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yuuの一人芝居
昨日、不思議な夢を見た…。1-40
夢が現実になるということがある。朝方見る夢に多いいと言う。
その夢は、私が砂漠の中に帆を張った車で走っているものでした。砂はさらさらと流れ生き物のように感じられました。この今は砂漠になっているけれど茫々とおい茂る巨木に埋め尽くしていた時代があることを知っていました。砂漠は人間に犯されないように自然が拒否しているものだと考えました。それも自然が再生するためなのだと思いました。いつのまにかすっかり日は落ちて気温も低くなり漆黒の闇の中を走っていました。暗闇に目が慣れたのではありません、はっきりと五メートルはあるかと思われる巨石が何本も立ちふさがったのです。それが見えたのです。そのはるか向こうに小さな灯が見えたのです。
すべてが私の知らないものだった。
シュメール文明を調べているときに見たものだった。
あとでその石柱は存在することを知るのです。この事実をどのように理解すればいいのか、不思議な時間を過ごしたことだけが残った。
ねずさんに真の日本人の姿を見て…。
昨日。不思議な夢を見た…。2
縄文期に作られた土偶が妊婦の姿であることに驚いている。
ねずさんが対談形式で日本の古代を掘り起こしていることには感謝の思いしかない。日本の歴史も八十パーセントは虚偽臭いと言われているが、ねずさんの瞳はそれを見逃していない。正面からその真実に沿って物語っている。
この情熱は、坂口安吾、の凶器と執念を取り上げることもなくねずさんの姿です。ここに日本男児の在り方が現れている。
私が若い頃なら一つのテーマで百枚の戯曲がものにできたが今はその元気もない。それだけ新鮮な発見を試みている。ものを書くということその発見を必然として書かれるものなのです。と言うことは素材の宝庫と言うことになります。
「砂漠の燈台」人間のルーツと生きた歴史をもとにこれからいかに生きて生き続けるのかを書きあげて、ねずさんの「目からうろこ」を見ながら推敲をすることになります。
考古学、歴史家の独断的な考えを破る持論にはこれからをリードする意欲が、独特の姿が彷彿と現れている。
この好奇の「目からうろこ」もさることながら「古事記」の展開も楽しみです。
限りなくエールを送りたい、もう私の力などなくなっていますが、その功績をたたえこれからの御精進、真実の人間に触れていただくことを切に要望しています。きっとねずさんは時代のエポックリーダーとして後世に残るだろう…。そんな夢を見てうなされた…。
昨日、不思議な夢を見た…。3
チグリスの川の水と戯れる子供たち、ユーフラテスの川で長い黒髪を遊ばせている乙女たちが・・・。
その長閑で穏やかな幸せを書きたくて、そんな夢を見て書いたものが、「砂漠の燈台」。草稿を終え、私の手元から離したが、少し時が過ぎてから推敲をする、それが手順です。
幼い頃の瀬戸内海は透明度が優れていて、砂もきらきらと輝き打ち寄せる波に洗われていた。今の海は白く泡を吹き、砂浜は黒く打ち寄せる波とは遊ばなくなっている。この海を作ったのは人間の文明、誰がそんな文明を望んだのか…。
やがて文明が人間を駆逐することになる…。
だが、
チグリスの川の水と戯れる子供たち、ユーフラテスの川で長い黒髪を遊ばせている乙女たちが・・・。
川の名前が異なっても子供たちと乙女のそんな姿が見たいものだ…。
夢の中だけでもそれを残してほしい…。
そんな夢を見続けたい…。
昨日、不思議な夢を見た…。4
東京都目黒公会堂。
客殿の灯りが落ちて本ベルが鳴る。静かに幕が上がっていく、そこに現れたのは倉敷の家並みを背景にして倉敷焼きの職人の店、舞台に鳴り響く秋の祭りの賑わいと対照的な店先。一人腰に手を当てて佇み遠くを眺めている初老の男、幕は完全に上がりきったところで客席が騒然となり大きな拍手に包まれた。ドリフターズの「8時だよ全員集合」の本拠地の目黒公会堂が揺れていた。
私はこの舞台をカメラに収めた筈であるが見つからない・・・。
静かな舞台が進んでいく、あくまで倉敷らしく時代に取り残された街の恥ずかしそうな控えめな演技が続いていく。客席には全国から演劇を競う人たちで満員であった。その人たちの目線は舞台に引き込まれていた。咳払い一つしない緊張がそこにあった。
最優秀舞台美術賞、優秀演技賞、脚本賞が齎された。まったくスプの素人がよくやったものであった…。これには後がある…。
倉敷に帰ると団長が呼び出されて「倉敷の観光を非難した」と叱責があった…。
その姿勢は今も変わっていない…。
夢と思いたい、夢なのだと言い聞かせた…。
昨日、不思議な夢を見た…。5
私は六十歳で劇作家も演出家も捨てた。それは、今までの生き方を変える、つまり自由に生きることを目指したものだった。
生きる範囲を少しずつ縮めていった。
古希に本を出したくらいで創作はしてなく、自分史を書き始めた。5000枚近く書いて、これからまだ生きるとして追加することにしている。日ごろの思いを随筆風に書き残した。それらは私の血筋に残すものと分けた。
他人には読んでいただくためでなかった。
時に頼まれて戯曲を書いたこともある。また、かつての台本を上演したいと依頼が届いたことがある。が、よろしければお使いください。と著作権を放棄していることを伝えている。
古希に出した本が契機か無性に小説が書きたくなる時がある。私は小説を書き、それを脚色するという方法をとっていたから小説には抵抗がない。
さて何を、となると井伏鱒二全集でもとなるが、これは老後のために買い求めていたものなので読めばいいのだが、今の世相から未来にかけての人類は果たしてどうなるのかという想像がたくましくなって、自分のために書くことにした。
戯曲なら2時間物なら2晩で書けたのに、艱難辛苦をした。
終わり、と、書いた開放感が忘れていた物書きの至福が身を包んできたときには、体から熱が噴出しているような恍惚感を味わった。
これかも何かを書き続ける、そんな夢のような日々が返っている…。
書いているときにはメソポタミアのシュメール文明の遺跡を彷徨う夢に後押しされていた…。
昨日、不思議な夢を見た…。6
小説の推敲をしていて目が疲れたのでフェイスックを開いてみた。友達申請の印があった。開いてみると、私の大切な人だった。
彼が私に演劇の素晴らしと、楽しさを教えてくれた恩人だった。
1年前だったか彼は死線を彷徨うという病気を奇跡的に逃れて今があるが、この写真の通り元気に回復していることを大変喜んだ。
彼の出自は備前岡山藩の家老である。維新のおり薩長につかずにいたので蝦夷は函館の五稜郭攻めを
押し付けられた。
その血筋の彼がこの倉敷で一生の仕事として取り組んだのが倉敷に演劇をという言う執念であった。田地田畑を売って身銭を切りまくり道をまっすぐに歩んだ。彼から演劇というものを教えられたのは何百人と言う青年達であった。
彼は私のように横着ではなく案内状が届いた劇団の公演はすべて見て回った。
倉敷と言う地は果たして彼が身銭を切ってまで盛り上げようとするべき土地であったのか…。
これからも息災にわが道、マイ・ウェイで大手を振って歩いてほしい、そんな夢を見たい…。
昨日、不思議な夢を見た…。7
夢は潜在的な要求から生まれる場合があるという…。
FB依存症にかかっているのかもしれない。いろいろな意見を読むと勉強にはなるが、すべてがそういうわけではない。
様々の書き手が持論を展開しているから面白いが、時にとんでもない書き込みに遭遇する。これは他人事でないところがある。感情を入れ過ぎてついつい饒舌になることがある。戒めているが書いてしまってこれはと言うときにはこちらから削除する。たぶんこの手の書き込みは快く思わないであろうことを感じてそうするのだ。
私は友達申請をした覚えがないが、したということにされている。承諾はプロフィルの写真が人間であること、その友たちに私の嫌いな人がいないことを基本にしてよろしくということにしている。そうでないと新しく友達になった友達が私の書き込みを見、また私も見ることになるからである。
これは私にとってストレス以外の何物でもない。行って見れば恐怖なのです。
友達としていろいろな人と出会う、またその友達とつながる、私は個人まりと心にあることを書き込めたら幸せなのだ。たくさんの人に私の裸を晒すことは、商売ではないので避けたい。
勘違いで友達を承認して直ぐにブロックをたこともある。数を欲しがっていません、愚痴をきいてくださる方が一人でもいいのです。
咲いている花にありがとうと言い愚痴を話すのが好きです。
FBの友達の方たちには気に入らなくば却下ブロックをしていただくことを夢見ています…。
昨日、不思議な夢を見た…。8
睡魔に襲われて横になったらすっかり熟睡してしまった。少し世情から離れていて、と言うのも原稿の推敲をしていたせいで政治の動きに目を向けていなかった。
またぞろ、帰化人か、二重国籍のやからが政府に難癖、日本国民を馬鹿にした発言を垂れ流しているらしい。村上春樹、安住、レンポウにしても土台日本の日本民族のことなど分かろう筈がないのである。これを不毛という。無知、いいえ、民族が違う、つまり、遺伝子が異なり理解できないということだ。日本民族の血の中にシナや朝鮮の血が少ない、つまり脈々と続いている遺伝子があまりないということだ。平たく言えば日本民族の歴史と文明、文化が日本民族の成り立ちを作っていることを受け入れる素地がないということだ。なれば、日本民族の精神など端からわからない、また、それを受け入れる素地がないということに尽きる。これは勉強不足というものではなく、いくら勉強してもその精神は理解できないという遺伝子の許容範囲の外の問題である。
はっきり言って「教育勅語」などが入り込み、受け入れ、理解することが出来る土台が、精神の持ち合わせなどないということだ。
今頃気づくのも、日本民族として遅いが、ようやく気付いたのです、この私は。
それは世界の、日本の歴史認識がないと理解できない、受け入れられないということだ。
常に争い国が変わってきたシナの血では、事大主義と言う属国の血では日本民族の血は理解できない、その精神を持っていないのだからと言うことに尽きる。
日本は縄文期1万6千年の中に黄河文明を凌駕する文明があった、その文明の中に醸成された日本民族の歴史と文明、文化は外国人たちには持っていない遺伝子が作られ受け継がれている、そこに入り込もうとする、理解しようとすることは無理なことだ。
この書き込みも私の姿勢とか知識ではなく受け継いだ遺伝子が書かせているものと認識している。
今、反日日本人と言う人たちが日本人を辱めることを、言動を繰り返しているのも、日本民族が受け継いだ歴史と文明によって築きあげられている遺伝子がない、薄いということ尽きる。それはもう日本民族の誇りなどなく、ただただ無知蒙昧に叫ぶ劣化した遺伝子しか持っていないということだ。
起きて、そんなことを思い、これも夢かと思い書いている…。
昨日、不思議な夢を見た…。9
うろうろキロキロしていたらもう75になろうとしている。歳をとると年の巡りが早い。昨日、弥生の花に心奪われた、今日、水無月の夜に汗を拭いた、明日は、長月に銀杏が黄金に色を変えているのを見た、明後日は、師走の気是わしさにたじろいだ、そんな四季の訪れの速さについていけない歳を感じている。が、来るなと言っても来る。
季節によって夢も変わるものらしい。私は少々ひねくれていて盛りの花より枯れていく花に心惹かれる。そこにもののあわれを感じそこにわが身を重ねるのかもしれない。夏は入道雲に親しみを感じ熱く心をときめかせる。秋は芒が風になびく小径が好きだ、冬は深寒として色のついていない空気が好きだ。
今、それを親しむ心の余裕がなくて中途半端に通り過ぎているのが最近なのです。
75歳に本を出すことにした。この夢が年寄りの玩具になって暇をうずめてくれればそれに越したことは無い。
年を取ると明日何をするかを決めると眠りも明日に繋がって目覚めもいい。年寄りの明日は新しい明日が来るのだ。昔の若かったころの切ない夢でうろたえる姿を私を見たい…。
昨日、不思議な夢を見た…。⒑
私は何があっても頓着することは無く生きてきた。それだけ図太い神経なのかと言われたら、いいえ、震えるほどの神経質と臆病者だと答えます。その性格が今日起きたことを今日解決する解決策を作った。明日が来るときっといい日が来るというけれど、それを私は金言としているが、物書きと言うものは繊細な神経の中で生きていてなかなか難しい面がある。原稿を書いていても一区切りがつくまで離れることが出来ず、徹夜をしている。まあ、いつでも眠れるからそれが出来るのだが、これは世間から見れば自堕落と言うことらしい。
ご近所では奇人変人横着者と仇名されている。そのことに何の抗弁もせずに受け入れている。心の底を見せることはしない。なぜ、世間の中に受け入れられない、自由な生き方をしているという自負があるから。
いろいろ沢山物を書き、舞台公演をこれも数限りなくしてきたが、観客の反応を見ようとは思わなかった。幕が上がる前、出演書を集めて「楽しんで来い」と声をかけ舞台へ送り出す。幕が下りて帰ってくる顔を見ればそれらの人たちの成長が見える。それが一番私の喜びだった。日本全国あまたの劇団があったが客を入れることに汲々として舞台に集中できないところも多い。私は劇団員が幕の降りた後の顔で成長を見たときに喜びを貰った。役者には感動してもらった。それで十分だった。金ではなかった。
劇団の子供たちには交換日記を書かせていた。毎日何回感動をしたかを書かせた。何に感動したかが問題ではなく心を揺らせることの大切さを感じてほしかった。何になど問題ではなかった。
来た当初は落ち着きがなくジーとしていなかった子供たちが、ひと舞台をすますと別人に代わった。その成長は喜びと達成感で変わっていった。その子供たちを見詰めて何が足らないかを感じ取り次の台本名の中にソーと加えた。私はその子供達に導かれ学ぶことが多くあった。⒑年間、そのために時間を作り成長していく子供たちを眺めていた。彼らを卒業させて私は劇作家も演出家も終わりにした。子供たちと舞台を作っている間にも日本の演劇を世界の国国の演劇と交じり競って国際的な協調を前進させるために「財団法人舞台芸術財団演劇人会議」の設立のメンバーとして東京の会議に出席し、篠田監督の映画も劇団として参加させてもらい貴重な体験ができた。それらを終えた後に何もかも捨てたということです。
時に子供たちと作ったときの楽しい夢を見てはっと目を覚ますことがある、それは私が生きているという証なのかもしれませんが…。
昨日、不思議な夢を見た…。⒒
昼に見た夢…。1時過ぎ、幻冬舎の編集者の人から電話で起こされた。「砂漠の燈台」を採用と言うことだった。作品の装丁をした見本が届けられることになった。
この歳でという後ろめたさがあるけれど最期の花火を打ち上げようと思っています。この作品は私の遺書として、日本の現在と未来を古代の文明を訪れ事で何かヒントはと言うことで書き進めたものです。280ページのものになりそうです。
これは昔の文学青年の仲間に捧げたいと思って書きました。そして、私と出会い、ご教授を賜った恩師の方々への鎮魂として。書き上げたものです。原稿に書き直しはなしと言うことを言われています。幻冬舎の編集の方の真摯な言葉には心がうごかされました。私の書く必然を読み取ってくれていました。全国の書店に並ぶ、いいえ、私の知っている人たちに配ろうと思い書いた物がと考えると何か気恥ずかしいものもあります。もう、動き出そうとしているものを止める勇気もありません。ままよ三度笠と開き直りました。
これが最後の生きた証になるかもしれないのです、次なる作品、劇作家の小説がどこまで通用するのかも興味があります。
今書いているときを振り返ってみればその時間は楽しいものでした。今までたくさん書いてきたけれど一番楽しかったものです。
今日はどんな夢が見られるか…。そんな夜に思いをはせている。さてどんな夢見られるが…。
昨日。不意義な夢を見た…。⒓
心地いい疲労の中でよく眠られた、短時間ではあったが…。
あの頃…。
30歳ころ、倉敷の青年たちを全国青年大会へ行く戯曲を書いたことでと言うのも、行くだけではなく最優秀舞台美術賞。優秀演技賞、脚本賞などを貰ったこと、が倉敷では初めてであったことから大きな話題になり世間から騒がれた。なんと言っても倉敷の青年たちの功績であり、それを率いた土倉一馬さんのお手柄なのに、私が注目を浴びるいわれはないのにいろいろと取材されたり新聞に載ったり広報くらしきに写真入りで掲載された。これは私の本意ではなくその渦中にいて、備中弁で「往生するけえ」と言うことだった。人の褌でお祭り騒ぎが好きな人たちをマスコミが油をそそいだというわけです。
それを受け契機として倉敷の青年たちは俄然猪突猛進するがごとく活発な青年活動に代わっていった。演劇は無論、海外青年、青年議会、成人式の仕切り、社交ダンス、若さに任せていろいろな方面に参加していった。その彼らはあと3回全国大会演劇の部に参加と言う県下では初めての実績を残している。書かされたのは私である。「ぼっけいおえんがな」と言う弱音を吐かずに書き作り贈った。全国青年大会とは全国の勤労青年達の祭典で、国立競技場を中心会場として、陸上海上、写真、絵画、文学、地方芸能、演劇を競う大会であった。仕事の合間を縫って鍛えた技を競うもので、国体、高校総体とはわけが違っていた。私は応援させてもらうことを喜んでいた。
今もあると思うが、わからない。税金を払っている青年たちの祭典をやめてほしくなく応援した。
そんな夢を見た…。私も若い頃に帰っていた…。
懐かしい思い出、しばし夢の中に立ち戻った…。
昨日、不思議な夢をみた…。⒔
桜の花びらが風にあおられ空を舞う中を平然と歩いていた…。私は坂口安吾さんの世界にいたのかもしれない。いわずとしれた「桜の木の満開の下で」この作品を読んだのが二十歳のころか、驚愕し呆然とした。こんなもんかけるもんか―――異様な雰囲気の中に導かれていた。この恐怖に導かれるように彼の作品を読み漁ったか…。処女作は「風博士」フランスとスペインの国境のピレネー山脈での、風博士の心象風景がつづられていく。なぜそのマジックに引っかかったのか、「青鬼の褌を洗う女」「白痴」と読んでも、この多作の作家には追い付いていけない、置かれてしまっていた。「堕落論」「続堕落論」「日本文化私観」でようやく反社会派の安吾さんを少し理解できた。パラドックス、狂気と執念の入り混じった作品群の底から私が導ぎだした物は限りない人間に対する彼の片思いであった。
安吾さんと治さんがよく比較されるが、太宰は「津軽」にすべてが凝縮している。ただ故郷五所川原を訪ねて幼馴染と会う、故郷めぐりのこの作品は悲しいほど切ない、それは裏の太宰を理解できなかったら思い出を書いていると読み過ごすだろうか…。まさに執着の文学であった。女性の読者を独り占めにした、そこには母性をくすぐる者もの、こんな男は私が面倒を見なくては駄目。と言うものだ。太宰はそれゆえに心中事件を繰り返した。太宰のような人は芸能界によく見る、自立できない甘えの構造、家柄にすがりその再興を夢見て滅んでいった人たちがなんと多かったことだろうか。
その点、安吾さんは片思いを続けていた。これは強い信念がさせた。くすりと酒に精神をもてあそばれても片思いを狂気として書き連ねていった。片思いと言う凶器は純粋に昇華されていった。片思いの人たちが狂喜して読んだ、安吾さんの読者はそんな人たちであった。
桜の木の林並木の下、満開の中を誰もいない夕暮れが迫る頃、一人歩ける人がいるだろうか、安吾さんは人はみな孤独の中で生きる定めがありその中で生き続けるには狂気がいるが、それを狂喜して生きよと言っているように思えた…。
限りない彼の片思いは今の世に絶対に必要なものだ断言できる
この歳になって満開の桜の木の下をあるく勇気が少し芽生えた、それは生と死を超えた命の姿かもしれない・・・。
「悪妻論」には夢でうなされた…。
昨日、不思議な夢を見た…。⒕
この2日間、家の片づけを業者の方にしてもらって、演劇関係のブダイの書き割りや大道具、小道具を棄ててもらった。衣装関係は古着屋さんにお願いした。また、出版の煩雑さもあり忙しいという関係もあり夢を見る時間が無かったということです。
私は卑怯だろうか、少しお聞きをしてみたい。何人かの友達をブロックした。自分の書き込みを載せて「いいね」を欲しがるが人が書いたものに対しては読まないし「いいね」もコメントもしない人たちに誠意と言うものが見られないのでブロックをした。かなり有名な人たちである。が、私は誠実さに欠ける自分本位の人は好きではない。いくらいい本を出しても、雅性を教えている人でも謙虚がない人は認めない。また、一方的に持論を語る倫理観のない人も好きではない。
この行為を卑怯と言うのか、皆さんも経験がおありだろうとお聞きしたい。
私から友達申請はほとんどしていない。この人ならと言うことで承認している。が、時にリベラルを語る潜りが水を差すが直ちにブロックをしていた。そのたびにやめようと思ったことは何回もあった。つたない理論を振りませして迷惑をかけていることに対しては謝罪を申し上げる。
私は人と人との付き合いは誠実でなくてはならない、礼儀を重んじなくてはならない、謙虚さがいると思っています。その範囲を超えていたら人間として感情的にブロックをすることもある。
心温かい人たちに恵まれて私があるのです。
私は聖人君子ではない、今まで生きて人間関係の中では許す側にいました。
これも夢ならと言う後悔もあります…。
私はコメントを垂れ流しています、これは自己反省を込めたものとしてご理解ください…。
ああ、夢の中で正義ぶっている…。
昨日、不思議な夢を見た…。⒖
私には、盆、秋分、春分と言う概念がない。なぜ…。
私は家の壁にかかる遺影に毎日、黙礼し言葉をかけている。改まって墓参り、仏壇に参ることは無くしている。父と母、義父母とも時に話をする、そのことで私の心には生きて蘇っている。
若かったころには子供たちを車に載せて墓参りをしていた、それは家族のドライブを兼ねていた。父と母は遺伝子として私の遺伝子の中で生き続けていると思っている。
つたないものを書いているときにはある程度ストーリーを構成して書き進めるのだが、夢中になっているとその計算が狂う。昨晩書いたものを次の日に簡単に推敲するとまったく覚えのないことを書き連ねているときがある。本当にこれは自分が書いたのかとしばし呆然とすることはしばしばである。これを物書きの降臨と言うことだが、私は何かに導かれて書いたとしか思えない。
「砂漠の燈台」を書いているときにもそれはあった。愛宕山に住む一人の老人を訪ね話が弾むところで全く関係のない京都の地下水脈を滔々と書いていた。書く構想の中にはなかったことだ。そのためにつじつまを合わせる為に衣笠山の竜安寺の石庭を書くことになった。もはや私の作品を超えた物語の展開であった。
そんなことが作品を書いていてたびたび行く手を遮るように立ちはだかった。そのことで構想よりはなれないように書き加えなくてはならなかった。が、あとで読んでみて深く書き込めている現実に唖然とした。
私が書いていて何かに導かれていると実感した。この経験は作品を書く時に何度か遭遇していた、がそれは作品の幅を深くしてくれていたものだった。良寛さん、西行法師、文覚法師、滝口入道らの歴史ものの場合には特に見も知らぬ描写を書かせてくれた。
そこには脈々と続いている遺伝子が書かせてくれたとして納得をしたものだった。
ふいに立ちはだかり導かれる、先祖の父母の遺伝子に支えられながらものを書いているのです。
春分に両親や先祖を供養することなく、私を見守ってくれるのは日ごろの感謝の思いが通じていると思うことにしている。
そんな夢を皆さんは信じられるだろうか、
まるで戯言泡沫の夢の中に生きているのかもしれない…。
昨日、不思議な夢を見た…。⒗
春眠暁を覚えず…。まさにこの言葉が当てはまると、言うわけではなくのべつ幕なしに眠気が襲い、昼寝の回数が増えている。寝てるのか起きているのかわからないような年寄りの毎日だからさして困ることもないのだが、書き上げた原稿を出版社に送ってホットしているが、またぞろ書きたい病がむくむくと心を支配してくる。若い女性を書いたから今度は年寄りの生き方を小説にするという不遜な情熱が沸き上がっている。自分の年齢に近いところを書くとなるとなかなか難しいものなのです。ついつい自分の生き方を重ねるということが描写において感情意入が邪魔をすることになる。つまりいいように書いてしまうということになる。客観視できないということだ。これは読み手に押し付けるもので読まされる方としては困ったものになる。
「下車するの」
「車が真っ直ぐ駐車できなくなったから、降ります」
「それなによ」
「切っ掛け」
「そうなんだ」
「そう」
「これから国家公務員になるんだ」
「年金貰って」
「羨ましいわ」
「手足もぎ取られるようで、ほんと寂しい」
「歳取らないでよ、真っ赤なスポーツカーを買って颯爽と生きてよ」
「これから考えるよ、何かを作らなくてはと思ってる」
「それでどうすんの」
「なによ」
「女作って子供作って・・・」
「そんな歳でもないよ」
「一休さんは八十で子をなしたって・・・」
「羨ましいね」
「奥さん亡くしてどうしていたの」
「忙しかった」
「もう、色気がないのだから。男は少し悪の方がもてるのよ」
「いいよ、もてなくても」
「いい人紹介しょうか」
「また来るよ」
「逃げるのね」
「ああ」
「まだ寒いから、暖かくしてね」
こんなことを書いてしてしまう
やはり春は私の創作には向いていないと嘆く…。
これも春の世の夢ならいいがと…。
昨日、不思議な夢を見た…。⒘
早いもので、もう三月も二十二日を過ぎようとしている、歳をとると早いというが皆が早いと思っているようだ。
それに春の陽気は睡魔を伴う、春の夜の夢などとしゃれていたら何もできない。
まあ、ゆっくりと自然に任せようと思う。約束がない、縛られるものは何もない、自由、その自由が曲者である。人間がなぜ宗教の戒律、法律が好きかと言うと自分の考えでなく行動を制御してくれるからであろう。その方が楽だと知っているのだ。自由で生きるということは大変な労苦である。それはまさに自分との戦いなのだ。
そんなことを考えていたら七十五の誕生日を迎えた。何も感慨がない。毎年通り過ぎていく時間なのだ。
思えば古希に一つの区切りとして、書きためていた作品を一冊の本にして出版した。それをおもちゃにして今日がある。
さて、劇作をやめて十五年になるが、書きかけのものを完成させたのと加筆して公演した程度だ。小説と劇作とはどちらが書きやすいかと言うことだけれど、劇作には綿密な計算がいる、つまり数学がいるのです。小説も構成と言うおおざっぱなくくりがあるが自由に書けるという点では作品をどこから、気分で途中から書いてもいい、書き始められる、それを接着するという作業がいる。劇作は足し算引き算掛け算割り算としっかりとした設計図がいる。つまり積み木を組み立てるような作業なのです。また話すスピードで書かなくてはテンポがわからないということもある。
小説にはそれはない構想を箇条書きにして書き連ねてそれを構成推敲するという後始末で完成する。
が、作品に命をふきこむという作業は書き手の生き方が作品の命を左右する。何をどう見てどう考えるかは書き手の人生観がかかわってくる。つまり何を必然とするのかに作品の命が宿るということだからだ。
私は男なのに女を沢山書いてきた。女の本能をなぜかけたのかはわからない。知らないからかけたとも言えそうであり、女性の方になぜわかるのと詰問された。
「砂漠の燈台」と言う若い女性が人間の砂漠で生きていく明かりを捜す旅を書いたが、書けていたようである出版社の編集者は楽しんで読めましたと言った。それを本にしましょうと進められている。
この歳でその手の世界にデビューをする気はない、だが、一発の花火をあげてもいいかと自問している。
これと並行して、「麗老」年寄りの生き方を書いている。定年退職後の生き方、ものの考え方、また社会に参画する姿勢などを書いている。これは遺書としたいと考えている。あと少しの山場、クライマックスを残して書くのを躊躇している。こんなことを書いて本当にいいのかと言う不惑がある。が、それこそが書かなくてはならない必然としているのだ。
年を取って生きる、言って見れば今までの生き方の総決算なのだ。
七十五歳、今日からその最高潮の中に踏み込んで書き終え、あとは削り書き加え、バラバラにして再度つなぎ合わせる作業が待っている。劇作は流れがあるが、小説はよどみを作ることも大切なこととして捉えている。
皆さんからお祝いの言葉を頂き励まされたことも書き上げる原動力になったことです。
また、今日も身勝手な夢を見ている…。
昨日、不思議な夢を見た…。⒙
私の誕生日に息子と孫たちが席を設けてくれた。水島にある石うすで粉を牽き手で打ってくれるそば処「ときわ館」と言うところ。私は室内の装飾にあまり関心がない。むしろシンプルの方が好きなのですが、壁に世阿弥、観阿弥のレリフーが飾られていた。何かこだわりがあるのかなとその場は座して鍋とてんぷら鱒の干し漬を食べた。子供たちは少し緊張気味、鍋が煮立っていたが、昔風のざるそばを注文した。何十年かぶりのと言うのも若かったころごぜさを追って旅し赤倉で食べた味を見事に再現してくれていた。
私は倉敷の水島、公害の町に来てもう50年に近く生息していてこんな店があることを知らなかった。昔、コンビナートが始まったころにはここに立ち寄ることなどできなかった。いつも行列が出来ていて暖簾はくぐれなかった。そんな地域である。
今ではそこには昔の面影もなくなり、私の知っている水島中央病院の藤原さんの家の後は公園になっていた。通りは灯が消えていたがそこだけ明かりがともり路地を照らしていた。突き当りが佐藤病院、手前が水島信用金庫本店、静かな空間にその店は存在していた。私が来た頃にとクラブめぐりをしていたが、この路地には足を向けてはいなかった。また、聴くところによると当時はこの店はなかったという。
久しぶりに、本格的な日本そばを頂いた。
ここの旦那の顔の良さに惹かれて少し話をしたくなり座を立って近寄った。一つのことに打ち込んだ人が持つなんとも言えない表情はここに書きあげしがたいが、奥行きと温厚な気品をかもしている顔であった。
なんでもここに生まれ豆腐屋をやっていたが一念発起して日本のそばの名店に修行に出てそば粉を牽き麺をうつことを身につけられたと言った。柔らかい物腰の割には芯が通っていることは見て取れた。
奥さんは店に出てなく、大正大学で仏教を収めた才媛の方。そのなれそめも聞きたかったが初対面では少し礼儀知らずなのでよした。
近場の人、水島に訪れた人はぜひ本格派の日本そばを堪能していただきたい。
至福の時間の中、75歳の生きていた中でめくりあった稀有御人であった。水島の夜はシッター通りになっているが路地にこぼれる明かりはなぜかホッとさせてくれる。人の情けがこぼれているように・・・。
水島ときわ館、知る人ぞ知るそばの名店、主人の控えめな笑顔がまた次のリピートを思い起こさせてくれる…。
そんな夢を見た…。
昨日、不思議な夢を見た…。⒚
春は何か落ち着かない。これは毎年のこと、どぅも私と同居している自律神経失調症とのかかわりも悪いらしく、私の体と行動を制御してくる。
つまり、警告を発するのです。突然頭に激痛が走ったり、心臓が踊りだしたり、足が冷え冷えとしたり、これは交感と副交感神経の乱れで命に別状はないが何か不気味なものです。このところ突然睡魔に見舞われている。無理をせずに休むことに裸している。日中はのらりくらりと過ごして、朝の4時位になると書け書け書けと言うスイッチが入る。果然書きものを始める。自慢ではないが私は速筆です。書き始めたら自分でもわからない速さでキーボードをたたきまくり2時間で二十枚と言うのはざら、だが、あとで推敲してびっくりするのです。これは果たして書いたのか自分なのかと…。今では驚かなくなったが、書き始めのころは壊れたと思ったものでした。今ではまた遺伝子が勝手に書きよってと笑う余裕が生まれた。昔はつまり若かったころは、家人が2-30本の鉛筆を削ってくれているのを原稿用紙にたたきつけるように書いていた。一晩でその鉛筆は芯がなくなるということはしばしばあった。二時間の台本が出来上がっていた。それは九十九パーセントうろうろきょろきょろしているときに頭の中で組み立てていたから一パーセントの時間で書くことが出来たということです。今そんな真似はできない、やはり歳か、慎重になったのか、怖いのか、堕落したのか、そのすべてがブレーキをかけてくれていそうだ。昔は書く前にはパチンコ屋の雑音の中にいて詰め込んだ資料を消したものだった、また日活ロマンを見て雑念を振り払ったものだった、が、それも懐かしい思い出として心の隅にはある。が、現実はすこぶる書くのが楽しくなった。見えなかったものが見えすぎて困ることもあるがそれを制御する衰えが生まれたというのか。至極順調に何枚かと言うスピードで書いては皆様のFBにお邪魔をしてとりとめのないことを書かせていただいてストレス除いているのです、お許しください。
言って見れば何事も夢の中で足掻いているのかもしれませんが…。
昨日、不思議な夢を見た…。⒛
岩下志麻さんに肺がんの噂、と言う情報が入ってきた…。
志麻さんとは同じ年である。「バス通り裏」というテレビドラマがデビューだが、十朱幸代の友達として登場した。少しお茶目な乙女をセーラー服で演じていた。
志麻さんの映画はたくさん見せてもらっている。「あの橋のたもとで」大林清さんの原作だったと思うが、その頃流行りのすれ違いの恋愛映画だった。可憐さと清潔さをスクリーン一杯に振りまいて観客を興奮のるっぼに誘った。小津安二郎の「東京物語」など地味な映画にも出ていた。何をびっくりしたかと言うと、山本周五郎さんの原作から「五弁の椿」と言う作品、男に復讐する物語だった。私は志麻さんが演技開眼をしたのはこの作品であると思っている。清純の鎧を脱ぎ捨てて女の執念を演じていた。「笛吹川」「離れごぜおりん」これらは志麻さんでなくては演じられなかったもののひとつである。志麻さんの映画はすべて心に収めているが幅の広さはここに書く必要があるまい。
私が志麻さんと初めて仕事をしたのは御亭主である篠田正浩監督作品の「写楽」であった。志麻さんが現場に入ってきて日陰で待機していた。現場にはエキストラが遠巻きにして見詰めていた。誰も近づく人はいなかった。ものすごいバリアがかかっていた。志麻さんは少し派手目の着流しで下駄を履き三味を下げていた、髪には大きな銀杏の櫛がさしてあった。
「おはようございます、お世話になります」近寄って言葉を投げた。すこし怪訝な顔をして、なぜこのバリアをいとも簡単に破り近づくのよ、と言う感じだったと思う。
「おはようございます、よろしくね」笑顔で返してくれた。
「志麻さんと写真を撮りたい人がたくさんいますが、どうでしょう」
「いいわよ」明るく笑ってそういった。わずかな時間だったが撮影会になった。
その映画撮影は、福山市の沼隈の山にオープンセットの江戸の街並みを作り吉原の大門を組んでいた。
五月とはいえ、この年は春が遅くようやく桜が満開と言う時季外れだった。みんな震えながらの撮影風景だった。
志麻さんは風をよけておいてある石油缶のたき火に手をかざしていた。
「寒いですね」
「私寒いのは苦手」
私はお茶のみ場にあるホカロンを志麻さんに渡した。着物の下に何個か忍ばせていた。
その時鶯の声が何度かした。遅い春を恨めしく告げているようだった。
そのあとも「ムーンライトセレナーデ」「梟の城」「スパイゾルゲ」などで志麻さんとは仕事をした。
その志麻さんが肺がん…信じられない嘘であったら、夢であってほしいと…。
昨日、不思議な夢を見た…。21
若尾文子さんについて夢を見ようと思う…。
若い人にはもう過去の人になっていることだろうが、私たちの年齢では忘れられない人なのだ。
なぜ、彼女の映画を見たのか、それは女性の赤裸々な性とその本能を教えてくれる教材であった。
彼女ほどいろいろな女の生態を描いた作品に出ている人はない。
そもそも、彼女は仙台第二女子高等学校の演劇部に所属していた時に長谷川一夫さんが公演に来てその公演を見て押しかけの弟子に志願して東京へ出た。
目の前が真っ暗になった人たちの中にのちの劇作家、小説家の井上ひとし氏がいて。ひそかに獲物として狙っていた狼だった。彼はその不条理に対してが然と挑戦しプロレタリアの精神を養い死を迎えるので戦争を起こした日本が悪いと作品に書き続けていた。彼を作ったのは彼女若尾文子さんであったのかもしれない。
そして、彼女のデビュー作は「死の町逃れて」そして「10代の性典」忘れようとも忘れられない、川の流れにセーラー服で戯れるうちにスカートに水がかかり持ち上げて白い太ももを晒した、のそれは童貞保存会の男たちにとっては忘れられない光景であった。それがもとで晩婚になった男も多かった。
溝口健二さんの「祇園囃子」おぼこな舞妓を公演している。
夜の女、人妻、女やくざ、詐欺師、もう書ききれないほどの作品はそれぞれの女を演じ切り女の怖さを見せつけて勉強させてもらった。それでもなおお姉さんが見たくて17歳の未熟者は狂う様に見て回った。
今私が女性を少しは書けるのは彼女の映画から得たものが大きい。
彼女のベストスリーは「赤い天使」従軍看護婦を演じた有馬頼義さんの原作作品、「雁の寺」寺の住職の囲い女として生きる女の性を十分に見せてくれた。水上勉さんの原作だった。「刺青」妖艶な女を見事に演じ切って色香をまき散らしていた。
彼女は菅原謙二さんとの恋がうわさされたが、パリに遊んだ時に知り合った人と結婚し離婚、後に建築家黒川紀章氏と結婚し添い遂げている。
現在も健在でその美貌は老いてもそこはかと色香を醸しだてくれていて往年のファンの心を癒してくれいている。
ここで言っておきたい、山本周五郎氏の日本婦道記の中の「墨丸」すいた男に災いが起こるかもしれないと考えて身を引く女の真心を公演している、「おかわりござませんか」その言葉に女の思いが全部詰まったものになっていた。
私は新聞もテレビも見ないので彼女の最近の情報はないが、せめて若かったころの夢で逢いたいと思うが…。
昨日、不思議な夢を見た…。22
高峰秀子さん、愛称をデコちゃんの夢を見てみようと思う…。
彼女を語ることは木下恵介監督を語らなくてはならない。「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾年月」「かんかん娘帰る」まだ沢山あるが彼女の代表作である。
デコちゃんほど日本人を演じた人はいないし、観客の涙を搾り取った人でもある。日本の女性と母を演じらせたら右に出る人はいなかっただろう。彼女がいなかったら木下監督の作品は生まれなく、木下監督がいなかったらデコちゃんもここまで成長していなかったといえる。
木下監督に師事していた脚本家の松山善三さんの第一作監督作品「名もなく貧しく美しく」聾啞者夫婦の物語に出演したことから二人は結婚している。オシドリ夫婦を生きた人である。
「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾年月」この二つの傑作に出たことで跡がやりにくいものだが、持ち前の明るさと誠実さでのちの作品も丁寧な演技をしていた。
私はなぜかデコちゃんを見ているとそれだけで心癒されたものだ。母の腕に抱かれたような安心感をもらった。泣き顔で笑うと目がなくなってしまう、そんな表情はこの人にしかできない。とにかく何を演じても一生懸命の人だった。戦後の偉大な女優であった。
デコちゃんを語るとどうしても木下監督を語らなくてはならなくなる。小津安二郎さんを語るうえで原節子さんを、新藤兼人さんを語るうえで乙羽信子さんをという風にである。
木下監督は前出のもののほかに、
伊藤佐千夫氏の「野菊ごとき君なりき」深沢七郎氏の「楢山節考」「笛吹川」の二作、「惜春鳥」」「日本の悲劇」ありすぎて書けない。
監督のデビュー作は菊田一夫氏「花咲く港」そこから日本屈指の映画監督が誕生した。
スタッフは家族でまとめられていた。音楽は木下忠司、カメラは楠田浩之、脚本は櫛田芳子という風にである。当時の助監督は篠田正浩さん、大島渚さん、吉田喜重さんらが交代でついて監督業を学んでいた。日本のヌーベルバークの旗手であったが、木下監督のテーマの取り上げ方を篠田監督が引き継いでいたといえる。
「日本の悲劇」を木下監督の代表作という人は多いいが、私は「笛吹川」をあげたい。武田家の戦さ駆り出されて死んでいく6代続きの農民の姿を笛吹川の流れとして描いているこの作品が好きであるからだ。
デコちゃんは戦後の日本人、うらぶれた精神を持ち上げてくれ、怒りと笑み涙を思いおこさせてくれた大女優であった…。
デコちゃん、ご苦労様、そして、ありがとう…。
そんな夢が今の日本に誕生することを夢でなく実現としてほしいものだ…。
昨日、不思議な夢を見た…。23
年を取ると昔のことがよく夢に出てくる…。
片岡千恵蔵、市川歌右衛門、大友柳太郎、らの黄金時代の中に突如として若手が現れた、東千代乃介、大川橋蔵、里見浩太朗、伏見扇太郎、そして今夜の夢の主、中村錦之助…。
これは東映が全盛を誇ったときのメンバ―である。ここでは時代劇に絞りたい。今回はすべて敬称を略させていただく。
ラジオから流れていた新諸国物語、尾崎蘭堂の映画化で「笛吹童子」「紅孔雀」など続々と映画化されて日本中の少年を虜にした。その頃は児童向けのラジオドラマが盛んに放送されていた。その中に「赤胴鈴之助」も人気があり嫌いだが吉永小百合が出ていたそこに登場したのは歌舞伎の中村時蔵の倅の錦之助だった。それらで少年たちの心を掴んだ。
錦之助は長谷川伸さんの股旅ものへと移行する。ここで本領を発揮していく。股旅ものをやらせたらなん人も超えることのない彼の十八番となっていった。「瞼の母」「関の弥たっぺ」「沓掛時次郎」をはじめとして次々と演じ彼は観客を魅了しまくった。喝さいが鳴りやまなかった。大映では長谷川一夫が「雪の渡り鳥」などで火を噴いていた。この二人が股旅の双璧であった。
前にも書いたが突然に現代劇を「海の若人たち」に出てきたときには驚いた。商船学校の物語だった。これは今までになく新鮮に映った。それから有馬稲子さんと結婚、離婚、淡路恵子さんと結婚、少しは騒がしていたが恵子さんとはなくなる前までいい夫婦だった。
「宮本武蔵」「親鸞」「柳生一族の陰謀」「風雲児信長」この人も多くて書ききれない。
彼はプロダクションを作り独立、萬屋錦之助へと変身していった。が、役者がプロダクションをもって成功したことは無い。三船プロ、勝プロ、石原プロと思う様に運営が出来なかった。プロの四人が合作で共演したが、個性が個性を殺し合い出来は顔見世ということで終わった。
萬屋錦之助がいろいろな作品に出たが、あまり注目されたものは見当たらない。が、テレビドラマ「子連れ狼」ではまさに水を得た魚というべき彼の本領を発揮していた。その頃から病の兆候がうかがえていた。
彼は病床で恵子夫人に見守られながら夭折していった。
4人の大物俳優は大きな足跡を残し帰らぬ道へと旅立っていった。
今の人たちには思い出はないかもしれないが…。
ここに書くことで私の心によみがえり。
「この娑婆は、悲しいことや辛いことがある、が、忘れるこった、夜が更けて、あしたになりゃあ・・・」
関の弥たっぺでお小夜役の十朱幸代に語った名台詞をを思いでしながら夢を閉じたい…。
昨日、不思議な夢を見た…。24
今日は私にロシアの劇作家アントン・パーウロビッチ・チェホフ、のことを教えてくれたそのことを書いてみたい。この作家の存在を教えてくれたのは先輩の古本を商いしていた山本信夫さんだった。倉敷駅から古い小路の街並みの中に1間間口の二坪もない古書店があった。いつも酒の匂いを欠かさなかった。現代舞踊の高谷さんが友達で二人で焼き肉を食べながら酒を飲み芸談、文学談議に花を咲かせていた。
山本さん、山さんは県下ではチェホフの作品に非常な造形があり研究家でもあった。一言居士てあった。
戦後の新劇界ではこぞってチェホフを公演していた、チェホフは日本の演劇界の手本であり、復興の寵児でもあった。その頃日本の新劇では三好十郎、村山知義、小山裕士、阿部公房らが新作の華を咲かせていた。私は新劇ではなく新派に属していた。
今回も軽傷を略させていただく。
シエックスピアを専門に懸ける劇団もあった。サルトル、ベケット、ラシーヌ、とにかく何がかかるかわからない乱舞だあった。その中でチェホフの公演はどこかの劇団が常に公演していた。ロシアが敗退して崩れていく、チェーホフは最晩年の作品である戯曲『かもめ』、『三人姉妹』、『ワーニャ伯父さん』、『桜の園』はどこの現団も公演したはずであった。
チェホフは貧しい家に生まれている。苦学をして医師になるが、その傍らで家族を養わなくてはならず新聞にコントや短文を書き養っていた。当時のものを読んでもこれがチェホフのものなのかは判然としない。ここら辺が井上ひさしと似ている。彼は構成作家から「ひょっこりひょうたん島」書くまでは短文、コントの書き手であった。
チェホフはそれをやめて戯曲を書くようになる。劇作家チェホフの誕生であった。退廃、没落、人間性の喪失。まさに日本の戦後の世相であったことから受け入れられたといえよう。
チェホフの偉大さは彼の持つテーマを崩さなかった。退廃している中の人間を凝視しそこから目を離さなかった。一貫していた。これは書き手としてなかなかできることではない。
だが一見その厳しさとともに哀愁を助け船として書き入れていた。人間はこのどん底にあっても立ち直ることが出来るというあり方の設計図をセリフの裏に隠していた。そうでなくては悲惨さだけを見せられたら観客はたまったものではない。それを計算しつくされていた。小説には数学はいらないが、戯曲は0の概念がなくては書けないものだ。科学者らしい巧みな計算がそこに現れていた。これはシェックスピアとの違いで、寓話な言葉を滔々と語る戯曲と違い、饒舌でない心理的言葉を吐かせている。シェックスピアの芝居を華麗な壮大な芝居というなら、チェホフの芝居は悲惨な現実を見せながら人間の悲哀の向こうを指し示すものだ。
今でもチェホフの戯曲は演じられている。そこに人間が生きている証拠である、それに共感するからだ。
私はチェホフから学んだものは人間という身の置き場は常に崖っぷちかに三歩前に置け、という余裕を教えられた。けっして人間は不幸を背負うときがあるが心の在り方でいくらでも生き方が変えられる、そこで生きる、そのすべを捜せ、「桜の園」では窓からまえる桜の木が切り倒されることに心痛めながら屋敷を去っていくロシア貴族の物語であるが、決して作中人物を殺してはいない、このように生きればというチャレンジも書いている。
チェホフの影響を受けたのは、テネシー・ウイリアム、アーサーミラーがいる。それまでになかった新しい演劇を構築している。彼は4台玉を下記のミー越して結核の為に召された。
それは山さんの生き方、古書にうずもれてはいるがいつか作家になる夢を実現するという夢があるから明日があったのだ…。
難しい夢を見たらしい…。
昨日、不思議な夢を見た…。25
昨日は専門的で分かりにくい夢を語ってしまった。
すこし砕けた夢を見ることにする…。
お前はどんな女性の人が好きなのか、と問われれば素人さんでは分かりにくいから女優さんをその手本にするしかない…。志麻さん、文子さん、デコちゃんと書いたが、この三人さん以外にほれ込んだというほどの人はいないのです。あえて書くならば、私の分野新派で、水谷三重子さんの娘さんの水谷良重さん、関の弥太っぺに出ていた小夜の十朱幸代さん、
藤村志保さん、高千穂ひづるさん、桑野みゆきさん、芦川いずみ、ああ、忘れるところだった、「よくきたな」で書いた中村玉緒さん、この人はまた別に夢を見たいと思っています。
こう書いていくと主役より主役を支えて人たちが多い。支える人と言えば主役より演技が出来なくてはならない。また超えていても困る、その技量をもって主役より下手に演じるという技量がいる。
まず、水谷良重さん「悪名」の女郎を演じていたが、私はしびれた。三重子さん譲りの薄幸の女を演じていた。何度かそこ後映画でお目にかかったがその女優としての成長は身を見張るものがあった。受け口の色香は私を魅了した。みんなはどえぅなのか…。ドラマーと結婚したが離婚している。今は母の名跡をついで三重子二代目を名乗っているが、その容姿は驚くほど逞しく威圧感を見せている
十朱幸代さん、お父さんの独特のひょうひょうとした演技には笑わせてもらったが、その筋を貰ってか少し天然によくを演じさせたら秀逸であった。捨てがたい得難い人、なきの芝居はこの人の領分でもある。小坂一也と結婚していたが離婚した。今その容姿は年を感じ取らせない美貌である。得難い役者さんであり、活躍をしてほしいものだ。
藤村志保さん、この人によって支えられて市川雷蔵がいる。
大映であって存在感を見せた女優さんであった。静岡のグランシップ芸術劇場公演の鈴木忠志さんの演劇公演のおり喫茶店で見たが老いても美しく今でもいい味の演技を見せてくれている、得難い人だ。これからも歳に負けずに頑張ってほしい一人だ。
桑野みゆきさん、この人は日本の女優さんである。大島渚の「青春残酷物語」川津裕介の相手役を演じたがその若さの妖艶な肢体は観客を魅了していた。「人間の条件」にも出ていたが私はその存在感が好きだった。
高千穂ちづるさん、この人がお姫さん役を演じたら傍にいる人はいなかった。東映の時代劇をささえたお姫さんである。が、後に演技派として活躍する大きな存在を見せた。稀有の女優に成長した。
芦川いずみさん、この人は日活においてかけがえりない人だった。日活の男優さんを相手に可憐な役どころを演じファンを魅了していた。日活を裏で支えていたことを知っていただろうか。
中村玉緒さんは別の枠で書きたい。
ここで見るとあまたの俳優はいるが、私には趣味に合わない人も多く偏見が見え隠れしている。
夢で会いましょうーーー
昨日、不思議な夢を見た…。26
これはもう40年前に書いた、これを今回出版に加えて、夢を見て鵜なそれようとしている、愚かなことか・・・。
創作秘話 「天使の子守り唄」
この作品を書いたのはもう四十年も前のことだ。私の住む水島の公害が緩やかになり喘息の死者もそんなに出なくなっていた。と言うのは工場の煙突を高くして煤煙を拡散させ遠くの土地に其の被害が出ている時だった。
私を文学に導いてくれた、先輩の山本信夫さんの哀悼として書いた。
山本さんにはアントン・チェホフを私に教えてくれた人であった。其の造詣は近隣では及ぶ人はいなかった。
この作品の中で私は人間の老いにおける本能を問いたかった。男に取っての本能は自分の血を繋げると言うものだ。そして、女の本能もよりたくましく頭のいい種を持つ男との子孫を残すことであることだと思っていた。
老いても其の欲望は消えることのない本能の業火に身を焼かれる一人の男を、ヘルパーと言う職業で出会う女性との時間と偶然を書いて問題を提議すると言うものだった。当時私は三十そこそこの若造であった。年寄りのことなど知る由もない立場にいた。
訪問看護をするヘルパーの事は承知していた。あくまで其の二人の本能をあからさまに書くのではなくそうなる必然を筋立てた。
夫を事故で亡くし子供を抱えた未亡人を、ヘルパーとして登場させた。
まだ今のように老人介護の福祉基盤は作られてはいなくて手探りの状態の中に無いよりはましと言う程度の政策の上に成り立っていた。
この頃私は努めて取材をしている。また、ヘルパーの実態もある程度つかんでいた。
一人暮らしの年寄りを介護して金品をせしめているというヘルパーの実態も知っていた。また、其の年寄りを慰めることもあったという事も感知していた。
年寄りの性、今その年になってつくづく厄介なものであると手に余ることが多い其の現実に直面して、よくも其の当時に書けたものだという感慨を持つことがある。若さゆえ、今だったら書けたかどうか、年寄りの性への執着、それが生きることの辛さと重なって悲哀すら感じることをよくも書けたものだと思う。
この二人を私は鬼と表現した、人間ではなく鬼、なぜ、人間の倫理も理性もかなぐり捨てて本能だけで遇いまみえる行為を鬼畜としか思えなくて書いた。
今、歳を取って読み進めていたら、真実が見えることに驚愕している。人間の悲しい実存なる行為、これは現代社会においても避けては通れない福祉の現実だった。
年寄りは行為の対価をそっと落とす。それを子供のためと拾う、其のドライな感情は人間の欲なき自然営みに思える。
私はこの作品で性を書こうしたのではなく、人間の在り方のひとかけらを明らかにしたかった。
図らずも、この作品は現在の高齢化、障害者の性に対しての問題に対してのテーゼーとして、そんな大層な事を思ったのではなく、年寄りもただの人間の男女の生きざまを私が歳をとった時に対しての定義であることには違いない。
歳をとる、それは何を意味するのか、快楽と言う、本能、またはそれを凌駕して生きる人間の業を問いかけることで人間のもののあわれを、悲しみを書き遺しておきたかったという事だ。
今、其の歳になって遺された本能だけに振り回されている多くの人達が其の業火の中でのたうちまわっている現実を前にして茫然と佇む影が長い事を知る。
それは国による福祉の枠では到底おさまるものではなく、これからの世代の人達はそれを凌駕出来る手立てを日頃から整えなくてはならない…。
これを書いて新聞に連載してご近所の方になんとスケベ―な人かと顰蹙を買ったという夢があったこと思いでしている…。
昨日、不思議な夢を見た…。27
何やら忙しくて夢を見るのも忘れていた。ゲラが出来上がったら校正をしなくてはならない。書き手は校正の時に書いているものとして読んでします。ここは、家人にまかせて、ここがおかしいという言葉を待つことになる。
フランキー堺さん…。写楽とムーンライトセレナーデ―で仕事をさせて頂きました。
「おい、ゆうさん、すまんが皆に西瓜を食べさせたいが、良く冷えたものを10個ばかり手配しれくれないか」
「写楽」の大詰めの現場でのこと、フランキーさんはこの作品に執着があり、制作に一役、資金を大層出していた。蔦谷重三郎がフランキーさんの役どころであった。このころ、押しも押されぬ大御所になっておられた。そんなフランキーさんもこのおり病魔が体を蝕んでいたことは表情に少し出ていた。
「私は貝になりたい」「幕末太陽伝」この二作が私にとってはフランキーさんの代表作と思っている。社長シリーズ、駅前シリーズ、赤かぶ検事、まあ、いろんな役をこなしておられた。
進駐軍のキャンプでドラムをたたいていて、東宝の森繁久彌さんを始め、三木のり平さん、小林桂樹さん、加藤大介さん、多々良純さん、有島一郎さんらの芸達者と堂々互角に演じていたのを覚えている。それが「私は貝になりたい」で演技派として一躍躍り出た。川島雄三監督の代表作「幕末太陽伝」ではもう押しも押されぬ演技派として日本国中が評価したといえる。石原裕次郎さんがかすんでいた。フランキーさんは確か慶大を出ていたと記憶している。
人間としてその足跡は誰にも劣ることは無い。とっつきにくい感じを最初受けたが、あの笑顔はなんとも素晴らしい表情を醸し出していた。真田広之さん、河崎長一郎さん、加藤治子さん、岩下志麻さん、他何十人という俳優さんたちが参加しての撮影、、福山の弥勒の里のオープンセットには遅い桜が満開で、また、スターたちがそれに花を添えていて楽しい現場だった。
フランキーさんはその現場に出番がなくても顔を覗け満足そうな表情を見せていた。
「ゆうさん、付き人が2日ほど東京へ帰るので劇団から適当な人を世話してくれんだろうか」
フランキーさんはにこにこと笑いながら言葉を投げてきた。この人選は何を言われてもにこにことこなす人を選んだ。
付き人につけた劇団の役者はふらふらしていた。が、フランキーさんの付き人が出来ることは誉であった。
撮影終了、アップの時には乾杯の音頭をフランキーさんが取り尾頭付きの赤飯のロケ弁がふるまわれた。
そのあと、フランキーさんとは「ムーンライトセレナーデ―」
で写真館のおじさんの役として仕事をしたが、それが最後になった。
今思えば人として素晴らしい人だった。あの頃綺羅星の如くいたスターの中でもひときわ光っていた、その暗い世情を、また、高度成長の日本に笑いと涙を齎してくれ、人間の悲喜こもごもを感じ取らせてくださったと思っている。
こうして書いていると時代のスターたちのおかげで今があるといえる。
床や主が戦犯にとわれ十三回階段を上り「私は貝になりたい」と言葉落とす、そして・・・。
そこに日本の当時の現状が披歴されていた現実を国民は涙して見つめていた。
「末は博士か大臣か」では菊池寛さんを演じておられた、この作品は心にのこっています
喜劇もこなした演技派の名優・・・
フランキー堺さん、ありがとうございました。
この文を書いていてフランキーさんの偉大さをひしひしと感じました…。
私が惚れた男の一人でした…。
昨日、不思議な夢を見た…。28
本日、幻冬舎との仮契約終えました。本契約後ただちに制本に取り掛かることも決まりました。3-4か月後には書店に並び、アマゾンでも販売されるでしょう。
「砂漠の燈台」「天使の子守唄」「麗老」の三作。を1冊の本として…。+
この歳75、もうめらめらと燃え上がりものは在りません。が、何かがあることは生きる上で希望となりますし勇気を与えてもらえます。
劇作家をやめて15年間、せっせと「自分史」書き連ねてきました。原稿用紙にして5000枚、現在の部分は書いていません、まあ、雑文の中に生きていることを書き込んでいますから、それも自分史としてと思っています。
私のマイ・ウェイ
思い返せば 色々なことがあった
どんな時にも 夢は手放さなかった
恋して、笑い ないたこともあった
今はもうわすれたけれど 強くなったと思えた
自分のしたことを思い出すと 恥ずかしくて言えないが
立ち止まっている時じゃないと
何時も、私のやり方で 道を開いた
躓いて倒れても ひたすらあるいた
自分の道を生きて来た
今振り返り 後悔はしない
どんなときにも愛は 忘れなかった
出会って 愛して 育てたものに
今でもそれに支えられ 生きた日々を振り返る
自分のいたらなさのせいで 人を傷つけてないか
その事が、少し気になる 事もある
立ち止まっている時じゃないと
誰でも自由な心で暮らそう
自分の道を生きていくために・・・
今振り返って、私は卑怯なことをしなかったと断言できる。
夢に生き夢を紡いで生きてきた…。
西行法師、良寛禅師は私の生き方を見てなんというだろうか、心の師と仰ぎ、そのように生きたいと願っていたが・・・。
西行法師は南河内の葛城山のふもとの弘川寺でひっそりと命を閉じた。
良寛さんは、最愛の貞心尼に看取られながら円寂された。西行さん75歳、良寛さん74歳、それぞれの時代では長寿である。
長寿の秘訣、誰かに必要とされることで寿命は決まる。
うかうかうたた寝、これからどんな夢が見られるのか…。
昨日、不思議な夢を見た…。29
昨日、風呂から上がって何の気なしに体重計に乗ったら5キロ太っていた。まあそれくらいは増えたかなという予感はしていた。3月には次男と孫、私と誕生日が続き、その都度赤飯を炊き日ごろ食べたことのない料理を食べたりもした。
それに、深夜に原稿を打っていると頭を使っているせいか無性にお腹がすくので食べながらキーボードをたたくことが多かった。
考えているとお腹がすくことは承知していたが、作品を書くのがたのしくてついつい書きなお食べていた弊害が出ていた。
私は着たきり雀で、格好も何ら気にすることは無く生きているのでかまわないのだが、なんだか動きがスムーズではなくて重いのです。それに頭を冷やすために「ガリガリくん」を何本も食べていた。性欲には自信がないが食欲には対応できる体力はある。
ふと、思いつくことがあった。2-3か月前に私がパソコンを置いている窓の下に1匹の子猫が来てじっと見上げていることが増えていた。何も言わずにじっと見つめ刹那そうな顔をしてみあげられると、こやつはきっとお腹を減らしているに違いがないと夕餉の残りをおすそ分けしていた。毎日来るようになりその都度餌を施していた。どうも我が家と勘違いをし始めていた。この子猫を「はっちゃん」となずけて餌を与えた。要するにスポンサーになっていた。こやつは私に対してはうれないの秋波しか与えてこない、が家人には泣いて訴えていた。時に身元調査や何に不自由をしているのか、面白いことがあるかという聞き込みをする言葉を投げかけるが平然と受け流すのである、が、年寄りの時間つぶしにはなる。
居っいてしまって飼い主と間違われ始めて飯の催促は日増しに高まった。
そんな「はっちやん」との出会いから、2か月で四作「砂漠の燈台」「天使の子守唄」「銀杏繁れる木の下で」「麗老」書けたのです。ざーと400枚もである。こやつはただものではない、私になにかテレパシーを与えて書かせているというと兆しをしていると感じている。
それにしても出会いは何かを齎すもののようである。
私が25畳の書斎から劇作家をやめ家人の6畳の部屋にパソコンを置き遊び始めて15年は過ぎている。
やはり歳をとると家人の軽い寝息が安らぎを与えてくれて精神上いい効果があるように思える。
あらゆる効果か、5年ぶりに幻冬舎からの出版も決まり、それもこやつの効果、家人の寝息に支えられた結果である。今までは一人で深夜泥棒のように静かに抜き足差し足忍び足で台本を書いていたが、今では小説を書き始めて今までにない充実感を頂いている。
人生どこに幸いが転んでいるのかは不思議、これもまた夢の1ページなのかも晴れない…。
不思議な夢を見た…。30
まあ、毎年のことだが、自律神経失調症は春と秋に大きく活躍をしてくれる。作品を3月中に仕上げていてよかったと肩の荷を下ろしている。
目がほちほちして頭痛がし、心臓は不整脈になり、私の動きを止める。私の人生で50-60代には正常だった。が、ここ数年は特に頭痛と意識障害に悩まされている。今ではまた来たかと開き直ることにしている。心臓は何度も心電図をとっても異常見当たらず、ストレスでしょうと医師は言った。が、頭痛はロキソニンが離せないし、安定剤のデパスを常用の薬と化している。まだ精神障害が出ていないだけにありがたい。が、ここにきてが然と創作意欲がわき神がかり的な文章が書けている。2か月で4作品、500枚を書いているのだ。もともと私は戯作者で小説は専門ではない、若かったころには小説を新聞連載したことは在るが、稿料を貰って書く苦しさに耐えられず、いろいろな制限の中毎日新聞に3年間コラムを書いて疲れ切り逃げました。毎日がとやかく言われる前の時期でした。
その後は戯曲ばかり書いていたので、あらすじの小説を書きそれを脚色することで書き上げた作品も多い。
75歳にして書いた作品が幻冬舎から出版される、これは始まりの終わりの打ち上げ花火です。遺書として書きました。これから書く作品はすべてが遺書ということになります。
いま「惜春鳥」「秋告げ鳥」「母の痣」を並行して書いている。朝の4時から7時までの3時間が精神が比較的に安定しているのでその時間に書いています。
もうこの歳で野心など失せています、書くという年寄りの玩具で遊んでいるのです。
編集者から一度東京に来てほしいといわれてどうしょうか思案の頬杖です。実は55歳から60歳までの5年間演劇の財団を立ち上げる為に東京に月に1・2度出向いていたのですが。水が合いませんでした。生き苦しくなるのです、これも持病のなせるものでした。新幹線代、ホテル代は皆さんの税金でした。申し訳ないと思いながら甘えました。財団を立ち上げてそこを去りました。60歳で何もかも捨てたからです。
それからは遊び人として金を儲けることもしなくて自由に生きていました。世界の日本の歴史を学び、世界の宗教をかみ砕き、到達したのは古代の文明でした。そこに故郷を見たのです、人間の…。古代文明と言えば日本にも1万数千年前には文明があった、それは縄文の女神が告白してきています。
今、学者は人間の死後に魂が存在するかを解き明かそうとしています。つまり人は死んでも別の世界で生き続けるというものです。
私もこの問題を宗教的に、文明的に解きほぐそうとしました。メソポタミアのシュメール文明の中に現在を感じたのです。チグリス川で子供たちが水遊びをし、ユーフラテス川で乙女たちが流れに髪を遊ばせるその風景を見たのです、現在と一緒でした。長い年月の中で同じことが行われている、魂、それは遺伝子であることに辿りついたのです。
私は夢中で書いていて思いもよらぬ文章を書いていることはしばしばあります。それは私ではなく私の遺伝子が書かせているという思いに達したのです。
歳をとってそれが歴然としてきたのです。
2か月で4作品、500枚を書いたのは遺伝子だったということを感じています。
たわけた夢物語なのかもしれませんが…。何、自律神経失調症のせい…。そんな夢の中をうろうろとしています…
昨日、不思議な夢を見た…。31
うろうろうかうかしていて75歳になった。
振り返ってみれば大したことはしていない。
いろいろなことと出あい、沢山の人と話、馬鹿なことばかり書いて時は過ぎていった。
思えば、幼いころ、たくましく空をつく一本の銀杏に誓ったこと「僕は物書きになる」その実現に時間を費やした人生だった。大した物書きにはなれなかった。が、歴史として何百という戯曲を書き公演し、徒然に随筆や、小説も書いた。新聞に小説や随筆も連載した。が、書いていて窮屈で仕方がなくすぐにやめた。
何も名利名聞をほしがったわけではなかった。心の中にあったものを書き連ねただけであった。
75年間、遊び人として過ごしたことになる。
残したものに対して何か感慨はあるかと問われれば、それらのものから当時の思いを引き起こすことが出来る。が、何も思い出にすがっているということもない。過ぎた日々を走馬灯のように感じているのかもしれない。
最近、頭と体のバランスが崩れていることを感じる。頭からの指令が体に伝わらなくて立ち止ることが多くなった。肉体の老化なのかもしれない、そうなのだと感じている。頭がしゃんとしていて体が言うことを利かぬということは不自由なことでもある。医者に行けばあれこれと病名を付けてくれる。老いは病との共存でもある。連れ添って歩くことしかない。つまり道ずれです。
今書いているものはすべて遺書であり遺作というところ、何も大層にと言われるかもしれないが、年寄りが生きていくうえでの玩具遊びというところ。人様に読んでいただこうという不遜な考えはない、私が読むために書いている。
私は歳を取ったら老後の時間つぶしにと思って難しい本を5千冊ばかり蔵書に加えた。が、歳を取ることがそんな時間を与えてくれなくてあまり読めない。
最近思うのです。歳を取ることは決して無駄ではないということを感じています。楽しい日々が続いているのです。
書き物も快調に進み、考えることも意外とスムーズなのです。私は堕落的な生き方をしてきて、またしているので時間もたくさんあり、自由に生きているのです。
老後破産などという言葉がはやっているが、ひと月5万円もあれば、すべての物が不自由もなく暮らせています。100人のキャパのスタジオ、28畳の書斎、30畳、28畳、20畳の寝室、6畳の家人の居間、やたら広い部屋があり、というのも親父の設計で45年前に今の生活を予想して建てたものなのです。2000CCの車を乗りまわし、これは医者と買い物ようです、いつも家人と一緒に出かけます。田舎なので固定資産は安いのです。
家の中には何の価値もない、友人の絵描きが捨てていった絵画が転がっているだけ。それも安物の絵が沢山ということです。装飾にはこだわりがありませんからシンプルで簡素です。ここ使っていなかったスタジオを少しリホームして解放しようも思っています。書斎の乱雑さに今は家人の部屋で書き物をしています。家人のいびきを聴きながら書いています。
私が歩いてきた道で風に吹かれて心地よく生きてきた、幸せな時間だったといえます。
何の収入も無なく、賞の賞金はすべて寄付していました。今まで生きていることが出来たのは心優しい人たちが見守り生きやすいように環境を作ってくれたということです。すべて身銭を切っていました。そんな人たちが私の周囲には何人かいて破産しても悠然と暮らしています。欲心がまるでなく名誉もほしがっていない人たちです。
全国にはそんな人たちがたくさんいていろいろと手を差し伸べられ、言葉をかけて頂きました。無欲の連鎖、人の心の広がりでした。そこで温かい友情の中で生きられたことが今の私を造ってくれました。被害を被ったのは家人でしょうか、それも自己責任、私を選んだのですから。
今気になることは世界の情勢。私はアメリカが北朝を攻撃しないと思っていますから、今まで世界史を見ても利害のない戦争はなかったことに起因しています。最も心配しいているのはシリア、アメリカとロシアのわがままです、ここに書くことはよしておきます、また別の時に…。
夢物語を書いて今日の始まりとしますか…。
昨日、不思議な夢を見た…。33
めぐりくる季節の中で
庭に面した部屋の縁側で三人の女性がそれぞれの人生を背負って座っていた。風が突然吹き付けてその前に置かれていた日記帳をぺらぺとめくるように遊んでいた。よく見るとめくられたページには「春告げ鳥」と書かれてあった。
始まりは突然の様に訪れるが、それは前もって用意されていることなのかもしれない。
三人の女性にとってはその始まりであった。三人が集まったのは偶然ではなかった。長く病床での闘病生活を閉じてなくなった祖母秋子の、その葬儀もことなくすんで四十九日の法要と骨収めのために集まったのだった。
三人の前には祖母が病床の時にも枕辺にあった日記が置かれていた。
自作の書き出しである。
作品を書くと言うことは全体の10%にも満たない。90%は考えて作っていることで書くという作業をするときにはほとんどが出来上がっているということだ。まずはじめと終わりが決まれば作品は完成している。この1週間ほどあれこれとどうするこうすると、考えを巡らせていた。秋子の日記に纏わるのは三人の女性の孫達である。現代の孫たちの生き方と、戦前、戦中、戦後を生きた秋子の生きざまとが交錯してそこに物語が生まれる。
孫たちは祖母が書き残したものに対して反抗し順応し批判をする、その感情の中には何があるのだろうか、を問いたいと思っている。
これから季節もめくりサッキに梅雨に真夏日、何か苦労の予感がしているが、書き進めたいと思っている。これは前に書いた「砂漠の燈台」より長くなりそうである。秋子の女の一生を書くことになる。それに三人の孫たちの感情の起伏が絡んでいく。
たくさんの人物が出てくる場合は人間関係図を書き性格、生活、を細かく書き込んでいく。迷わないためなのです。
今年の夏は寝苦しい夜が訪れそうです。
夢にうなされそうです…。こんな因果なことはもうやめた筈なんですが、年寄りのおもちゃとして、夢を紡ぎながら遊びたいと思うております…。夢の中ではなく現実で…。
昨日、不思議な夢を見た…。32
緊迫した半島有事の文章が盛んに舞い降りてきている。関心がないわけではないが、何か非現実な感じがしている。アメリカが何も得にならない戦いを本当にするのかということだ。歴史的に見ても、インディアンを皆殺しにしてアメリカを建国し、メキシコ紛争により領土の拡大をした。太平洋のハワイを策略により、移民として受け入れてくれということで大量のアメリカ人を移譲させそのあと軍隊を入れて奪った。フィリッピンにはドミノ政索、共産党の恐ろしさを説き武力により植民地にした。ベトナムも共産主義がはびこることに脅威を感じキンポン湾襲撃を自演し武力戦争をしたが負けた。アフガンも共産主義のタリバンを追い出す攻撃だったが、結果はまだ出ていない。イラクは石油の利権がほしくて、フセインが生物兵器を持っているとして攻撃したがまだ解決を見ない。シリアはイスラエルとの関係でアサド政権を凌駕すべく戦ったが、イスラム国を作ったのはアメリカなのだがそこが敵対するということでアサドを攻めあぐねてイスラム国もシリアのアサドも戦火を拡大させただけで、今ではロシアとにらみ合っている。
その間シナはチベット、内モンゴル、ウイグル、満州と侵略して領土にし南シナ海を埋め立てて滑走路と軍港、ミサイルまで備えている。
今、北朝鮮の核実験に、ミサイル打ち上げに神経を尖らせて、黄海へ空母,イージス艦16隻、潜水艦、駆逐艦、巡洋艦、護衛艦で攻撃のきっかけをまっている。
これはいつもアメリカを戦いの前に行うセレモニーの様なもの、自国民を納得させるバァホーマンスである。
ここに書いているが、問題は空母のカール・ビンソンが黄海に来ていないということだ。インド洋からまだ到着していない。空母ドナルドレーガンは定期点検中で動けない。
アメリかにとって北朝との戦火は何がメリットにあるのかわからない。日本と韓国のため、とんでもない、それではトランプ氏が言う国益にかなわない。
トランプ氏にとっては今が土壇場にいる。上院下院の予算案の通過がおぼつかないということなのだ。通過しなかったらホワイトハウスは機能しなくなり、財政がストップする。これを国連は見逃がさずに今まで送り込んだ移民の中に忍ばせたテロ集団が一気に立ち上がりアメリカという国をなくするという方針があるという情報が入っている。今まだにトランプ氏への国民の声は退陣を要求してデモも盛んだ。
北朝どころではないというのが実情なのだ。カール・ビンソンの進路が決まらないのはアメリカの国家事情である。
またこの戦いをCIA と北朝の麻薬の衝突が原因しているという説もある。今、世界中の麻薬を支配しているのがCIAと北朝であるからだ。
書いていて私がつかんで情報の信ぴょう性を疑っている。
北朝が今のところ動く気配がない、が、25日位に動きそうな気もする。が、シナからの原油は止まったのか、咸陽の軍隊は習近平の言うことを聞くのかこれもあいまいである、また、ロシアが南下を始めているのも不気味である。
私は、皆さんや専門家の衝突という言葉に対して敏感に反応しなかった。
アメリカは得になる、国益にならない戦争はしない。という観点からそう思っている。
問題を広くするのはシリア、これも正義なき戦いだが、このように泥沼化してはアメリカにとってはメリットはなく、ただの面子で攻撃していることになる。それもあいまいなところを攻撃し成果は上がっていない。ロシアとアメリカはここにきて対立を醸している。トルコ、イラン、ロシア、とアメリカ、イギリス、フランスとの戦いが始まるのか…。私はこちらの方が現実味があると思っている。EUの瓦解が近い、白人同士のつば競り合いが拡大する。
世界は新しい局面の中に存在している。
とはいえ、北朝をシナが抑え込んでも不満のしずくは落ちる。
目が離せない事態が進行している…。
これは私の妄想として捉えて頂きたい…。
そんな夢を昨日見たのです…。
昨日、不思議な夢を見た…。35
アメリか空母のカール・ビンソンはゆっくりとインド洋から南沙を経て東シナ海あたりを黄海に向けて進んでいる。この空母がそこにつくとアメリカ艦隊は60隻になるという。
金正恩は150メートルの地下で震えているのだろうか…。シナから亡命してうちに来いといわれている。が、声だけは居丈高でアメリカ、日本への牽制は痛烈である。
もともと北朝鮮を作り金日成を祭り上げたのはCAIと満州国にいた日本の中野学校での諜報部員であったという情報が入っている。金日成をロシアに留学させたのもそれらの人たちであった。抗日戦争という功績を付けて日本と一度も対決したことのない男を祭り上げたということだ。穿ったことを書くとCIAは北朝鮮の麻薬がほしかったということだろう。また、日本の諜報部員は国籍も戸籍も身内も捨てている、帰るところのない人たちである、CIAと一緒になりこの作戦を遂行したといえる。
韓国は李承晩によって国民が次々と虐殺されていた時期に、日本への攻撃を目論み釜山に兵を集結していた。そこで北朝鮮はソウルへと兵を進めたちまち落とした。韓国が共産主義になることを恐れたアメリカは参戦した、CIAはうまく逃げている。元日本の諜報部員は金日成を担ぎ上げてた手前戦場へ出て作戦を練りそれを実行させていた、アメリカ軍が参戦して劣勢だった韓国は巻き返していく、がここで韓国軍は全く戦わずにアメリカが押し返していた。毛沢東としては北朝鮮は自国の領土にしたい、元の属国であるために参戦していく、ここで北朝鮮軍は韓国ほどではないが命惜しさに逃げて戦わなかった。シナとアメリカが朝鮮戦争という名の下で戦ったといえよう。
この戦いに日本を巻き込みたいマッカアサーは日本政府に再軍備を命令するが日本政府は押し付けられた憲法を盾に拒否し、形ばかりの警察予備隊を作ることでごまかしている。
復員してきた元日本兵の多くは黄海、日本海で機雷の除去で参戦していた。九州、四国の病院には次々と負傷兵が送り込まれていた。戦死者は元の姿に縫い合わされ化粧をしてアメリカ本国へ帰還させていた。その数は莫大であった。
私はこの事実を病院関係とそれに携わった元軍人が書いた原稿から知った。
処置を施した病院と葬儀社には莫大な金が下りていた。食料も縫製も製鉄も、朝鮮戦争で大儲けし日本の戦後の復興に寄与した。
この戦争で大きく被害を被ったのはアメリカであった。朝鮮人の実態を知り愕然とした。戦争に何の役もたたなかったからだった。
やがて38度線を引いてアメリカと毛沢東軍は休戦条約を結ぶが、北朝鮮はそれを認めていない。
北朝鮮は休戦を認めていないから戦争中であると認識していた。
そんな夢を見た…。続きは今夜視ることにする…。
つづく…。
昨日、不思議な夢を見た…。36
何度か書いたが、北朝鮮緊迫した状況の裏でシリア問題は多くが語られない。
私はシリアの方が危ないと言い続けてきた。ロシアはシリアに大量の戦闘部隊を入れている。アメリカはアサド政府軍を壊滅させようとしてミサイルを撃ち込んでいるが、それは一種のカモフラージュで発表されているような悲惨なものではない。
ここから第三次世界大戦の火ぶたが切られる可能性は非常に大きい。
トルコ、イラン、イスラエル、ロシア、アメリカ、フランス、イギリス、サウジ、中東と利害がある国がこぞって戦火を拡大させる可能性は大きい。
ここに来てはロシアは後に引けない、むろんアメリカもだ。
周辺国はもはや戦争の中にある。思惑はよじれて絡んでいる。
利害だけではなく巻き添えも計算しなくてはならない。
だが、問題はアメリカが抱えている重大な問題がここにある。アメリカがここでの作戦を誤るとアメリカという国がなくなる危険をはらんでいるということだ。アメリカは自国の
危機を国民は知らない、戦火の中で戦っていて気がついたら国がなくなっていたということも非現実ではない。国連軍と移民として入り込んだある組織軍、移民と名を借りたテロ集団の軍、それらのクーデターがいつ起こっても不思議ではないということをアメリカ全体は感じていないということだ。
これは、CIAとペンタゴンはいち早くつかんでいるが動こうとしない、目先の利益のために北朝鮮との戦争をたきつけているのだ。が、北朝鮮との戦火はないと思っている。ここに何べんもないと書いたが、CIAにとっては必要な戦いである。北朝鮮の中でのスパイ活動、内部攪乱は進んでいることだろう。ロシアの革命のおり革命派のレーニンに莫大な資金を与えたように北朝鮮の反対陣営には革命資金は湯水のごとく流れ込んでいるとみるべきだ。
私は北朝鮮に革命、クーデターの予感を持っている。
が、そこに世界の目を向けてシリアの情勢を見えないようにして何かが起きているというのが今までの世界の動きだった。
国連軍もじっとそれを待ってきた。国連軍を動かすのは誰か、それはもう賢者の皆さんは御存じであろう。つまり世界を共産主義にして独裁を目論む集団の存在を知っておられることだろう。
アメリかも疲弊している、ロシアはそれ以上に瓦解しそうだとするならば、戦争においてその回復しか残されてはいない。
ここで世界の戦争の歴史を見詰めてほしい、戦争によってすべての国は成長してきた。植民地政策によって潤った。が今はそれがすべて失われている。植民地を潤った各国は落ちぶれてしまった。特にイギリスが顕著だ、核を貯蔵する維持費がなくて放置している。国際秩序は崩壊している。
国連はある組織に握られてしまった。
これからの世界は世界大統領という名の独裁政治が行われるだろう。それも独裁共産主義の誕生で。そこに住む人間には自由がなくなり奴隷として生きるしかないことになる。
その日暮らしのマルクスに「資本論」を書かせた裏にはこの膨大な野心が書かれたシナリオを見ることが出来る。
それは世界統一という国家も個人も存在しない空間の演出なのだ。
世界の宗教も何の役にも立たず、ただイスラム教だけが生き残りそうな予感がしている。
今までのすべてを破壊して、マルクスがかねのためにかいた「資本論」が教科書として人間を支配する世界が出現しそうである。
これは戯作者の妄想であってほしい…夢であってほしい…。
昨日、不思議な夢を見た…。37
めぐりくる季節の中で
庭に面した部屋の縁側で三人の女性がそれぞれの人生を背負って座っていた。風が突然吹き付けてその前に置かれていた日記帳をぺらぺとめくるように遊んでいた。よく見るとめくられたページには「春告げ鳥」と書かれてあった。
始まりは突然の様に訪れるが、それは前もって用意されていることなのかもしれない。
三人の女性にとってはその始まりであった。三人が集まったのは偶然ではなかった。長く病床での闘病生活を閉じてなくなった祖母秋子の、その葬儀もことなくすんで四十九日の法要と骨収めのために集まったのだった。
三人の前には祖母が病床の時にも枕辺に置いていた日記が置かれていた。
「おばあさまに何度も読ませてくださいとおねがいしたのですけれど、完成したらということだったの」
緑は内孫で祖母と一緒に暮らしていたのでよく言葉を交わしていた。祖母の仕草から多くのことを学んでいた。病院に見舞うために足しげく通ったのも緑が一番多かった。従姉妹の郁子は東京に住んでいて見舞いの数はそんなに訪れ事もなかった。また香苗も京都に住んでいて、郁子に比べれば近かったので見舞っていた。
三人はもう四十を少し過ぎていた。
緑のことを書くと、母の冴子は秋子の長女で家を継ぎ緑も男兄弟がなく後を継いでいた。
倉敷の美観地区から少し離れた昔からの住宅地に家はあった。
「私はおばあさまのことは何も知らない」
郁子の母の早苗は秋子の次女で東京の大学に通ってそのまま東京に残り家庭を持っていた。
「近かったのにたびたび来てあげられなくて…来るたびに痩せていくおばあさまを見るのがつらく…」
秋子の三女の紀子の子供の香苗は言葉を低く発していた。
秋子には三人の女の子しか生まれなかった。その子供たち、孫が縁側に座り秋子のことをしのんでいたのだった。三人の孫たちはそれぞれに秋子の日記を手に取りいつくしむように祖母をしのんでいた。
五月の緑の風は温かくなりつつあった日差しに包まれながら流れて三人を包んでいた。
人はそれぞれの生きる環境の中にいてそこに生きていく色をおとしつくられるのか・・・。
三人の孫たちはそれぞれの生き方の中に思いを残しつつ暮らしていた。
春を告げるのはいつも鶯だった。庭の木々の間からその鳴き声で告げられ春が来ていた。
秋子の日記「春告げ鳥」の書き出しはこの様に書かれていた。
日記は四冊に分かれていた。「夏告げ鳥」「秋告げ鳥」「冬告げ鳥」という風にであった。秋子はその四冊を順を追っては書いていなかった。
春を始まりとし、夏は盛んな事、秋は物思うこと、冬を考えることに書き分けていた。それらは秋子の心象風景であり情景描写が綴られていた。
「何をしているの、膳の用意もできたから座って」
緑の母の冴子が三人に声をかけた。緑は和装の佇まいであった。郁子と香苗は洋装の喪服を着ていた。
「はい」
緑はそう返して三人は立ち上がった。
柔らかな日差しが日記を照らし出していた。
その時が始まりであった。三人にとっての祖母秋子を知る出会いでもあった。
「春告げ鳥」
春はまだ浅かったけれど鶯のなき声が庭の木立をかいくぐって聞こえて来て春が訪れる日が近いと感じていた。
私の十四の春だった。
ここまで書いて世界の情勢が騒がしくなった。
書こうか書くまいか・・・。
だが、この静寂は不気味である…夢か現か幻か…。
昨日、不思議な夢を見た…。39
明日から5月とは…。年月を過客とは、つい先だって寒い寒いと正月を迎え、あっという間に4月までなんと早かったのか、歳を取ると余計に早く感じている。
齢75歳にして迷いっぱなしであった。頭痛持ちがそれを抱えて日々を過ごし、人様が寝静まって遺書の作品を書き続けられたのもこれはもはや天の啓示なのかもしれない。その書いたものが出版されるとは、また世間に対して迷惑をかけることになると思うと申し訳なくしぼんでしまう。
本当は5月の緑の風の中をサツキやツツジに彩られた小径をあてもなく徘徊し自然の中で両手両足を伸ばせて欠伸でもしたいところだが、申し訳程度の散策しかできない。これは心で思うことで実際今までやったことがない。
今年はやろうと決めている。少し体いじめて体力をつけ15年ぶりに東京へ赴きお世話になる出版社に挨拶でもと思っている。
これが最後の出版であり、東京であると思っている。
「貧しいから、あなたに差し上げられるものと言ったら、5月のみどりの風と愛する心だけです」
イギリスの作家クローニンの言葉が浮かぶ。
歳を取って衰えているが、なぜか頭は冴えてきている。3月には4作並行して作品を書き完成させた。これは戯曲を書いていた時以来である。
小説と戯曲をひねだす脳が違うが、なぜ両方が書けるかはわからない。アントン・チェホフはそれが出来たが世界ではまれな作家だった。日本においては両方をものにしたのは井上ひさし氏くらいで、あとは小説を書いている合間に書いた人たちである。松本清張、水上勉氏、遠藤周作氏、五木寛之氏、武者小路実篤氏、小説家が書けることはまれなのだ。
戯曲は詩人が書けるもの、同じ頭脳の範疇に属している。世界では詩人が戯曲をものにしていることが多い。
私は良寛さんをじっと見つめてきた。そして戯曲の最期をこのように閉じた。
「貞心さん、歌も、書も、水仕事も習ってはならん。創るのじゃ、自分のものをな。縛られてはならん、地位や名誉に…。仏とは衆生、それを救わんで何が仏の使いなのか…。押掛けの弟子への最後の言葉じゃ」少し微笑んでそう言われる。
その教えが私への・・・。いいえ、嫌でございます・・・嫌で・・・息の細くなられた良寛さまにもっともっと言葉を頂きたくて・・・お声を掛けて頂きたくて・・・
「貞心さん、この世は総て夢、夢に生き、夢に遊び、この良寛、貴女のお陰で好い夢が見られた」
形見とて何か残さむ春の花
夏ほととぎす秋は紅葉(良寛)
生き死にの界はなれて住む身にも
避けぬ別れのあるぞかなしい(貞心)
と耳元でうたうつらさ・・・それに応えるかのように・・・蒲団の上に座ろうと為さり、私が抱き起こして・・・
裏みせ表を見せて散るもみじ'(良寛)
囁くように呟かれ、そして穏やかに・・・。
良寛さまは・・・この世のお人のあらゆる悩みや苦しみをみんな背負われて・・・何もそこまでなさらなくても・・・人の悩みや苦しみは塩入り峠の雪と同じで春が来れば・・・いま、この貞心、人の生きるということの尊さが・・・。
良寛さま・・・あなた・・・。
「なぜに、なぜに、死にとうない、死にとうないと未練な言葉を・・・。
どうせなら、貞心よ、一緒に死のうと言うては下さらなかったのです」
一人、貞心の明かり。貞心は静かに机に向かい筆を走らせている。
これは私がゆめの中で書いたものです…。
昨日、不思議な夢を見た…。40
日本人の漂流が始まった。何かの出来事でも意見が一致することは無い。それならば思想を持っているのかというとそうでもなく唯流されているだけというお粗末さである。まあ生きるという哲学がないということに尽きる。それ指針がなくてよくも生きていられるものだと関心をしている。政党に所属して狭い理論の中で培ったものが世間に通用すると考えていることに驚く。自己の考えなどまったくもってなくてそれに引きずられているだけである。まあ、これほど楽な生き方はなくそれを堕落と思わないのだから能天気でもある。
社会の中に新しさを発見し、また、人間の中に新しい生き方を見つけての、それを必然としない書き物が横溢していては迷うもの至極当然ということなのかもしれない。
「反対」と叫べは満足という自己の在り方についての考察などないし、反対の向こうにある提言もないとしたらそれはヤジでしかないのだ。
今日本全国にヤジの嵐が吹き付けていたやかましくてしょうがない。まず国会が理論なき ヤジの主戦場であり、普天間辺野古でのヤジの騒音にはあきれ返っている。
それらはすべてひもがついていてやってる人間もどきは操られている人形なのだ。
今また、
北朝鮮情勢で各論が噴出しているが、これもアメリカにトランプ氏が大統領になったときにいち早く世界の情勢を見据えることで予測が出来た筈である。
トランプ氏はまぐれとか偶然とかで大統領に選出されたのではない、今のアメリカに取っての必然なのだということがわかればトランプ氏が当選することは安易にわかったし筈である。アメリカ国民の感情を読み取ることが出来なかった見識不足である。国際金融に牛耳られた歴代の大統領にノー突き付けたのである。アメリカのマスコミは金に目がくらんで世論を掴むことが出来ていなかった。
トランプ氏のアメリカがなぜ北朝鮮をということははっきり言ってないと考えていた。商いのもうけを重んじるトランプ氏にはまったく関係のないことであったからだ。アメリカは先の朝鮮戦争で朝鮮人の性根を知り尽くしているから自分のものにしても利益が上がらないことは知っている筈である。そこにミサイルを撃ち込んでも無駄な戦費を計上し国民を戦死でもさせたらリベラル派がなんと言うかも知り尽くしている。本気でやるのならカール・ビンソンをインドとの合同演習、日本との合同演習をして時間を費やし日本海へとは、そんな悠長な作戦は出来なかったはずである。また、空母の位置が知れ渡ることは極秘任務に就いているカール・ビンソンにとっては知られてはならないことなのだ。
それをここだあそこでという憶測が独り歩きをしてさも有事を演出するり日本のメディアや識者のおかしさは笑いものにもならない。
一つの例として、この火急の時にも為替と株が暴落も高騰もなく安定していることになぜ注目をしなかったのか、また、その間に安倍総理はロシアのプーチン氏を訪ねて表面上は北方四島の話として経済協力をと会見で言ったが、それなら今でなくてもよかったはずである。安倍総理はプーチン氏に北朝鮮問題で重要な役割をしてほしいといいに言っていたとしか思われない。シナもロシアも北朝鮮はほしい、がここにアメリカが絡んできていることで手が出せないというところなのだ。今そこシナにもロシアにも大きなチャンスなのだから。なぜ、北朝鮮のミサイルをロシアが打ち落としたかを冷静に考えてほしい。
この問題ではさまざまに意見が交錯しているが、四か国協議に落ち着きそうである。アメリカ、ロシア、シナ、北朝鮮である。
北朝鮮は世界の孤立国家ではない、164か国が国交を持っている。それは無視することはできないものだ。
北朝鮮との緊張は続くが、落としどころで話し合いがもたれると思う。
が、一番の問題はシリアに火薬庫があることだ。この火薬庫には中東の命運がかかっている。まずこの問題を見詰めなくてはならない。ここに第三次世界大戦の火種がいぶっているのだ…。
これも夢であって、妄想であってほしい、皆さんもこれは一つの意見として見てほしい…。
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