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yuuの一人芝居
随筆 今思う明日 2
電話は午後にどうぞ。
午前中に私に電話をかけてくるのは友達にはない。友達なら私の生活を知っているから午後にかけてくるのだ。午前中は起きていないことを知っているのだ。寝ているところを起こすと機嫌が悪くぐずる幼児と同じできわめて愛想が悪い。会話が成り立たないのだ。頭が起きてなくて思考力はゼロに等しいのだ。そして、曇った日や雨の日にも決して架けてこない。三十五年ほど前にサイドに車のタックルを喰らうという交通事故で病院通いをし一応は治っていたのが数年して後遺症が出てそんな日は頭が重く何をするのも億劫なのである。そのことも友達は知っていて電話をかけては来ないのだ。自分勝手の横着者なのである。そんな私を見捨てずにつきあってくれている友達は神か仏のような心を持っていると思っている。後遺症から鬱という花が咲いたからどうしょうもない。二十年間つきあう羽目になった。別れようと何度も言ったが離れてくれなかった。悪妻のようなものだった。昼間はベッドに横になり頭を氷で冷やしていた。良くなった今でもケーキ屋が入れてくれる保冷剤をタオルの中に入れて頭に巻いて暮らしているのだ。この格好は何があろうがやめたことはない。新幹線の中でも、銀座を歩くときでも、お偉い先生方との会議でもタオルは外しをしないのだ。ターバンの様なものだ。鬱の名残のスタイルになってしまっているのだ。タオルはすり切れるので買わなくてはならない。保冷剤も劣化するので食べないケーキを買わなくてはならない、そんな生活を続けていたのだが最近保冷剤を売っている店を見つけてそこで買うことにしている。食べもしないケーキを買う必要がなくなったのだ。昔の知人からは時折電話がかかってくる。私の生活を知らない人たちなのだ。
「しっとるか、小野君が内田百ケン賞の随筆賞を取ったこと」
午前十時頃杉原さんからかかってきた。
「知りません。そうですか、それは良かった」
「吉備の古墳のことを書いたらしい、目の付け所が違うな」
杉原さんは昔の同人誌の仲間で「文学界」の同人誌批評の今月のベストファイブに入ったほどの書きてであったが土地が高速道路に取られ億という金が入ってから小説は書かなくなり随筆、俳句などでお茶を濁していた。そのことは風の頼りで知っていた。彼は色々のところに応募してその近況を午前中に電話を入れて報告をしてくれていた。何処どの佳作に入った、とか賞に入った随筆の本を送ったからとか親切に言ってくれるが、私の頭は起きていないのだ。
そう言えば杉原さんと小野君のことでこのような事があった。
就業時間の終わった五時過ぎに小野君が血相を変えて飛び込んできてこの原稿を読んでくれと言った。二十枚ほどの短編に見えた。
「杉さんがこのような作品は駄目だというのです」
「あの人は誰の作品も斜めに読むからな」
「今ここで読んで貰えませんか」
「いいよ。暇だから」
読み終わってホーとため息が出た。
「どうでした」
「杉さん、これ読んでないよ。読めば作品の善し悪しは分かる人だから」
「無責任ですね」
「付き合いは君の方が深いでしょう」
二人とも市役所に勤務して良く話すらしいことは知っていた。
「短編としては文句の付けようがない。良いできだ」
「あの、ほんとうに・・・」
「ああ、これなら何処の短編賞にだって応募しても受かると思うな」
「ああ、胸が苦しかったのですが、今は大きく息ができます」
「おばあさんの家の周囲に日に日に通勤の人たちの自転車が置かれていく・・・。おばあさんの心理描写が良いね。素晴らしい素材だと思うよ」
「助かりました」小野君は胸をなで下ろしていた
小野君はその作品で中国新聞短編賞を受賞した。それを期に地方の賞をいくらか取っているはずだ。そして今回の随筆賞。
このような電話なら午前中でもどんどんかけて欲しいと思う。
朝の五時に眠ることにしているから夜は誰よりも強いのだ。
夜と言えば「女流文学賞」を取った梅内女史のことを思い出す。毎日夜の十時に電話がかかってきて午前六時過ぎまで私の家の電話は話中になった。かの名女優の杉村春子さんから弟子にならないかと言われた程の美貌と美声の持主の梅内女史の声が受話器から蕩々と聞こえてくるのだ。つまり彼女は受話器にむかって原稿を読んでいるのであった。主人を寝かし付けてから電話をかけ、起きる前に切ると言う、何時寝ているのだろうかと心配をしたものだが、エネルギッシュな人との付き合いで夜に強くなったのだと思っている。
「あんたらなにしとるん。用事があってどちらに電話しても話し中やないの」
「歴史文学賞」を取った松本幸子さんに良くからかわれたものだ。
今は殆どがパソコンのメール、携帯は置いてるだけで持ち歩かない。電話も、
「丸々化粧品ですが・・・」「××証券ですが・・・」「お金必要だったら貸しまっせ・・・」色々の勧誘電話ばかり、午前中なら、
「いりまへん」と強く言ってガチャン。
今までの電話はこれからどうなるのか・・・。
遊び人の私に市の文化振興の企画委員とか国文祭の企画委員とかの要請がある度に午前中には電話をかけないで欲しいと一番に断りそれでいいのならと受けるのだ。
曇り空の日に鬱陶しいのは・・・。
頭が重く何をするにも気力が湧かない、どんよりとした曇り空の日にはそんな状態でぼんやりとしている。これでも良くなった方なのである。鬱の状態であったので厄年も、更年期障害もその中に混じっていて自覚しなかった。更年期障害というのは何も女性の専売特許ではない。鈍感な男はあまり自覚しないだけ。雨がしとしとというのも少しは楽だが同じ症状を呈する。寧ろザーザーと降ってくれている方が開き直れて楽なのだ。
三十数年前車を車にぶつけられ整形外科へ半年ほど通院したことがある。二、三年して肩がこり頭が重く不眠で困ったのだが事故の後遺症くらいに思っていたのだ。だがこれはより深刻な問題の序章に過ぎなかったのだ。
私は医者ではないので専門的なことは分からないが三十数年前は鬱であるとは診断できなかったと言えよう。鬱病の存在は分かっていたが心の病くらいにしか思われておらず、日航機の機長が鬱なのに操縦桿を握り羽田をオーバーランをして認知されたというものである。脳神経外科へいけば脳波を取って筋収縮性頭痛と診断され薬を調合された。それを飲んでも一向に良くならなかった。整形外科へ行けばレントゲンを撮って首つりの機械で首をつられた。それも効き目はなかった。内科に行けば十二指腸潰瘍の注射を二十日間射れ飲み薬をくれたが駄目だった。この際専門医のはしごをしようと思い眼科、耳鼻科、泌尿科、肛門科、などあらゆる医院の門をくぐった。治療費の無駄だった。
私の周囲にも同じような症状の人がいて同病を哀れみ哀れんでいた。それは傷を舐めあっていたということだった。
「あの人は横着者なのよ。一日中ボーとしていて何を考えているのかわかりゃしない。ヤクでもやっているのでしょうか」という声に心がさいなまれている人たちであった。その中の焼き肉屋の克つちゃんが、
「何でも川崎医大に心療内科という科があるらしいのでみんなでいって見ようやないか」と言った。酒飲みのはしごと一緒でいくことにした。克つちゃんは川崎医大や倉敷中央病院に何度も入院して酒を飲み強制退院をしている猛者であった。何時もたばこ屋の巻ちゃんと魚屋の父の手伝いをしている敬子さんのところ入り浸りで焼き魚や刺身を食べながら想い人の敬子さんにつきまとっていた。店先の縁台に座って道行く車を眺めながら煙草の煙を吐き出していた。
克つちゃんと巻ちゃんと三人で川崎医大の心療内科を受診したのだ。待合いにはうつろな瞳を宙に投げて煙草をふかしている人たちが沢山いた。
「そうですか、そんなに色々な医院を巡られましたか。みんなそうです、この病気は沢山の人が罹っているのですが世間では認識が不足しています。それに専門の医師でないと分からないのです」
と診察を終えた若い精神科医は言った。処方箋の投薬をきちんきちんと飲み始めて頭は軽くなり眠られるようになった。何より頭に鉛をのせている様な症状がなくなったのが一番有り難かった。頭の重さがなくなってようやく思考が出来るようになった。だが、車に一人では乗れなかった。助手席に家人を乗せて短い距離を走る程度であった。
「おい生きとるか」と尋ねてきたのが土倉さんだった。さんざんくどかれ原稿を引き受けざるをえなかった。どんなに今の体の状態を説明しても、
「頑張れとは言わん。何時までも待っているから気長に書いてくれればいいから」またしても演劇の世界へ引きずり込まれた。家にいる分には不安発作は少なかったのでやけと道連れで書いた。何作書いたか覚えていない。演出もした。外に出ることで不安発作は軽減していった。
その頃舞台芸術財団演劇人会議のたちあげの実行委員になっていてその会議に東京まで行かなくてはならず一人で行動する恐怖はまだ残っていた。
「いつかは死んで行く身、何処で果てよと定めかな、人の値打ちはただ長く生きるというものではむあるまい。ままよ今まで生きたがもうけもの」演歌の詩のような心境になってようやく参加した。
今年も国民文化祭の企画委員になって文句ばかり言っていたらお前のところがやれと言うことになり、一人芝居の「花筵」をやる羽目になった。時折気分が極端に高揚しいらぬ事を口走るときがある。その付けは意外としんどいものがある。
晴れのち曇りの人生を、頭抱えてケツまくり、生きる我が身の切なさは、巡る月日の草枕、何処で果てよと蝉時雨、きっと何かを拾うもの、明日の望みを考えず、今を生きると心に決めて、と心に言い聞かせているのです。
「最近はどうなのですか」美しい声音が受話器の中から聞こえてきた。
「今は怖いものがなくなりました」とだみ声で言う。
「それはよろしゅうございました。案じておりましたの」
「それはありがとうございます」
「疣痔に切れ痔は大変でしょう」
「はあ」
そんな間違い電話にも心安らかに身を置くことが出来るのです。
曇り空の時にはそうはいきませんが・・・。
ゲゲゲを観たわけは・・・
水木しげるさんの漫画を見たことがない。読んだことは更にない。そんな私が録画にとってまで見たのはどうしてか私自身も判断がいっていない。水木しげるロードは十年も前に温泉帰りに立ち寄ったがしげしげと見るではなく通り過ぎただけである。どうもあの奇妙きてれつな登場人物、妖怪に親しみを覚えなかったというのが原因ではなかろうか。近代化された街角に佇んでいる妖怪は不釣り合いに見えた。やはり場所というものがありはしないかと思って苦笑した。それを見たことで漫画を見よう読もうという気にはならなかった。観光には少しは役立っているが、水木しげるさんにはいかほどの収入もなかろうと思った。だが、生まれ故郷の町おこしには一役買っているというふるさと愛は読み取れた。それが水木しげるさんの優しさなのであろう。
「ゲゲゲの女房」を読んでいるわけでもなくただチャンネルボタンを押したら映っていたものをパソコンをいじりながら見たのだが妖怪の妖術なのか何時の間に毎日見るようになった。私らの世代には妖術、忍術、幻術を取り入れたラジオドラマや映画がはやっていて縁がないというわけではなかった。「新諸国物語」にみんなはまっていたからだ。それなのに水木しげるさんの漫画を知らぬと言うのはおかしいと今思う。貸本屋さんには良く出入りしていたが漫画より講談本を借りていたのはなぜか、祖父が好きで読んでいたからであろう。今思えばあの頃なぜ水木漫画を読まなかったのかと損をしたような気分である。読んだらたぶんはまっていただろうと思う。時代が暗く前が見えない世の中だったから余計に惹かれるであろうと思う。暗いから明るい方がいいというのは世間の通説のようだが暗ければ暗いもっと暗いものを見て現実を明るく感じたいというのが本当の事ではなかろうか。人間の弱さに競べいともたやすく変える力にあこがれたのではあるまいか。その憧れが戦後の復興の役に立ったのだと言うことは言えまいか。そんな潜在的なものを見ていたのかも知れないし若かった頃の郷愁を感じていたのかも知れない。過ぎ去った思い出の中で遊びたかったのかも知れない。鮭が生まれた川に帰る遡上のように幼かった昭和の時代への回帰なのではなかろうか。視聴者をその心に導いく妖術を使って。また、水木しげるさんの奥さんの布枝さんに大和撫子を見、従順な理想の女性を見て憧れたのではあるまいか。そこには歴然と現代の女性と異なる女性がいた。夫の意のままに動く昔の妻の姿が、亭主関白を容認する女性の生き方が描かれ、現代の男性の不甲斐なさと競べたのではあるまいか。このように書くと田島陽子さんに叱られるだろうが、優しさと真実を持った亭主関白なら今の女性も従うのではあるまいか。ゲゲゲ・・・は夫婦の愛情物語であったのだ。何を今更というだろうが現代にないみんなが渇望する理想を披瀝したのだ。そう感じとらせたのは妖怪の妖術であり幻術であり忍術であったのだ。だが、果たしてそれだけであったろうか。
あの一途に変節することなく描き続ける姿に感動したのではないか。なかなか初心を貫くことは並大抵のことではできるものではない。漫画作家と言うより漫画の職人なのだ。絵描きや作家は沢山いるが、職人が少なくなっている。私は絵描きよりペンキ職人が好きだし、作家より文章職人、文筆家の方が好きなのだ。職人は一生一つの事を成し遂げる、画家と威張っていても売れなくては唯の絵が少しうまい人なのだ。文章が多少書ける人なのだ。職人は違う、あの精緻な技は家の付く人たちには作られないものだ。打ち込む姿勢が違うことを最近知った。師匠への恩返しは技を超えることなのだ。描いた物の中からできの良いものは残しておいて後は売る今の画家達とは異なる生き方、良い物を喜んで使ってくれる人へと言う恩返しをしようと励むのだ。物書きも昔は作家の元に弟子入りし食をともにしながら作家の立ち振る舞いから学びとっていたのだがそれがなくなって文学の衰退へと転がり落ちているだ。金がなければよう生きないから変節に変節を繰り返し描いているからそうなったことに気づかず世の中の人が振り返ってくれなくなったと嘆くのだ。そんな人はまずゲゲゲ・・・を見て一つの事を継続する苦労を身につけなくてはならないと気づかされたであろう。
私もその一人ではあるが、遊び人をこの歳までやると言うことは並大抵の努力ではなかった。世間が悪いという事で変節をしようとは思わなかった。何事も世間の恵みとして受け止め満足してきた。鬱に身をさいなまれ前途を捨てたときも立ち止まって少し休んで考えろと言うことなのかと容認した。
人にはそれぞれ妖怪が棲んでいる。妖怪に愛されるか、見捨てられるかのどちらかなのだと思う。
ゲゲゲ・・・の生みの親の水木しげるさんにはどのような妖怪が棲んでいて・・・愛されていて・・・それは奥さんの布枝さんなのかも知れないと・・・。
水木しげるさん、文化功労者なんかで勲章を貰う必要はありません。妖術を使えるあなたにはもっと大きな仕事が残っています。
岩下志麻さんへ
岩下志麻さんはきりりと帯を締め素足に赤い鼻緒の下駄を履いて三味線を弾きながら出てきた。足の運びが決まっている。「写楽」の冒頭のシーンである。
この映画制作を劇団滑稽座として出演し手伝ったのはもう十数年前になる。燐光群、加納花組歌舞伎も参加していた。四月初めから五月の終わり頃まで福山市の南にある「みろくの里」、山を切り開いて作られた映画村での撮影だった。その年は寒い春で朝の二時頃コケコッコーと一番鶏が鳴き、五月に櫻が舞っていた。異常に近い狂った寒さだった。石油缶に炭を炊いて暖を取りながらみんな出番を待った。助監督がエキストラに、歩く、固まって話す、車を引く、浮世絵の店先にたむろするなどと指示を出している。燐光群の人たちは浮世絵の店に入り客を演じる。滑稽座の面々はスターのそばを固めていた。昔はスターの側を大部屋の人たちが固めていたのだ。リハーサルが重ねられて「本番」助監督がカチンコをならしてスタートと叫ぶ。雑音が消え静寂が現れる。カチンコにはシーン番号とカット割りの数字が書き込まれている。一斉に動き出す。
冒頭の岩下志麻さんとその取り巻きが三味線に合わせて歌いかつ踊りながら町家の角から現れる。カメラが回りマイクが音を拾う。
篠田正浩監督は監督椅子に座って全体を見詰めている。「オーケー」と少し甲高い声で言う。監督の顔が優しくなり頬がほころびている。
私が岩下志麻さんを最初に見たのは「バス通り裏」というテレビドラマであった。まだ二十歳になっていない頃か。十朱幸代さんが主人公でその友達として出ていた。二人とも可憐な乙女であった。新劇の役者の野々村潔さんを父に持つ岩下志麻さんはそれをデビュー作として松竹に入りメロドラマの北条誠さん原作の「あの波の果てまで」以下私の見た物でこれはと言う物をあげれば「笛吹川」「雪国」「紀ノ川」「秋刀魚の味」「好人好日」「古都」「暖流」「霧の子午線」「秋日和」「智恵子抄」「婉という女」「卑弥呼」「櫻の森の満開の下」「北の蛍」「化石の森」など有名作家の原作物に数多くの出演して活躍した。その殻を破ったのが山本周五郎さんの原作の「五辯の椿」であろう。次々と父の敵を女の色香で誘いこみ殺害する、演技派女優の誕生であった。その後篠田監督と結婚し篠田作品にはかけがえのない存在になる。あの名作、水上勉さんの「離れごぜおりん」で大きく花を開くことになり、松本清張さんの「鬼畜」は女の本性をまざまざと見せつけた。近松門左衛門「心中天の綱島」では女の情念を見事演じきっていた。「極道の妻ち」では命を何処で張るかをみせ、「写楽」「瀬戸内ムーンライトセレナーデ」「梟の城」「スパイゾルゲ」篠田作品の映画に出演し篠田映画の終焉に付き合った。篠田監督は引退した。その後岩下志麻さんが映画に出たという情報を聞かない。コマーシャルとかインタビューではお目にかかるのだが。最近は山本一力さんの直木賞作品の「あかね空」で出ているが脇を固めているらしい。今までに二百本に近い映画に出ているのだ。テレビドラマの数は知らないが。
岩下志麻さんは私と同い年なのだが若く見え、近寄りがたいバリアがありオーラーが存在していた。出番以外は持ち込んだトレーラーの中で付き人と静かにしていた。珈琲を差し入れたり、草餅を食べて貰った。役以外では物静かな女性であり賢婦であったろう。
志麻さんとは四作一緒に仕事をした。
「志麻さん、一枚良いですか」と撮影の合い間に言うと、笑って、
「いいわよ」と素直に応じてくれた。
「草餅美味しかったですか」
「地方にロケに出るとそこの草餅は絶体にいただくの。この前の草餅はどこかで食べたことがあると思い出そうとしてたの、やっと思い出したの倉敷の物だと」
「そうですよ」
「郷ひろみさんと一緒に食べたの、その味を思い出して」
「鑓の権三の倉敷ロケの時でしょう。それは光栄です」
「あの、滑稽座は倉敷にあるの」
「はい、地元の題材を演じることを理念としています。今、はやりの物はやっていません」
「それが大切なのよね。みんな少し考えればいいのに」
そんなたわいのない話をして一枚の写真に収まった。
志麻さんは今どのように暮らしておられるか。篠田さんと二人で海外旅行に出かけたり、日本の古刹名刹を尋ねそこの草餅を二人で食べておられるか。想像をたくましくしても読み取ることは出来ない。
志麻さん、一言、
「志麻さんに惚れても良いですか」
志麻さんはどんな顔をするのか・・・。
書くわけ
そこに山があるから・・・に通じて愉しいから書くのである。書く苦しさはあるが終わった後、出来不出来は別にして達成感と虚脱感の快い疲労は書いた者しか分からないだろう。
題材を決めて資料を漁り読んでからすべてを忘れるために若い頃はパチンコに行き喧しい騒音の波の中に身を置いていると今まで読んだものが頭の中から完全に忘れられたものだった。それらは体に入りとどまっていて書くときに自分の考えに変わって出てくれるのだ。パチンコには資金がいるしそんなことばかりしていたら家庭が破産するので深夜の映画館に行きポルノ映画を見ることで頭から忘れることもあった。蕩々とスクリーンに映し出される痴態をただ眺めているだけで何がどうなっているのか覚えてはいなかった。が、その方法も有効であった。だが書く前のプレッシャーを解きほぐすには馬鹿なことをして無駄な時間を浪費することであることに気づくのだ。読んだ本が頭に残っているとついつい生の資料を書いてしまうおそれがあったからそうしたのだ。その間に構成は出来、書き出しと終わりの1行が出来ていた。九十九パーセントが頭の中で出来、後の1パーセントが書くことなのだ。後は一気に書き上げていく、そこには降臨があって書いた物が自分の物ではないような感じを受けたものだ。書いて最低一ヶ月は何もせずにほったらかしておいて推敲をしなが書き直しをした。六月と十二月は応募原稿の締め切りなのでそれまでに四作づつ書き上げていた。万が一という考えはなかった。ただ書くことが愉しくてしょうがなかったのだ。その結果が応募であっただけなのだ。読んで書くそのことが面白く愉しかったのだ。そんな青春時代を過ごした人は全国で多くいただろう。書くことはいって見れば麻薬のような物だった。完全に書く中毒になっていたと言える。その楽しみの後には応募原稿が一次通過、二次通過、最後の十作へと繋がっていった。私の作品は暗くて重かった。人に読んで貰って喜んで貰える物ではなかった。考えて欲しいと思って書いたのだ。多分に自分のために描いた物が多かった。が、考える事のみを求める読者は少なく面白くて溜飲を下げることが出来ればいいという人たちが大半だった。それは分からないわけではなかった。この世知辛い世の中で金を出してまで人の苦しみを分かち合おうとする人はそんなにいなかったのだ。
「もっと面白い売れる物を書く努力をしてください」と出版社へ電話すると編集長がそう言った。これは資質の問題でそう簡単に面白い物がかけるはずもなかった。出版社は賞を与えて雑誌に載せ評判が良ければ単行本にしてもうけるのだからそう言うのは当たり前であったろう。だが内容は重たく暗いが書く方は愉しかった。書いているとだんだん体が暑くなり昂揚して知らず知らずにパンツ一枚で書いているときがしばしばあった。
林芙美子さんが真冬に布団をかぶり裸で書いていたという逸話があるがそのことは真実だと理解できた。書いていると頭を血が駆け回り体はほてってそうなったのだろう。
文章を書くと言うことは頭脳労働であり肉体労働なのだ。物書きと言えば病弱な感じを想像するが今では健康そのものという肉体労働の人たちが多くなっている。精神が病んでいればいびつな物しか生まれないと言うことなのだろうか。深く物を考えていると精神は病んでくる、だが、今の物書き達は健康な肉体労働をしている人たちが増えたと言うことなのか。その方が健全だが。
昔の作家と言えば家庭のことはほったらかし、淫乱多情で、我が儘、偏屈、貧乏、病気持ち等々負の存在であった人たちが多かったのだが、今はそんなスキャンダルは聞こえて来ない。実生活が滅茶苦茶だが書いた物は清潔で道徳的だったという事が良くあった。それはまさに詐欺師なのである。きれい事を並べておいて反社会的な事をしていると言うことなのだ。なぜかそんな反社会的な作家の坂口安吾さんに惹かれ、彼の「堕落論」を教科書にしている矛盾を感じるのだが。人の世界はそんな物かも知れない。差別を否定している人たちが一番の差別者であるという事は良くあることなのだから。
私のことで言えば、鬱に罹って以来物事を突き詰めて考えるようになった。書くことが苦痛になっていたが快方するにつれて愉しく書けるようになり今までの文体が変わってきた。文章の短い人は循環器に傷害があるという説があったのだが、谷崎潤一郎さんの作品を読んでそれはただの仮説であると思った。彼は作品に依って文体を変えていたのだ。文体を持てと言う先輩がいたがその文体はテーマによって変わる物なのだ。だから文体など関係なく、自由に書くべきなのだと納得した。つまりテーマが文体を産んでくれるものと解釈している。そう思うと文体などに関わらずに書くことが出来る。
今読んでいる南木佳士さんの作品は私小説の色合いが濃いいが随筆と小説の文章は異なっている。それは彼の特質なのだ。
物を書く人の資質と言えば優しさと真実を持っているかどうかというものであると南木佳士さんを読んで感じた。
そんな物をこの私が持っているのかと問われれば、分からないとしか答えられないが・・・。
情けは自分持ち
情けをかけても返ってくると考えては駄目である。今まで生きた中で貰った情けを貰った人に返さず自分より困った人に返すことなのだと思う。私はそうしてきた。
若い頃沢山の人に情けを貰いその都度の苦境を乗り越えてきたのだ。私に情けをかけてくれた人たちは返して貰おうと考えて情けをかけていたのではないと思う。だが、情けという物は多分に打算的なところがある事も確かである。そんな人にはしっかりと返してきた。情けは返す物ではないがその人が苦しんでいるときに目に見えないところで行動する物だと考えている。
金持ちに金を貰って金を返すとそれで終わりなのだ。情けはその金を次ぎ人に回すことなのだと思っていた。つまりその人の情けをくるくる回すことなのだと。だから苦しんでいる人に返すべき金を回した。そのとき私に返すことはない誰か君と同じように苦しんでいる人がいればそれを使って欲しいと。
私が高校生の時にアルバイトをしていた。授業料を払うためだった。学校の玄関を入ったところの掲示板には授業料滞納者の名前が張り出されており一番上に私の名があった。学生服のズボンのお尻には継ぎがあった。そんな服装でアルバイトをしていてデパートへおもちゃを納品していたのだ。今でも服装は気にしないがその頃の私は十七才の思春期で多感な時期でもあったのに気にもしなかった。
社長の乳母であったおばさんには色々とお世話になった。美味しいものをお食べと、休みには映画にでもお行きと、小遣いをくれた。その思いやりを貰うと仕事を一所懸命しなくてはならなくなった。生きた金の使い方だった。困ったときに誰かが手をさしのべてくれた。人生至る所青山有りであった。
子供が産まれた時には通帳に一万円しかなく出産費用も払えない状態だった。が家人の母がそーとポケットに五万円入れてくれて払うことが出来た。私が鬱になって寝込んでいるときには家人の父が病気を治さなくてはならないと十万円を援助してくれた。つまり返さないで良い借金を沢山の人にしていた。情けを受けると言うことは返さないで良い借金なのだ。返さないで良いと言うことは恩義を感じなくてはならないと言うことなのだ。その人が困っているときには命を張るという事なのだと感じていた。恩返しをすることもなく過ぎたのだが、貰った情けを誰かに返さなくてはならないと思うようになった。
私が曲がりながらも遊び人として生きてこれたのは沢山の人が情けをかけてくれたからなのだった。返さなくて良い借金を返す方法を思った。その人より良い生き方をすることなのだと気づいた。つまりその人を超えた人間になることなのだと思った。返さなくて良い借金を背負い人様に迷惑をかけることなく元気に生きることが返すことなのだと思ったのだ。小遣いをくれたおばさんには売り上げを上げることで、三万円の出産費用を出してくれた家人の母には家人を大切にすることで、病気を治せと十万円出してくれた家人の父には別棟のスタジオを建てることで、許して貰った。それが無償の情けに対しての恩返しだったのだ。
スタジオに子供達を五十人ほど集めて演劇を教え作る事でその子らに何か精神的な物を与えることが出来ないかと思い実行した。百万円のホールにその子らを立たせて公演したのも思い出を作って欲しいと思ったからだった。他の子は誰も踏んだことのないホールで演じることで自信を持って生きて欲しいと思ったからだった。人は何か一つでも自慢できる物があればどんな逆境に立たされたときにも耐えることが出来克服できるものだと思ったからだった。十年間そのことに費やした。子供達とは誠心誠意対等でつさ合った。それが私が情けを受けた返さないで良い借金を返す方法だったのだ。今、心を爽やかに感じている。この子らも返さないで良い借金を誰かに返すときがくると微笑んでいる自分がいる。返さないで良い借金の輪廻、それが大きく広く育ち続くことを願いながら新しい物に対して挑戦する事を教えてくれたのは、私に情けをかけてくれた人たちなのだ。
その人達も皆故人になっている。だが、その人達の優しい心遣いは次々と生き続けているのだ。
情けをかけられたと言うことは、自分持ちと考えて次へと渡す心のバトンではなろうか・・・。
それは・・・。
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