国分寺で太宰を読む会

国分寺で太宰を読む会

「新釈 諸國噺」1



ポピュラーな作品ではないので選んだ。とくに二つ話すと

原点がはっきりしている。西鶴の原点を探ると太宰の特徴がはっきりしてくるのではないか?書き方の魅力の太宰の特徴・癖が浮き彫りになるではのないか?西鶴の魅力もわかるのではないか?ということで、太宰から西鶴の魅力もわかるのではないか?と思う。

文学作品というのは、縦と横で考えられる。文学の流れ、文学の歴史の中で縦の流れがある。もう一つは、横の広がりの中で作品がある。縦の流れと横の広がりの中で、太宰を考えると



この「新釈諸國噺」は1909年生まれの太宰の30代の半ば、太平洋戦争の終る前、既に非常に窮乏を強いられた、太平洋戦争末期の差し迫った時期に発表され刊行された作品。

作品の最初に凡例が作成され、作者の意図が反映されているが、本当に信じていいのか?と思うぐらいに西鶴を褒めている。西鶴の作品は、原稿用紙2~3枚ぐらいの量であるが、太宰の作品では20~30枚の分量になっている。これは、400字詰めで換算しているということで理解頂きたい。太宰の好きな西鶴ものは「武家物」。晩年のもの、好色物は着想が陳腐だと言っている。題材は広く、求めた。西鶴に比べたら、自分は甚だ青臭いとも書いてある。西鶴の年齢を最初のところで、わざわざ書いてある。西鶴が40代の作品が多い。こういう年齢を記述しているのも興味深い。ここに、韜晦というか、太宰ならではの、自意識が表れていると思う。戦争の末期に向かって書いていることを意識しているともいえる。この作品でも、さまざまな研究がなされているが、

それらの中から二つのことを挙げるとすれば

本案のもとになった以外の西鶴の作品も、少しずつ本案のもとになった、といわれ、それ以外のものもつまみ食いのように作品に取り入れられているというように、研究がされている。その他の本案小説でも影響を受けている。西鶴を扱った間山清家という劇作家からも直接に影響を受けていると思わる。

井原西鶴とは、川端康成の言葉を引用すると

「日本の小説は、源氏に始まって西鶴に飛び、西鶴から秋声に終わる。」日本の古典文学は、紛れもなく西鶴の影響を受けているといえるだろう。日本の文学に1642~16  年、大阪に生まれ

日本の文学に決定的な影響を与えている。

太宰は西鶴の好色物は、好きではないということだが、西鶴の作品を大雑把に括ってみると、一つは「好色物」、二つ目は「武家物」とか「親不孝物」と、最後に「町人物」「浮世物」を描いたということが言える。これが、大雑把な、西鶴の見取り図といえる。

ただし、「好色五人女」よりも「西鶴諸国話」のほうが早いし、武家物よりも町人物の方が早い。少しずつ、ダブりこそあるが、大体この三つのものに分けられていると言っていいと思う。

最初は、好色を通して優美を描いて、市井の女達の奔放な性を描いて、浮世と性の軋轢を描く。そして、武家物、親不孝物と続く。「西鶴・諸国噺」の一番最初のところに「人は化け物・・・」という有名な言葉があるが、あちこちに色んなものがいると...。最後に「人は化け物、世に無いものはない。」と括られている。

次第に、西鶴の目は研ぎすまされ、現実を見る目が鋭くなっていって、町人の生活を最後に書いていった...というような見取り図が出来上がっていると言われている。物語作者として、俗性をみる、観念的にならないという、常に地上をみる、地上の作者、というところが、非常に特徴的な作家であるといえる。

新潮文庫の太宰作品の解説を奥野健夫さんが書いている。私は、ここで新聞記者らしく、大雑把な言い方をすると、吉本隆明の書いていることを、思いっきり俗っぽく書いたのが、奥野健夫さんだといえると思う。二人は、太宰を非常に高く評価していた。無頼派では、坂口安吾、織田作之助、石川淳。この中で大阪出身の織田作之助は、生涯、西鶴にこだわりつづけた作家である。

太宰が「織田君の死」という文章を書いたことは、皆さんは、よくご存じだと思う。1913年の生まれで、亡くなったのは太宰より一年早い。4つ年下だった。太宰、坂口、織田の三人の酒場での話が残っているが。

1942年に「西鶴新論」というのが残っているが、そこで織田作の西鶴論は、太宰とは少し違ったところがあるので、ここで紹介すると

「新しい新興階級というのが町人だったが、その町人達の新しい文学を作った。彼は大阪人だった。そして、あるがままの人間を、あるがままに描いた。そこには、巧妙な話術があった。直観を重視した。無用な干渉、虚飾を嫌った。気どりや気障を嫌った。楽天的で俗物だった。」これが、大阪人・西鶴のことを書いた織田作の言葉だが、一見批判しているように読めるのだが、これは、大真面目に褒め言葉として書いているのだ。大阪人には「良いかっこし」というのが、最大の悪口なのだ。そういうところがあるのだ。織田作が強調しているのは、半分は俳諧紙で半分は浮世草紙だったのだ、ということなのだ。西鶴は、ものすごく消化する力が強く、実は源氏も消化している。室町の仮名草紙も消化している。好色一代男は、源氏の消化だということは、よく知られている。日本の文学史の縦の流れのなかで、こういうふうに、西鶴も仕事をしているのだ。笑いがあり、ユーモアがあり、そして、数字をたくさん使う。写実的に観察しているが、写実に沈潜しない。写実的な観察眼、対象をじっくり観察する力を持っているけれども、それだけにこだわらない。観察している自分さえも相対化する。そこから「笑い」が生まれる。これが、文化人的な西鶴の特徴なのだ...というのが織田作の西鶴論だ。

織田作や、奥野さんの話をみると、戦争中に西鶴にひかれた作家達の背景は、遠い背景か?近い背景か?は、それぞれ作家によって違うのだが

あるムードというのは、分かっていただけると思うのだ。人間存在の悲しさ、おかしさ、奇怪さ、訳のわからなさ、つまらないけど面白い、崇高だけど下らないということを描いている。そしてこれが、色々な作家の養分になっている。

幸田露伴、尾崎紅葉、正宗白鳥、西鶴に影響を受けている作家は無数にいる。

川端も以外に思うが、西鶴の影響を受けている、というところに戦争中に西鶴にこだわって作品を描く作家たちの思いの一端というのがあるのではないか、ということで、これを背景としてあげたい。



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