全14件 (14件中 1-14件目)
1
続けて、横浜のお話です いつも、お世話になっている ヨコハマ経済新聞に こういうコーナーがあります 「横浜を知る・学ぶ・楽しむための本屋さん」ヨコハマ経済新聞編集部のスタッフが、「横浜」に関連するお勧めの本をセレクトしました。約300点のヨコハマ本。amazonからお届けします。新たに「創造都市・まちづくり」「地域情報化・SNS」「セカンドライフ」「観光」についての本のページを追加しました。これが実に、いいですね 街づくりあり、起業あり、もちろん地域情報あり、あっしらセカンドライフあり、観光あり、お勧めグッズあり、映像・音楽あり です ブックスの、All About YOKOHAMA ってところですかね ぜひ、ご覧になってください
2008年11月16日
コメント(1)
秋が深まってきました 日本大通りの木立も、すっかり色づいてきました これからの季節、ヨコハマは 山下公園前の海岸通り 通りの木々が色づき、銀杏並木は黄昏時がイチバンいい です イチョウの落葉を踏みながら、ニューグランド・ホテル前を そぞろ歩くって、どうです ヨコハマの紅葉が美しいのは十一月下旬から十二月上旬になります 外人墓地に、夕陽が沈む頃 山手の静かな通りを、コートの襟を立てて 独りで歩くのもいいよ 二人で歩くのは もっといいかも そして、もう少し時が経ち 早い西日が沈むと イルミネーションに彩られた、雑踏の街角が ことさら、哀愁を感じさせます 夕暮れ時、人待ち顔な人達が 駅から街にあふれています そう、ヨコハマは 秋深い時期が最も似合う季節なのかもしれません いいですよ、ヨコハマの秋 ぜひ、お出かけください《写真は横浜市広報課の横浜壁紙を使わせていただきました》
2008年11月15日
コメント(4)
今夜の横浜は、室内で31度あります 暑いです ところで、 こういう制度があることを、きちんと知りませんでした 横浜の歴史的建造物です奈良や京都と違って、わが横浜はあまり歴史が無い街です ですから、「歴史」といっても 辛うじて、江戸末期からですね 来年が、開港150周年です 故しかし、紹介の前に何ですが・・・ これを見ると、ほとんどが中区ですね 西区があって・・・ 全部で、90か所くらいあるんですかね 結構ありますよね ですけど・・・ 例えば、あっしの住んでいる磯子区は、たったの一か所だけですからね まあ、いっか・・・ってなことで、横浜の歴史的建造物をシリーズ化できそうですかね そんな予感のする、サイトを見つけました 人口が、360万人を超える 日本最大の「市」っていっても 世界にゃ、数倍のドデカイ都市があります まあ、大したことはないです そんな、大都市 ヨコハマの歴史的建造物、です横浜 歴史を生かしたまちづくり 認定歴史的建造物一覧
2008年07月25日
コメント(2)
やはり、横浜では この記事がトップ記事です 今回は、ヨコハマ経済新聞からです◎ゆず生誕の地「横浜松坂屋」が10月に閉店解体-144年の歴史に幕浜松坂屋(横浜市中区伊勢佐木町、TEL 045-261-2121)の持ち株会社のJ・フロントリテイリングは6月24日に開催した取締役会で、144年の歴史を持つ同百貨店を10月26日に閉店することを決定した。閉店の理由は、立地や競合店舗など周辺商環境の変化による業績の低迷に加え、本館建物の老朽化が進んでいること。閉店後は本館建物を解体・撤去し、低層階に商業・サービス機能を備えたマンションがとの複合施設を建設する予定。2000年より日本中央競馬会に賃貸している旧横浜松坂屋西館館(エクセル伊勢佐木)の不動産事業は安定した収益が期待できることから事業を継続する。横浜松坂屋は1864年に前身である野澤屋呉服店として中区弁天通りに創業。その後、1910年に現在の伊勢佐木町に百貨店としてオープンし、長らくイセザキモールの象徴的な商業施設として親しまれてきた。人気デュオ「ゆず」が店の前で路上ライブ活動をしていたことでも知られ、2003年のNHK紅白歌合戦出場の際は、店舗前より生中継を行った。横浜最古の百貨店に相応しい風情あるアールデコ調の建物は、2004年に横浜市が認定する「横浜歴史的建造物」にも選ばれている。1992年には年間売り上げ約300億円を記録したが、近年の横浜駅周辺やみなとみらい地区の開発などが業績低迷に拍車をかけ、百貨店事業は25期連続赤字となり、2008年2月期の売上高は約87億円に落ち込んでいた。百貨店事業終了に伴う損失は、今年8月中間決算で損失引当額を30億円程度、特別損失に計上する予定。同百貨店では「西館の賃貸事業によりトータルでは黒字だったが、百貨店事業の好転は今後望めないため撤退を決めた。今後については横浜市や町内会と協議した上で、一部外観などを残すことなども含め検討する予定」としている。J.フロント リテイリングは、百貨店の大丸と松坂屋を傘下に持つ松坂屋ホールディングスが、株式移転による経営統合で2007年9月3日に設立した持株会社。ゆずのコメントは、朝日から 「自分たちの原点であり、大変寂しく思います。横浜松坂屋さん、長い間本当にお疲れ様でした」実は、今から40年前 学生になった頃のあっしは ここ野澤屋の外商部でアルバイトをしていました 外商部というのは、いわばお得意様係みたいもんで お得意様の家を回っては、お中元や、お歳暮の贈り物の注文を取って歩きます そんな、昔も懐かしい思い出です
2008年06月25日
コメント(0)
横浜松坂屋から、Wikipediaで ご紹介します横浜松坂屋(よこはままつざかや)は、1864年に茂木惣兵衛が横浜市中区弁天通に創業した「野澤屋呉服店」を前身とする。1910年、伊勢佐木町にデパートメントストアとして支店を設立。1921年に「株式会社野澤屋呉服店」となった。 創業時より松坂屋・伊藤家、タキヒヨー・滝家の支援でスタートした。その関係で戦後、1968年に松坂屋と共同配送を開始。商品券の交換など、元来松坂屋とは友好関係を築いていた。 その後、横浜西口の繁栄にともなう伊勢佐木町の地盤沈下で業績は年々低迷。遂にグリーンメーラー(仕手屋)として知られた横井英樹が株式買い占めを行い、乗っ取り騒動となる。 この時松坂屋がホワイトナイトとして防戦買いに協力した結果、松坂屋が筆頭株主となり、1974年に店名を「ノザワ松坂屋」と改称。松坂屋グループに入り、この時伝統の「入り九」マークは外され、松坂屋のいとう丸マークに代わった。 1977年に松屋横浜店の撤退に伴い、これを買収し西館として、社名及び店名を「横浜松坂屋」とした。 2003年に松坂屋の100%子会社となった。 プロ野球・横浜ベイスターズを長年応援し、1998年の日本シリーズ優勝時には大型のクジラの模型が飾られた。また、店頭では異例ともいえる「神奈川新聞」優勝号外の再発行・再配布が行われた。 フォークソングデュオのゆずがアマチュアの無名時代、長年店頭で路上ライブを行っていた。2003年の第54回NHK紅白歌合戦に出場した時は、この横浜松坂屋前より生中継を行った。 2004年建物が横浜市指定の横浜歴史的建造物に認定。しかしその建物の老朽化が著しくなったのに加え、売り上げの減少が続いていたことから、2008年10月26日をもって閉店(百貨店事業の終了)を予定している。その後は、複合施設を建設する予定。JRAエクセル伊勢佐木が入居する西館は営業を継続。さてさて、あっしたちハマっ子にして見れば 伊勢佐木町へ行くのは、街へいくことです あっしが子どもの頃は、「野澤屋」「松屋」という二つのデパートでした 通りの反対側は、不二家と有燐堂という大きな本屋さんです 夏休みの宿題は、有燐堂で必ず買いました ほかに、カメラ屋、メガネや、楽器屋、刀屋やへび屋などなどがあって 伊勢佐木町は、遊園地以上のエンタテイメントでした その中心、松坂屋が閉店 そして解体になるのです ジャガラーさんに教えていただきました ありがとうございます 無くなると思うと、やはり寂しいものですね・・・ (横浜の歴史的建造物は、大正の建物でさえなってしまうところが・・・ 開港149年の街ですから、仕方ないですが)
2008年06月24日
コメント(4)
今年も、この季節になりました 去年も、書きました YBCです ヨコハマズ・ベスト・コレクション2008ですね 記事は、ヨコハマ経済新聞からです横浜タカシマヤ(横浜市西区南幸、TEL 045-311-5111)で5月21日より、横浜市内の29社を集めた展示即売会「ヨコハマズ・ベスト・コレクション フェア」を開催している。同フェアは、横浜の魅力を多くの人に知ってもらおうとさまざまなジャンルから市内26社が参加して活動するグループ「ヨコハマズベストコレクション」の企業商品を集めたもの。今回のフェアでは「ホテルニューグランド」(山下町)、「タカナシ」(旭区)、「アート宝飾」(常盤町)、「フクゾー」(元町)、「キタムラK2」(元町)などの同グループ参加企業のほか、協力企業として「元町香炉庵」など3社が出店している。 会場にはフェアのために特別に用意した霧笛楼の「マンゴ・イチゴタルトフレーズ」(1,470円)や、荒井屋の「はいから弁当」(1,260円)などを販売。そのほか「ヨコハマズ・ベストコレクション」のメンバー企業「飾一」(鶴見区)が開発したエコ新素材の紙「ハマパピルス」を使ったトートバッグやブックカバーも展開している。横浜在住のデザイナーでダンスカンパニー「ニブロール」の矢内原充志さんがデザインしたもので、横浜ならではの斬新な商品として話題を呼びそうだ。会場内のイートインコーナーでは日替わりで特別メニューを用意。イタリアンレストラン「パパダヴィデ」や麻婆豆腐専門店「辣(ラー)」などが参加し、元町の紅茶専門店「サンドグラス」の紅茶とともに提供される。開催時間は10時~20時(最終日は17時まで)。5月26日まで。ちなみに、サイトはこちらです 元町のFUKUZOは今でも健在です いまのヨメも、昔はハマトラでした FUKUZOのピケシャツ着て、巻きスカート穿いていました 今は、すっかり・・・ ハマトラ姿が、懐かしいッス
2008年05月23日
コメント(0)
横浜・元町のことを書いたら、急にいろいろな懐かしさが沸いてきました まず、簡単な元町のご紹介をWikipediaから元町(もとまち、Motomachi)とは、神奈川県横浜市中区にある地名。元町商店街(元町ショッピングストリート)は関東地方では特に有名。横浜中華街は堀川(頭上は首都高速道路)を挟んだ近隣に位置する。横浜の繁華街の一つ。 1859年の横浜開港までは半農半漁の村であったが、横浜開港に伴い、立ち退いた旧横浜村住民が移住、山下町・山手周辺に外国人居留地が、関内にはその居留者の業務地が設けられた。その山下町や山手と関内を結ぶ場所にあった元町通りは、居留者らが日常的に多く行き交うところとなり、外国人を対象に商売が盛んに行われるようになった。明治が始まってしばらく経つ頃には居留者も大分増えて、セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジなどのインターナショナルスクールの開校や、当時は日本には珍しい喫茶店やベーカリー、洋服店などが軒を連ね、文明開化を支えた。これが今の元町商店街の原型である。また横浜家具も伝統がある。 1970年代に、当時流行したファッションスタイル「ニュートラ」に対抗して、「ハマトラ」(横浜トラディショナルの略)というファッションカテゴリが当商店街のキタムラ、ミハマ、フクゾーなどにより創り出された。今も、各店のオリジナルの服・靴・雑貨が全国的な人気を博すおしゃれの発信地。2月と9月のチャーミングセールには多くの人が集まる。ってな具合ですかね 前に書いた、元町プールはともかく 例えば、UNIONってスーパーがあって、外国の食材や物品がそれほど高くなく手に入った UNIONへ行くだけで、何か異国へ来てしまったような錯覚にとらわれた 今のヨメと付き合うようになったのは たしか、ヨメが買い物に行くから付き合って、って一緒にいったのがFUKUZOだった ヨメはハマトラのハシリだった FUKUZOの七分袖シャツ、巻きスカート、ハイソックスに、ミハマの靴、キタムラのバッグって本当に、そんな格好をしていた時期があった その後、センスがだんだん変っていき、大人ウーメン・ファッションになっていく・・・ あっしは男だから、若い頃はPOPPYやスミノ・メンズに出かけていた 食事も、通りを見下ろす二階のレストランが多かったとにかく、ずっと長い間、元町はあっしのすぐ側にある それは、これからもそうだろう
2008年02月10日
コメント(0)
見慣れないタイトルをつけました 伊勢佐木町・若葉町は横浜市中区の代表的な繁華街です 果たして・・・答えは、ブログ「空港の街」をご覧くださいしかし、このあたりに空港があったことは、横浜生活57年のあっしも、ほとんど言うか、何も知りません 僅かに、もう20年近く前になくなった、あっしの親父から、小さい子どもの頃に「このあたりに滑走路があってな・・・ 」って聞かされたことが、うっすら、覚えているような、いない様な
2007年11月24日
コメント(0)
バーリット・セービンのプロフィールから 1953年、米ニューヨーク生まれ。米海軍のフリゲート艦の乗組員として75年に横須賀基地に赴任。その後、日本を紹介する英字誌編集長などを歴任。現在、ジャパンタイムスなどにエッセーを執筆するほか、横浜国立大などの非常勤講師。横浜市中区在住。2004年4月から、朝日新聞に「かながわ見聞録」を連載しています 氏は日本の生活や文化に造詣が深く、実に面白い洞察力で現代の神奈川、横浜を見て、文章に綴っています 既に、連載数は40回に及ぶのではないでしょうか 長い横浜生活、氏のシニカルでユーモアにあふれる見聞録は実に面白いですよ その中から、ジャズ又は音楽に関する部分を、幾つか引用します 《その1》 横浜市中区野毛町1丁目にあるジャズ喫茶「ちぐさ」は、古き良き横浜そのものだ。ジャズというアメリカの音楽をいち早く受け入れ、日本に普及させてきた。ビーバップ演奏家にとってチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーを勉強する場だった。でも私はその古き良さを求めて「ちぐさ」へ行くわけじゃない。店は12人ほどでいっぱいになる。アメリカではこんな小さな店はない。アメリカやオーストラリアの友人を連れていくと驚く。けれど、気に入る。メニューはコーヒー、紅茶、コーラなど。酒はなし、軽食もない。店の狭さの割にスピーカーが巨大だ。レコードメニューには数千枚のアルバムがある。店の人は必ず客にメニューを渡してアルバムを選んでもらう。私が「ちぐさ」へ行くのは、そのスピーカーからとどろくジャズに没頭するためだ。この間行った時、ハービー・ハンコックの「処女航海」というアルバムタイトルを指して、メニューを返した。アルバムがターンテーブルに掛けられたら、ハービー・ハンコックの別のアルバムだった。店の人は私が指したところを見間違えたらしい。しかし、それは「処女航海」よりずっと良かった。恍惚(こうこつ)として聞いた。私が「ちぐさ」へ行くのは、こんな掘り出し物もあるからだ。《その2》 先日、遊覧船に乗って横浜港を回り、海から街を見た。灯(あか)りが美しく街をきらめかせていた。乗客がそれを見て、ため息をついた。 その時、「ブルーライト・ヨコハマ」という歌を思い出した。なぜブルーライトなのか。ハマの夜景は白やオレンジ、赤色が多くて、ブルーは少ない。12月に灯りは増えるが、銀や黄色が多い。今年はクリスマスツリーが20本ぐらいみなとみらい21地区周辺に立っている。しかし、青色は特に増えない。横浜市港湾局に問い合わせた。だが、なぜ「ブルーライト」というか分からなかった。その後、横浜市中区の山下公園通りで「ブルーライト」というバーの看板を見つけた。よく見ると、小さい文字で「あの曲で有名な」と書かれている。ということは、歌が先で、この発見は役に立たない。それで、有隣堂の「歌のよこはま」という本を開いた。「ブルーライト・ヨコハマ」の作詞家橋本淳氏が、山手の丘から見えるハマの灯りを「宝石箱をひっくり返したような透明な」と表現し、「その印象がブルーライトなんです」と説明していた。青い灯りは少ないが、「ブルーライト」は歌詞としてぴったりだし、橋本氏の作詞家としての優れたセンスを表していると思う。試しに「オレンジライト・ヨコハマ」と歌ってみたら......。《その3》 夜10時過ぎ、私はこの原稿を書きながら、ラジオでレイフ・ヴォーン・ウィリアムズの「五つのイギリス民謡」を聞いている。夜遅くまで働くときは、クラシック音楽が励ましてくれる。 放送しているのは、ニューヨーク・タイムズ社のクラシック局であるWQXR(96.3FM)だ。1936年に設立されたこの局は、エンパイア・ステート・ビルのてっぺんからラジオ番組を発信している。アメリカに住んでいたころ、よく聞いた。最近はインターネットで世界中で聞けるようになり、私は、昔なじみの旧友を迎えたような喜びを感じた。私は音楽との出会いも「一期一会」と思っている。この言葉の語源は、茶人の千利休の弟子である山上宗二の「山上宗二記」に出てくる「一期に一度の会」の部分にある。どの茶会でも、人とのめぐり合いは一生に一度と思って、主人も客も誠意を尽くすべきだ、ということのようだ。私は今、アーロン・コープランドの「フルートとピアノのための二重奏曲」を聞き終わった。「もう二度と聞くことはないかもしれない」と思いながら聞くと、より楽しく聞くことができた。 こんな文章書くアメリカ人、どんな人って、思われる方も多いと思いますので写真を付けました
2007年10月27日
コメント(0)
いつものヨコハマ経済新聞に、こんな特集がありました■ブルースが流れる大人の隠れ家的なバー横浜は日本におけるバーの発祥地だけに、横浜市内には500軒以上ものバーが存在するという。そんな横浜のバーに魅了され通いつめたあげく、マスターが脱サラしてオープンしたのが関内のミュージックバー「HAPPY BLUES(ハッピー・ブルース)」。ビジネス街である桜通りに面したビルの2階でひっそりと営業している佇まいは、まさに「隠れ家的」なミュージックバー。扉を開けると、渋いブルースナンバーが流れてくる。HAPPY BLUES(Yahoo!グルメ) 店内で流れる音楽はシカゴブルース中心だが、60~80年代のソウルミュージックやフュージョンなど約1,000タイトル。「音をきちんと聴いてもらいたい」という思いから、JBL-S3800をメインとしたオーディオシステムには特にこだわったという。また、サラリーマン時代のバー通いの経験から、ここだけは譲れなかったというバーカウンターは天然の一枚木。「このバーカウンターは、やり過ぎちゃいましたね(笑)。これじゃなきゃダメだ、と思ったんですが、実際に施工してもらって初めて作業するには狭いことに気がつきました。もう慣れちゃいましたが(笑)」とマスター。もちろん音楽だけでなく、お酒もアメリカンウィスキーが豊富に取り揃えられており、さらに横浜にちなんだ特製カクテルも用意している。 大人の隠れ家的なバーと言えば、住吉町にある「BAR KC(バー・ケーシー)」もそのひとつ。看板はなく、銀色の重厚な扉には十字を模した木製の取っ手--よほど注意しないと見落としてしまいそうだ。カウンター8席しかない小ぢんまりとした店内に鎮座するオーディオシステムは、60年代の名品アルテック社製のプロ用スタジオモニター。そこからは、ケニー・バレルやグラント・グリーン、アルバート・キング、フレディー・キングといった往年のブルースの名曲が流れてくる。 ちなみにこの「KC」、メニューが一切ない。「押しつけがましいのが好きではないので。お客様とのコミュニケーションを大事にしているので、お客様と会話をしながら求めているお酒を考えます。当然、酒や音楽にはこだわっていますが、バーという空間はあくまでも会話を楽しむべきだと考えています」と、マスターの土本京史さんは話す。■古くて新しい音楽「ジャズ」 最近はレゲエやヒップホップに押されているとはいえ、戦後間もない頃に横浜で大流行したジャズは今でもこの街を代表する音楽だ。といっても、ジャズとは決して古臭い音楽ではない。古い世代だけでなく、若い世代もこの音楽に積極的に関わっている。先ごろ閉店した「ちぐさ」と並ぶ老舗ジャズ喫茶「down beat」では、若いアルバイトが店を切り盛りしている。 「大学のジャズ研に所属する学生がボランティアのように働いてくれたりしています。その学生が辞めると、今度はその後輩が来て同じように働いてくれたりと、途切れずに続いていくんですよ」と話すのはオーナーの田中さん。同店で選曲を担当しているアルバイトの前坂香都さんも、ジャズの勉強のために海外留学を目指しているという。このように若いジャズアーティストを支える役割も担っているのが、「down beat」の特徴のひとつでもある。老舗ながら、その伝統は確実に若い世代に受け継がれている。前坂さんのようなアルバイトスタッフや、同店でコーヒー1杯だけで閉店まで粘る若者が何年か後に横浜のジャズシーンを支えているということもあるかもしれない。ダウンビート 50~60年代のオールディーズのライブをいつも聴くことができるのが「HARMONIZE YOKOHAMA(ハーモナイズ・ヨコハマ)」。「寺内タケシとブルージーンズ」のメインボーカルとしても活躍していた根来ジョージさんを筆頭に地元で活躍するアーティストたち。 HARMONIZE YOKOHAMA そんなライブを楽しみに集まるのは、30代後半のサラリーマンやOLが中心。店長の須山諭店さんは「仕事帰りに寄って、ココでライブを聴いて明日も頑張ろうという気分になってもらえたら嬉しいですね」と話す。ちなみに同店はライブの生演奏も含めて貸し切りが可能なので、お気に入りのアーティストを独り占め、なんて贅沢な楽しみ方や自分のバンドのお披露目パーティーをここで、なんて使い方もできる。 ■この街は「第二の音楽のふるさと」滝ともはるというシンガーソングライターを憶えているだろうか。1980年にアリス解散直後の堀内孝雄とのデュエット曲「南回帰線」でデビュー、ビールのテレビCM曲として取り上げられ大ヒットを記録した。その後、音楽から一時離れるが、現在は独自の音楽活動を続ける傍ら関内にあるバー「Paradise Café(パラダイスカフェ)」のオーナーでもある。Paradise Café 81年に音楽業界からいったん身を引いた滝さんだったが、88年にシンガーソングライターとしての活動を横浜で再開する。横浜のさまざまなバーなどでライブ活動を行ってきており、「横浜は第二の音楽のふるさと」と話すように横浜への思い入れは深い。現在、自身が経営する「Paradise Cafe」の店名も、かつてライブを行った住吉町の同名のバー(現在は閉店)を偲んでつけられたものだ。 「40歳半ばを過ぎて、ずっと歌い続けられる場所が欲しいって思ったんですよ。それで自分のお店を持つことになったんですね」と、「Paradise Cafe」開店の経緯を話す。音楽活動と並行してバーを経営するのには、デビュー曲で大ヒットを飛ばし一躍脚光を浴びた当時の反省でもあるという。「私は大分県の出身なのですが、当時は地元を大切にしていなかったな、という思いがあります。地元の人たちは私が売れていても売れていなくても、そんなことに関係なく支えてくれます。以前は、そうした地元の人たちの応援を大事にしていなかった。音楽が似合う街、ヨコハマ--。様々な人たちが様々な思いで、様々な音楽に関わっている。「横浜に3日住めばハマっ子」という言葉があるが、音楽もジャズやロック、ソウルだけでなく、今回紹介したラテンやブルース、オールディーズ、ハウスミュージックだって、この街で流れれば「いつもの横浜の音楽」だ。そんな街に流れる音楽に耳を傾けてみよう。うーむ、心に響くフレーズです 「音楽が似合う街、ヨコハマ」・・・
2007年10月20日
コメント(0)
10月7日、いい天気にも恵まれ、第二日を迎えた横濱ジャズ・プロムナードへヨメと二人で出かけました 地下鉄関内駅でおり、関内ホールへ向います 関内ホール前では、ちょうど明治学院大学ジャズ研究所の連中が演奏していました関内ホール大ホールでは、猪俣猛ジャズテットのステージでした ドラムスの猪俣をリーダーに若手を加えた六人構成 ここではヴァイブラフォンの浜田均、トランペットの羽毛田耕士、ピアノの遠藤征志が目立っていました 小一時間の演奏が終わると、すぐ移動です 歩いて数分のビルの二階に、ジャズホール、ジャズ・メン・クラブがあります ここでは、PORT ZAZZ TRIOプラス、ヴォーカル星乃ケイが演奏を始めたところでした 実は、演奏フォトが少ないのですが、写真厳禁です ここでは、失礼して一枚だけ・・・ このトリオですが、ベースは折原由季子、女性です チャージでビールを一杯、いただきました(これ以降、飲みっぱなし・・・)移動して、Bar Bar Barへ ここでは、平松加奈カルテットを見ました ヴァイオリンの平松に、ピアノ・パーカッション・ギターが加わります しかし、女性プレイヤーが増えていますね ここでも、ハウス・ワインを一杯・・・ 店を出て、タクシーに乗り、赤レンガ倉庫へ移動します 三連休の中日、横浜の中心部は混んでいます でも、何とか赤レンガ倉庫へ到着 見てください、この人だかり オクトーバー・フェストと重なり、スゴイ人出です フェストは、ビール買うのに、延々並ぶのですここで、友人達四人と合流、以降六人で行動します 赤レンガ倉庫1号館3階ホール 暫く待って、五時半から、クリスチャン・ジェイコブ・トリオのステージです フランス人、ジィコブは日本でほとんど知られていません しかし、三人とも素晴らしい演奏です ベースのトレイ・ヘンリー、ドラムスのレイ・ブリンカー、それぞれにクラシックを基礎にしているのでしょうか 独特なジャズです 立ち見が客席の3倍くらいいました 同じく、赤レンガ倉庫前の様子です ここから歩いて、みなとみらいホールまで行きます ホールでは、午後7時20分から、宮間利之とニューハードのステージです さすがに人の入りは多くありませんでしたが、旧き良きジャズです このビッグバンドは1958年から、宮間さんは83歳だそうです 最初の挨拶と、最後の曲名指揮をしていましたが、途中は抜けていましたランドマーク・プラザから地下鉄に乗って、中華街へ移動します みなとみらい駅へ下りていくエレベーターですそして、中華街はジャズバー「491HOUSE」へ行きました ここでは志村洋一トリオのライブです ベースが志村、ピアノは宮野寛子、ドラムス公手徳太郎です この店は、初めて入りました なかなかいい店です、また来ましょう腹が減ったので、中華街へ繰り出しました 紅花って店で、何とか中華料理にありつけました 夜もとっぷり暮れた中華街です 延平門をくぐって石川町駅へ向います 夜十一時過ぎのJR石川町駅ホームです この日、ジャズ・プロのほかにオクトーバー・フェス、さらにモー娘のコンサート、大相撲横浜場所もあったそうです それぞれに、皆様、お疲れ様 あっしもツカレました でも、横浜の街にジャズ とっても似合います
2007年10月08日
コメント(1)
横浜市のホームページから、こんな記事を見つけました 8月の最高気温は、2003年以降毎年、平年値を超えており、なかでも今年は、この5年の中では最も高い最高気温を記録しています。しかし、横浜の観測史上最も気温が高かったのは1962年8月4日の37.0度で、今年8月の最高気温は史上最高気温10位にも入っていないのです。 ちなみに2位は2001年7月24日の36.9度、3位は2004年7月21日と1953年8月21日の36.5度。今年より暑い日が近年にもあったのですね。 最高気温が25度以上であった日数は、2005年以降3年連続で31日、つまり毎日。30度以上であった日も26日ですから、週に6日は真夏日以上だったことになります。 今年新設された猛暑日(最高気温が35度以上)も3日あり、今年の8月は、特別暑い日が時折ある、というのではなく、連日かなり暑い日が続いた8月だったといえるでしょう。 また、最低気温が25度以上の日が21日もあり、月のうち少なくとも3分の2は熱帯夜であったことも、暑く感じた理由のひとつではないでしょうか。 少し救いだったのは、湿度が平年に比べ低いことです。湿度に関しては、この5年の8月の数値を見ると低下傾向にあるようです。また、8月の降水量が26.0mm(平年148.3mm)と少なかった割には、渇水の心配もなかったことも幸いでした。 一方で、熱中症の患者数(横浜市・8月)は、324人にも上りました。これは近年最も多かった2005年度(5月~9月)の患者数 253人を、8月のひと月だけで71人も超えています。 そこで、結論。今年の8月は、やはり本当に暑かった。
2007年09月10日
コメント(0)
前回に続いて、「懐かしい 横浜の写真」を続けます。写真は、横浜市の横浜壁紙から拝借しています。今回は、1961年の横浜です。 お解かりになりますか。手前が山下埠頭で、右側が大桟橋から現在の赤レンガ倉庫方面へ続くあたりです。中央の下側が、山下公園、海岸通で、マリンタワーが工事中のようです。氷川丸は見当たりません(実は、この年、マリンタワーが開業し、氷川丸が係留されています)。中央に市庁舎が見えますが、関内のあたりに、高いビルはほとんどありません。それどころか、こんなに空き地があったのかと、驚かされます。左側の川は中村川で、現在は首都高速道路が通っています。この中村川と中央左上から右下に流れる大岡川、この二つの川に挟まれたデルタ地帯、これが横浜の中心部になります。ここは、かって海、入り江であったのですが、江戸時代に吉田勘兵衛さんという人が埋立て事業を行い、吉田新田としたデルタ地帯であります。写真の上のほうは、南区から港南区や保土ヶ谷区あたりが映っています。しかし、46年前の横浜です。今の横浜を知る人たちには、この写真、どこの街って、きっとオドロキでしょう・・・明日の朝から、旅に出ます。名古屋から松本を回って、下部温泉で泊まってくる予定です。帰ったら、報告します・・・
2007年05月11日
コメント(0)
この写真は、横浜市の横浜壁紙から拝借しています。キャプションは、1966年頃撮影。夕照橋。金沢八景「野島夕照」から名づけられました。画面奥に写る小高い山に見えるのが野島山。 あっしは、1949年生まれですから、このとき16・7歳。高校生の頃の写真です。この頃、歩いてあるいは自転車で、この橋を幾度も渡りました。野島は、小さい頃からのあっしの遊び場でした。釣りしたり、泳いだり、野球をしたり、野島山から夕陽を眺め続けたり、青春の思い出は尽きません。ハッキリ言って、懐かしい写真です。 夕照橋は、京浜急行「追浜」駅側から野島という島へ通じる橋です。右側に映っているバスは京浜急行バスです。追浜から金沢八景駅へ運行されていました。この橋は、架け替えられて、新しくなった頃の風景であるはずです。 本当は、41年後、つまり現在の写真を並べるとよいのでしょうが。さほど、変わっていないかも知れません。野島は、そういう場所なのです。そうですよね、ご近所のみなさま・・・ ってんで、昔の金沢八景。幕末の浮世絵師 歌川広重が描いた「野島夕照」を貼り付けてみました。説明は「海をへだてて房総を望む景勝地野島の漁村の夕なぎの情景 静まり返った海辺を屋形舟がすべるように出て行き、時がゆっくり流れていく」実は、この近くに市境があって、追浜は横須賀市になります。横浜の最南端に位置する、金沢区の野島。横浜のおすすめスポットです。
2007年05月09日
コメント(6)
全14件 (14件中 1-14件目)
1