恐山紀行
この『恐山紀行』、旅行記とはいえ、ワタシの高校の修学旅行のハナシです。
あまり(?)に前のコトで、場面、場面は覚えているのですが、
その回った「順番」などはアヤしかったりします。
ワタシが感じた「イメージ」に頼っているところもあります。
だから、行ったことのある方や、その場所をよく知っている方にとっては
「あれ?おかしいな?」と思う場面も多々あるかと思いますが、
出来るだけの記憶を振り絞って書いているのだということで、
どうぞ、ご容赦くださいマセm(__)m
日本をイロイロ旅している人でも、『恐山(おそれざん)』
に行ったコトがあるってヒトは少ないんではないでしょうか?
ワタシは行ったことがあります。それも『高校の修学旅行』で。。。
ワタシの通っていた高校は府内でも有数の公立の進学校で、
ヒトも変っていたが、校風も変っていた。(ヒトについてはまた別の機会に。
天才には変人が多いというのを高校時代に身をもって知った・・・)
我が校の校訓は『自由と創造』で、特に自由にかけてはびっくりするくらい自由だった。
まず「制服」がナイ。基準服と呼ばれるものすらナイ。
入学式の日に校長先生が「着物とゲタ履き以外はなんでもエエ」と言っていた。
「着物はソデが邪魔。ゲタは廊下がうるさくなるから」という理由らしい。
だから学内には地味なのから派手なのからヘンなのから真面目なのまでイロイロとり揃っていた。
遠足も、遠足の日取りだけが決まっていて、クラスごとに話し合いで行く場所を決め、
クラス単位でイロんな所に散って行った。
あるクラスはバーベキューに行き、あるクラスは哲学の道を散策し、
あるクラスは健康ランド(!)に行き・・・
という具合に、学年みんな揃ってぞろぞろ行くってことがなかった。
ワタシもクラスの遠足で、神戸の三宮にみなで行き、
「ココに午後3時にまた集合」
と、右も左もわからない街で放り出されたコトがある。
(結局、友達らと異人館を巡った)
そんな学校だったから、修学旅行もこれまた変っていた。
ウチの高校の修学旅行は、高2の夏休みのかかりの5日間だった。
コレまたナンと、行き先が5コースに分かれていた。
北東北、南東北、信州、北九州、南九州と。
↑
コレの全部に行けるのではナイ
まず、『同性』の友達5人でグループを作る。
(あまり友達のいないコにはツラかったろう( -_-)
それからグループ単位で、行きたいコースにエントリーする。
人数が偏りすぎた場合は第2希望コースに回される。
サッカー部のエースのモテ男クンがどのコースにエントリーするのか。
や、○組のカッコイイ夫クンはどのコースか。
など、前もっての『探り合い』が激化していた。
そんなコースはやはり人数が集中し
(っていうか、それだけの理由ではないだろうが・・・)
あえなく、ダサ男クンたちのたまるコースに回されて行ったコたちも数知れず・・・
(ホンマかーーーーーッ!!)
ワタシたちは出来るだけ遠くに行きたかったので、
「北東北」にエントリー。青森、岩手を回るコースだ。
この「北東北」、人気が高く、出発を1日ずらしての2班にわかれて出発。
ワタシたちは一日遅れの第2班の方だった。
東北新幹線に乗って目的地に向かった。
十和田湖などを観光したのは覚えている。
随分、前のコトなので、あまりはっきりは覚えていない。
その、青森での3日目が「オプションの日」となっていた。
ウチの高校の修学旅行は前述のように、コース自体が5コースにわかれていたが、
そこからさらに、「オプションの日」はグループ単位で3コースに分かれていた。
「(確か)八甲田山」と「奥入瀬渓流」と「恐山」だった。
1日目の夜までに、グループで行き先を決めて告げなければならなかった。
みんなで部屋に集まり、どこに行くか協議した。
意見が分かれたが、ワタシはやはり
「めったに行けないトコロ」に行きたかった。
・・・と、みんなを納得させ、ワタシ達グループは「恐山」に行くことになった。
他のグループには「奥入瀬渓流」が人気があったみたい。。。
3日目、青森市内のホテルから「恐山」へ向けて出発!
バスで市内から、なんと「3時間」もかかる。
長いくねくね道を、ほとんどみんな「爆睡」!
だってぇ、修学旅行なんだもン。みんなも夜、寝てなかったでしょ?
爆睡の3時間はすぐにたった。
バスを降り立って、みな震えた。いろんなイミで・・・
ナンと、ワタシたちは年に1度の
「恐山大祭(おそれざんたいさい)」のさなかに降り立ったのだった。。。
恐山に行ったことがあるヒトも、
『恐山大祭(おそれざんたいさい)』
なるものの存在はご存知だろうか?
行くと決まったその日に
「ちょうど恐山大祭の真っ最中や。」
と先生に聞かされた。
・・えっ?恐山ゆうだけでもコワいのに・・・
・・・「たいさい」ってナニ?・・・Σ( ̄□ ̄;)!!
ワタシが行ったのはちょうど7月20日のコトだった。
正確なコトはあまり覚えていないが、
その前後3日間くらいが「恐山大祭」の日程だったと思う。
さて、いよいよ、その大祭まっただなかにワタシたちは到着。
青森市内も、夜はクーラーがいらない涼しさなのだが、
昼間は結構、暑かった。
当然、みんな夏服である。
・・・・・・っ!
・・・・・・・・さむっ!!
爆睡していたが、えらくくねくね
山道を上がるなぁとは思っていた。
この寒さ、涼しさは相当、山の高いところなのだろうと想像できた。
まずバスは視界のせまいジャリの「駐車場」と思われるところに停まった。
ココからはナニも見えず、ヒトの気配もナイ。
それで降り立ってまず感じたのは
その「寒さ」と「くささ」だった。
市内は晴れていたのに、
ココは空が「なまり色」。
どんよりと曇っている。
そこへこの「寒さ」と「くささ」である。
卵を腐らせたような・・・・・
そう。「イオウ」のニオイだ。
もう、この時点でワタシたちバスで来た一行は
すでに「コワさ」で倒れかかっていた。
そこへキョーレツな硫黄のニオイで、完全に「ノックアウト」された。
「キャーーッ!イヤーーッ!!やめといたらよかったぁ・・・」
すすり泣く者がでてきた。
↑
(ちょっとウソ)
でも、誰の顔にも笑顔のかけらも浮かんでいなかったのは
ホントである。。。
恐山に到着し、バスを降り、寒さと臭さにおびえつつ、
いよいよ歩き始めた。
恐山の入り口にあたるお堂へと行く道の途中に
いきなり
『三途の川』がある。
えっ、渡るの?
寒々しい風景のなか、山で囲まれて、大きな真っ青な湖がある。
ものすごく透明度の高い真っ青な湖。
その青さに、別府の「海地獄」を思い出した。
ただし、海地獄とは違って、すごく冷たそう・・・
その湖に流れ込む川が「三途の川」だった。
川幅は決して広くない。
その三途の川に小さな朱塗り半円形の橋がかかっている。
傾斜がきついので、ころげそうになりながら歩いて渡る。
渡りきったところで、ガイドさんが、
「この橋を渡ると、亡くなった方はココから戻ることはできませ~ん。
生きてる方だけ、またこの川を渡って帰れます。」
ひょえぇぇ~~!こわすぎっ!
渡りきった橋のたもとでグループごとに記念撮影。
誰も笑ってない(;-_-+
写ってるみんなが、あんな奇妙な表情を浮かべている写真は
見たことがない。
アルバムにはさんでいるが、やはりあの時撮った写真だけは
異色だ。
恐山の入り口にあたるお堂のところにやってきた。
朱塗りではなく、地味なお堂だった。
お堂の中から、たくさんのヒトの気配と木魚、読経が聞こえる。
小さな土産屋がある。(やっぱりジミな)
うおぉぉぉっ!ココにもあった!!
『恐山まんじゅう』( -_-)
誰一人、買おうとしない。
それに加えて
『恐山アイスクリーム』(;-_-+
真夏でもこんなに震えるほど寒いのに、買う人間はいるんだろうか・・・
お堂の横の入り口を入り、山に入る。
細い道。草一本はえていない。
やったら、すでに、ココから怖い。。
ひゅろろろろ~~ と風の音がずっとしていた。。。。
小道に入る前のちょっと開けたところにヒトが集まっている。
黒い小さなテントが2列、向かい合うように10個ほど並んでいる。
高さは80センチくらいか。その前に、覗き込むように人々がいる。
その10個ほどのテントの中、1つ1つに、あぐらをかくように
婆さんが1人1人座っている。
でも、ただ座っているのではない。
なんだか様子がおかしい。
みな、うつむくようにして目を閉じて、ナニか言っている。
「ぶつぶつぶつぶつぶつぶつ・・・」
お経を唱えているようでもあり・・・・
・・なんか、低い声でしゃべってる・・・
・・前に立っているヒトに手をかけながらしゃべりかけてる・・・・
・・・その、手をかけられているヒトが泣いている・・・
そう。そのテントの中にいたのは、『いたこ』
と呼ばれる霊媒師たちだったのだ。
初めて見た。ナマで。
どうやら、こんなに「いたこ」がたくさんいるのは
「大祭」だかららしい。
ほんっとに実際にその場に立って、めまいがしてきた。
寒気が走った。怖くなった。
ワタシのまわりのコたちも、同じ表情を浮かべていた・・・
いたこの広場の横から細い小道に入る。
細い小道、両側を岩肌にはさまれていて視界が悪い。
なぜ草がはえていないかというと、
この山、石灰岩だ。
その細い小道に、真っ白の巡礼のかっこをした男のヒトが座り込んでいる。
そのヒトには足が無く、戦争の時に失ったというような旨を
書いた札を前に立てていた。
正直、イマドキ、まだこういうヒトがいるんだと驚いた。
もうちょっと進むと、行く先、行く先に
高さ1メートルほどの小山がある。
円錐形のその小山は、ちょうど、「銀閣寺」の庭の山を模したものを
思い出させる。
しかし、材質が違う。
恐山に点在するその小山は、
『お菓子』
で出来ていた。
袋から出したかっぱえびせんやらアメやらが積み重なって
小山になっていたのだ。
その小山には、決まって数本の「風車」がささっており、
ひゅろろろ~~~
と吹く風に、いっせいに
からからからから
と音を立てていた。
その風車の音が、いっそう無気味さを増していた
小道から突然、視界が開ける。
右手には荒涼とした石灰岩の山。
左手には、最初に見た、海のように波打ってる真っ青な湖。
山から湖に向かって、
イオウの色の黄色に変色した「うね」を澄んだ水が
幾筋かちょろちょろ流れてる。
いくつも、川原の石を「積み木」のように積み上げてある。
賽の河原(さいのかわら)だ。
草のない石灰岩の斜面に無数にお菓子の小山があり、
無数のかざぐるまがからからからからから
と音を立てている。
イオウのニオイがいっそうキツい。
そのお菓子の山にしても、かざさぐるまにしても
積み上がった石にしても
いわれを考えると悲しい。
子を失った親が来て、お菓子をまき、それが小山になった。
子をあやすために親が風車をさした。
供養のために石を積み上げた。
死んだ、愛する者の声を聞きたくて
いたこに頼る。
恐山とは、そういう
『悲しい場所』
なのだ。。。。
せめてもう一度、もう一度だけ・・・
それって、生きている人間のエゴかもしれない。
でも生きている人間の「気持ちの救いの場」
なのかもしれない。。
もう二度とこんなトコロには来ない!
と思った恐山だったが、
ワタシも、親やジブンの愛する者を失ったとき、
やはり、愛する者の声をもう一度聞きたくて
いたこにすがり、
もう一度、ジブンの元に戻って欲しくて、川原の石を積み上げ、
せめてもと、この場所で
お菓子をまいているのかもしれない。。。。
(終わり)
・・・こんな閉め方でいかがだったでしょうか?(^^ゞ

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