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造船時代その1
写真は後から追加です
造船所時代の日記(1)です
3軸コンテナ船えるべ丸の海上公試時雄姿
入社試験と面接を本社で受けた。当たり前と言えば当たり前だが、妙に緊張したのを覚えている。
試験の中で、1問海底に着底した船を引き上げるために要する力を出せという問題があった。全く分からない。その部分は殆ど白紙に近かった。でも通った。こうして全国の精鋭(?)が集まった。100人を少し割っていたがいずれ劣らぬ秀才に見えて、卑屈になったものだ。
すぐに田舎の造船所の、船殻設計課に配属された。私は、現場を希望したが何故か設計に配属となってしまった。俗に言う、出世なら、親分子分の現場が良さそうだったが、学問的(知的)興奮を得るには設計が良かった。入社後、オリエンテーションなるものを約1ヶ月間受けたが、講師の中には、あまり適役でない人もいて、お座なりになったところもあったが、全てが初めて接することなので興味深く聴いた。
やがて、在社中管理される個人番号が知らされた。個人番号は67029であり、之は入社年度と、成績順を示すのだと専ら噂し合った。
まあ上から1/3ぐらいかと勝手に思ったものだが、真偽のほどは知らない。
設計に配属され、最初に設計しろと言われたのが、貨物船の「クレーン台」だった。強度と、撓みの2点が設計のポイントだった。
前例を参考にしながら、設計の気分を味わって、終わって上司に出すと、上司は、「この円筒は何処で買うのかね」と言われる。確かに円筒にシーム(溶接線がない)、そんなあれやこれやを指摘され、無事第一作は出図出来た。
当時各船に対して、担当なるものがいて、全体を把握していた、課長補佐の前段階である。最初にかかわった船で、担当がどれほど改正図をチェックしたか、又その内のどれだけを私が書いたかは余り覚えていない。まずは船のアクセサリー的なところから始めさせられた。
2作目は、貨物船のハッチコーミングで、ハッチカバーとの取り合いや、重量を受ける部分であり、しっかりと締めなければ船倉内に海水が入るので、強固に留めなければならない。そのため色々な部材が付いている。結局私が設計した図面はフレーム番号(基準位置)だけが残るだけの無惨な姿で返された。
只、その時、設計者のサイン欄だけは誰も直さないので、芸能人気取りのサインをいろいろ考えた。せめてもの気晴らしであった。
同時入社の友人は、自分のサインを一番下のStaff欄でなく課長補佐(Assistant Chief)の欄にして、当の課長補佐から、一寸ここは遠慮してくれないかと言われたとか。友人は、当然課長を補佐しているのだから、課長補佐の欄で良いと思ったのだそうだ。
翌月曜日(具体的な日にちは当然分からない)にYYに電話した。出来れば週末に会いたいと思った。入社してまだなんとなく異国にいる感じで、急にYYが懐かしく思えたからだ。
よくデートした、四条河原町の駅近くで待ち合わせることになった。私は、愛車のベレットで出かけた。
何か変化がある時や、傷心の時必ず現れるのはYYの影だったが、このときは夢がうつつに変わった。
仕事では、S1356アルミ高速艇の話が持ち上がってきた。今まで、鋼を相手にしてきただけに、一から勉強のし直しだ。アルミは軽い。鋼の1/3の比重だ。それを成型して船体に使い、より軽く、高速な船を造るという要求だ。我々は工作部主導のブロック分割会議に臨んだ。又、アルミ製の漁業取締船の話しもあった。
千葉では、LNGタンクをアルミで作っているので、アルミに精通した人間がいる。みんな新しいことに取り組んだ。その間に上級職が集まる蒼年会(112会)が有った。
そうこうする内、土曜が来た。朝早く、愛車ベレットで京都へ向かった。YYは約束の10:00に阪急河原町駅前で待っていた。車で行くことを伝えていなかったので、地下のホームで待っていた。YYを乗せ、京都嵐山のドライブウェーを走った。途中、船下りで有名な、保津峡の見える高台で、景色を見ながら話した。
19:00頃までドライブしたり、食事をしたりして、懐かしかったし、楽しかった。胸も騒いだ。しばらく会わなかったYYはいっそう綺麗になっていた。出来れば奪って帰りたかった。
しかし、結局話のポイントが絞れぬ侭、あっというまに、別れの時間になった。
なにやら腑に落ちぬまま、玉野に着いたのは10時を過ぎていた。
それが我々の最後のチャンスだった。
明日のツーリングを考え、いざ寝ようとした23:00頃、電話が鳴った。明日のツーリングの件かと早速電話を取ったら、さっき別れたばかりのYYの声。「今日は、楽しかった。どうもありがとう」「それだけ!?」「えぇ、そう。本当に楽しかったわ」短い会話だった。未だに意味が分からない。それを機に結婚したのだろうか。そんなはずはない、もっと前に結婚を決めていたはずだ。その日の出来事を反芻したが、それ以上は、睡魔に勝てなかった。
ようやく社会人1年生が身に付いてきた。「Think big start small」である。
入社二年目で、「おーすとらりあ丸」の機関室の設計を受け持った。MOL(大阪商船三井船舶)殿ご発注の精鋭の2軸コンテナ船だ。今も私の背後の壁で、洋上旋回状態を見せてくれている。(写真がそれだ)OCLの機関室構造も立て続けに設計した。その間にはやはりMOLの貨物船などの修繕船の図面も手掛けた。そして三年、フレッシュマンとして又ソフォモアとして過ごした期間は、それなりに新鮮で楽しいものだった。当時のIS部長(後の社長でとても威厳があった)、TY課長、KE課長補佐(以下A/Cと言う)、SK担当(のち常務→監査役)がおられた。私は、前に紹介したように、そのSK担当に教育を受けた。とても優しい人で、頭は切れるし、憧れの人であった。この人に「ホルツアー法」による振動計算をストドラ方程式を用いて計算機で(FORTRAN)処理するプログラム作成の指導を受けた。行列式の計算機化や、色々な手法を学んだ。とても得難い人だと思っている。TY課長は、後に常務をされ、今はリタイヤされている。KE課長補佐は、理事のあと転出されそのままISNエンジニアリングの専務になられた後リタイヤされている。(そのころから造船の雲行きが怪しく、IS社長も短命だった)
TY課長は、とてもゴルフを良くし、ハンディはシングルであった。サウスポーで、右手の人指しにはこれでもかと言うほど大きなゴルフ蛸が出来ていた。女房は之を喜ぶんだ。と数少ない冗談を言われたことを聞いたことがある。KE A/C(当時A/Cは偉かった)は東大出の切れ者で、剃刀のような所があり、SK 正宗に対しKE 村正と言った感じであった。今は亡き九大の先生と、振動問題で、色々論文を書かれていた。少し近寄りがたかった。SKさんの下、少し離れて、N.Kさん、K.K、Y.N、M.S、それと私だった。一年遅れて九大から修士で入ったYYuさん(振動問題をを得意とした)がいた。
N.Kさんは、私が、風邪を引いて寮の部屋で、横になっているとき、バスケットをやらないかと声を掛けてくれた。以後、暫く一緒にプレーをした。
私心のない非常に優しく、良い人だった。
一方、K.Kは、私を、部長にさせないプロジェクトの下手人であり、現在も許すことは出来ない。黒幕は現造船学会理事のH.K、更に共謀者というか実行責任者としてのT.A、更に現津山高専へ転出したM.W.がいた。M.WとK.K(之などは、私宛の年賀状に当てつけがましく九年間の造船設計部長の責を終え云々・・・と書いてきおった、恥知らずである。・・この四人組については、又触れるかも知れないが、絶対に許すことが出来ない面々だ。人一人の人生のチャンスを完全に奪ったからだ。現在のT.Aと、K.Kは、老いぼれた様子であり、後は黒幕の末路を見届けなければならない。
3年目(1969年)も前年の仕事を引っ張っていた。
仕事にも慣れた私は、同期生と一緒に寮から歩いて10分ほどの飲み屋に通いだした。
飲み屋に通いだしたが、元来余りそういうところへ行ったことがない。もともとシティボーイではないのだ。ところが良くしたもので、同期には、三田の色魔慶応、とか都の西北の早稲田とかの仲間がいて、適当に案内してくれる。金は割り勘だが付いていけばいい。宇野駅前の大通り?の築港銀座に(銀座は何処でもある)面した棟割り長屋的な2階にその店はあった。
そこは3姉妹が経営している店だが、長女は、男勝りというか、何とも男のような太い声の女性だった。末の妹は、まだ幼い感じだった
真ん中の女性は少し雰囲気が違ったが、後で、本当の姉妹でないことを聞き納得した。
友人達と何回か、通い、他愛のない話をして、時間と金を使った。
私は当時純粋で、何しろ、工学部時代、東野田の校舎(京橋近く)と千里山の家を往復するばかりで、女性に関してはとんと縁がなかった。
YYには振られたばかりでもあったので心に空隙があった。YYや、登麗君(テレサテン)が言うように、「他に素敵な人がいるから」との言葉を確かめていたのかも知れない。
仕事に追われている時には憂さを忘れ、何となく娑婆っ気を感じるひとときであった。
****
そうこうする内に3年が過ぎた。
相前後するが、入社2年目で、結婚した。YYに振られ、やり場無くさまよっていたが、腹いせにか、ほぼ自暴自棄的な結婚だったかも知れない。
バスケットボールでは川崎製鉄に快勝、中国大会に進出した。中国大会の壁は厚く、IHI呉、協和発酵には全く歯が立たなかった。
同期入社の友人と、津和野秋芳洞をドライブ旅行した。とにかく行き当たりばったりで、旅館などは予約無し、初日は、何処かの校庭(朝起きたらそうだった)で夜を明かし、2日目は、モーテルに車を入れた途端電気を消され、結局野宿に近いことになった。帰りには、相手に運転させたいために「お前の運転は巧い、安心していられる」などと、お互いを誉めあい、何とかして運転させ、その間に休息を取ろうとの作戦をお互いに考えていた。その彼は元の会社で今理事を勤めているという。
「部長になれなかった男」としては、複雑な気持ちである。
又その年は多くの社外委員会に出席したが、ベースロードとしての2軸船のコンテナ船「おーすとらりあ丸」の設計を忘れることが出来ない。船は通常1軸船だが、「おーすとらりあ丸」は船体の左右対称にプロペラを持つ快速コンテナ船である。その、機関室の横断面図のキープランを設計した。更に舵とスターンフレームも設計した。初めての2軸船でもある快速コンテナ船のコンテナを載せる以外の重要な部分にタッチしたことになる。少なからず興奮を覚えた。
その間大阪商船三井船舶の修繕船も手がけ、「切られの与三郎」のようになった、クラック(損傷傷)だらけの船のリニューアルにも関係した。未だそのころは、大阪商船三井船舶は、同系列の友好関係であり上得意であった。それがやがて見切りを付けられて、凋落するだが。
「おーすとらりあ丸」の姉妹船である「にゅーじゃーじ丸」は今も壁にパネルとしてこちらを見ている。
船速は忘れたが、後に述べる3軸船よりはやや遅かったのは当然である。ちなみに、親父が関係した戦艦大和は平賀譲が設計した4軸船で、大艦巨砲主義の終演を無念にも飾った、名鑑である。
私は、造船に入って良かったと思い始めた頃である。
親友であるTNaの結婚式があった。日記によると5月30日。当時を振り返る写真は無くなったので手元にはない。記憶では、教会(中島牧師)でのクリスチャンの様式だった。バージンロードを歩く二人は横の席で見ていると、ハンサム且つ美形で、新婦はウェディングドレスがよく似合っていた。彼の妻であるANaさんは後にYNa(女性)さんをもうけるが、一時鬱的状態になられたとか。彼も少し悩んだようであるが、一過性のものであり、私がTNaに電話する時は、快活な声で迎えてくれた。(彼はE-mailが出来ない。--注今は出来る。典型的な偉い人タイプになっている。勧めても余り必要性がないからと、本気にならなかったようだ)
ANaさんが、学生の頃からクリスチャンであったので、教会挙式となったが、仏教徒だったTNaは、彼女に誘われるまま改宗しクリスチャンネームを頂いたそうだ。だからといって、世の中変わるわけではないが婦唱夫随で、私に比べれば、安定した生活を送っていた。
その時の牧師(MNa)さんは彼女の知人であった。紹介された牧師さんは子沢山で、5人はいたと思うけれど、神の摂理に忠実に生きておられる様が、その点からも伺い知れる。普通、クリスチャンは知らないけれど学会の人は年賀状とか、初詣などは行かず、それぞれの信条で、「アーメン」を唱えたり「南無妙法連華経」を押し頂いたりすると聞いている。その点MNa牧師は少し違ったニュアンスで、庶民に溶け込んでおられるようだ。一介の牧師で終わるとのお気持ちのようで、ヒエラルキーをどうのこうのとは、無縁で過ごされて居るみたいだ。私の場合は無宗教で、それこそ困ったときの神頼みを地でいっている。「鬱病」で困った、死んでしまいたいと思ったときでも、決して洗礼を受けることも学会に入会する事もしなかった。「後で出てくるかも知れないが「学会」へは2人の人から誘われたがきっぱりと断った。聖書は買ったが、洗礼は受けなかった。
それでも、旧約聖書の「創世記」などは好きである。天孫光臨の「古事記」「日本書紀」などと通じることが多い。でも彼は「南無阿弥陀仏」がルーツなのである。親鸞聖人が「悪人なおもて往生とぐ、いわんや善人おや」といっている。しかしながら宗教には余り関心がないのが真実だ。毛利さんの言を借りるまでもなく「地球は青く」、宇宙から見ると国境線など書かれていないのである。
1971年の正月は元旦に、父母、姉達と上賀茂神社に参拝した。3日には、又京都の円通寺に行った。YYとの思い出の場所でもある。遠くに比叡山を頂く借景庭園は、何時来ても心落ち着くものがある。昨年から今年に掛けて、友人知人の結婚式が次から次とあった。各種委員会、講演会、バスケットボール、麻雀etc.とにかく、花であったろう年である。
仕事では、3軸のコンテナ船の設計に掛かり、再びスターンフレーム(船尾骨材)、舵の辺りを設計した。
完成したえるべ丸船尾(これで30ノットだ!)
懐かしく、今思い返しても涙の出るような作品だった。
話は飛ぶが、その(後えるべ丸と称す)海上公式試運転(公試という)では、舳先の策を通す孔に顔を覗かせると強烈な風が来た。海上で30ノットとは陸上ほぼ60km/hであるが、障害物がないだけに迫力があった。
あぁ、戦艦大和(二代目)、出航の折りは、全速で走ったのだろうか?外国との軋轢で、政策的に27.3ノットで抑えられた大和は、人身御供的に且つ大和ホテルと渾名され、遂にレイテの沖に到達前に米空軍の容赦ない攻撃に敢えなく海の藻屑と化してしまったのだ。無念であったろうし、玉音放送を聞いた親父が、がっくり肩を落としたのは、大和に掛けた青春が、2度と帰ってこない海の底に横たわっているという複雑な気持ちがあったからではなかったか。
憧れの戦艦大和(このデッキに親父の速射砲が・・)
「えるべ丸」は3軸ながら、それよりも速く走ったことになる。今は、「TSL:テクノスーパーライナー」とかが80km/hの正に高速カーゴーが実用化の目処が立ったようだ。物を作ることは楽しく、正に「重厚長大」の時代に育ったものとしては、後の「軽薄短小」はなかなか馴染めず、人の褌で相撲を取る、銀行などは、毛嫌いしたものだった。ところが現実には彼らの方が高給をはみ、潰れると言っては税金を投入し、形ばかりの構造改革(リストラで)の裏で、舌を出しているのが手に取るようである。現在のインフラ「IT」なども結局「情報」であり物ではないのだ。唐津一や牧野昇更に飯田庸太郎などが言っているように、製造業は不滅であるべきなのだ。
その後渋川海岸で海水浴を楽しんだり、豊島(今不法投棄で全国的に有名になってしまった)に潮干狩りに行き大量で帰ってきたり。そう言えば入社早々舟釣りをして、今では貴重なメバルをしこたま釣り上げ、昼食にしたことがあった。
豊穀山丸(ばら積貨物船:Bulk carrier)を自動車運搬船に改造したのもこの年である。
ばら積貨物船を、自動車運搬船にするのは、やはり容易ではなく随分苦労をしたものだ。
そう言えば課長への昇格試験は、1年遅れでこの年に受けた。何故1年遅れたのか皆目見当が付かない。駄目兆候はこの時からあったのかも知れない。
3軸のえるべ丸の進水式では浸水時その排斥した海水で船台がかぶるように津波のように寄せ海水を残し、静かに瀬戸内海の洋上へ滑り降りていった。玉野造船所のすぐ前は、三菱金属の直島精錬所があり、進水でやりっ放しをしていると、この島にぶつかってしまう。ブレーキ代わりに、片弦に積んでいた係船用の鎖を海中に投棄し船の方向を転換しながら、行き脚を止めるのが常だった。工作部の連中が、苦労する場面である。船は多くの盤木で支えられ、トリガーで滑り落ちるのを止めている。船主の奥さんなどがシャンペンを割ると同時に係員がそのトリガーを外し、滑り出す仕組みだ。又冬場などで、船台に塗ったラードが固まりすぎると、滑らぬ恐れがあり、之も心配の種である。こうして滑り出すと船尾が浮揚する段階で、船首部に非常に大きな力が掛かる。リフトバイスターンだ。之に対応すべく我々は構造の補強を行うのだ。
進水後、船内に潜って、船尾浮揚時に船首部に巨大な力が掛かり、損傷をしていないか、一応チェックに入る。計算通り、何事もない。もっとも何かあると大変なのだが、理論の正しいことを、密かに喜ぶ、技術者の快感である。こうして1972年は終わりを遂げた。
私たち仲間は、バージンズという結社を作り、野球のユニホームを作ったり、玉野弁(なーじゃー族)と標準語の辞書を作ったり、奥津温泉に旅行(ドライブして入湯する)などの活動を行った。
玉野では、「傘に入っていきませんか」は「乗っていかん?」です。之を若い女性から聞くと、「え!乗せてくれるのか」と一度は驚くのです。又、玉野弁は日本一汚い言葉としても有名で、「あのなぁ、うち、昨日天満屋へ行ったんじゃぁ、でーれー、えーもん見つけたんじゃ、欲しゅうなったけど、お金がのおて・・・。」と20才そこそこの可愛い娘が話をするのを聞くと、少し寒気がするのは、私一人ではなかった。
「なーじゃー族」(あのなぁ・・・、・・・したんじゃぁ、等という故)に囲まれて、生涯において一番多感で、可能性を秘めた時期を岡山は玉野で過ごした。
今は没交渉の我が2世はこの年誕生した。生まれるとすぐに全国青年祭(バスケットボール)の試合で、東京へ行ったのは前に書いたが、周囲の予想を裏切って、なんと全国大会優勝(優勝戦の相手は、秋田の雄物川役場)してしまった。この時私は選手としてではなく、監督として参加、ベンチでは、的確なアドバイスと共に最後は「ここが正念場だ。ここを乗り切るんだ」と何度も言ったらしい。語り草になっている。(正念場監督として)
凱旋したらげんきんな物で、出るまでは歯牙にも掛けなかった、県の連中が、下へも置かぬもてなし振りに、「之が現実か、何事も勝てば官軍だなぁ」と思った次第。全国大会規模での優勝はそれが最初で最後ある。
この年、印パ戦争があり、パキスタンの全面降伏で終わった。
少し早かったが、バージンズは、奥津に繰り出し、盛大に忘年会を行った。その後、次の船の設計を応援するため年末まで東京に出張した。この出張は、年を挟んで、1972年1月一杯続いた。
1972年正月は一時帰省だった。そして休み明けの5日、寝台列車瀬戸号で、再び上京した。性能との検討会などが、本社で行われた、社内の構造連絡会議などを交えて、1月末に、玉野に帰った。その時の東京の長は、TYoさんと言って、かの有名なMYoの子息であった。
彼も後に私を部長昇格試験を受けさせなかった一人になる。
2月にはいると、札幌オリンピックで日の丸飛行隊「笠谷、今野、青地」が金銀銅を独占沸き返った。
会社では人も入れ替わった。入ってくる人の歓迎会は良いが、去っていく人の歓送会は、何時も同時に行われ、何とも感情的にしっくりしないものがあった。ニクソンの訪中、又日米共同声明など、およそ政治に疎いものは、世の中に取り残されて、只ひたすらに図面と向き合い、間違いの無いようにと、細心のチェックをしていた。バスケットボール部の活動も、重い腰をやっと上げて、開始し始めた。その間S909(B/C)の進水式、奈良のお水取りの日のハイキング、そして、かの3軸船「えるべ丸」の公式試運転が土佐沖で行われるのに同乗した。5日に及ぶ乗船では、只ひたすらに振動が出ないことを祈った。単軸船でも難しい解析を3軸船ではどうしたものか、半分神頼みである。
船の起振源はプロペラとエンジンで回転数がほぼ100回/分なので、プロペラのからは(ブレードフリクエンシーという)翼数(例えば5翼)を掛けると500cpmが起振振動数であり、エンジンは12気筒とすると掛けて12×100=1200cpmが起振振動数となる。共振を避けるためには、この数値を避けるのだが船体が決まってしまうと、ほぼどうしようもなく、最悪のケースではプロペラの翼数を変えたこともあったらしい。幸い「えるべ丸」は共振することなく、振動許容値の国際ガイドラインを通過した。
船の保証項目は基本的に、
1.スピード 2.裁荷重量の2項目である。マイルポストでの往復で、仕様通りスピードが出るか否かは、性能屋さんを初め、お偉方が尤も注目するところで、スピードが出たとなると、乾杯となる訳である。こうして、その後のS924公試、関西構造委員会、機関室小委員会などをこなして、冬に終わりを告げる。
4月に入って新入生が入ったと聞く。特に感慨も無し。ところが、首の左にピンポン玉の膨らみが・・・、あわやガンかと思い、病院へ行く。良性の脂肪腫とのことで、切開手術。局部麻酔で、執刀医に「先生縫うとき、ガーゼなんか忘れないでくださいね」とか何とか恐怖心を振り払うように戯れ言を言うと、少しむっとされた。
月半ばに、今度は陸の王者(色魔):都の西北だったかも知れない、主催のラリー大会があった。ドライバーと、ナビゲーター、それにカリキュレーター3人で、ポイント、ポイントを通過して、タイムを競う。最初、後部座席で、計算していた男が、下を向いていた為に、気分が悪くなり、往生したことを覚えている、結局カリキュレーターの計算ミスで、減点5の6位に留まった。結構、知的で、面白いスポーツであった。
S933の進水式、特別のことがない限り最近の進水式は、船主も来ないし、セレモニーもないので関係者以外は参加しない。ブラスバンドが、設計本館前の道を船台まで行く音で、「あぁ、今日は進水式か」と思うだけ。昔は、酒が出たり、近所の人達が列をなして見に来たらしいが、昔日の感である。4月も終わりに、新入社員の歓迎会があった。
会社での仕事にもだんだん慣れてきた。1年後輩のTK君と早朝、和歌浦に海釣りに出かけ、結局「ゴンズイ」が掛かっただけで、食えなく、とげが刺さると痛い。少しの「キス」だけが収穫だった。
5月の連休は、今年も終わった。家に着いたのは00:00を過ぎていた。
連休明けに昇給の発表があったが平均の110%と、比較的評価は良かった。
そして待ちに待った、S967/8(タンカー)の担当を仰せつかった。(この時は未だ、先輩の助力付きではあったが)とにかく、1船の設計を任されたことになる。私にとって一つのエポックである。
設計の傍ら「阪大会」で苫田温泉「乃利武」に遊ぶ。
月曜日には、あの「えるべ丸」が神戸港に入港していると聞く。どうやらチェーンロッカーに損傷があるらしい。チェーンが暴れて、壁をへこましたとか。急遽神戸港に飛んだ。
「えるべ丸」のトラブルの現象は見たものの、どうもチェーンの暴れ方が尋常ではない。そこで、チェーンロッカーのパイプを長くして、鎖が大きく振れないように改正した。
売船後のえるべ丸(人も船もやがてはこうなるのか・・・)
「鬱病が」ひたひたと押し寄せているらしかった。でも私はそのことに気づかず、所内のバスケットボール大会で審判などをしていた。一日の終わりにぐったりとなることが多くなり、会社を休んで回復しようとしたが、無理だった。
船の基本図であるのコンプロ(Construction profiles)がなかなか進まない。6月24日初めて、直属の上司であった、TTsu課長補佐に変調を訴えた。
それは、えも言われぬ気分で、「鬱」の極みであった。それから約1ヶ月間は日記を書く気力もなく漠然と過ごした。空白である。
それでもバスケットは続け、ナカシマプロペラ戦では、絶不調で得点はたった7点。
そしてついに、この月半ば岡大病院に2週間入院をした「鬱病」である。入院までは憔悴しきっていたが、入院とともに、絶対ここを出なければと、日記を書き始め、自分がこれだけ正常だと訴え続けて、担当教授に異例の短さで退院を許可された。退院後例のコンプロも出図した。私本来の仕事である図面のチェック、部下への指示が続いた。退院後、通院するも、看護婦の不手際で、診察受けられず。頭にきた。でも頭にくるぐらいの元気が出たことにはなる訳で捨てたものでない。この時期は、家ではオリンピック、男子バレーが優勝するなどTVに釘付けだった。
愛車のべレットも傷み、車検整備で、何カ所も部品を交換せざるを得なかった。
元三井造船理事のT.K氏が、このころ単独シベリア鉄道で、モスクワに渡った。
その間に、慶応ボーイの(そんな雰囲気のしない奴だったが)J.Hが買ったスカイライン2000GTに試乗させてもらい、快調であった。
バスケットの試合では大荒れで、7分を残し退場してしまった。仲間二人も退場と、散々で、時の一般の部1位「教員組合」に一時9点差まで詰め寄ったものの、結局大差で破れた。その結果残念ではあったが岡山県で2位となり、中国大会に臨むこととなった。しかし中国大会では2回戦で、新日鉄光に敗退した。
その年のバスケットの納会では、Ue監督、MTa主将を確認、私は一介の選手に徹して、ゲームを楽しむ事にした。
仕事では、番船担当になると、その船のあらゆる情報が集中的にやってくるシステムになっている。よほど大事なことでない限り私は、返答したり、指示したりできる権限を与えられる。船主殿にレターを書いたり、船級協会対応に追われたり結構忙しくなり始めた。
***
この頃の仕事は、「材料取りの手引き」を作成する事にあった。船は鋼板や型鋼で出来ているが、小さな部材を、如何に効率よく決められた鋼板から取るかによって、残材が減り、持ち出すお金が少なくなるのである。その為のマニュアルで、「DIY」を経験したものなら容易に理解されると思う。
***
船殻設計課の忘年会は、毎年のような味気なさはなく、時の幹事の機転で、カクテルパーティーなるものに変わり、好評であった。
仕事では、デリックポスト。いわゆる、クレーンの基部の構造の変更があり、プログラミングを見直しチェックするので忙しかった。
一方、関西構造委員会に出席のため、その資料作りをし、45部持って、相生の石川島播磨(IHI)に出かけた。たくさん質問が出て、たじろいだが、無難に回答することが出来た。
****
年末から、早朝ジョギングで、近くの山に登り、朝湯を浴びて、出勤する事になった。合計19日続いたと記憶する。仲間と2人である。朝の空気は清々しかろうと山に登ると、対岸の直島にある三菱精錬所の工場から、もくもくと黒煙が上がっている。昼は衆人の目が煩いので、夜フル操業しているらしい。
1972年も押し迫った。帰玉後、私を待っていたのは、品質管理の作業を如何に進めるかだった。現場と、設計の摺り合わせ会議に出席した。それも定時に終了、
****
翌日は、掃除と片付け。そして30日早朝、午前5時前に出発大阪へ向かう。30号線を70~80km/h、2号線バイパスを60km/h、播州国道で70~80km/h、神明、阪神国道、名神で、100~120km/hとtotal203kmを3hr05minで、大阪に07:50に到着、流石早朝の道路は空いていた。
この年は、「鬱病」「Charge Engineer」「えるべ丸公試」など、話題の多い年だった。
中でも「鬱病」は、死を考えた程深刻で、その後の私に何度も形を変えて襲いかかる前触れであった。
1973年の正月があけた。前日の紅白は、眠くて、途中でダウン、元旦から、KHaと会い、珈琲など飲んで、久しぶりに会話し、お互いの無事を讃え合った。
赤軍派の森恒夫が、首つり自殺をする忌まわしい出足の年であった。
正月恒例の百人一首で遊び、かっては姉が一番多く取ったが、最近は、若さがものをいって、私が首位を取ることになった。「む、す、め、ふ、さ、ほ、せ」で始まる札は1枚しかなく、
「村雨の露もまだひぬまきの葉に、霧立ち上る秋の夕暮れ」:寂蓮法師
「住之江の岸による波夜さえや、夢の通い路人目よくらむ」:藤原敏行朝臣
「めぐりあいて見しやそれともわかぬまに、雲かくれにし夜半の月かな」:紫式部
「吹くからに秋の草木のしおるれば、むべ山風を嵐というらん」:文屋康秀
「寂しさに宿を立ち出でてながむれば、いづこも同じ秋の夕暮れ」:良暹法師
「不如帰、鳴きつる方をながむれば、ただ有明の月ぞ残れる」:後徳大寺左大臣
「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の、割れても末に合わんとぞ思う」:崇徳院
等の歌殆どを今でも諳んじている。
元々恋歌が多い百人一首だが、選者の藤原定家が、好き者であった訳ではなく、かの時代はその事が半ば大きな仕事であったのだ。
「足引きの山鳥の尾のしだり尾の、長々し夜を一人かも寝ん」:柿本人麻呂
とか、いまは亡くなった登麗君(テレサテン)も、「あんた抱かれた~いよ、あんた会いたいよ・・・」と切なく歌う如く、女も、右大将道綱母は、
「なげけつつ一人寝る夜の明くる間は、如何に久しきものとかわ知る」
「みかきもり衛士の炊く火の夜は燃えて、昼は消えつつ物をこそ思え」:大中臣能宣朝臣
等、激しい恋歌がいとも平然と歌い継がれている。
「造船時代その2」に続きます。
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