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しかたのない蜜
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私の帰宅後、手塚くんは部屋にこもって夕食を家族といっしょに取ろうとしなかった。病院からすでに帰宅していた手塚くんのお父さんはそれをひどく怒った。お父さんは手塚くんが学校に行かないことを以前から不服としていたのだが、お母さんが「勉強疲れで精神的に参っているから」と説明していたのだ。お父さんも手塚くんのリストカットをすでに知ってはいたから、無理矢理学校に行かせようとはしなかった。その代わり、毎晩いっしょに夕食を取って、その日のできごとを報告することが義務づけられていたという。それを破ったとお父さんは怒り、手塚くんと言い合いになったのだった。
そこまで聞いて、病院の待合室のソファーで私は訊ねてみた。
「どうしてカウンセリングに行かせたりはしなかったんですか? お父様は病院の医院長をなさっていますよね? いいカウンセラーの先生も比較的簡単に探せると思うんですが」
「秀一は甘ったれてるだけだと主人はいうんです。だからそんなものは必要ないと」
手塚くんのお母さんは平日の夜の誰もいない待合い室の周りをきょろきょろと青黒いくまの浮き出た目で見回しながら声をひそめて答えた。そんなことをしなくても、もうとっくに面会時間は過ぎていた。それなのに部外者である学校業務を終えた私が面会を許可されたのはひとえに手塚くんが入院しているこの病院が、彼の父親の経営するものだからに他ならない。
「でも、実際に手首を切ってるんでしょう? 甘えという言葉ではくくれないと思いますが」
「世間体、という言葉をご存じですか? まだ若いあなたにはおわかりにならないでしょうけれど」
お母さんは上目づかいで私をにらみながら小さく、そして鋭い声で言った。これ以上何も訊くなというように大きくため息をつく。私は気圧されて、話題を変えることにした。
「それでどうして手塚くんは入院することになったんですか?」
お母さんは気まずそうにうつむいた。こうしてみると、細面な顔の輪郭は手塚くんと実によく似ている。
「……主人と少し言い合いになりまして」
それはさっき聞いたわよ。私はそう言いたかったが、これ以上お母さんの機嫌を損ねるのは気が引けた。私がそう思いをめぐらせている間にも、お母さんはひたすら周りを見回している。
「それでは、手塚くんの病室にご案内していただけますか?」
私がそう申し出ると、お母さんは真剣な面持ちで私に頼んできた。
「秀一の入院は学校にはご内密にしてください」
だったらどうして教師である私をここに呼んだんですか? 私はその問いを吐き出したくなったが、ぐっと飲み込んだ。私はいつだってこうやって我慢してきたのだ。それはたやすいことだった。
こうして私は、手塚くんの入っている個室に案内された。
「秀一。先生がいらっしゃったわよ」
引き戸を開けながら、お母さんはベッドに向かってそう声をかけた。クリーム色のカーペットが敷かれた病室の奥に手塚くんの寝ているベッドはあった。
病室はどう見ても二人部屋だった。窓辺からは広々とした夜の海が見える。備え付けの棚の上にはピンク色の薔薇とかすみ草が生けられていた。
「先生?」
シーツのふくらみからかすれた声がした。手塚くんは起きあがった。手塚くんのお母さんがあぶなっかしそうに声をかける。
「秀一、寝てなきゃダメじゃないの」
「でも母さん、先生に失礼じゃないか」
手塚くんは真剣にそう言った。
点滴の細い管が腕につけられているのが見える。手塚くんは眼鏡をかけていない目をすがめて私を見た。大きなその目はうるんでいた。手塚くんの昨日より白っぽくなっている唇が小さく動く。ゴメンナサイ。その動きで、私は手塚くんが声を出さずにそう言っているのがわかった。
手塚くんは瞳をゆらがせて、やがてたえきれなくなったように私から目をそらせて白いシーツに視線を落とす。
私は決意した。
ふと思いついたように、途方に暮れたように息子を見つめていた手塚くんのお母さんに言う。
「手塚くんに進路の話などしたいので、しばらく席をはずしていただけますか。それから学校について込み入った話もしますので、なるべくお医者さまや看護婦さんにも入ってこないようにお願いしていただけますでしょうか」
お母さんはほっとしたようにうなずいた。手塚くんにどう接していいかわからなかったのだろうと私は思った。
「それじゃあ、先生、よろしくお願いします」
お母さんはそう言って軽くお辞儀して、引き戸から出て行った。私は注意深くそれを閉める。
私がベッドに歩み寄ると、手塚くんは背筋を伸ばして座った体をびくりと震わせる。病院で配布されたであろう縞模様のパジャマにつつまれた体は折れそうに細かった。
手塚くんは唇をかみしめて私を見た。昨日あんなことをしたんだから、どんなになじられても仕方ない。そう覚悟を決めたような表情だった。
私はベッドまでたどりついた。ほんの五、六歩ほどの距離だったが、私にはひどく長いもののように思えた。それでいて、そこをずっと歩いていたいような気もする。私はこの傷つきやすい少年にどんな言葉をかけていいのかわからないのだ。
「気分はどう?」
結局、私の口から出た言葉はごくありきたりなものだった。
「……悪くはないです。痛み止め、効いてるみたいで」
手塚くんはうつむきながらぼそっと答えた。
「それは良かったわね」
私は唇にどうにか笑みの形を作りながら答える。備え付けの冷蔵庫の稼働音が低くうなっていた。点滴がぽたぽたと落ちる。
手塚くんは包帯を巻いた手首が白くなるほど強く拳を握っていた。私は手塚くんの手首の血管が切れて、そこから血が噴き出してしまうのではないかと心配した。この細い腕が、昨日あれだけ強い力で私を押さえつけていたとは信じられない。そしてその手塚くんの生命力が早く戻ってくるようにと祈っている自分に気づく。
「このお花、綺麗ね。お母様が買ってくださったの?」
私はどうにか話題を見つけた。棚の上の切り花を指さす。
手塚くんは色とりどりの花に目をやってから、悲しげに眉をひそめた。
「そうです。僕、母さんに花は置かないでって言ったのに……」
「どうして? 花って綺麗じゃない。心がなごむわよ」
「それは人間の側からだけの話でしょう? 花はもっと地面に咲いて生きていたかったはずだ! 僕のために、僕なんかのためにここでしおれて枯れていくなんて。僕、切り花って嫌いなんです。花が人間のために生命をだんだん生命を失っていくのを見なきゃいけないから……」
手塚くんは激しい口調で一気に言った。昨日、私に聖書の話をしているのと同じ口調だった。こらえていたものがあふれだしているのだ。
ややあって、手塚くんは私を見て、丁寧に頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! 先生、せっかく来てくださったのに、僕、変ですね」
「いいのよ、べつに。昨日の手塚くんの方がもっと変だったから」
手塚くんの頬がこわばった。顔がさっと赤くなって、すぐに青くなる。言い過ぎたか、と私は思った。
けれど、これくらい言わなければ手塚くんの中には踏み込んでいけない。もしそれができなければ、私と手塚くんはこれから気まずく短い時間を過ごしただけで、二度と会えなくなってしまうかもしれないのだ。
「……でもね、私、変な手塚くんも好き。だってこれがきっと本当の手塚くんなんだもの。おとなしくてまじめな手塚くんはいつも何かを我慢してる。そうでしょ?」
私は花瓶に生けられた薔薇の花弁をいじりながら言った。こんな美しい花を見ても、無常を感じるほどこの少年の心は繊細なのだ。それは生きていきにくい証とも言える。けれど私は手塚くんにこの世にいてほしい。だって彼は私を必要としてくれている、もしかしてただひとりの人間なのかもしれないのだから。
手塚くんはシーツをいじりながら、私の言葉をうつむいて聞いていた。私の態度をどう取っていいのか迷っている様子だった。私は言葉を続ける。
「手塚くんはもっとたくさんのことをお父さんやお母さん、そして私や周りのみんなに言いたいのよね。でもそれがうまく言葉にできない。その間にみんながあなたに何だかんだと命令してくる。だからあなたは手首を切ってしまう。剃刀はあなたの言葉なのよ。だからあなたは剃刀が怖くない。むしろ剃刀は手塚くんの友達で、人間なんかより絶対安全なもの」
「どうしてそんなことが先生にわかるんですか?」
「……これ」
私は太い腕時計をはずして、手塚くんに見せた。
手塚くんは息をのんだ。
私の手首には赤黒いひびわれができている。すでにだいぶ薄くはなっているが、地面に走った亀裂のようなその傷跡はこれから先も一生消えないだろう。
「先生、この傷……」
手塚くんはそこまで言って口をつぐんだ。
「昔、大切な人に、ううん、私だけが一方的に大切だと思ってた人に置いていかれそうになってつけた傷なの。私、うまくその気持ちを言えなくて、こういう形でしか表現できなかった。でもその人は、私におびえて私からかえって離れていっちゃったけど」
私は笑った。でも心はずきずき痛い。あれからもう五年もたっているのに、私はまだあの失恋から癒えていない。相手は大学の同級生だった。
”俺、佐々木さんがそうやって一生懸命人の話を聞いている時の顔って好きだな。すごく人の気持ちを思いやろうとしている感じで。今時、みんな自分のことがしゃべりたくてたまらない人ばっかりじゃない”
ゼミのコンパで黙ってみんなの話を聞いているだけの私を彼はそう言ってくれた。彼の指摘は間違いだった。本当は私だって輪の中心になりたくてたまらなかった。でも他人を押しのけて話す勇気がないから、他人の話に黙って耳を傾けているだけだったのだ。
けれど彼のように、私をそうやってほめてくれた人は今まで一人もいなかった。みんな私を「おとなしい人」「暗い人」というだけだった。私は嬉しくて心がはりさけそうだった。彼につきあおうと言われた時は嬉しさを越えて不安がやって来た。こんなまじめなだけのつまらない女に、陽気で楽しい彼は不釣り合いだと思ったのだ。
彼は二時間かけてお化粧して、手作りの弁当を毎日持ってくる私に「俺のために無理しなくていいよ」と何度も言った。私はあなたのためにこうしているのが一番楽しいのよ、と私は心から答えた。そのうち彼は私のアパートに来なくなった。携帯も通じなくなった。
ある日、彼は久方ぶりに私の部屋へやって来た。そしてリンゴを剥く私の前でこう言ったのだ。
”俺と別れてくれ。だって俺といっしょにいると、君は君らしくいられないんだよ。無理して俺に合わせようとしているのを見ると、こっちがつらくてたまらないんだ”
私は体がさぁっと冷たくなっていくのを感じながら微笑もうとしていた。悲しい表情をしたら、彼がいやがると思ったのだ。私は笑いながら、「私はちっとも無理なんかしていない。私はあなたと一緒にいられるだけでいいの」と言った。それから私たちはどのくらいの間、不毛なやりとりを続けただろうか。崩れそうな砂の城をお互いに少しずつ崩しあっているような時間だった。
それまで太い眉をひそめながらも、どうにか笑っていた彼はついに怒鳴った。
”俺はお前が重いんだよ! お前のその顔が、その目が嫌いなんだ。いつも人のことをじっと見張ってるみたいで。人間は自分のことを四六時中考えてる人間のことをありがたいなんて思わないんだよ! うっとおしいだけなんだよ!”
彼が私のことを「お前」と呼ぶのを私はその時初めて聞いた。そして私は部屋から出て行こうとする彼を引き留めたくて、果物ナイフで手首を切った……。
手塚くんは私がなぜ手首を切ったかの理由を訊こうとはしなかった。ただ、私の傷が自分の傷であるかのように痛そうに目に涙を浮かべて私の傷を見つめている。それでこそ手塚くん。やさしくて、人一倍思いやりがあるのに、それを相手に伝えられない。だからみんなに誤解される。
「僕……」
手塚くんはシーツを握りしめながら、うつむいて言った。私は手塚くんを刺激しないように「なあに?」とできるだけやわらかな声であいづちを打つ。
「僕、昨日、父さんに言われたんです……。お前が手首を切るのは、単にみんなを心配させたいだけだろうって……学校をさぼりたいだけだろうって……」
手塚くんの声には涙がいっぱいにじんでいた。眼鏡をすりぬけてこぼれ落ちた涙が、シーツの上にぽたぽたと落ちる。がんばって、少しでも自分の気持ちを吐き出して。私が受け止めてあげるから。私はそう言いたくて、手塚くんの手の甲に自分の手を重ねた。手塚くんの手はひんやりしていて、やわらかかった。
「……僕は、僕は、手塚家にふさわしくないって。こんなに弱くてもろい人間は、この世のどこにいっても生きていけないって……秀一って父さんのつけた名前に恥じる人間だって……本当に死にたいんだったら、思い切ってひと思いに死ねって……だから僕は手首を……」
私は手塚くんの口を自分の胸でふさいだ。強く手塚くんを抱く。手塚くんの腕にささっている点滴の管が張って、まっすぐな線を描いた。
「もういいわよ、手塚くん。それ以上言わなくていいわよ」
私は手塚くんの頭に自分の頬をすりつけながら言った。手塚くんのこもった泣き声が私の腕の中から聞こえる。手塚くんの髪は青い桃の匂いがした。
手塚くんはおぼれかけた人が空気を求めるように顔を上げた。手塚くんの顔は涙と鼻水でべとべとだった。私は涙でぐっしょり濡れた手塚くん眼鏡をそっとはずしてベッドサイドに置く。
「僕、僕、きっと天国にいるイエスもいらない人間だったんだ……だから、死にきれなくて、まだこの世にいるんだっ……」
「違うわ。手塚くんは一度死んで、もう一度生まれ返ってきたのよ。まだ手塚くんがするべきことがこの世界にはあるのよ」
私は手塚くんの震える肩をつかみながら言った。手塚くんは嬉しそうに、けれど不安そうに尋ねる。
「本当に?」
「ええ、本当に」
私はできるだけ深くうなずく。こうすれば私が確信を持ってそう言っているように見えるはずだ。
でもそれは嘘だ。私は根拠のない励ましをしているだけにすぎない。私みたいな薄っぺらい教師はこうやってだましだまししていくしかないのだ。そして手塚くんはそこをついてきた。
「たとえばどんなことのために、僕は生きてるの?」
次の瞬間、私の口は驚くべきことをひとりでにしていた。
私は手塚くんの涙をなめとっていた。手塚くんは驚いたように息をのむ。だがすぐに目を閉じて、私に自分から顔を差し出した。眼鏡をかけていないまぶたを閉じた手塚くんは女の子みたいに可愛かった。私は体の芯がじん、とあたたかくなるのを感じながら、手塚くん 長いまつげについた涙を舌ですくう。
最後に私の舌は手塚くんの唇を割って、彼の舌にゆきついた。手塚くんは最初はおびえていたけれど、ちょっとそのうちちゅっと自分から私の舌を吸った。
それからしばらくして、卒業式が終わった後、私のアパートに退院したばかりの手塚くんは来た。
生まれたままの姿になった私に膝枕されながら、裸の手塚くんは言った。
「先生、いいのかな、僕……先生とこんなことになっちゃって」
私は手塚くんの汗ばんだ髪をくしゃくしゃと撫でながら笑い出す。手塚くんは首筋まで真っ赤になって怒った。
「な、何がおかしいんですか、先生!」
「ごめん、ごめん。だって、この期におよんでそんなこと言うなんて、って思って。最初からそう思うんだったら、私のアパートに来なきゃいいんじゃない。こうなること、わかってたんでしょ?」
手塚くんはぷい、と横を向いた。眼鏡を取って裸でいる手塚くんは本当に女の子みたいだった。中年オヤジがセクハラする気持ちってこんな感じだろうか。
でも、手塚くんの下半身はちゃんと男の子だ。さっきその証を私の中で示してくれた。私の脚の間は鈍い痛みを帯びている。初めての彼と別れて五年間、男を受け入れてなかったからだ。それなのに私は寝床の中でも手塚くんの先生として振る舞った。十五歳と寝る二十五歳の女が処女に限りなく近い状態なんて、生き恥ではないか。
私が手塚くんをからかってしまったのも、年上の女の余裕を見せたかったからだった。やりすぎたな、と思った私は手塚くんの少しくせのある髪を指先でつまむ。驚いてこちらに向き直った手塚くんの耳たぶをその髪でくすぐると、手塚くんは落ちつかなげに目をすがめた。
「へへっ」
私はアニメキャラクターのように声に出して笑いながらウィンクした。手塚くんはぷうっとふくれる。
「先生、からかわないでください!」
「ごめん、ごめん」
私は笑いながら手塚くんにキスした。手塚くんはちょっと恥ずかしそうに口を開いて、私の舌を吸った。
手塚くんの上にのりながら、私はささやく。
「……ねえ。手塚くん。あなたにいい名前をつけてあげる」
「……どんな名前ですか?」
手塚くんはきつく目を閉じて息をはずませながら答える。手塚くんは話していたのだ。病院のあととりである手塚秀一という名前が、自分にとって重いのだと。
「少年A。未成年なのに、女教師とこんなことしてる悪い子だから。でも先生、こんな悪い子が大好きよ」
私は手塚くんが気持ちよくなるように、大きく腰を使った。手塚くんは「うっ」とうめく。
「……いい名前ですね」
うっすらと目を開けて、手塚くんは微笑みながら答えた。慣れない手つきで私の乳房をもむ。自分がつながっている人間がここにいるんだとたしかめているような手の動きだった。私は手塚くんのその思いに応えたくて、少しひっかかるのを我慢して腰を深く沈める。私の息は荒くなった。
「そう。だから、私といる間は、君は少年Aでいなさい。誰も知らない、何も持っていない、ただの少年Aに」
「……はい」
こうして少年Aは私の肩を抱き寄せて、私にキスをした。
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