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1年間ありがとう!2代目タイガース非公式サイトです本日で襲名から1年間無事終了です2023年2月1日に2代目としてブログを引き継いでからちょうど1年が経ちました ということは明日から2年目に突入!ってことです振り返って数えてみたら 今日の分を含めて1年間で通算427本の記事を発表できたのよね 自分でもよく続いたなあと驚いてるもちろん毎日途切れずに書いてるわけじゃないんだけど 1日に複数書いてるときもあったりして 365日をかなり超える数になったみたい 何といってもタイガースが絶好調で18年ぶりのリーグ優勝どころか38年ぶりの日本一まで達成しちゃったことに引っ張られたことが影響大だった!日記を続ける原動力はやっぱりタイガースなのよ!引き継いだ1年目だから気が張り詰めていたし なんだか追われるように書いてきたなって感じてるから疲れたという思いもあるのね 2年目は少しゆとりをもって肩の力を抜くのも考えないと持たないなあタイガースは2月1日からキャンプインで1年が始まるのよね 2代目はちょっと休憩の意味のキャンブインしようかな 沖縄へ直接観にいくことができないから記事やCSなんかで情報は見ていきたいし 気が付いたことがあれば書いていきますよ 背番号史も「18」まで終わりました こちらも頑張って続けていくつもり! そして今年もタイガースが連続優勝・日本一になれるように応援します! みなさん これからもよろしくね💕
2024年01月31日
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背番号18(その8)背番号18の第8回目です 今回が「8」の最終回となります前回3名の投手を紹介したんだけど そのうち藪さんと杉山さんがドラフト1位だったよね今回もドラフト1位の投手が2人登場するよ やっぱり「18」は投手の番号で定着したね そして「エース候補」と言われる人が背負う番号になってるわ(結果はさておきだけど・・・)いまのところタイガースでは この「18」をエースらしいエースが着けたと言えそうなのは最初の若林さんくらいなのよね もっともっとすごい投手が出てきてほしいなっておもうのよね!二神一人 投手高知県幡多郡大月町出身で高校は高知高校。右投げ本格派投手として2005(平成17)年の夏の選手権で甲子園に出場している。高知高校は県予選の決勝で明徳義塾に敗れていたが、不祥事による明徳の出場辞退で繰り上がっての出場だった。甲子園では1回戦で日大三高に敗退。卒業後は法政大学に進学、4年間のリーグ戦通算成績は35試合9勝7敗136奪三振、防御率3.11と特に目立った数字ではない。しかし4年春に5試合4勝0敗防御率1.41で最優秀防御率のタイトルとベストナインに輝くと、大学選手権では4試合で3勝を挙げて優勝しMVP。最終年度で素晴らしい実績を作って一躍大学ナンバーワン右腕との評価が高まった。 2009(平成21)年のドラフト会議でタイガースは菊池雄星(花巻東)の抽選に敗れ、外れ1位で二神を単独指名し獲得している。背番号は杉山直久から「18」を譲られた。 プロ1年目の2010(平成21)年は春季キャンプで一軍メンバーに入ったものの3月のオープン戦で左内部腹斜筋の筋挫傷をおこしてリタイアする。この怪我の回復に時間を要したため、ウェスタンの実戦に出るのは7月になってからだった。ようやく試合で投げる機会が訪れたと安堵したところ、7月10日に右肘内側側副靱帯損傷で再びリタイア。結局ルーキーイヤーはウェスタンで1試合に投げただけで終わってしまった。二度にわたる怪我でのつまずきによる練習不足・実戦不足は、2年目の2011(平成23)年にも影響して一軍登録なし、ウェスタンでもわずか4試合で0勝2敗、防御率5.79という数字しか残していない。2012(平成24)年、腰を痛めた福原忍に代わって6月30日に初めて一軍に昇格、7月6日の巨人戦の2番手でデビューし、2イニングを被安打1の無失点で抑えた。8月16日の横浜17回戦で初先発、5回1/3を被安打5四球2三振2で3失点と無難に投げたが勝敗は付かなかった。最終的に2年目は4試合0勝1敗、12回1/3で自責点6防御率4.38という結果に終わっている。大卒ドラフト1位で4年目となる2013(平成25)年は勝負をかける年とみられ春季キャンプは一軍に入ったが、練習試合で1回5失点と炎上して降格。ファームに行くとサイドスローへの投球フォーム変更を命じられる。その後微修正を続け、スリークォーターへと試行錯誤しているうちに一軍へ上がる機会もないままシーズンが終わってしまう。ウェスタンリーグでの25試合3勝5敗1セーブ、防御率4.38というのが4年目のすべてだった。 背番号「18」を剥奪されて「66」に変更して臨んだ2014(平成26)年は一軍で11試合に投げるも0勝2敗1ホールドで防御率8.79。2015(平成27)年も12試合の登板に終わるが、防御率は2.57とやや光が見えたと思われたが、2016(平成28)年は一軍に呼ばれることもなくシーズンが終わり、10月1日の戦力外通告を受けて現役を退いている。通算成績は27試合0勝3敗1ホールド、40回2/3で37奪三振、自責点24、防御率5.31で、ドラフト1位入団としては非常にさびしい数字だった。 引退後は球団職員として残り広報を担当している。藤川球児 投手 藤川投手は背番号を何度も代えた選手で、アメリカ時代を含めると現役通算で8つの背番号を背負ってるのよね。タイガースでは「30」「92」「22」「18」と4つの背番号を着けてます。 このブログでは若い番号から順次進めているため、アメリカから復帰した年に1年だけ着けた「18」での紹介ということになります。高知県高知市出身で高知商業。高校時代は2年生だった1997(平成19)年の夏に明徳義塾を破って兄順一とともに甲子園に出場し話題になる。この時はまだ外野手兼控え投手だった。旭川大付属との1回戦では4-3の4回裏からリリーフして6イニングを無失点に抑え勝利投手になる。2回戦はエース川口知哉を擁する優勝候補平安高校と対戦、1回に自らの拙いバント処理などで4点を失い、9回完投10奪三振の力投も0-5の完封負けで大泣きしている。 1998年、タイガースは二岡智宏(近畿大)の逆指名を得ようと交渉していたが失敗し、ドラフト会議では藤川を1位指名している。入団時の監督は野村克也で背番号は「30」が与えられた。 ルーキーイヤーの1999(平成11)年、非常に細身だった藤川は身体を鍛えるところから始まっており、ウェスタンリーグでも夏場以降に3試合投げただけだった。 2000(平成12)年、開幕を一軍で迎え開幕戦横浜1回戦で初登板を果たし、リリーフで2回無失点に抑えている。この年は19試合で22回2/3を投げて0勝0敗、防御率4.76に終わっているが、投球回数を上回る25三振を奪っており、「火の玉ストレート」の片りんは見せた。 しかし翌2001(平成13)年は1年間故障が絶えず、一軍に上がることができなかった上に、ウェスタンでも14試合登板にとどまり、4勝3敗で防御率3.58の成績しか残せなかった。 2002(平成14)年、監督が星野仙一に代わると藤川は背番号を名前にちなんだ「92」に改めて心機一転、一軍公式戦では12試合すべて先発で起用される。9月11日のヤクルト戦では8回1失点の好投でプロ入り初勝利を挙げているが、全体では1勝5敗、防御率3.71だった。 2003(平成15)年はリーグ優勝した年だが、藤川は17試合(先発2)で1勝1敗、防御率3.38とほとんど貢献できず、日本シリーズでの登板もなく終わっている。ただし、この年に二軍投手コーチに就任した山口高志の指導によって球速はぐんぐん上がって、のちの活躍へつながっている。 プロ入り6年目の2004(平成16)年、岡田彰布が監督に就任、二軍監督として長く藤川を見てきており、ようやくプロらしい身体つきになり、球速も150キロを超えてきた藤川をリリーフに定着させる。藤川は26試合すべてリリーフ登板で防御率2.61と結果を出し翌年の飛躍へとつながる年になった。 2005(平成17)年には背番号を「22」に変更、ジェフ・ウィリアムス、久保田智之とともに「JFK」を形成して大ブレイクする。藤川はセットアッパーに固定されリーグ最多の80試合に登板して7勝1敗1セーブ46ホールド、防御率1.36の成績で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得している。92回2/3で139個の三振を奪った速球は「火の玉ストレート」と異名が付いた。 2006(平成18)年も「火の玉」は唸る。セットアッパーとしてスタートしたが久保田が故障でリタイアするとクローザーを担い圧倒的な投球で相手を捻じ伏せていった。63試合で5勝0敗、79回1/3を投げて自責点はわずかに6。防御率0.68という驚異的な数字をたたき出して、2年連続で最優秀中継ぎ投手となった。 2007(平成19)年はクローザーに専念し、71試合で5勝5敗46セーブの成績で最優秀救援投手のタイトルを獲得。ここまで3年連続して100三振以上を奪っており、ホップすると言われたほど回転の多い「火の玉」の前に相手チームは沈黙している。 長くなってしまうので以下渡米までの5年間は数字のみ記載するが、防御率が2点を超えたのは1年だけ、しかも2.01だからいかに安定していたかがわかる。 2012(平成24)年のオフ、それまで積み重ねてきた実績を引っ提げ、海外FA権を行使し、シカゴ・カブスと2年契約してメジャーへと転身するが、アメリカでは故障に泣かされることになる。2013(平成25)年、5月13日に「右前腕部の張り」で故障者リストに入り、一度は復帰するも5月26日に再発、6月11日にトミー・ジョン手術を受けそのままシーズンを終えた。2014(平成26)年は15試合に登板して防御率4.85と復調が見られず、大半は故障者リストに入っており、シーズン終了後自由契約となる。2015(平成27)年にはテキサス・レンジャースと契約して1年契約して移籍するも、メジャーではわずか2試合で3失点したところで早々と見切られ、5月22日に自由契約選手になってしまう。失意で帰国すると6月に四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグスに入団したが9月に退団している。 その後ヤクルトとの交渉が伝えられる中、10月17日にかつてのチームメイト金本知憲が監督に就任すると、直接藤川との交渉を進めタイガースへの復帰を決断させた。背番号は二神が剥奪されてから2年間空位になっていた「18」を着けることになった。 復帰した藤川は、クローザーを務めていた呉昇桓の残留を想定に先発として調整を開始。これは「先発で調整していれば中継ぎへの転換も容易だが、その逆はしんどい」という判断からだった。結局呉昇桓は交渉が不調に終わって退団したが、藤川は先発投手としての調整を続けていく。2016(平成28)年のシーズンを先発投手としてスタートすることになったが、ペース配分を意識したためにボールに勢いがなく、シーズン序盤に先発した5試合で1勝2敗、防御率6.12と苦しんでいる。4月10日の広島戦では自己ワーストの7失点を記録するなど散々な結果に終わり、6月からブルペンに配置転換された。リリーフでは38試合に登板しており、4勝0敗3セーブ10ホールドで防御率は3.58と貢献できている。 藤川は1年で背番号「18」を返上して、2017(平成29)年から引退までは渡米前の「22」に戻している。そして2017年は52試合、2018(平成30)年が53試合、2019(令和元)年も56試合と安定してブルペンの柱になっている。 特に2019年は16セーブと同時に23ホールドを稼ぎ、中継ぎとクローザーのニ役をこなして防御率も1.77と素晴らしかったが、一方で心中では「この先2年以内に引退」を意識した年でもあった。 40歳を迎える2020(令和2)年のシーズンで、ガクンと衰えが襲ってくる。オープン戦から調子が上がってこないままシーズンでも救援失敗が続き2度の登録抹消を経験。2度目の抹消時に引退を決断し球団に申し入れ、8月31日、球団を通じて正式に引退の発表となった。 エピソードなどは書ききれない。詳しいことは様々な媒体で紹介されているので、ここではこの程度にして終わりたい。 タイガースでの藤川の通算成績は、782試合(先発19)60勝38敗243セーブ163ホールド1220奪三振、935回1/3、自責点216、防御率2.08である。馬場 皐輔 投手 宮城県塩釜市出身。強豪仙台育英高校時代には3年春にベスト8進出、夏は2回戦で敗退したが剛腕投手として存在感を見せている。大学は地元仙台大学に進むと剛腕に磨きがかかり、4年秋には37イニングで60三振を奪う力投を見せ、奪三振率14.59の驚異的な数字を残すまでになった。 リーグ戦通算の記録は32試合15勝6敗206奪三振、167回2/3で防御率は1.34だった。 2017(平成29)年のドラフト会議ではタイガースとソフトバンクが指名重複となり、抽選で勝ったタイガースに入団が決まる。大学時代の数字から見ても、前年限りで藤川が返上して1年空いていた「18」は、馬場のために空けてあったように思える。 しかし期待は裏切られ、ルーキーイヤーの2018(平成30)年は2試合、翌2019(令和元)年も2試合しか一軍での登板がなく、足踏みがつづいて心配される。 3年目となった2020(令和2)年に32試合30回1/3を投げて2勝1敗9ホールド、2021(令和3)年には44試合47回1/3で3勝0敗10ホールドを記録して一軍のブルペンに定着するかに見えた。 ところが2022(令和4)年には7試合、2023(令和5)年も17試合と出番が減ってしまった。 馬場投手の特徴は、先発、中継ぎ、抑えのどのポジションもそつなくこなせるしロングリリーフも平気というオールラウンダーであることだ。 これが曲者で、野手にも「器用貧乏」があるように、投手でも各ポジションに好い投手が定着してくると、器用な馬場の必要性がなくなってしまうという典型的な例ではないかと感じる。 タイガースでの通算成績は106試合7勝4敗22ホールド106奪三振、118回2/3で自責点が46、防御率は3.49だった。 奇しくもライバル巨人へ行くことになったが、タイガースでの馬場は今だ本来のポテンシャルを見せていたとは言い難い。2024年、タイガースに対しどう向かってくるか、非常に不気味な存在になったと言えるだろう。まとめ3人だけど長くなっちゃったね 二神さんは「ドラ1」のレベルでの評価は高すぎたかもしれないわね 入団時点で凄い速さのボールがあるわけでもなかったし これという変化球も持ってなかった 高く評価され過ぎたことが本人も重荷になっていたんじゃないかなあ藤川さんはもう説明の必要がないわ 読んでくれてる皆さんのほうがよくご存じだと思う この先は指導者としてまたタイガースに貢献していただけるものと待ってます たった1年しか着けなかったのは残念ね馬場さんは昨年ファームの試合で何回も見てるけど ボールは速くて球威も感じたよ 上の写真でもわかるように山本由伸投手と似た腕の動き方でゆったりしたモーションだけど 投げ込むときに持ち前の馬力がプラスされる感じなのよ コンパクトな腕の振りからビュッと投げてくるのでタイミング合わせにくそうだった とても放出される選手とは予想できなかったなあ 敵に回すと嫌な投手だとおもう 背番号18は馬場さんのあと2024年は空き番のまま行くみたいだけど 次に誰が着けるのかな? 今年のドラ1候補は内野手って噂だしね・・・ではこれで背番号18は終了です 読んでくれてありがとう 次は「19」に進むよ 小林繁さんとか藤浪さんも登場ね! 背番号19へ続く
2024年01月30日
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キャンプインまであと3日!2代目タイガース非公式サイトです外国人選手元気に来日2024年1月28日 タイガースからハビー・ゲラ投手 シェルドン・ノイジー選手ヨハン・ミエセス選手 ジェレミー・ビーズリー投手が来日したと発表がありました それぞれの談話も添えられてるから見てみようねハビー・ゲラ投手(背番号00) ようやく日本に来ることができて嬉しいです。もう自分の家に居るような感覚ですし、これから新しい仲間たちや、ファンのみなさんと会えることを凄く楽しみにしています。 1995.09.25生まれ 29歳 パナマ出身 183 cm / 86 kg 右投げ左打ち パドレス(19~22)-レイズ(22)-ブルワーズ(23)-レイズ(23)-阪神(24~)ヨハン・ミエセス外野手(背番号55) タイガースファンのみなさん、お久しぶりです。こうして日本にまた戻ってくることができて嬉しいですし、去年以上の成績を残すためにしっかり準備してきました。コンディションも非常に良いので、キャンプもシーズンも楽しみです。今年もたくさんの応援をよろしくお願いします。 1995.07.13生まれ 29歳 ドミニカ共和国出身 185 cm / 120 kg 右投げ右打ち MiLB(13~22)-阪神(23~)シェルドン・ノイジー外野手(背番号7)久しぶりに日本に戻ってくることができて、またタイガースでの日々が始まることにワクワクしています。タイガースファンのみなさん、連覇に向けて共に戦いましょう。 1994.12.10生まれ 30歳 アメリカ合衆国出身 183 cm / 105 kg 右投げ右打ち アスレチックス(19)-ドジャース(21)-アスレチックス(22)-阪神(23~) ジェレミー・ビーズリー投手日本に戻ってくることができて嬉しいですし、またタイガースファンの素晴らしい応援の中でプレーできることに興奮しています。アメリカでしっかりと今年も「ARE」するための準備をしてきました。今シーズンも日本一のサポートをよろしくお願いします。 1995.11.20生まれ 29歳 アメリカ合衆国出身 191 cm / 109 kg 右投げ右打ち ダイヤモンドバックス(20)-ブルージェイズ(21~22)-阪神(23~) さてさて まず新入団のゲラ投手なんだけど 2012年に内野手としてプロ入りし 2019年に投手へ転向した異例の選手なんだってね メジャーリーグでは61試合に登板して3勝1敗5ホールド 先発は2試合しかないからリリーフ専門と言ってもいいね 63回で45奪三振 自責点45 通算の防御率は6.45なのでホントに期待できるのかな? ストレートの最速は160キロという触れ込みでもまだ信じられない 推定年棒100万ドル(約1億4800万円)は出し過ぎじゃないかとおもうんだけど・・・ ミエちゃんは数字だけ見ると解雇が普通なんだけど 明るいムードメーカーってことと 伸びしろがあって監督のお気に入りでもあるから残留したよね 空港での写真を見ると明らかに細くなってる オフの間にかなり絞ってきた感じでやる気が伺えます 球団公式ページでは昨年と体重変わんないのよ 昨年がサバ読んでたのかもしれないなあ 今年も外野は狭き門だしノイジー選手とも競争だから厳しいよ 頑張ってね! 「交流戦の秘密兵器」程度で終わってほしくないわ 4人の中では一番安い50万ドル(約7400万円)だけど2代目は期待してる ノイジー選手は昨年の日本シリーズでの2発で残留を決めた感じだったね シーズン中は打率.240だしホームランも一桁の9本 56打点というのも中途半端だった 結構気難しいのか悩むとスランプ長いのよこの人 なわけで20万ドル減となったんだけど それでも110万ドル(1億6280万円)って多過ぎな気はするね ビーズリ-投手はリリーフとして採用されたんだけどシーズン途中で先発に配置転換されました それが終盤では先発とリリーフの両刀になってる 日本シリーズ2戦目のリリーフで好い結果も出したので残留できた感じね でも現状維持の80万ドル(1億1840万円)はちょっと多いなっておもう 2代目は高槻でのウェスタンでビーズりー投手が先発した試合を見てるんだけどボールは速いしコントロールも悪くないし たしか5回ノーヒットじゃなかったかな? スタミナもあるから先発で十分行ける感じなんだけど 何しろ日本人の投手が豊富なので入る隙間がないんだよね 西勇樹さんや青栁さんが衰えるとか 大竹さんが「2年目のジンクス」みたいにならない限り チャンスは少ないとおもう また両刀で待機という感じだと気の毒なんだよね
2024年01月29日
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タイガース ドミニカで入団テスト2代目タイガース非公式サイトです2投手と育成契約! タイガースの嶌村聡球団本部長(56)が27日、育成契約で20代前半の右腕2投手を獲得する方針を固めたドミニカ共和国での入団テストの詳細を明かした。 今月中旬に5日間、同国の5会場で実施。「メジャーの下部組織くらいまでいって23、24、25歳の選手」とポテンシャルを秘める若手をターゲットとした。約70人の選手が参加。投手の割合が多かったと明かし、ベネズエラからの参戦もあったという。 球団スペシャルアシスタントを務める藤川球児氏(43)ら5、6人を日本から派遣。14年打点王の元虎戦士、マウロ・ゴメス氏(39)が現地で運営を手伝い、同国出身のミエセスも球団関係者を送迎するなど一役買った。「来年以降もそういう形で続けたい」と見据える。テスト合格者は「基本的に行ってきた人間の推薦」と説明。岡田監督の承認も受けたドミニカンの2投手は、3月にも来日する。 これは好いことね カープアカデミーはその後どうなってるか知らないし 中日も森繁和さんが外れてドミニカとのパイプが弱くなってる タイガースはこうした中で運動能力の優れた若い選手を発掘してくるのも手段としてあるべきよ タイガースでは外国人選手を育成契約で入団させたことは初めてじゃなく アーロム・バルディリス選手やアルビス・オヘイダ投手 ロバート・ザラテ投手なんかもいたし バルディリス選手はかなり成功した事例だよ 何が化けるかはやってみないとわからないんだから育成枠は「三軍」という考え方で大いに活用していきたいよね
2024年01月29日
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背番号18(その7)2代目タイガース非公式サイトです おかげさまで雪も止んで交通機関も平常に戻りました スリップした車の接触などの小さな事故はあったようだけど 道路の雪も日陰以外はほぼ解けてきてるよ いちばん気をつけなきゃならないのは 昼間でも陽の当たらないとこは凍ってるからツルツルで危ないことかな 背番号18の第7回目です 前回は紹介した3人のうち最後の野田さんがドラフト1位だったよね 残念だけど「エース候補」と目されながら結局トレードで他球団へ行っちゃった・・・ 流れの中で野田投手のあと「18番」は翌年空き番となってしまったのよそして1993年のドラフト会議で1位指名された藪さんが引き継ぎます 藪さんはすでに背番号4で紹介しているから 少し加筆したりして再掲です今回は藪さんを含めて3名の選手を紹介するよ藪恵壱(恵市)投手(再掲) 三重県の御浜町出身で高校は和歌山県の新宮高校。高校時代は県ベスト8が最高で、一浪して東京経済大学に進む。どこのセレクションにも合格できず一度は野球をやめようかと思っていたところ、たまたま野村克也の講演を聞く機会があって思い直したという話を聞いたことがある。(先代の談) 東京経済大は首都大学リーグの2部リーグだったが、藪は通算36勝を記録してプロからも目をつけられる存在になっていった。 大学を卒業すると社会人の朝日生命野球部に籍を置き、保険勧誘の営業の傍ら野球に取り組んだ。藪は1993(平成15)年のドラフト会議でタイガースを逆指名して1位入団し、期待されてエースナンバーの「18」を与えられる。185センチのすらりとした長身で、入団当時から「織田裕二にそっくり」と言われ特に女性ファンの人気が高かった。入団を機に登録名を「恵市」としている。 1年目の1994(平成6)年は9勝9敗ながらもチームでは最多勝、暗黒時代の打線を背負いながら防御率も3.18という立派な成績で新人王に選ばれている。 ストレートは最速140キロ台後半で綺麗なフォームから投げる素直なボール。どちらかというと最初右打者の体に向かってからストライクゾーンへ曲がっていくキレのあるスライダーを武器としており、プロに入るとそこにフォークボールを織り交ぜることで投球の幅を広げている。 しかしながら、まともに暗黒時代と重なり合うなかで、2年目からは7勝13敗、11勝14敗、10勝12敗と3年連続負け越してしまう。1998(平成10)年にプロ5年目にしてようやく11勝10敗と勝ち越した。 ところが野村監督の3年間は、6勝、6勝、0勝と振るわず、特に2001(平成13)年の0勝は右ひじの故障による影響が大きかった。 本人も野村監督時代は「怒られてばかり」と振り返っているように、「棒球」などとなじられたり、「点が取れないんだから0点に抑えろ」と無理難題を言われたりで、精神的にかなりキツイ状況もあったようだ。実際にこのころの藪は、序盤は好投していても中盤に突如連打を浴びて崩れるパターンでファンをがっかりさせることが多かった。 2002(平成14)年、監督が星野仙一に代わり、藪も心機一転復活を果たすため川藤の奨めもあって背番号を「4」に変更し、2004(平成16)年まで3年間背負った。背番号を替えた年に10勝6敗、防御率3.14の成績で久々の二けた勝利を挙げ、カムバックしている。 2003(平成15)年は先発と中継ぎを掛け持ちしながら8勝3敗とリーグ優勝に貢献しているが、夏場に肘痛を発症したため日本シリーズでは登板機会がなかった。 その後、2004(平成16)年に取得した海外FA権を行使し、平成17(2005)年にオークランド・アスレチックスに入団し中継ぎで4勝するも自由契約となる。2006(平成18)年はコロラド・ロッキーズと契約したが3月に解雇されメキシカンリーグへと活路を求めて6月にティファナ・ポトロズと契約するも同年中に解雇。翌2007(平成19)年はどこにも所属できずに浪人となって自主トレに明け暮れるというどん底を経験した。2008(平成20)年、なんとかサンフランシスコジャイアンツと契約にこぎつけ、中継ぎで3勝を挙げたが翌2009(平成21)年7月に解雇されてしまう。さすがにアメリカでのプレーは断念し帰国すると、2010(平成22)年7月、テストにより楽天イーグルスに入団。11試合で2ホールドを挙げたが、限界を感じて同年引退した。 引退後は平成2011(平成23)年から、タイガースで二軍投手コーチ、一軍投手コーチを務めて後進を指導した。 タイガースでは通算84勝106敗と大きく負け越してしまったが、貧打を極めた最下位常連の暗黒時代にあってよく頑張った。Aクラスに定着できる時代なら勝敗の数は逆転していただろうし、もっと勝っていたに違いない。 おっとりとした印象の藪も、巨人に移籍してきた清原には強気で内角を攻め通算6個のデッドボールをぶつけている。清原が指3本を立てて「三度目やぞ」というポーズをしたとき、藪も3本指で「3億も貰ってるなら避けられるやろ」とやり返してあわや乱闘のにらみ合いになったこともある。ちなみに清原は藪に対し通算50打数8安打で打率.160と極端に苦手としていた。マーク・バルデス 投手 アメリカ合衆国オハイオ州デイトンの出身で、フロリダ州立大学を経てドラフト1巡目でフロリダ・マーリンズに入団している。メジャーでは7年間で12勝15敗2セーブの成績を残す。 2002(平成14)年1月にタイガースと契約。藪が返上した「18」を譲られている。 バルデスの特徴はいわゆる「クセ球」。まともな真っすぐという球はなく、すべてのボールが変化するため「縫い目の魔術師」と呼ばれることもあった。 星野監督は前年クローザーを務めた成本年秀に見切りをつけてバルデスを抜擢すると、内容的には十分期待に応えている。 42試合に登板して4勝3敗22セーブ、防御率も1.54と申し分のない成績と言えるだろう。球団も10月11日時点で残留方針であると公表している。 しかし、2002(平成14)年の米国視察で投球を見て以来、熱望していたジェフ・ウィリアムスの獲得に成功すると、惜しげもなくバルデスを解雇してしまった。 2003(平成15)年、バルデスは中日ドラゴンズと契約。しかし、中日は2003年にはギャラードや大塚晶則、2004(平成16)年には岩瀬というストッパーがおり、バルデスは主に中継ぎやセットアッパーに使われて、2年間で計67試合1勝4敗2セーブに終わってしまった。 2004年の中日はリーグ優勝して日本シリーズに進み、バルデスは2試合に登板して第2戦では勝利投手にもなったがオフに解雇された。 バルデスさんがわずか1年で去って、その後2003(平成15)年から「18」を背負うのはドラフト1位の杉山さんなんだけど、すでに背番号「17」で出てきてしまってるから丸ごと再掲とするね。杉山直久 投手(再掲)京都府舞鶴市出身で東舞鶴高校に進むが甲子園の経験はない。龍谷大学で頭角を現し、2年時にノーヒット・ノーランを記録すると、3年秋は4勝を挙げて防御率0.86という好成績で優勝に貢献し、MVPに輝いている。4年になると150キロを超える速球を武器に日米大学野球の代表に選らばれるなどドラフト1位候補として名前が挙がってくる。大学通算では15勝4敗で防御率1.19の数字を残した。2002(平成14)年、タイガースはドラフト自由獲得枠(逆指名1位)で杉山を獲得する。背番号はバルデスの解雇で空いたエースナンバー「18」と決まった。ルーキーイヤーの2003(平成15)年は、キャンプから前半戦まで体力づくりに専念し、8月に一軍へ昇格する。結局3試合(先発2)しか登板機会は無く、0勝2敗で防御率も7.71に終わっている。2004(平成16)年6月15日のヤクルト戦で先発し5回2/3をなげて3失点でプロ初勝利を飾ったが、この年は13試合2勝2敗で防御率5.30だった。2005(平成17)年、体の開きが早かったフォームを改良してブレイクする。23試合(先発22)で9勝6敗、134回2/3を投げて奪三振103自責点44、防御率2.94の好成績を残してチームのリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは3連敗後の第4戦に先発したが、2回に李承燁の2ランをあびて先行を許し敗戦投手となっている。ところが2006(平成18)年からまた思うように勝てなくなる。この年17試合で4勝4敗に終わると、2007(平成19)年も20試合4勝5敗1ホールドと低迷が続く。2008(平成20)年には登板が9試合と激減し、2勝3敗の成績で一軍から遠ざかっていく。2009(平成21)年、背番号「18」を剝奪され、前年まで金村が着けていた「17」に変えて再スタートしたものの、一軍での登板はわずか2試合で0勝1敗、防御率5.40とどん底に落ちてしまった。 2010(平成22)年は一軍で7試合に投げるも先発は一度もなく終わり、2011(平成23)には一軍に上がることすらできないまま過ごして戦力外となった。 トライアウトを受けたがプロではお呼びがなく、2012(平成24)年はBCリーグの富山サンダーバーズに所属した。 現在はオリックスのチームスタッフとして裏方で汗をかいている。まとめ前にも書いてるかもしれないけど 藪さんは暗黒時代にまるかぶりで援護のない中で好く投げたとおもうよ 「エース」と呼んでいい時期もあったと言えるんじゃない?清原さんに強気で攻めてたなんてエピソードがエースの証明ねバルデス投手は結構いい数字残してるんだよね でもウィリアムス投手とは決定的な違いがあるのよタイガースでのバルデス投手は52回2/3を投げて39奪三振 一方のウィリアムス投手は7年で371回2/3で418個の三振を取ってるのストッパーに求められる特性は ここという場面で狙って三振が取れるかどうかなのよ なのでウィリアムス投手に軍配が上がったんだとおもうドラフト1位の杉山さんは怪我が原因でエースと呼ばれる投手になれなかった 「無事これ名馬」と言うように 怪我しないというのは一流になる条件ね 「ケガが多い選手は大成できない」っていう典型だったんじゃないかな背番号18-8に続く
2024年01月26日
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大雪第2弾!2代目タイガース非公式サイトです2024年1月25日 警報は注意報に変ったけど・・・まだじゃんじゃん降ってるよ!!!昨日は夕方5時に仕事終わって車に戻ると20センチくらいゆきかぶってたのよ 周りもそれくらい積もってるしそこから雪を落とすのに20分かかって ようやく出発したんだけど普段10分で帰れる道のりが1時間20分かかってしまったわよ名神高速が閉鎖になったので 高速通るはずだった車が下道に回ってきてるのが原因ね やたらにトラックが多かった もう全然動かない棲家にたどり着いたら 今度は駐車場が・・・ 白線が雪に隠れてしまってるからどの位置に停めていいのかわかんないよ雪かき分けて白線を探してってやってるうちに真っ暗になるし こんな雪は最近10年を振り返っても記憶にない!! そして今朝起きて 今度は積もったところがガッチガチ! 気温がマイナス1度だからねえ 上の写真は近所の様子 家を出たときは降ってなかったのに まだ名神高速は閉鎖されたままだし とにかく早く出ないとまた渋滞になるってわかってるから 大急ぎで車の雪を落としていつもより1時間半も早く出発 ところが出発したとたんにまた降り出してきて・・・いい加減にしてほしいね それでも早く出た甲斐あって国道に入ると意外に車は少なくて20分くらいで仕事場に到着できたのは幸いだったどうも今日のお昼ころまでは50~60%で雪って言ってるので まだ積もるかもしれない今書いてるのがちょうど8時ですがお手上げです北陸の心配してたら 今回は自分のとこのほうが酷かったみたいで・・・天気には勝てないわ
2024年01月25日
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大雪警報!一面真っ白2代目タイガース非公式サイトです2024年1月24日 大雪警報出てます!朝起きてびっくりよ! 昨夜寝る前には風は強かったんだけど星が見えてて これなら大丈夫かなっておもってたのに・・・50メートルくらい先が見えないような大雪に!しかもずっと降り続いていて止みそうな気配なし 午前10時を回って降り方が少し弱くなってきたので職場付近の写真撮ってみたけど 相変わらず視界は悪くて遠くのほうは見通せないね真っ白になってても いまのところ積雪は5センチくらいなのね 気温が低かったから朝早いうちはパウダースノーみたいにサラサラだった 雪どけは意外と楽だったけど ずっと降り続ければ夕方には渋滞が待ってそうです明日も雪の予報がでてるから道が凍ってたらやだなあ 今朝だってパトカーや救急車の音がしてたし ちょっとヤバいかも 地震で被災されてる皆さんが心配ね 傾いた建物には近づいちゃダメ 車中泊の人も低体温症の危険があるから避難所へ行ったほうがいいかも とにかく身を守ってくださいね
2024年01月24日
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背番号18(その6)背番号18の第6回目です「エースナンバー」と言われながら地味な番号になってしまってた「タイガースの背番号18」1962(昭和37)年のブラウンスタイン投手以降は投手しか着けてないのよね そして今回から令和の馬場投手までの間も投手しか着けてないわどうやらピッチャーの番号に固定されたって言えそうね 今回最初に出てくる大町さんまでは地味な選手が続くけど そのあとはエース級またはエースを期待された投手が着けてるんだよ大町定夫 投手山口県光市出身で高校は柳井商業に進むが高校時代に甲子園は経験できずに終わっている。183センチの長身だが本格的な右投げアンダースローで 力強さは無いもののお手本のように綺麗なフォームの投手。ただし球速はストレートが120キロ出るか出ないかというほど遅く、「ハエがとまるボール」などと言われた。社会人の新日鉄光に入部するとプロのスカウトの目にとまるようになってくる。1973(昭和48)年のドラフト会議では太平洋クラブライオンズから6位指名を受けるが拒否。1975(昭和50)年にはロッテオリオンズの2位指名も拒否している。 1979(昭和54)年、三菱重工広島の補強選手として都市対抗本戦に出場すると決勝まで5連投で3勝を挙げ、初優勝の立役者となって「橋戸賞」を受賞する大活躍を演じた。しかし年齢が26歳に達していたこともあってか、ドラフト会議で指名する球団はなく、タイガースの渡辺スカウトが交渉してドラフト外で入団が決まる。背番号は広島へ移籍した安仁屋の「18」を継承した。 ルーキーシーズンの1980(昭和55)年は37試合に登板したが先発は2試合のみで35試合がリリーフだった。2勝2敗4セーブで71回2/3を投げ防御率2.75という数字は安定感を感じさせる。 2年目の1981(昭和56)年はすべてリリーフ登板で50試合に投げている。しかも7勝1敗8セーブと結果も出し、79回1/3で防御率も1.91と頼りになるリリーフエースになってきた。偏光サングラスをかけて表情を変えず淡々と投げるのが特徴で「村長」のニックネームも付き、ファンから認知される存在になっているが、この年が成績のピークとなった。 1982(昭和57)年は35試合に投げ、そのうち先発も9試合に起用されたが2勝3敗、防御率5.13に落ち込む。翌1983(昭和58)は登録名を「大町定生」にかえて巻き返しを図ったが役割はどちらかというと敗戦処理。21試合で0勝1敗、防御率4.61と登板数自体も激減してしまう。 1983年12月7日に自由契約選手となり、大町は4年間であっさりと現役をあきらめ、引退してフロント入りする。30歳を節目としたのかもしれない。 通算成績は143試合11勝7敗12セーブ144奪三振、250回1/3を投げ自責点94、防御率3.38である。 引退後はスコアラー、ビデオ係、ファームのマネージャーなど裏方的な仕事や広報なども担当し、その後営業部に転じた。池田親興 投手宮崎県宮崎市出身。高鍋高校時代は甲子園には縁がなかったが、1977(昭和52)年のドラフト会議でタイガースから4巡目で指名を受けた。しかし池田は進学を希望していたため入団を拒否して法政大学へ進んでいる。ただし、大学時代には常に2番手投手の扱いに終わっており、4年時に上げた2勝しかしていない。池田は社会人に進んで開花した投手だ。1982(昭和57)年に日産自動車へ入部すると、新日鉄釜石を完封するなどの活躍で都市対抗ベスト4に進んでいる。1983(昭和58)年は東芝の補強選手として出場し優勝に貢献した。その勢いでロス五輪代表にも入ったが、アジア予選決勝で台湾の郭泰源(のち西武ライオンズ)と投げ合ってサヨナラ負けしている。同年のドラフト会議では再びタイガースから2位指名を受け今度は入団。引退した大町から背番号「18」を引き継ぎ在籍7年間着けている。ルーキーの1984(昭和59)年は29試合に登板。20試合が先発で、早くもローテーションの一角を担う。成績も2完封を含む9勝8敗、152回1/3を投げて防御率3.90と上々だった。近藤真彦に似ていると女性ファンから評判になって「球界のマッチ」などと呼ばれる人気者になっている。1985(昭和60)年、開幕投手に抜擢されるなど飛躍が期待された。シーズン成績は32試合9勝6敗だが防御率は4.45。バース・掛布・岡田に代表される猛烈な打線の援護に助けられて勝ち越したという印象だ。しかし日本シリーズでは第1戦に先発し完封勝利を挙げ チームを勢いづけて日本一に貢献している。 1986(昭和61)年、5月27日の巨人戦で松本匡史に足を踏まれて骨折しシーズンの大半を棒に振って4勝4敗に終わる。 その後4年間は28試合5勝13敗、28試合7勝10敗、14試合2勝7敗、15試合2勝8敗と勝ち越しの年がなく低迷してしまったことで、1990(平成2)年のオフに4対5のトレードでダイエーホークスに移籍することになった。 ホークスでは田淵幸一監督がストッパーに抜擢したことで再生され、1991(平成3)年に6勝4敗13セーブ、1992(平成4)年も8勝4敗18セーブと活躍するが根本陸夫監督変わると低迷、1994(平成6)年オフに戦力外となりヤクルトスワローズに拾われる。 1995(平成7)年は13試合にリリーフで投げたが0勝1敗の成績では現役引退するしかなかった。 引退後ダイエーに戻ってスカウトを務めるが1年で退団。その後は評論家や解説者として活躍している。 通算成績は277試合(先発131)53勝69敗30セーブ。970回を投げ570奪三振、自責点494防御率4.58。結局プロ12年間で二けた勝利は一度もなかった。野田浩司 投手(再掲) 野田については先代が「背番号1」で紹介済みだけど、かなり簡略化しての記載になってるので詳しくして再掲するよ野田は熊本県球磨郡多良木町の出身で高校は多良木高校。高校時代は県ベスト4はあるものの全国的にはまったく無名の選手だった。1986(昭和61)年に社会人九州産業交通に進むと、2年間で22勝13敗の成績を挙げてプロ候補に数えられるようになる。1987年のドラフト会議では3球団が競合した東亜学園の川島堅投手の抽選に敗れたタイガースが「外れ1位」で指名し入団し、弘田の引退で空いた背番号「1」を着ける。投手が「1」を着けるのは1957(昭和32)年の西尾以来30年ぶりだった。 ルーキーだった1988(昭和63)年は吉田から村山へ監督が代わった年だったがチームは混乱・低迷を極めており、打線の援護が期待できない状況。野田は42試合(先発17)とよく使われたものの3勝13敗と大きく負け越してしまった。1989(平成元)年はほとんどリリーフで登板し5勝4敗2セーブという成績だった。入団した時期が悪かったと言えるのかもしれない。1990年(平成2)年には監督が中村勝広に代わるが、野田は先発10試合リリーフ27試合というどっちともつかない使われ方の中11勝12敗5セーブとフル回転で活躍し、初めて二けた勝利を挙げている。 1991(平成3)年、3年間着けた背番号「1」を新外国人選手のオマリーに譲り「18」を着けている。前年の二けた勝利によって期待が高まったため「エースナンバー」へ切り替わった考えていいだろう。中村監督もこの年は野田を28試合に先発させ、ローテーションの一角を担わせたが、成績は8勝14敗と負け越してしまった。 1992(平成4)年は新亀ブームが巻き起こって暗黒時代唯一の2位になった年で、野田も規定投球回数には少し足りなかったものの8勝9敗1セーブで防御率は2.98で、プロ入り5年目にして初めて2点台をマークしている。 ところがそのオフ、打線の中心となる打者を獲得したいタイガースのフロントは、オリックスの松永浩美との1対1の交換トレードで野田を放出してしまう。まだ24歳で三振が取れる素質のあるエース候補の放出にファンからは不満の声が渦巻いた。野田本人もトレード拒否の気持ちが強く、当時現役だった岡田彰布にも相談したが、説得されてトレードを受け入れた。投手としての能力は高く、フォークボールはヤクルトの野村監督が「お化け」と呼ぶほど落差があった野田も、タイガースでは先発・中継ぎ・抑えと何でもやらされたのが災いして5年間で35勝52敗9セーブと大きく負け越していた。 それがオリックスに移籍後した1993(平成5)年は全26試合に先発し、17勝5敗と飛躍を遂げる。225回で209奪三振、防御率も2.56と素晴らしい成績を残した。 一方でタイガースに来た松永は80試合303打数80安打31打点8本塁打、打率.294と振るわず、オフにはFA権を行使してたった1年の在籍でダイエーホークスへ行ってしまった。タイガースファンが怒り心頭となったのは言うまでもない。野田は1994(平成6)年に12勝、1995(平成7)年も10勝を挙げて3年連続二けた勝利を記録。この間、やはり3年連続で200奪三振も記録している。1995年にはロッテ戦で1試合19奪三振という日本新記録も達成しており、フォークボールを決め球に快刀乱麻の全盛期だった。1996(平成8)年から二けた勝てなくなり、肩を壊した1998(平成10)年から2年間は未勝利に終わって引退。オリックスに移ってからは故障する前までの5年間で54勝35敗と花開き、タイガース時代の35勝52敗とは数字が逆転している。通算では316試合(先発209)89勝87敗9セーブ1325奪三振、1614回1/3を投げて自責点628、防御率3.50である。引退後は評論家、オリックスのコーチ、社会人ニチダイのコーチや飲食店経営など多方面で活躍、ボーイズリーグで少年野球の指導などもしている。まとめ先代に大町さんのことを聞くと 笑って「リトルリーグの選手にも打ち込まれそうな遅さだったなあ」って言うのよねそれだけ球速がなくても好いときはちゃんと抑えてたみたいだから 独特の変化球とか配球の上手さとかがあったんだろうねと想像してます ただし4年で辞めちゃったのは本人もプロでの限界を感じてたんだとおもう池田さんは日本シリーズ初戦の完封勝利が光ってるね タイガースでの成績を見ると大したことないんだけど人気者だったみたい エースっぽいところまで近づいてるけどエースには到達できなかった投手かな野田さんは現在のタイガースで言うと才木投手みたいなタイプ 結果論かもしれないけど惜しいことをしました 先代も当時は頭に来たって言ってるよ しかも当時のファンは 野田さんを出してまで松永さんを欲しいとは考えていなかったんじゃないかって・・・ 結局は1985年の日本一から暗黒に転じて6~7年、株主総会で相当責められてたのかな?フロントの主導で大失敗を演じてしまいました背番号18-7に続く
2024年01月23日
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背番号18(その5)背番号18の第5回目です前回まで短い人が続いたんだけど 昭和40年代に入ってドラフト会議が始まり やっと「18」も落ち着きを見せてきますこの回でも3名を紹介しますが そのうちの2名はドラフト1位の投手よ!エースナンバーとして意識的にドラ1に与えられるようになったわけね石床幹雄 投手香川県の小豆島出身で高校は高松商業に進むが、投手の頭数が多く競争が厳しいと感じて1学期が終わった時点で土庄高校へ転向している。高校2年時の練習試合で岡山東商のエース平松政治と投げ合って1安打完封する。のちに大洋ホエールズでエースとなって201勝を挙げる平松はすでに全国に名が知られたドラフト1位候補だったため、投げ勝った石床にも注目が集まるようになった。 石床は3年時の1965(昭和40)年夏に北四国大会まで進んだが松山商に敗れて甲子園出場はできず、大会終了後には早々と社会人の四国電力への就職が内定している。 これを知っていたにもかかわらず、同年から始まったドラフト会議でタイガースは大方が予想していた鈴木啓司ではなく石床を1位指名して驚かせた。 初のドラフト1位入団である石床に対し球団はそれまで着けていた中井悦雄を自由契約にして背番号「18」を贈る。若林や梶岡のようなエースになってほしいという思いが込められていたに違いない。 1966(昭和41)年は高卒1年目にして一軍で14試合に登板している。すべてリリーフ登板で20イニング投げ、自責点6で防御率2.35だった。 ところが2年目の1967(昭和42)年がわずか1試合、3年目の1968(昭和43)年も1試合(先発)と壁に当たってしまう。プロ入り3年間は白星も黒星もなかった。 4年目の1969(昭和44)年は5試合に登板、10月12日の大洋戦で6回無失点に抑えようやくプロ初勝利を手にする。しかしもともと身体が強いほうではなく、このシーズンには慢性の腎臓疾患を発症してしまう。 1970(昭和45)年には故郷に戻って療養に専念している最中に肺炎まで併発して現役を続けることが絶望となり、23歳で引退を余儀なくされた。 通算成績は21試合1勝1敗25奪三振、46回2/3で自責点14の防御率2.68である。谷村智弘 投手(再掲)谷村については背番号15-3ですでに紹介しているが、ドラフト会議で1位指名されて最初にもらった背番号が「18」なので再掲する。香川県の小豆島出身で高校は高松商業に進むが、投手の頭数が多く競争が厳谷村は兵庫県西宮市出身で高校は報徳高校。3年生だった夏の選手権では2試合連続完封勝利を記録してベスト8に進んだ好投手だった。関西学院大に進むと、リーグ戦60試合に登板し20勝25敗179奪三振、防御率1.67と言う成績を残す。1970(昭和45)年は社会人鐘淵化学でプレーし都市対抗で優秀選手賞を受賞、社会人ベストナインに選ばれた。ドラフト会議ではタイガースが1位指名して入団、最初の背番号は石床の引退で空いたエースナンバー「18」で4年間着け、1975(昭和50)年から「15」に替えて5年間着けることになる。投手としては軟投型で三振をとるタイプではなく、踊るような投げ方で打たせて取るのが特徴。配球だけでなく投球フォームの中にも変化をつけてタイミングを外す変幻自在の投法で、打者からボールが見えにくく球威の無さをカバーしていた。1年目は24試合に登板し、先発が5試合、リリーフが19試合。1勝2敗で防御率3.43と平凡だった。 2年目の1972(昭和47)年に22試合に先発して11勝11敗、防御率もセ・リーグ2位の2.26とブレイクし、以後1977(昭和52)年まで毎年20試合以上に先発するローテーション投手となり、1975(昭和50)年に11勝9敗、1976(昭和51)年に12勝8敗と活躍している。1975年に広島から移籍してきた安仁屋宗八に背番号「18」を譲り、「15」へ変更している。 故障も少なく、先発をしながら毎年10~20試合程度のリリーフ登板もこなしており貢献度は高かった。その割に球団の評価が今一つだったのは地味で人気選手というわけではなかったからかもしれない。 1978(昭和53)年~1979(昭和54)年は2年続けて1勝どまりで、1979年オフに鈴木弘規との交換で阪急ブレーブスへ移籍した。 阪急では1年目に7勝を挙げて貢献したが、2年目からの5年間で9勝しかできず、1985(昭和60)年を最後に現役を退いた。 プロ通算成績は393試合72勝82敗5セーブ、奪三振512、1489回で自責点681、防御率は4.12だった。安仁屋宗八 投手 沖縄県沖縄高校出身。中学時代から野球を始めたが昭和30年代の沖縄はまだ占領下にあり、テレビ放送もなくプロ野球や甲子園大会なども見たことが無かったという。 1962(総和37)年、高校3年のときに沖縄大会で優勝して南九州大会に進み、宮崎大淀高校を破って甲子園出場を決める。それまでの沖縄代表は「招待」の扱いで出場していたが、この年に初めて実力で甲子園出場を果たした。甲子園では1回戦で広島の広陵高校と当たって敗退している。 1963(昭和38)年に高校を卒業し沖縄煙草に入って野球を続け、大分鉄道管理局の補強選手として都市対抗に出場する。1回戦で敗退したが好投を見せた安仁屋に広島が目をつけ、現役選手だった平山智をスカウトとして沖縄に送り込んだ。何度も熱心に勧誘された結果、安仁屋は広島カープへの入団を決意する。 1964(総和39)年、カープでの1年目は3勝8敗に終わっているが、弱小球団の貧打に泣かされた結果であり防御率は3.52と悪くはない。 その後も、1965(昭和40)年が9勝13敗、1966(昭和41)年が8勝14敗、1967(昭和42)年も8勝16敗であり、プロ入りから4年連続して負け越しが続いている。 ところが5年目の1968(昭和43)年に根本陸夫が監督に就任すると安仁屋は大変身する。先発・救援のフル回転で57試合313回1/3を投げ、23勝11敗と生涯で唯一の20勝以上を達成し、防御率も2.07、奪三振237個という好成績を挙げた。 その後も1969(昭和44)年10勝9敗、1970(昭和45)年も10勝14敗と二けた勝利が続いたが、1969年に発症した「痛風」に悩まされ続け、1971(昭和46)年以降の4年間は一桁しか勝てない投手になってしまう。 1974(昭和49)年にはシーズン中にルーツ監督から「アンダースローに変えろ」と命じられたことに反発して対立してしまい、成績も4勝4敗2セーブで防御率3.96と振るわなかったため、オフに若生智男との交換トレードによりタイガースへ移籍することになった。タイガースでの背番号は谷村からエースナンバー「18」を譲られ、在籍した5年間着けている。 1975(昭和50)年は吉田義男が初めて監督に就任した年で、移籍してきた安仁屋を中継ぎ専門で起用した。この年すべてリリーフで自己最多の66試合に登板し、12勝5敗7セーブの成績を挙げて規定投球回もクリア、防御率1.91で生涯唯一のタイトルを獲得するとともに「カムバック賞」も受賞している。 翌1976(昭和51)年も53試合10勝4敗10セーブで防御率2.25と安定した働きで貢献しているが、33歳となる3年目から成績は落ちていく。 タイガースでの5年目となった1979(昭和54)年にブレイザーが監督になると、配球をめぐって対立し二軍に落とされると長い二軍生活となって公式戦登板は12試合に激減。0勝2敗で防御率5.00と最低のシーズンになった。 シーズンが終わると球団から「引退して二軍投手コーチに就任しないか」と打診があったが現役を続けたい意向があって拒否。広島の古葉監督が手を差し伸べてくれたため、タイガースを退団して広島へ復帰する。 しかし広島での最後の2年間は合わせて3試合の登板しかなく0勝0敗、防御率36.00に終わっている。 1981(昭和56)年をもって現役引退。現役18年の通算成績は655試合に登板、119勝124敗22セーブ1432奪三振、2090回1/3で自責点715、防御率3.08だった。 引退後は広島で投手コーチなどを務めたのち、2006(平成18)年に沖縄で社会人野球チーム「安仁屋ベースボールTRY」を立ち上げて指導者として活動を続けている。まとめ石床さんはタイガースが鈴木啓二さんを差し置いて1位指名したほどなんだから かなり期待が大きな選手だったのね もし石床さんじゃなく鈴木さんを指名してたら・・・鈴木さんは「石床がいたから大好きだったタイガースに入れなかった」って言ってるし 江夏さんは「鈴木がタイガースに入っていたら、2年続けて高卒の左投手は取らんだろうから、阪神の江夏は存在しなかっただろうね」と言ってるよそれでもって いちばん活躍できなかったのが石床さんなんだから 人の運命って不思議なんだよね谷村さんは2回目の登場だからもう評価書かないけど 地味で目立たないわりに貢献してくれた選手です安仁屋さんは広島で主力級投手として11年働いたのちにタイガースに来たのよね 吉田監督は3年間徹底してリリーフ起用し再生しました 数字を見ても好く頑張ってくれたって分かるよね今回の3人をみても一人一人が全く違う野球人生なのよ 同じプロ野球選手と言っても 運・不運や巡り合わせ 不慮の事故や病気 監督との対立 等々 さまざまな要因で大きな差ができるのね・・・背番号18-6へ続く
2024年01月22日
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今年もバレンタイン!2代目タイガース非公式サイトです2024 アムール・デュ・ショコラJRナゴヤタカシマヤで2024年1月18日から早々と始まりました!2月14日までのロングランね!2代目は開幕2日目の1月19日に行ってきたよ もはや一大イベントに定着したなって感じちゃうね 昨年は開催期間中に34億円を売り上げたんだって!今年はコロナも5類になってさらにヒートアップしてる 下の写真はフルカラー138ページの解説書(カタログって言うか図録って言うのか)です 各店舗の紹介のほかパティシエのプロフィールや代表的な商品の写真など 一冊にまとめられていてとても参考になりますよ もちろん無料で配布してるんだよね このカタログはデジタルで見れるんだよ 興味ある人は次のURLを開いてみて!2024 アムール・デュ・ショコラ ~ショコラ大好き!~ (jr-takashimaya.co.jp) このイベント最大の特徴は店舗の売り上げランキングが公表されることね 何日かごとに途中経過が発表されて盛り上がるし 最終順位が来年の場所取りに関わってくるから出店者も必死の競争なのよ!だからパティシエ本人や社長さんが直接売りにきてるのもこのイベントの売りになってるわ 海外からも来てるんだから驚きなのよ 次の写真は日本人女性で初めてパリでチョコレート専門店を開いた佐野恵美子さん ご本人がお客さんに一生懸命説明してる パティシエの生の声で解説が聴けるのも「アムール・デュ・ショコラ」の楽しみなのよ!昨年1位は「オードリー」さんで大きな場所を確保できてる 今年も人気に陰りはなくってお客さんは長蛇の列 催事場の階だけでは並びきれないので最後尾は下の階に続いていて一体何人並んでるのかもわかんないわよ ウィークデーだったけど凄すぎね 近年は男性のお客さんも多くなってきたわね 一人で来てる男性も結構いるんだけど頼まれて買いに来てるのか自分のためなのかは分かりません だけどはっきり言っておばさまたちの迫力に圧倒されてしまってるよ ウィークデーのこの会場で一番強いのは中年女性だから・・・ 2代目は昨年同様 お気に入りのトシ・ヨロイヅカをゲット もちろんご本人も来てて 今年もせっせとパッケージにサインしてくれました 去年はマスクしてたから人相悪く見えたんだけど 今年はマスク無しの素顔でした やっぱり優しそうな顔だった! トレードマークの「おれカバ」のチョコレートをゲットしてきたんだよ 形もかわいいし美味しさも抜群なのよね! ご自身がモデルでトレードマークの帽子をかぶってます最近伸びてきたと評判の小野林 範(ひさし)さんの作品も買いました このイベントでは毎年どんどん新しい人が出てくるのも好いね次の写真は小野林さんの「MONAショコラアマンドミルク」という商品 もなかの皮に挟まってるのは餡子ではなくチョコレートムース 表に円形のチョコレートが張り付けてあります パリッパリの食感と柔らかいムースのコンビネーションが斬新です 美味しかったわ! 他にもけっこうたくさん買ってきたけど どうせバレンタインデーまで持たないわ もう一度行こうかなっておもってます! とにかくレジ待ちの時間が長くてしんどい 何回も並ばないといけないから欲しいなっておもうものがなかなか買えないのよ まだ買いたいものはいっぱいあるのよね それと先日紹介したパンダバウムのカタヌキヤさんも 5階のサテライト会場に出店してますよ 寄ってあげてね!パンダバウム by Katanuki-ya | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)
2024年01月20日
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背番号18(その4)背番号18の第4回目です創成期のエース・若林さんから始まって3名の選手が着けてきたよね そのうち2名は投手で 梶岡さんもかなりいい成績を残しているわでも今回からしばらくは ちょっと冴えない番号になってしまうわ 短い期間しか着けてない選手が続くのよ みなさんこの3人知ってる?これも「タイガースの歴史」なんけどね藤重 登 捕手アメリカ合衆国ハワイ出身。ハワイ・レッドソックスから1956(昭和31)年に南海ホークスに入団している。南海には2年間在籍したが、公式戦では1956が9試合、1957(昭和32)年が24試合の出場にとどまり、2年続けて打率が1割台という成績で戦力外となり退団してハワイ・レッドソックスに戻った。1959(昭和34)年、監督でハワイの同郷でもあるカイザー田中が獲得に動いてタイガースに入団し再来日、背番号「18」を着ける。この選手に関しては資料がほとんどなく、どんなプレイヤーだったかはよくわからない。捕手としてはそれなりに能力はあったらしいが、バッティング技術が低く主戦捕手にはなれなかった。当時は山本哲也が正捕手でエース級の小山正明や村山実の投げる試合のほとんどでマスクを着けていたので、その合間で二線級以下の投手のときにしか藤重の出番はないのが実情だったようだ。タイガースでの1年目は公式戦35試合で63打数15安打0打点0本塁打で打率.238。 最も働いたのが2年目の1960(昭和35)年だったが、それでも61試合141打数34安打8打点3本塁打で、打率は.241に過ぎない。 在籍最後となった3年目の1961(昭和36)年はわずか26試合で49打数11安打3打点1本塁打とさびしい成績で打率も.224と冴えなかった。シーズン終了後に引退しハワイへ帰っている。 通算成績は5年間で155試合295打数66安打14打点6本塁打31三振3盗塁、打率.224。マーク・ブラウンスタイン 投手 この選手についてはいずれ「外国人選手史」でも紹介するつもりだが、在籍1年で公式戦出場なし、まったく戦力にならず解雇されている。 1962(昭和37)年にアメリカ・カリフォルニア大学を卒業して即タイガース入りという、ちょっとありえないような経歴で、しかも投手としてさっぱりな上に故障したためシーズン途中に野手転向を試みるなどお粗末すぎる。 期待を込めて背番号「18」を与えたのか、たまたま空いたから与えたのか不明だが、入団の経緯もよくわからないし、大型右本格派の評判とは裏腹に来日当初から球威・球速ともに期待外れで実力不足。しかも日本に来たそのシーズンに野手転向などタイガース側にも大いに問題があるケースだろう。 タイガースの「18番」の黒歴史というほかない・・・中井悦雄 投手 中井は大阪府出身で大鉄高校で2年時に選抜大会で甲子園経験があるが1回戦敗退。関西大学に進むが1年で中退し、1963(昭和38)年にタイガースに入団し背番号「18」を引き継いでいる。「18」に決まったのは担当スカウトが18-3で紹介した河西俊雄だったことも影響しているかもしれない。 ルーキーイヤーはファームで20試合13勝1敗、防御率1.17で最多勝・防御率1位・勝率1位の三冠に輝く大活躍でウェスタンリーグの優勝に貢献、9月には一軍に上がっている。 公式戦では7試合に登板し4勝1敗で防御率が1.22。4勝のうち3勝は完封勝利だった。2試合にリリーフ登板し4イニングを無失点に抑え、9月19日の大洋戦(甲子園)で初先発。8安打を浴びながら1-0で2勝目を挙げる。9月24日の国鉄戦(甲子園)では金田正一と投げ合い2-0で7安打完封、さらに9月29日(中日球場)の中日戦でも2安打に抑えて5-0で完封してしまった。10月17日の広島戦(広島球場)で2回裏に藤井弘のソロホームランを浴びて1点を失い初失点を記録したものの「デビューから31イニング連続無失点」という日本新記録を樹立した。しかし当時この記録は話題にもならず、2023(令和5)年に同じタイガースの村上頌樹が並ぶことで60年ぶりに脚光を浴びることになる。村上も抜くことはできず、中井はいまも村上と並んで日本記録保持者であり続けている。 1964(昭和39)年、前年の成績から大きな飛躍が期待されるシーズンとなった。ところが中井は開幕当初勝ち運に恵まれず、4月30日の国鉄戦でようやく1勝を挙げる。しかもこの1勝がタイガースにおける最後の白星になるとはだれも想像もしていなかった。 5月に起こったアクシデントが中井の投手晴明を奪ってしまう。ウィキペディアなどでは「交通事故による負傷」となっているが、実際は次のようなことだったようだ。 自転車で阪神電鉄甲子園戦の踏切を渡っている際に、誤って転倒し右肩を強打してしまった。「交通事故」というより自らの不注意が招いた転倒事故だ。この負傷で戦列を離れその後のシーズンを棒に振ってしまう。結局11試合で1勝2敗、防御率3.66というのが2年目の成績だった。 1965(昭和40)年、現場に復帰するも一軍では1試合わずか1イニングの登板に終わり、1966(昭和41)年は一軍で投げないまま自由契約となって退団している。 1年を経て1968(昭和43)年に再びタイガースに復帰したものの一軍での登板はなく西鉄ライオンズへトレードされてしまった。タイガースでの最後の1年は背番号「46」を着けている。 西鉄に移った1969(昭和44)年のシーズンは当初先発で起用されるが結果が出ないためリリーフに転向し35試合に登板している。2年目の1970(昭和45)年には42試合に登板し3勝0敗、85回2/3で防御率3.24と貢献した。 しかし3年目の1971(昭和46)年は17試合しか登板がなく8月でほぼ戦力外とみなされてしまい、シーズン終了後に現役を去った。 通算成績は実働6年で109試合9勝6敗145奪三振、245回2/3で自責点91防御率3.33。 その後、一般の会社に勤めていたが1979(昭和54)年に二軍投手コーチとしてタイガースに復帰する。ところが同年8月23日に突然の心不全で急逝しまう。まだ36歳という若さだった。まとめ今回の3人は三者三様という感じよね藤重さんはハワイから来て2球団でプレーしたけどパッとしないまま短期間で終わっちゃった選手 写真は南海時代の小っちゃいのが一つ見つかったよブラウンスタイン投手はもう訳が分からないわ 大学新卒のアメリカ人選手が入るってのもほぼ例がないし それがまた全く役に立たないで帰ってるのよね 「一体全体何だったのよ?」って言いたいわよね これでは写真なんて残ってるはずもなく見つかんなかったわ中井さんはツイてないって言うのかなあ・・・ 実際1年目の活躍をみると順調にいけばエース級になってたはずだとおもう それが不注意からの事故で台無しにしてしまってるのよ 不利なカウントから平気でど真ん中へ投げ込む勝負度胸があって周囲の期待は相当なものだったらしいわよ だからいまも「幻のエース」と言われることがあるみたい しかもせっかくコーチで復帰したのに早くに亡くなってしまって・・・とても残念!背番号18-5へ続く
2024年01月19日
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女性が受難の避難生活2代目タイガース非公式サイトです2024年能登半島地震の本震発生から間もなく3週間が過ぎようとしてるまだ行方不明の人もいるし水道や電気が復旧していない地域も多くて 家をなくした方や危険で帰れない方は 避難所生活が続いているわ 心からお見舞いを申し上げます すこしづつ落ち着いてきたという報道もあるけど 女性のみなさんが困っているという実態が目につくのよね ちょっと怒りを感じてます! 女性が困るのは男性にない生理の問題や着替え・トイレなど男性に見られたくないことや聞かれたくないことが多いからなのよね まず避難生活では男女別々のエリアわけをする必要があるってことにどれだけの配慮がなされているんだろう? 震災から1週間くらいはもう着の身着のままで逃げてきて混乱状態だったとおもうから仕方ないし 避難所の建物だって「余震が来たとき大丈夫か?」とか確認もしなきゃいけないし いろんな配慮してる暇もなかったっとはおもうんだけど・・・ もうすぐ3週間たつわけだから このまま避難生活をしなきゃいけない人や 何とか家に帰れる人 親戚を頼れる人なども それぞれ判断できる時期になって来てるとおもう 避難生活のままの人たちにとって 安心安全な日常が送れるようにしてあげる配慮ができる状況にもなってきているはずよ でもまだ夜怖くて一人で仮設トイレに行けないとか 着替えを覗かれるとか そういう声が報道で伝えられてるのがちょっと情けないよ 阪神淡路大震災や東日本大震災の後に行われた実態調査では 女性が性的な暴行をされたとか 避難所リーダーから支援物資の分配を優遇する引き換えにいやらしい行為をされたとか 覗きや付きまとい ひどいのは避難所で夜布団の中に男性が入ってきたとか・・・これ実際にあったんだって! しかも6歳から12歳の女の子がわいせつ行為される事案も一つ二つじゃないのよ 火事場泥棒以上に女性にとって恐ろしい話だわ 男性のほうも長い避難生活で精神的に参ってるし 何か発散したいって気持ちもあるのかな?でもやっていいことと悪いことはあるんだよ! 避難してる女性のみなさんも 一人でできることは少ないから女性どうしのコミュニケーションを確保しないと安心できないし相談事もできないよ なんとか避難している女性間のネットワークを築いて苦難を乗り切っていけたらっておもうのよ それと 女性のプライバシーの確保 性被害の防止・安全確保 これは行政や警察も協力してしっかり配慮してあげるべきよ! 遠いところからだけどみなさんの無事と早い復旧を祈っています
2024年01月18日
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焼肉スギモトで久々の贅沢2代目タイガース非公式サイトです 松坂牛の名店「スギモト」が直営する「焼肉スギモト」へ行って来たよ! 明治明治33年に名古屋市中区で精肉店として創業した精肉店スギモトさんは 今では生産から加工・卸・小売・外食まで手がけ 時代に沿ったサービスを展開してるんだよ 東京スカイツリーにレストランも開いてて 海外からの観光客へ「和牛」のすばらしさを伝えてます 次のWEBコミック「明治スギモト物語」sugimoto-story.jpを見ると参考になるよ 2代目は毎年お正月に頂く「すき焼き」用のお肉は JRナゴヤタカシマヤ地下2Fのスギモトさんで買ってるんだけど 直営の焼き肉店には今まで縁がなくて今回初めて行ってきたんだよ 行ったのは名古屋市中区金山の金山総合駅に併設するショッピングモール「アスナル金山」の2階にある「焼肉スギモトアスナル金山店」です アスナル金山は再開発で作られた3階建てのショッピングモールで イオンモールなどのような屋内型とは違って 見た感じはどちらかというとアウトレットモール風かな 服飾系や雑貨屋さんなどのほか飲食店が充実してるよ 中央の広場にはイベント用のライヴステージがあって この日もアマチュアのバンドがライヴやってました 聞いてる人は3~4人くらいでちょっと寂しかったけど・・・ でもギターの人の演奏は上手かったわよ やっぱり「スギモト」さんの自慢は牛肉!久々の贅沢なので あらかたの牛肉メニューを注文して堪能しました 「牛のちからこぶ」っていうのも食べたよ スネ肉が普通なんだけど「ちからこぶ」は前足の「ヒザ」より上で「もも」ではない希少な部位なんだって ちょっと固かったけど・・・ 次の写真は「和牛ねぎ巻きロース」 これは「金山店」だけの特別メニューなんだけど 美味しかった?と聞かれれば「ん?」で 2代目には「ちょっと食べにくいな」って感じだった でもお肉は最高ね! まんぷくになりましたが お財布の中は寒々としちゃいましたね でもね焼肉屋さんには何度も行くけど 今回のは年に1度くらいの贅沢 たまにはこんなのも食べないとやってらんないわよ 次回は今年のクリスマスか来年のお正月かな?絶対ステーキ食べてやる! ということでみなさん 最後にスギモトさんのレストラン系のお店を紹介しておきます 残念ながら名古屋市と岐阜県土岐市のほかは東京の2店しかありません でも名古屋へ来た時や東京の人は ぜひ一度は検討してみて!小宴会の可能な店もあるよ! すき焼・しゃぶしゃぶスギモト本店 名古屋市中区栄3-1-35焼肉スギモト アスナル金山店 名古屋市中区金山1-17-1(アスナル金山2F)キッチンスギモト 松坂屋名古屋店 名古屋市中区栄3-15-20 松坂屋名古屋本店北館 B1F炭火焼肉 スギモト 名古屋うまいもん通り広小路口店 名古屋市中村区名駅1-1-4JR名古屋駅構内 名古屋うまいもん通り広小路口焼肉スギモト HOUSeN 名古屋市中区栄2-4-6キッチンスギモト 土岐プレミアム・アウトレット店 岐阜県土岐市土岐ヶ丘1-2 土岐プレミアム・アウトレット1725区GRILL&WINE OLD MANHATTAN 東京都豊島区西池袋1-1-25 東武百貨店 池袋本店お肉の専門店 スギモト本店 東京スカイツリータウン®・ソラマチ店 東京都墨田区押上1-1-2東京スカイツリータウン・ソラマチ 6F詳しくはスギモトさんのHPで見てねトップページ - スギモトグループ|杉本食肉産業株式会社 (oniku-sugimoto.com)
2024年01月17日
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背番号18(その3)背番号18の第3回目です創成期のエース・若林さんから始まって3名の選手が着けてきたよね そのうち2名は投手で 梶岡さんもかなりいい成績を残しているわでも今回からしばらくは ちょっと冴えない番号になってしまうわ 短い期間しか着けてない選手が続くのよ これも「歴史」だから・・・ でも河西さんは選手としてよりスカウトになってからの功績が凄いんだけどね河西俊雄 内野手・外野手梶岡が返上した「18」を継承したのが河西俊雄で、主に内野手(セカンド)の選手である。河西は兵庫県姫路市出身。明石中から明治大学を経て1946(昭和21)年に近畿グレートリングに入団している。グレートリングというのは現在のソフトバンクの先祖に当たる球団で、遡れば1938(昭和13)年に南海電鉄が立ち上げた「南海軍」から始まっている。河西が入団したのが戦争による中断が終わり、1リーグ8球団で再開された1946年で、ちょうどこの年が「近畿日本軍」から「近畿グレートリング」に改称した年に当たる。 残された記録によると河西は164センチ56キロという非常に小柄な選手だったようだが、グレートリング時代の4年間はほぼレギュラーで通している。 1946年から1948年まで3年連続で盗塁王になっており、39個、53個、66個と相当な俊足だったことがわかる。 1950(昭和25)年、2リーグ分裂に伴い、多くの選手が抜けて内野手が手薄になったタイガースの藤村富美男から誘われて移籍することになり、背番号は「18」が与えられた。 1年目はレギュラーとして113試合に出場しているが、前述のとおり選手が不足しているタイガースだったため外野の守備にも就いている。この年は主に2番を打って351打数97安打30打点1本塁打、打率.276で23盗塁となかなかの活躍を見せた。 2年目の1951(昭和26)年も114試合385打数103安打14盗塁、打率.268でリーグトップの30犠打を記録している。 しかし1952(昭和27)年になると98試合の出場にとどまり盗塁も10個と衰えが感じられるようになってきた。 1953(昭和28)年から二軍コーチ兼任となったため、背番号を「31」に変更。コーチ業が主になったため公式戦出場は8試合に減った。 1954(昭和29)年には現役のまま二軍監督に就任、公式戦には出場していない。1955(年昭和30)年に7試合出て現役を引退している。 1956(昭和31)年まで二軍監督を続け、1957(昭和32)年には二軍コーチに戻り、1958(昭和33)年にはフロントに入ってスカウトに転じ、藤井栄治や遠井吾郎を入団させた。 その後も「すっぽんの河さん」と異名をとるほどスカウトで能力を発揮し、藤田平、江夏豊、山本和之、掛布雅之などのちのスター選手を担当して、1976(昭和51)年に退団。 通算記録は771試合2524打数652安打183打点11本塁打、打率.258、盗塁233である。与儀真助 内野手 与儀はアメリカ合衆国ハワイ準州出身で、前年先に入団していた同郷の小島勝治の推薦で1953(総和28)年に入団。河西に続いてまた内野手が「18」を着けることになった。 個人の推薦であったためタイガースは半信半疑で獲得したが、1年目の1953年は130試合に出場し、サードを守っていた藤村をファーストへコンバートさせるほどの活躍を見せて関係者を驚かせる。 この年、492打数145安打72打点14本塁打で打率.295は新人王でもいい内容だ。盗塁も19個を記録しサードのベストナインにも選ばれるなど「思わぬ拾い物」となった。 翌1954(昭和29)年も122試合に出ているが、401打数103安打37打点4本塁打で打率.257と全体に成績を落としている。ところがこのオフ、当時のタイガースは経営が苦しく、経費節減をしなければ運営が困難な状況になっていたため、ハワイの選手とは翌1955(昭和30)年の契約は更改されず、小島とともに解雇の憂き目を見てしまった。非常に残念である。与儀の退団後の1955年は「18」は空き番となった。1957(昭和32)年、活躍した当時のタイガースの監督だった松木謙治郎が大映ユニオンズの監督に就任し、与儀に声をかけて大映に入団させ日本球界に復帰する。しかし85試合の出場にとどまり、219打数44安打12打点で本塁打はゼロ。打率.201と低迷して1年で退団している。日本での3年間の通算では337試合1112打数292安打121打点18本塁打41盗塁、打率263だった。井崎(前岡)勤也 投手・外野手 井崎は三重県亀山市出身だが、スカウトにより和歌山県立新宮高校後援会の幹部だった前岡武吉と養子縁組して新宮高校へ進み、期待に応えて1954(昭和29)年春に始まって三季で甲子園に出場している。左の速球派投手で「ホップするボール」と評判になっており、藤川や村上のように回転の多いボールを投げていたと思われる。 1954年春はベスト4、夏の選手権では準決勝で延長13回を投げ抜きノーヒットノーランを記録して決勝に進出するも準優勝だった。 1955年(昭和30)年の夏は予選で2試合のノーヒットノーランを達成、甲子園ではベスト8まで進むが、準々決勝で中京商から14三振を奪いながら0-6で敗退している。 井崎自身には明治大学への進学希望があった。しかし180センチのスラリとした長身で貴重なサウスポーでもあり、高校時代の成績やスター性は高く評価されていたため、プロ球団の争奪戦に巻き込まれる。 タイガースの青木スカウトは粘り強く前岡家に通って養子離縁させ、改めて実家の井崎家と交渉するという荒業を使い、当時破格の契約金800万円で入団にこぎつけたと言われている。背番号は1年間空いていた「18」を着けることになった。下のスポニチさんの記事では「400万円内外?」となっているが様々な憶測があったのだろう。 ルーキー井崎は1956(昭和31)年2月の春季キャンプでの紅白戦にいきなり登板する。タイガースの親会社・阪神電鉄でも高校野球の大スターだった井崎への期待が大きく「早くお客さんに披露しろ」と藤村監督に強い圧力をかけており、これに抗しきれずに先発させてしまったというのが真相らしい。 井崎は初球から肩に違和感を感じてその後調子を落とすと、「フォームのせいだ」と勘違いしたコーチが改造と称していじくりまわし、ますます駄目になっていく。この様子は背番号17で紹介した源五郎丸洋とダブる。25年も前にすでに同じ失敗を犯していたわけだ。結局1年目は公式戦5試合に投げたものの、0勝1敗、19イニングで5奪三振に終わっている。せっかくの逸材も1年目で台無しとなって、2年目以降も14試合、9試合、6試合と満足に投げられなかった。 タイガースでの白星は3年目の1959(昭和34)年9月の大洋戦に完投で挙げた1勝のみ。ちなみにこの年に背番号を「48」に変え、登録名も「前岡」としている。結局「18」は3年間着けただけに終わった。 井崎は4年間で見切られて、1960(昭和35)年のオフに金銭トレードで中日ドラゴンズへ放出されてしまう。 中日に移っても肩の状態はどうしようもなく、1年目の1961(昭和36)年は8試合に投げただけで勝ち負けは付いていない。 翌1962(昭和37)年には1軍登板はなくなり、まだ25歳ということで1963(昭和38)年に外野手転向の道を選んだがこれも上手くいかなかった。 最終年となった1964(昭和39)年にはほぼ代走と守備固め専門となり、51試合に出場し8盗塁を決めているが気力は限界だったのかオフに引退している。 通算では投手として42試合1勝4敗61奪三振、108イニングで自責点50、防御率4.17だった。まとめどうまとめたらいいのかなあ河西さんは体格に恵まれなかったけど短いながらも好い成績残してる 足も速いし打線ではつなぎ役をきっちり果たしてるわ でもスカウトになって大物選手を担当して次々と獲得してきた貢献度はもっと大きいよ与儀さんと井崎さんは不完全燃焼で終わってしまった感じよね 与儀さんはチームの経営事情もあって解雇されてしまったけど続けて契約できてたらもう一度化ける可能性は十分あったとおもうな井崎さんは源五郎丸さんと同じように潰されちゃったね 高校時代の大活躍を見れば誰でもエースナンバー「18」を与えたくなる投手だったのに 長く貢献してくれるエースを育てるより 目先の一試合の観客動員しか念頭にない球団の体質が浮き彫りになってる 今は違うけど当時はタイガースに限らずこういうことが多かったみたいねさて次回の「18―4」も着けた期間の短い人が続くよ とてもエースナンバーと呼べない時代だね背番号18-4へ続く
2024年01月16日
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2024年期待の選手野口恭佑外野手2代目タイガース非公式サイトです野手における今年一番の注目株!長崎県雲仙市出身で京都産業大学から2022年の育成ドラフト1位入団して昨年がルーキーイヤーでした今年はいったいどれくらい化けてくれるかな・・・多くのタイガースファンのみなさんも同じ気持ちでワクワクしながらキャンプインを待ってるんじゃない?とにかく豪快そのもののスイングが持ち味 闘志あふれる豪快なスイングはテル君を上回る「気持ちの強さ」が伝わってくる頼もしい選手です2代目が初めて見た印象ウェスタンの試合にまともに出始めたのが6月1日の中日戦からで 第1号ホームランが出たのは7月6日のソフトバンク戦調べてみたら2代目は7月11日のウェスタン中日戦(鳴尾浜)で初めて見てるはずなのに当日のブログを見返しても全然触れてないのよ この試合には1月12日のブログで紹介した門別投手も出ててしっかり覚えてるのになんでかな?スコアボードのスタメン7番にちゃんと野口選手が入ってるのになあ・・・2023年7月11日ウェスタンリーグ観戦(阪神鳴尾浜球場) | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp) 井坪君ばかり注目してた時期だったからだとおもうんだけど 実は野口選手はこの試合で4打数3安打だったのよね シングル3本なので目立たなかったのか印象に残ってないなあ・・・(失礼な話なんだけどね)野口選手をしっかり見たのは8月3日のウェスタン中日戦(バンテリンドーム)なのよね 8月1日に3安打 8月2日には第2号が出てて評判になりつつあったので注目してました2023年8月3日ウェスタンリーグ観戦 バンテリンドーム | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)この試合では3打数1安打 タイムリーと犠牲フライで2打点を挙げたのよ まず目を引いたのは迷いなくスイングすることとフォロースルーの大きさね はじき返す感じじゃなくバットに乗せて押していく感じかなあ・・・遠くへ飛ばせる選手だなというのが第一印象だった2023年は育成のまま7月30日の広島戦が終わったところで支配下契約の期限を迎えたわけだけど ここまで打率.286でホームランは1本 結局支配下は見送られて育成のままシーズンを過ごすことになっちゃいました メディアも残念がってたね2023年度の成績支配下契約できなかった悔しさがあってか8月に入って爆発します 上旬だけで4本のホームランが出てる その後はマークもきつくなってきて1本しか上積みできなかったけど最終的に6本は立派だったウェスタンでの成績は67試合198打数60安打6本塁打18打点11四球32三振0盗塁で打率は.303でした 振り回すイメージが強いわりにミートもできてるところが好いね!OPSは.784でフォアボールが11個と少なかったんだけど これは打撃をアピールするために積極的に打ちにいってるからだとおもう それでも3割超えたのは非凡な才能だよ 2023年11月14日に支配下選手として契約してもらえました 背番号は「97」 契約金1000万円 推定年俸は420万円 いよいよ本物のスタートラインに立ったわけね2024年は一軍ベンチを狙え!2024年の外野手のポジション争いは熾烈になるとおもう センターの近本さんとライトの森下君はほぼ確実だからレフトしか空いてないわよ日本シリーズのホームランが効いてノイジー選手が残留してるしミエちゃんもいる 日本人選手では井上選手 前川選手 小野寺選手 井坪選手とひしめき合ってるよ でも昨年ファームで11本打った井上君も一軍ではホームランが出なかったし 前川君もホームランは打てなかったよね 野口選手はまずキャンプでの対外試合やオープン戦で4~5本ぶち込んで とにかく開幕でなくとも一軍に上がることが大事 一軍に上がってチャンスがもらえたときにホームランが1本出れば当分置いてもらえるんじゃない? 一軍の試合で他球団の一流クラスから打つところを岡田監督に見せて初めて認められ勝負になるとおもうんだヒットを欲しがって豪快なスイングが消えてはだめだよ!監督さんは野口選手にそういう姿を期待してないわ 甲子園で有利な右の長距離砲として大きく育ってほしいとおもってるはずだからね!頑張ってください!
2024年01月14日
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背番号18(その2)背番号18の第2回目です創成期のエース・若林さん着けたことで「エースナンバー」と呼ばれるようになった「18番」だけど その後の昭和の時代はあまり冴えない番号だったみたいね今回最初に出てくる山口さんは野手で戦前は「8番」 「18」は数か月付けただけなのよ まえに紹介したのが2023年3月だったのでもう一度詳しく残しておくよそれと今回もそうなんだけど 戦争を挟んだ頃は背番号を変えてることも珍しくないのね だからすでに出てきたことのある選手がまた登場することが多いわよ 山口政信 外野手・内野手(再掲)山口政信は「背番号8」で紹介済みだが要約して再掲する。山口は大阪府日新商業の出身で外野手として甲子園に3度出場している。昭和10(1935)年の夏の選手権では藤村冨美男のいた呉港中に敗れている。昭和11(1936)年大阪タイガース創設時に入団、背番号8を着ける。戦前は俊足巧打の外野手として活躍する。ホームランは少ないがプレー振りは豪快。俊足を生かした盗塁が多く、昭和12(1937)年春季には29盗塁でタイトルを取っている。また選球眼が優れており、この年には春季60個、秋季48個の四球を選びいずれもリーグ最多だった。カーブ打ちを得意としており「和製ディマジオ」とも呼ばれ、景浦將などと並んで当時の人気選手の一人に数えられる。 昭和13(1938)年に一度目の召集を受け昭和17(1942)年に除隊されて復帰して以降はかつてのプレーができなくなってしまう。昭和18(1943)年末に二度目の召集がありそのまま終戦まで軍務についた。山口は1946(昭和21)年に復帰し、短い期間だったが背番号「18」を着け、同年に復帰してきた若林忠志に明け渡して「8」に戻っている。タイガースに復帰後2年間プレーしたが、もう外野が守れず一塁手として合計71試合158打数26安打21打点2本塁打で打率.165というさびしい成績に終わって昭和22(1947)年のシーズン終了後に引退した。その後、実業団の土屋建設でプレーイングマネージャーをしていたところ、戦前のタイガース在籍時の監督だった石本秀一が2リーグ制で新しく創設された広島カープの監督に就任し、その誘いがあって昭和25(1950)年にカープで現役復帰する。カープでは2年間プレーし、129試合441打数113安打42打点3本塁打、打率.256の成績を残している。昭和26(1951)年のオフに引退。その後は野球とは一切かかわらず昭和51(1976)年に永眠。タイガース背番号史 8の1 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)若林忠志 投手(再掲)エースナンバーの元祖。詳しくは背番号18-1を参照。戦争による中断を経て1946(昭和21)年のシーズン途中に復帰したときに、山口から譲られる格好で「18」を着用する。タイガース背番号史 18-1 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)しかし、翌1947(昭和22)年には現役監督に就任したため背番号は「30」に変え、1949(昭和24)年まで3年間着けたのち、1950(昭和25)年には毎日オリオンズへ移籍した。梶岡忠義 投手(再掲)若林が1947(昭和22)年に監督になって返上した背番号「18」を引き継いだのは梶岡忠義。じつは梶岡は10年間の現役時代に4つの背番号を着けている。すでに先代が2015年に「背番号1-1」「背番号3-1」で紹介しているが(タイガース背番号史1の1 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)。)、先代はかなり簡略にして記載しているので詳細な内容を加筆して再掲する。梶岡は大阪府大阪市出身で成器商業から専修大学へ進む。エース兼4番打者の二刀流で活躍し、東都大学野球4季連続優勝の原動力となっている。大学4年時にはタイガースから声がかかっていたが学徒出陣に応召され満州で終戦を迎え、1946(昭和21)年に帰国すると一時的に社会人野球の中央工業に籍を置く。1947(昭和22)年2月、南海からの勧誘を断って、戦前に声をかけてくれていたタイガースへ入団した。背番号は兼任監督就任で若林が返上した「18」を引き継ぐことになる。投手としての梶岡は「七色の変化球」で打者を翻弄した若林と正反対で、「変化球なぞ投げられるか!」と言って全盛期は直球勝負にこだわり続けた。若いころは本当にストレートしか投げず、肘を壊してからようやくカーブも使うようになったという。ルーキーイヤーの1947年は34試合に投げている。28回の先発がありそのうち24試合で完投(5完封含む)しているところは若林譲りの「エースの仕事」と言えるだろう。この年は22勝8敗、280回1/3を投げて自責点60、防御率は1.92と文句なしの内容で、タイガース戦後初優勝に貢献している。1948(昭和23)年はさらに凄みを増し、50試合に登板して41試合に先発し35試合で完投(完封5)している。成績は26勝17敗、367回2/3で自責点104、防御率2.54である。50試合のうち43試合で勝利または敗戦投手になっており、投げた試合は最後まで責任を持つという「エースの姿」を体現している。8月24日の対南海戦ではノーヒットノーランも達成した。ルーキーからの2年間で48勝を挙げ、さすがに疲労があったのか1949(昭和24)年には肩を故障し30試合13勝10敗(防御率3.96)に落ち込んでしまった。そのためか1950(昭和25)年には背番号「18」を返上して「1」に変えているが結局は12勝9敗(防御率3.57)、1951(昭和26)年も13勝7敗(防御率3.43)と勝ち星が伸びない時期が続いた。 1952(昭和27)年、背番号を「1」から「3」に変更すると、38試合に登板して21勝8敗と復活を見せ、防御率1.71でタイトルを獲得している。しかし1953(昭和28)年の16勝13敗を最後に二けた勝利はなくなり、1954(昭和29)年が8勝、1955(昭和30)年は白星が0となった。1956(昭和31)年には投手コーチ兼任となって背番号も「32」に変更したが一軍での登板はなく、同年限りで現役を退く。そのまま1964(昭和39)年までタイガースに残って、主に二軍投手コーチなどを務めて退団しているが、引き続きOB会長として毎試合甲子園に足を運んで後進たちに声援を送っている。梶岡は直球勝負がたたって被本塁打も多く、1948(昭和23)年にはホームラン配給王にもなったりしている。しかし見るほうは爽快であり、3年間に過ぎなかったが「18」を背負うにふさわしい気質を持っていた。通算成績は299試合に登板して131勝85敗、1920㌄を投げて自責点598、防御率は2.80である。大学時代に鳴らしたバッティングはプロでも健在で、実働9年間に327試合728打数151安打66打点12本塁打6盗塁を記録しており、通算打率.207も投手としては立派なものだった。2003(平成15)年に82歳で死去。まとめエースナンバー「18」がどうなて行くか注目なんだけど 山口さんは野手だったね 戦前は人気選手だったのに残念ながら戦争の影響で活躍の時期は短かった 若林さんは18-1で詳しく紹介してるから見てほしい ホントにタイガースの功労者だよ! 藤村さんや村山さんに匹敵します梶岡さんは投手として実働期間は9年と短かかった でも20勝以上が3シーズンあるし 「ストレートしか投げない」っていう潔さがなんとも気持ちいいよね 故障が無ければ200勝近くいってたんじゃないかなと想像します 成績が落ちると背番号を変える・・・を繰り返しているのを見ると 梶岡さんはあまり番号へのこだわりがなかったのかもしれないわね背番号18-3へ続く
2024年01月13日
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2024年期待の選手門別啓人投手2代目タイガース非公式サイトです年も変わって10日も過ぎ 各選手が外に出ての自主トレを開始してますねタイガース投手陣の中で2代目が2024年に飛躍しそうな期待感を持ってる選手・・・昨年のドラフト2位・門別啓人投手(背番号30)も2年目に向けて動き出したよ!2代目が初めて見た印象去年は7月11日のウェスタン中日16回戦(鳴尾浜球場)で初めて直接見させてもらいました 一見した時とても高卒1年目のルーキーには見えなかったのよ それだけ体ができてるってことなんだろうけど この時は6回から9回まで4イニングを投げたのね 先発ではなかったけどこのイニング数は先発を想定してるんだろうなって感じたのを覚えてるわ当日の内容は4回57球 打者16人 被安打3 奪三振1 四死球0 失点0というもので 球速は最速で149キロ 三振は1つしか取ってないけど印象としてはコントロールで乱れるタイプじゃないなと感じました ストレートの球威も十分なので変化球の精度が上がって配球に幅ができればもっと三振が取れるようになるよゴロアウトを6つ取ってるし打たれたヒットはシングル3本だけなのを見ても 低めにしっかりコントロールされてることがわかる183センチ86キロのがっしりした体格は迫力があるし 高卒新人と思えない下半身の安定感がコントロールの良さの要因だろうなとおもう一軍登録 プロ入り初登板リーグ優勝が決まったあとの9月15日に初めて一軍登録され 同日の対広島22回戦(マツダスタジアム)の2番手で初登板 3回から5回まで3イニングを投げたんだけど さすがに緊張してたねえタイガース2点リードで迎えた3回裏 先頭のマクブルーム選手にいきなりフォアボール 続く田村選手にセンター前に運ばれて無死1・2塁 床田投手が送って一死2・3塁から野間選手に2点タイムリーツーベースを浴びました 野間さんには3B1Sから打たれてるのを見ても ちょっとコントロールが悪かったと言えそうねこのあと小園選手にもレフト前タイムリーを打たれて2-3と逆転されてしまったのよ まあ普通なら交代かもしれないねでも経験のための登板だから 岡田監督は4回5回もなげさせました 4回に2安打 5回にも2安打を浴びてしまって3イニングで計6安打3失点は苦いデビューだったかな? それぞれ2安打された4回と5回は その後をしのいで失点しなかったんだから評価はできる内容だったとおもうけどね2023年2度目の登板もう1試合は9月30日の対広島24回戦(マツダスタジアム) この日はプロ入り初先発しました 前回は2番手だったけど この子は先発向きなんだろうなっておもう今回はとても落ち着いていて5回を投げて無四球で4三振を奪いました 打たれたヒット7本はすべてシングル 長打を打たれない球質の特性があるのかな? 前回は約4割にとどまったストレートを今回は6割に増やして「ピンチじゃない時もピンチの時もまっすぐで押していけた」というところが鍵ね 0対0でマウンドを降りたので勝敗は付かず 初勝利は来季以降にもちこしとなりました 本人の感想は次のようなものでしたね「1試合目(9月15日)は自分の持ち味であるストレートをあまり投げれなかった。2試合目(同30日)も打たれてもいいかな、と思い切って投げた結果抑えられた」マウンドでの度胸があるなと感じさせるコメントしてるなあ 1年目は2試合で8イニング 打者37人に対して被安打13 自責点3で防御率3.38 奪三振5 四球1という成績でしたが学べたことは多かったんじゃないかな? 2024年は新人王目指せ!昨年11月の秋季キャンプで豪快なストレートに磨きをかけ 岡田監督からキャンプMVPの評価をもらいました安藤コーチ「ベース板でぐんっと押せる感じがある。秋のメンバーでは一番強く感じたね。あの年齢であの球威は天性のものだろうね」岡田監督「今中(元中日)みたいやな。肘が柔らかくてしなる。軽く投げてるようで、直球がピュッとくる」「開幕ローテを狙える力あるわな。(他球団から)隠したいわ」「そら(同時期の)井川より、全然いいよ」「3桁は勝てへんから、2桁(勝利)やなあ」 どんどん評価が上がってるのは実際にストレートに凄みがあるからだとおもう 監督さんも嬉しそうにコメントをしてくれてるよね!現在想定される6名のローテーションは 右投手が村上様 才木くん 西勇さん 青栁さん 左投手が伊藤さん 大竹さん という顔ぶれだから 左の門別投手はやや陰りの出てきた西さんや青栁さんのところに食い込んでいくチャンスはあるとおもう監督の開幕ローテの構想の中には門別投手の名前も入っているようだし 開幕一軍が実現すれば新人王狙えるよ!去年はマツダスタジアムでしか投げてないから甲子園での初登板が楽しみね!
2024年01月12日
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タイガース戦力外選手の去就決まる2代目タイガース非公式サイトです昨シーズンを最後に戦力外となった全8選手の去就が明らかになったので 記録に残しておこうとおもいます 山本泰寛 2023年11月24日 中日ドラゴンズへの入団が発表されてます 背番号も「60」に決まりましたね タイガースでの専門はサードだったけど中日は石川選手をサードで育てる方針だから厳しいかな でもユーティリティプレイヤーの山本さんはセカンドもショートもやれるから 内野陣に食い込むチャンスはないとは言えないよ 頑張ってまず一軍枠を目指すことね 板山祐太郎 山本さんと同じく中日ドラゴンズへの入団です ただし板山さんは育成契約なのね 外野は巧打の岡林選手をはじめ 昨年ブレイクした細川選手 べテラン大島選手 長打の鵜飼選手やブライト健太選手 上林選手も加わったよ 顔ぶれを見ると結構層が厚くて大変よ 視力が落ちてるのも心配だし・・・ まずは育成脱出からだから道のりも長いし 気を緩めたら終わりという背水の陣で臨んでほしい! 高山 俊 高山さんは現役を退く決断に至らず オイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブからの誘いを受けて入団したんだよね オイシックスの公式サイトによれば 2023年11月22日にNPBから連絡があり 2024年シーズンからイースタンリーグへの参加が正式承認されてる新潟で実績を見せることで もう一度NPBへの復帰を目指すってことでしょうね 頑張ってほしいわ 小林慶祐 高山さんと同じでオイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブへ入団しました やはりファームとはいえセーブ王になったプライドもあるだろうし まだ力を出し切っていない感覚なんだとおもうな アピールの場として新潟を選択して新たな勝負をかけるということね ぜひ全力でNPB復帰を目指してほしい 北條史也2024年は社会人チームの三菱重工Westでプレーすることになりました 上の2人と違いプロとの対戦はなく NPB復帰を目指すにはちょっと遠いかな? でも北條さんは「現役選手」をやめる気はないってことだし 場合によっては二度目のチャンスが全然ないとは言い切れないわけなので頑張るしかないぞ! 望月惇志望月さんは残念ながら現役引退 2024年からはタイガースアカデミーのコーチに就任することになりました タイガースアカデミーとは 子供を対象にしたレッスンスクールで「ベースボールスクール」と「ダンススクール」があるのよ(写真は参考)望月さんはベースボールスクールの担当 未来のプロ野球選手を目指す子供たちを指導するのはやりがいがあるとおもうよ 好い仕事に就いたね 渡邉雄大 渡邉さんは2023年12月1日のインスタグラムで 「まだやりたい。もっと投げたいという未練はあります」としながらも「胸を張って引退をする事が出来ました」と報告して潔く現役を引退したね 去年何度かファームで観たけどまだやれそうなボールを投げてました でもあきらめるのも人生の選択ってことかな? どんな道に就くのか明らかになってないけどいい仕事に就けることを祈ります 二保 旭ロッテ・オリオンズの入団テストを受けて合格し 当面は育成契約での入団になったようね 写真は向かって右が二保さん左はオリックスから入団の吉田凌さんね申し訳ないけど 二保さんは昨年ファームの試合で何度か見て まったく好い印象が無いのよ 球威も駆け引きも一流というにはほど遠く ファームの対戦相手にもかなり打たれた場面が多かったロッテがどういう感覚で獲得したかは分かんないな 相当頑張らないと育成から支配下への昇格はないとおもう それぞれのみなさんにとって良い年であるよう祈ってるよ!
2024年01月11日
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名古屋でゲット!2代目タイガース非公式サイトですみなさん「パンダバウム」って知ってます?東京銀座に本店のある「カタヌキヤ」さんが製造販売してるバウムクーヘンの一つなのね 本店のほかにはソラマチタウン店(スカイツリー下)と渋谷店しか実店舗はないから実質東京でしか買えなかったのよね 次の写真は銀座本店それがお正月とあってJRナゴヤタカシマヤに祭事出店してたので ラッキーとばかりに と言ってもお試し商品の一番ミニサイズ(3個入り)を買ってみたよ パッケージデザインは辰年にちなんで龍にのったパンダ なかから小箱に入った3個のバウムクーヘンが出てきます 「カタヌキヤ」さんは その名のとおりバウムクーヘンに切れ目を入れて絵柄を型抜きできるようにしてあるのが特徴です サイトの写真では綺麗に抜けてるね 外側を剝がすように抜いていくとか 絵柄を後ろからゆっくり押してスポンと抜き出すとか やってみると面白いよ パンダのほかにも「リラックマ」とか「ハローキティ」「マイメロディ」などのサンリオキャラクターもあるみたいよ話には聞いてたし 今はネットショップでも手に入れることができるけど 今回はたまたまナゴヤタカシマヤの地下で見つけて目の前で見て買えてよかった肝心のバウムクーヘンはしっとりとしながらフワフワ感があってまずまずの味わい 片ぬきは結構慎重にやらないとポロポロ崩れそうになるわね 思ったより繊細なのよ2代目の作品だけど写真で見てもちょっと雑だわ・・・他にもいろいろ商品はあって「パンダサブレ」というのも買ってみたよ これは結構固いんだけど香ばしくてまた違った味わいです 現在ブログネタに行き詰まり感があるのよねえ こういうのも記事にしていかないと間が持たないということで紹介しました詳しく知りたい方は次のサイトを参照してくださいませ【公式】カタヌキヤ - かわいくて楽しい型ぬきバウムの専門店 (katanuki-ya.com)
2024年01月10日
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背番号18(その1)背番号18の第1回目です球団創立時からある背番号よね プロ野球の世界ではいわゆる「エースナンバー」と呼ばれることが多い「18番」タイガースでは1936(昭和11)年の創立時に当時のエース若林忠志さんが着けました 実は若林さんが大活躍したことで「18」がプロ野球界で「エースナンバー」と呼ばれるようになったんだよ!その後も投手が着ける番号だったのは間違いないんだけど タイガースでは意外に大エースと呼べるほどの選手は出ていないのよ 藤川球児さんが着けてたのは覚えてる?でも1年だけなのよね とにかく順番に見ていくと若林さんのあとは「あまり知られてない人が続くなあ」って感じがするよ若林忠志 投手アメリカ合衆国ハワイ出身の日系二世。ハイスクール時代に親善試合で来日し剛速球が評判となって1932(昭和7)年に法政大学へ進む。 日本の環境に慣れてきた大学2年時の秋のリーグ戦では優勝に貢献したが、3年時には肘や肩を痛めたことでサイドスローに変え、のちに「七色の変化球」と呼ばれる技巧派への転機となった。1シーズン制となった1934(昭和9)年には全15試合に登板して11勝3敗1引分と鉄人のような活躍を見せ優勝、大学通算で87試合43勝28敗という成績を残した。大学卒業後は一旦日本コロムビアに入社する。1936(昭和11)年、職業野球の創設に伴って読売、阪急、タイガースなどから勧誘され、「契約金」を要求する若林の意向を汲んだタイガースへの入団が決まり背番号「18」を着ける。契約金は「3000円」だったという。 まず若林の現役生活において、戦前の1936年から1944(昭和19)年までの9年間の数字を見てみる。355試合に登板し、177勝86敗、2357㌄で自責点432、防御率は1.65だ。その内214試合に先発し176完投しており、完投率が8割を超えることがすばらしいし、300㌄以上投げたシーズンが5シーズンもあり、1943(昭和18)年には415回2/3で年間10完封を記録している。さらに驚くのは1943(昭和18)年は39試合に先発して39完投、1944(昭和19)年も24試合に先発して24完投。つまり先発した試合では全て最後まで投げ切っているという驚異的な数字だ。 戦前最後の1944年シーズンは35試合しか行われなかったが、そのうち31試合に登板して阪神を優勝に導き、最多勝・勝率1位・防御率1位とMVPを獲得している。この年、すでに36歳になっていたにもかかわらずチーム勝利27勝のうち8割以上の22勝を稼ぎ、2位巨人のチーム勝利数(19勝)より多かった。こんな投手は他にはいない。背番号「18」がエースナンバーと呼ばれるのにふさわしいことを数字が証明している。まさに大エースだった。後にエースとなる小山正明も先発完投にこだわる投手だったが、この若林の影響を受けているのは間違いないだろう。「七色の変化球」と異名をとっていたが、実際には4種の変化球に緩急と微妙な変化を加えて、“七色”どころか、無数の変化球があるように打者を幻惑していく「投球術」に長けた投手で、駆け引きが抜群に上手かったと言われる。1942(昭和17)年からは現役監督となって背番号は「30」を着けている。戦争による中断の間は妻の実家の水産会社に勤めており、終戦後は年齢も年齢だけにプロ復帰は考えていなかった。しかしプロ野球再開後の運営に苦しむ藤村富美男の説得に応えて1946(昭和21)年にタイガースに戻り再び背番号「18」を着ける。翌1947(昭和22)年から現役監督となって1949(昭和24)年までの3年間、背番号「30」を着けている。この3年間も26勝12敗、17勝20敗、15勝14敗の成績を残しており、1949年は41歳のシーズンだった。1950(昭和25)年、2リーグ分裂に伴ってパリーグの毎日オリオンズへ移籍する。もともとアメリカ出身だけに、2リーグ制への移行推進の支持者であったためでもあるが、当初パリーグの中心となるはずだったタイガースが豹変してセリーグに残ったことでフロントと対立し、最も高く評価してくれた毎日への移籍となったという。毎日へ移った1950年には42歳になっており、シーズンは4勝に終わったがリーグ優勝。第1回の日本シリーズでは第1戦の先発投手として日本シリーズ史上最初の勝利投手になった。第6戦では奇策ともいうべきノーアウト満塁での敬遠というこれもプロ野球初の珍プレーを記録している。毎日では3年間プレーしたが1年目に4勝したのみ、44歳で現役を退く。現役最後の年になった1952(昭和27)年に2試合登板して1三振を取り通算1000奪三振を達成している。通算成績は528試合237勝144敗1000奪三振、3557回1/3で自責点786、防御率1.99。特に327試合に先発して263試合に完投しているのは凄い。最多勝2回、最優秀防御率2回、勝率1位1回のタイトルも取っている。またタイガースで6シーズン、毎日で1シーズンの一軍監督経験があり、タイガースの監督として2回の優勝も記録している。 2リーグ分裂の際にダイナマイト打線の主力だった別当薫・土井垣武・呉昌征が若林と行動を共にしたことから、タイガースにおいては長く「裏切者」扱いを受けることになったが、タイガースにおける通算233勝は今なお球団最多勝利記録である。1964(昭和39)年に野球殿堂入りしているが、その翌年の1965(昭和40)年3月5日に57歳の若さで亡くなった。 若林は社会貢献活動の先駆者でもあった。自費で子供対象のファンクラブを立ち上げ、少年野球の発展やファンの開拓に尽力。孤児らの施設への慰問など慈善活動にも精力的に取り組んでいる。タイガースは2011(平成23)年3月5日、チーム内で多大な社会貢献をしたものを表彰する「若林忠志賞」を創設し、長年のわだかまりを払拭するとともに若林の名を顕彰している。まとめ今回はタイガースにおける背番号「18」の元祖で この番号が「エースナンバー」と呼ばれるきっかけとなった若林さんだけにしましたそれだけ輝かしい実績を残し貢献しているのよ ミスターと呼ばれる村山実さんの222勝を超える233勝をタイガース時代に記録してる大エース素晴らしい投手だったのに2リーグ分裂時のごたごたでタイガース内部では評価が下がってしまったのね 本来なら「ミスター」と呼んでもいい選手だよこれからも背番号18を背負う選手は あらためて若林さんのことを知り その遺志を受け継いでいく名選手になってほしいとおもう現役タイガース選手では2023年まで馬場皐輔投手が着けていたんだけど 現役ドラフトで巨人に行っちゃったので これを書いてる2024年1月現在は「空き番」になってる 次に誰が着けるんだろうね?簡単にはもらえない番号だし もらったら責任が重い 2代目は村上投手が適任だと思うんだけど みなさんはどう思う?背番号18―2に続く
2024年01月08日
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高津監督が語った阪神・村上様の凄さ2代目タイガース非公式サイトですちょっと話題に詰まってしまってデイリーさんの記事をほぼ抜粋して頼ってますよ ごめんね1/7(日) 22:44配信プロ野球名球会の公式YouTubeチャンネルが7日、更新され、ヤクルト・高津臣吾監督が昨季、新人王とMVPを獲得した阪神・村上頌樹投手について要因を語った。セ・リーグで対戦経験がある高津監督は「ベンチから見て、横からですけど明らかに球が低い。低めにストライクが取れるのはすごい武器だと思いますよ」と語った。 「もちろん球が速い、変化球が凄いというのもそうですけど、低めにコントロールできることが凄い魅力」と評した高津監督。低めへの制球力があることで「なかなか芯に当てて前に飛ばすことが難しい投手ですよね」と分析した。 ヤクルトは昨季、5試合で村上と相対し1勝3敗、防御率1・03と抑え込まれた。さらに本拠地の神宮球場では3戦全敗、防御率0・86という結果となった。 データを見ても比較的本塁打が出やすいとされる神宮球場で被本塁打はわずかに1本。東京ドームでは被弾ゼロという結果を踏まえても、長打率が低くなるローボールの制球力が抜群だったという高津監督の分析が当てはまっていると言える。 対戦相手から見ても 低めのコントロールに関して明らかにほかの投手より優っているようね シーズン中にもいろんな人が指摘してたよね! 回転が多くてボールがお辞儀しないから伸びてくるように感じる・・・そもそもこういうことを「伸びのあるボール」って言うんだろうね 馬場投手が抜けてエース番号「18」番が空いたね 2代目はぜひ村上様につけて頂きたいと感じてるけど みなさんどう? 次回の「タイガース背番号史」はその「18」 タイガースの「18」というかなぜ「18」がエースナンバーって言われるのかを第1回で解き明かすわよ お楽しみにしててね!
2024年01月08日
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背番号17(その7)いよいよ背番号17の最終回ですまずドラフト1位が出てくるんだよねえ・・・すごく期待された投手よ でも結果は残せなかった そのつぎの人も投手で2年着けただけ そしてまたドラフト1位の岩貞さんが着けるのねそして今年2023年から青栁さんが着けました ということは今回出てくる4人はすべて投手ね ちょっと長くなるけど順にみていきましょう杉山直久 投手京都府舞鶴市出身で東舞鶴高校に進むが甲子園の経験はない。龍谷大学で頭角を現し、2年時にノーヒット・ノーランを記録すると、3年秋は4勝を挙げて防御率0.86という好成績で優勝に貢献し、MVPに輝いている。4年になると150キロを超える速球を武器に日米大学野球の代表に選らばれるなどドラフト1位候補として名前が挙がってくる。大学通算では15勝4敗で防御率1.19の数字を残した。2002(平成14)年、タイガースはドラフト自由獲得枠(逆指名1位)で杉山を獲得する。背番号は前年藪恵市が返上したエースナンバー「18」と決まった。ルーキーイヤーの2003(平成15)年は、キャンプから前半戦まで体力づくりに専念し、8月に一軍へ昇格する。結局3試合(先発2)しか登板機会は無く、0勝2敗で防御率も7.71に終わっている。2004(平成16)年6月15日のヤクルト戦で先発し5回2/3をなげて3失点でプロ初勝利を飾ったが、この年は13試合2勝2敗で防御率5.30だった。2005(平成17)年、体の開きが早かったフォームを改良してブレイクする。23試合(先発22)で9勝6敗、134回2/3を投げて奪三振103自責点44、防御率2.94の好成績を残してチームのリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは3連敗後の第4戦に先発したが、2回に李承燁の2ランをあびて先行を許し敗戦投手となっている。ところが2006(平成18)年からまた思うように勝てなくなる。この年17試合で4勝4敗に終わると、2007(平成19)年も20試合4勝5敗1ホールドと低迷が続く。2008(平成20)年には登板が9試合と激減し、2勝3敗の成績で一軍から遠ざかっていく。2009(平成21)年、背番号「18」を剝奪され、前年まで金村が着けていた「17」に変えて再スタートしたものの、一軍での登板はわずか2試合で0勝1敗、防御率5.40とどん底に落ちてしまった。2010(平成22)年は一軍で7試合に投げたが先発は一度もなく終わり、2011(平成23)には一軍に上がることすらできないまま過ごして戦力外となった。 トライアウトを受けたがプロではお呼びがなく、2012(平成24)年はBCリーグの富山サンダーバーズに所属した。 現在はオリックスのチームスタッフとして裏方で汗をかいている。伊藤和雄 投手埼玉県小川町の出身。中学までは内野手だった。県立坂戸西高校に入って投手に転向しているが全国大会とは無縁だった。東京国際大学に進んで、元広島カープの監督だった古葉竹識監督の指導を受けながら成長をとげ、4年春には3完封を含む7勝を挙げて東京新大学野球リーグでの初優勝に導くエースとなった。大学通算では16勝6敗、防御率1.61の記録を残している。 150キロを超える回転の好いストレートで押す本格派で、三振が取れる投手として注目される存在になり、2011(平成23)年のドラフト会議では、衆目が上位指名を予想した。しかし意外にもタイガースは4位で獲得している。まだ東京新大学野球リーグの評価がそれほど高くなかったからかもしれない。背番号は退団した杉山の「17」を受け継いだ。 2012(平成24)年10月に一軍登録され中日戦で初登板初先発したが、7安打3四球の乱調で4回4失点、敗戦投手になっている。1年目はこの1試合で終わった。2013(平成25)年は春に右ひじを故障し1年間をファームで過ごす。しかし、そこでも満足に投げられず12試合1勝1敗だったため、オフには育成契約となり背番号も「117」になってしまう。2014(平成26)年は春から調子を上げ、オープン戦では4イニングで8奪三振と復活した姿を見せたため4月に支配下選手に戻った。背番号は「92」で、藤川のように三振が取れる投手として開花してほしいという願いも込められていた。しかし、この年すべてリリーフで6試合に投げているが、防御率6.30と結果につながらなかった。2015(平成27)年以降、引退までの7年間で43試合の登板があるがすべてリリーフで、2020(令和2)年の6月27日のDeNA戦の6番手の投手として1イニング無失点に抑え、遅まきながらプロ初勝利を挙げている。これが唯一の白星となった。2021(令和3)年をファームで送ったのち引退、現在は球団職員。通算成績は50試合1勝3敗1ホールド、70回2/3で自責点37、防御率4.71なのだが、投球回数を上回る72個の奪三振を記録している。この才能を十分に生かせなかったのが非常に惜しまれる投手である。岩貞裕太 投手伊藤が育成選手になり、そこへ入団してきた岩貞が「17」を引き継いでいる。熊本県熊本市出身。必由館高校では全国大会に出ることもなく無名で、横浜商科大学に進んでから一気に頭角を現した。大学1年から毎シーズン白星を挙げており、2年で日米大学野球の代表入り、4年秋には6勝1敗で防御率0.42という圧倒的な数字で「大学屈指のサウスポー」としてドラフト1位候補になっている。大学通算25勝13敗、防御率1.65。 2013(平成25)年のドラフト会議では1巡目でタイガースと日本ハムが競合し、抽選に勝ったタイガースへ入団が決まる。 2014(平成26)年、キャンプでは「能見2世」などと呼ばれ期待が高まったが、左ひじ痛を発症して前半戦は治療に専念し、8月に一軍へ上がる。8月17日のDeNA戦で初先発初勝利(5回2/3、2失点)したが、結局1年目は1勝4敗で防御率4.60という不完全燃焼で終わった。 2015(平成27)年は一軍で5試合(すべて先発)しか登板機会がなく、1勝1敗で防御率4.35と伸び悩んでいる。 まだ現役の選手なので過去より今が大事。このあたりからは少し簡素化するね。 2016(平成28)年に飛躍を見せる。25試合にすべて先発し10勝9敗、防御率2.90と大ブレークの年となった。特に4月の3試合連続二けた奪三振(12個12個10個)は開幕からの記録としてはセリーグ初の快挙で月間MVPに輝いている。ところが6月から8月にかけては満塁ホームラン3発を打たれるなどまったく勝てなくなり、9月に入ってから5連勝して10勝に到達している。2017(平成29)年から2019(令和元)年までの間も先発投手として投げるが、5勝10敗、7勝10敗、2勝4敗と勢いがなくなってしまう。2020(令和2)年、矢野監督がブルペンに配置転換すると、中継ぎやセットアッパーとして能力を発揮しはじめる。もともと井川慶とタイプが似ていて、ストレートとチェンジアップを軸にした配球で三振が取れる投手。ここという場面で三振を狙って取ることができることがリリーフに回って生きてきた。2020年以降の4年間で55ホールドを記録し、特に最近の2年間は防御率も2点台と安定しており、中継ぎの柱としてチームをけん引している。2023(令和5)年は前年取得したFA権を行使せずに残留し、背番号を「14」に変更している。青柳晃洋 投手 岩貞が着けていた背番号「17」を受け継いだのは青栁で、ルーキー以来7年間着けていた「50」を返上している。神奈川県横浜市の出身で川崎工科高校へ進んだが、高校では予選3回戦が最高で全国大会は夢のままに終わっている。帝京大学に進むと1年時から公式戦に出るが3年時に右ひじの手術を受けるなど万全ではなかった。それでも4年春には6勝で最多勝・ベストナイン。大学通算37試合で15勝9敗、防御率1.91は立派である。しかし手術などの不安材料からか、各球団の評価は思いのほか低く、2015年のドラフト会議でタイガースは5巡目で獲得することができた。背番号は「50」。過去にオーバースローも試したが上手くいかなかったのは、もともと腕や肩関節が横振りに向いていたとおもわれる。サイドでもなくアンダーでもない独特のフォームは自ら「クォータースロー」と呼んでいる。本人は「みっともないフォームで嫌い」と言っているが、勝てているからそれでいい。1年目の2016(平成28)年から2023(令和5)年まで、8年間で142試合に登板してそのうち141試合が先発だが、ローテーションで安定するまでには時間がかかった。プロ入りから5年間を見ると、4勝5敗、4勝4敗、1勝1敗、9勝9敗、7勝9敗と勝ち越しが無い。防御率は毎年3点台前半で非常に安定感はあるが、今一つ勝ち切れないというのが物足りなかった。それが2021(令和3)年に確変が起き、25試合13勝6敗、防御率2.48と覚醒し、最多勝と最高勝率の二冠に輝く。さらに翌2022(令和4)年も24試合13勝4敗、防御率2.05で、2年連続での最多勝と最高勝率のタイトルに加え、防御率も1位という三冠を達成している。2023(令和5)年には、岩貞から背番号「17」を受け継いで、初めて開幕投手としてシーズンに望んだが、1年間制球に苦しんで夏場以降をファームで過ごすなど不本意なシーズンにしてしまった。18試合で8勝6敗なので恰好だけはまとめたが、規定投球回には程遠く、防御率4.57というのもプロ入り最低だった。 ただし、最後の最後、日本シリーズ第7戦での4回2/3の熱投で締めくくれたのは好かった。「17」を黒歴史に戻さないよう頑張ってほしい。まとめ 背番号「17」は今まで23人の選手が着けましたが そのうち17人が投手なのよね 源五郎丸さん以降は13人中12人が投手もう完全に投手の番号として定着したといっていいわね 今回の4人も投手です そのうち杉山直さんと岩貞さんがドラフト1位ね 移籍してきた杉山賢人さんも含めると延べ6人のドラ1が着けてます 本来なら栄誉ある番号なはずなんだけど成功した人が少ないね・・・青栁さんは「17」になって成績が落ちただけに責任重大!来季から巻き返してぜひとも「栄光の背番号」にしてもらいたいわこれで17番は終わりよ 読んでくれてありがとう!次回からは球界で「エースナンバー」と言われる「18」に進むよ!背番号18に続く
2024年01月06日
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キムタクさんって如何なもの?ジャニー氏もひどいけど2代目タイガース非公式サイトです1月1日に放送されたフジテレビの「さんタク」を少し見てたんだけど さんまさんと木村拓哉さんのやり取りに不快感や情けなさを感じたのね みなさんも見た?さんまさんは明らかに最近批判のマトになってる木村さんを庇って持ち上げようとしてるのが見え見えで印象好くなかったなあ・・・ 木村さんはジャニー喜多川氏の性加害を知ってたくせに「自分の言葉で言える場所がなかった」とか「バックレずにやってみます」とか 50を超えたおじさんの言葉と思えない幼稚さが漂う始末SMAP解散騒動の会見のときは(事務所の意向も強かったとおもうけど) 他の4人に非があるようにさらし者にして自分だけ被害者みたいな顔して好い子になってた感じだったし 2代目の眼には「ジャニーズっていう居心地のいい場所を離れる気はないし 人気のあるSMAPというユニットも失いたくない」って映ったわ・・・ジャニー氏の犯罪にたいして東山さんや井之原快彦さんが会見した直後に「Show must go on!」とズレたインスタ投稿したのは 自分とは関係ないと言いたいようなちょっと距離を置いた立場に逃げてるよ(犯罪知ってたくせに)同調圧力や忖度の不気味さSMAP時代の若いころを見ると確かにビジュアルでは抜けてた感じはするんだけど演技は全然成長してないよ それでも事務所の力で主演ばっかりもらって 大きな顔して先輩役者に演技指導してたって・・・ ドラマや映画の前の番宣なんか 普通の役者じゃ考えられないくらいバンバンやってもらえるし・・・共演者も事務所の力で大物そろえてもらってお山の大将になれるし「何やってもキムタク」というのは「何やっても山ピー」と一緒で その通りとおもうんだよね でもみんなの前で言うと白い目で見られたなあこれも「同調圧力」みたいなのがあって ジャニーズタレントについての本音が言えない空気ができてたのよね 内心では「演技が下手」「一本調子」「おじさんになっても若ぶってる」とか思ってる人はいるはずなんだけど誰も言わないのよ 「キムタクを批判するほうが悪」みたいで気持ち悪かったそれだけジャニーズ事務所の戦略や権力への浸透がすごかったんだろうなっておもう NHKや日テレ・テレ朝なんか オーディション面接会場と称して自社ビルの一室をジャニー氏の「品定め」に無償で貸してたって言うんだからあきれるわ 現場の人たちは頭に来てても ジャニーズ事務所に忖度する上層部からの圧力に抗えなかったんじゃない? なにしろジャニー氏のご意向に逆らったら「お前のとこにはもうタレント出さない」って脅されてしまうんだよ!そこまで事務所の力を浸透させてたジャニー氏も凄いとは言えるんだけどね一部の被害者の方たちが勇気をもって告発したことで「性加害事件」が公になって好かったとおもう 今売れてる人も「性被害に甘んじても耐えることでスターになった」というケースがあるならその人はとても告白はできないからね~ジャニー氏は 少年時代にタレントを発掘して適材適所で組み合わせ 様々なユニットをプロデュースし さらにスターへと昇らせる その才能はすごいとおもう でもタレントの人たちの「スターになるためには逆らえない」とか「干されてしまうから公にできない」っていう弱みに付け込んで好き勝手やってたんだよ 本当にひどい
2024年01月05日
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重かった仕事始め2代目タイガース非公式サイトです4日になりました 仕事に行きました1日に地震がおきて被害の状況がわかってくるにつれて気持ちがますます重くなってきてる 仕事場でも新年のあいさつを交わす間もなく地震が話題になって・・・やっぱり隣県だしこっちでもかなりの揺れがあったことも手伝ってるのよね2代目が住んでる地方の北部では 今から約130年前の明治24年に「濃尾地震」という直下型の大地震があった記録があるよこの地震は活断層が斜めに大きくずれて起きたマグニチュード8.0という強烈なもので 死者は7000人を超え すさまじい痕跡が今も残ってる 「根尾谷断層」というのがそれよ この断層は特別天然記念物として保存され 傍らに「地震断層観察館」が建てられてて断面を観ることができるようになってます次の写真がその断層の一部だけど 手前が下がって向こう側が上がったのね 上の段と下の段の高低差は6メートルもあるんだよ 断層の上をまたいで家が建ってたら吹き飛んだんじゃないかっておもう地震直後の写真がこれ 現代の写真でも原型をとどめてるよ(写真右にあるのが「観察館」) まだはっきりと発表されてないけど 今回の能登半島地震も活断層が原因という声があるんだよね 直下で起きると建物の損壊が酷いという特徴があるようね濃尾地震では約22万戸の家屋が全壊または半壊したそうよ 今回の能登半島も凄くたくさんの建物が倒れたり潰れたり傾いたりしてるから 直下型の特徴的な被害と言えるのね 2代目の地域としては しばらく大きな地震はないんだけど過去に同じような地震があったので 今回の地震は他人ごとじゃないし 隣の県だけに不安も出てきました 倒壊した建物の下に動けなくなって取り残されている人がまだたくさんいるかもしれない しかも震度3~4の余震はまだ頻繁に起きてるから救助作業中も絶えず二次災害の危険が付きまとって簡単に進まないよね人命にかかわるから重機も使えず手作業でやってるケースも多いし ホントに大変だとおもう 自衛隊や消防・警察などのみなさんには頑張ってほしい住むところが無くなってしまって避難してる人がすでに何万人にもなってるし 孤立してる集落もたくさんあるわ でも道路などが寸断されてしまったために物資の輸送も手間と時間がかかるみたいなのね これは2代目の意見なんだけど 万博なんかにつぎ込むお金があるなら支援に回してほしいよ これから復興まで建設資材や重機 それに作業に当たる人も大量に必要だしね 浮かれてるときじゃない!政府は人命や国民生活を最優先に考えて決断しないといけないとおもうよ!
2024年01月04日
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背番号17(その6)背番号17の第6回目ですホントに短期間しか着けない人が6人も続いて 背番号「17」はすっかり沈没してしまったわね今回最初に登場するのは外国人選手! この番号の黒歴史をリセットしてくれるかどうか注目ね! なお 外国人選手については先代が別に「列伝」としてマニアックに書きためているものを紹介するつもりなので ここでは少し簡略化して記載しますトレイ・ムーア 投手ムーアは長く続いたタイガースの沈滞ムードに光明をもたらす投手だった。2002(平成14)年、星野仙一監督の1年目にアトランタ・ブレーブスの3Aリッチモンドから入団している。スキンヘッドに口髭という風貌だった。とにかくバッティングが好きで打撃練習ばかりしており、入団当時の逸話として、遠征してきた巨人の原監督が室内で撃ち込みをするムーアを見て星野監督に「今度の助っ人は凄いスイングしてて驚いたよ 好いバッター呼んだね 要注意だ!」と感想を述べ、星野監督は「バッターなんて獲ってないんだけど・・・」と困惑したという話が残っている。 1998(平成10)年、2000(平成12)年、2001(平成13)年とメジャーに上がった経験があるが、通算23試合(先発19)3勝10敗で防御率5.83という数字しか残していない。日本に来る前年はブレーブス傘下の3Aリッチモンドにおいても27試合9勝8敗、防御率3.31と平均的なレベルの投手だった。 タイガースには2002(平成14)年に入団する。投球フォームを自在に変えることで打者を幻惑する投手で、実際にオーバーハンド、スリークォーター、サイドハンドを使い分けて投げていた。得意球はサイドから投げるスライダーで、自称「スーパー・シークレット・スライダー」(SSS)と呼んでいる。 1年目は27試合すべて先発で投げて10勝11敗、181回1/3奪三振116防御率3.33とという成績で1年間ローテーションを守った。 2年目の2003(平成15)年は開幕から7連勝を飾っているが、夏場に左上腕二頭筋挫傷で戦列を離れ規定投球回数に達しなかった。それでも10勝6敗と勝ち越してチームのリーグ優勝に大きな貢献をしている。日本シリーズでは第3戦に先発すると1対1のまま7回まで好投して勝利に貢献する。3勝3敗で迎えた第7戦にも先発するが、初回に2失点、3回には井口に2ラン、松中にソロを浴びて3失点と炎上。計5失点でノックアウトされ、敗戦投手となり日本一を逃している。ムーアは原監督が一目で認めたようにバッティングセンスのほうが注目された珍しい選手だった。2002年4月6日のヤクルト戦で4打数3安打の猛打賞を記録している。そして同年8月14日の横浜戦で再び3安打猛打賞。投手の年間2度の猛打賞は17年ぶりの快挙だった。この試合の9回には打席に立ってヒットを打った後に梶原が代走に出て交代しているが、控えの野手よりバッティングが好かったことを証明している。この日には50打数15安打となって打率が3割に到達しているのも驚きだろう。 また同年には監督推薦でオールスターに出ているが、ムーアのバッティングに期待するファンが多く、一塁手部門で3位になるという珍現象に沸いた。 さらに2003年は43打数14安打5打点で打率.326という数字を残し、巧打者ぶりに磨きがかかった。ところが星野監督が体調を理由に辞任して岡田監督に代わると、タイガースはムーアとの再契約をしなかった。理由は定かではない。自由契約となったムーアはオリックスと契約し、2004(平成16)年のシーズンは7月までに6勝6敗の成績を残すも左肩に炎症が起きて帰国し、そのまま9月16日に解雇された。ジェイミー・ブラウン 投手 ムーアがいなくなった2004(平成16)年は誰も背番号「17」を着けていない。 2005年(平成17)にこの番号を引き継いだのがジェイミー・ブラウン投手だった。 この選手をどれだけの人が覚えているだろうか?アメリカではプロ入り9年目の2004(平成16)に初めてメジャーへ昇格するものの4試合のリリーフ登板で0勝0敗、防御率5.87という実績しかない。3Aでも4勝6敗で防御率4.82という成績に期待感は無かった。 そのブラウンは、開幕直前から体調不良を訴えて出遅れ、初登板が4月30日のヤクルト戦だった。この試合は試運転という意味で4番手として1イニングを投げて無失点。初先発は5月4日の広島5回戦で、5回1失点でっ勝利投手になっている。 ブラウンは見た目は右の本格派投手だが、ストレートは140キロ台前半で変化球の比率が高く、スタミナが無いため「5回で3失点」くらいの実力しかなかった。写真で見ても「おとなしいフォーム」という感じしかない。 結局11試合に投げて4勝1敗、たまにローテーションの谷間を埋めるという程度の起用で終わっている。防御率も5.18で、とても1試合を信頼して任せられる投手ではなかったため10月に解雇されてしまった。2006(平成18)年は韓国サムスンに所属し11勝9敗、防御率2.68の成績を上げたが翌年には解雇されている。金村大裕 投手大阪府大阪市出身。本名は金 大裕(キム・デユ)で在日3世。上宮高校では控え投手で大阪商業大学へ進む。関西大学リーグでは弱小チームということもあり、通算7勝20敗の成績しか残せていない。ところが2005(平成17)年のドラフト会議でタイガースから3位で指名されたため、社会人本田技研鈴鹿の内定を辞退して入団し、退団したブラウンの着けていた「17」を受け継ぐことになった。 1年目の2006(平成18)年はウェスタンで8試合に投げ、2勝1敗、防御率1.44と快調だったが故障してしまう。 2年目の2007(平成19)年も一軍には上がれず、ファームで14試合に投げたが0勝1敗、防御率9.37と酷い成績だった。2008(平成20)年はさらに悪くなり、8試合0勝1敗で防御率12.54で使い物にならなくなってきた。 2009(平成21)年には背番号を「61」に変え、5月にはプロ入り初めて一軍に上がったが、結局1試合1イニングしか投げていない(打者5人、被安打0、奪三振1、与四球2、暴投1、自責点0)。ファーム16試合でも0勝0敗だった。 2010(平成22)年には育成契約とされて背番号も「117」になってしまった。そのまま10月1日には戦力外通告を受け自由契約となって退団した。2011(平成23)年、韓国のSKワイバーンズに拾われたが、登板機会のないまま1年で解雇されている。まとめ ムーア選手はなかなか好かったんじゃない?2年続けて10勝してるのは有力な戦力と言っていいよ!バッティングも好かったんだね 2年目は打率3割以上だし なんで解雇しちゃったのかな?2年しかいなかったのは惜しかったとおもうよブラウンさんは誰も覚えていないんじゃないの?「そんなのいたっけ?」という種類の助っ人よね 逆に4勝してるのがちょっと意外だわ金村さんに関しては 先代もちょっと記憶にないって言うほどの選手 入社が内定してた社会人に進んでたほうが好かったんじゃないかなあ 指名したタイガースは罪なことをしたわけよね今回の3人を見ても「17」が浮上した感じはしないね 残るのはあと4人なので次回で一気に掲載しますね17の7に続く
2024年01月03日
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大変な災害に言葉もありません2代目タイガース非公式サイトです お正月にまさかの大災害が起きてしまいました 2代目の地域はすぐ南隣の県なんだけど震度4だったみたい 「みたい」って言うのは ちょうどエレベーターに乗って降り始めたときに エレベーター内で「地震が起きました」と音声が繰り返したのよ で1階に到着して外に出たときには治まっていて 体感がなかったのね エレベーターは緊急停止しませんでした 聞いてみると東日本大地震のときは止まったんだって そのときも震度は4なのね 多分センサーの感度より揺れが小さかったんだろうな 震度4にも弱〜強まであるんだとおもう 閉じ込められなくて助かったわ💦 被災地の様子はまだ倒壊した家の人たちがどうなってるか判らないし 避難所が機能しているかとか 水・食料・衣類や日用品などが確保されてるかもよく判らない まだ余震もおさまらないし 現地の方々の不安をお察しします 今は身の安全を第一に 焦らず気持ちを落ち着かせてくださいね 2代目でもできる支援があるとおもうので 力になっていきたいです yahooでは「緊急支援募金」が始まったみたい 微力ながら協力しますhttps://donation.yahoo.co.jp/detail/1630064被災された皆様 慎重に焦らず 気を強く持ってください
2024年01月02日
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初日の出 撮ってみました2代目タイガース非公式サイトです2024年になりましたねえ早起きしてみて気分的には好い感じね!暗いうちから待って 初日の出を撮影できたわよ これは出てくるところ 4分の3くらい出たけど ここに絞りを合わせると周りは夜みたいにしか写らない 実際に目に見える景色はもっと明るいよ 完全に姿を現してきました 空気のひずみがあるのかな なんとなく横長の卵型に写ってるね ちょっと上昇 まわりもグッと明るくなってきてる かたちも丸に戻ってきたかな?1年の始まりにふさわしい朝でしたいい年になりそうな予感!
2024年01月01日
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