同居育児



三時間おきにミルクなんて嘘ばっかり。お乳やるのに一時間、オムツ替えて寝かしつけるのに1時間、その一時間後にはもう ""> ほげぇーっ と泣いてる。全然まったく寝れない。いつ寝ればいいのかタイミングがつかめない。

ユメはちょっと小さかったので泣いたときにお乳あげればいいと言われた。
ってなわけで授乳回数一日16回くらいだった。(泣)

もうほとんど乳にぶら下げっぱなし状態。

たまに絞って母に交代してもらった。

でもそんなに寝れるわけでもなかった。

旦那なんて仕事にかこつけて週末しか来なかったので全然使えないし。
母乳が十分出たのでミルクは足さなくてもよかった。

1ヶ月検診では4キロになっていた。2640gから4キロ・・・ここからがデブまっしぐらだった。

家に帰ると「お風呂は義父の担当」と勝手に決められていた。

超納得がいかなくてものすごく泣いた。

自分の子供なのに、自分でお風呂入れたいって思わないのかな?

あんまり私が怒ったものだから旦那が夜中に帰ってきてから入れることで落ち着いた。

おむつも布を使ってみたけど女の子はおしりが荒れ易くすぐ真っ赤になってしまったので紙オムツのみに切り替えた。

義母が「昔は布しかなかったし、布のがやわらかくていいのにねぇ」
といやみを言われた。

何もかも初めてだけど、自分なりにイイと思ったことをやってるのにいちいち言われるのは苦痛以外の何物でもなかった。

私以外はみんな昼間働いていたため、朝と夜しか義両親は子供と接することが出来なかった。

そのうち朝顔を合わせるのが嫌でみんなが出かけるまで起きなくなっていった。
朝から何か言われると一日気分が悪くなるから。

半年が過ぎたころ、義母が倒れた。
病院で診察を受けると「肝硬変末期」だった。
父に医者を紹介してもらったが、その医者も「あと一年」と診断した。
退院してからは好きなことをさせてあげてください。とまで言われた。
旦那はそのことはみんなに内緒にしてほしいといった。入院中やったことのない経理を見よう見真似で手伝い、会社に子供をつれて出社した。家事も育児もいっぱいいっぱいだった。退院してからも初めての育児で義母を病院に連れていくのは大変だった。
誰も手伝ってはくれない。だって余命一年なんて知らないから。
もちろん本人も知らないから外食や間食も平気でしていた。
目を離すと子供を乳母車にのせて散歩に行っていまったり・・・イライラしっぱなしだった。いつ大出血して意識を失うかもしれない人間に子供なんか預けられない。もう尋常じゃないぐらい毎日キーキー怒ってた。かわいそうを通り越して憎かった。

でも、一年後その日はきた。
吐血、下血をしたのだ。それでも今日は友達と出かけなきゃいけないからと気丈にも出かけていった。
夜、支えられて帰ってきた義母は真っ青だった。
一人ではとてもぐったりした義母を病院まで連れていけないため旦那に早く帰るように何度も電話した。
「仕事がもうすぐ終わるから」となかなか帰ってこない。
泣きそうだった。義母はとても太っていたため、歩けない状態で私が運ぶのはとうてい無理だった。

やっと旦那が帰ってきたとき「トイレにいきたいから」と起きあがった義母はそのまま失神した。出血量が多かったので貧血を起こしたのだった。
救急車を呼んだ。でも、かかりつけ医は県外だったのにもかかわらず市内の病院に搬送された。救急車はそこから一番近い病院にしか運んでくれないらしい。

運ばれた病院の医者は最初診療拒否をした。
「かかりつけの医者があるならそっちに行ったほうが・・・」
目の前で血流してる患者に言う言葉じゃない。
かかり付け医は「もう長くないから、家の近くの病院で家族に囲まれて過ごしたほうがいい」といわれた。
父が紹介した医者だったため、私が悪者扱いだった。
かかりつけ医が見捨てたと受け取られたのだ。

もう何もかも嫌になった。

お葬式が済んで、旦那に「もう同居はいやだ」と伝えた。
お父さんを残して出て行くなんておまえは冷たいとなじられた。
旦那は弟で上に兄と姉がいる。
兄夫婦に住んでもらえばいいじゃん。もう出来ないよ。もう出来ない・・・。
わたしは半分壊れかけていた。

何度も喧嘩した。

でも、もう譲れなかった。

離婚届にサインするかマンションの契約書にサインするかどちらかにしてほしいと迫った。

私の迫力に負けてとうとう旦那は家を出る決意をしてくれた。





© Rakuten Group, Inc.

Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: