yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

明日は今日より素晴らしい・・・。1



倉敷は今日も燃えている。
風は熱風が流れ拒否しているようだ。
北陸や北海道では集中的に高雨量であるらしい、事故のないことを願っている。天災は毎年あっている、そのための防災の準備ができていない、この国は人が死ななくては何も前に進まない。
自然をないがしろにしている証だ。台風や地震に対しての付き合い方も忘れたというのか、自然が作り上げた斜面を造成すれば水害による家屋の崩壊は想像できたはずである。一部の人たちのために日本国土の一つの県に相当するゴルフ場、自然の営みから生まれた自然林を植林地にする、植林されて物は大きく育っても根を張らないから保水能力はなく流され流木となって川を下り堰き止めて一層氾濫する。毎年のその繰り返しである。

明日は今日より素晴らしい・・・。5

倉敷は空に重たい雲がたけ込めていたが、いつの間にか晴れて日差しが厳しくなった。
私にとって今年の夏は今までに経験したことがない日常感がある。年をめぐると昨年のことか言えなくなる。
今年は小学校と高校の同窓会のお誘いがあった。往復はがきを眺めながら同窓の友の息災と幸せを思った。私には鮮明に記憶する思い出がない。宿題は忘れていたというよりしなかったので。廊下に立たされたりバケツを提げて立たされたことを思い出す。思い出すといえば近くの駅舎に聳えていた銀杏の木は今まで生きて忘れたたことがなかった。
その頃に少年のすべてが、野球少年であり映画少年であった。そんな日々の中で、こっそりと銀杏と約束を交わしていた。
「将来、映画の仕事をしたい、物書きになりたい」というものだった。
そのことは「銀杏繁れる木の下で」という作品を書く動機にもなった。その作品は「砂漠の燈台」の中に載せている。その場所を訪れてはいないが心のよりどころとして生きた。
学生時代に暮らした町は昔の面影のかけらもなくなって近代的にビルの町に変わっている。私が見たものではなくもれ聞いたことだ。
東の岡大医学部は変わってしまっているだろう。西の大本教の宗忠神社は昔のたたずまいでそこにあると聞いた。倉敷にいて岡山に行くこともなく、東京へ行くことの方が多かった。
75歳で同窓会を閉じると書いてあった。今の世の中だから半数は残り生きていることだろう。
私はたくさんの人の中に入ることは苦手にしている。
子どものころには茶目っ気があってオチバケばかりしていた。明るい子供だった。その頃の同窓会も秋にあるという。
私は今まで堅気の生き方をしたことがない。遊び人として自由に生きた。みんなの中に入ることを避けてきた。ひたすら銀杏との約束を果たすために生きてきた。

「砂漠の燈台」の後書きでそのことに触れている。
「砂漠の燈台」と「天使の子守唄」「麗老」、これらの作品は六十歳で書く事を辞めていたが、十何年かぶりに書くことになった。書いていて、若い頃の事を思いだしていた。浅草のストリップ小屋の喜劇役者の方々に舞台の面白さを教えられ、新橋演舞場では、新派の北条秀司先生、台本を書いておられた池波正太郎先生に教えていただいたこと、また、岡山県下の多くの文学を志していた人たちとの交流、原稿を読み雑誌を発行し全国に配ったこと、特に『新日本文学賞』を受賞したが断らせた大江壮さん、「女流文学賞」をとりながら作家にならずに日本舞踊の流派を作った梅内女史の事は心に残っている。小説を書いていた私を倉敷で演劇の世界に引っ張り込んでくれた倉敷演劇研究会の土倉一馬さん、とその仲間たちから沢山の思い出を頂いた事。未熟な台本を公演してくれた事。また、私の作品で岡山県代表として日本青年大会に四度も出場し数々の賞に輝いたこと、それは倉敷の青年たちの熱意ある功績として、また、それを率いた土倉一馬さんのお手柄であること。そこで学んだものが貴重な歴史のページである。それらは走馬灯のように心の中で再現されていた。若かったころの夢物語である。
後に日本一の演出家、鈴木忠志さんにも手を差し伸べていただき、全国の演劇人たちと「財団法人舞台芸術財団演劇人会議」を立ち上げる一役を担い、鈴木メソッド演劇の真髄を魅せられた。鈴木さんの温情は忘れてはいない。日本劇作家協会に不満があり辞めたこと。映画の世界では表現社の篠田正浩監督、鯉渕優さん、永井正夫さんらのプロデューサー、岩下志麻さん他たくんさんの俳優さんと何作も仕事が出来たことも記憶を新たにした。それらの人との関わりで多くの思い出を貰った。そんなことを考えていたら書き上がっていた。子供たちと青年たちに支えられながら劇団滑稽座は存在した。七十二回も公演が出来たのも彼らが私を支え学ばしてくれたおかげである、子供達も育ち青年たちも成長していった。それも心に残る残照がある。私の我儘といたらなさのために傷を与えていたとしたらお詫びをするしかない。
「砂漠の燈台」は文明と自然の再生を追いながら人間の務めと幸せについて書こうとしていた。幸せ、それは人さまざまな形でそこにある。その中の一つの姿をとらえられていたらと思う。作中小説として「銀杏繁れる木の下で」を入れた。この作品は銀杏と言う自然の総体に対して人間の心の動きを追ってみた。私は無神論者で運命論者ではないが、何か不思議なものに導かれていると感じている。草稿は二・三日で書きあげた。六十歳までがむしゃらに走り抜けたが、年を経て気づくことが多い。後悔はない、私の心のままに生きてきた。夢を実現するためにいばらの道を、ぬかるんだ道を、多少の中傷も、試練として受け止めただ前に歩いた。これはすべての人が歩んだ道だろう。名利名聞には関心がなかった。ただ歩いた。人の評価に対しては反省の材料にしたが心には遺さなかった。
それだけになまいきだと叱咤されたかも知れない、それも私は前に進む材料としていた。
私は常々ありがとうという意味で言葉を書いた。
「人の世の哀しみにも華を咲かせ、人の世の悲しみにもたわわに実をつけよ」
「人には大切な種が心にある、それを育てるためには夢という肥やしがいる」
「この娑婆には、悲しい事、辛いこと、が、一杯にある、わすれるこった、日が暮れて、明日になれば…」
これらの言葉に幾度助けてもらったことか。
今思えば沢山の人に応援をしてもらった、沢山の人に出会えた。その人達とめぐり合えたことで何百という作品が生まれた。出会いに感謝している。
日本を代表する沢山の名のある人達から温かいまなざしと言葉を沢山頂いた、また、人とは何かを学ばせて頂いたが、その人たちに返す事はしなかった、私が生きていて出会った人達にその人たちの想いを伝えることでお許しを願うしかないと思って接した。この作品を手を差し伸べてくださった人達と支えてくれた人達、私と出会った総ての人達に捧げたい。不遜であるが…感謝をこめて…。                                             

七十五歳        吉 馴   悠





明日は今日より素晴らしい…。3

倉敷は昼間を灼熱地獄、夕方には涼しくなった…。
私は暦では生きていない、海の日、山の日、も知らない。
梅雨が明け、夏休みが始まっていることも知らなかった。
世間音痴なのか、いいえ、自分のサイクルで生きているのであまり関心がない。
そんな日々にも日本の現状が耳に届く。
テレビと新聞社の情けない真実にはうんざりしている。国民の無関心さには腹が立っている。
国民は国に憲法を盾にして権利だけを要求しているが、国民には義務も付きまとっている。義務ありての権利であることを知らない。
なぜそんな品性下劣な国民になったのか、考えることを忘れて時の流れに身を任せたというのか。欲望に負けて将来のことを、歳をとることを忘れていたのか。快楽に酔いしれ溺れて慎みまでなくしたのか。自分は悪くない政治が悪いと言っておれば楽な暮らしができるのか。いつも被害者の演技をして端役でいたいのか。生きることの何たるかを知ろうとしないで終わりを迎えるのか。
世界の中にあっさて日本国ほど恵まれている国はない。その認識はなくもっといい国があると錯覚して叫ぶのか、努力もしないで。
水道水がそのまま飲める国は世界でも20国もない、停電することもなく、鉄道、道路は整備されている。200万の年収でも食べられる、健康保険は国民に平等に与えられている、年金も贅沢をしなかったら飢えることはないだけもらえる、車は全員が持っている、市場には商品があふれていて持っている金に見合った生活ができる・・・。
イギリスでいうところの生まれて墓場までを日本は国民に約束しそれを実行している。世界でも長寿としてはこの国である。高校まで授業料の無料化、子供たちの医療費は無料、馬鹿でもはいれる大学は無視の数ほどで教育補助を一人の生徒当たり年間300から1100万円を国民の税金で払って教育環境を作っている。何を言っても罵倒しても言論の自由として罰せられない。夜に女性が独り歩きをしても襲われることはない。玄関にカギをかけなくても泥棒は入らない。
こんな国に住めて何の不都合があろうか、とはいえもっともっとと激しい欲望に振り回され叫ぶ人たちがいる。
自然の四季に恵まれ山海の珍味を味わうことができる。国民の贅沢が自給率を下げている、それは食べ残しをすることに起因していることを知らない。
日本は領海を含めると世界で6番目の領土を有している。
私は若いころ東京にいたが家人の故郷へきてもう50年になろうとしている。本当に良かったと思っている。公害の町だが、そこには自由があったから…。東京にいたらたぶん死んでいただろう。圧し潰されていただろう。
今思うことは昔の東京の姿である。いいところしか思い浮かばない。
「砂漠の燈台」で東京を書いたがそれは想像で書いた。55歳から60歳まである組織を作るために月に2回ほど東京の会議にでていたが倉敷に帰りたくてしょうがなかった。その時に眺めた東京を書いた。
3年間で3000万円提供するから演劇公演を活発にやってくれないかと言われたが、政府の金をもらうことに憚れてお断りをした。ひも付きになった劇団もたくさん出た。
そんなことで拘束されることを望まなかった。
博打の儲けで文化が振興できるとも思えなかった。私は、人は身銭を切らなくては正しい成長がないという考えに固辞していた。
自由を謳歌しながら劇作家と演出家の道を歩んだ。それも60歳ですべてを棄てた。足らずを補うために深呼吸をした。

「砂漠の燈台」の最終部をここに…。

縄文期の出土される土偶には女性の妊婦の姿をしたものが大量に発見されています。そこに縄文期の男と女の濃厚な愛を見るのです。男は妻になる人のために首や手首を飾る装飾品を作り頭に載せる飾りを作るのです。求愛する、素朴な出あいで純真な関係が生まれ、女は初潮を迎えると一緒に暮らすようになり、やがて子をはらむのです。何の打算もなくただ愛という絆が続くのです。男は女の妊婦の姿に似せて土を練り作るのです。完成して壊して住居地にばらまいて隠すのです。妊婦の息災を願い、身代わりとして壊すことで女を守ったのです。二十数歳の寿命の中で彼たちは次の世代に託す命を誕生させ命を終えるのです。ただ遺伝子を残して…。       
そこに今では考えられない幸せな時間を共有していた歴史があるのです。縄文期の男と女の時間、それは動物の女としても、私は羨ましさを感じてしまうのです。そこに人間が存在した証拠として真の人間社会があることを思うのです。なぜ、そのような縄文期という時代が一万七千年間という長く続いたのか、そこには動物として、人間としての誕生と死んでいく中に愛という相互の関係の中になにか最も大切なものがあったとしか思われません。それは命を運ぶこと、その本能の中に充実した愛による生活の支配があった、だから縄文期が長く続いたという結論を見るのです。 

人間の心の中に巣くう遺伝子を解き明かし引き出してこれからの人間を創造することに生涯をかけたいのです。あなたと一緒に…。
 滅びることのない二人の文明を作るために…
 砂漠の燈台の灯りに導かれた人類のためにも…。
 生きることも死ぬこともそれを超えた時に本当の人間の姿が見えてくることも…。
 そして、愛する思いを永遠にしようとするとき、その永遠は遺伝子しかないことも…。

 あと数日の後、私は緑なす北海道の大地の中に、今までと異なる思いを抱いて立ち尽くしているでしょう…。

出版は8月の中頃か、全国の書店にて販売される。

これは私の遺書として書いた…。

江戸時代の藩の殿様は領内の防水を第一に考えていた。
政府も、地方地自体も考えているとは思われない。温暖化、エコに3兆円も使い、防災には何百億とは情けない。
反対の人がいるかもしれないが、私はインフラにもっと投資しろという考えである。必要としない設備投資も盛んだが、全国の各県になぜ飛行場があるのかと訝る人も多かろうが、それは有事を設定して作られている。私の住む倉敷にも100メートル道路があるが、その道路は三菱重工の前まで続いている。これは普段は全く必要のない道路である。が、飛行場になる。また、全国を高速道路が走っているが、それは自衛隊の車両が緊急に走るために作られている。これも国防の一環である。
このように書くと私を右翼に染まっているという人もあろう。しがない戯作者をし、その頭で妄想をしたこととして聞いてほしい。
が常に国民を守るために作られているという考えもあっていいのではないか。
私は幸か不幸が反日教育を受けてはいない。戦後の教育を受け復員してきた先生に教えられた。その先生から戦争の実態と人ではない心理の状態を学んだ、と言っても当時は勉強などしていなかったからまともに聞いていなかったともいえる。
その頃はみんな貧しかった。平等にひもじい思いをしていた。
あの頃の子供たちはそんな状況にあっても明るかった。ポケットには夢と希望があふれていた。
学校給食が始まったのは小学3.年生の時だった。机の上にコッペパンと脱脂に乳がのった。
野球少年であり映画少年でもあった、そんな中で生活していた。
ラジオでは「赤胴鈴之助」「新諸国物語」などが流れ、子供たちはラジオにかじりついて聞いていた。菊田一夫の「君の名は」で風呂屋が空になっていた。
源氏鶏太、北条誠、などが週刊平凡、明星に連載小説を書いていた。そのような大衆小説にも自虐史観は見られなかった。
楽しい恋愛物語だった。
時代小説では、柴田錬三郎、山手樹一郎、海音寺潮五郎、山本周五郎氏らが活躍していた。
その頃からたくさんの小説家が登場することになる。
志賀直哉、芥川龍之介、菊池寛、谷崎潤一郎、太宰治、坂口安吾、川端康成、そして少しして三島由紀夫、安倍公房、遠藤周作、松本清張、水上勉らの時代へと移る。
この当時には私も20歳を超えていたがなんでも読み砕いていた。ここに列記するには多すぎるので省略した。
映画の世界では何といっても、長谷川一夫、中村錦之助、市川雷蔵、勝新太郎、三船敏郎、石原裕次郎を上げなくてはならない。
その人たちによって日本の映画産業の頂点を期した。
それらの作品を読んだり見たりしても自虐史観はどこにもなかった。
「新日本文学」系の野間宏、埴谷雄高らの作品は読んでいない。
歌謡曲では、東海林太郎、藤山一郎、岡晴夫、小畑実、春日八郎、三橋美智也、並木路子、美空ひばり、菅原津ズ子、コロンビアローズ、以下と続いて島倉千代子につながりそこから大挙して歌手が増えている。
私たちより少し早く各県に国立大学が作られ駅弁大学といった。
今振り返ってみても、今のように千々に乱れるという世相ではなかった。60年70年を境にして大きく様変わりしていくことになる…。
そのことはまた別に記したい…。
明日は今日より素晴らしい…と書いているが人の心が豊かになり幸せになったかは、どうなのか・・・。


明日は今日より素晴らしい…。2

倉敷は33度の曇り空が広がっていた。時に夕立…。
クーラーは昼夜25度でつけっぱなし、暑かったらてきめんに頭がふあふあするのでやめられない。
昨日から医師より投薬されものをなるべく飲まないように我慢することにした。調子はいい…。時に発作が来るがその時には我慢できないので薬のお世話になる。
それにしても子供の理ころ見た入道雲を見ることが少ない。夕立というものも少なくなっている。というのも私が外に出ず空を眺めていないからかもしれない。
天秤棒で担いだ金魚売りの、風鈴売りの声が独特の掛け声で暑い日差しの中に響いていく。道側には朝開いた朝顔が少し遠慮したようにうなだれ、日差しに向けて大きく開くひまわりの群れ、空にはツバメが飛来しダンスを踊って、雀が気ぜわしく飛び交い木の枝にたむろする。蝙蝠は夕方に現れ巧みな滑空を楽しんでいる。
入道雲が黙々と立ち上がり空を灰色にうずめ、風のにおいを変えながら夕立がたたく。
畑にはトマト、キュウリ、瓢箪、糸瓜が今を怒りに実を付けている。窓には簾、葦簀が垂れて日よけをしている。
枇杷が実り、ザクロがはじけて実をあらわにしている。
半ズボンにランニング、ステテコの姿が行き来する。浴衣の君が美しく涼しそう。下駄の音がからころと響いてつつましい幸せを感じさせている。紙芝居屋さんのラッパの音が響き渡る。水飴、ところてん、わらび餅を口に運びながら物語の中で遊ぶ。打ち水に余念のない母の姿、そうめんを茹でる後姿。
夕方には庭に出て家族が集い、花火に浮世を忘れている。
蚊取り線香がたかれ、蚊帳が張られ明日を迎える。
海開き、海水浴、臨海学校、海の少年に変わる。
夏祭り、提灯を下げて迎える。山車が引かれる道沿いには円台に料理を並べてふるまう。
盆には明かりをともして迎え火をし、感謝と息災を語る。

そんな風景が私の頭をよぎっていく…。
この時代は今はない。
子供心にはっきりと刻み込まれている風景だ。
月日は過客、今は思い出の中だけのものに変わり、過ぎ去りし昔をしのぶ…。
これは年寄りの郷愁…あの頃はよかったといえばお叱りを被ることだろう…。
そっと心に秘めておればよかったと書いてから思う。

二十歳に書いた「海の華」の終章の部分を・・・。

工事のほうは正月を目の前にして急ピッチで進められ、片付けられていた。みんな善さんの事など忘れているようだった。
順ちゃんは仕事もせずに毎日海に出で善さんを探し続けていた。
「順ちゃん、僕は帰らなくてはならないんだ。母が待っているのでね」
省三は順ちゃんにすまないと思って言いそびれていた言葉を言った。鳴海にしても角次にしても警察に任せ手を下そうとしなかった。
「帰ればいい。それでいいんだ。僕はまだまだ善さんを探し続けるよ。海の中に一人おいて置けないから・・・。今の僕にはそれしか出来ないんだ」
「すまないね」
「謝ることはないよ・・・。僕は今やっていることで区切りを付ける、親父の会社に戻って後を継ぐよ。善さんが見つかったらな」
「そうなのですか、それはよかった」
「あの子帰ったんだって・・・いい娘だったのに・・・。僕は見たんだよ、省ちゃんと二人で善さんに花を・・・」
「見ていたんですか・・・善さんはまだ・・・」
「いいんだ、あれでよかったんだ・・・。夕陽が海を黄金色に染めて・・・二人はシルエットのように・・・海に流す花束・・・。綺麗だったよ・・・。・・・
善さんはもう・・・。本当は僕も一日も早く決着をつけてと思うんだが・・・、善さんの遺体が見つかったら、花をいっぱい買って、舟を漕いで、海を花で埋めてやるんだ」
順ちゃんは涙をこらえていた。が、頬に幾筋もの涙が流れた。
「順ちゃんの心は綺麗だね」
「そんなことはないよ。金で買えないものを見つけたんだ」
「順ちゃん」
「うん、寂しすぎるよな、甘えていたんだ。だけど今は生きているよ」
「ええ」
「うん、生きている、そして造る」
「分かるものか、誰がわかっているというのだって、善さん酔うと言っていたね」
「分からないから生きられるって言いたかったんだ・・・。今ならそう思う」
「そうだね、そうなんだ」
省三は順ちゃんを見ていて頷いた。
「これでお別れですね。 来年は来られないかもしれないから」
「明日また誰かに出会えるよ」
順ちゃんは明るく言った。そんな顔を見たことがなかったように思った。
煙草の煙が立ち込めていた。赤子がしきりに泣いていた。
省三は故郷へ帰る汽車に揺られていた。
善さん、順ちゃん、キャサリン、有難う、と省三は心の中で繰り返していた。カタンカタンと言う音が善さんの歌う「黒田節」に聞こえていた。
善さんの遺体が見つかったと言う記事が載ったのは大晦日の朝だった。
順ちゃんが舟いっぱいに積んだ花を海に投げる光景を省三は思い浮かべていた。

省三の十七歳、昭和三十六年は終わろうとしていた。

すべて忘却の川に流しても心に残るものがある…。
人は懐かし思い出の中でしか振り返ることは出来ない。だが、それらすべてが今を作っていることをふと思い出している…。

明日は今日より素晴らしい・・・。4

倉敷は晴れていたが先ほどから雨が落ちてきた。てきめんに私の頭を直撃し頭痛が起こりしばし茫然自失・・・。慌てて血圧を測る。年齢+90より少し高い…。
昔は雨が降ったら天気が悪いとよく言ったものだ。書き込みながら思いだしている。
イラクでモスクを奪還するために銃撃戦がありイラク軍に200人以上の死者が出たと報じていた。これはテレビ、新聞ではなくパソコンで読んだこと、私は見ないし読まないからそこからいただくしかない。
シリア問題も硬直状態が続いているらしく動きがみられない。
目を転じて日本の状況を見ればこの国は戦争しているのかと見まがうほどである。
放送局、新聞各社が表現の自由と称して、書かない権利もあるとほざいている。全く独断で、読者に対しての忖度がない。崖ぷちの最後のあがきがそうさせているようにも見える。
書かない自由がありそれを表現の自由というのなら、公器としての存在はないから、機関紙にならなくてはならない。国民はもういい加減飽き飽きしているからそれをお勧めする。
国民の活字離れは加速している。テレビにすがっているのは年寄りたちという少し認知症がかかっている人たちだ。私はも年寄りたがその人たちを弁護するつもりは毛頭ない。その年に到たるまで何を考え生きていたにか、要するに勘違いをして金があるときには身の程知らずの贅沢をし年を取った時のことは一切考えてなくて生きた、つまり生きていなくて時間の浪費と徒労な生活をした付けである。が、その人たちがマスコミに洗脳されて思想信条もないのに金のためにデモに駆り出され看板を掲げるさまはいとおかしいというべきものだ。そのほとんどが国民の税金で生きている人となるとあほらしくて言葉が出ない。
この国はいつから金のためには何でもするという国になったのか、何も国民がマスコミの金儲けなら何でもうそを書くということになじんでも結局一銭にもならず己の至らなさを披歴していることに気が付いてない愚かしさである。
また、官僚たちの横暴ぶりには目を見張るものがある。認可権を盾にしての暴尺無尽ぶりにはあっけにとられる。総理より偉いと思っている証拠である。国民に信託された人と一回の公務員との差がわかっていない。パジャマパーテイー、しゃぶしゃぶパーティー、幼児売春に至っては開いた口が塞がらない、そのために天下りに関しては懸命に働くという為体
である。それでやめ刺されるとあることないことリークして官邸と対立する。認可権という特権を持っていて官邸が主導したとうそぶく、人間の良識など持ち合わせてはいない。ただ恨みつらみを叫んでみても己に非があることに気がかない下衆である。
ここは総理が総理の権限でそうしろといった、それに不都合でもあるのかといえば済むことだ。認可権があるから官僚
この問題もテレビと新聞に後押しされて共産、民進が議会を混乱させている。主犯は朝日である。下らない三文芝居はごめん被りたい。
そんな混迷する日本にあって、為替111円に、株は2万円に達し、失業率は2.5%になっている。ここで安倍総理が消費税をなくしたら人のデフレは解消するのだが、財務省という壁がある。
第一次安倍内閣の時に、財務官僚をリストラするといったばかりに社会保険庁の無能を長妻にリークされて退陣に追い込まれた経緯があるが、ここは踏ん張っての英断がほしい。そうすればデフレは解消し税収も増えるというものだ。

蓮舫の二重国籍、四重国籍問題…。
石破の獣医師会の癒着、北朝鮮からの砂利の利権問題・・・。
鳩山前の蓮舫の二重国籍問題を知っていた発言の共犯性・・・。
マスコミの金まみれの報道…。
8月初めの内閣改造問題・・・。
NHKの受信料は在日は免除の実態…。
反日評論家の一層…。

日本は今年も厚くなりそうなことが多い…。
認知症、体を壊すことなく乗り切ってほしい…。

明日は今日より素晴らしい…。10

倉敷は30度だがどことなく秋を思わせる風が流れていた。私のいる部屋は年中25度にエアコンを設定していて止めてはいない。金のことはさておいて快適を一番に考えている。
そんな中、私の暑い夏は終わった、が、世間ではまだ夏の日差しは厳しい。
8/22に本を出版し、地元の図書館に配布、読んでくれると思われる知人に贈呈した。ふらふらとなりがら送付したり、友に届けたりで疲労は頭痛と不整脈で現れたがいつか南限は死ぬと思えばやれるものだ。
私の夏は終わった。
厄介に事はFMラジオから出演要請がある。もともと外に出ることの嫌いなも人前に出ることが苦手な私にとっては責め苦でしかないからだ。これも長年田舎町の倉敷で生きていたから多少の付き合いや世話になっている手前断われなかった。
「砂漠の燈台」は私の手から離れて独り歩きをしている。意外と淡泊にとらえその作品が持つ命に託している。また、売れるとかという願望もない。ではなぜ出したのか、遺書として完成させる葬式だと思っている。
人は私の遊び人の人生はうらやましいと言い楽しかったでしょうという。
私は「はい、楽しく生き、書き、勝手に過ごし申し分はありません。やらなくてはならないと決めたことはすべてやり遂げました。おまけといえば語弊がありますが、書いたものは「日本演劇協議会」に登録され、公演のテープやDVDは文化庁の要請で早稲田大学が保存してくれています。私がかかわった「財団法人舞台芸術財団演劇人会議」は日本と世界の演劇をつなぐ役目を果たしています。テレビも映画の仕事も十分させてもらいました。
小学生のころ近くにあった駅舎の庭の大きくそびえる銀杏の木との約束は果たしました。思い残すことはありません。
被害者といえばこんな私と連合いになり、こんなはずではなかったと思う家人くらいで、ほかの人には迷惑はかけなかった。それがせめてもの僥倖か・・・」
今回の出版はおまけ…。いいえ、道楽者の贖罪か…。男の純情か・・・。
この本も出版社との縁が切れたら著作権は放棄することにしている。今まで書いたものはすべて放棄している。
作者は書いたものに責任を持つが、一人で歩きだしているものに対してまで面倒は見切れないということです。
いい日旅立ち、可愛がってもらえればこれに越したことはない。
ただ、それをも守るだけ…。
それは書いているときに至上の喜びをもらったものとしてわがまま、執着はよくないと思っているのです。

今、ようやく書くことができる気力がわいています。ここには覗いても書き込みはしませんでした。

新聞というものに対しては出来た時から国民を洗脳し先導する道具でした。それは歴史を振り返ればわかります。
まず期待をしないことにつきます。
日本国憲法は日本国民のために作られてはいません。アメリカ、シナ、北朝鮮、韓国、ロシアのものなのです。なぜかというと国民を守るという文言は一言も書かれていない不思議な憲法です。9条を守れと言っているのはそれらの手先です。
今、稀代の総理がそれを変えようとしている、その真意に賛同して支援するのがこの国民の愛国心です。
白人社会のキリスト教はどんな悪行狼藉をしたとしても勝てばそれを正義とするものです。歴史を見ていただくとその矛盾がよく見えてきます。
報道の欺瞞とキリスト教の教義ではなんでもできるということです。
さて、日本人はどうか、性善説と限りない愛とやさしさを持ち、教養は世界で一番高かったが、今はどうか…。この国をリードするという知識人、文化人たちは偽物です。責任と覚悟という言葉を知りません…。
また、金がなくては生きられない人間になっている、生き方を知らない人たちの群れです。

そんなことを考えて過ごしています。
私は、今の世界の進歩を止め人間は進化するなと書きました、そうでなくては人類は滅亡するからです。

京都の真ん中を流れていた川を東に運河を作り変えています、それを加茂川として…。なぜ、平安京を作る前でした…。

人間は文明を作りその文明によって滅んでいます、その輪廻が続くのです…。

明日は今日より素晴らしい…といえる明日があることを思いながら書き進めました…。


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