新生のらくろ君Aの館

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造船時代その6


造船所時代の日記(6)です

1985年7月13日離婚は、成立した。
1970年2月6日、私が25才で結婚してから、15年の結婚生活に終止符を打った。
幕切れはあっさりしたものだ。子供は2人共C.K.が親権者となった。以来私は子供に1度も会ったことがないし、初めから子供など居なかったと考えようと心に決めた。5才の腕白坊主と、3才の目に入れても良い位愛らしい娘の残影だけを残して。

何処かでボタンを掛け間違って、きっとボタンの多い服だったのだろう、こんな結果になってしまった。

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私には上級職への試験が待っていた。「経営基本管理」「財務管理」「労務管理」「販売管理」とおよそ技術屋の私には、初めてのことばかりであったが、取り敢えず一生懸命勉強した。「マズローの5段階欲求説」など、この時学んだ。

昇格試験の筆記は通り、面接を受けた。門外漢が門外漢に質問するのだから、その態度を見るだけだ。やがて合格の知らせが届いた。私はやっと課長に昇格した。

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その内、尊敬する現監査役の、東京への転勤が決まった。「○○君、俺も東京だよ」とそっと、後ろの席から教えてくれた。私にはショックだった。私を理解し、色々手ほどきしてくれた、上司が、目の前から去ろうとしている。私にもそれまで、東京本社への転勤の話しがあった。私は東京が嫌いだった。人間味が無く、競争が激しく、人が多く、空気が汚い。でも俗に出世をするならそれに乗る方が良かったのだろう。でも私は、玉野が好きだった、瀬戸内海が好きだった。緑と、海、爽やかな自然。私自身故郷と呼べる所がなかったので、其処に故郷を見たのかも知れない。とにかく転勤を断り続けた。現監査役は、千葉の人で、東京への転勤は、苦になっていない様だったし、当然出世される方と思っていたので、寂しいながらも、送別会では、お祝いを言った。
それから、リグの合間に一般商船S1228の海上公試があった。私は、それに乗船する様に言われ、何時も通り、振動計測を行った。力仕事は、若い人がし、私は、幹部食堂で、1本のビール付きの食事が出来る身の上になっていた。
そうした2ヶ月の後、構造設計室長として、GOoさんが赴任された。

GOo室長着任の後、氷海リグの脆性破壊の研究など昔を思い出しながら復習した。

突然の事故で、壊れたEN400に代わって、私は性懲りもなくKawasaki VZ750を購入した。400CCでも持て余していたのに、敢えて、ナナハンに挑戦した。空冷2気筒の「ドン、ドン」というエンジン音は、耳に心地よく、体に響いた。

精悍なVZ750

どうせ生きていても仕方ないとの厭世観もあり、今度はこいつと心中だと思った。
早速、真新しいVZ750を駆って、大阪に出かけた。初めての感触は、私を興奮させた。いつもの道を通り、大阪に着き、TNaの家に泊めて貰って空虚さを紛らわした。
帰りは、風を切り走るには少し寒かったが、いつもの様に、エンジン音は、心臓に刺激を与え、爽快である。

VZ750疾走


そんなある日Henry Goodrichの居室ドア周りにクラックが発生したとの知らせが入った。本船は、既に引き渡した後だが、それなりの解析を行う必要がある。送られてきた写真をもとに、原因究明に奔走した。写真は内装をはぎ、鋼製の地肌にうっすらとコーナー部のクラックが映し出されていた。現地に飛ぶこともなく取り敢えず、コーナー部の補強を提示し修理を依頼するファックスを送った。何とかそれでけりは付いた。

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私は久しぶりに倉敷ジムで、バスケットボールの試合に出て活躍出来た。年令が、年令だけに、往年の鋭さはないが、テクニックで何とかカバーした。

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 そんな毎日の中、「御巣鷹山の事故」は犠牲者を出した。誰かの苦しみや、痛みは、必ずしも、自分のものではなく乖離したものなのだと痛切に感じた。犠牲にあわれた人の苦しみは、癒えることはないであろう。後の山崎豊子作の「沈まぬ太陽」で、自分に似た境遇の人が、オーバーラップして、頭に浮かんだ、後に書く。「黒い犬」で入院中のことだった。

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SSDB以来リグの話しが遠のいていた頃、次のリグ(正確にはリグでなく、半没水タイプの洋上ホテル:フローテル)を受注した。建造方針会議が、2日にわたり東京で行われた。今回は、石油掘削船ではないが、構造的には、ほぼ似た形状で、デッキの上には石油掘削洋の装置の替わりに、豪華な居住設備を載せる。
之は、石油掘削リグで働くオイルマン達の寝泊まりするためのもので、北海で稼働するリグに近接して、行動を共にする。要は、海上から陸地まで、遠いので、一々陸上から通えないということもあってのサポート船である。その代わり、内装設備は充実して振動、波の揺れなどに対して十分な配慮が為されている。

想い出のホテルバージ

最後のセミサブとなったホテルバージ(設計にも力が入った)


「POLYCONFIDENCE」が船名である。船主はラスムッセン。船級は、私の得意なNV。上甲板の長さ=84.2m、上甲板の幅=66.2m、上甲板迄の深さ=35.3m、没水部のポンツーン長さ=97.5m、幅=16.6mで800人を収容出来、スラスター8基、クレーンは、100t1基と50t2基である。その上に肝心の5層からなる居住設備とヘリポートを有する。更に20m~30mの高さになる訳だ。居住内部は、一般の日本船(リベリア船籍など)に比べて格違いによい。室内家具や調度品は全て本国ノルウェーからの輸入品だ。
ホテルだから、構造も、気を遣い、振動などで、安眠を妨げない様に綿密な計算と対策が行われた。
エンジンは持たないものの、発電用大型ジェネレーターが8基もあり、船内の動力源になっていた。この振動源が、如何なる悪戯をするかは、非常に難しい問題だった。
この船以降、海洋構造物が、ぱったりと止まってしまうなどとは、トップも私も知る由もなかった。アラブの石油事情で石油輸出機構(OPEC)が、私の失職への序章になろうとは、考えもしなかった。元々私はこう考えていた。

 大量の輸送手段は、航空機では賄いきれず、海がある限り絶対的に船は必要だということだ。その読みは当たっているが、労働集約的な産業だけに、性能がほぼ同じであれば、資本主義の世の中、安きに流れるのは世の常である。船は、前にも書いたが、載荷量と、速度が出れば、それで基本的には良い。船価の安い韓国へ流れるのも理の当然である。このところ、韓国も給与が上がり、段々と競争力を失ってくる。更に中国や、インドネシアでの建造が進むだろう。イギリス、ノルウェー、アメリカなど先進国は、その点で、過去の栄光を捨てなければならなくなった。学生の頃の私は、其処まで読み切れなかった。でも、今でもNaval Architechtの端くれとして、造船に携わってこられたことを、誇りに思っている。

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F576は順調に設計された。彼もGulf Canada以来4隻目の本格セミサブだったので、余り困難を感じることはなかった。ただ、北海仕様、材料の選定だけは、大変だった。更に、溶接による靱性の問題。また、低温脆性に対する配慮から、溶接部をグラインダーで丸く仕上げ、その仕上がりのスムースさを確認するために其処に1円玉を当てそれがピッタリと沿うまで、入念にグラインダーで仕上げすることを要求され、別途、溶接施工要領を出図することになった。ポンツーンの設計は、余り、違わなかったが、コラムの設計からは、本腰を入れなければならない。少しでも疑念が湧くと、NVのローカルサーべーヤーと協議するが、規則と言っても細部まで規定している訳でなく、勢い本国に直接尋ねることになる。ポンツーンとコラム、コラムと上甲板、ブレーシングとコラム、および上甲板の格点部などの設計では、本国に頼らざるを得ない。
通常、レターは原稿を書き、船業(業務)が翻訳して顧客に出すのが常だが、それでは間に合わないので、私は直接英文のファックスを書き、オスロまで打電した。オスロには、Mr.Knudsenがいる。私からのファックスに対しては、プライオリティNO.1で応えてくれた。

オスロとは7時間の時差がある。夕方5時に打電した時は、向こうは10時である。Mr.Knudsenはその日に検討をし、翌日私が出社した時には返事が返っているのが常だった。

Mr.Knudsenのお陰で、スムースに仕事を運ぶことが出来た。打電した、ファックスとその回答の数は、数え切れない枚数になっていた。
船が出来上がっていく過程、冷や汗を流すこと、歓喜に打ち震える瞬間、どれも之も興奮することばかりだ。船は(リグも)総合芸術である。一人で出来る訳ではない。しかし、船殻構造は私と私のスタッフがやったことだけは確かで、図面が出来上がるたびに嬉しさがこみ上げた。そうして、また多量の改正図面も発行された。
これらの仕事はやりがいがあり、私は幸せだった。

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休みは、時々会社の連中とゴルフに出かけるぐらいが唯一の気晴しですべてはF576を中心に回っていた。

F576のNVによるオーディットが始まった。しっかりと書類は整備され、完全にコントロールされ、下流工程に渡っているかなど、数項目にわたる、オーディットに、詳細設計、線図、工作図、原図を主掌する私の責任は大きかった。書類に不備がないよう、各部署に指示、リハーサルを行って、難局を乗り切った。(現ISO9000のようなものだ)

NVに依るオーディットも無事クリアーし、F573も建造段階に入った頃、S1336(PCC)自動車運搬船が入ってきた。残念ながら、リグの引き合いが暫く無く、私は一般商船に復帰、手慣れた自動車運搬船を手がけることになった。同型船の如く、設計のポイントは絞られていた。
ただ時間との戦いだけで、目新しいことはほとんど無かった。特に日本船主の場合は、殊更、問題点はなく、又船級もNK(日本海事協会)と、組み合わせとしては、問題は殆ど起こらない。無事に進水式を終え、艤装岸壁に繋がれたS1336は3ヶ月の入念な化粧(艤装)に入った。この時点では、我々構造設計室の仕事は、済んだことになっており、次の船の設計を進めることになった。
次は、S1334、一般貨物船だ。この設計も順調に推移した。ただ、狭隘な箇所での補強材の寸法を、如何にするかで、多少の検討が要った。
えるべ丸やおーすとらりあ丸の様な3軸、2軸船ではないので、簡単ではあるが、やはり舵と、スタンフレーム(船尾骨材)は、誰にでも任せられるものではない。
私も何隻かの舵を手掛けたし、船尾骨材も設計した。世の中良くしたもので、それを得意とする、職人肌の人材がいる。その人は、器用な手つきで、これらの仕事を、他人の70%ぐらいの早さでこなす。私は、それを受け取り、形式的なチェックを行う。非の打ちようがないが、要所は確認しておかねばならない。
船尾骨材(スタンフレーム)の内部は、狭隘であること、迷路の様になっていることで、滅多に現場でも入っていかないが、マンホールの大きさの限界は、Φ350で人間が入るのに問題はないかとの話しで、実際に潜ってみることになった。スタンフレームの入り口は、エンジンルームの最後端シャフトが通るその下に400×600のマンホールが開いている。そこから、懐中電灯と、腰にひもを付け、名札を壁に掛け進入する。懐中電灯は当たり前だが、腰のひもは、帰りに間違わないようにとの準備だ。更に名札を壁に掛けるのは、タンク内に入っているのを気づかず、マンホールを閉じてしまわれないためだ。暗くて窮屈で、とても嫌な仕事だ。しかし、職人は、全てこの様な狭いところでも仕事をしている。入ってみて初めて分かるのだが、とても息苦しく、閉所恐怖症であれば絶対に我慢が出来ないであろう。

正に「百聞は一見に如かず、百見は一験に如かず」とは良くいったものだ。思えば若い頃、私は舵の設計で一度失敗したことがあった。舵はストックと呼ばれる長刀状の鍛造品により操舵機からのトルクで、回転する。ハードオーバーtoハードオーバー(舵を左右に一杯切る範囲)で70度の回転が出来ることになっている。ストックが、廻っても船体に当たらない様に、船体の開口を決める。
ストックには勿論機械との取り合いだから、切削のための削り代が設けられている。この削り代が結構大きくて、最終段階でないと削らない。私は図面の出来上がり通りの寸法で、船体の開口を決めた。即ち削り代を計算に入れなかった。
たまたまその船のアライメントが少しずれて、削り代が、均一ではなく、偏ってしまった。このため、艤装岸壁でのステアリングテストで、片側に35度振れる前にストックが船体に当たってしまったのだ。小舟を出して、その箇所を検査したが、船体を切り開口を広くする以外になかった。現場に迷惑を掛けた一例だ。

当時現場の人間からよく言われた。「設計は、改正、改正と簡単に言う、そちらは消しゴムと鉛筆で済むだろうが、現場はそうはいかない。もう少しちゃんとして貰わなくては困る。」今でも頭にこびり付いて離れない。設計としても、もとより、改正をすることが本意ではない、船主の要求、船級協会の要求、ミス等色々な原因がある。ミスで、迷惑を掛けることは、はなはだ心苦しい。チェックする側の落ち度と、設計者のポテンシャルの問題だ。それは全て、私の責任になる。しかし、現場も狡いところがあって、水密隔壁に誤って孔をあけた時には、密かに孔を埋め、裏表にグラインダーを掛けて、澄ましていることもある事は前にも述べた通りだ。

VZ750を駆って吉備高原へツーリングに行った。そのころ知った、総合課のAIm氏と一緒だった。吉備高原は、当時はまだ少なかった、テクノポリスとなっており、広大な敷地に、アカデミックな建物が、散在していた。VZ750は快調な排気音と共に、ゆったりと、私を目的地に運んでくれる。
私は、ヨーロピアンスタイルは嫌いで、アメリカンスタイルのバイクが好きだった。何と言っても、ゆったりと乗れる。更にスピードはと言えば、際限なく出ることになるが、その時は、地道に走った。とにかく、馬力と重量比から言うと、乗用車の比ではない。一人で軽い車体と、750ccから出る馬力を消費するのだから、スロットルを数ミリ手前に回すだけで、鋭い加速が得られる。正確な仕様は、
全長×全幅×全高=2295mm×850mm×1225mm空冷4ストロークV型2気筒/DOHC、749CCギアレシオ比は2.250~0.857迄の5段変速、車両重量295kg、タンク13リットル(之は少ない)、最小回転半径2.9mである。66馬力/7700rpmは扱いやすく、車体のブラックも革ジャン、ハーフフェイスのヘルメットの黒とマッチして、精悍な感じがする。タンク両脇の赤がポイントだ。

仕事では、数多くの会議がもたれた、委員会形式のものも多く、その殆どに出席した。HT(高張力鋼)委員会、溶接委員会、新日鉄合同委員会、H-CAD(船体の計算機によるデザイン)、JOS会議(JOB ORDER SHEET)、VA・VE会議、CT小集団活動、SHR(船体構造連絡会議)、SVR(船体振動連絡会議)それと社外の船体構造委員会関西地区部会、西部地区部会。その殆どが、長い会議だった。
従って、会社では、休む暇がないぐらいの忙しさに明け暮れ、それでも土曜日、日曜日はVZ750で走り回った。HT委員会にリグの軽量化(コストダウン)が掲げられ、如何に軽くするかが検討された。
私は、厚板に付ける防撓材(補強)の軽減を提出し、改善提案A賞を貰った。それまで数件の改善提案は、B賞止まりであったために、A賞は、やはり嬉しかった。
S1323の海上公試にも乗船した。全ての仕事が、私の下に集結する感じだった。GOo室長は、私を非常に買ってくれて、色々相談を受けた。部下の課長補佐昇格人事についても諮問があり、室長の部屋に入り込んで、調整をした。(室長は、東京から単身赴任で来ていた:そして、ほどなく肺ガンで亡くなられた。55歳の若さだった。)
私が師事した人は、早世する。卒論時の大学の教授もそうだった。私自身孤独で生きていく運命なのかも知れない。
身勝手な言い分かも知れないが、小さい時から、兄に相談すべき人はなく、姉たちは、歳の離れた弟を、1人前としては認めてくれていなかった。今日の欠落した人間形成は、幼くから、そんな環境のせいであったからかも知れない。(言い訳か??)しかし40過ぎたら、自分の顔には自分で責任を持てと言われるのだから、何時までもそれを理由に逃げる訳にはいかない。

少しゆったりした気分の日、私は、湯郷に向け、VZ750を飛ばした。津山に抜けるR56を、途中から、東に折れ、美作三湯の一つ湯郷温泉にたどり着いた。旅館と交渉、入浴と昼食と休憩室を確保し、ゆったりとした気分で、露天風呂に入り、汗と、垢を落とした。暫時運ばれた昼食を食し、暫く休んで、帰途についた。
VZ750は快調そのもので、私と一体となって、右、左に自由自在に動く。私は、最初のイグニッションと、右手のスロットル、ブレーキとクラッチ一連の操作をするだけでよい。クラッチペダルは、ロータリー式ではなく、5速迄踏み込むと、シフトダウンはキックアップが必要である。革のブーツは、それに適した形をしており、私を悩ませることはなかった。

そんな頃、船殻設計の隣のグループでは、吉田号の改造の設計が進んでいた。クレーン船で、吊り上げ荷重を、1600トンから2200トンにアップする工事である。私は、違う仕事(F573,S1336,S1334)を持っており、S1348(吉田号)は、関係がなかった。設計当初からタッチはしていなかった。それが、ひょんな事から、その面倒も見ることになり、途中から参画した。この事が、私が部長になれなかった原因になろうとはその時気づかなかった。

吉田号は、補強方針も決まり、図面も出図されていた。私は安心して、新しく部下になった人達を信頼していた。補強図通り、吉田号のシアーズ(門型の胴体に当たる部分)の補強もダブリング(足らない板厚を追加して重ね溶接をして、厚板の様にすること)にて終わり、係留岸壁で、いざ仮に荷重をかけた。丁度昼休みのサイレンが鳴り、職員はじめ職人達は、食堂に向かった。とその時である。大音響と共にシアーズが曲げを伴う圧縮座屈を起こし真二つに折れてしまった。

私は慌てた、早速現場に急行した。見事に二つに折れている。GOo室長も押っ取り刀で駆けつける。設計陣は、実質の責任者を初め全員が集合した。何故折れたのか、計算は合っていたはずだ。
現場の状況を目の当たりにして設計室に帰った私は、もとの図面を要求し、私の元に届けさせ、調べ始めた。
図面は、相当古く、ゼロックスの状態が悪い。もとの板厚を探したが、見えにくい。従来から、1枚の板には1箇所しか板厚を書かないことになっている。やっと見つけた板厚は、虫眼鏡で見ないと分からぬ位に薄かった。それでも目をこらすと、13mmと見える。計算書では、補強後25mmの板厚が必要である。従って、ダブリングは12mm以上必要になるはずだった。

しかし実際は、7mmのダブリングしかしていなかった。設計者は、13mmを18mmと見誤った様だった。起こるべくして起こった事故だった。その事が分かり、工場長にも伝わった。工場長は、直接の設計者の大学の先輩に当たる。1階の工場長室からわざわざ、4階の設計室まで上がってきて、担当者に向かい。
「君は何だ!大学院まで出て、何をしておるのか!」と一喝しそのまま降りていった。ショックを受けたその設計者は程なく、会社を辞し、九州の田舎へと帰っていった。帰り際に、私の家を訪れ、「課長にはご迷惑をおかけしました。之から後始末が大変でしょうが、私は、田舎へ帰り、やり直します
帰って何をする当てもないといいながら、全身に悔しさをにじませていた。

ミスをしたことは分かっている。それを弁解するつもりはない。その後の工場長から直接の叱責は、彼にとって我慢の限界を超えていたのだろう。
日頃、工場長の好きな「鼎の軽重を問う」という言葉を工場長自身理解して使っているのか、大いに疑問が湧いた。

その日から、構造設計室挙げての解析、有限要素法、理論計算が始まった。計算のモデル化は、実物と同じでなければならない、若い気鋭の技師達は、モデル化に、徹夜の連続となった。室長も私も徹夜した。理論計算からも、5mmの差を埋めることは出来ないこと(それだけの余裕がないこと)がほぼ明白であった。元来それ程の安全率を取って設計するものではないからだ。
連日の徹夜で、疲れ切っていたところに、設計部長が現れ、「君たち、毎日徹夜したら、体に悪いし、能率も上がらないだろう、今日は早く帰りなさい」という。有り難い言葉に皆、一様にホッとし、帰り支度をした、既に10時を回っていた。
ところが一夜明けて、7:30頃出社すると、9:00前にくだんの部長が、現れ、「昨日の結果はどうなったかな」ときた。私は、頭にカチンときた。昨日は帰って寝るだけ今日は来たばかりで、進展していないのは当たり前だろう。それを、なんて言う奴だ、と思った。それだけで終わっておけばよかったが、その事が尾を引き、とんでも無いことになってしまうのだった。
そうこうする内に、吉田号は、新しいシアーズを搭載、試運転に出かけた。瀬戸内海を走るクレーン船のシアーズの基部から異音が発生しているというので、私は、付け根によじ登り、異音の出所を探った。幸い、新造部分と古い部分の馴染んでなかったことが原因で、特に問題とするほどではなかった。

こうしたくすぶった気持ちを持ちながら、暫く仕事を続けた。この事が、私の人生の岐路(ターニングポイント)となった。その年の、半ば、親友である、バスケット仲間のTNaと会った。
何となく、離れた友人に会うことは、それ自体で楽しい。取り留めのない話しをして、再会を約し、別れた。数日後、設計仲間のTIk氏が脳梗塞で倒れた。入社直後の数年は、私をいびっていた人だったが、最後は私の力を認め、信奉してくれる一人だった。
酒が好きで、よく一緒に飲みに行ったが、それが為、命は取り留めたが、大事な右半身不随の後遺症を残してしまった。設計者が図面を引く事がままならない、こんな致命的なことはない。然し、彼は懸命のリハビリでこれを克服し、停年まで勤め上げ、年金生活で細々と暮らしているという。TIk氏との間の話では、私には大・小2つの失態を思い出す。

1つは、去る年の正月2日(随分昔の話しだが)私は、車で、TIk氏の家に行き、酒をご馳走になった。勿論他の仲間達も来ていた。帰り、本通りに出るまで短い農道があった。先導の車が、軽四だったこともあり、軽く考えていたが、アクセルを踏み込んでも車が前に進まない。それもそのはず、少し酔っていたせいもあり左の車輪を道脇の溝に落としてしまっていた。
TIk氏を呼びに戻り、又他の仲間も呼んでくれ、力を合わせて、車を引き上げてくれた。その時は、雨でグショグショになった一張羅の着物と、最悪の気分で、皆の協力に礼を言い別れた。

もう1件は、TIk氏と一緒に会社近くで飲み、彼のスーパーカブ号の後ろに乗せて貰い、同方向の家まで送ってもらう途中の交差点で、警官に止められ、飲んでいないかとの質問を受けた。
TIk氏も私も警官とは反対の方向を向き、「飲んでいませんよ」と応えた。それで納得したかどうかは疑わしかったが、「注意して帰って下さい」との一言に、二人で、「危なかったな」と言いながら、帰った。当時は、酒気帯びについて、それ程厳しくはなかったために起こした軽率な行為だった。

その後、旭翔丸の損傷で、神戸製鋼の高砂岸壁に行き、エンジンルーム近傍の飲料水用タンク内にひび割れが発生しているのを調査、対策を取った。この手の損傷は、数え切れない位有った。エンジンを起振源とする、振動による疲労破壊である。又、幸陽ドックから船体振動の計算を請負い、その結果を持って同造船所を訪れ、成果品を渡し内容を説明した。当然、計算した本人を伴って。幸陽ドックには、私が入った時に世話になった、上司が行っておられ、何くれと無く、所内を案内、ご馳走にもなった。

仕事は物量的には、少なくなっていた。リグはもとより商船も数が減ってきた。韓国の攻勢がこの頃から始まっていた。

VZ750は幼い頃養子に行った兄の所へ向かうべく東に向かった。養子に行っていなければ、直ぐ上の兄である。日立造船時代、シンガポール駐在所長を勤めた時、訪れたことがあることは既に述べた。その後も、冠婚葬祭には、必ず顔を出してくれる、力強い理解者であった。その兄嫁とは、兄が向島在職時代に訪れた時に最初に会い、鴛鴦の仲を羨ましく思った。又私より2才上のその兄は、私が、大学を卒業して、造船会社に入った時「何で造船に入ったんや?」と聞いた。冗談じゃない、こちらは造船に入るために造船科を志望したのだ。「兄貴こそ、ロシア語学科を出て、何で造船や」と聞いたものである。
その兄は又、卒業祝いにと、フランクチャックスフィールドの、レコードを贈ってくれた。その「引き潮」が大好きだった。

その昔、私は、YYの希望に応じて、フルトベングラー指揮の「合唱」のディスクを贈ったことを思い出した。今も大事に聴いているという。(カラヤンは駄目という、どっちでも良いのになぁと私は思ったが)レコードの溝の傷み程度には、私たちの関係も傷んでいるのだろうか。
兄は、「君は学生時代遊んでないだろうから、これから球技を教えてあげよう」とあらゆる球技に連れて行き(パチンコ、ボーリング、ビリヤード・・)最後に三宮のガード下の「ミン・ミン」で旨いビールと、美味しい餃子をご馳走になり、社会人生活のオリエンテーションをしてくれた。

私の兄はまた、やがて海外に行くこともあるだろうと、伊丹空港に連れて行き、空港の中とシステムについて教えてくれた。受験勉強ばかりしていたので、見るもの皆珍しく、兄貴のガイドは、とても参考になり嬉しかった。それまでの私は、飛行機と言えば、生駒山の遊園地で、紐の付いたぐるぐる回る飛行機に乗ったぐらいだったから。

それからまもなく、VZ750で中国縦貫道を走り名神、東名と高速でぶっ飛ばし、藤沢の辻堂にある兄の家に到達した。向島時代は、小さかった子供も大きくなり、それぞれに別の核が出来ていることを目の当たりにした。
私は、そう言う意味では幼稚で、昔の陰を引きずり、昔の感覚で物事を見てしまう嫌いがあった。何時までもYYの影を引きずっていた。

辻堂は良い所で、狭い土地一杯に建てられた総二階の家は、周りとほぼ同じ形状をしていた。又海岸に近く、瀬戸内海とは違った、少し荒々しい海に白砂は綺麗だった。積もる話しをし、飲み、語った、離婚の話はしなかった。
タブー的な取り扱いであった。一晩泊めて貰って、帰途についた。何のために行ったのだろう、死んでも悔いが残らないようにと考えているのだろうか。私には分からなかった。とにかく、人恋しかった。YYのことが自然に浮かんできた。
厚木ICから東名を西進、あくまでVZ750は快調なエンジン音を響かせた。高速に乗ると、スロットルだけを維持していれば、急ブレーキの心配もないし、クラッチ操作も要らない。
私は、両足を前方に投げ出して、反り返る様に時々左右を見回しながら走った。周りに車はいない、陽光もうららかである。突然後方にパトカーが迫った。私は気が付くのが遅かったが、パトカーが何か言っている。どうも自分のことらしい。ふとスピードメーターを見ると、100km/hは出ている。当たり前の、それこそ、止まった様なスピードだ。でも法令では、単車は85km/hと決められているらしい。次のインタチェンジで降ろされ、免許証を見せろといわれた。単車如きで、道路を傷めるわけでも無し、スピード違反といっても、全く事故の心配もなく空いている道なのにと多少恨めしかったが、規則は規則、罰金チケットを貰ってしまった。

 私は息子と会った。息子は大きくなっていた。その時カローラはまだあったが、息子をVZ750の後ろに乗せて、鳥取まで連れて行ってやろうと思った。岡山で、用事があり、少し駐車してその間に用事を済ませ、それから56号線を北上した。息子は、初めて乗る単車に、少し興奮気味だった。私は会わずにおこうと決めていたのに何故か、一緒にいる。複雑な気持ちだった。
御津郡にさしかかった頃、警察が、私たちを制止した。何事かといぶかしく思った。スピードも控えめにしている。息子にも、ヘルメットをかぶせてある。落ち度はないはず。止まって、注意を受けた。何と、後ろの(単車には後ろしかない)ナンバープレートがはずされている。気が付かなかった。あの時岡山で、少しの間の駐車した時にやられたのだ。当時、車のナンバープレートを取ると、受験に合格するという変な言い伝えがあったらしいことは後で聞いた。表札は聞いたことがあるが、ナンバープレートまではと、絶句した。
流石の警官も、同情を示してくれたが、その先に行くことも、そのまま乗って帰ることも、許しては呉れなかった。息子と悄然と御津警察署を後に津山線に乗り帰った。後で、運送屋に頼んで、VZ750を引き取りに行った。

この年は、昨年に続き、大荒れの年だった。色んな事が凝縮され起こった。前後が、入り交じっているかも知れない。私より1年遅く入社、辞めていった吉田号のSMa君と同窓の九州男児YYu氏(修士)が、東京へ転勤するという。尊敬する人だったので、これまた監査役の時と同様、ショックが大きかった。段々と、人は去り、自分だけが取り残される不安感が募った。然し、何度も断った自分なのだから、まさか東京へは行くまいと思っていたので、仕方がないことだった。ただ、机を並べて共に仕事をした人が、急にいなくなる寂しさは、真面目に付き合ってくれた人だけに、心底寂しく、すきま風が吹いた。

GOo室長になってから、私は人事の採点に強く関与させられた。年度考課にも私意見を求められた。そのころ、もう一人いた、課長は、主に原図を所轄し、詳細設計と、線図、工作図は私のテレトリーとなった。たて続けに、各係の面接を行った。若干の配置換えも行った。その間F576の船主・NVらによるAuditも行われた。設計および鋼材関連と別れ、延べ3日の長いAuditだった。更にNPDのAuditは果てしなく続いた。その為、予定されていた住友金属との技術交流会も流会となったほどだ。
もう一人の課長は、インドネシアへ、技術援助のため出張した。

この頃から造船の風向きがおかしくなり初め、会社では緊急総合対策、危機突破総合対策などが謳われ始めた。ドックでは、F576もポンツーンは終わり、コラムの搭載が始まっていた。その間も船主、NVとのMeetingは、頻繁に行われた。

 ようやく軌道に乗り始めたリグの仕事もぱったりと受注されない。言いようのない不安感と、憔悴に、その日を生きるのが精一杯だった。一人暮らしでも、家事はもとより出来ない。野菜と肉を炒めて食べるしか能がない。外食施設の少ない田舎故食事に困った。

ある晩は、ウイスキーを痛飲し、したたかに酔って、死を綴った。筆で、「死」と大きく書いた。又「無」とも書いた。その二文字の書体と、濃白の加減が、どことなく自分を一番表現できているような気がした。

F576の正式重量集計が終わった。Mr.Tornnssenと討論をした。また、Mr.Gansmldにも電話した。原図のベテランで長老のKa課長補佐の送別会が不老閣にて行われた。本当にご苦労さんでした。彼はちゃんと後任を指導育成して、花道を飾った。
対外的な、委員会や、社内の委員会にも、台頭してきた若い優秀な人材が、私に替わって出席する機会が多くなった。特に、若い2人は、とても素晴らしく、敬服する。
一人は、Gulf Canadaで又吉田号の解析で、辣腕を振るったTTs君、もう一人は、振動関係や、構造解析関係で、力を発揮したNFu君。NFu君は、私が最初に、船主交渉で帯同し、こちらの思いを、彼を通じて言わしめたら。「○○さんは厳しい、自分で喋ってくれるかと思ったのに、人任せにして」と不満げだった。勿論、私は要所をサポートした。でも後で、「あのやり方で、私は目覚めた」と言ってくれた時には流石に見込んだだけのことはあると内心嬉しかった。

F576のMooring(係船)計算結果の説明会があり、ムアリングによる力が、どれ位かがはっきり示された。通常、船も、リグも同じだか、Mooringは先端のアンカーではなく、その後に蛇の様に繋がるチェーンの重量で持たすことになる。チェーンはカテナリーと言って、深さ百数十メートルに係船する場合、大きな曲線を描く、これを先端の錨が海底との引っかかりを作る様になっている。
船は、チェーンの重量で、係船されることになる訳である。

私は、2度TIk氏を見舞った。段々に回復している様子と、氏の努力とに敬意を表した。そのときTIk氏は職制上、私の部下になっていた。

*****

一人になった寂しさをじっと耐えることが出来ず、YYに電話をした。
会いたい。そういった。
梅田で待ち合わせるということに同意してくれた。
なぜかこのときしらふで会うことが出来ず、酔って醜態をさらすことになってしまった。記憶は定かでないがあとでそうだということを知らされた。
この心の動きはなんだったのだろう。

******

私は独白をした。
「自分の人生は、長い緩やかな坂道を、ゆっくりと転がり始めてしまった様だ。段々と加速して抜き差しならぬ様に、と言うか途中からでは誰にも、おそらく自分でも止めることは出来ないだろう。
自分は望んで死にたいという訳ではない。日々の生活の中で、このまま悪戯にただ息をすることが何の意味を持つのかとの疑問だけなのだ。自分は今、確実に1つ1つ確かなものを失い、壊されている。それも音を立てて。本当の意味で、自分が再び生を意識することがあるだろうか。
自分も歳を取った。少しは枯れて良いはずだ。なのに、自分の意識は、薄汚くギラついている。今、自分は数えるほどの人間の温かさに支えられて辛うじて生きている。本来最早死を選んでいても何の不思議も、不都合も無かった。ただ勇気の無さに生を悪戯に永らえているとしか考えられない。この夏休み、北海道へ行くつもりだった。

でも空しかった。自分の我が儘が、常に通ると幼い頃からの甘えの構図が、自分を半玉に育ててしまった。もう、他人のために生きるのは嫌だ、と言って今更自分のために何を目標に生きるのか。自分には、具体回答はない。一番大切な星は、無惨にも跡形もなく消えてしまった。・・・・・「安らかな死」・・・・・。

葉隠れにあった。
「大難大変に望んで動転せぬは未だし、歓喜勇躍して進むべし」と
とても其処まで達観出来ない私だった。


造船時代その7に続きます。





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