新生のらくろ君Aの館

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造船時代その2

写真は後から追加です

造船所時代の日記(2)です

2列一般貨物船

2-Rowの一般貨物船(設計するのは楽しかった)


KHa、TNa、KAnら旧親籠会(高校時代のバスケット部)同期に会って楽しい一時であった。不思議に大学時代の者とは、卒業後全くといっていい程会っていない。心の中のルーツは、一緒に汗を流した、高校時代にあって、単なる競争者としての大学の同期生にはあまり会いたくなかったのかも知れない。それほど卑下する必要も無かった時代でさえも、余り会いたいと思う者はいなかった。

KAnは、自分のゴルフセット(アイアン)のフルを買っていたのに、筋ジスになろうとは、その時誰が考えただろうか。私だって「鬱病」。世の中平々凡々ではないことが、既にこの時からハッキリ分かっていた。
短い在阪期間を終えて、帰玉の途中、山陽自動車道で、パトカーのサイレンが鳴る。あ!と思うまもなく停止命令が出された。50km/h制限を74km/hで走っていた。(24km/hで悪質寸前の際どいスピードだ)。最初出てきた若い方の警官は、口調も厳しく、違反切符を切ろうとする。「子供が、むずがるので、ついスピードが出てしまって・・・」私は悄然と答えた。そこへ年配の警官が顔を出し、車中の様子と、私の顔を見比べて、「危ないから気を付けて帰りなさい」といって解放してくれた。まさに奇跡である。

私は建て売り住宅を購入(会社の持ち家奨励制度により)し、建築中の自宅の進捗状況をK.Kと共に視察に行った。
バスケットボール部も少し若返り。私は全くの引退ではないが、第一線を退いた。過去に築いた栄光は、ひとつひとつ脳裏に焼き付いている。辛い時もあったが、優勝の快感は何にも勝る。試合で、私はまさに八面六臂の大活躍をしたのだ。ほかの誰もが褒めてくれないけれど、自分だけは分かっている。スポーツ選手の生命は短いが、如何に短くても、その間に充実した日々が送れたら、それで十分じゃないか。と私は自分自身を慰めるのだった。第一線を引いたとはいえ、緊急要員として、新しいユニフォームも配給された。高校時代はTNaが、その人徳から4番のキャプテン番号を離さず。私は大学で、初めてキャプテン番号を付けた。実業団(少しオーバーか)でも一時付けたキャプテン番号は、今は若い人が受け継いでいる。それで良いんだ、それが実力の世界だ。それにしても、シカゴブルズのエアー・ジョーダンやチェンバレンなどは、驚異以外の何者でもない。基より、日本のバスケットボールは、世界で通用する要素もなかったが、私の引退は一体何だったんだろうとふと考えてしまう。
それは別にしても、七帝戦時代に、記憶に残る、2選手がいる。一人は東大で、麻布高校出の雄であり、一人は京大の○だ。麻布のジャンプ力は、強烈で、170cmそこそこなのにリングを両手で捕まえる程であり、45度からのジャンプシュートは華麗以外の何物でもない。また、○の方も同じ背格好であり、同じような、ジャンプ力を備え、バックコートにこぼれた球を、後ろも見ず、手首のスナップだけで、味方選手にパスするという離れ業をやってのけた。舌を巻く以外にすることがなかった。

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ゴルフの打ちっ放しを再開するも、さっぱり巧くならない。しかし、バスケットボールで鍛えた足腰があるので、何とか騙し騙しやっていけそうだけれど100を切るなんてもってのほか。

木曜日、課長不在だ。この時期また歓送迎会がある。社内の異動は良いが、去っていくものには、もうこれっきりとのも気持ちが強く、少なからず寂しい思いがする。Mi君の場合などは、入社してまもなく特別な計らいで、米国留学をして、帰ってまもなくの退社である。会社は何を考えているのやら。会社の教育体制がなってなく、人材を指導していくより魅力的な人材が居なかったこと、経営者の愚かさが、会社を低く見せたこと、等々が揚げられると思う。

以前の会社の元理事TKo氏厳父逝去。KIsにしろ、TKo氏にしろ、結婚前に父親が亡くなられるとは、無情を感じる。

バラ積み貨物船

設計担当した13万トンバラ積み貨物船


会社ではS986の建造方針会議が、設計、現場、品質保証など前関係者が集まって行われた。私は、設計(船殻)の代表として参加した。この方針によっては、設計のやり方も大いに変わるので、気骨の折れる会議である。
土曜日、免許証の安全講習会があった。

日曜出勤してあけた月曜日、「にゅーじゃーじー丸」の海上公試に乗船した。(3日間)この船では変動応力を計測すべく、玉野研究所の計測担当者と歪みゲージの貼り付け場所についての検討を行ってきた。乗船翌日、Torsional Vibration Testで2時間を使った。(段階的に回転数を上げ、船体の共振点を探る目的だ)その後の、Progressive Speed Trialでは95,108,121,と123RPM で、Engine roomのパトロールをして、局部的に機器の振動の有無を見て回った。船体連絡会議(社内)の規定した箇所を、手持ち振動計(アスカニア)にて計測して回った。公試は1週間続く(交代要員とチェンジ)。しかし、私は、所定の仕事を済ませて、タグボートにて、下津井沖から上陸し、次の仕事に備えた。

朝1番のタグボートで、下津井港に降り立った後、7時過ぎの電車で、和歌山に飛んだ。由良工場で、ちょっとした問題が生じたという。
日本海事協会の方と一緒だ。無事問題を解決して帰社した。

「にゅーじゃーじー丸」が公試から帰って来たその日、開発中の中速エンジン60Xが爆発を起こし、9人が重軽傷を負った。
「にゅーじゃーじー丸」から計測計器を降ろすのに立ち会い。解析結果を待つことになる。

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その後の1週間は、「にゅーじゃーじー丸」の振動解析を必死に行い、且つ、S986/1007の「Construction Profile and Deck Plan」(前にも書いたが、船殻設計の大本になる重要な図面の一つ。)のチェックに追われた。
一級下のKIs君が三田の三井倶楽部で結婚するとのこと(バージンズの仲間)で祝電にならない祝電を打った。

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S986シリーズ4隻の同系船の図面を、相変わらず手がける。初め後見人付きだったが、もはや独り立ち可能と言うことで、私一人が采配をふるうことになっていた。といっても、課長補佐、課長と関門はあるが、殆ど儀礼的で、自分の考えが正しいと、殆ど通る。

関西構造委員会に出席、「えるべ丸」の件で資料を出したところ反響が大きくやはりすごい船なんだと思った。
親籠会に出席してバスケ仲間と再会した。学校の同窓会は苦手だがバスケ仲間のは気がおけなくていい。
週明けに、現監査役の方に(当時私の上司)報告した。
課長にも、「えるべ丸」の件を報告。

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玉野と岡山の間に「カバヤゴルフクラブ」というショートコースの練習場があり、現理事とその親戚の弟と3人でラウンドする。とてもゴルフにならないけれど、適当にパーなど出して、喜んだ。その時始めてだったのか、とにかくラウンド毎に1球1球を振り返っているメモが残っている。
「ゴルフというものは、やはりGreen周りが勝負で、ショットは、悪くてもGreen周りのアプローチが問題だと指摘している。「Driver is a show pat is money」である。初めてにしては、腕は別にして、的確な判断だけはしていたようだ。

バスケット仲間から、結婚式の招待状を受け、快諾した。岡山会館である。

ゴルフの翌日、バスケット仲間の結婚式。1時間前に出発したつもりが、時計が何故か1時間遅れていたため結局開始に35分遅れてしまい、冷や汗をかきTSu君に悪いことをしてしまった。取り敢えず、挨拶をさせてもらい、宴あけて、京都・奈良に旅発つ二人を見送らせてもらった。

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週末のバスケットの練習では、かなり激しく練習し、汗をだらだらかいた。40分速攻の練習で、走り込むなど、旧来に無い力の入れようで、何かを払拭したいかのようだった。
週末休みに、会社の連中と、王子ヶ岳(備讃瀬戸が一望に見渡せる、瀬戸内海でも指折りの景勝地)に花見に行った。日曜日にはよく、寮を訪ね、まだ独身の連中と話す。現理事が、結婚するとのことで、招待状をくれる。早稲田大隈講堂である。午後、玉原の分譲地を視察、買い物をして帰る。

練習では突き指者続出。
新しく、マネージャーをしたい人がいると、現マネージャーの女子が言ってくる。次の試合から来るという。
玉原の分譲地は45番目の申し込み。危ういかも。

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その週末は、特に変事もなく淡々と過ぎ週明けも平穏だった。
「バージンズ」で仲間一人が欠落したので、ゴルフラウンド早め打ちっ放しにて100球打ったが、快音無し。頭に来る。現理事や、現取締役などと一緒だったが、現取締役は、シングルの腕前、格段に違う。(流石慶応ボーイ、双葉よりかんばしとはこのことかと思う)

バスケットの練習では、久しぶりに大勢集まり、活況であった。
現理事の引っ越しの手伝い、ナカシマプロペラとの練習試合。新人マネージャーの入部等の行事があった。
新しい可愛い子がマネージャーになったこともあって練習は、盛会である。

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5月の連休に、子供を連れて大阪から東京へと、二人の姉の家を頼って、遊びに出かけた。友人の結婚式に臨席のためでもあって、一人大隈講堂にも赴いた。

子供と大いに遊んだ。息子は東京の雑踏、初めて見る新幹線、多彩な彩りの列車の数々、で興奮のため翌日寝込む始末だ。
姉の息子達(甥)は私がおとんぼの為に年齢が近く、そのため私は決して、「叔父さん」とは呼ばせず、「お兄さん」と言わなければ返事をしなかった。今彼らのうち長男は、早稲田の文系を出て、当時の東京銀行からニューヨークに駐在、バツイチでありながら、銀行を辞め、新たに弁理士として、有名教授と伍して、講演会を開くなど、大活躍である。私とは大違いの人生であり、女房(二人目の妻)も、働いており、所謂「DINKS」のため、金が1ヶ月に100万円以上は貯まると豪語、横浜に億ションを買ったという。
次男は、やはり早稲田の理工を出て、大人しく、親の面倒をよく見るらしいが、子供も居て、平穏に「埼玉県庁」に奉職している。
末っ子の三男は、東京都立大の理工を出て、カシオ計算機に勤め、学生の頃から、嫌々ながらも親にバイオリンを習わされ、オケ(オーケストラ)に出演したり、現在は楽器が変わっているとも聞くが、詳細は知らない。
いずれにしても、隆々としているが、その父である、姉の連れ合いは、ほぼ寝たきりになりつつあり、あの豪快な陸士卒、海軍少佐、今の三佐で、掃海艇などの司令を歴任した人とは想像出来ないほどになっている。

私は、人間なんて所詮そんなもの、如何に隆々としていても、末期は、そうなる様に生まれついているのだと、またしても抹香臭いことを考えてしまう。
昭和女子大学外山滋比古教授が、日経新聞に書いておられた(時期は忘れた)のによると、ローマの詩人ホラティウスの言葉に「今を捕らえよ」と有るが、(「抒情詩集」巻一・十一・八)ラテン語のCarpe diem(カルペディエム)で将来のことは気にしないで、現在を楽しめという快楽主義、刹那主義の源泉と考えられている。しかし真実は違い、大意は「日々の仕事に精を出すが良い。人生は短い。いたずらに先に望みをかけるのは宜しくない。今こうして話している間にも時は流れる。今日を捕らえよ。明日を頼むなかれ」である。先のことは分からないのでだから今の時間を大切にしてしっかり生きていけ、というのである。「明日有ると思う心のあだ桜、夜半に風の吹かぬものかは」であり、快楽主義とは違うと、氏は仰っている。此がルネッサンス以降、変容しカルペが楽しめとの解釈に変わり「バラは咲いているうちに摘め」から吉井勇のゴンドラの歌。「命短し、恋せよ乙女、赤き唇あせぬ間に・・・」まで脈々続く)。
私は、Carpe diem(カルペディエム)を地で行ったことになるのだろうか?そうではないと考える。真の意味のカルペディエムではない無節操な快楽主義だったのだろう。これからはそれを修正し、「今日を捕らえ、明日を頼む」ことなく生きていきたいと考えている。
話が飛んだが、本筋に戻そう。

7月16日は、初めて担当した船(S986)の海上公試だ。12:00乗船計器を調整、電話を敷設した。私は船殻設計で、そのミッションは、振動計測。午後、Torsional Vibration test(スピードを暫時上げ、機関軸のねじり振動を計測する間、船体振動の共振点を見つける)で夕刻よりProgressive Speed Trail(4段階に分けて、スピードを上げて、運行するテスト)だ、夜中中走る、巡航スピードでの燃料消費を見る試験で、機関室、上部構造を振動の計測をして廻る。4:30頃計測終了、5:00から10:00まで寝る。その日は寄港に時間を取られ、翌日14:30頃造船所に着岸、例によって、クレーンで降ろされる。何としても、問題がなかったことにほっとして、部屋に帰り、席替えされていた部屋に、違和感を覚えながら、帰途についた。

航行中のタンカー

航行中のタンカー(この中で、夜通し振動計測をした)

日曜日、久し振りに部屋を片づけるが、息子は面白くなさそう、外に連れて行くとはしゃぐ。しかし、また車が不調を訴え、途中で車を置き、タクシーで帰った。
友人のKHaから、電話で、来週家族全員で来るという、心待ちだ。月曜日、そのままにしていた計器を、船内に取りに行く。心なしか体調不調である。
翌日は残業して、ストドラの方程式(振動)で解析を試みるが、5回の内2回失敗する。之は、ホルツアー法に基づいた、マスーバネ方式の計算式を現監査役で、時の上司が作られたものを、モディファイし、私が作った振動解析のプログラムだった。
翌々日の金曜日、TYa君と、ポンコツ屋で、部品を探したが同種類の車が見つからず、悄然と帰宅した。

また、毎年恒例である実習生の視察と慰問目的で阪大の長谷川先生が来られたというので応対のために貴賓室に出向く、時の課長や、同窓生が、入れ替わり立ち替わり来た。先生には、船舶算法などでお世話になり、嬉しくも私の名前と、顔を覚えていて下さり、声を掛けていただいたことは、とても光栄で、嬉しく思った。
夕方、TMi君の母校、朝日高校での練習試合に彼の車で参加した。このところベレットを使えず、SMo君に送られて帰る。
土曜日、病院で、事務的な診察を受ける。午後、TYa君の車で、金本モータースに行き、部品を探すが、無かったので、同型のフローリアンのポンプをはずし持ち帰る。
日曜日に、取り付けようとするも、ボルト位置が若干違うので、一時元に戻す。
午後YSiさんの車で、国体予選に臨み、初戦は勝ったものの、2回線で、負け、冷たいものを飲み過ぎて、体を壊す。

7月29日、阪大の大先輩であり、九州大学名誉教授の熊井先生が来られた。
翌日、玉野研究所での振動に関する講演を拝聴し、6:00~9:00過ぎまで、会社の貴賓室奥の本クラブで、先生を囲み会食の中の一人に加えて貰った。(研究所から2人、現監査役、私)
一夜明けて、先生は船殻設計内でのフリーディスカッションで教授された。
内容は、Springing(船体が、航行中に波により起振され、バネの様にしなる現象)・Bossing Vibration(軸を受ける部分が、今度は、エンジンの起振により振動を起こす現象)についてだった。
熊井先生が帰られた翌日S986の引き渡し式があった。

東京から帰って、設計部長の死を知った。なんと儚いことか。
船尾構造のチェックを済ませ、いったん家に帰り、バスケットの練習に出かけた。

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玉野で同期生の結婚式があった。ささやかながらも良い雰囲気だった。私もスピーチをした。そのスピーチの内容を同席の先輩に褒めて貰った。結婚の素晴らしさを讃えることは自分はあまり適切でないかもしれない。
友人宅に呼ばれ、馳走になったが、皆それぞれ、幸せなんだ。
「山頭火」の話になり、そこの、おじさんの、おばさんもよく知っていた。

会社では、転勤の話が出ていた様で、落ち着かない気持ちだった。

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私の父は、寝たきりになり、母は気も狂わんばかりの毎日の中で。親の介護について兄弟で相談した。
それぞれ言いたいことを言って、親の面倒を見ようとしない。皆自分の勝手を言う。今は没交渉の兄嫁などは、鬼畜としか思えない。私の性格は変わり、病気がひしひしと襲いかかる・・・。

母が、痴呆を帯び、兄に見て貰いたいと言うも、兄は、とにかく鬼畜の様な義姉が居てどうにもならず、義姉は漁夫の利を得ようと虎視眈々としている。
そんな鬼のような義姉に意のままに操られる兄とは縁を切ったが、人間というものは、あそこまで成るものかと、半ば呆れかえったものである。従って、父の遺骨は、当時兄だった彼が喪主に(形だけ)より千里寺に置かれた。
そんな中、母を順番に見る、日程表を作り始めた。皆遠い私の家に来るわけで、東京の方からでは大変だとか、色々あった。特に独身の姉は一緒にいて母の面倒を見ようと決めていたが、母の方から長男が良いと、ごね、泣く泣く近くのマンションに遷り、後に元兄どもが入ってきた。

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しばらくして、鬼女に踊らされた元兄は、「土地の権利書」を出せと言ってきた。冗談ではない、何もせず、あまつさえ、我が母を苦渋の道に連れ込んだものが言える言葉かと激しく抵抗した。
そのほとぼりも冷め、しばらくは、家庭の一時的な平穏が戻ってきた。
しかし程なく、独身の姉に対する、攻撃が激しくなり、泣く泣く、私に電話があった。その返す手で元兄を説得するも、もう鬼畜に成り下がった元兄は、聞く耳を持たない。もともと,おしめ一つで寝たきりの母を大阪から岡山まで深夜運び込むような手合いだ。説得に応じるはずもない。
母を、介護付きの施設か精神科に入れなければならないと言ったが、之も無視された。

会社では、阪大の大先輩で故人と成られた、熊井九州大学名誉教授による講演会があり、聴講させて貰ったが、私には難しすぎて、どうしようもなかった。

翌日、姉から、涙声で、追い出されたという。姉をかばう余り、母を叱責せねばならず、その事が母から、「青二才の言葉など聞けぬ」との反発を得ただけだった。
姉たちに電話、大阪に行くことになり、21:13発で新大阪着23:37、タクシーで我が家に着いたときは、異様な雰囲気で、口を挟む余地など無かった。母の気持ちをなだめることも出来ず、只だるまの様に時間の過ぎゆくのを待った。1:30ようやく軽い寝息を立てた母を見て、少し安堵の気持ちがあった。安心もつかの間2:00過ぎに再び起きあがった母は「甘露の法雨」を唱えようとするので「どうか心の中で唱えて下さい」と願うと「それは、姉の為か、父の為か、叔父の為か」と呆けている。畳に頭をこすりつける様にして、何とか思い止まったが、それから私を相手に歴史を語り初め、時に声高に、時にすすり泣いて、我が母ながらここまで追い込まれ、且つ狂ってしまったのか、明治の女の末路の悲しさを嫌が上にも感じなければならなかった。

母の元を解放されたのが4:30布団にくるまり寝ようとするが、ウトウトして、6:00過ぎ姉が起き、朝餉の支度を始めていた。それでも起きるのを止め、7:10にようやく起きたものの、姉の悲壮な頑張りは、何も報われない、何故の不公平なのか理解に苦しみ、只涙が出た。
夕べの話し合いで、順番に母の世話をすることになり最初は姉(四姉)がということで、14日間の休暇を貰うとのことになった。続いて、三姉が・・・。四姉は、朝食の余裕もなく、空腹の侭、そそくさと出かけねばならず、そんな姉に、母は、「もう少し早く起きないからだ」と罵倒する様を見て、そのときは母ではなく母の皮をかむった悪魔だと感じた。
私が、四姉をかばうと、気に入らないらしく「何しに来た、顔を見るのも煩わしい」と言い。
一方では「腹を痛めた子、みんな可愛い、特に末っ子のおまえは可愛い」という。完全に狂っている。之が痴呆という奴か。親戚に、奥のおじさんという医者が居た。突然だが来て貰い、鎮静剤をうって貰って、その場をしのいだ。入院まではしなくてもと言うが。前歴を知らないから医者と雖も理解はしていない。方面が違うし・・・。

何やかやあったが、仕事もあり、私は岡山に帰ることになった。4姉に電話し、帰りを待って、後事を託し帰ることにしたが、母が起きあがってきて、母が平静であると、たまらず、詫びる気持ちになり、でももはや4姉とのしこりはぬぐい去れないものになっていると感じた。あの悪魔の様な元兄の嫁が、入れ知恵して、ここまで成ったのかと思うと、ぶっ殺してやりたいと思うまでになった。

 22:17宇野駅に降り立ったときの無常感は、筆舌に尽くしがたい。只、帰りに、寝たきりの父が、拝む様にして、手を合わせ、喋れない口を動かしながら目に涙を浮かべていることに、得も言われぬ絆を感じてつい涙してしまった。
昨日の疲れで、ぐったりしていたが、雨であるにも拘わらず、早く目覚め会社に出かけた。

通常の仕事と、通常の練習、試合。試合では22ポイント確率5割の上出来だった。
会社の仕事にも追い込まれ、出張の声も聞こえ、又大阪かと思うと憂鬱でもあり、こんな気持ちを払拭しないと、又「鬱病」が襲ってくると言いながら、既にその気配はもう既に忍び寄っていた。

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仕事が忙しい中を定時に帰宅し、大阪に向かう。20:00頃着、千里山までの電車の中、気が重い。四姉に依れば、母の入院をほのめかす。母の様子は、心なしか平衡状態を保っていた。
その晩は、父の部屋で寝たが、夜中と、朝方何度か起きたので、眠い。翌日4姉は銀行に出社、電話で入院のことを話すが、付き添いがどうのこうのと、なかなか核心に入れない。母はやはり4姉のことをあしざまに言う。結局4姉が居るばかりに、元兄が、帰ってこられず、それ故不幸だとの論理だ。もしそうなっていたら、鬼畜元兄嫁の毒牙に掛かり、さらに不幸になるなどとは露ほども思っていない。
私は、父の部屋に寝るも、追いつめられて、「黒い犬」がやってきそうな感じである。入院の為の送り迎えの足の関係で揉め、三姉の来ることで、小康を保ち、大阪在で医者をしているおじさんが来ることで、沈静化。昨日のブロバリン等が利いたのかも知れない。二姉の連れ合いが、熊本から電話、私の友人も父の見舞いに来る。
私は、後ろ髪を引かれながらも千里山を後にして、玉野に帰る。夜中1:00過ぎにやっと寝床に付いた。
翌月曜日は雨だった、残業時間中にHULL-CAD(船体にコンピューター補助製図)について話した。

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帰って、父母が、入院することが決まったとの報を受けた。入院費用が月20万円掛かるという。震えた。
それでもバスケットの練習はした、この時は現実からの逃避の一手段であったかも知れない。

翌々日突然課長から由良行きを命じられる。S963が船底がドーンという音と共に、凹損し、船主から、説明が出来る技術者を派遣してくれとの依頼らしい。取るものも取り敢えず、和歌山御坊に飛んだ。旅館など予約無く、会社の簡易宿泊所に着いたのが22:00を過ぎていた。翌日7:30に現場へ、Mr.Rufo(船主)やMr.kargil(LR)らと話す。計算を明日までに出せと船主は要求、全てこちらに掛かった。玉野に連絡し、計算を依頼、いらいらするうちに、夜中1:30に計算が出来たと報を受ける。
翌日、Mr.Rufoに説明するも、船主は、自分でもチェックしたいので、細かいデーターをくれという。そして昼まで私を待たせた。細かい数字を、重箱の隅をほじくる様な質問があり、一々説明に追われた。もっと細かい、Final reportを出すということで、帰りかけたが更に1時間足止めを食らった。
翌朝玉野に出勤し、詳細データで計算するも途中で誤りを発見9:00まで掛かって、レポートを仕上げた。自分の気持ちがいらいらしているのが分かる。機関艤装設計の課長に託す。

建造中の事故は色々ある。
私が入社してしばらくの後、建造中の船が火を吹いたことがあった。
下記は、直接関係ないが、参考までに掲げた。危険と隣り合わせの仕事でもあるわけだ。
フェリー火事

建造中の船火事(借用御免)


翌日は、造船学会関西造船構造部会に出席の為大阪へ、久し振りに各社に散らばった、構造屋で、大学の同期数名と会った。
頭が霞み、いらいらする。
次の日は、バージンズ仲間とカバヤでラウンドした。流石、現取締役、ショートコースなれど32、私は48でこの差は何なんだろう。

S963の損傷報告書は表紙を付けて正式提出せよとの事になった。
HULL-CAD(船殻のキャド化)の連絡会が長引き、私の疲れは頂点に達していた。

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1973年7月11日(水)一姉から電話がある。父が、今晩あたりが峠という。不思議に動揺はなかった。クールに先のことに思いをはせた。明日のゴルフを断り、上司の家に電話して息子さんに休暇の伝言を依頼、養子に行った直ぐ上になるはずだった兄にも電話する。

・仕事の遅延がひどくなり、誰もフォローしてくれないのではないか。
・自動車の名義の件
・父の亡き後の母のこと共(私の頭の中では既に父を無視している現実に悪寒を覚える)

「如何ともなし難きこの身のもどかしさ。我が身に百余の寿命を与えてほしい。気の滅入ることの多いことよ。皆よりて、父の苦しさを分け持ってくれないか」とふと思った。

【父の臨終】
7月12日(木)
0:50リンゲル点滴開始
1:00医師巡回。血圧75-50。やや持ち直したと看護婦。しかし大局的には時間の問題。今日既にブドウ糖3本を点滴しているとのこと。
1:10五姉夫婦、取り敢えず帰宅す。
1:45家政婦、看護婦を呼ぶ。二人飛んでくる。体温36.7°、血圧72-
3:00看護婦来る。血圧78-40痰が切れ、やや良し。リンゲル点滴少なくなる。
3:30レポージ(果糖)に変わる。
3:45もと兄夫婦帰る。
5:30私、起きる(椅子でうつらうつらしていた様だ)
レポージの点滴に変わって半分ぐらいに減っている。
6:00夜は完全に明け、外界はもはや活動を開始、何事もなかった様に。
父はいぜんとして小康を保ち、二姉も、家政婦もまどろむ。酸素吸入に点滴、痰が詰まってぜーぜーという。一姉、夜行で到着、少し心和む。三姉も来る。やがて、五姉も戻ってくる。昼前に二姉の連れあいが来る。しかし、父の容態は変わらず、意識は戻らない。目も見えず、ただ口を明け苦しそうに息使うだけ。直視に絶えず、廊下に出、二姉の義兄と話すのみ。餃子、ビール、午後はスイカ、トマト、氷、アイスクリーム買ってくる。ただ待つことに苛立ち、私はいったん帰ることにし、死に目に会わずとも良しと決め、いったん帰宅した。
帰り道、父のことより、掛かった費用を心配している自分を発見した。なんと!

その日の(具体的には翌日の)7月13日(金)01:40父は永眠した。(享年80才と5ヶ月)海軍大佐で、隊礼服を着し、毅然とした立像の胸に並んだ勲章の数々を思い浮かべても、詮無いことだった。帰ったことを後悔したが、クリスチャンでもないのに13日の金曜日か!と自嘲的に思った。

6:13宇野発、10:30千里山に着いた。父は4畳半に寝かされ、白い布で顔を覆われていた。線香の香りが何ともいえない。俺もやはり日本人だと思った。15日に葬儀と決まり手配が忙しい。感傷に浸るには時間がない。二姉、三姉の義兄も来、三兄も来てくれた。母も一時退院した。千里寺の和尚に枕経を上げて貰い、先にごたごたが待っているとも知らず、その夜は父の横で、独り寝た。
翌日友引、夕刻より通夜。墓のことなど話すが、らち開かず。いったん千里寺に預けることとなった。もと兄に対するもどかしさが募り、心乱れた。母の異常も、手に負えない。7月15日(日)父の告別式を終え、斎場にて待機、骨上げに際し、白く綺麗に焼けているのを見て御坊が、何処も悪いところが無く良い仕上がりですと言った。父は何も知らず、私は、黙々と骨を拾った。箸渡しで、骨壺に収まった父は、小さく、その時は涙も出なかったが、暫くして、涙腺がゆるむのを感じた。
それから三日何があったのか放心状態であった。皆三々五々引き上げ、私も玉野に帰った。
仕事は山積だった。

***

通常の生活に戻り、豊島へのキャンプへ出かけ、泳いだり飯を炊いたり昨日までのは何だったのかという風情だった。

***

何が解決され、何が未決なのか、心の中が整理出来ず、不安になる。車の名義変更は、陸運事務所で行えると分かり、戸籍謄本など取り寄せる。
構造委員会、関西地区部会が玉野で行われる。各社委員が来るので、段取りが忙しい。小間使いの様に走り回る。そんな中、現監査役らと打ちっ放しに出かける。
このあたりから体の不調が、出始めた。翌日は、「玉野踊り」だが参加しなかった。

「Star Procyone」の姉妹船の見積もりを依頼。

****

懐かし玉野

造船はなやかなりし日の玉野造船所(船がいっぱい)


金曜日の定例練習は人数が少なく、そこそこで引き上げた。
土日は、息子と、海水浴、図書館、買い物(ミニカー)をして一緒に遊んだ。
ふと「材料力学上巻」が目にとまった。学生時代、寺沢先生、松浦先生に教えて貰った時は、ゲラ刷りの原稿だった本が上梓されていた、懐かしく、迷わず購入した。下巻が待ち遠しい。今も愛用させていただいている。
このあたりから体調不調なのか、日記の記入は粗になってくる。
S986の同型船で、建造方針(ブロック)を変えるという。設計にとってはいい迷惑であるが、トータルコストが安くなるなら従うしかない。そもそも、製造部は、大所帯故に、設計の一言などは、こういう会議では完全に無視される。
S935(茨城丸)のローディングマニュアルに関するレポートを書く。
土曜日、現監査役のグループのレクレーション春の屋(トンチャン屋)からボーリングと行ったけれど、100を超えたのは1回だけの体たらく。ボーリングも性に合わない。
木曜日、遅れていたKHa一家が来訪した。取り敢えず、中国地方最大の海水浴場「渋川」に案内した。
金曜日皆総出で、渋川に泳ぎに行く。2-3時間も泳いだろうか、疲れた。KHaの息子と、私の娘は、水を恐れず泳ぎに興じ、KHaの息子は、浜辺専用。私の娘は、私が抱いて、水浴。帰りに池田屋で寿司を食いその後鷲羽山のドライブウェーを案内して、帰ったら皆ぐったりしていた。
翌日、昼まで、ゆっくりし、帰るというので、送っていったら、子供らにとキャンディーを買ってくれた。恐縮する。KHa一家も喜んで帰ってくれたのだ、まずまずであった。

TYa君が、車を見に来てくれて、キャブレターからガソリンが漏れているということで、修理し当座、大丈夫となった。
会社では恒例のチェックリスト会議を週1回のペースで行った。
バスケットボールは、休みがち(体不調?)だった。

息子と、二人図書館で過ごす。夕刻より翌日曜に掛けて、花壇の周りの煉瓦積みを行うもやりすぎて体が変になる。また日曜日は、ひねもす雨それでも私は煉瓦積みを止めなかった。
日曜夕刻TNaより電話で、来るという、月曜日休みだったかどうか忘れたが、迎えに行き王子が岳、鷲羽山に案内する。夕食を共にし。ビール6本飲んで気分が悪くなり、その晩下痢をし早々と寝る。
朝私は通常通り出勤し、TNaはタクシーで帰ることに。夕刻大阪に帰り着いたTNaから、茨木高校時代のバスケットボール部先輩、HTa氏の父親が謎の失踪50日とか言ってきた。

8月28日を期に、手帳は白紙。ただ、9月29日王子が岳ハイキング、10月6日部長杯ソフトボール大会(於いてスポーツセンター)。
10月に入って、1泊2日で、TKa君達と、海釣りに出かけた。リール付きの投げ竿である。私は、釣りには全く興味がなかったので、竿一本持っていなく、全部借り物だ。車を駆って出かけたが、海南の方とはいえ、素人衆団の悲しさ、ポイントも分からず、坊主ではなかったものの、大した収穫もなく、ただ、仲間意識が高まったことが唯一の収穫であった。

その月も終わりに、総社高校を借り実業団選手権が行われた。川鉄水島が優勝をさらい私たちは2位に甘んじた。11月に入って、一般選手権があったが、之も、教員チームが常勝で、叶わなかった。
月半ば、バスケット部のI君TMi君が同日結婚、彼らが新婚旅行を終えて、直ぐ、中国実業団選手権大会が米子であり、日立安来に勝ったものの、笠戸ドックには惜敗した。
帰って、岡山県総合選手権と矢継ぎ早にバスケットボールづくしであった。
本社でのHVR(船体振動連絡会議)、三菱下関での日本造船学会船体構造委員会西部地区部会(通称西部)も恒例によって開催された。
12月には、再び熊井先生の講演会が聞け、HD会(船殻設計)の忘年会には出かけたが、阪大会のそれは、何時も同じパターンなので欠席、代わりにTMi君の新婚家庭でご馳走になった。
師走も迫った27日、S1007番船の進水式で、1974年の幕は下りた。

世界の指導者が替わり、分世光、オカルト、爆弾事件等々、話題に事欠かない1年ではあった。
この後、83,85年までは記録が無く、たどたどしい内容となる。

 私は息子と、市役所で車庫証明など車に関する手続きをした。この頃から益々、体に不調感が蔓延し、苛立ちが多くなった。庭の草むしりをして、「玉野総踊り大会」に向かい途中の商業高校まで車で行き、そこから歩いた。しかし数分にて引き返す。
翌朝、体調益々悪く、スポーツセンターに息子を遊ばせ、帰って昼寝、起きた時の空しさ、当時の日記に、「この空しさ、この弱さに勝ちたい、何としても勝つのだ、勝つ、勝つ、勝つ、勝つ、勝つ、勝つ、勝つ、勝つ、勝つ、勝つ、見ていろ、何くそ、面白くないのは、皆同じだ・・・。」とあった。
鬱病の薬は、炭酸リチウムとあった。

翌日は会議に終始し、現場要求、VEと追われた。自分が中心でない不安感。久し振りにバスケの練習に出かけ9:00まで体育館にいた。
バスケットの歓迎会には何とか出て、酒で心を紛らわせた。

次の日、ゴルフの打ちっ放しで150球。

その次の日、年休を取って病院に行く。例によって2時間待って5分の診療。薬だけもらい、ゴルフ練習場で打ちっ放し。夜は寝苦しかった。

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そんなこともあってか、休みは憂鬱で、息子の声の甲高いのに苛立ち、ごろごろし、全く手が付けられない状態だった。しかしゴルフの打ちっ放しだけは何度か行った。短かった夏休みも終った。

2日後に、病状は悪化、即入院となった。病名「Slight depression」
2週間の闘病日記は、紛失してしまったが、鉄格子の中での期間は、屈辱的であり、一生懸命、ファイティングポーズを取って、医者に復帰させてくれる様に請うた。とても辛く、最初に、生きていくのが嫌になった時でもあった。

何とか退院して皆に挨拶する。バスケット仲間にも練習で挨拶する。TMi君が、膝を痛めて入院したと聞いて、愕然。有力な選手だったのに。

しばらくの後、上司のご母堂の逝去、明日告別式という。土曜日で、出棺から斎場へ行き、見送った。72才とか、まだ若いと思う。
週明け2日目、年休を取り岡大病院へ、2週間分の、リチウムとトフラニール、胃薬を貰い検尿も受けた。入院病棟で、先生や、看護婦に会い、入院中の同僚にもあって、病院の喫茶で話した。病院で、昼食をとり、TMi君の入院している宮本整形病院へ見舞う。楽天的な様子に安堵し、将棋を一局指して辞する。
分譲住宅の当選を知り複雑な気持ちだった。

大阪の母に電話し、無事を知り安心する。
次の日、上司に当たる、現監査役とミニコースをラウンドしたが、急に新見から来たという医者が飛び込み、余り愉快ではなかったしスコアも当然駄目だった。帰ったのが0:00で、現監査役は、明日休むなよと言って、帰られた。
明けた週、キープランの検図をするつもりが、出来ず、その日はS967の起震テストを見に行った。翌25日給料日。予想外の低さに愕然とし阪大会費の2000円が痛いと感じた。
再び年休で、病院へ、車が動かず、プラグを磨いたり、四苦八苦してなだめて出かけた。堀井先生を指名、色んな薬が増え、採血もし前回の結果から、肝機能が悪いと言われた。玉野に帰り、家の手付け150万円を支払った。持ったこともない大金を、いともあっさり、吸い込む様に持って行かれた。あっけない。
翌日S951の設計は徐々に進んでいる。12:30待望の女児が誕生した。
一男の時と同様逆子らしいが双方元気と聞き安堵した。

ナカシマプロペラとの対抗戦でレフェリーを務めた後、午後、久し振りに静かな時間に、新しい生命に対する、命名について考えしばし悩んだ。思えば今年は、何かと事件の多い年だった。


「造船時代その3」に続きます。




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