小説~神のいない大地~No.3

―――――残酷な庭・第二話―――――




思いは空回りするばかりで、辛い気持ちばかりが募った




 賛否両論の婚儀が終わり、お祭り騒ぎが済んでみると、後に残ったのはしんとした静けさだった。
 戦が終わって以来の始めての慶事と言うことで、村人達も皆、それぞれ複雑な心境ながらも、久々の祭を楽しんだようだ。
若い者ほど、その傾向が強い。
 戦を経験しても、実際の闘いの場に出ていない者など、回りの渋い表情にも気付かず、はしゃいでいた。
 特に子供などは無邪気なもので、親がぴりぴりと苛立っているのを感じながらも、大判振る舞いとも言うべきご馳走に、大喜びしていた。
 その祭騒ぎも、三日で終わった。
 ユリアスは、そんな騒ぎは一日でもいいかなと思ったのだが、長老連中に反対されたのだ。
 陰惨な記憶を払うには、それを上回る慶事が必要だと言うのが、彼等の言い分だった。
 それには、ユリアスも反対はしない。
 ただ、三日も騒げるだけの蓄えがあるかどうかが、気掛かりだったのだ。
 それも、綿密な計算の結果、どうになると言うことで、許すことにした。願わくは、来年の春が早く来ることを祈る。
 最も、今度の停戦で、上位魔神の数も倍近くになったので、何かあっても切り抜けられるだろうが。
 そんなことを考えながら庭に出ると、それを待っていたかのように、ふわりと一羽、鷹に似た大型の鳥が、ユリアスの肩へと舞い降りてきた。
 御館周辺の森のうち、その東部分を縄張りとしている大鳥だ。
 人に慣れることはないくせに、彼だけは大丈夫なのだと言わんばかりに、悠然と、ユリアスに近寄ってくる。
 それこそ、行き会えばさえ、止り木を見つけたように、舞い降りてくる愛想の良さだ。
 それに呆れて笑うと、何かとばかりに、丸い目をきょときょとさせながら、大きく羽を広げる。
 冬が来たと、鳥が愚痴をこぼす。
 言葉で語りかけてきた訳ではない。
 何となく、そう言われたような気がするのだ。
 昔から、こんな感じだった。
 この鷹だけではない。
 小さな鳥の声も聞くことができた。
 森に隠れ住む動物達の声も聞こえる。
 子供のころ、山に踏み込んだ時、熊と行き会ってぎょっとしたことがあるが、その時も小僧呼ばわりされ、無視されてしまった。
 秋近くで、食料が豊富なせいで助かったのだろう。
 だが、それでも、あの野性の大型動物は、妙に馴れ馴れしかったのだ。
 そのことに驚き、こけつまずきながら御館に戻り、そのことを母や、父親代わりだったマリスに話すと、彼等は一様に目を丸くし、それから、彼等は悲しげに笑った。
 どうやら、こうやって、声もない者達が投げかけてくる意思を聞き取るのは、血によるものらしい。
 父親が、こうだったそうだ。
 昔から、嫌に冷淡な奴だったが、動物ばっかりに優しかったんだと、マリスがこぼしたのを聞いたことがある。
 ようするに、そういう人だったのだろう。
 そんな奇特な男を、母は選んだ訳だ。
 常に彼女を見守っていたマリスではなく、不器用で、言葉のない存在にばかり気をかけていた男を、母は愛したのだ。
 鷹がはばたき、空へと消えた。
 それに、やれやれと思いながら、強ばった肩に手を延ばすと、今度は、森からざわざわと、小鳥が飛びかかってきた。
 それこそ、どこにそんなに隠れていたんだとばかりの、集団でだ。
 羽音と、こぼれ落ちる羽毛にまみれ、ユリアスがぎょっとしている間に、鳥達はまるで争うに、彼の体のどこかに止まろうと暴れた。
 端から見れば、魔神の長が、気の狂った鳥に襲われているようにも見えるだろう。
 実際、好かれて近寄ってこられる側は、そんな心境だ。
 一面鳥だらけで、息もできない状態で、呆然とするしかない。
 髪に柔らかい羽毛がたくさん絡み付き、服がぐしゃぐしゃにされる。
 鳥の足も、これでずいぶんと鋭いもので、下手に素肌に止まられると、ざっくりとはいかないものの、薄皮一枚が切り裂かれる程度の痛みを感じる。
 向かってくる大群の内でも、特に大きな鳥が、頭に座り込んだせいで、ずしりと首が重くなった。
 げんなりしながら、縁側へと戻るが、鳥は逃げようともしない。
 よれよれとした、頼りない足取りで縁側に越しを下ろすと、その縁に、びっしりと鳥が席を占める。
 足元にも、仲間に追い払われた力のない鳥が、ぱたぱたと小さくはばたきながら、足をつけた。
 頭に座り込んだ大鳥は、相変わらずだ。
 そのふてぶてしさが憎らしく、手を延ばして抱えると、鳥は抗いもせずに、おとなしく従った。
 膝の上に乗せると、黒い大きな瞳で、じっとユリアスを見上げてくる。
 鳥に囲まれながらぼうっとしていると、不意に、縁側に続く廊下の向こうから、人の気配がした。
 誰かなと見てみると、ウォウサが苦笑しながら立っている。
 その闖入者を見て、鳥がぱっと飛び立った。
 ユリアスの側にいた鳥は、動こうとはしないが、さすがに、縁側の縁に止まっていたものや、庭を徘徊していた鳥は、ウォウサを警戒して、ぱっと距離をとる。
 そのすばしこい動きにくっくと肩を揺らしながら、大地の魔神は冷やかすように、目を細めた。
「人気者ですね、『兄上』」
 いつもと違う声音で、『兄』と呼ぶ。その、大地の魔神の無邪気さに、ユリアスもまた、小さく笑った。
「なんだ、それは」
「別に。ただ、これで大手を振って、兄上と呼べるかと思うと、嬉しくて」
 いかにも嘘をついていますと言う顔で、彼はいけしゃあしゃあと言ってのける。
 元々、気兼ねもしていなかったくせにと笑うと、彼は当然だとばかりに頷いた。
 そんな態度が小憎らしく、鳥に襲わせるぞと脅すと、ウォウサはあからさまにぎょっとした。
 あるいは、先ほどのユリアスの無様な姿を見て、陰で笑っていたのかもしれない。
 警戒するように、鳥の群れを見据えながら、冗談でしょうと聞いてくる。
「まさか、兄上、そんな、動物をけしかける真似なんか、しませんよね?」
「どうだろうな。やったことはないから。だが、やってくれそうではあるな」
 なんともひ弱で可愛らしい援軍だと、魔神の長は笑う。
 すっと手を差し出すと、その指先に小鳥が止まった。
 冬前で、忙しいだろうに、寄ってくる彼等が愛しくて、ついつい、顔がほころんでしまう。
 魔神の長が、行け、と示唆すると、鳥達はざっと音を立てて、森へと戻っていった。
 その様を、圧巻だとつぶやきながら、大地の魔神は困ったように笑う。
 その義弟の頭を乱暴にこづきながら、ユリアスも顔をほころばせた。
 行くぞと、ウォウサを促し、廊下へと上がり、御館の東翼に向かって歩く。
 その後を、重い足音を立てて、大地の魔神が続いた。


 魔神の家では、男女平等な権利があり、夫婦はそれぞれの役目こそ違えど、傑出した立場の違いがある訳ではない。
 上位と呼ばれる、一部の魔力の高い者と、中位程度の魔神が結ばれると、さすがに、力の違いからか、立場も微妙に差別化されたものとなる。
 だが、これも逆に、近接した力の者同士の婚姻となると、同等の立場が主張されるのが普通だった。
 妻の方が魔力が高いゆえに、彼女の方が外での責務を果たし、夫が家を守ると言うことも、そう珍しいことではない。
 そういう長年の風習に感化されたためか、長の住む御館でも、男女の立場はそう、格別されたものではなかった。
 その延長戦上として、ティナは、魔神の若い支配者と、食膳を並べている。
 ユリアスに対する給仕を理由として、彼と共に箸をとることを拒めると思っていたのだが、そうもいかなかった。
 長の給仕はもっぱら、侍女達の仕事であり、彼女達はその責務を、ティナに譲ろうとはしなかった。
 やんわりと断わりながらも、婉曲に、余計なことはするなと凄んでくる。
 長であるユリアスが、初夜の日、新妻に触れることなく床を別にしたことは、すでに御館内に広まっているらしい。
 耳聡く、経験深い侍女達も多くいる場所だ。
 例え、彼が荒々しく出ていった場面を目撃していなくとも、床の様子や、若夫婦のそっけない態度を見れば、何があったかは察せられるのかもしれない。
 そんな年を経た侍女の中には、一人、二人と口の軽い者もいただろう。
 今では、ティナがただの、形だけの妻と言うのは、御館内では既に公然の秘密だ。
 幸いなのは、それが、村にまで広まっていないことだろう。
 今日、ユリアスから許しを貰って村に出たところ、古くからの知人だった魔神に会い、さり気なく、冷やかされてしまった。
 ティナとしては、苦笑いするしかなかった、嫌な一時だった。
 ふと顔を上げて、目の前に座っているユリアスを見ると、彼は我関せずと言うように、黙々と箸を動かしている。
 側に控えている侍女に話しかけるわけでもなく、食べては飲み込み、食べては飲み込みを繰り返している。
 よくも食べられるものだと見てみれば、器のほとんどが空に近かった。
 ティナの方は、食べるのが遅いので、まだ半分も、片付けられていない。
 そのうち、ユリアスが箸を置いた。
 食べ終わったのだろう。
 これで、彼が出ていけば、一人で気楽に昼食を片付けられると、せいせいした。
 だが、彼は少しも動く気配がない。
 侍女が膳を片付けようとすると、それをやんわりととどめる。
 お茶を出そうかと、彼女が申し出るが、それも断わっていた。
 何のつもりかと思い、彼を見るが、視線が合わない。
 まるで、お前の顔など見たくないとばかりに、そっぽを向いている。
 それに腹が立って、こちらもそっぽを向いて食事を続けていると、不意に、彼女がぼそりとつぶやいた。
 何を言ったのかと耳をそばだてると、鈍い女と、罵る声が聞こえた。
「貴方にそんなことを言われる覚えはないわ!」
 思わずかっとなって、膳に箸を叩き付けた。
 ティナの給仕をするために控えていた侍女が、お止め下さいと、制止する声が聞こえる。
 止めようと、手を差し出してくる彼女の腕を払いながら、噛みつくようにユリアスを睨みつけた。
 そんな彼女に、魔神の若い長は、さも馬鹿にするように、薄い笑みを浮かべる。
「鈍いものは、鈍いだろう。本当のことを言って、何が悪い?」
「私の、食事の取り方について、そう言ってらっしゃるの!?」
「……なるほど。他にも鈍いところがおありか?」
 くつくつと、肩を揺らして、光の魔神は笑う。
 その態度が苛立たしくて、ティナは膳を前へと押しやり、席から立ち上がった。
 また、侍女が彼女をとどめようとする。
 そんな若い娘の健気ささえもが腹立たしく、乱暴に彼女の手を払った。
 そうやって、怒りも露に部屋を出ようとするティナの背に、長の呆れた声がかかってきた。
「大陸の魔神は、裕福だったんだね?」
「何を……!」
「だって、残してるし。後で腹が減っても、誰も何もくれないよ。それが、ここでは普通だから。今のところはね」
 ティナの押し出した膳を、彼女の席の方へと戻しながら、長は冷たい目で見据えてくる。
 そこに、咎めるような色合いが宿っているのを見つけ、ティナは思わず、体をびくりと震わせてしまった。
 胸元でぎゅっと手を握り締めながら、悠然と座っているユリアスを睨む。
 彼は、そんな凄みなど気にならないとばかりに薄く冷笑しながら、ティナを嘲った。
「言っておくが、ここでは食っていくのがぎりぎりだ。宴は一つだけ行えたけどね。たぶん、あれが最後になる。余剰はない。次ぎの秋までもつので精一杯だろう。何しろ、大地と水の魔神が少なかったからな。土地も痩せて、収穫が少ないんだよ」
 とりあえず、席に戻って食事を続けろと、ユリアスはまるで命令するような口調で言いつけてきた。
 それに、かっかとなりながら、顔を赤くして下唇を噛むと、彼はもう一度、先ほどよりは幾らか和らいだ声で、戻った方がいいとつぶやいた。
「これだけの量じゃ、夜までもたないだろう。食べた方がいい。機嫌を害したのなら、謝るから」
 長はそれだけ言うと、そっとため息をついた。
 自分の膳を、侍女に渡しながら、席を立つ。
「私がいて、食べる気がしないと言うのなら、出ていこう。ともかく、食べるんだ」
 ユリアスは、侍女に、部屋の方に茶を持ってくるように言いつけ、席を離れた。
 戸口の側で立ち尽くしているティナの側をあっさりとすり抜け、何もなかったような顔で、廊下に出ようとする。
 そこで、ふと彼は足を止めた。
 思い出したとでも言いたげに、ティナを振り返り、また、小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「今日から、貴方にも働いてもらうから。連続で麦を収穫した後で、畑の土が弱っているから。貴方の魔力を注いでもらう」
「……異存はありませんが」
 この島にある村で暮らすと決めた以上、一族に貢献するためならば、何でもすると、言外に伝える。
 自分の持つ属性と同じものへ、魔力を注ぐのは、魔神としての特筆すべき能力だった。
 ティナの持つ力を使えば、疲弊した大地も、豊かなものへと回復させることができるだろう。
 その能力を、存分に使い、役に立てと言うことか。
 まさか、ユリアスが憎いからと、一族に仇なすように、大地を癒すことを拒否することはできない。
 それでも、どこか釈然としないままに、そっけなく頷く。
 ユリアスはそれに、満足気に頷いた。
 鷹揚で、信用するに足ると言われた、支配者らしい表情で笑いながら、ふっと顔をそらす。
 そのまま、彼は後腐れも悪びれも見せずに、ティナの元から去っていった。
 彼の後を、長付きの侍女が、ぱたぱたと追っていく。
 確か、ティナさえいなければ、彼の妻になれたかもしれない女だったか。
 上位で、親も権威ある魔神だったと思う。
 振り返ると、長の奥方付きとされている侍女が、不安気に見つめてくるのと目があった。
「ごめんなさいね。食事、すぐに終わらせてしまいますから」
「いえ……。あの、奥様?」
 今だティナが聞き慣れない呼称で呼びかけながら、侍女は、さも申し訳なさそうな顔になった。
「あの、あまり、ユリアス様のおっしゃること、気になさらない方がよろしいですよ?」
「そう?」
 侍女の言葉よりは、彼女の態度を不思議に思いながら、ティナは小さく首を傾げた。
 敵方の御館に置かれることになったのだから、回りはそれこそ、敵意を持つ者ばかりかと思っていたのだが、この、いまだ若い、ティナよりも少しだけ年下に見える娘は、違うらしい。
 少々経験が浅く、失敗することもあったが、気立ての優しさでは、御館一だった。
 何よりも、敗者と言うことで、ティナを軽んじない。
 むしろ、長の正室に対する尊敬をまっすぐに向けながら、見上げてくれている。
「ユリアス様は、少し、お食べになるのが早すぎるんですよ。あの方、いつも、かきこんでらっしゃるから。今日はまだ、遅い方でしたけど」
「いつも、かきこんでるの?」
 下品ねとは言わない。
 さすがに、そこまで長を罵倒すれば、この娘でも不快になるだろうと思ったからだ。
 そんなティナの思いに気付かないのか、侍女は膳を整え直しながら、困ったように笑った。
 ティナが席に座ると、その横にちょこんと控え、小さく身をちぢこませる。
「ユリアス様は、その、停戦するまで、ずっと、前線に出てらっしゃったでしょう。でも、なるべく、御館にいるようにもなさっていたから。あまり、食事に時間を割いたりとか、できなかったんですよ」
「そう……」
 別にそんなことは自分には関係ないと、ティナは聞き流す。
 侍女の方は、やはりそれに気付かずに、とうとうと、独り言のような言葉をつぶやき続けた。
「ここ数年、村も魔族に狙われることが多くて。ユリアス様は、それもどうにかしなくちゃいけなかったみたいで。いっつも、お忙しそうでしたよ。奥方様の方も……」
「私?」
 ふと、名前を呼ばれて侍女を見ると、少女はさも不安気な表情をした。
 顔がやや青ざめて見える。
 どうしたのかと、不思議に思いながら小首を傾げると、侍女はそれに勢いを得たように、ぐっと身を乗り出してきた。
「奥方様のいらっしゃった大陸の方の村でも、魔族とか、いっぱい来ました?」
「……それほどではなかったけれど。どうして?」
「そうですか……。こっちは、たくさん来ていて。下位の方とか、いっぱい殺されたこともあったんです。上位が出払っていた時で。ユリアス様しか残ってなくって。確か、あれがユリアス様の初陣ですよ。村を守った戦いです」
 私もその時に怪我をしたんですと、少女が袖をまくる。
 真っ白な肌が、ぼんやりと光って見えた。
 傷跡のようなものはない。
 どうして、普通の腕を見せるのかなと、ティナが首を傾げたところで、侍女である娘は小さくはにかんだ。
「ここを切られたんですけどね。ユリアス様に癒して頂いたんです。傷って、ほっとくと残りますからね。一度残っちゃうと、もう、消えませんから」
 傷が残ると、やはり、後で色々と困ることがあるからと、娘は苦笑いする。
 彼女の負った傷は、二の腕から肩にかけての、かなり深いものだったらしい。
 赤く血が吹き出るその形は、まるで蛇のようだったと、娘は小さく眉を潜めながら言う。
 その様が痛々しくて、ティナが思わず眉を潜めると、少女はそれを不快と取ったのか、慌てて、まくり上げた袖を直した。
 申し訳ありません、ごめんなさいと必死に謝りながら、ぺこぺこと頭を下げる。
 その拍子に、彼女が風の魔神であると言う印である、薄く緑がかった黒髪が、小さく揺れた。
 肩口で切りそろえられたそれは、細く、真直ぐに伸びていて、見ているだけでも、さらさらと言う音が聞こえてくる気がする。
 その髪に触れるように、頭を撫でると、侍女はびっくりしたように顔を上げた。
 そんな彼女に笑いかけながら、ティナはごめんなさいねと、小さくつぶやく。
「貴方も大変だったのね。ごめんなさい、困らせてしまって」
「あ、いえ、いいんです。ティナ様も、大変だったでしょうし。私は大丈夫ですよ。これでも上位ですから。けっこう打たれ強いんですよ」
 えへんと威張りながら、少女は可愛らしく自慢してみせる。
 そんな彼女が愛しく感じられ、思わず微笑んでしまったティナだったが、その後の話の流れで、この侍女が、実は自分よりも五十も年上だと聞いた時は、かなりびっくりした。


 ティナの侍女である風の魔神が言った通り、この島は魔族の襲来がかなり頻繁らしい。
 長の妻と言う立場になるまで、御館に篭っていたせいか、それとは知らなかったのだが、二、三か月に一度は、魔族が村にちょっかいを出してくるらしい。
 それを警戒してか、ユリアスは、自らの力で、村の周辺に大きな結界を張っている。
 御館を中心に広がっている森をを使った、自然とあいまった、魔法の壁だ。
 ぐるりと村を囲んだそれは、森にある幾つもの大木を基盤として建てられている。
 そこに、魔族が不用意に踏み込むと、弾くから、あるいは、取り込んで動けなくすると言う仕組らしかった。
 もっとも、これにも弊害があって、大型で込み入った魔法陣を使っている分、対象判別が粗雑になっている。
 魔族だけではなく、同族である魔神まで、排除対象となっているのだ。
 しかも、始末の悪いことに、その結界は、目に見えず、魔力としても関知しにくいものとなっている。
 上位魔神ならばまだしも、辺りの気配や森の具合から、それとなく察せられるものだったが、これが、下位の魔神や子供となると、まるで、気付くことができないらしい。
 結界は、頻繁な魔族の襲来の大半を未然に防ぐ重要な壁ではあったが、同時に、弱者を脅かす、迷宮となっているようだった。
 ユリアスも馬鹿ではないから、下位の者達に、結界のある森には踏み込まないようにと呼びかけているらしい。
 彼等も、外に出れば、魔族の脅威があると判っているから、早々、森へと入り込んだりはしない。
 別段、そこで食料を得なくとも、結界の内側にある森だけでも、十分、必要なものを取ることはできる。
 問題はむしろ、聞き分けのない子供達だった。
 何が楽しいのか、幼い子等は、いまだ魔神としての力も開花していないと言うのに、危険なことに首をつっこみたがる。
 その日、森に入り込んで帰らなくなったのも、そんなやんちゃな子供達だった。


 魔神の長の妻と言っても、ただ、悠然と微笑んでいればいいだけのものではない。
 ユリアスが長として、休む暇もなく立ち回っているのと同様に、なすべき責務が山積みしている。
 いまだ統率が取れないものの、御館の内の侍女を纏めなくてはならに。
 本来、彼女等を支配するのは、婦人の役目なのだ。
 軽んじられている手前、あまり、強く出られないティナだったが、それでも、形ばかりでもやらねばならないことがある。
 その他にも、村からの訴状を、長の代わりに聞く役目もある。
 村が、平穏であるかを定期的に見るのも、また、婦人のなすべきことだった。
 実務的なことは、ユリアスがほとんどこなしているとは言え、彼の手からこぼれた事項は多く、その全てが、ティナに降りかかってくるのだ。
 中位の魔神の母親数人が、嘆願して来た時も、ユリアスは丁度、御館に不在だった。
 何をしているかは知らない。
 婚姻した当初は、どこへいく、何をすると言ってきた彼も、ティナが頷きもせず、そっぽを向き続けたのに呆れたのだろう。
 今ではもう、報告することもなく、ふらりと消えてしまうことが多い。
 婦人であるティナよりも、側近でもない魔神の方が、長の行動に詳しいと言う有様だ。
 母親達がやってきた今日だけ、ユリアスの行く先を把握していることなど、ありえない。
 長の代理として、母親達に会うため、御館の広間の一つへと行くと、廊下を進む内から、女達と、長老の誰かが言い争っているのが聞こえた。
 おそらく、ユリアスが不在だと言うことを聞いて、女達が荒れているのだろう。
 あの方がいなければと、嘆いている声が聞こえる。
 軽く戸を叩き、向こうからの反応が返ってくるよりも早く、室内に入った。
 ぎょっとした顔つきの母親達と、あからさまに助かったと安堵する水の長老と目が合う。
「子供達が、森に入ったまま帰ってこないと聞きましたが。何時ごろ、その子達は森に入ったのですか?」
 水の長老の待つ上座へと移動しながら、母親達へと問いかけると、代表と見える女が、恐れながらと、ずいっと膝を進めてきた。
 何やら、見たことがある顔だなと思って首を傾げた所で、誰なのかが判って、目を丸くしてしまった。
 大陸に居たころ、ティナの側に使えてくれていた若い上位の魔神だった。
 目だって美しい娘というわけではないが、気立てが優しく、おっとりとしたところが、誰にも負けない美点だった。
 ティナが彼女をそれと知ったころには、もう、二人、子供がいたはずだ。
 上が男の子で、下が女の子だったか。
 子供の話をする時には、さも、幸せそうに笑うので、印象深かった娘だ。
 ティナが目を止めると、彼女はほっとしたように表情を緩めながら、お嬢様と、思わずとしか言いようのない口調で、そう呼びかけてきた。
 大陸に居たころの呼び名だ。
 今では、もう、奥方様と言う名前で呼ばれるだけだっただけに、その言葉はふっと、心に染み入ってきた。
 懐かしさがどっと、胸にせり上がってきて、思わず涙ぐんでしまう。
 その目の潤みを隠すように、そと顔を伏せながら、ティナは一言、懐かしいこととつぶやいた。
「貴方のことは覚えていますよ。上と下の子の、どちらが森に行ったのですか?」
「両方です。上の子が、下の子まで連れていってしまったみたいで。うちの子を入れて、八人です」
「……それは、また、大勢で行ったのね」
 冒険気分で、暗い森へと踏み込んでいったのだろうと、思わずため息をついてしまう。
 ティナの侍女をしていた女は、上位の、それも、大地の魔神だ。
 子供も、確か、上の子が同じ属性を持って居たはずだ。
 その魔力ゆえに、森とは相性がいいはずだ。
 大地の魔神は、木々に好かれやすい。
 いくら、光の結界が張ってある場所だとは言え、そうそう、森がその子を拒むとも思えなかった。
 ある程度の無事は確保されていると見ていいだろう。
 母親である女の方も、似たようなことを考えているのか。
 不安だと口にする割りには、表情はあまり青ざめていない。
「判りました。私が向かえに行きます」
 上座に正座しながら、ティナがそう宣言すると、水の長老が異議ありというように、顔をしかめた。
 期待と不安に満ちた表情でこちらを見つめてくる女達を気にしながら、待って下さいと、押し止めようとする。
「ユリアス様は、日がくれるまで、お戻りになりません。あまり、軽々しく動かれない方がよいのではないでしょうか。長が戻るまで、自重すべきです」
「でも、日暮れまで待っていては、子供達が哀れです」
 今はもう昼で、お腹も透かしているはずだと、ティナはさも気の毒そうにつぶやいた。
「第一、暗くなれば、子供達が不安がります。早く向かえにいってあげなければ、可哀そうでしょう」
「それは、それ。これは、これです」
 ティナのすぐ横に席を占めていた水の長老は、同意することはできないとばかりに、軽く首を振った。
 彼はもう一歩分、膝を進めると、女達に聞こえないようにと気を払っているのか、酷く小さな声で囁きかけてきた。
 ティナでさえ、思わず聞きのがしそうになる、そよ風のような小声だ。
 そんな、低い声で、水の魔神はもう一度、止めた方がよいと繰り返した。
「あの森は、ユリアス様の領域です。不用意に踏み込まれない方がいい。魔力で負ける者は、たちまち惑わされてしまう。危険です」
「……私の魔力ならば、大丈夫でしょう」
 あの森の迷宮作用のある結界も、魔力の強い者ならば効かないはずだと、ティナはぴしゃりという。
 それに、水の長老はあからさまに嫌そうな顔になった。
 こういうところが、若いと思う。
 彼も、ティナよりさらに、二百ばかり年長の魔神だったが、長老という役目を果たす上では、まだまだ、経験不足に見えた。
 この水の長老よりは、むしろ、人を見下げるような瞳を持つユリアスの方が、何百年分も、年上に見える。
 ティナは、水の長老から視線をそらすと、もう話こともないだろうと、席から立ち上がった。
 じっと、緊張した面持ちで自分を見つめてくる、子供の母親達に、大丈夫だからと笑いかけながら、部屋を後にしようとする。
 その彼女の背に、もう一言だけとばかりに、水の長老の引きつった声がかかってきた。
「森の結界は、確かに、魔力の高い者にはききません。ですが、それは、外部からの者にも言えるのですよ?」
「……お黙りなさい」
 何故、ここでそんなことを叫び、母親達を余計に不安にさせるのか。
 その、行動自体が信じられず、ティナは侮蔑するような視線を、水の長老へと向けた。
 そして、ついっと顔を背ける。
 いくらか遠回しに言ったとはいえ、その『外部からの者』と言うのが、魔族を指すことに、気付かぬ者がいるのだろうか。
 母親達の顔を見てみれば、皆が、その考えに行き当たったと判る。
 子供のことが心配で、ただでさえ蒼白で痛々しい表情をしていたのだが、今はもう、顔全体が引きつった、酷い顔になっていた。
 泣き出さないだけまだ我慢強いと言うべきか。
 中には、卒倒しそうな者までいる。
 彼女達へと、任せておいてくれと笑いかけながら、ティナはさっと廊下へと出た。
 そこで、いったん足を止め、暗い木目の天井を見上げ、自分を励ますように、ふっと深呼吸する。
 実際、ユリアスが森を基盤として張った結界がどういったものなのかは、見たことがなかった。
 知識としては知っている。
 だが、その中で、どう子供を見つければいいかまでは、見当が付かなかった。
 頼るのは、ただ、自分の持つ魔力と、後は、大地に根差す木々だけだった。
 彼等の言葉に耳を傾け、小さな吐息を聞き逃さなければ、きっと、子供達を見つけられるはずだ。
 室内用の礼装から、外に出られるだけの服装に改めるため、自室へと戻る。
 その途中で、ユリアスが以前、あの森には行かないようにと言っていたのを思い出したが、その注意を無理矢理、頭から追い出した。
 子供達が待っているのだからと、自分に言い聞かせる。
 いくら、あの憎い男が何を言おうとも、関係なかった。
 ただ、待っているだろう子等を早く、村に戻してやらなければと、焦っていた。



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