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背番号35(その4)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 背番号35の第4回目です 今回は3名を紹介しますが やはりなじみのない名前が続く感じ 情報が少なすぎて内容的に盛り上がりもないから 読んでる皆さんも退屈とかめんどくさいとかおもうかもしれないなあでも 2代目も34番あたりから退屈を感じながらも気力を振り絞って書いているので 応援すると思って最後まで読破してよね 下の方の「いいね」クリックもお忘れなくお願いします!但田 裕介(たじた ゆうすけ) 投手東京都小平市小金井の出身。1969(昭和44)年、堀越高校3年の春に選抜大会に出場し、決勝戦まで勝ち上がる。最後は三重高校に敗れて準優勝にとどまったが、好投手の印象を残す。同年夏の選手権でも甲子園の土を踏み、準決勝まで進んだが日大一高に敗れた。秋のドラフト会議ではタイガースが3位で指名しており、かなり期待感を持っていたのではないかと感じられる。プロ入りの当時や入団後については情報がほとんどないが、Yahoo知恵袋に当時の記事が投稿されていて村山実新監督の談話もあるので全文掲載させてもらう(決して手抜きではなくホントに情報がほとんどないのよ💧)1969年阪神は11月22日午後4時、大阪・北区梅田町の阪神電鉄本社6階会議室でドラフト3位指名の堀越高・但田(たじた)裕介投手(18)=1㍍74、68㌔、左投左打=の入団を発表した。発表には母親麗子さん(41)と田辺・堀越高野球部監督が同席した。阪神のドラフトによる選択選手の入団三人目である。なお背番号は未定。但田はことしの選抜大会の準優勝投手。高校球界では三沢高・太田(近鉄入団)と並ぶ本格派投手として注目を集めていた。柔らかいからだを使って真っ向から投げおろす速球が武器で、オープン戦ながら2年生の秋には1試合18三振を奪ったこともある。この日午前、大阪入りした但田はすぐ西宮市甲子園の合宿虎風荘を見学。ピッチングのままの強気な性格らしく、発表の席でも元気いっぱいだった。 但田投手「いつかはプロでやりたかったので、大学へいって肩でもこわしたりしては指名してもらえないと思い、プロ入りに踏み切りました。それに甲子園で投げたかったし、阪神が好きだった。阪神のゲームはしばしばテレビで見ただけですが、江夏さんのように力で押していく投手になりたいと思います。三沢高の太田君についても、あっちはあっち、ぼくはぼくなりにやって、一日でも早く第一線で投げられるようにするだけです」 村山監督「はっきりした性格の子なので楽しみにしている。言葉どおり一日も早く第一線に出られるよう一生懸命やってほしい」 どこから引っ張ている記事なのかわからないが、かなり詳しく伝えられているし、当時の空気感もわかるのでありがたい。176センチ67キロの体格は当時としても普通より少し細い。左投げという希少さと甲子園大会での度胸の良さを買われての3位指名だったと思われる。背番号「35」はルーキーイヤーの1970(昭和45)年だけ着け、1971~72年は「50」に変えられた。在籍は上記の3年間だけで、まったく一軍での登板はない。誰にも気づかれることなくフェードアウトしていった投手だ。こうして入団時の意気込みを語る談話が残っているだけに「もののあわれ」を感じてしまう。 上甲 秀男(じょうこう ひでお) 外野手愛媛県出身で地元の県立北宇和島高校。この選手も情報は少ない。というより、よほどのタイガースファンにとっても「耳慣れない選手」なのだろう。右投げ右打ちの外野手で180センチ76キロと体格にも恵まれていた。高校を出ると電電四国に入社して社会人野球でプレー。1970(昭和45)年の都市対抗野球四国予選の5試合で3本塁打を記録したことで一躍プロの注目選手となり、同年秋のドラフト会議ではタイガースから7位指名を受けて入団し、背番号を変えた但田が着けていた「35」を受け継いでいる。情報が少ない中、またYahoo知恵袋に頼ることになるが、以下のような記事が投稿されているので引用させていただいた。1970年 上甲(じょうこう)秀男外野手(23)=1㍍80、76㌔、右投右打、電電四国、北宇和高出身。 上甲は、ことしの都市対抗四国予選で、5試合に3ホーマーをマーク、そのうち一本は、松山球場のバック・スクリーンへライナーでとばした長打力の持ち主。 上甲外野手「長打力に自信を持っている。反面、三振も多いが、それもぼくの魅力だと思っている。とにかく思い切りのいいバッティングをやっていきたい。高校時代は、捕手もやったりして、もうひとつだったが、ノンプロにはいってから伸びたと思う。得意のカーブ打ちを生かして常時出場が目標です」残念ながら上甲はまったく一軍を経験することなく1972(昭和47)年に引退している。わずか2年間の在籍だった。山本 重政 投手 (再掲)実は山本さんは背番号「26―3」で紹介済みなんだけど 少しアレンジして改訂版という感じで掲載するよ兵庫県加東郡社(やしろ)町の出身。1960(昭和35)年、県立社高校2年時の夏の県予選の小野工業戦において毎回奪三振で完全試合を達成したことで一躍プロから注目される投手となる。翌1961(昭和36)年夏の県予選、姫路工大付属高校選で今度はノーヒットノーランの快投を見せて評価は高まった。1962(昭和37)年、高校卒業後は立命館大学へ進学、1年春に3勝を挙げてエース格になるが、近鉄バファローズの別当薫監督が惚れ込み、1年生の山本を熱心に口説いたため、春のリーグ戦が終わると中退して入団している。山本は同年6月から一軍で25試合に投げており、2勝5敗、61回1/3で60三振を奪うなど即戦力として活躍、防御率3.77の数字を残した。 以降1969(昭和44)年まで近鉄に所属し、268試合に登板、35勝63敗の成績を残している。おもに中継ぎが専門だったが、若いころの1963(昭和38)年にはリーグ最多の35試合に先発、翌1964(昭和39)年には21試合に先発し自己最多の12勝をマークしている。近鉄最後の年となった1969(昭和44)年はわずか4試合の登板に終わり、オフに戦力外を通告されて自由契約選手として公示された。ここに手を差し伸べたのがタイガースの村山監督だった。現役監督と言っても村山自身が衰え、江夏一人に負担がかかるチーム状況だったためベテランの山本も貴重な戦力と見たのだろう。入団時の背番号は「26」だった。タイガースには1970(昭和45)年から77(昭和52)年まで8年間在籍、村山・金田・吉田と3代にわたる監督の下で投げている。 タイガースでは、2種類のカーブを主体にする技巧派に転じ、中継ぎとしていい働きをしており、在籍8シーズンのうち4シーズンで防御率2点台前半の好成績を残して貢献した。1973(昭和48)年には背番号を「35」に変更している。1976(昭和51)年はわずか2試合しか登板は無く、現役最後のシーズンになった1977(昭和52)年は背番号も「63」となって、現役登録ながら実態はバッティング投手として持ち前のコントロールを生かし、打撃陣の調整に一役買っている。プロでの通算成績は424試合(先発88)、40勝67敗4セーブ、1117回2/3を投げて422四球、782奪三振、自責点420,防御率3.38だった。現役引退後も1978(昭和53)年に二軍投手コーチ、翌年からスコアラーに転じて2002(平成14)年まで24年間も務めた。その後、2003(平成15)年から2007(平成19)年までフロントの企画調査担当を務めたのち退団している。まとめ但田さんと上甲さんについては 上記以外に書くことが見つかりません 2人とも一軍に登録されたことがないので何の数字も残ってないしなあ 投手不足の時代にかき集められ 結果「使い捨て」みたいになっちゃったね(使ってすらいない?)3人目の山本重政さんはオールドファンには記憶にあるかもしれないね 万年最下位時代の近鉄では大きく負け越し 1963(昭和38)年には野村克也さんに当時の日本新記録になる52号を浴びてるよ これが破られなかったら打たれた山本さんの名前も長く残ったとおもうけど 翌年に王貞治さんが55本を達成したので消えちゃった・・・1970(昭和45)にタイガースに来て中継ぎで数字だけでは表せない貢献をしてるわ スコアラーとしても分析能力は一流で 長くタイガースの作戦面で貢献してくれたんだね背番号35-5につづく ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月14日
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背番号35(その3)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 背番号35の第3回目です 1人目の交告(こうけつ)弘利さんは2代目と同じ岐阜県の出身 中津川市だから県でも一番東にあたり 中央高速道路の恵那山トンネルを抜けると向こう側は長野県ね 残念だけど5年間在籍して公式戦は通算12試合にしか出てないわ 情報も少ないし写真もない今回は交告さんを含め2名の紹介にします 2人目の選手はすでに「猛虎異人伝10」で紹介した助っ人外国人選手だよ 覚えてるかな?交告 弘利(こうけつ ひろとし)投手実は2代目の地方にはこの苗字って珍しくないのよ 「纐纈」という字を使ってる場合も多いよ 同じように「こうけつ」って読むんだけどね 初めて見る人は絶対読めないだろうね 余談でした岐阜県中津川市出身。高校は岐阜短期大学付属岐阜高等学校(現・岐阜第一高等学校)。180センチ75キロの恵まれた体格のサウスポーで、高校2年時にはすでに東海地区ナンバーワンの逸材とみられていた。知恵袋に入団前後の情報記述が残っているので少し長いが掲載しておく。東海地方で本格派の速球投手ナンバー・ワンの折紙をつけられている岐阜短大付属高二年生、交告(こうけつ)弘利投手(17)は、地元中日をはじめ、近鉄、阪急、南海、大洋から誘われていたが「中退~プロ入り」に踏み切り、このほど家族会議の結果、阪神入りときめた。同投手は2年生ながら、上背があり、左腕から投げおろす速球は超高校級の球威をもっている。今春近鉄がいちはやく目をつけ、岐阜県中津川の自宅を訪ねた。その後、中日、阪神、南海、大洋が名のり出て激しい争奪戦となった。今夏の予選前まで中退する考えはもっていなかったが、予選後中日の攻勢が激しくなり、中日は本多スカウトが連日自宅参りして口説いたため、中退に傾いた。中退に踏み切った1963年7月20日すぎごろには、スタートの早かった近鉄と、地元の中日が有力だった。とくに巻きかえしの強かった中日に傾きかけたが、家族の「地元ではあまりに身近すぎるので遠い球団の方が本人に独立性がもてる」という意向から中日の縁はうすくなった。近鉄江田スカウトが都市対抗野球で東京に出かけたスキに阪神が強力に話を進め、30日夜自宅を訪ねた中日本多スカウトに父親が「阪神入り」の意思を明らかにしたもの。180センチ75キロ、左投左打。高校2年生に対してものすごい争奪戦だが、ドラフトの無い自由競争時代はこんな感じのスカウト合戦が日常だったのだろう。交告は1963(昭和38)年のシーズン途中での入団で、背番号はとりあえず仮番号の「69」を経て「58」番をもらうがこの年の登板はない。翌1964(昭和39)年、福浦健次の退団に伴って空いた「35」を受け継ぐことになる。しかし事実上のプロ1年目と言えるこの年、当時の阪神の投手コーチだった杉下茂も惚れ込んだ逸材と言われるが、実際に目の当たりにすると横手投げに近いフォームはギクシャクしており、ボールの伸びや切れは感じられなかったらしい。現実は体が硬く修正が難しい投手でプロでは伸び悩むことになる。初登板は1965(昭和40)年になったがシーズン5試合に投げただけ。次の1966(昭和41)年も5試合、1967(昭和42)年は2試合になってしまい、もう伸びしろはないとみなされたようだ。1968(昭和43)年も在籍したが登板はなく、シーズン終了後自由契約選手となってプロから身を引いた。通算成績は12試合(先発3)で0勝2敗、18回2/3を投げ被安打18、11四球、9奪三振、自責点8,防御率3.86だった。ジョー・ゲインズ 外野手ゲインズ選手はすでに「猛虎異人伝」で先に紹介してるわね なのでそちらから短縮版として転載させてもらうね1969年1月14日、戸沢球団社長が自らロサンゼルスに赴いて、当時ツインズ傘下の3Aデンバーに所属していた黒人選手ジョー・ゲインズ外野手と契約した。ゲインズはレッズ~オリオールズ~アストロズでメジャーを経験しており、通算362試合に出場、771打数186安打95打点21本塁打の成績を残している。マイナーリーグの通算949試合で打率2割9分8厘、76本塁打という記録を見る限りでは好打者だ。 1968(昭和43)年は、3Aハワイ・アイランダース(過去にバッキーやカークランドも在籍)に所属し、打率2割8分7厘、8本塁打で25盗塁という数字を残している。どちらかと言えば俊足のアベレージヒッターだろう。ゲインズは1969年2月14日に来日、入団時の年齢は32歳で、身長183cm、体重83kgの体格は、日本人に混ざってもそれほど目立たない感じだった。このときのコメントでは「変化球打ちには自信がある。打率2割9分以上、80打点、本塁打は15本プラス・アルファーが目標数字だ。」と語っており、本人にも中距離打者という自覚があったようである。背番号は引退した交告から「35」を引き継いでいる。ゲインズは、3月2日の対阪急オープン戦に代打で初出場、そのままレフトの守備についたが無安打だった。3月8日の南海戦には3番・レフトで先発出場し、盗塁を決めたが、3回の守備で果敢に飛球を追ってレフトのフェンスに激突してしまう。右顔面を強打して大阪厚生年金病院に運ばれ、検査の結果、右頬骨の骨折でそのまま入院という事態になったが、3月10日の精密検査で経過は良好との診断で退院を許される。 ここからがゲインズの頑丈さの驚くべきところで、3月15日の対ロッテ戦で早くも先発出場し、オープン戦初安打を放つ。3月20日の対近鉄戦の初回には、エースの鈴木啓示に先制3ランを浴びせ、大怪我を感じさせない回復ぶりを見せて周囲を安堵させた。ただし、オープン戦での打点は鈴木から打ったホームランによる3打点のみ。打率は1割5分7厘と振るわず、不安は残った。1969年4月12日、対大洋の開幕戦は3番レフトで先発出場し、公式戦初安打を記録。翌日のダブルヘッダー第2試合で2安打、続く15日のアトムズ1回戦でも1安打を放つと初盗塁も決め、順調な滑り出しを見せた。ところが4月19日の中日戦以降、ヒットは2試合に1本のペースに落ち、完全に失速してしまう。ゲインズが目覚めたかと思わせたのは、5月27日の対アトムズ(現ヤクルト)4回戦だった。この日の阪神打線は記録的な猛打を振るっている。3回表に1点を先取、5回表に2点を加えて3対0とリードして迎えた6回表、打者18人を送る猛攻で1イニング日本タイの12安打を浴びせ、挙げた13得点は日本新記録。 この中で、ゲインズの来日第1号2ランも飛び出した。前日までの成績が、打率1割8分3厘、打点1、本塁打0という内容で、信用を失いかけていたゲインズだったが、チームの勢いに便乗して来日第1号を含む2安打4打点と活躍したのである。翌日にも第2号2ランを放ってようやく調子が上向くかに見えた。しかし、6月に入ると1日から6試合連続ノーヒット。この間にチームも首位から転落し、ゲインズは6月中旬から7月上旬まで約1ヶ月間、試合を遠ざかる。スタメンに復帰した7月12日の中日戦で、第3号3ランを放ったが、これが日本での最後のホームランになった。オールスター後の後半戦では代打要員としてベンチを温め、結局シーズン通算では、出場わずか51試合、打率は2割5厘、11打点、期待された盗塁も4個に終わっている。公式戦終了後の10月23日、戸沢球団社長は梅田の電鉄本社にゲインズを呼んで戦力外を通告し、本人も了承し退団が決まった。ゲインズはあまり活躍できなかったので写真がほとんど残ってない。そのかわり当時のテレビアニメ「巨人の星」の第117話の中で登場シーンがある。その試合のスコアボードの画像と合わせて掲載しておく。まとめ交告さんは高校2年の時から争奪戦が始まってたっていうから凄い選手のように聞こえるけど 入団してみるとすぐに評価が下がってるみたいなのね 投球フォームが横手投げに近いとか伸びとかキレなんて高校在籍時にわかりそうなもんだけど?争奪戦になって目がくらんだのかな?それとも中日にとられるくらいなら妨害してやれってことだったかもしれないねゲインズさんは「異人伝」の方で もうすこし詳しく紹介してるので見てない人は読んでみてね(猛虎異人伝10 ジョー・ゲインズ | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ)背番号35-4につづく ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月13日
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背番号35(その2)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 楽天ブログがサクサク動くようになったね どんな不具合だったのかわかんないけどホッとしました ということでまた公開していくよ しばらく背番号史「35」を続けてくねでは背番号35の第2回目です 1952(昭和27)年で辻喜美さんが引退して 次の1953(昭和28)年は空き番でした 1953(昭和28)年から「35」を着けるのが長尾旬さん この人も全く聞いたことがない選手です今回は長尾さんを含め3名の紹介になるけど 多分読んでる皆さんも「・・・」の選手ばかりかなあ でもタイガースの一員だった人たち 今回読んで覚えてあげてね長尾 旬 投手静岡県の出身で高校は県立池新田高等学校。特に強豪校というわけではなく高校時代は無名。卒業後社会人野球の東邦レーヨンに進む。1953(昭和28)年のシーズン途中、大阪タイガースの入団テストに合格して入団している。背番号は空いていた「35」が与えられた。身長180センチの大型投手だったが体重は68キロと非常に細い選手だったようだ。ただし当時の御園生二軍監督の談話が「yahoo知恵袋」に紹介されているので掲載しておく。長身の長尾(池新田高)のスライダーは、打撃面において常に中心となった最高殊勲選手横山(扇町商)のたくましい打力とともに「まさに一軍もの」しかし1年目は一軍での登板はなく、2年目の1954(昭和29)年にプロ初登板を果たすが、先発して打者6人に対して3安打1四球で3点を失い1イニング持たずに交代させられた。3年目の1955(昭和30)年は一軍で投げることはなく、ウェスタンで最優秀防御率0.79を記録している。それでも球団は3年で見切りをつけ、オフに近鉄パールズへトレードされてしまったので、タイガースでの登板は3年間で1試合のみで終わる。近鉄には1956(昭和31)年から2年間所属したが、計16試合で3勝0敗の成績を残して引退した。プロ通算成績は17試合(先発3)3勝1敗、31回を投げ13四球、3奪三振、自責点9、防御率2.61である。 土井 豊 投手(再掲)じつは土井さんは背番号12-3で紹介済みなのよ もうすっかり記憶が飛んじゃってます ということで再掲ね和歌山県那賀郡池田村(現紀の川市)の出身。175センチ76キロと均整の取れた左投手だが、県立那賀高等学校時代は無名の投手だった。和歌山の新宮高校で3度の甲子園に出場しノーヒットノーラン3回の剛腕だった井崎勤也(1956年タイガース入団)をマークしていたタイガースの青木スカウトが和歌山県大会で偶然見つけたというのが入団の逸話となっている。土井も速球派投手で1956(昭和31)年にタイガース入団。背番号は「35」を着けた。2年間は二軍で過ごし、1958(昭和33)年が一軍デビューとなる。この年は20試合に登板して2勝1敗で防御率は3.23だったが、2勝はいずれも4月に挙げたものだ。1959(昭和34)年シーズンを前にした寸評が残っているので掲載する。「阪神には貴重なサウスポーの一員だ。シュート、速球、カーブと球質は豊富で制球力が加われば鬼に金棒。昨年2勝1敗と星こそ少ないが安定したフォームと自信で昨年の実績は軽くあげられそうだ。」かなりの好評価だが、その後はこれといった活躍ができず、1959年は1試合、1960(昭和35)年は登板すらできなかった。1961(昭和36)年に背番号を「12」に替えて9試合投げたが勝敗に関係できずに終わり、オフには交換トレードで大毎オリオンズに移籍する。オリオンズには2年間在籍したものの、実質的にはバッティング投手のような存在で、1963(昭和38)年を最後に現役を退いた。通算成績は33試合(先発5)、2勝1敗、69回1/3を投げ26四球40奪三振、自責点23、防御率2.96だった。 福浦 健次 投手 じつは福浦さんも背番号30―4で紹介済みでした 掲載当時より資料が増えたのでちょっと加筆して再掲するね東京都北区の出身で高校は中央商業高等学校(現:中央学院大学中央高等学校)。181センチ78キロの大型サウスポーで、1961(昭和36)に高卒新人としてタイガースに入団し、背番号「35」を着けた。新人の頃は大きな期待が欠けられたようで、初めてのキャンプの様子を伝える記述が残っている。1月23日からの自主トレーニングに参加した福浦をみて、藤本コーチは「これはいける。上半身の骨格がしっかりしている」とほれ込んだ。その後報道陣が「新人で名前の売れた人がいませんね」といおうものなら、藤本コーチは「冗談じゃない。野球は名前でやるものじゃないよ。ウチの新人投手をみてくれ」と福浦を指さした。その福浦は1回朝井、吉田に連安打されて無死2・3塁になったが、併殺で切り抜け、三併殺でかわして、打者13人で4安打、無四球、速球はまだのびを欠いているが、外角低目へのコントロールがあり、カーブも低目をねらってコースがいい。若い選手にきびしい藤本コーチも福浦には「まあこんなものだろう。投げれば投げるほどよくなる。球が重いしフォームが安定している。なによりもスピードがあるのが魅力だ」と合格点を与えている。これを読む限りではかなり評価が高い。1年目は5試合にリリーフ登板して9回1/3を投げ被安打10、5四球、6奪三振、自責点4、防御率3.60の記録を残す。ところが2年目の1962(昭和37)年は一軍公式戦の登板なし。3年目の1963(昭和38)年は1試合に先発して5イニングを投げて3失点、敗戦投手になっているのが唯一の登板だった。1964(昭和39)年は1年間ファーム、1965(昭和40)年に背番号を「30」に変えてみたが、結局一軍に上がることはなく、オフに戦力外を通告される。タイガースには5年間在籍したわけだが、実働2年で計6試合の登板、0勝1敗、防御率3.60の実績しか残せなかった。自由契約となって、1966(昭和41)年は西鉄ライオンズと契約したが登板はなし。1967(昭和42)年と68(昭和43)年にそれぞれ12試合のリリーフ登板をしたが勝ち負けには関係なく、この2年間の防御率も4.01に終わっている。さらに2年間、1970年まで在籍しているが一軍復帰はできず引退している。プロ通算成績は30試合(先発1)0勝1敗、57回を投げて18四球17奪三振、自責点25、防御率3.95。まとめ今回の3名は2リーグに分裂して各チームが選手不足になり 何でもかんでもかき集めてた時代に入った選手だね この背番号30番台の選手は補欠とか育成枠とかいう色合いが強いとおもう なので写真もほぼ残ってないのよ 報道とかされるようなレベルじゃないから今回の3人もプロ通算の登板数がそれぞれ17試合 33試合 30試合しかないのよ しかもみんな20代で引退してる 言わば使い捨てに近い選手たちなのね まだドラフト制度も無いから 好い選手はお金を出す球団に持っていかれちゃう やむを得ず地方で評判のいい選手を 積極的にどんどん確保してたんだろうね今回の3名は入団時には素材としての面白さを持っていたようだけど なかなか球団の期待通りにはいかないわ高校から直接入ってくる選手が多かった時代なので 力の差を感じて挫折していく子も多かったのかもしれない・・・背番号35-3につづくブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月11日
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背番号35(その1)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 背番号35の第1回目です 始める前にちょっとお伝えしておくけど タイガースでは戦前に使われた番号は「39」までなのよとくに30番台後半の番号は創立当初には使用されてなくて 創立4年目の昭和14年から使われるようになったから 戦前に着けてる人は少ないのね 「35」は1名だけだよ 戦争をまたいでブランクがあって 2リーグ分裂の1950(昭和25)年に復活する番号です 球団数が増えて選手が不足するようになって 急にたくさん入団させたからね第1回は戦前の1名と戦後の2名を紹介するね 最初の人はもう何度も登場してます でも後のお二人は???中田金一 捕手・内野手・外野手(再掲)中田さんは背番号「16」「23」で紹介しているけど 改めて全文を掲載させてもらいます大阪府の出身で日新商業時代の1938(昭和13)年には一塁手として選抜大会で甲子園に出場している。この年に捕手としてタイガースと契約し、入団当初は背番号「35」を着けた。163センチと当時としても小柄な選手。お笑い芸人のような面白さがあり、チーム内の人気者で「金ちゃん」と親しまれていた。主将や監督として時代を共にした松木謙治郎が「笑いすぎて横腹が痛くなるほどだよ」と著書に書いており、「彼は道を間違えた」とみんなから言われてからかわれたという。次の写真の一番右の眼鏡の選手が中田金一。その左の小さい人物はグラウンドボーイなので間違えないように! 実際に笑い話として後に本人が語っているが、主審にグラウンドボーイと間違えられ、試合中に「きみは危ないから隅に行ってなさい」と注意された事実があったという。本人曰く「グラウンドボーイのほうが僕より背が高かった(笑)」。1年目となる1939(昭和14)年は11試合9打数1安打1打点に終わったが、2年目の1940(昭和15)年は64試合に出場しており、157打数35安打14打点1本塁打、打率.223の数字を残す。 1941(昭和16)年は24試合と出場が減り、翌1942(昭和17)年に応召されて満洲方面へ出征。戦後も1948(昭和23)年までシベリアに抑留されて辛酸をなめた。 帰国した1948年10月に背番号「16」でタイガースに復帰したが出場は1試合のみ。1949(昭和24)年が2試合、1950(昭和25)年は背番号を「23」に変えたが4試合の出場に終わり引退している。 出場106試合211打数43安打1本塁打15打点1盗塁32三振、打率.204が通算成績である。 引退後はセリーグの審判員になった。村田 弘 投手1950(「昭和25」年に入団し、中田金一が背番号を「23」に変えたことで空いた「35」を着ける。公式戦には一度も出場が無いし、NPB在籍者名簿にも1年のみ在籍という記録しかなく、出身地やポジションなども不明。Wikipediaにもページがないため生年月日などの情報もわからないが、かろうじて投手だったことは判明。残念だが村田に関してはこれ以上知る術がない。本人を知る人・・・同級生や同僚などが証言してくれないとお手上げである。辻 嘉美 捕手福井県出身。NPBの在籍者名簿によると1951(昭和26)年から52(昭和27)年まで2年間在籍したという記録があるが、公式戦の出場はない。「知恵袋」には、退団後は1953(昭和28)年に社会人のツルガセメントに入社したという記載がある。別の資料を見ると「捕手」と記載されたものは見つかるが、それ以上のことは現状では調べようがない。プロ入り前のことも含めて情報提供を募るしかないが70年以上前のことだけにもう難しいのかもしれない。まとめ中田さんはある程度レギュラークラスで働いたこともあるから数字も残ってるし 当時のムードメーカーだったから同僚の証言なども残ってるわでもほかの2人はほぼ情報なしね 公式戦にも出ていないから数字も残ってない 残念だけど在籍したということと背番号しか確かな情報はないのよ 背番号30番台の後半はこういう人がたくさん出てきそうね 実際に「35」に限っても 2代目が知る範囲の時代ですぐに思い浮かぶのは才木投手くらい おぼつかないけど坂(さか)さんもそうだったかな?というような程度だから・・・背番号35-2につづくブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月09日
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列伝32 セシル・フィルダーCecil. G. Fielder (1989)生年月日:1963年9月21日背番号44 右投右打・一塁手出身地:アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス球 団:阪神(89)表彰等:なし阪神在籍:1年 106試合384打数116安打81打点38本塁打0盗塁 打率.302 (1)ライバルが多く、くすぶっていた若手時代1982(昭和57)年にドラフト4巡目でロイヤルズに指名されてプロ入り。1985(昭和60)年にブルージェイズに移籍し、同年メジャーに初昇格している。しかしファーストしか守れない上に、ファーストにはウィリー・アップショー(のちダイエー・ホークス)やフレッド・マグリフ(メジャー通算493本塁打)など強力なライバルも多くレギュラーになれないまま4年間を過ごす。1988(昭和63)年オフ、出場機会に飢えていたフィルダーは、アメリカ国内に限定せず、自分をレギュラーとして確約してくれる球団を探していた。そこにオファーを出したのが阪神だった。1988年の阪神は6月にバースを解雇しており、代わりに獲得したルパート・ジョーンズが役に立たずシーズン終了後に解雇。しかも掛布が現役引退してしまって追い詰められていた。チーム立て直しのためにどうしても即戦力の大砲が必要だった。阪神は、年俸12.5万ドルだったフィルダーに105万ドルを提示したという。ただし、ふたを開けてみないとわからないということで契約期間は1年だった(2年契約で2年目は選手側にバイアウト権があったとも憶測される)。この時点では仕方のない話で、シーズンで大活躍し たった1年で去っていくことになるとは思ってもいなかっただろう。(2)キャンプからオープン戦では弱点を露呈メジャー4年間で220試合に出場し558打席506打数123安打84打点31本塁打を記録。打率は.243とやや確実性に欠けるが、190センチ124キロの巨体は、まともに当たれば軽くスタンドまで運ぶポテンシャルに期待を込めての獲得となった。 背番号はバースから「44」を継承させている。当時25歳、のちにフィルダー自身が「向こうにリーグがあることさえ知らなかった」と語っているように日本に対する知識は皆無に近かったようだ。1989(平成元)年2月、キャンプに合流すると豪快で荒々しいスイングから、「荒熊」の異名を授かる。ところが実戦形式の練習で御子柴進の球がバットに当たらない。簡単にひねられてしまい、首脳陣の表情が曇る。さらにオープン戦すべり出しの数試合で14打席10三振と三振の山を築き始め、インハイのストレートで起こされ外角に逃げるスライダーをことごとく空振りしてしまう。しかも外野フライが欲しい場面でもホームランしか頭にないのか大振りして三振するため、チームプレーという面での意識改革も必要だった。(3)石井バッティングコーチの指導で変身当時の村山阪神の打撃コーチだった石井晶はこの惨状を見て、打席に立たせて構えたまま外角低めへの変化球をひたすら見送る特訓を課している。もともと飛ばす才能はあるから、つり球を見逃せれば打率もあがりホームランも出るという信念で取り組ませた結果、フィルダーも根気よく続けるうちにボール球に手を出さなくなっていく。 特訓でもわかるがフィルダーは若かったこともあってかアドバイスに耳を傾ける素直さがあった。助言から食事も肉類を控えて魚中心に切り替えるなど改善を図り、来日時は124キロあったウェートは、シーズン中に100キロそこそこまで落ちたという。(4)来日第1号で10年振りの開幕戦勝利に導く特訓の成果はペナントレースが始まると見事に開花する。1989年の開幕戦となった4月8日の広島1回戦(広島市民球場)に3番ファーストで出場。劣勢の8回表、スコアは0-4だが無死満塁のチャンスを迎え、2番金森永時の2点タイムリーで2-4となったところで打席に立つとレフトスタンドへ逆転3ランを放つ。これで5-4とし逆転勝ちを収めたわけだが、阪神にとって10年ぶりの開幕戦勝利だった。 しかし4月はまだ完全に対応できていたわけではなく第2号が出たのは28日の広島3回戦(甲子園)なので、かなり時間がかかっている。ただしこれをきっかけにして30日の同5回戦で3号、5月2日の巨人4回戦(東京ドーム)ではキングコングの看板に当てる推定160メートルの第4号2ランと波に乗る。ちなみに4月30日時点での打率は3割4分5厘、明らかに特訓の成果が出ている。(5)調子の波の少ないホームランバッターへと進化5月は月間8本塁打を放ったが、打率が徐々に下がっていき、31日には2割8分2厘だった。しかし、ホームランをコンスタントに打つため、それまで岡田が4番を任されていたが、6月1日からフィルダーが4番に起用される。6月も9本塁打を打って月末には20号に到達しており、打率も3割を回復、もはや不動の4番となった。岡田とは仲が良く 他チームの投手の持ち球やクセ配球の特徴などのアドバイスを受け感謝していた30号は8月6日の広島17回戦(岡山)で打っている。本稿では広島戦のホームランが多い印象になってしまっているが、実は一番多く打ったのは大洋戦だった。シーズンを通じて16本も記録している。8月13日には横浜球場で33号、34号、35号と3打席連続ホームランを放つがこのうち2本目と3本目は場外ホームランだった。大好きな横浜球場で息子プリンス・フィルダーと2ショットプリンスはのちにメジャーリーガーとなりシーズン50発でキング通算では319発を記録 父親譲りの強打者に成長する(6)タイトルを確実視されるも不用意な骨折でリタイアフィルダーが38号を打ったのは9月9日の大洋20回戦。そして迎えたのが9月14日の巨人25回戦だった。この時点で2位のパリッシュ(ヤクルト)に2本差、3位の落合博満(中日)に11本差をつけてホームランダービーのトップを走っていた。ところが第4打席で三振に倒れると、悔しさで地面に叩きつけたバットが跳ね返り、右手小指に当たって骨折。そのまま離脱してフィルダーのシーズンは終わる。ホームラン王は42本でパリッシュがとり、落合も40本に到達、フィルダーは3位だった。 残り24試合を残してのリタイアがなければどこまで延ばしただろうか?本人は相当な自信があったようで のちに次のように語っている。「打撃面で自信が揺らぐことなかった。私はいつでもいい打撃をしてきた。だから、打撃で何かが問題になったことは全くない。日常的にプレーさえできれば、うまく行くことはわかっていた。だから384打席で38本塁打も打てたんだ。シーズン途中に手を骨折してしまったからそこでシーズン終了となってしまったけど、もし、怪我もなく出場し続けていれば、50発は打っていたと思う」 (6)メジャー復帰、2年連続二冠王!シーズン前の打撃フォーム改造と特訓によって変化球にも対応できるようになり、出場106試合で38本塁打、81打点、打率.302、長打率.628、OPS1.031というハイアベレージを記録したのは素晴らしく、阪神は引き留めに説得を試みるがフィルダーは退団。2年300万ドルを提示したデトロイト・タイガースと契約した。 メジャーへ戻ると、日本で身につけたストライク・ボールの見極めや配給への読みなどが生きたのか、1990(平成2)年には51本塁打132打点で二冠王。翌1991(平成3)年も44本塁打133打点の2冠王、1992(平成4)年には124打点で打点王と驚異的な活躍でスター選手になる。その後はヤンキース、エンゼルス、インディアンズでもプレーし、1998年に現役を退いている。以降は息子プリンスの代理人を務めるなど、引退後の生活も順風満帆と思われていた。しかし、2004年にデトロイト・ニュース紙の報道で、フィルダーのギャンブル中毒とアルコール依存症が原因で自己破産と離婚をしていた事が発覚し、息子プリンスとの関係も破綻してしまった。その後、消息がわからなくなっていたフィルダーだが、ギャンブルやアルコールの依存症治療を受け、2007年に独立リーグの監督として社会復帰を果たした。現在は、息子プリンスとの関係も修復され、落ち着いた余生をフロリダで過ごしているという。セシル・フィルダー[完]フィルダーの年度別投手成績 フィルダーさんは阪神の歴史を語る上で省けない選手になってるね そもそも球団は最初あまり期待してなかっただけに 残留交渉の着手が遅れてしまったのかな この成績なら当然残留なんだけど 本人も1年間日本でやって これだけの成長ができて メジャーへ戻っても十分やれるって感触があったんだろうねきっと それにしても息子さんもすごい選手になってるし たしか一時阪神入りのうわさもあったんだってね 2011年ころだったらしいけど うわさに過ぎなかったようね ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月07日
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2代目タイガース非公式サイトです2025年3月21日のファム・ファタールで途切れてしまってる「魅惑のガールスメタルバンド」 久しぶりに掲載するよ 不定期ではあるけどこれからもボチボチと更新していくからね 関心のある人は実際にサウンドを聴いてみてね今回15番目としてご紹介する「ディストーピカ」は2019年にアメリカのコネチカット州トランブルで結成されたヘヴィメタルバンド 結成した途端にコロナ禍に見舞われてろくにライヴ活動もできず実質的なデビューは2022年なのよ これから知名度が上がっていく段階だとおもう実はほかに「Dystopia」(ディストピア)というバンドがあるからややこしいんだけど こちらは1991年に結成され2008年で活動を終えたバンドで今は存在しないよバンドの由来「Dystopica」の読みはいろんな資料やレビューによってまちまちで、「ディストピア」や「ジストピー」「ディストーパ」など複数あって定まっていないのよ 2代目はスペルを尊重して「ディストーピカ」と表記しますね(見る限りこう読むしかないような・・・)日本版Wikipediaにはまだ項目がないから情報も少ないけど とても好感の持てる音楽性を持ってるわ 好い曲も多いから今後有望なバンドとして紹介します ガールズバンドとは言えないんだけど女性ヴォーカルのメタルバンドなので・・・ ユニット名は「Dystopica」なんだけど これは英語の「Dystopia」をもじったものなんでしょう 意味としてはユートピア(理想郷)の対極的なのがディストーピア(暗黒郷)という感じかな 前者は「理想的過ぎて実現できない世界」 後者は「悪すぎて実現できない世界」 まあバンド名をあまり追及しても意味無いか? 女性ヴォーカリストのベッキー・ブライドーがメンバーを集めて結成したユニットで バンドの2025年現在のラインナップはつぎのとおりヴォーカル:ベッキー・ブライドーギター:ロブ・ミュラードラムス:エーリッヒ・ベンダー(結成時はクリスチャン・ベラギン)ベース:ルーカス・デラポルタ ディストーピカは 「ハードロック ヘヴィメタル スラッシュメタル プログレッシブメタルをブレンドした独特のサウンド」というような評価をされてるんだけど これでは分かりにくいよね2代目は1970年代から80年代にメタル・ゴッドと呼ばれたジューダス・プリーストの影響が大きいバンドとみているのよ 2024年にリリースしたシングル「Freewheel Burning」はジューダス・プリーストのLP「背徳の掟」の第1曲目をカバーした曲だから意識してるんだなって判るしまた一方で ヴォーカルのベッキーは小さい時から母親の影響を受けてアイアン・メイデンを聞いていたと言ってるから 注意深く聞くとそれも感じられるかな 特徴としては全体的にかなりメロディックなギターリフと力強い女性ボーカルの調和がとれてて ハードでありながらもつい聞きたくなる魅力を持ってるわ1970年代と80年代のクラシックなヘヴィメタルの影響を受けたディストーピカは、骨太なクラシックロックにモダンでプログレッシブな現代的要素を混ぜ合わせて融合し復活させてるって評価になっているよ 以下にアマゾンミュージックで聴けるものを紹介しておきます 2020年 「Broken」(デビューシングル) シングル盤は聴けないけどEP盤「Perception」で聴けます2021年 「You Can't Look Away This Time」(シングル)シングル盤は聴けないけどEP盤「Perception」で聴けます 2021年 「Perception」(EP盤アルバム)収録は実質的なデビューアルバムね 上記2曲を含む全6曲 2022年 「Deception」(EP盤アルバム) 2023年 「Far From Perfect」(シングル)後述のLP盤アルバム「Infinite Reflection」に収録 2023年 「Them Bones」(シングル) 2023年 「Flight Of Icarus」(シングル) 2024年 「Infinite Reflection」(LP盤アルバム) 初のフルアルバム 全12曲で「Far From Perfect」も収録 2024年 「Freewheel Burning」(シングル) ジューダス・プリーストのカヴァー曲 ジューダスより柔らかタッチ 2025年 「Semblance of Order」(EP盤アルバム) 2025年8月にリリースされたばかりの全7曲の最新EP盤アルバム この最新アルバムに関しては以下のようなレビューがあるよ「彼らのサウンドを定義するメロディックで進歩的な本能を尊重しながらも、7曲すべて、22分強にわたってより重く、より主張的なアイデンティティへ移行している。あらゆる文体の可能性を網羅しようとはせず、過剰に曲がりくねっているわけでもない。その代わりに、スラッシュと伝統的なヘヴィメタルの獰猛さと、プログレッシブでコンテンポラリーなメタルの現代的な噛みつきを融合させることに焦点を当てた結果、親しみやすく、将来を見据えた音楽が生まれた。現在4枚のアルバムをリリースしているバンドにとって、この種の芸術的明快さは重要であり、ピークではなく、むしろエキサイティングな新時代の始まりを示唆している。」これはディストーピカを現代のメタル界で注目を集める準備ができているバンドとして位置づけようとしているレビューね まだ実質デビュー5年程度のバンド これからこそ注目していきたいわ ミュージックビデオも出してるし インスタ(X)やユーチューブではたくさんの画像や動画が見つかるよ ぜひライヴ映像もご覧になってください 素敵なんだよ!このシリーズって どれくらいの人が見てくれてるのかな見に来てくれた人は「いいね」をお願いします!ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月05日
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列伝31 ルパート・ジョーンズジョーンズさんについてはすでに背番号史「00-1」(2023年5月7日)で紹介済みなんだけど 2年半くらい経ってるから肉付けをしながら再度掲載しますね といっても書くことがほとんどない選手・・・Ruppert. S. Jones (1988)生年月日:1955年3月12日背番号00 左投左打・一塁手出身地:アメリカ合衆国テキサス州ダラス球 団:阪神(88)表彰等:なし阪神在籍:1年 52試合169打数43安打27打点8本塁打4盗塁 打率.254 (1)バースの後任で途中入団 メジャーでの成績はバース以上第二期村山監督の1年目にあたる1988(昭和63)年、バースが長男の治療問題で帰国し、再来日が絶望となったことで6月27日にバースの解雇を発表した阪神だったが、最下位に沈むチームを立て直すため彼に代わる新外国人選手の獲得に迫られ、浮上したのがルパート・ジョーンズだった。1973(昭和48)年にカンザスシティ・ロイヤルズに入団。1976(昭和51)年にメジャー初昇格するも 翌年には新球団シアトル・マリナーズへ移籍する。マリナーズ時代はすべて規定打席をクリアしており、3年間で51本塁打を記録するなど中心選手として活躍している。1977年(昭和52)年と79(昭和54)年にはホームラン20本以上を記録しておりかなりの長打力を持っている。その後もニューヨーク・ヤンキース、サンディエゴ・パドレス、デトロイト・タイガース、カリフォルニア・エンゼルスと4球団を渡り歩き、阪神入りする以前の1987(昭和62)年までのメジャー通算記録は1331試合4415打数1103安打579打点147本塁打で、打率が.250。数字だけを見れば日本に来る助っ人選手の経歴としてはかなり上の部類かもしれない。少なくともメジャー通算で130試合9本塁打の実績しかなかったバースに比べたら遥かに格上の選手だ。しかも左打ちでホームランも打てるとあって、バースの後釜にふさわしいと球団が評価してしまったのも無理はない。(2)球団初の背番号{00」 弱肩で打撃も振るわず解雇背番号は「00」を着ける。阪神で初めてこの番号を着けた選手になったわけだが、解雇されたバースの背番号「44」をなぜ引き継がなかったのかはよくわからない。スキンヘッドでキューピーのように頭の真ん中がとんがっていたため「ゼロゼロ怪人」というあだ名がついた。試合に出たのは7月から。バースの抜けたファーストを任されたが、プロ入り後の12年間で5試合しか守ったことがなく、阪神では27試合で7失策を犯して使い物にならず外野に回されている。また、シーズン途中に日本に来るような選手は何らかの問題があることが普通であり、ジョーンズは肩に故障を抱えていた。 外野からまともにカットマンに返すことも困難な状況で、外野フライを捕球した後はソフトボールのように下手投げで内野手へ返していた。肩の故障は打撃にも影響したようで全く期待を裏切る結果となってしまう。阪神での成績は、52試合169打数43安打27打点8本塁打、打率が.254だった。1年で解雇となったのは言うまでもない。 パリーグのチームに入ってDHでフルシーズン出ればホームラン20本以上を打てた可能性は高いが、成績よりもベンチ内で香を焚くなどの奇行で有名になった。ルパート・ジョーンズ[完]ジョーンズの年度別打撃成績あまり語る気になれない選手だわ メジャーの成績は悪くないのよ バースさんより断然いいわ バースさんを解雇して大慌てでの緊急補強だったからこの数字に騙されちゃったのかなあ・・・ きっと肩を痛めてアメリカではお呼びじゃなくなったので 引退までにもうひと稼ぎしようと日本に来たんじゃない? ふざけんな!ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月04日
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監督の差が歴然2代目タイガース非公式サイトですワールドシリーズは苦戦の末4勝3敗でドジャースが勝ち、球団として初めて2年連続のワールドチャンピオンに輝きました おめでとうございます 2代目はテレビを観ている中でロバーツ監督と藤川監督の差というものを痛感したのよ それについて書き残しておくわロバーツ監督の考えを選手たちも理解ロバーツ監督はポストシーズンを戦うにあたって選手たちに自分の考えを徹底して伝え納得させていたんじゃないかな コミュニケーション能力が素晴らしいよ今年のドジャース投手陣はけが人続出で シーズンを通じてローテーションを守り抜いたのは山本由伸投手一人だったおそらくポストシーズンは山本投手中心でプランを立て チームの全員にも周知して理解させていたとおもう 実際にワイルドカード~地区シリーズ~リーグ優勝決定シリーズ~ワールドシリーズという4つのステージすべてに山本投手を登板させてるよ 全部で6試合も しかもワールドシリーズでは3試合で最後は連投だよ これはチームメイトも山本投手も「監督が考えたPSの方針」として納得の上だからできた荒技だよ だから山本投手は連投を自ら志願してる監督の方針がチームに徹底され みんなが理解したうえで自覚をもって戦い抜いた結果がワールドチャンピオンだったとおもう藤川監督の秘密主義と独善一方、藤川監督はどうだったか2戦目の先発がデュプランティエ投手だと発表されたとき 2代目はどういうプランなのかよく判らなかった もつれて6戦7戦となったときに誰が行くのか?おそらく選手たちも判らなかったんじゃないかな? コーチ陣は才木投手を推していたけど藤川監督がデュープさんで押し切ったと報道されてるよね 監督はモイネロさんが来ると決め打ちして点を取るのが困難だから「あえてエースをぶつけることはない」と判断したとしかおもえない しかも不調からの回復が万全とは言えないデュープさんをあえて出したのは「どうせモイネロ投手を打てないから」というような考えが頭にあったとタイガースナインだって推量するわよ これでは「監督は自分たちを信じてないんだ」とおもう選手がでてきても不思議じゃないわ 2人の監督の違い ロバーツ監督はポストシーズンを展望し 最も大事な試合や困ったときは「ヤマモトで行く!ヤマモト頼みだ!みんなヤマモトが投げる試合は絶対勝つんだ!分かったか!」ぐらいのミーティングしてたんだと想像てします あの延長の試合のあと殊勲打のフリーマン選手が言ってるよ 「ヤマモトがブルペンで準備していた もうここで彼に投げさせてはならないとおもった」ってね 監督の考えを理解し 今何をすべきかを心得てる証拠だよ 正念場になると予想される第6戦の先発で頑張ってもらうためにってことよ 藤川監督の場合は 選手たちはデュプランティエ投手が2戦目に先発したことで この先どう戦うのか見当付かなくなったんじゃないの? 多分藤川さんの好きな秘密主義で選手にも方針は伝わってなかったとおもうし 実際にコーチとすら意思疎通ができてなかった 日本シリーズは普通5人の先発で回すし駒はあるのにデュープさんという奇策を使ってみたかったのかな?方針が示されないまま成り行きで戦っても勝てない 金村コーチの突然の解任も監督の責任逃れの様で好い気持ちはしないわ 仲良しこよしでぬくぬくやってるコーチの方をなんとかしてよ 控え選手の力が伸びてこない原因になってる 1年で解任というのは見せしめ? ほかのコーチたちにもプレッシャーだろうなあブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月03日
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列伝30 マット・キーオ②(4)1988年の村山監督も最下位第2次村山体制となった1988(昭和63)年のタイガースは前年に続く最下位。チーム成績は次の勝敗表のように散々な結果に終わる。 1988年 セ・リーグ順位表規定投球回に到達したローテーション投手4人のうち負け越さなかったのはキーオだけ、それも28試合で12勝12敗と貯金は0である。素晴らしかったのは防御率で、前年の3.80から2.74へと1点以上向上している。援護さえあれば白星は18勝くらいに伸びていたのではないか。この年は暗黒時代の本当の始まりと言える年になった。バースが22試合に出場したところで帰国、そのまま退団してしまう。怪我と腰痛に苦しんだ掛布も67試合にしか出場できず、わずか5本塁打に終わって引退している。岡田と真弓がチームを支え、若い大野久と和田豊が規定打席をクリアして台頭したもののバースや掛布の代わりとなるような長打力はなかったので、スケールの小さな打線に変貌してしまった。この状況では、キーオの12勝12敗は立派な成績だというべきだろう。(5)本物のエースに君臨 フィルダーの加入で最下位脱出1989(平成元)年、キーオはローテーションの中核となって28試合すべてに先発し15勝9敗と安定して勝ち星を挙げている。縦のカーブとスライダーに磨きがかかって右打者を封じているのが素晴らしかった。特にスライダーはストレートとスピード差が少なく、最初は打者に向かってくるが近くまで来て鋭く曲がり、ストライクゾーンに収まるという有効な球だった。例を挙げれば巨人の原辰徳はキーオを苦手にしており、デッドボールと思って身をかわしたボールがストライクゾーンに決まって呆然とするシーンもあった。そこにナックルも駆使するようになったので捉え辛さが増していた。ただし違反投球の疑惑もある。キーオの変化球の切れ味があまりにもすさまじいため、他球団から「グラブに紙ヤスリを仕込んで、ボールに傷をつけて投球している」という疑惑を向けられたこともあった。いわゆるスピッドボールだ。実際に試合終了後、審判団がキーオが投げたボールを回収し、チェックしたこともあったと伝わっているが確証はつかめなかったようだ。防御率は3.72なので1年目と変わらない数字だが、38本塁打のセシル・フィルダーの加入や成長してきた八木裕が16本塁打を記録するなど打線が少し上向いたことで得点力が上がり、援護が期待できたという要因があって勝ち星が伸びた。阪神は2年連続の最下位から脱出し5位に上がることができたが、フィルダーとの残留交渉が不調に終わって引き留めに失敗したのは痛恨だった。また、シーズン終了後には村山監督が責任を取って辞任し、中村勝広が新監督に就任している。中村はキーオの1年目だった1987年には二軍監督だったが、当時あまりキーオを評価していなかったらしい。2年のブランクから一軍監督へ就任したときも当初はキーオの解雇も考えたそうだが、15勝のチーム勝ち頭を切ることはできず、キーオは残留となった。(6)7勝に終わり3度目の最下位を経験 自由契約に1990(平成2)年、阪神はフィルダーの抜けた穴をラリー・パリッシュで埋めることで取り繕ったが投打がかみ合わないまま、また最下位に逆戻りしている。大きかったのはやはりエースと期待されたキーオが7勝9敗と冴えなかったことに尽きるかもしれない。オープン戦のゲームで痛めた足の回復がままならず、球威が落ちたことで変化球も生きなくなってしまった。防御率5.00という数字が如実に物語っている。さすがにこの成績での残留は無いだろう。シーズン終了後、阪神はキーオを自由契約選手として事実上解雇した。(7)2020年5月1日に死去阪神退団後のキーオはアメリカに戻ってアスレチックスのGM補佐まで上り詰めて、藪恵一の入団の際にも尽力している。父親が南海にいたこともあり日本語も流暢だったというし、流行したダジャレ「ちょっと待っときいよ(マット・キーオ)」は有名だった。村山監督の下では「先発完投」を美徳とする日本の考え方が理解できず、セーフティスタートで交代し次の登板に余力を残して備えるメジャーの考え方をわかってもらえないことで愚痴をこぼしていたという。2020(令和2)年5月1日に肺塞栓症で永眠。64歳だった。キーオに関する評価は次のTHE PAGE の追悼記事で掛布雅之氏と池田親興氏がかなり際どいことも語っているので是非ご覧いただきたい。追悼。阪神暗黒時代に孤軍奮闘したマット・キーオ氏が盟友に漏らした本音…「なぜ100球降板が理解されないのか」(Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE) マット・キーオ[完]キーオの年度別投手成績暗黒時代となってから4年を過ごしたキーオさんはホントツイてなかったねひどい逆境ではあったけど来日1年目から3年連続の二けた勝利というのは素晴らしいよ 3年目なんか200イニング越えで15勝9敗だよ! 4年通算でも1つ勝ち越してるのも凄いわ タイガース史の中で もっと評価されるべき投手だとおもうよブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月02日
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2代目タイガース非公式サイトです 猛虎異人伝も再開します 今回は暗黒時代の被害者マット・キーオ投手だよ 2回に分けて2日連続で掲載しますね列伝30 マット・キーオ①Matthew. L. Keough (1987~1990)生年月日:1955年7月3日背番号45 右投右打・投手出身地:アメリカ合衆国カリフォルニア州ポモナ球 団:阪神(87~90)表彰等:なし阪神在籍:4年 107試合45勝44敗 678回1/3 398奪三振 自責点281 防御率3.73 (1)父親は日本でプレー、兄もメジャーリーガー1986(昭和61)年12月20日、阪神は、ゲイルに代わる新外国人選手として、ヒューストン・アストロズのマシュー・キーオ投手の獲得を発表した。キーオは、アスレチックス~ヤンキース~カージナルスを経て、86年にはカブス~アストロズに在籍した先発完投型の右投手である。背番号は「4」、登録名はマット・キーオ。 アスレチックス時代のフォームを見ると、バックスイングで腕を真後ろへまっすぐ伸ばして大きく腕を振る感じで、2025年から在籍するデュプランティエに似ている。1968(昭和43)年、内野手として南海ホークスで1年間プレーしたマーティ・キーオは実の父親、兄のジョー・キーオもメジャーの外野手という野球ファミリーに育った。マーティ・キーオ(父親も背番号4だった)キーオは、メジャー通算で215試合に登板し、58勝84敗、防御率4.17の成績を残している。大きく負け越してはいるが、アスレチックス時代は、1980年の16勝に始まり、10勝、11勝と、3年連続で2桁勝利を記録したこともある実力派で、1978年にはオールスターゲームに出場した実績もあった。(2)キャンプ・オープン戦で評価が高まる 1987(昭和62)年2月9日に来日したキーオは、翌10日、安芸キャンプに合流した。発表では187㎝、80㎏の均整のとれた体格。ストレートは140キロ前後と平凡だが、インコースへの攻めのピッチングと多彩な変化球が持ち味で、特にカーブ系には自信を持っていた。1987年春季キャンプのキーオの様子を伝える記事 キーオは「2~3週間でベストに仕上げる。」と公約し、急ピッチで調整。2月18日に行なわれた紅白戦で先発すると、カーブ・シュート・SFFなどを駆使して、2回を無失点に抑え、潜在能力の高さを感じさせている。 オープン戦最初の登板となった3月14日の阪急戦では、5回を投げ被安打6、3失点(自責点2)ではあったが、変化球のコントロールは合格点だった。 19日のロッテ戦は、4回打者17人に対し無安打に抑える快投を演じ、「打てそうで打てない」とロッテ打線を嘆かせている。特に大きなカーブが有効で、打者が思わず腰を引く場面がしばしばあった。オープン戦はその後も絶好調で、通算5試合に登板して計21回を投げ、自責点は2。防御率0.86は投手成績第2位だった。崩壊気味の投手陣に困り果てていた吉田監督は、オープン戦でのキーオの好投を見て、開幕投手に抜擢。ローテーションの中心に据える決断をしている。(3)いきなりのリーグ最下位 「話が違う!」 4月10日、甲子園での開幕ゲームのヤクルト1回戦で先発したキーオは、やる気が空回りしたのか制球に苦しみ、6回2/3を投げて失点5。試合は1対7で、敗戦投手となり、吉田監督の期待を裏切った。しかし、15日の大洋2回戦で2度目の先発に起用されると、10安打を浴びながらも自責点2。落ち着いた投球で来日初勝利を無四球完投で飾っている。 ところが、22日の広島1回戦以降、キーオは「非情な現実」に直面することになった。この試合、7回までに11奪三振の好投も、味方の援護は1点。28日の広島2回戦でも自責点2でありながら、またしても援護は1点。連続して敗戦投手となり、黒星が先行していくことになる。「話が違う」というのがキーオの感想だろう。そもそも、キーオが来日を決断する決め手として、阪神が強打のチームであることが大きな要素であったことは間違いない。2年前には猛打を振るって日本一に輝いているし、前年もバースが連続三冠王になるなど、12球団でもナンバーワンの強力な援護を背にして悠々と投げられるはずだった。ところがどうも様子が違う。5月に入ってそれがはっきりしてきた。 5月3日の大洋5回戦は、9回にレスカーノのソロを許したものの1失点、9日の中日5回戦も5回1失点で、ともに勝利投手になったが、両方とも味方の得点は2点だった。 続く15日のヤクルト7回戦に至っては、7回2失点の好投も報われず、打線が沈黙して0-2の完封負けを喫し、敗戦投手にされた。2年前の猛打も、今となっては遠い伝説であり、もはや並以下のチームに成り下がってしまったという現実を思い知らされている。このあたりを境にして、キーオの投球には常にイライラした様子が感じられるようになり、好投するかと思えば、簡単にノックアウトされたりと、波が激しくなってきた。5月31日の巨人9回戦で初完封勝利を挙げたが、この時点で阪神は借金16を抱え、最下位独走態勢を築いていた。泥沼に落ちたかのように負けつづける阪神の中で、キーオは辛抱強く投げたと言っていいだろう。6月は3連敗だったが、7月以降7勝を挙げて来日1年目で11勝を記録している。キーオ以外で規定投球回数に達したのは仲田幸司だけであり、二けた勝利に達した投手はキーオだけという惨状だった。防御率3.80という数字も我慢強く投げた結果として一定の評価をしていいだろう。現実の数字を見ても、首位打者の篠塚利夫(巨人)は13打数2安打、正田耕三(広島)は11打数2安打、本塁打王のリチャード・ランス(広島)は9打数1安打、打点王のカルロス・ポンセ(大洋)は21打数5安打と、タイトルホルダー達を苦しめている。彼の長所である負けん気の強さは、同時に危険と隣り合わせでもあり、被本塁打は24本と「一発病」に泣く場面も多かった。それでも、向かって行く投球は魅力的だし、内容的には優勝時のゲイルより信頼感があった。防御率も3.80ならギリギリ合格点である。もう少し援護があれば15勝以上できたかもしれない。阪神は1978(昭和53)年以来の最下位でシーズンを終了。吉田監督が成績不振の責任をとって辞任し、村山実が新監督に就任、1年目に11勝を挙げたキーオの残留も決まった。このとき、キーオはすでに次期村山阪神のエース格にのし上がっていた。吉田監督の3年目 「猛打阪神」と信じてキーオさんは期待に胸を膨らませてタイガースに来たのよ それがふたを開けてみたら最下位! 暗黒時代がちょうど始まったころに来ちゃった これはお気の毒だったね でも援護がない中で好い数字を残してるから立派なのよブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月01日
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