわ、1965年5月6日 - )はDREAMS COME TRUEのヴォーカルを務める北海道中川郡池田町出身のシンガーソングライター。DREAMS COME TRUEの全ての作詞と数多くの作曲を手がけている。 身長162cm。映像ディレクター末田健の内縁の妻。 2003年3月、交際中であった9歳年下の映像ディレクター末田健の離婚が成立、2004年5月に入籍はしない事実婚という形での"結婚"を発表。末田が一児を持つ既婚者であったため注目を集めた。 2007年9月26日、末田が胚細胞腫瘍で逝去。 2004年12月公開の映画「アマレット」を自主制作し、中村正人とともに初の原案・主演を果たす。 公式には認めていないが、FUNK THE PEANUTSのFUN・P2号や、中村正人のラジオの企画で結成したユニット「アンドレ中村とオホーツクボーイズ」の岡リーナの正体が彼女であることは公然の事実。また他のアーティストへ歌詞を提供する際には「観音崎すみれ」のペンネームを使用することがある(「アマレット」における彼女の役名でもある)。朝日の記事によるとDREAMS COME TRUEのボーカル、吉田美和(42)の事実上の夫である映像ディレクター、末田健さんが9月26日、笂(はい)細胞腫瘍(しゅよう)のため死去していたことが9月30日、明らかになった。33歳。ドリカムの所属事務所はマスコミ各社に送ったファクスで「04年5月の結婚以来、お亡くなりになるその日まで、大きな愛情で吉田美和を支え続けてくださいました」と報告した。通夜、告別式はすでに密葬として営まれた。吉田の落ち込みは激しく、毎日泣き続けているという。 吉田と末田さんは04年、籍を入れない事実婚という形で結婚生活を始めた。5月6日の吉田の誕生日に家族らの前で結婚を宣言し、ホームページで「いつかやってくる生涯最後のキスをする日まで、愛する人をもうめっちゃ幸せにします」とファンに報告した。「結婚という形自体にあんまり興味もなく、自分たちのやり方が見つけられればいい」というスタイルだった。 末田さんはSPEEDやモーニング娘。のプロモーションビデオを手掛けた売れっ子ディレクターで、韓国の人気俳優イ・ビョンホンのDVD「L.B.H」は異例の10万セットを記録した。吉田とは01年にプロモーションビデオ撮影で知り合った。当時末田さんには妻子がいたが、吉田のマンションで生活をともにし、その後離婚が成立した。 末田さんは数カ月前から体調を崩し、8月に始まった4年に1度の大規模ツアー「ドリカムワンダーランド」と前後して容体が急変、緊急入院した。吉田は必死に看病しながら、全国7都市13公演を務め上げた。国立競技場でのファイナル公演を終えた3日後の急逝だった。ドリカムの中村正人はHPで「吉田がこのような状況でやり通せたのも『最終公演までどんなことがあってもステージをしっかり務め上げる』という末田監督との約束があったからでした」。ドリカム20周年を記念する吉田のドキュメンタリーを撮り進めていたが、完成を見ることなく亡くなった。 合掌
2007年10月05日
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さて、アイ・チューンのリピート回数ベスト10を続けます 古い曲が多くて、申し訳ありません第5位 Stand By Me 元はベン・キングの1961年の曲ですが、ジョン・レノンのカバー曲で聴いています。あの映画も1986年ですから、もう21年前になります、見ましたよ。ジョンの曲は、1975年の「ロックン・ロール」に入っています。このアルバムは、自作がなくて、チャック・ベリーやリトル・リチャードの曲をカバーしています。第4位 エンドレス・ラブ 永遠のラブソング。1981年同名の映画主題歌は、ダイアナ・ロスとライオネル・リッティーが歌いました。この映画はブルック・シールズ主演ですが、トム・クルーズも出ていました。マライヤ・キャリーとルーサー・バンドロスも歌っていて、甲乙点け難い出来です。第3位 イエスタディ ビートルズの1965年、「ヘルプ」に入っている名曲、ポール・マッカートニーの作品ですね。ジョンが「ガール」を張り合って歌いますが、この2曲など、ビートルズはフォーク・グループだと思いませんか? ご存知のように、カバー曲がギネスブックに認定されるような有名な曲になっています。第2位 Change The World 1996年、ジョン・トラボルタ主演映画「フェノミナン」のサントラの主題歌、エリック・クラプトンが歌った。元々はカントリー・シンガーのウィノナ・ジャッドが歌ったカントリー曲。あっしは、ベイビーフェイスがクラプトンを一緒に歌っている曲を聴いています。これがいい曲なんです。テンポがエキサイティングで、ドライブ感のある曲になっています。第1位 横浜ホンキー・トンク・ブルース 横浜、御当地ソングの極めつけ。エディ藩自身、藤竜也自身、石黒ケイ、原田芳雄、松田優作も歌いました。あっしは宇崎竜童のカバーが好きです。あまり嬉しいので、歌詞を付けちゃいます。ひとり飲む酒 悲しくて 映るグラスはブルースの色例えばティ・ボーンなんて聞きたい夜は 横浜ホンキートンク・ブルースヘミングウェイなんかに かぶれちゃってさフローズンダイキリなんかに 酔いしれてたあんた知らない そんな女 横浜ホンキートンク・ブルース飯を食うならオリジナルジョーズなんて 聞いたふうな事をぬかしてたアマ色の髪のサラって女さ 横浜ホンキートンク・WOMANあなたの影を捜し求めて ひとり彷徨ったこの街角を本牧あたりの昔の話さ 横浜ホンキートンク・ブルース革ジャンはおってホロホロと バーボン片手に千鳥足ニューグランドホテルの 灯りが滲むセンチメンタル ホンキートンク・ブルースひとり飲む酒 わびしくて 映るグラスは過去の色あんた知らない 黄昏の 横浜ホンキートンク・ブルース
2007年09月24日
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あっしが聴く、アイ・チューンのリピート回数ベスト10です 第10位 Every Time You Go Away この曲は、ホール&オーツの大ヒット曲なのですが、あっしが聴いているのはポール・ヤングのカバー曲です。何とも、甘く切ない曲ですが、歌詞は宮沢和史がつくりMISIAが歌う「風のない朝、星のない夜」の元詩のように聴こえます。第9位 Jordan’s River 60年代のフォークソングの中では、ピカイチのグループ、モダン・フォーク・クワルテットの代表曲ですね。MFQのハーモニーは、正統四部合唱ですが、この曲は典型的な四部合唱です。アップテンポの曲ですが、バンジョーとギターの掛け合いも、すごくカッコイイです。第8位 七つの水仙 これも、60年代のフォークソング、ブラザーズ・フォアの代表曲です。B4のコーラスは、二部合唱が基本です。これは叙情的な曲で、甘く切ない求愛ソングです。マイナーから入ってメジャー・コードで終わる、典型的なフォーク曲です。「僕には財産も何も無いけど、君にキスして、七つの水仙をあげる・・・」。第7位 ケンとメリー~愛と風のように 1972年、Buzzの大ヒット曲です。日産スカイライン、四代目ケンメリが出たときのCM曲でした。Buzzは、本当にこの一曲だけでしたが、今でも二人で活動していますよね。高橋幸宏の弟、高橋信之が作った曲です。「見慣れた時計を 部屋に残して 今が通り過ぎて行く前に・・・」第6位 My Home Town 小田和正の名曲。小田さん、還暦の60歳になったんですね。まだまだ、やれそうです。小田さんのマイホームタウンは横浜・金沢文庫です。「できたばかりの根岸線で、君に出会った・・・」。根岸線が磯子まで開通したのが、昭和39年、小田さん17歳です。文庫から、磯子まで出て、磯子から電車に乗って山手駅まで行き、聖光学院へ通ったのでしょう。《第5位から第1位までは別項で》
2007年09月24日
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9月2日の日曜日の午後です 曇り空ですが、薄日がさしたりしています アイTUNEでエリック・クラプトンを聞きながら、時間が流れていきます旧いところでは「レイラ」、「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」、「アイ・シャット・ザ・シェリフ」といった有名な曲は勿論入っています アルバム「ミー・アンド・ミスター・ジョンソン」や「アンプラグト」は、アルバム全曲 ほかに、「チェンジ・ザ・ワールド」は本人版とベイビー・フェイスと一緒に唄っている曲があります ギターは、20世紀を代表する一人だし、ホワイト・ブルースとか、いろいろ音楽については確固たる位置を築いてきたと言われてきたクラプトンですが、すっかり人生は枯れているのではないでしょうか 「レイラ」は、G・ハリソンの妻に恋して、その想いを綴った曲と言われています 別の女性との間に男の子が生まれ、その息子を亡くして、「ティアーズ・イン・ヘブン」が出来たし それは、それは人生ではいろいろ困難に直面し続けた人物ですしかし、音楽はよいですよね! エリック・クラプトンレイラの歌詞ですWhat'll you do when you get lonely with nobody's waiting by your side You've been running and hiding much too long You know it's just your foolish pride Layla, you got me on my knees Layla, i'm begging darlin' please Layla, darling won't you ease my worried mind? I tried to give you consolation Your old man won't let you down Like a fool, I fell in love with you You turned my whole world upside down Let's make the best of the situation Before I finally go insane Please don't say we'll never find a way And tell me all my love's in vain
2007年09月02日
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朝日新聞の「どらく」に松任谷正隆の文章「甘酸っぱいバンジョーの響き」が載っていました。 今回はカレッジフォークの話。「懐かしいねえ」この響き。バイタリスとコッパンとステンレスの櫛(くし)と、そしてフォークギターである。 そうそう、ボタンダウンのシャツを忘れちゃいけない。こんなファッションがもっともおしゃれに見えたのは60年代はじめ。いやなかばだったか・・・。巷(ちまた)にはフーテナニーと呼ばれるコンサートがよく見かけられた。火をつけたのは誰だったんだろう。ブラザースフォアかPPMかそれともキングストントリオか。古い78回転のSP版もかかる電蓄で聴いたブラザースフォアが僕の覚えている限り最初のフォークである。曲はグリーンスリーブス。そんなに良いとは思わなかったけれど、とりあえずクラスメートが貸してくれたので聴いた。そうそう、当時の東芝のレーベルには盤が赤く透き通ったものが多くて、音そのものよりもそっちのほうが印象的だったかもしれない。 レコードを僕に貸した友人は僕とバンドを組むのが目的だった。ギターも持たない僕に白羽の矢を立てるなんて、なんと先見の明のあるやつだったんだろう(!?)・・・。 で、まんまと僕はフォークギターを買いに新宿の帝都無線だったか・・・に走り、ホタカのギターを手に入れた。結構高かった。2万円ちょっとしたと思う。帝都無線に並んでいるホタカのギターの群れの中に何本かホダカというのがあって、つまりTとDの違いがあるのだけれど、それがどういう意味なんだかこの歳になるまでわからずじまいである。誰か知っている人がいたら教えてください。 ギターを手に入れてからは特訓である。指の皮が何度もむけた。むけてむけて硬くなるほどいいといわれて、むきになって何度もむいた。もちろん硬いほうがいいわけなんてわけはないのであるが。そして最初に取り組んだのがブラザースフォア・・・ではなくキングストントリオだった。「ルーベンジェームス号の遭難」だったかな。声変わりしたての声で歌を歌うのは非常に照れくさかったけれど、何度かやっているうちに妙に慣れて、次第に楽しく思えるようになった。当時の価値観で言えば、キングストントリオに似ていれば似ているほど偉(えら)い、というわけで自然にファッションもそっちにシフトしていった。 あのころの1年は今の10年くらいの密度で、だから1年のうちにそれこそいろいろなことが変化していった。レコードを自分で買うようになって、電蓄を叔父に作りかえてもらって、それこそ宝物を磨くようにレコードを磨(みが)いた。それでもスピーカーから「ちりちり」というノイズが聞こえ始めると無性に悲しくなったものである。そんなある日、ビートルズが武道館に来るけど行かないか、と友人に誘われた。ビートルズ・・・。東と西くらい違う格好に傾倒していた僕がビートルズに興味を持つわけもなく、そっけなく断ったのが今になって悔しい。 僕のキングストントリオ熱はどんどん加速をし、バンジョーも手に入れ、ついには先輩をだまくらかしてマーチンのギターを永久貸与させるにいたった。お金持ちの先輩がいたものである。というか、人のいい先輩と言ったらいいのか。週に1度はうちか友人宅で大声で練習をする。ビートルズのコピーバンドだったらそんなに簡単に誰かの家で、とはいくまい。お金もかかる。しかしフォークは親さえ我慢が出来ればどこでも練習が出来たのがメリットだった。 で、僕の記憶ははそこまでだ。そこからはなぜかプロの道を目指した違う音楽生活が始まったからだ。コピーは恥、みたいな妙な意識が生まれ、それがキングストントリオを僕の深い心のおくにしまいこんだ。数年前、アマチュアのイベントにキングストントリオのメンバーの一人であるジョンスチュワートが特別参加するので来ないか、と当時のバンド仲間に誘われ、なぜだかふらふらとついていった。会場に入ると、いい年こいたおっさんたちが恥ずかしいくらいキングストントリオの格好をして恥ずかしいくらい声を真似(まね)て歌っている。次々に出てくるバンドすべてがそうだった。このとき感じた嫌悪感ともつかない不思議な感覚は今でも説明が出来ない。自分が目指していた道の先にはこんな世界もあったのである。危ないところだった、と胸をなでおろした。しばらくアマチュアのバンドが続いた後にジョンスチュワートが出てきた。こんなに年とったのか、と思わず悲しくなった。3-4曲歌ったと記憶しているが、その時間はさすがに僕の時間も止まった。なぜか、と言われても、これまた説明不可能だ。 その後、僕はネットでいろいろと調べ、キングストントリオに関するものをずいぶん買った。DVDもかなりいろいろなものが出ていてびっくりした。そして極めつけは60万円もするバンジョーだ。キングストントリオが、いや、ジョンスチュワートが使っていたという同型のモデルのレプリカ。そんなものを買ってどうする、と自分に言いたい。ポロポロと鳴らしながら昔を思うとき、なんだか甘酸っぱいものがこみ上げてくる。あの時代に戻りたいとは思わないが、ちょっと立ち寄ることが出来るなら立ち寄ってみたいものだ。
2007年05月03日
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今朝、横浜は春の嵐です。せっかくの日曜日、これではどうしようもありません。 そこで、アイ・チューンで音楽を聴いていました。佐野元春はいいですね。「光」をはじめ数曲、聴きなおしましたが、良いです。佐野元春は、6歳年下。ですから、世代としては下の世代です。しかし、佐野元春の評価が低いと思います、なぜでしょう。でも、この人の評価は高まらないほうがいいかもしれません。ひとつ一つの曲が、メッセージ性のある音楽です。独特な世界観を持ったアーティストです。一種、ジョン・レノンに通じる孤高さがあります。日本語でロックを歌って、こんなに違和感がないのは矢沢永吉と佐野元春くらいでしょう・・・ あっしは、佐野元春を支持します
2007年03月25日
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