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ジンバブウェ時代その4
私がジンバブウェで仕事をした時の日記(4)です
6月7日(金)
デブレ1橋、ソテ橋の仮オープン検査である。朝4:30からうつらうつらしていた。7:00には支度して待つも、TIk氏は、寝ぼけ眼で少し遅れてきた。マシンゴで、プロビンスの役人を積んで、11:30に現地に到着した。
細かい点は、コメントが付いたものの、仮開通には支障がなかった。
ペンベジ橋の護岸は、道路上に出てきた岩盤を破砕した採石を使って行う予定にしていた。私は、余り見栄えの良くないものだと感心しなかったが、MOTEは特に異論を唱えるでもなく、鴻池も、廃材の捨て場所を兼ねられるので、ちょうど良いと考えているようだった。
Taさんの奥さんの病状は余り芳しくなくA型肝炎であるという。心配だ。
土曜日は、ゴルフ(チャップマン)成績以上に、気分は悪かった。帰って、風呂に入り、フィフスアベニューに買い物に出かけた。TIk氏は、今年で、昇格を3回も見送られたらしい。私の場合もそうだった。仕事が出来ることと、出世をすることは、別次元である。
気分は悪いが、それもこれも自分の一生。如何ともし難い。
日曜日は、Tsu夫妻と共に3人でウィンゲートへ行く。帰りは、買い物をして帰る。バスターが無闇に吠える。気持ちがイライラしているので腹立たしい。薬を飲み平衡感覚を養う。アフリカ生まれの犬の馬鹿さ加減にはほとほとあきれる。この所、バスターに起こされることが多い。
本社とはペンペジ橋の法面保護の件で、やり取りをする。TIk氏としても、KTaさんの指示書があれば動けるが、鴻池の本社に無断で動けないと言う。
Ta氏と、シマンゴの3人で、ドネーションの銘板を注文に行く。
法面保護の返事は、意外と簡単に来た。どうも、分かっていないけれど、何かを言わなければという位のコメントであったようだ。
JICAと大使館に、引き渡しセレモニーを10月初旬と話したが、大使館からは、9/末~10/初と幅を持たせてくれるように依頼があった。
家のゲートの具合が悪く、業者が見に来たが、すぐには直さず来週の月曜日だという。
アフリカでは全てについて、スローモーである。イスラムでないのに、インシャーラだ。
段々寒くなってきて、ストーブがないと少し冷える感じである。
土曜日は、TSu夫妻とウィンゲートに出かけた。私は寝起きが清々しかったせいもあって、グロスで96だった。100を切ったのは、2回目位か?此処にいてはゴルフとカラオケが楽しみである。夜、街に出かけても闇の中に漆黒の黒人が目をぎょろつかせていると、どうにも楽しくない。
日本人会は、せいぜい200人足らずだと聞いた。その中でもJOCV(海外青年協力隊)が半分以上を占め、一般の企業人は、数えるほどであった。
夕刻、TSu氏宛に、モザンビークのMta氏からFAXが届いていた。
日曜日、ポリスコースで計画された日本人会のコンペは、コースが悪いので、不参加とさせて貰った。しかし、後期のマッチプレーの組み合わせだけは、配りに出かけた。
Ta氏は、急に発熱で、ダウンしたらしい。医者に言ったが、げっそりとやつれていたらしい。マラリヤではなく、肝炎かどうかは明日判明するとのことだった。奥さんの肝炎が移るはずもないのに・・・。
私も、耳鳴りがしたり、体調は今ひとつ優れない。
矢張り此処は、日本の裏側になる。如何にも遠くへ来たものだと思った。
Ta氏は、それ程心配がないことを知って安心した。というのも、仕事は、Ta氏がやっているのであり、余人ではつとまらないと思ったからだ。
銘板、完成図、引き渡しセレモニーなど、最早ホームストレッチに入った状態だ。
火曜日は、ODAの一環である日本からの供与機材が、適切に使われているかどうかを調査しに出かけた。ウングウェ方面の奥、ネマンゲからキワリナニの間道路敷設に、真面目に使われていた。
帰り道、いつもと反対側からウングウェ橋を通った。道路脇の植裁は、不十分だが、エロージョンは軽微であった。
Ta氏は、最後はちゃんとするといっていたが、本当にやってくれるのだろうか。
16:30過ぎ帰宅して、新聞を一通り見て、親子丼とビールで夕食を済ませた。
翌日、秘書のマトーレが、試験があるとかで、半日休む。
電話連絡で、小路一等書記官と話し、セレモニーに、ムガベ大統領を呼ぶと、警備が重大となり、且つ時間が定まらないので止めるべしとの話しがあった。
Ta氏は、小康状態だったが、又食欲が無くなったとか。並の人間では参っているだろうとのことであった。
事務所兼宿の家賃の支払いについて、最初の契約書をひもとき調べ直さなければならなかった。
主にニョニが現場検査のために使っていた、バイク売却の件も、ピックアップの処分についても、とにかく余計な心配が全てレジデントエンジニアに掛かってくる。それでなくても小回りの利かない私は、ほとほと困ってしまった。
夕食は、伊藤忠の招きで、会食となった。ケニアから、東アフリカ事務所長の遠藤氏も見えていた。
余り知らない面子で、飲み食いしても面白くなく、21:00に引き上げた。遠藤所長は、引き渡し式に参列するとの事だった。
翌金曜日、グツ4橋を視察に行った。6:00起きである。チブからグツを通過したのは9:30だった。それから地方道路に入り、16:25グツに戻るまでに、デブレ1橋では、路肩の補強である布団籠(ギャビオン)の取り付け方が、Ta氏と約束通りになっていない。単に置いてあるだけではないか。これでは、滑り落ちる危険がある。
直ちに、南アの業者をつかまえ、これでは認められないと大声で言った。業者は、何やらわめいていたが、
ミスターTaと約束した通りになっていない、どう考えても納得出来ないので、工事の終了証明にはサイン出来ないと突っぱねた。
何やら大声で、文句を言っている風だったが、次回までに直ってないと、承認出来ないと私は頑張った。大きな声でやり取りした後、ハラレに着いたのは19:00であった。英語で喧嘩をしたのは初めてである。
コントラクトの内容で、本社のKTaさんとやり取り。舗装道路の幅の件であった。
鴻池のYto君がインターネットを使っているので、一寸借りて、日本の友人にメールを送った。
私は、一切料理が出来ない。これは、もう海外では通用しないということである。
久し振りに夜はくつろげた。
翌日曜日も久し振りに寝坊をして1日読書などして過ごした。
月曜日は相変わらず、5:30にKTaさんのファックス音で起こされる。道路舗装の見積もりと実施工が合っていないのではと、散々に揉める。ガードナーのパトリックは、無断で、マシンゴに行ったり、運転手のマレーテは、親戚の子が死んだというので、明日の午前中一杯休むとか、気持ちの休まることがない。
就寝前に抗不安薬を飲んで寝ると少し気分が休まった。相変わらず、舗装の件、セレモニーの件、銘板の件で、MOTEと折衝をする。
水曜日、KTaさんから電話が入った。29日にハラレに入り3日に帰るという。3日後だ。
日商岩井(TSuさん)にミクルスホテルの予約を依頼した。
ボールペンのレフィルが無くなり、街に買いに出るも、4軒とも無し。最後の一軒は、閉まっていた、やっぱり此処はアフリカか。結局TSuさんに手配して貰うことになった。
Ta氏が、回復の挨拶に来る。元気そうで良かった。
結構何やかやと忙しい中、息抜き代わりにKTaさんが来ることに反発を覚える。1日現場を見て、1日文句を言って、マトーレには、次期プロジェクトのカンボジアの仕事をさせる。
いい加減にして欲しい。
明日からKTaさんが来るので憂鬱である。MOTEに行き、
1.モニュメントの件(ドネイション、オープニングセレモニー)
2.銘板の内容
3.セメントスタビライズの件
4.機器再輸出の件
を話したが、こちらの内容が、十分吟味されていないので、思うような成果は得られなかった。
TIk所長の考え方は少し甘いようだ。JICAに対しても、植裁の単価を上げてつじつまを合わせようとしている。
TYa氏は、次期プロジェクトを起こすべく、レポート(プロポーザル)を作成している。
TYa氏の場合も、このプロジェクトが終わると日本に帰らなければならない。そうならないようにとの画策である。
土曜日、KTaさんが来る日だ。4:30に目覚め、7:20に起きあがった。
今日は全員出勤だ。こういうところが、アフリカ人はずるがしこい。ちゃんとボスが誰だか心得ているようだ。
10:00空港へ出迎えに行く。10:30着で、イミグレーションからはき出されたのは大方11:00になっていた。そのまま、ミクルスホテルに直行チェックインをした。14:00にホテルにマレーテをやり、ピックアップさせて。事務所で話す。
今もめていることは、MTa氏の怠慢であると。悪口が出てきて、聞きずらかった。
TSuさんも表敬で挨拶に来る。
私は最後の事務所閉鎖の件で、車を売ったり、家具を売ったりいろいろと面倒なことがあるので、一人では、心許ないと言った。
夕食は、家で食べずに、ミクルスホテルで、鴻池の3人と食べることになった。
日曜日、9:00からインターナルミーティングと言うことで、少し突っ込んだ内容で話す。
私は、おい込まれると、フィリピン時代がそうであったように、「黒い犬」がちらちらする。
幸いKTaさんの私に対しする評価は、これまで、非常によいものであった。
鴻池との話で、TIk氏のその場繕い的な話に嫌気がさす。
18:00迄掛かって、内容に進展はあったのだろうか。
そのままTSu邸で、夕食をご馳走になる。
月曜日は、グツ方面の4橋へ向けて出発。デブレ1橋でシーディング(植生)の定点観測地を決め、3ヶ月毎の写真と、共に報告を貰うことになった。
それを過ぎ、ペンベジ橋まで行き、車中でおにぎりを食べた。
何しろ、どこもそうだが、現場近くに適当な食事どころがない。それを十分承知で行かなければならない。
往路では、KTaさんと、TIk氏と一緒の車だったが、やりこめられるTIk氏は、針の筵のようであり気の毒だった。しかし、TIk氏も、やります、やります、のオウム返しであり、誠意が感じられない。どれが問題点であり、それを何時までにどうするのかを答えないと、迫力がないと感じた。
口元で、くどくど喋るのは、聞いていてももう一つはっきりしない。
そのまま、ハラレに直行した。チブからこっち、ハラレまでは、疲れて、ぐったりとなっていた。
17:30過ぎミクルスホテルにKTaさんを降ろし、そのまま事務所に戻った。
今日のドライブ出勤は、何時もと違って、ことのほか疲れてしまった。
グツ4橋から帰った木曜日、ジンバブウェでは議会が開催された。MOTEもそれに連れ、忙しそうであった。
TYa氏は、チルンド橋を次期ODAの俎上に載せたくて、いろいろ工作をする。
KTa氏と2人で、大使館に大使を訪ねた。束原大使と、小路一等書記官に会い、セレモニーなどの件について、意見を交換した。
5:00からは鴻池と打合せ、5:45、矢のように、ミクルスホテルに帰っていった。
KTaさんのシャワーとマッサージが終わった頃、ホテルにピックアップに行き、久し振りにこの頃疎遠になっていた、パールガーデンにて夕食を取った。TYa氏と、KTa氏は、本四公団でほぼ同期であったようだ。私は、畑が違うが、同年代であり、TSu氏は、大分若かった。
食事後、TSu邸に流れて、カラオケと言うおきまりのコースになった。
帰りの車の中で、KTaさんが、一言、TSu氏を嫌な奴だと言っているのが印象的だった。
商社で、過ごし、僻地にいると、どうしても生き方が、偏ってしまう。私はしょうがないことだと思った。
そう言うKTaさんも随分嫌われていますよとは、なかなか言いにくかった。
一夜明けた水曜日、5:30に目が覚め、6:30まで、ベッドで悶々とした。私にとっては、悪い兆候だ。
7:00過ぎミクルスホテルにKTaさんをピックアップ空港まで送った。
飛行機が飛び立ったと同時に嵐が去ったようで、どっと疲れが出た。
その後は、Ta氏、TIk氏などと細かい点を詰め、MOTE詣でもした。
年末へ向けての家主代行の代理店と、細かい詰めを行った。
TSu氏が、16:00に来てフェーズ2の要請書の作成について19:00まで話して帰った。
私には大きく気になることがあった。
1.セレモニーをどう行うかを折衝する件。
2.コンプリーションレポートを作成する件。
3.最後に、事務所をたたむ件。
どれをとっても初仕事である。先が見えないのが、私のイライラに拍車を掛けた。
翌日は、TSu氏、フェーズ2の最終詰めを行った。
事務所閉鎖に備えて、マレーテにマツダの査定に行かせる(175,000Z$)とのこと。
MTa氏から電話で、Tan氏が来るとか、Shi部長がルサカ(ザンビア)に来るとか、KTaさんは、カンボジアを受け持っているとか、グラントは誰でも出来るので乗り気が無いとか、キリマネ(モザンビーク)がどうとか、ボツワナがどうとか・・・。
私の頭を混乱させるに十分だった。
ジンバブウェ日本人会の機関誌「じゃからんだ」の原稿を依頼される。今日はとてもそんな気になれない。
じゃからんだは、紫色の花で、釣り鐘状の花弁を持つ、ジンバブウェやアフリカ諸国でよく見られる美しい花である。
仕事は懸案事項が、少しずつ解決していく。土日は相変わらず下手なゴルフ。精神的にも、何か追いつめられた感情になる。
ガードナーのパトリックの父親が亡くなったとのことで、休暇を取らせた。
アズビルトドローイング(完成図)が、なかなか出来ないとTIk氏に電話でクレームすると、虫の居所が悪かったのか怒鳴ってくる。本来の私なら、呼びつけて怒鳴り返すところだが(立場的にもそうだが)そうしなかった。時間をおいて、落ち着いたのか、TIk氏がさっきの非礼を詫びてきたコンサルト、ゼネコンの関係とはこんなものである。
海外に来ている連中は、選ばれてきている訳ではない、国内にいるところがないから、放り出されているのが本当のところだろう。私は、自分の身を振り返りそんなものだと一人納得した。
フィリピンで、片平の長老が、いみじくも言っていた、日雇い人夫が、トラックで集められる分、我々は飛行機に乗らされているだけだというあの言葉である。
夕食は、安達氏の送別会で、パールガーデンに鴻池と、私、TYa氏が集った。TYa氏の奥さんは、都合で来なかった。TAd氏も先は決まっていないらしいが、この近傍のアフリカでのプロジェクトに落ち着くことは間違いないようであった。
翌日は、3:30に目が覚めて寝られない。早朝覚醒の悪いパターンである一日中けだるく、MOTEに行っても迫力に欠けた。役所(MOTE)と大使館の見解が違う。MOTEも下っ端と上の意見が必ずしも一致していない。供与道路168kmの長さを銘板に書く、書かないでなかなか一致した点が見いだせない。板挟みで、段々窮地に追い込まれた。
TYa氏が、見かねて安定剤(デパス)をくれた。
翌日の中間検査で、グツ4橋を訪問した。前日来の寝不足で、車に乗るとすぐ寝てしまった。昼前にやっと3橋(デブレ1橋、ソテ橋、ペンベジ橋)のMOTE側の検査が終わった。主に、Ta氏と、チャワンダが応対した。チャワンダは、元MOTEにいた関係で、検査官と気心が知れているのか、割合スムーズに事が運んだ。
帰りの車でも、TIk氏と殆ど言葉を交わすことなく寝込んでしまった。
帰ると、バイクが売れたと言うことだった。富田君が、中に入って、売買契約書まで作ってくれた由。
8000Z$が高いのか安いのか、判断しかねたが、とにかく荷物が一つ減って何よりだと思ったが、買ったと言った本人が翌日になって、要らないと言ってきた。親父が出て来て、買わないと言う。
どら息子の独りよがりであった。
薬のせいか、気のせいか、少し感情的に楽になっていたので、その日は、無事に過ごすことが出来た。
良くしたもので、又バイクを買いたいというのが出てきた。今度は9000Z$である。いい話だ。
夕方、TSu婦人が、タイと、イカを持ってきてくれた。商社には、何でもある神話が、又ひとつ出来た。
一夜明けての土曜日。昨日カップルでやって来た白人の女性が、9000Z$を持ってバイクを引き取りに来た。大仕事を終えた気分で、ベッドに横になり、又起きあがって、MTa氏に仕事が巧く運ばないことを書いたファックスを送った。
夜には、長文の返事で、サポートしてくれる。私にはそれがとても有り難かった。
落ち着いたところで日本人会報「じゃからんだ」の原稿を書き出した。
その内容は以下の通りだ。
【ジンバブウェ雑感】
日本でジンバブェのことを聞いた時には、アフリカ? 暗黒の大陸、熱帯ジャングル‥・ひよっとして未だ腰巻きの原住人が(時代錯誤?)・・・等と支離滅裂且つ途方もないことが頭に浮かんだ。南アの北だとか、ローデシアと言う旧名を聞いて、昔、学校時代にそんな名前を習った事があったなあと思い浮かべる程度だ。早速本屋に出向いて旅行書などを探してみたものの、適当な物を見つけることが出来なかった。
よもや自分がそのアフリカの、この様な地に来ようとは・・・
無償資金援助で、橋と道路の建設のスーパーバイズが仕事。建設現場は、3地域に分散していて合計
6橋あり、どの現場へも各々約300km強の行程、行けども、行けども真っ青な空と、景色が変らないサバンナ地帯の連続、200万分の1の地図で見るといとも簡単に行けそうに見える.何しろ途中に町らしい印が殆ど無いから地図上の距離感覚が日本のそれに比べて一段と短く感じるからだろう。
しかし、日本の地図を重ねてイメージするといずれも東京―仙台、東京一名古屋ぐらいに相当する距離な訳だから、一日掛かってせいぜいlカ所の往復が関の山である。その間もちろん日本のように新幹線がある訳ではなく、ジープでブンブン飛ばすしかない。つい最近、最高スピードが100km/hから120km/hになったとか(でも道路の設計スピードは100km/hだというから曲線部では要注意)。幹線道路の状態は、ここがアフリカとは思えぬ位良く、直線では120km/h越えの高速道路走行も可能。
しかし地方へ行くと時折牛が道路を横断しでいるので注意がいる(歩行牛優先)、さらに朝夕ともなると猿が集団で道を横切る事も珍しくはないし、またインパラ等が急に飛び出してくることもあるのでうかうかしていられない。
しかし良くしたもので運転手はたいてい視力が3.0か4.0位見えるらしく、速くのゴマ粒の様な動きも見逃さない。
巡航速度120km/hで走っていて、市内(といっても若干家がある程度)に入ると半分の60km/hと制限されているために、突然止まったのでは?と錯覚を起こす程である。だがここでスピードを完全に落とさないと、日本同様ポリスが突然現れ、停められて違反のチケットを受けるので注意しなければならない。
途中、田舎道で、土でつくった円形の建物がたくさん点在しているのを見つけ、ドライバーに「あの納屋(最初はそう思った)には何を容れておくのか」と尋ねたものだが、よもや人の住みかだとは想像もつかなかった。ある時、ある人が、「ここの人間は土から生まれてきているから」と言った意味がその時やっと判り、一人納得したものだった。枯れ草の中に点在しているそれらの家々は、高速で走る車の中からは見つけにくく、辺り-面、店も何もない幹線道路の脇を人がノコノコ歩いているのを見ると、「彼らは何処から出てきて、また何処まで歩いていくのだろう?まさか何十キロもの道を歩いて行くのだろうか?」と考えてしまう程だ。
それ位あたりには何もない草むらが延々と続いているばかりで、くだんの納屋のような家は保護色で見分けがつきにくい。当然そんな土の小屋には電灯などあろうはずもなく、仕事を終え現場から帰る暗い夜道では、道路の両側は、ひっそりと静まり返り、月の無い夜は、ヘッドライトの光が前方の闇の中へ吸い込まれて行くのを追いかけ、ただひたすら闇の中に取り残されない様に走ると同時に、底のないブラックホールに向かって得も言われぬ力で引き寄せられていくような気持で走り続ける。
しかし月夜の夕方から日没にかけてマシンゴからハラレに帰る車の中から、下弦の月を見たとき、没した太陽の光があたかも机の下から電光のように机上の月を照らし、月自体が日本で見る薄っぺらな平面のそれではなく、陰影のある球体に見えたときは心密かに感激したものである。
こちらに来て早々のある日、そんな現場への途中、ローカルエンジニアと現場へ出かけた時の事、グツからはずれた食堂のような所で(敢えてレストランとは言えない)、サザ(トウモロコシの粉末をゆでて固めたジンバブウェの主食)を食べているとドライバーが「ミスター○○、あれかムゼンダ副大統領だ」と害う。店の片角で髭の親父が何人かとぼそぼそ打ち合わせをしていた。
何の拍子でか、挨拶をして握手を交わしたのだが、その店のオーナーでもあるらしかったが、何のことはない、“田舎のおっさん”といった感じでとても一国の副大頭領とは信じられなかった。しかし、後でテレビを見ると正にその人だったのですこし驚いたものだった。
南半球やしかもアフリカ、これは私に、最初、暑くてたまらない酷な所との印象を与えたが、(単純な自分は、南極以外の南半球は何処も暑いと思っていた。)全国的に軽井沢とも言える高原であるため温暖、低湿度で、快適な気候は日本にいて想像していた自分のアフリカに対する印象の一部を払拭した。いやそういう意味では、ここは本当の意味でのアフリカではないのかもしれない。
しかしさすがにアフリカを感じた話を2つ、ワンゲ国立公園へ行ったとき公園の中で動物を捜して、水牛や、象、キリン、シマウマ等を見た時は当然期待していた結果であるために、感動はあったもののどこか動物園的気持であった。だがワンゲからビクトリアフォールヘ行く道すがら、仲間と離れたのか1頭の巨大な象が道の脇をゆっくりと歩いていた。そのそばを刺激しないようにスピードを落としてすり抜けようとした時、何を思ったのか、かの巨象が突然向きを変え、鼻を高々とあげて我々の車に向かって来たではないか、この時はあわや振り上げた鼻で叩き沸されそうになり、度肝を抜かれ、ドライバーに「ハリィ‥アワワ‥・」とか訳の分からぬ言葉を発して、車を急いで走らせながら縮み上がったものだった。
今1つは、カリバ湖畔のカティーサークホテルでの話、11月のカリバは非常に暑く扇風機だけやはなかなか寝付かれず、寝返りを繰り返していた所、カーテンの隙間からカリバ湖に浮かぶ漁り火の様な光の点を見つけ良く見ようと、窓際に近づくと何やら不気味な物音、恐る恐るカーテンを開けてみると何と、馬鹿でかいカバが窓からほんの2m位の所迄来て、悠然と庭の芝をむしゃむしゃ食っているではないか、ぶったまげたものの、ドアを薄めに空けて手元のカメラでバチヤバチヤと激写した(ファインダーの中がカバ一杯)。何枚か撮って、焼き付けを楽しみにしていたが、結果は無惨、余りの興奮状態で焦点が定まっていなかったのか、はたまたフラッシュが利いていなかったか、何故かボーツと薄暗がりが見えるだけで、殆ど何も写っていない。その後、人に、如何に大きなカバが眼前に迫ったかを説明しても、証拠の写真がどれもこれも真っ黒では、如何せん迫力がなく残念に思ったものである。
私は長く瀬戸内海に面した玉野という所(岡山)に住んでいたので、生活の回りに海があるのは当たり前で、それが心のどこかとうまくマッチンクして気持が安らいでいたように思う。また中国山脈を突き抜ければ300kmも走る迄もなく山を抜けて向こうに再び白波の立つ海が待っているのが当たり前だった。そしてそれを見ることで何かしら羊水の中に抱かれているかのごとき安堵感を覚えたものだった。
しかしここジンバブェでは行けども、行けども陸ばかり、しかも景色はどこへ行っても殆ど変化が無く同じ表情、本当に目的地に向かっているのだろうか、今日中に行き着くのだろうかと、あらぬ不安を掻き立てられることもあった。
見方によればジンバブェは九州を半分にちぎったような地形で丁度、長崎のあたりが、世界3大瀑布のビクトリアフォール、ハラレはちょうど阿蘇、九重の位置、しからばムタレは別府ではないか‥・ムタレの現場に行く時などは、ひょっとして海や温泉が、と思う気に何度もなったものだ.ジンバブェでも、水といえばカリバ湖があるわけだが如何せん手近に無いため、水を見ながら湖畔のドライブを気軽に楽しめないのでやはり物足りなさは拭えない。
私が何故、海や、水をこんなに気にしていると不可解に思われたでしようか。
実は、ここだけの話、私は何を隠そうシビルエンジニアではなくネーバルアーキテクトだからです。
此処ジンバブェに来ては、全く文字通り陸に上がった河童なのであります。
****
日頃から快く思っていなかった、バスターを誰かにくれてやると言うことで、日曜日TSuさんのドライバーが引き取りに来た。バイクの購入者が、付属品を取りに来た。
段々落ち込む気分に、嫌な予感がした。
翌日は、一進一退で、仕事にかまけて、落ち込むことはなかった。
翌日は、次期プロジェクトの対象とするべくサベ橋に出かけた。TYa、TSuの両氏と一緒である。
こんな風に数日が過ぎた。体の調子が思わしくなくそれが歯痛に繋がった。
引き渡し検査とMOTEとの打合せで、マシンゴのグレートジンバブウェホテルに泊まった。ホテルは、温水が出ず、食事もまずかった。セレモニーの話になったが、1000人位集まるであろう事、牛1~2頭潰すことなどが話題になった。
翌日デブレ1橋、ソテ橋、ペンベジ橋の引き渡し検査に立ち会った。いろいろ手続きの書類にサインを求め、18:30終了して、一路ハラレに向かった。帰宅は20:30頃になった。
コンプリーションレポートのチェックに掛かる。船屋が、橋屋になるのは辛い。チャワンダに方針を指示し、原稿を書かせ、それをチェックするという方法を採った。
店じまいのことがちらほら話題に上り始めた。家主に、11月エンドから12月エンドまでで、本社の指示待ちであることを伝えた。
翌日約束通り、MOTEのクデンガとテベレジを囲んで、TYa、TSu、TIk、と私はミクルスホテルで、セレモニーについて話した。
最終判断は、パーマネントセクレタリーの判断を仰ぐことになるが、おおよそのスキームは決まった。
TSuさんの英語は、さほどスマートでないが、ヒアリングやスピーキングは、他の誰よりも慣れていた。
TIk氏は、14:00過ぎマシンゴに向かい鴻池と南アの業者内での内輪の祝賀会をするといって出かけた。
土曜日、フリーマーケットなるものに出かけた。黒ん坊ばかりのマーケットは、異様な雰囲気であった。他へも周り、ウインドウショッピングをしたが、殆ど得るものはなかった。
日曜日は、体がだるく、ベッドで、過去のノートを振り返り、レポートの構想を練る。段々に追いつめられて、苦しい雰囲気になる。
日本から抗うつ薬が届く。全く嫌な病気を抱え込んだものだ。
KTaさんから、チルンド橋の写真(30~40枚)が欲しいとファックスを受けた。一人で、行くのも心許ないので、内密にTIk氏に同行を依頼した。チャワンダにチルンド橋での撮影許可をMOTEに得るように指示した。
夕刻ムダワリマがいよいよ日本へ行くことになりその送別会をマンチュリアンで行った。ムダワリマのフィアンセを含め日本人側からも参加して10人ぐらいのフェアウエルパーティーとなった。
翌、木曜日夕方17:30岡本公使の送別会と上田参事官の歓迎会があり出席した。
明けて、8月2日、プログレッシブレポートの作成は来月までとすることにし、Ta氏に伝えた。
私が気にしていた、セレモニーも、周りが何となく決めてくれる雰囲気となり、コンプリーションレポートもチャワンダとタッグでやっていき、鴻池のデーターを入れ込めば何とかなると言うことが見えてきた。やや安心である。後残るは事務所の閉鎖であるが、これは未知数故何とも分からない。
土曜日、久し振りに、TIk、TSu両氏とチャップマンに出かけた。昔に戻って106である。TIk氏は少し足を引きずるようであるが、小技が巧く93で回る。格が違う感じである。TSuさんとは、ドングリの背比べで、107であった。TSu氏は、暫しヨーロッパに遊びに行くといっていた。奥さんと明日チャップマンを回ることになっているらしい。
日曜日は、久し振りに何もしないで過ごした。事務所の備品リストを作成した。
出向元の造船会社に近況報告のレターを書いて送った。
月曜日は、事務所閉鎖の応援要請レターを部長宛に書いたらどうかとのアドバイスがあり、遂行してファックスする。この日は、マトーレが仏頂面で気分が悪い。黒いブスが、ブスッとしているので、気分が悪いの2乗だ。
TSuさんはヨーロッパに行くにあたり、鍵と、犬の医者と住所を書いて置いていった。何ともなければいいが、たまには顔を覗かせなければならないだろう。
火曜日、お願いしていたチルンド橋に出かけた。途中カノイで休息を取り、昼前チルンド橋に着いた。路上で通関待ちの車の列を撮影、イミグレーション前でピックアップを撮影しようとすると、係官にとがめられたので、チャワンダに指示して予め得ていたチプル(MOTEの設計主任)のレターを見せてOKとなる。
MOTEの事務所で案内を頼み、TIk氏が同行しているのはまずいので、被写体に入らぬよう配慮した。ザンビア側からの撮影を頼み込んだが、橋とイミグレーションは管轄が違うと受け付けてくれなかった。こしゃくな感じだった。何時も登る小高い丘のゲストハウス近辺で、橋の全貌を撮して、昼食を取り、14:30頃帰途についた。
松沢次長から、9月中旬MTa氏を応援によこす旨ファックスが入った。自分の仕事を全う出来ない情けなさを考えると単純には喜べない気持ちだった。
マレーテが辞めたいと言ってマトーレに漏らしたとのこと。おばあさんが病気で、長男だから面倒を見なければならないと。クロン坊の言うこと故、本当かどうか分からないが、仕方ない。
後は鴻池で余った運転手のモーゼスを雇うことにした。
TSuさん宅に、犬のセサミとグローリアを見に行く。大丈夫そうだった。
木曜日チャワンダと相談の結果、6:55チャワンダ運転で、オジ橋に向かう。ハーフウエイで、休憩後、チャワンダと運転を交代して、プロビンシャルオフィスに、テクレレを訪ねた。(ネマチェナはハラレに出かけて留守だった)テベレジも来ていて、パーティーの話をする。
会場は現地で行い、約200人参加、75000Z$と大雑把な話をする。
続いて、オジ橋の現場へ行き、会場をどのように設営するか、又ドネーションの銘板はどこにつけるかを話しあった。
帰りは、少し違った道を抜け、ハーフウエイで休み、チャワンダと話しながら帰った。
帰宅後、マレーテは来なかったとか、マトーレも、挨拶無しで帰ったとか。とにかく黒のやる事には礼儀も何もあったものではない。
翌、金曜日KTaさんからのファックスと電話攻勢。MTa氏の応援は望み薄である。
一日中憮然とした気持ちで過ごさざるを得なかった。
土曜日、鴻池のTIk氏、若いTak、Ytoと私は、カリバ湖に遊びに行くことになった。8:30に出発。途中カロイ迄マツダを運転した。そこで、TIk氏と運転を交代した。パジェロには、若い二人とドライバーが乗っていた。マクティから曲がりくねったカリバへの道に入り13:30頃目的地カリバに到着した。
チャーターしていた船に乗船沖合へ向かう。16:00頃停泊遠くの島には、象、近くにはバッファローの大群がひしめいていた。
そんな中魚釣りを試みたが掛かってこなかった。結局、持っていった材料で夕食を作り、酒を飲み、静かになった船縁から綺麗に輝く星を見て、心が洗われる様だった。
日曜日、4:30に目覚め6:30に起きた。水平線の日の出を見る。美しかった。
釣り船に乗って、高原、富田と3人で糸を垂らすも、小魚ばかりしか掛からなかった。その内、高原に大きなのが食い、船頭が二匹釣り上げた。本船にかえって、朝食、後本を読んで、10:00頃帰途について13:30上陸した。そのまま、若い二人と別れ、TIk、私は、ハラレに戻ってきた。
TIk氏は、日本からの成山氏を迎えに空港まで行った。
4:00過ぎ、送金確認のファックスに起こされた。何時も、日本の連中の無神経さには頭に来る。時差をちゃんと考えて、少なくとも当地時間7:00過ぎにファックスすべきだと何時も思う。
うつらうつらしながら、6:30に起きる。7:00過ぎロイヤルハラレに、TIk氏と、新しく来た成山氏とでラウンドした。Nar氏とは、日本にいる時、東京の橋の架け替え工事現場を案内して貰ったことがあるので、既に顔は知っていた。
相変わらずの下手さ加減に嫌気がさしたが、後続のパーティーは皆日本人だった。
上がって、家でシャワーを浴び、ベッドにごろりと横になる。この時が、何となくくつろげる一時である。昼間陽光の射す中、ベッドでのくつろぎは、最高の気分である。
夕刻久し振りにチャイナタウンへ行った。鴻池のNarさんを歓迎する会に同席した。TYa専門家も来ていた。久し振りによく飲んだ。
TYa氏によると、奥さんと一緒にベイラ近くのカイヤ橋を見に行ってきたという。少し微熱があるという。
このプロジェクトのフェーズ2は外務省へ送られたそうであるが、カイヤ橋はそれとは別次元のものだった。
コンプリーションレポートやら、完成図面やらの件で、ごたごたと雑用が多い。引き渡し式での宿泊ホテルを予約するように頼んだ。
ジンバブウェでも有数のリゾート地ムンバ近くのムタレ市にそのホテルはあり、おとぎの国のホテルのようで、レオパードロックホテルといった。
前に訪れた時には、ダイアナ妃記念の宿泊で写真が飾ってあった。
1996年8月15(木)この日も雑務がありそろそろ終わりかけたところに、JETROのNakさんの奥さんが、交通事故にあって無くなったとの日本人連絡網を通じて連絡があった。
翌日午前中は、仕事をこなした。夕刻、Nar氏が来訪1時間近く話し込んだ。
TSuさんが不在時、最後のグロリア、セサミを慰問した。
その後、Ta氏から、Nak夫人死亡の詳細が、入ってきた。日本から息子さんと、JETRO職員が、日曜日にハラレにやって来るという。
Nak氏本人は、放心状態であるという。当然のことだ、日本での交通事故でも大変なのに、まして、黒人の国だ、どうしようもない。今、亡骸は遺体安置所にあるという。荼毘に付すか、日本に連れて帰るか、何れにしてもNakさんの自宅に帰ることになった。
花束は、日本人会、鴻池、日本工営、日商岩井の分は、Ta氏が手配してくれていた。
奥さんも多少うつ気味で、悪くなると日本に帰り、良くなるとご主人のいるジンバウウェに来ていたという。
その日は、自宅近くのショッピングモール前の比較的広い道を、歩いて横切ろうとして、高速で飛ばすワゴン車にはねられたという。丁度死角になっていたのか。何とも痛ましいことだ。
翌日鴻池、Nar、YToとNak邸を弔問した。Nakさんは回復しているとはいえ、相当憔悴しきっていて、気軽に声を掛けることが出来なかった。何をして良いのか分からず、ただ、日本人会のメンバーに電話をしまくった。Nak夫人の変わり果てた遺体が帰ってきて、ご主人は、再び新たな悲しみを覚えられたようだ。結局ジンバブウェで荼毘に付し、遺骨はクリスマスに持ち帰るということになったようだ。
Tsu夫妻もヨーロッパから帰国して、懸命にサポートしていた。Tsu氏と、三菱商事のUch氏がNak邸に泊まり、夕食の準備を手伝った。空しく悲しい一日が今日も終わる。
日曜日は、連絡をつけたい人に電話が掛からず、ついに諦めた。一日中本を読み、ベッドにごろりとなって体を休めた。
月曜日は、淡々と仕事をこなした。落ち込む訳ではないが、何かしら気になることがあり、心が全面的に晴れると言うことはなかった。MOTE、大使館、鴻池との打合せ。
明日9:00に棺桶が到着するという。香典や、花輪の件で、いろいろと話す。香典はMax500Z$で花輪代は少し高かった。
1996年8月20日(火)
Nak夫人のお別れ会の日が来た。6:00に目覚め、7:25迄再び寝た。昨日は、非常に疲れていたと見える。9:00前にNak邸へ。既に主だった人は来ていた。香典を納め、安村参事官の読経で献花焼香が行われた。
参事官の家は、お寺さんと言うことで、堂に入った読経であった。
諸事終わって、斎場までついて行った。12:00前に引き上げる。
帰って、雑事をこなし、たまった新聞4冊に目を通した。
翌日、ロッキーのガス漏れを発見、ガレージに修理させに行かせる。
今日はMOTEのストライキとかで、門扉は1ヶ所しかあいていず、閑散としていた。
読み終わった、新聞を、恒例により、TYa氏に届ける。
残りの仕事も見えてきたので、雇い人をどうするかなど、要らぬ気を遣わなければならなくなった。
Ta氏が8月末で帰ることになるという。
夜中KTa氏のファックスで、再びMTa氏応援は難しいとの知らせがあった。
翌日は、グツに向けて、出かける。ドネーションプレートに位置決めや、諸々を済ませて帰る途中、ロッキーのファンベルトが切れる。チャワンダにトーイングさせること頼んで、我々は一足先に帰る。
帰ると、元の会社から、通知が来ていた。ジンバブウェでの仕事ぶりを買われ、帰国後は、7年間のプロジェクトのネパールへ誘いが掛かっていると言うことだった。えらいこっちゃ!!
朝3:00にKTaさんからのファックスがあった。日本との時差を知っているはずなのに、寝ていて気が付かないとでも思っているのだろうか。うつらうつらと7:25まで寝ていた。
ファックスの内容では、10月にMTa氏が行くかも知れないとのことだった。別途MTa氏の話では、難しいかも知れないと言う。最後までアラームを出しておくのがよいとのことだった。
一方、元の会社へは、ネパールの件を受けたのかどうか、問い合わせのファックスを打った。
海外は、余分な労力を使う。ただ仕事をしていればいいのではない。如何に周囲と巧くやるか、現地の人間を巧く使うかに掛かっている。
土曜日はブローデルに買い物をし、ナンドの店でチキンを買って帰った。将来のことを考えると少し憂鬱になり、少しは、ネパールのことも考えてみた。元の会社に帰っても居場所はもう既に無い。日本工営の海外駐在では、未だ必要としてくれている。しかし7年間は長い。ネパールは国情も安定して、季候も良いところだと聞いた。しかし物がないのは同じで、それこそ日本食なり中華なりが食べられるかどうかは行ってみないと分からなかった。
そんなことを考えてぐったりなっていた。夕食は、TSuさんからの誘いがあり、大林組のHirさんと、TIkさんらと一緒に招待を受けた。
例によってカラオケをうなった。
日曜日、Nakさんの件で、少し間遠になっていた、ゴルフに出かけた。ウィンゲートで、鴻池組と、西松建設の対抗戦ということになった。私と、TSu氏は、何時も個人的に賭けた。この日は、111でTSuさん103と完敗だった。心の動揺が諸に現れた一戦だった。
TSu氏たちは、大使と麻雀をするという。私は失礼して、家で風呂を浴びた。
月曜日、MTa氏と、KTaさんからファックスがあった。海建協のミッションが大使館等表敬に来るという。上田参事官、安村参事官、小路一等書記官、中村JICA所長、TYa専門家のアポイントを取る。
TSu氏が来訪して、マツダを始め、事務機の引き取りを約束してくれた。一方TIk氏からは電話で、Ta氏は翌2日に帰国することになったという。事務は、若い高原君に引き継いだとのこと。
私は不満であった。実作業は、全てTa氏がやっていた。Tak君では分からないところがあるはずだ。
しかしとやかく言っても始まらない。こちらはコンプリーションレポートが出来れば良し、としなければならない。現場における瑕疵担保の件は、日本工営と、鴻池の問題である。おそらく、MOTEからも、大使館からもクレームは出ないであろう。
大雨が降って、橋桁が流されたり、橋台が洗い流されてりしない限りは・・・。
よもやその様なことがあるはずがない。
夜の内に前の会社からファックスが入っていた。日本での勤務を希望したが、なかなか難しそうであった。しかし前向きに検討してくれるという。
以前会社からは、私の評判が良く、後続も何人か出向を受け入れてくれたので助かったと礼状が届いていた。
しかし、後続の彼らは、インドネシアや、他の東南アジアに行って、結局使い物にならなかったようであった。
海外の仕事は、やはり語学力だと痛感した。始めに意思の疎通があって物事が進む。私の場合は、流暢とは言い難いが、現場で南アの白人と要求通り仕事が出来ていないことで、口頭で激しく言い合ったことがあった。勿論英語である。巧く伝わったかどうかは分からないが、私が、どの問題で怒っているかは分かったようだ。その翌週に現場を訪れたら、私の要求通り直されていた。
その時、私は満更でもないと感じた。
10月に入って、KTaさんが来ることになった。MTa氏は来ない。
コンプリーションレポートは、あらすじで見終わった。後は少し磨くだけだ。Ta氏が、写真の件や、内容について、来訪した。Ta氏はすぐに帰る、問わず語りに、
「自分は鴻池の人間ではない、西松から雇われてきているのだ。○○さんはだませない。」と白状して帰った。私にはどうでも良かった。仕事がはっきり残っていれば、そのやり方は問うつもりもない。現に、日本工営といいながら、造船会社の土木を知らない人間が、監督しているのだ。他人のことを言えた義理ではない。
次の日、細々した仕事を終えて、チャイナタウンでTa氏の送別会があった。鴻池全員と、私、TYa氏が出席し、TSuさん夫妻は来なかった。
Ta氏はこの地で、病気になり、それを克服してきた、おそらく過去にもそんなことがあったのであろう。そして明日は何処へ行くのだろう。日本勤務はあり得ない。所謂、どさ周りである。それが、どのゼネコンの海外部も同じなんだろうなぁと感じた。
MTa氏から電話で、チルンド橋は、清水建設―日商岩井に決まったとか。またKTa氏の動向を知らせてきた。11月10日頃から2週間といっていた。
また私の任期は11月15日までで、その後は、日本でネパールを担当しているYam氏が、私に対し強くネパール行きを希望していると言ってきた。
私は、追い立てられるような気分になっていた。
土日はすることもなく、ぐったりとしていた。元の会社に戻れないし、かといって7年間のネパールは耐え難いと、堂々巡りをくり返した。
翌月曜日にKTaさんから電話があり、11月15日に帰国するように指示があった。その為、ジンバブウェでの借家を引き払い11月からクレスタロッジに泊まるようにとのことだった。その旨を大家の代理店であるトニー・べーカーに通知10月終わりに出て行くと意思表示した。チャワンダたちにも私の帰国日を伝えた。
Ta氏が、予定通り帰国した。昼、挨拶に来てくれたが、すれ違いで会えなかった。急いで空港に送りに行ったが、別れを言うことが出来なかった。デッキで、機内まで歩く姿を追いながら、おそらくもう会うこともないであろうと、一期一会の感傷に浸った。
仕事の出来る、たくましい、いい奴だった。
夜明け前3:30、元の会社からのファックス音に、目が覚め、寝付かれず鎮静剤を1錠飲んだ。こういう事が良くある。鎮静剤の効き目も余り無く、起きあがった。
その一日は、けだるく、報告書などにも気合いが入らなかった。MOTEは相変わらずストライキ中、物事が進まない。
黒ん坊のマトーレは、徐々にその本性を現し始めた。仕事がただでさえものろいのに、仏頂面で、はらわたが煮えくりかえった。おそらく次の仕事を模索しているのであろう。
誰かに紹介をと思ったが、とても出来るものではない。逆に、JICAの中村所長から打診があったが、良いようにこたえることが出来なかった。だから黒は浅はかなんだと、一人で思った。
一方のチャワンダは誠実で、黒人ながら感心することが多かった。学歴と、常識をわきまえた人間は、この様であるが、中途半端に生きる手だてを模索してきただけの人間は、土壇場で、馬脚を現す(地が出る)ようだ。
9月5日やっとMOTEのストが終わった。テベレジに電話が通じず、MOTEに押しかけた。
やっとの事で、のこのこ現れたテベレジに、たまっていた書類全てにサインをさせた。
やっと肩の荷が下りた。書類を日本に送ることが出来る。
ロッキーの売却、ピックアップの売却などでTSuさんの助けを借りる。ピックアップは、ぼろぼろであるが、チャワンダが欲しそうにしている。安い値段で売ってやりたいと思う。
夕食は、TSu夫妻とちょうど旅行でやって来ていた娘さんを呼んで、私の家で食べた。
土曜日は日本人会のソフトボール大会だった。我々は建設チームということで、鴻池、西松を中心に編成。若い富田も、Tak君も案外だらしなくJICAチーム、大使館チームに共に敗れて、最下位だった。
日曜日、チャップマンで西松と対抗戦の2戦目を行った。結局負けてしまった。鴻池組のチームに入った、私と、TSuさんが足を引っ張ってしまった。
戦い終わって、チャイナタウンで、たらふく食い、且つ飲んだ。
夕食は、TSu邸で、協力隊の隊員も一緒になって、立食で行った。
久し振りにNakさんが一緒だった。さすがに疲れた様子ではあったが、少しの時間が、Nakさんの気持ちを和らげてくれたのであろう、落ち着いた眼差しになっていた。
歳を取り、これから夫婦二人の人生が始まろうとする時、頼りにしている配偶者に死なれた心境はいかばかりかと私は考えてしまった。
<続きます>
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