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ホタテバーガー☆ミ
石井勇次郎
1846年(弘化3・1月5日)~1903(明治36・6月17)
桑名藩士。馬廻、二十九石三人扶持 直心影流
桑名隊としては致人隊所属。
箱館新選組。分隊差図役
「戊辰戦争見聞略記」著者。
たびたび涙を流す感激家。桑名士魂の権化のような好漢である
柏崎から剣術修行の為江戸へ来ていた勇次郎はそこで戊辰戦争の勃発を知る。
慶応4年1月10日
、大阪より慶喜の逃亡に付き合わされた主・松平定敬候に拝謁。
その後、定敬候は官位を剥奪され、登城も禁止される。この間に西軍は藤堂藩に「桑名征討」を命じる。
行動をともにしていた兄であり京都守護職でもあった会津松平容保候が会津へ帰国した後、定敬候は深川霊巌寺に入り、江戸へ集まった桑名藩士も深川富岡八幡宮の松本楼へ集まり盟約を結ぶ。
藩に迷惑をかけぬため脱藩。
「桑名士官隊」
を結成。
町田老之丞、立見鑑三郎、森陳明、中村瑛次、石井勇次郎など。
このとき全員がフランス陸軍式の黒羅紗金ボタンの制服を着用。←定敬候は京都にいるときから洋装馬上で京の町を闊歩していたというから、藩士達も抵抗はなかったんだろうか。
3月8日
、定敬候は長岡藩のチャーター船で柏崎へ。
主戦派の
「士官隊」
約80名は本所弥勒寺橋側の大久保主膳正の屋敷へ入り
「七聯士官隊」
と命名。幕臣八田篤蔵(とくぞう)付属となる。
しかし、ここで大久保主膳は近藤さんが捕らえられたことを知って落胆、小川町歩兵屯所へ移動。
隊名を
「四連新士官隊」
とし、歩兵頭小林丹一の指揮下へ入る。
4月10日
、柏崎の定敬候から「江戸を脱出し関東でひと暴れしたら、なるべく早く越後へ集結して欲しい」との内意を受け
「流涕せざるはなく、奮激して曰く、此の君の為に身命を投げうって、其の意を貫く能ざらんや」
(見聞略記)
流涕(りゅうてい)…涙を流すこと。激しく泣くこと。
この小川町の歩兵屯所にいたのはいわずと知れた大鳥さんの歩兵隊。
そんな訳で一緒に脱走する事になった←ホントかな
ここから下妻藩を(土方さんが)恫喝、強制従軍、下館城攻略、宇都宮攻防戦を土方さんと一緒に戦い、土方さんが負傷して戦線を離脱した後も今市まで転戦、日光東照宮で戦おうとするが松平太郎に止められ、桑名チームは柏崎へと発つ。
柏崎では恭順派が台頭し、定敬候は密かに恭順派の吉村権左衛門誅殺を示唆したとも言われている。
閏4月9日
、柏崎で藩主定敬候と対面。
「古より君臣水魚の思いとは此時なるべし。先立つものは涙なり」
(老之丞手記)
この君臣は仲がいいなぁ。
13日
には主戦派全員が到着、柏崎の藩論は徹底抗戦に一決。
その後の北越戦線での桑名藩の勇猛果敢ぶりは「一に桑名、二に衝鋒。」と言われるほどであった。(一、ニは順番が逆のものもあり)
長岡落城。新発田藩裏切り。
そして会津へ。
会津では興徳寺を本陣とし定敬候は鶴ヶ城へ入る。
8月23日
、滝沢本陣で采配を振るっていた容保候、篭城を決意。
定敬候へ米沢への道を示し涙の別れ。
蚕養口で大激戦を展開していた桑名チームも定敬候が米沢へ向かったと聞き藩主の後を追う。
このあたりで桑名藩士は一部が別れ別れになる。
本隊は定敬候をおって米沢を目指すがすでに米沢藩領には入れず。やむなく大塩と桧原に分散して逗留。
一方、怪我で戦線を離脱し、日新館で療養していた石井は怪我を押して藩主の後を追い合流を果たす。
援軍を得られない定敬候は米沢を立ち去る。←米沢藩主の室は定敬の妹。つまり米沢藩主上杉茂憲(もちのり)は義弟。
定敬候一行は奥州白石城下を経て二本松へ向かう。福島城下で
森弥一左衛門
らと合流。
森らは京都→江戸→彰義隊→塩釜(プロシャ船で脱出)と辿りようやく合流を果したのだ。
一方の本隊はようやく米沢に到着するが定敬候はすでに立ち去った跡で留まる事も出来ず途中で合流した庄内隊と行動をともにする事を決め庄内へ行く。結局本隊は定敬候とは逢えず、庄内藩の降伏とともに降伏。
その頃勇次郎は仙台で蝦夷渡航を決めた定敬候とともに渡航を決めるが、藩主と言えどもお供は3名のみ。という榎本さんの言葉に困惑。
森、石井ら17名は新選組に入隊し渡航する。
その後は箱館新選組として市中警備にあたり、あの5月11日は弁天台場にあった。土方さんの戦死を知ったとき
砲台ニ在ル新選組其長死スルヲ聞赤子ノ慈母ヲ失フカ如ク悲難シテ止スアヽ惜ムヘキ将也
この石井勇次郎良く怪我をしている。それも大怪我。
宇都宮攻略参加時刀の鞘に敵弾があたる
閏4月27日鯨波の戦いで臀部に被弾負傷。6月20日戦線復帰
8月4日加茂防衛戦で三度目の被弾。会津日新館病院で療養母成後定敬を追ってそのまま仙台へ
明治2年(1869年)5月15日
、弁天台場にて降伏。謹慎後、
同年11月23日
に釈放されて国に戻った。
国に戻った後勇次郎は定敬候と会っている。お互い何を話したのか。ただ涙だったのか。
参考:「桑名藩戊辰戦記」(郡義武)など
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