小説~神のいない大地~No.2

 その日は、夏の終わりだと言うのに、酷く冷たい雨が朝から降り続けていた。
 昨日までは、じっとりと暑く、汗ばむほどだったと言うのに、今日は厚手の服を着ていもまだ寒い。
 侍女の中には、秋物を通り越して、冬用の毛の散らしてある上着を羽織るものまでいて、館の中の様相が、たった一日で変わってしまった。
 その冷たい雨だが、夕刻近くなり風が強くなってきたこともあって、雲が追い払われたようだ。
ぱしぱしと、雨戸を叩いていた雨音が聞こえなくなったなと思うとすぐに、さっと止んでしまった。
 しつこいくらいに長く降り続けていたと言うのに、終わりはやけに呆気ない。
 そのことに、驚きながら外を覗くと、赤い夕日が、森の向こうで燃えているのが見えた。
「おや、まぁ。風情のあるものだな」
 森の木々が冷たい滴を垂らしている向こうに、赤い日が落ちるのが見える。
 その何とも優美な光景に、ユリアスは目を細め見入った。
 光の精霊が、あちこちでさざめいているのが見えた。
 彼等と同じ属性を持つ魔神であるユリアスだけに見える、小さな乙女達だ。
 彼女達は、寒さなどまるで気にならないとでも言いたげに、薄い膜のような衣装に身を包みながら、空中でくるくると回っていた。
 彼女達がそうやって舞い踊るたびに、鱗粉のような光が、ぱらぱらと落ちていった。
 ユリアスのすぐ側でも、数人の精霊達が、楽しげに宙を舞っている。
 こうやって、空中を自在に動けるのは、この光の精霊か、あるいは、闇や風の属性を持つものだけだ。
 大地に縛られる乙女は、こうはいかない。
 ユリアスも、光の魔神と言う立場上、大地の精霊は目にしたことはないのだが、ウォウサから聞いたところ、彼女らは常に、どこかにちょんと座り、美しい歌を歌っていると言う。
 豊かな土地であればあるほど、その歌声は美しいのだそうだ。
 そして、この御館の回りほど、精霊達が楽しげに歌う場所を、彼は知らないと言った。
 敗者が勝者へと向ける、諂いの言葉だろう。
 だが、あの気質真直ぐな青年の表情は朗らかで、嘘を言っているようには思えなかった。
 少なくとも、精霊達が美しく歌う程度には、ここも豊かなのだろう。
 あんな顔で嘘を言えるほど、ウォウサも賢しいわけではない。
 庭に面した廊下に出て、雨に濡れた床に気を付けながら歩く。
 何時もならば、一人、二人と侍女や、守人代わりの魔神とすれ違う所なのだが、雨が止んだばかりか、誰とも会わなかった。
 ちぃちぃと、鳥が鳴いている。
 森に住む野鳥の類か。
 そう思いながら顔を上げると、夕日の沈む丁度反対側に、小さな光が一つ、瞬いていた。
 秋を知らせる星だ。
 あの赤い輝きが、もう少し山の方へかかる頃になると、収穫を向かえることになる。
 今年は、戦の勝敗が決したせいか、何時もよりも収穫が多かった。
 昨年まで、戦場へと割り当てていた大地の魔神を、多く村に残すことができたためだろう。
 麦の手入れを彼等に任せることが出来た。
 そのおかげか、今年は穀物全般の成長が良かった。
 風も良く吹いた。
 雨の必要な時期に、雲を呼ぶことも出来た。
 何時にない豊作だった。
 この分ならば、敵囚として連れてきた、大陸側の魔神達を飢えさせることもないだろう。
 何にしても、畑の広さに比べ、島側の人数が少なすぎる。
 大陸側から戻ってきた魔神達を加え、ようやく、一村分と言う有様だ。
 島側の魔神達は、大陸側の者達を、どうにか見下したいらしい。
 勝者の特権として、彼等の上に立ちたいのだ。
 元は同じ血を持つ同士だが、長年の憎しみ合いがそう思わせるのだろう。
 中には、従兄弟姉妹もいるだろうに。
 彼等は、そんな親族を、虐げたくてならないのだ。
 だが、ユリアスは、長としてそれに同意することは出来ない。
 元々、停戦自体が、親族として、同列として扱うと言う約束の元になりたっているのだから。
 大陸側の指導者だった大地の魔神ティナも、その約定を得て始めて、降伏したのだ。
 もし、隷属させられると知れば、彼等もそう簡単には屈しなかっただろう。
 最悪、徹底抗戦ぐらいはしただろうか。
 魔神は誇り高い。侮辱は許されない。
 支配のの果てに残るのは、今よりもなお数を減らした魔神と言う種だけだ。
 かろうじて生き延びた者にしても、いずれは、魔族に食い物にされるに決まっている。
 いくら力があろうとも、結局、纏まらなければ生きていけない。
「難しいな……」
 魔神と言う種を残すために、どう立ち振る舞えばいいのか、判らない。
 最良なのは、大陸側の魔神を全て、この村の者として受け入れることだ。
 そうすれば、戦で失った分の人員が取り戻せる。
 大陸側も、最終的には数でこちらに劣ったが、その分、質がいいのだ。
 上位の魔神が多い。
 島も、ユリアスやマリスと言った突出した存在がなければ、逆に、大陸側に押されていたことだろう。
 ウォウサも、今はまだ経験が浅いため、それほど重要視されてはいないが、あと十年ほどもすれば、上位の中でも特に力の強い魔神となるだろう。
 一族を支えていく上で、必要不可欠な大地の存在になれる。
 島にある村にも、多数の大地の魔神はいる。
 上位ももちろん、その中に含まれている。
 だが、いざとなった時に必要なだけの力はない。
 大陸側が、炎や光を欠いていたように、こちら側も、大地や闇を必要としていた。
 この停戦は、なるべくしてなったのだ。
 長い戦だったが、どちらの魔神も、もう限界だった。
 元々、数が少ない種族だったのだから。
 血筋の上でも、これがぎりぎりだっただろう。
 上位は上位で結び付きたがることが、より状況を悪化させている。
 ユリアスより年上の魔神など、従兄妹婚がざらなのだ。
 近づいてくる娘にしても、遠縁が多い。
 血縁ではない女を上位の中で探そうとすると、少なくとも、島の中では皆無だった。
 健康的な血を残す上でも、これ以上、血族婚は許したくない。
 外敵から一族を守るためには、より多くの人員と、力ある魔神が必要だった。
 迫害や蔑視など、許せる状況ではないのだ。
 それ以上に重要なことがある。
 だが、回りはそれを理解しないのだ。
 本来なら、ユリアスの補佐となるべき長老達も、それに気付かない。
 いや、知らぬふりをしようとしているのではないだろうか。
 彼等もまた、勝者として、奢りたいのだ。
 その心が、どうにも、見ていて腹が立った。
 御館の外側をぐるりと巡るように歩き、裏庭まで出た。
 そこから中に入ると、丁度、台所に出る。
 そこで、熱い茶を貰いがてら、居座っているだろうウォウサと話でもしようと思ったのだが、ふと聞こえてきた話し声に、気を取られた。
 女の声だ。それも、若い。
 聞き覚えのある、奇麗な囁き声だった。
 まさかと思いながら、そっと、角からその向こうにある庭を探ると、二人、若い女達が笑いあいながら、濡れた庭を散策しているのが見えた。
 背の高い、長い黒髪の女は、ティナだ。
 そんな彼女にじゃれつくようにしている闇の魔神は、ラージャだろう。
 こちらに背を向けるように立っているので、顔が見えない。
 だが、体格だけでそれと判った。
 きゃぁっと叫んだ声を聞いて、やっぱりとため息をつく。
 彼女らを見張っているはずの魔神はどこかなと探すと、御館側の縁側に立っていた。
 二人を刺激しない距離を取りながら、常に、森の方に気を配っている。
 何かあるとすれば、そちら側からだろう。
 だが、上にも注意して欲しい。
 そう思いながら、暗くなりかけた星空に目を向け、また、ラージャへと視線を戻した。
 従妹でもあるあの少女は、年齢よりもなお華奢で、案山子のような体つきの子供だった。
 背も小さい。そのくせ、やけに元気なのだ。
 しかも、かつて大陸側の重要人物だった上位魔神の娘だけあって、ずばぬけた魔力を持っている。
 彼女にとって不幸なのは、その力を上手く表わせないことだろう。
 潜在能力は高いのに、それを引き出せないでいるのだ。
 呆れるばかりの不器用さだった。
 そのことが、彼女の立場を微妙なものにしている。
 本来ならば、ティナをも凌ぐ血筋として、大陸側の印ともなれる身だというのに、器用さが少し足りないばかりに、侮られているのだ。
 もちろん、その分の自由も得ている。
 どうでもいい娘として、かって気ままに振る舞うことを許されていた。
 ユリアスが畏怖するに足る力を秘めた少女は、まるで闇の塊のようだった。 
 引き出しきれない力が、闇そのものとなって、たゆたっているのが見える。
 その傍らに立つティナも、大陸側の魔神を纏めていただけあって、決して弱いわけではない。
 だが、その彼女でさえも、魔力と言う存在に視点を置いた状態では、ラージャの側にいると、まるで目立たない存在になってしまう。
 だが、それも、あくまで魔力を比べた時のことだ。
 美しさや儚さで言えば、むしろ霞むのは、ラージャの方だった。
 ティナは美しかった。
 長い黒髪は、まるで濡れたように艶やかで、そして、豊かだった。
 その髪に縁取りされる面は白く、柔らかい。
 整った目鼻立ちは、母親譲りなのだろう。
 あまり似ていない母娘だと言うが、ぱっと見た目には、似通っている。
 少し表情を険しくした顔は、戦場で何回か会ったことのある、大地のラルバに良く似ていた。
 だが、母親ほど、きつい目つきはしていなかった。
 むしろ、大地のおおらかさを表わすように、おっとりとしている。
 大切に育てられたのだろう。
 気品のある、整った顔立ちをしていた。
 少し痩せぎすで、手足がひょろりとしている。
 胸元は寂しいが、それでも、女としての柔らかさは持っていた。
 一挙一動が、なめらかだ。
 ラージャにやんわりと微笑みかける表情が、美しい。
 黒く長い睫が奇麗に目元を浮かび上がらせているせいだろう。
 くっきりと描かれた瞳が、彼女の強い魅力となっていた。
 ほんのりと染まった頬が、女らしい優しさを強調している。
 きゃっきゃと笑い転げているラージャを、大地の魔神はまるで姉のような表情で見守っていた。
 ここ最近、部屋に篭りがちだったと言うのに、こうやって外に出てくるなど珍しいのではないか。
 そう思い、皮肉そうな笑みを浮かべたユリアスだったが、ふと思い出したことがあって、顔を憮然と曇らせた。
 先日だったか。
 ラージャが部屋に遊びに来たので、構ってやったことがあったが、その時、ティナを外に連れ出して見ろと、けしかけたのだ。
 ああやって、部屋に篭って泣いているだろう大地の魔神が不憫だと言うこともあったが、それ以上に、そうやってあてつけのように、囚人の真似事をする彼女が苛立たしかったのだ。
 こちらは、不自由を強いている訳ではないのだ。
 ラージャにしろ、ウォウサにしろ。
 敵だったとは言え、血縁ということもあり、情けをかけてやっている。
 御館の周辺に限り、自由にしていいと言ってあるのだ。
 今だ大陸側の敗北を認め切れない連中に、担ぎ出されと事なので、監視がてらの護衛を付けることはしている。
 だが、それも、気に触らない程度のものにはとどめてある。
 ティナがするように、これ見よがしに囚人の真似をされると、こちらも気分が良くない。
 篭っているのならば、引きずり出してやるさと、ラージャを使ったのだ。
 あの無邪気で、人を疑うことを知らない少女ならば、けしかければさえ、喜び勇んで、『姉』と慕っている大地の魔神の元へいくと思っていた。
 半ば強引に、引きずるように、外へ連れ出すと思っていたのだ。
 あの幼さの残る闇の魔神は、思ったとおり、ティナを外へとひっぱっていったようだ。
 だが、どうにも、連れ出した方こそが楽しんでいないだろうか。
 そんなラージャを見て、あの美しい大地の魔神も笑っているから、さらに面白くない。
「……囚人ぶっているのではなかったのか?」
 これ以上、見ているのも癪だとばかりに、ユリアスは身を翻した。
 極力、足音を立てないようにして廊下を戻りながら、軽いため息をつく。
 ラージャが、楽しげな悲鳴を上げるのが聞こえた。
 冷たい、と明るく叫んでいる。
 水をかけられたのかと思い、足を止めると、今度は、ティナの声が響いた。
 ラージャを叱り付けている。
 柔らかく、優しい声でだ。
 その声を聞きながら、ユリアスは小さく笑った。
 自嘲するような笑い声を漏らしながら、小さく肩を震わせる。
 光の魔神は、引き戸を一つ開けると、そこから暗い部屋へと滑り込んだ。
 廊下の向こうから、活気が伝わってくる。
 すぐ向こうが台所だ。
 夕飯の支度で、侍女達もてんやわんやと言うところか。
 働き手が足りないためだろう。
 普段はもう少しおしとやかなはずなのだが、怒鳴り声までもが聞こえてくる。
 その声に苦笑しながら、ユリアスは廊下へと踏みだし、後ろ手で、部屋の戸を閉めた。
 ティナとの婚礼まで、あと十日を切っていた。

 最初に、ティナが光の魔神ユリアスを見たのは、戦場でだった。
 島側が劣勢を強いられているときに、ふっと、姿を表わしたのだ。
 白い、真新しい麻の上着を着た、どこか幼さの残る少年だった。
 今と違い、あまり背は高くなかった。
 ここ数十年で、成長したのだろう。
 始めて見た時は、それこそ、子供かと思うほどに、小さな子だった。
 どうして、こんな子が、こんな場所にと、驚いたのを覚えている。
 何しろ、大陸にしろ島にしろ。
 どちらに居を構えている魔神も、戦場に子供を出すような真似だけはしなかった。
 それだけは、絶対の決まりだというように、幼い、成人せぬ子らに、血を見せようとはしなかった。
 だから、ユリアスが戦場にぽっと姿を表わした時、誰もが驚いた。
 島側の魔神も驚いていたことを見ると、どうやら、彼は一人で勝手に来てしまったらしかった。
 戦は、だいたいが、十人から二十人の、上位から中位にかけての魔神が双方から狩り出されてのものとなる。
 人数の違いは、そう大きな戦力差にはならない。
 問題となるのは、どれだけ強力な魔力を持つ上位の魔神が配されるかで決まるのだ。
 中位の魔神など、所詮は戦の露払いといった方が正しい。
 最も、出された上位の魔神が双方、それほど力のない者同士だったり、近接し過ぎて相打ちになるような場合は、残った中位の魔神などが、勝負を決することになる。
 それにしても、所詮は力の削り合いなので、あまり効果はない。
 結局は、いかに敵の上位魔神をうまく消すかが、問題だったのだ。
 そういう意味では、魔神の戦いは、大陸を占めていた人間達の戦争よりも、いくぶん、効率的だったのだろう。
 少なくとも、下位の魔神は蚊帳の外だったのだから。
 彼等の仕事は、常に、生産することだった。
 戦い赴く上位魔神のために何かをするのが、彼等の、戦において真っ当できる責任だったのかもしれない。
 そんな中で、子供はほぼ、下位の魔神と同等に扱われていた。
 魔神の子は、十を過ぎるまでは、その力を表わせず、成人するまでその本領を発揮できない。
 彼等は、守るべき存在だった。
 慈しみ、大切にするべき者達だったのだ。
 子供は、戦に出さないと言うのは、双方で暗黙の内に決められた法だった。
 それは、『長』である水のマゼリナが死んだ後も、固く守られていた。
 島側でも、人徳で知られていた光のルシアが亡くなった後も、子供を使うような真似はしなかった。
 子供は宝であり、彼等を守るということは、無言の了解のうちに守られる、絶対の規則だったのだ。
 ユリアスが出てきた時、居合わせたのは、双方合計して、十八人程度の魔神だけだった。
 ティナもまた、その中に入っていた。
 戦うことは許されていなかったが、同行した炎の魔神を助けるということで、追従していたのだ。
 その炎の魔神は、経験は多いが、実戦でも甘いため、負傷をしがちだったのだ。
 そのために、どうしても彼を抑え、あるいは、癒す役目を持つ魔神が必要だった。
 その炎の魔神の魔神にしては珍しく穏やかな青年も、ティナも、その金の髪を持つ少年を見た瞬間、呆気に取られた。
 彼は、あまりにも似すぎていたのだ。
 あの涼しげな目元も。
 子供らしく無邪気そうに見えて、その実、冷ややかな口元も。
 顎の輪郭も、瞳の色も。
 全てが、『長』として煽ぐマゼリナに瓜二つだった。
 それこそ、最初は、亡くなった水の魔神が、この戦場に蘇ってきたのかと思ったほどだ。
 だが、すぐにその考えを改めなければならなかった。
 島側の魔神の筆頭である、炎のマリスが、その少年に安易に近づき、ごつりと、頭を殴りつけたのだ。
 戦場にひょっと出てきた少年を、叱り付けたらしい。
 すぐに追い立てようともした。
 だが、少年はそれを聞かなかった。
 光が起こったのは、その直後だったか。
 焼け付くような痛みが、全身を覆った。
 それが、あの少年の起こした術なのだと理解するよりも早く、ティナは近くの岩場に叩き付けられていた。
 島側の方から、悲鳴が上がったのが聞こえた。
 誰かが怒鳴っている声もした。
 だが、何が起こったのかは見えなかった。
 目がなかなか開かなかったのだ。
 瞼がひどく重かった。
 それでも、漸くうっすらと細目を開くことができた。
 その小さな隙間から、青い空が、視界に飛び込んできた。
 ずきずきと体中が痛んだ。のろのろと腕を持ち上げると、肌が焼けただれていた。
 光の魔神が得意として使う、熱線のせいだと思った。
 だが、それ以上はどうしようもなかった。
 どうにか、傷を癒そうとしたが、声が出なかった。
 喉が乾いていて、掠れた、草笛のような音しが口から出てこなかったのだ。
 ひゅぅひゅぅと、空しい音ばかりが出てきて、少しも、精霊に呼びかけられなかった。
 魔力も、途切れていた。
 無意識のうちに、あの白い熱線を抑えるために、力を全て使い果たしたのだろう。
 あの時、生きていられたのは、一重に、その反射的な行動ゆえだったのだ。 
 だが、そうやって、全力を使い果たした直後では、あれだけの火傷を癒すだけの魔法は使えなかったはずだ。
 だが、私は生きている。
 目の前にある鏡台を覗き込みながら、ティナはそっとため息をついた。
 全身に負ったはずの火傷の後もなく、まったくの無傷で、生きている。
 顔にも何の火傷の跡もない。
 あの時、顔にも微かな痛みを感じていた。
 あの熱線を浴びて、そこだけ無事だったとは思えない。
 だが、彼女はあの後、まったくの無傷で、根城としていた城に戻ることができた。
「貴方が守ってくれたのよね……?」
 ティナは、鏡台の上に置いてある、ねじ曲がった腕輪を手に取ると、それを、そっと填めた。
 銀色の、細かい装飾のある品だ。
 宝石の類は何一つついていないが、所どころに、金の糸が折り込んである。
 基盤となっている銀にしても、光の具合によって、色が微妙に変わる。
 ぱっと目には質素だが、よくよく見てみると、手間がかかっているのが良く判る。
 そんな腕輪だった。
 もっとも、今はそれも熱に歪み、醜く変わってしまっている。
 あの熱線を受けて、歪んでしまったのだ。
 大地の魔神は、腕にはまっている銀の腕輪に、そっと口づけを与えた。
 愛しげに、紅も引いていない唇を寄せ、そのまま、そっとため息をつく。
「貴方は、そこにいる?」
 薄く笑いながら、そうつぶやく。
 それに、答える者はなかったが、ティナは満足気に微笑んだ。
 この腕輪を送られたのも、ずいぶん昔のことだ。
 魔神としては、そう、遠く感じる必要はないのだろう。
 だが、生き残る必要上、人や魔族と接する必要があった身には、二十年は長い。
 この腕輪を、死んでしまった炎の魔神から受け取った日が、とても古い思い出のように感じられた。
 魔神においては、腕輪の交換は、婚礼の約束と同義だった。
 『長』であるマゼリナを失い、母親を失ったティナを支えてくれた炎の魔神が、彼にしては珍しく顔を真っ赤にして送ってくれたのが、この腕輪だった。
 ティナは、彼には何も上げられなかった。
 次ぎの戦いが終わって、一息ついたら、これに見合うだけのものを探して、送ろうと思っていたのだ。
 そうやって、ティナが腕輪を送り返せば、婚約がなったことになる。
 それから、一年を置けば、婚礼も上げられただろう。
 だが、そうする前に彼は死んだ。
 あの日、ユリアスが戦場に始めて出てきた日に、彼は殺されたのだ。
 あの、白い熱線で。焼き尽くされた。炎の魔神が、だ。
 いくら光の魔神の魔力が大きくとも、炎を属性を持つ者が、焼き殺されるなど、ありえないはずだった。
 だが、彼は死んだ。真っ黒になって。
 もう一人、上位の魔神がいたが、彼もそこまでは酷くやられてはいなかった。
 水の魔神だったが、愛した人よりは、魔力は低かったはずだ。
 その青年も、焼けただれた痕も醜いほどの酷い有様だった。
 だが、それでもまだ、誰かということを判別できた。
 だが、腕輪をくれた人は、黒焦げになっていた。殆ど炭状態だった。
 どうしてかと、ずっと悩んだ。
 そして、その答えに思い当たったのは、最初の衝撃から、ようやく立ち直ったころだった。
 炎の魔神だったのだから。
 光の熱線でも、ある程度は耐えられたはずだ。
 無防備に身をさらさなければ、きっと、無事だったはずだ。生き残れたはずだ。
 なのに、彼は死んでしまった。どうしてか。
 もし、何かの理由で、彼がその防御を放棄していたとしたら、どうだろうか。
 あるいは、ティナを守ろうとしなければ、彼は無事だったのではないだろうか。
「……いっそ、火傷でただれていれば、おもしろいのに」
 いずれ婚礼の衣装に着替えるからと、羽織っている白い衣服の襟をそっとめくりながら、ティナはさも残念そうにつぶやいた。
 いっそのこと、この胸が醜く焼けただれていれば、おもしろかったのにと思う。
 そうすれば、あのユリアスも、自分が何をしたか思い知ることができただろう。
 妻が、火傷で醜く歪んだ女ならば、あの男も、少しは苦しむだろうに。
 彼は、愉快なことに、ティナだけを唯一人の妻とする気らしい。
 大陸側の魔神を纏めるために、どうしても、重要人物であった女性をはべる侍らせたいのだろう。
 勝者の妻に、ティナが選ばれれば、少なくとも、大陸から連れて来られた魔神達は安堵することができる。
 『長』のただ一人の妻なのだ。
 軽んじられるはずはない。多少の権利は生まれる。
 その威光の元、敗者は守られることとなるのだ。
 同時に、ユリアスは、抵抗する気力を完全に失った敗者達を、支配することができる。
 元々敵だった者達を、己の勢力とする上で、これほどまでに効率的な手段もないだろう。
 その彼の考えを、ティナは馬鹿々々しいと笑った。
 何が唯一人の妻なのか。
 あの男は、まだ、腕輪一つも送り付けてきていない。
 彼はただ、ティナの弟である大地の魔神を使いにして、婚姻を結ぶと伝えてきただけだ。
 それだけが、二人を婚約者とした約定だった。
 習慣もなにもかも無視した横暴さで、彼はティナを縛り付けようとしているのだ。
 勝手にするがいい。
 私は、私の同胞のために、下ったのだから。勝手にするがいい。
 ユリアスの妻になることで、自分と共に苦難を共にした魔神達が安らかになれるのならば、それでいいとティナは思っている。
 彼等の権威を保てるのならば、自分の身一つくらい、いくらでも投げ出す覚悟はできている。
 元々、降伏した時点で、純潔を守ることも、誇りを保つことも諦めているのだから。
 今さら、あの男に組み敷かれたところで、痛くも痒くもない。
 ただ、少しだけ悔しいだけだ。
 よりにもよって、愛する人を奪っていたあの子供の成れの果てに、いいようにされるのが、ほんの僅かに、心苦しいだけだ。
 くすくすと笑っていると、戸を音もなく開けて、侍女が数人、部屋へと入って来た。
 入室の是非を問う声もなかった。
 そんなことをする必要もないと思っているのだろう。
 勝者の娘達は身勝手だ。
 ティナを、敗残者と見て、侮っている。
 だが、ティナに言わせれば、彼女達もまた、敗者なのだ。
 この見目麗しい侍女達が、若い『長』であるユリアスのために集められた者であることは、知っている。
 そうやって、親の意向で御館に送り込まれながらも、彼女らが、長に触れられていないことも聞いていた。
 敵意むき出しで迫ってくる侍女達に、ティナは薄く笑いかけた。
 そんな彼女に、娘達の一人が、婚礼衣装ですと言って、白い、豪奢な重い布を差し出してくる。
 今晩のために、女達が縫った衣装だ。
 婚礼のためにまとう、汚れない、真っ白な服だ。
 それを、着ろと言う。
 もう一人の、やや幼い顔立ちの侍女が、化粧をいたしますのでと言って、にじりよってきた。
 手に、小さな籠を持っている。
 中には、白粉と紅と、その他、よく判らないものをたくさん入っていた。
 その内の一つは櫛らしい。
 婚礼衣装を着せられる合間に、ぐいぐいと髪を引っぱられ、毛がごっそりと抜けるかと思うほどのしつこさで、櫛削られた。
 白粉を塗られ、紅を引かれ、髪を結われる。
 たくさんの金の飾りを着けさせられた。
 鏡の中の自分がどんどん変わっていくのを見つめながら、ティナはまた笑った。
 綺麗だなと、素直に思えた。
 母親に似た面立だと思っていたが、案外、そうではないらしい。
 母は、もう少し華美で、目立つ人だった。
 つんと澄ました姿が凛として見え、子供心にずっと憧れていた。 
 化粧をすれば、そんな母に瓜二つになるのかと思っていたが、まるで違う顔になってしまった。
 だが、嫌いではない。
 絶望もなにもしないで、楽しげに笑っている鏡の中の女は、優しげだった。
 ここにいる侍女の誰よりも綺麗だ。
 これならば、あの男にも侮られないだろう。
 十分、ユリアスを誑かせるのではないかと思う。
 これからが、私の戦場なのだから。
 どうにかして、同胞を守らなければならない。
 あの男を切り崩し、最後に絶望を与えてやろう。
 それだけの武器が、女としての自分にはあるのだから。
 侍女が、終わりましたと告げるのに、ティナは柔らかく微笑んだ。
 その拍子に、侍女達は皆、一瞬呆気にとられたような表情になる。
 そんな間抜け面をさらす女達を笑いながら、ティナは、婚礼の儀が待っているであろう広間へと向かうため、さっと立ち上がった。

 広間へと、静々と入って来たティナを見て、居合わせた魔神達がほうっとため息をついた。
 最も『長』の席に近い、上座に座っていた炎の魔神の長老が、ぎょっと目をむく。
 ユリアスの倍近くも生きている、妙齢の男だから、美しい女を目にして、落ち着かなくなったのだろう。目に見えて、そわそわとしだす。
 四百と言えば、魔神にとって、もっとも精力的な年齢だ。
 最高とも言える美しさと力を持つ女が側にいて、冷静でいられるはずがない。
 他の長老達にしても、炎の長老ほどではないが、動揺を露にしていた。
 水の長老など、視線がティナに釘付けになっている。
 婚礼の席に揃った魔神達にしても、大なり小なり、似たような反応を見せていた。
 この席での主役は、ユリアスではなく、可憐な花嫁であるティナだった。
 真白の婚礼衣装に身を包む大地の魔神は、本当に美しかった。
 意を決したようにぴんと張り詰めた表情が痛々しく、自虐的で、見ていて切なくなる。
 黒髪を結い上げてあるせいで、うなじが露になっていた。
 そこに、三百過ぎの若い女ながらの、匂い立つような艶やかさがあった。
 彼女は、ユリアスと一度たりとも視線を合わせぬままに、席についた。
 彼のすぐ横の、花嫁のための場所だ。
 そこで、背筋をぴんと延ばして座り、まっすぐに前を見据えている。
 そんな彼女を、そっと伺うように盗見みし、ユリアスはくっと口元を歪めた。
 綺麗な女だ。
 年上だから、彼女がより大人びているのは覚悟していた。
 何しろユリアスはまだ、二百五十をようやく過ぎたばかりなのだから。
 まだ、成人にもほど遠い。
 長老連中からみれば、まるで子供でしかない立場だ。
 そんな自分が、三百才の女と比べて、見劣りするのは仕方ないと、元から諦めていた。
 成人したての、若々しい乙女にくらべて、子供でしかない男は、常に価値が低いものだ。 女は、成人すればさえ、嫁に行き、子供を生めるが、男は身を立てるまでは、やっかいものだ。
 子供など、所詮は役立たずというのが、万人の思いだろう。
 いくら強大な魔力を示そうとも、圧倒的力で支配しようとも、結局、長老達はユリアスをいまだ子供としてしか見ていない。
 長老の誰かを見据えるわけでもなく、同胞に視線を向けるわけでもなく、ティナはまっすぐに、なにもない宙を見つめていた。
 その横顔は、青ざめてもいなければ、高揚もしていない。まったくの無感動だった。
 そんな彼女を伺いながら、ユリアスはくっと、小さく笑う。
 この女が、どういうことを思い定めてきたのか、ユリアスは理解した。
 いや、元々知っていたという方が近いかもしれない。
 ただ、今のこの顔を見て、ようやく、安心できただけだ。
 そして、彼女をせせら笑った。
 ティナはどうやら、人身御供をする気らしい。我が身を投げ出し、同胞を守ろうとしているのだ。
 悲壮で、愚かな覚悟だった。
 誰も確約していない未来にすがって、悲劇の主人公を演じようとしている。
 ユリアスから見えれば、酷く滑稽で、夢見がちな女だった。そんな形にもなっていない約束を、誰が守るというのか。
第一、同胞を守ろうとする覚悟自体が、馬鹿げていた。
 そんな、『仲間』など、すでに存在しないと、彼女は何故判らないのか。
 大陸側の魔神が、すでにティナを見限っていることを、彼女は知らないらしい。
 元々穏健派だった者達は、すでに村に溶け込む、それなりの生活を送っている。
 今さら、彼女に守られなくとも、生きられる分の立場を得ているのだ。
 それだけのものを、ユリアスが与え、確約した。
 いまだ、マゼリナを慕っている者達はといえば、こちらも、彼女を用無しとみなしているようだ。
 敵の長の妻となった女など、いらないらしい。彼等の関心はすでに、マゼリナの姪である、ラージャの方に移っている。
 馬鹿で可哀そうな女だった。
 だが、それ以上に潔く、気高く、美しい。
 現実を見られないのは仕方ないだろう。
 彼女もまた、いまだ子供なのだから。
 三百で成人するなどというのは嘘だ。
 最低でも、もう百年はいる。
 精神的に成長の遅い魔神にとっては、大人になるにはそれだけの年月が必要だった。
 そして、その必要な月日を、ティナはいまだ、過ごしきっていないのだ。
 ティナは、魔神を余計な差別なく纏め、強固な集団とするためには、欠かせない女だった。
 その彼女が、同胞を守ろうと必死なことに、ユリアスは満足した。
 彼女さえその気があるのならば、元々島にいた魔神達からの敵意の盾にすることができる。
 その隙に、彼女の望むとおり、大陸から戻ってきた魔神達を守ればいいのだ。
 そうして、足掻いていれば、いずれ、時間が経つだろう。
 子供が生まれ、孫が生ずるころには、どうにか、憎しみも消せるかもしれない。
 二つの派閥の亀裂もいずれは、薄れるはずだ。
 凛として前を見据えている大地の魔神を横目で見つめながら、ユリアスは小さく笑った。

 初夜のためと用意された部屋は、灯りの芯が短く切ってあるのか、いやに暗い場所だった。
 部屋の中央にぽつんと、二つ分の床が敷いてある。
 その一つ一つが、普通のものより大きいことに、ティナは思わず息を詰めてしまった。
 どういう考えから、部屋がこんなにも暗く、また、白い布を張られた床が大きめなのか、判ってしまったからだ。
 前で合わせる形の衣装の襟を、ぐっと寄せながら、足早に部屋を横切り、用意された床の真横に正座をする。
 ぐっと手を握り締め、それを膝に置いた状態でうつむくと、濡れた黒髪が一房、前へと落ちてきた。
 湯を使ったばかりの体はいまだ暖かく、汗ばむほどだ。
 だが、秋の気配も濃い夜の空気は冷たく、足先など、すでに冷たくなってきているほどだ。
 濡れて冷たくなった黒髪を乱暴に払い、また、うつむく。
 そうやって、処罰の時を待つかのように畏まりながら、一心に耳をそば立てた。
 今日は、侍女達もこの部屋から離されているのか。
 ここに入った時から感じる、戸口近くにある気配以外には、これと言った存在はない。
 廊下の向こうで、控えるように息を潜めているのは、ティナを湯殿から、ここまで送り届けてきた、年配の侍女だろう。
 面立ちこそ、魔神と言うゆえに若々しい女だったが、立ち居振る舞いまでは、若者ぶることはできない。
 落ち着いた表情や、さりげない気の使い方は、さすがに、島側の城たる、この御館に長年仕えてきたと言う女だ。
 ティナがいくら、気をとげとげしくして欠点を探そうとしても、これと言った落度を見つけることはできなかった。
 その、穏やかな気質の侍女が、不意に動いた。どうしたのかなと思っていると、廊下の方から二人ほどの、足音が聞こえてきた。
 一つは、良く知る音だ。
 体重が思いと言うのに、それを隠そうともせず、どすどすと歩くのは、弟の癖だった。
 この御館に来てからずっと、室内に閉じ篭りきりだったティナを気づかって、よく会いにきてくれた可愛い弟だ。
 あらかじめ来訪を知らせるように、わざと物音を立てて歩く癖がついてしまったのだろう。
 もう、必要もないだろうに、また、騒々しくやってきた。
 あるいは、今もまた、気を使って、わざと煩く歩いているのかもしれない。
 時が来たと、最後の決心を促しているのか。
 それてにしては、微かに聞こえてくるウォウサの声は、ずいぶんと楽しげだった。
 その横にいるのは、義兄となるユリアスだろうに。
 まるで、慣れ親しんでいるかのように、明るい口調で話していた。
 控えていた侍女が、何かを言う。
 そして、かたんと小さく音を立てて、戸が開いた。
 ウォウサが手にしていたらしい燭台の明りが、さっと、部屋に入り込んでくる。
 そう強い輝きではないと言うのに、長い間、暗い部屋で待っていたティナには、それがずいぶんと眩しく見えた。
 目を細めていると、ふっと、戸口からの光が陰った。
 ユリアスが、入って来たのだ。
 弟が何かを言って、去っていく。
 侍女もまた、軽く頭を下げ、扉を引いて、いなくなってしまった。
 閉じられた戸のすぐ側に、ユリアスが立っていた。
 再び暗くなった部屋の中で、彼の姿だけは、目だって見えた。
 光の魔神ゆえなのだろうか。
 うすぼんやりとした輝きが、彼を包んでいるのだ。
 そのおかげで、ティナは薄い装束を身にまとった魔神の長を、はっきりと見て取ることができた。
 彼も、湯を使ったばかりなのだろう。
 髪が濡れている。
 服装と髪形が少し違うためだろうか。
 婚礼の席で見た時とは、印象が違っていた。
 広間で悠然と構え、馬鹿にするように薄笑いを浮かべていた青年と、これが本当に同一人物なのかと思えるほどに、幼い顔立ちをしていた。
 それでも、鋭い目つきと、マゼリナを彷彿とさせる青い瞳だけは変わっていない。
 むしろ、こうやって見ていると、あの水の王の少年ころに邂逅したのかと、思わず考えてしまうほどだ。
 体つきは、ユリアスの方が彼より逞しいだろう。
 顔立ちもよく似ているが、よくよく見てみると、この少年の方がまだ、優しげにも見える。マゼリナはそれこそ、覇者と言うのがふさわしいほどに、冷酷な男だった。彼の柔らかな表情を見た者など、皆無だろう。
 若くして魔神の長となった『少年』は、どこか緊張した面持ちでティナを見返し、小さく冷笑を浮かべた。
 彼は、見下すようにティナへと視線を向け、一歩、前へと踏み出す。
 そして、すぐ側まで近寄ってくると、威圧するかのように、見下ろしてきた。
 そして、薄く笑う。
「……美しい人だな、貴方は」
「余計な褒め言葉などいりませんよ」
 ついっと、ユリアスから視線をそらし、そう答える。
 一瞬、これはこの若い長を殺す、絶好の機会なのではないかと思った。大陸側の魔神が、一挙に劣勢に立たせられたのは、一重に、この少年の域から抜け切れない魔神の存在があったからだ。
 彼は、強大な魔神としての力を振るい、幾多の上位魔神を葬り、あるいは、捕えてきた。
 この少年さえいなければ大陸側も、もう何十年は保ったかもしれない。 
 あるいは、逆に勝利していたかもしれないのだ。
 だが、その考えも一瞬で消えてしまった。
 ティナの心を読んだかのように、冷淡な少年が、ふと、すごんだからだ。
 少年は、ティナと目を合わせるように床に膝をつくと、そのまま、彼女の緑の瞳をじっと見据えてきた。
 そして、脅すように、冷たい笑みを浮かべる。
 ユリアスは、不意にティナの首筋に手を延ばしてくると、呼吸を遮らない程度にぐっと、力を込めてきた。
 そうやって、彼女を喉元を締め付けながら、さも楽しげに笑う。
 水の王と同じ色の瞳が、残酷に細められる。
 その奥に、狂気に似た光があった。
 ネジ曲がった、冷たい輝きだ。
 少し触れるだけで、爆発しそうな、そんな危険を秘めている。
「殺せるものならば、殺してみるがいい。だが、最低でも、殺気を消せる程度にした方がいいな。考えた拍子に、顔が強ばる程度では、誰も殺せまい」
 小馬鹿にするように、光の魔神はせせら笑ってくる。
 首を締め付けていた手が、ふっと緩んだ。
 そのことに、ほっと安堵する間もなく、ティナは体を強ばらせる。
 ユリアスの、存外広い手が、首筋をふっと軽く撫でていった。
 まるで品定めでもするような目つきでティナを眺めながら、光の魔神はゆっくりと手を動かしていった。
 冷や汗がにじむ肩を、子供にしては武骨な指先が触れていく。
 それとともに、羽織っていた白い装束が、はだけていく。
 光の魔神は、片手で軽くティナの肌に触れながら、指先で腕を伝っていった。
 肩から二の腕へ。
 そこから肘へと移動し、いったん、手を離す。そこで、ティナが止めていた息をふっと吐き出すと、それを見計らったように、露になった右胸に触れてきた。
 彼の左手が、もう片方の肩を掴み、そちら側の衣装をも脱がそうとする。
「いや!」
 ユリアスの冷たい手が気色悪く、悲鳴を上げながら、彼の手を振り払った。
 光の魔神がどんな顔をしているのか、どんな反応を見せたのかも確かめられないままに、這うように床の方へと移動し、そこにあった枕を掴むと、ユリアスを振り返らないままに、彼へと向かって乱暴に投げつける。
 ぴんと床に張られた白い布が足を取り、ばたりとつっぷしてしまった。
 それでも、水をかぐように手をばたつかせ、慌てて起き上がり、向こうに見える壁へと向かって、よろける足取りで走っていく。
 木の壁に手をつくと同時に、ティナはそのまま、ぺたりと床に座り込んで泣いた。
 暴れたせいで、さらに乱れた衣装の襟を、慌てて寄せ合わせながら、小さな嗚咽を漏らして、涙をこぼす。
 うつむくと、生乾きの黒髪が、ばさりと顔にかかってきた。
 その上にさらに、人影がかかる。 
 泣きじゃくりながら、上を向くと、ユリアスが感情のない目つきで、冷たく見下ろしてくるのと、視線がかち合ってしまった。
 思わず悲鳴を上げ、体をちぢこませると、光の魔神はさも可笑しそうに笑った。
「馬鹿だな……」
 ユリアスは、冷淡にそう言い放つと、すっと、床に膝を付いた。
 片膝を立て、何時でも立ち上がれる態勢でティナに視線の高さを合わせ、くっと口元を歪ませる。
「別段、そう怯えなくても、嫌なら嫌で、貴方に触れる気はない」
 まるで、戦における策略を話かのような口調で、彼はそう言う。
 その言葉に、ティナが嗚咽を漏らしながら、どういうことかと顔を上げると、彼は目を細め、まるで、『物』を見るかのように、彼女を眺めた。
「嫌がる女をどうこうする趣味はないと、言っているだけだ。幸いにして、私には、身を投げ出してくれる女が沢山いるから。貴方一人を飾り物にしても困ることもないんだよ」
 少年は、ずいぶんと大人びた口調でそう言いながら、そっとティナへと手を延ばしてきた。
 ティナはそれに、まるで刃物でも向けられたように、びくりと震え、体を丸めながら、壁へと身を押し付けた。
 そうやって、極力、ユリアスから逃げようと、無駄な足掻きを見せながら、また、ぼろぼろと涙をこぼす。
 それに、光の魔神が小さく吐息をした。
 ユリアスの手が、そっと、頬に触れてきた。
 涙で張り付いていたティナの黒髪を払い、それを耳にかける。
 子供にしては広い手が、そっと、頭を撫でてきた。
 それに驚いて顔を上げると、困ったように笑っているユリアスと、また、目があってしまった。
「そう、怯えないで欲しいな」
 貴方を殺すつもりはないんだから。
 そう囁きながら、ユリアスが立ち上がった。
 光の魔神は、再度、ティナへと視線を向けると、馬鹿々々しいとつぶやきながら、彼女から離れていった。
 部屋を横切るように、真直ぐに進み、乱れた床を踏みにじっていく。
 そして、なんの未練も示さぬままに部屋の出入り口までいくと、乱暴な手つきで戸を引き、廊下に出ると同時に、ばしんと激しい音を立てて閉めていった。
 後に残されたティナは、半ば呆然とする思いで、彼を見送った。
 ぼうっとした表情のまま、乱れた髪に手をやり、無意識の内に整える。
 裾の割れた衣装の足元を直し、壁際に座り直したところで、また、どっと涙がこぼれてきた。
 口元に手をやろうと、のろのろと腕を動かしたところで、悲鳴のような嗚咽が漏れた。
 それを、堪えようと口を閉じたが、それを押し割るように、苦しげな呻き声が漏れてしまった。
 必死に、涙を堪えるが、こぼれ落ちてくるそれを、止める術がない。
 そうやって、泣きながら、ティナは木の床につっぷし、そこへと爪を立てた。
 銀の腕輪がかたりと音を立てて、床に触れた。



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