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背番号36(その1)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 背番号史を再開するよ 「36」の第1回目です 始める前にちょっとお伝えしておくけど タイガースでは戦前に使われた番号は「39」までなのよとくに30番台後半の番号は創立当初には使用されてなくて 創立4年目の昭和14年から使われるようになったから 戦前に着けてる人は少ないのね 「36」は1名だけだよ 戦争をまたいでブランクがあって 2リーグ分裂の1950(昭和25)年に復活する番号です 球団数が増えて選手が不足するようになって 急にたくさん入団させたからよでは背番号「36」の第1回は戦前の1名と戦後の2名を紹介するね この3人を知ってる人っているのかなあ?小林吉雄 内野手最初に「36」を着けたのは小林吉雄。山口県出身で旧制山口中学の出身。学生時代の球歴はWEB上で見つけることができない。1939(昭和14)年に大阪タイガースに入団し背番号「36」を着ける。Wikipediaを見ても、入団年と退団年が書かれているだけで、あとは「詳細情報」として年度別の成績が掲載されているだけだ。168センチ66キロの内野手という情報は残っているが、どのポジションかもよく判らない。1939年に2試合、1940(昭和15)年に2試合、1941(昭和16)年に5試合に出場しているが、これがプロでの実績のすべて。通算9試合で6打席、6打数0安打0打点1盗塁1三振、打率.000である。退団理由も不明で軍からの招集という情報もない。亡くなられたのは1977(昭和52)年3月29日となっているので戦死されたわけではない。さすがにここまでさかのぼると知恵袋でも何の情報も見つからない。画像などの資料もなくお手上げである。今はこれ以上書くことができない。丸岡 武 外野手(再掲)丸岡さんは23-2で紹介済みなんだけどみなさんご記憶にあるかどうか?23と言えば永久欠番よね 吉田義男さんの直前に「23」を着けていたのが丸岡さんです 今回は一部修正を加えて再掲するよ背番号「36」を着けた2人目の選手は丸岡武。滋賀県彦根市出身で彦根高校卒業、左投左打ちの外野手。2リーグ分裂の影響で極端な選手不足となった1950(昭和25)年2月にタイガースの入団テストを受けて合格し背番号「36」をもらうが、その年は1軍でのプレーはない。170センチ60キロの外野手で、1952(昭和27)年までの3年間在籍している。最初の背番号「36」は1年間着けただけで、あとの2年は「23」に変えている。1951(昭和26)年に背番号を「23」に変更し守備要員で公式戦4試合に出場する。1打数1安打というのがこの年のすべてだった。 1952年は24試合に出場、12打数2安打2盗塁3三振の数字が残っている。ここで現役を引退、その後社会人チームの日鉄二瀬に入ったという情報もあるが確認はできない。 写真やプロフィールが残っているのが奇跡的である。プロフィールでは「彦根商」となっている。横井 啓二 捕手・内野手石川県金沢市の出身。横井は旧制金沢三中(現金沢桜丘)時代に春選抜の甲子園に出ているが初戦敗退。卒業後は社会人野球の日鉄鉱業二瀬に入社している。日鉱二瀬の真野晴美監督が当時のタイガースの松木謙治郎監督の先輩(明治大学)に当たるという縁で紹介されて1951(昭和26)年にタイガースへ入団している。丸岡が「23」に変えたことで空いた背番号「36」を着けることになった。横井は石川県初のプロ野球選手で捕手や内外野ほとんどのポジションをこなすユーティリティ性の高い選手だったと伝えられる。正式な選手登録は翌1952(昭和27)年だった。1953(昭和28)年までの3年間在籍はしたが、公式戦に出場することはできず、プロをあきらめて退団。タイガース退団後は日鉄鉱業二瀬に復帰し、1957(昭和32)年まで現役選手として社会人野球でプレーした。まとめさすがに古い話だし 3名ともあまり試合に出た選手じゃないので資料は限られているね 人柄とかプレー振りなんかはもう知ることができないわみなさんどうでしたか? 今となっては昭和30年代くらいまでは完全に「歴史」になってるなという感じがするよね 要は直接見たり聞いたりという証人が段々少なくなってきてるからだとおもう 戦前に職業野球を見たなんて人は少なくとも2代目の周りにはいないわということで個々の選手にコメント書こうにも書きようがないので ここらで第1回目を切り上げます背番号36-2につづく ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月28日
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2代目タイガース非公式サイトですシリーズ17番目としてご紹介するのは IN THIS MOMENT(イン・ディス・モーメント)というバンドだよ 聴いたことあるかな?前回とりあげたワーロックのドロシーさんと同じで イン・ディス・モーメントも女性ヴォーカリストのマリア・ブリンクさんの呼びかけで2005年に結成されたユニットなのよ 結成時のメンバーで現在も残っているのはマリアさんとベースのクリス・ハワースさんだけね音楽的な特徴衣装やメイクなどは1970年代のプログレッシブ・ロックを思わせるわね ピンク・フロイドとかアリス・クーパーなんかに影響されてるのかな?中世的なオカルティズムを感じさせるステージも雰囲気あるのよね あまり聞き慣れないんだけど 音楽的にはオルタナティヴ・メタルとかインダストリアル・メタルなどの特徴を持っていると評価されているわ ちょっとだけ言葉の意味をWikipediaで調べてみましたオルタナティヴ・メタルヘヴィなギターリフ、メロディックで刺々しいヴォーカル、他のヘヴィメタルと比べ、型破りなサウンド(とりわけAメロ)、実験的なアプローチをすることが挙げられている 1980年代中期に勃興し、1990年代に入り人気を博した。インダストリアル・メタル1980年代後半に生まれた音楽ジャンル。スラッシュメタル、ハードコア・パンクの音楽的側面を持ち、ギター・リフ、シンセサイザー、打ち込み、サンプリング、ディストーションをかけたボーカル等が使用されている。オーソドックスな楽器ではなく加工技術を多用した音作りがされる。ヤバい感じのマリア・ブリンクWikipedaではマリアさんは幼い時に母親から影響されて音楽・・・しかもロックに魅力を感じるようになったんだって お母さんがブラック・サバス パティ・スミス ローリング・ストーンズなどを叩き込んだみたい お母さんもヤバいわね アルバムデビューは2007年の「Beautiful Tragedy」です ミュージックビデオやステージ写真を見ると 確かにもうオカルトだね まあ2代目はこういうの好きなんだけど実際のサウンドは?聴いてみると別にガチャガチャしてる感じじゃないし 音はいろんな加工はしてあるのかもしれないけど ストレートなロックと言えるよ マリアさんの声は透き通ってよく通るので聴きやすいわ 曲によってはデスメタル調のしゃがれ声だったり使い分けしてるけど基本は綺麗な声なのよスタジオアルバム一覧 2007年にアルバムデビューして約18年(これ書いてる現在が2025年)で8枚のアルバムを出してるから ほぼ2年に1枚ペースを守ってる メンバーチェンジが多いわりに安定して成長したバンドと言えるわでは これまでにリリースされてるスタジオアルバムを紹介しますね2007年 Beautiful Tragedy かなりハードなロックで すべての曲の歌詞をマリアさんが書いてるのよ このアルバムの発表に合わせてツアーが行われ 来日もしてます 2008年 The Dream このアルバムのマリアさんはシャウト系の唱い方をしていないよ バンドの変化を追求した結果1作目よりポップになった感じがする この作品から「オルナタティヴ」と言われるようになったみたい 2010年 A Star-Crossed Wasteland すべての曲の歌詞はマリアさんが担当 MNSミュージックでは「パワフル」「これまでのアルバムより一段とヘヴィ」と評価され 「モダン・メタルの傑作」とまで言われたのよ 聴いてみる価値あるよ 2012年 Blood ビルボード15位初登場 アメリカレコード産業協会(RIAA)からゴールド認証を受けた「名盤」 2014年 Black Widow これまでのアルバムよりも「より滑らかでポップ」との評価 2017年 Ritual これは独立した音楽アルバムではなく「ライブショー」であり、「動画で楽しむのが一番だ」 ・・・という評価 2020年 Mother あらゆる規模のライブ音楽体験が依然として危険にさらされている中、このアルバムの雰囲気はさらに特別な意味を持つ・・・との評価 2023年 Godmode かなりエレクトロニック音源を使っていて「インダストリアルメタル」と呼べるアルバムという評論が多いね IN THIS MOMENT はもうアメリカだけじゃなく世界的にも認められているバンドです しかも毎回色調の違うアルバムを発表して評論家を驚かせているのよ 同じところで足踏みしない 常に新しい独創性を追求する姿勢は まるで衰えを知らない これからも一定のペースで変化を繰り返して楽しませてくれそうなバンドだわ さて猛虎異人伝を一休みしてガールズバンドを挟ませてもらいました 明日からはタイガース背番号史36を一気に掲載するよ! 全8回にわたって長々とつづけるけど ちゃんと最後まで読んでよね ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月27日
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2代目タイガース非公式サイトです背番号の変更があったみたいなので背番号史の合間に挟ませてもらいますよ 中野拓夢が背番号を「51」から「7」に変更大竹耕太郎は「49」から「21」へ 阪神は11月21日に来季の背番号の変更と新加入選手の背番号を発表した。 今季まで「51」を背負った中野拓夢内野手(29)は、「7」に変更。真弓明信氏、今岡誠氏、糸井嘉男氏らが背負った番号となる。 また、現役ドラフト1期生で来季虎4年目を迎える大竹耕太郎投手(30)は「49」から「21」。 2024年育成ドラフト1位ルーキー・工藤泰成投手(24)が「24」から「49」、同3位ルーキー・早川太貴投手(25)が「31」から「51」となる。 また日本ハムからトレード移籍となった伏見寅威捕手は「17」、西武を戦力外となった元山飛優内野手は「00」に決まった。 7番と言うと外野手のイメージなんだけど 真弓さんはショートやセカンドもやってたんだよね 今岡さんもショートやサードだった 大竹さんの21番っていうのは主に投手だね むかし遠山さんも着けてたし岩田さんや秋山さんもだったよね 秋山さんが引退してから空いてたんだ 工藤投手や早川投手は今までより大きな番号になるんだなあ 何か意味があるのかな 次はないぞっていうような・・・ とにかく心機一転 新しい背番号でさらに好い結果残そう!ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月28日
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背番号13(その4)「背番号13」の4回目です 笠間さんが引退したあと2年間は誰も着けていません みんなが嫌がるのか着けた人があまりいい成績残せなかったからなのか「扱いにくい番号」になっちゃったのかな?中野佐資(なかのさとる)外野手(再掲)中野については背番号0で紹介済みですが再掲します。タイガース背番号史 0の1 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)中野は栃木県出身で、国学院栃木高校までは投手だったが社会人三菱重工横浜に進んで肩を壊し外野手に転向している。都市対抗にはよく補強選手として出場して活躍し、実績を買われて1986(昭和61)年にドラフト2位でタイガースに入団する。最初にもらった背番号が「13」だった。 身長169センチ、体重70キロそこそこの小柄な体格だったが、見た目に似合わずホームランも打てる意外性のある選手だ。 ただし、公式戦出場は1年目が3試合、2年目が7試合しかなく、社会人からの入団にしては即戦力になれなかった。 1988(昭和63)年、村山実が2度目の監督に就任すると背番号を変えることを薦められ、タイガースで初めて「0」を着けることになった。村山監督は中野に加え大野久、和田豊の3人を「タイガース少年隊」と命名し、それぞれにレギュラーポジションを与えて売り出しにかかる。 監督は本気で3人をレギュラーに育てようと我慢強く使い続けており、大野にはセンターが与えられ全130試合に、和田はショートで127試合、中野はレフトで108試合に出て成績も飛躍している。この年の中野は274打数65安打25打点4本塁打で打率.237という数字を残した。 1989(平成元)年にはボールに向かっていく攻撃的なバッティングが開花して、規定打席には届かなかったが124試合に出場し打率.268、11本塁打、41打点を記録している。積極的に打ちにいくため死球も多くなり17個を記録して死球王になっているが、闘志あふれるプレーが目立ちレギュラーへ駆け上るかに見えた。1990(平成2)年が96試合、1991(平成3)年は114試合に出たが規定打席は遠く、レギュラーポジションを維持できない状態が続く。 1992(平成4)年にはラッキーゾーンが撤去されてホームランも出づらくなり、台頭してきた新庄剛志に定位置を奪われて出場は72試合に減少してしまった。 1993(平成5)年にはポジションが無くなり5試合の出場に留まる。この年まだ30歳だったが限界を感じて自ら申し出て引退の道を選んだ。 背番号「13」を着けて一軍でプレーしたのはルーキーからの2年間で公式戦出場は10試合しかなく、タイガースファンからしても背番号「13」の選手としての印象は全くないだろう。もちろん探してみたが背番号「13」のユニフォーム姿の写真は無かった。岡部憲章 投手 東京都東村山市の出身で高校は神奈川県の東海大相模高。優勝候補として甲子園を沸かせた原辰徳、津末英明、村中秀人らと同期だったがエース村中の控え投手に甘んじ、公式戦での登板機会はほとんどなく、3度出場した甲子園でも1イニングしか投げていない。 大学には進学せず、1997年にドラフト外で日本ハムファイターズと契約する。一軍で投げたのは2年目の1978(昭和53)年からだが、まだプロの身体ができていなかったことで結果は出せず、初勝利はプロ3年目の1980(昭和55)年5月だった。この年は25試合に投げ2勝4敗と足がかりを作ったシーズンになった。 1981(昭和56)年は27試合で13試合に先発し13勝2敗、規定投球回もギリギリでクリアして防御率2.70でタイトルを獲得しローテーション投手になる。 しかし、故障した1982(昭和57)年は18試合に先発するも4勝5敗、1983(昭和58)年も同じく18試合先発して5勝6敗と勝ち星は伸びない。 1984(昭和59)年以降はリリーフに回ったが、敗戦処理的な使われ方になってしまい1987(昭和62)年オフに藤原仁との交換トレードでタイガースに移籍してきた。 1988(昭和63)年がタイガースでの1年目。前年まで中野が着けていた背番号「13」を着け44試合に登板(うち41試合がリリーフ)、68回1/3と久しぶりに働いた。しかし翌1989(平成元)年は、わずか6試合の登板で0勝1敗に終わり現役を去った。 引退後は原辰徳のはからいで読売の打撃投手として就職。1990(平成2)年から2006(平成18)年、48歳になるまで打撃投手を務めた。葛西 稔 投手葛西ついては先代が「脇役物語」タイガース脇役物語(8)葛西稔 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)で記載しているのでおおむね引用します。葛西は青森県出身だが中学時代に軟式野球の全国大会ベスト4の実績を買われ、宮城県の名門・東北高校に進学する。ところが、運悪く同学年に大魔神・佐々木主浩がいたため、3年間控え投手に甘んじることになった。甲子園大会にも出場しているがわずか1イニング投げただけで、主にファーストを守り6番を打っていた。法政大学進学後は下手投げに変えて頭角を現し、通算18勝7敗の好成績。大学選手権ではノーヒットノーランも達成している。1989(平成元)年秋のドラフト会議では、野茂英雄に8球団が競合する空前のフィーバーのなか、野茂の外れ1位で阪神タイガースに入団し、引退した岡部が着けていた背番号「13」を受け継ぐことになった。ルーキーイヤーの1990(平成2)年、葛西は他球団のドラフト1位ルーキーが活躍するなかで、シーズン終盤のわずか4試合に登板しただけで0勝1敗という成績に終わる。それでも2年目の1991(平成3)年には17試合に登板、そのうち15試合に先発し8勝8敗。先発ローテーションを担う存在になる。特にヤクルト戦には5勝と強かった。翌1992(平成4)年は21試合で17度の先発、成績は6勝8敗と負け越したが、この年の開幕戦がヤクルトだったので、開幕投手にも抜擢されている。しかし、先発投手としてのピークはここまでだった。1993(平成5)年からの3年間は、葛西にとって長い模索の時期になる。先発すると簡単に打たれるため、中継ぎに回り、そこで好投が続くとまた先発に戻るというサイクルを繰り返し、ファームに落ちることもしばしばで、自分の居るべき位置や役割がわからない状態で苦悩する。完全にリリーフ投手の道に転向したのは1996(平成8)年で、その抜擢をしたのは藤田平監督だった。葛西は自己最多の63試合に登板しており、ほとんどが中継ぎで81回2/3を投げており、防御率3.31もプロ入り後最高の数字を残した。1997(平成9)年に吉田監督が就任すると、前年の好成績を買われ、クローザーに配置転換される。この抜擢に応えた葛西は、6勝3敗10セーブ、防御率も1.51という素晴らしい活躍を見せた。しかし、この年をピークに成績は落ちていき、また中継ぎの目立たない存在になってしまう。葛西が最後の輝きを放ったのは2000(平成12)年のシーズンだ。これは野村克也監督の2年目・・・あの葛西~遠山~葛西の「勝利の連立方程式」で一大ブームとなった年である。特に読売の中軸に成長した松井秀喜を封じるための奇策は歴史に残る。右打者の石井浩郎には葛西が投げて遠山はファーストを守り、次の松井には遠山が投げて葛西がファーストに入る、この「葛西-遠山-葛西」の変則リリーフはかなり松井を苦しめ、「遠山の顔を見るのも嫌」というくらい抑えられた。 この年、葛西は7勝6敗17セーブ防御率2.45の好成績を収めている。連立方程式で5試合のファースト守備機会もあったが高校時代の経験が生きた。2001(平成13)年になると急激に力が衰え、2002(平成14)年はコーチ兼任となり、一度の登板機会もないまま現役を退いた。現役13年間、背番号「13」を背負い続けた。下手投げだが見た目以上に球威があり、コントロールも好かったので、先発一本で続けていてもそれなりの成績は残したかもしれない。しかしチーム事情から様々な役割を担い、長い低迷時代にタイガースを支え、時に話題を提供したことで印象に残る投手の一人になっている。まとめ中野さんは好いところまで行ったのに あと一歩レギュラーに届かなかった選手なのね 中野さんを知ってる世代の人たちには背番号「0」のほうが印象に残ってるのかもしれないわね岡部さんはもともとエースになるほどの素質じゃなかったのかしら?でも現役生活より巨人のバッティング投手で貢献した期間のほうが長いのよ 野球選手ってこういう生き方もあるのね葛西さんは先代に聞くと現役時代が「暗黒時代」とまともにかぶってるのがホントに不幸だった投手だったみたいね でも腐らずに13年間頑張ってくれたんだって かわいそうなのは引退した翌年にタイガースが優勝したことね あと1年現役でいれたら選手として優勝を味わうことができたのに・・・ その5に続く
2023年08月28日
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列伝20 ダグラス・オルトDouglas. R. Ault (1981)生年月日:1950年3月9日背番号44 左投右打・外野手・一塁手出身地:アメリカ合衆国テキサス州ボートモント球 団:阪神(81)表彰等:なし阪神在籍:1年 102試合326打数100安打59打点18本塁打2盗塁 打率.307 (1)外国人選手を一掃し出直しの1981年1980(昭和55)年オフ、ラインバックとボウクレアを解雇したあと、阪神の動きは珍しく速かった。それまで阪神の新外国人選手と言えば、年が明けてから決まるのが普通だったのに、12月8日には早くもダグラス・オルトとポール・デードの獲得が決定している。2年目のシーズンに向けて意欲を燃やす中西太監督の要望に応えようと、球団フロントも気合が入っていた。オルトはレンジャース~ブルージェイズで4年間のメジャー経験があり、通算では256試合713打数168安打17本塁打86打点、打率2割3分6厘の数字を残している。ブルージェイズ時代の1977年には129試合に出場、109安打11本塁打64打点という成績で、レギュラー級の働きをしたこともある。しかし立ち位置としてはあくまで控え選手だった。(2)巨漢の大砲でブリーデンと同じ左投げ右打ち1981年3月でちょうど30歳のオルトは、ビア樽のようなお腹をした194㎝・94㎏の巨漢だった。タイガースでの背番号は「44」、登録名は「ダグ・オルト」に決まる。足が遅く、ウェートからくる負担で足に故障を持っているのではないかという情報もあった。しかもブリーデンと同じ左投げ右打ちだったため内野守備はファースト専門。外野を守らせるには不安があるが、そういうケースも想定されていた。オルトはアメリカ・アリゾナ州のテンピで実施された春季キャンプから参加したが、大振りで粗さが目立ち、オープン戦ではわずか1本塁打。その実力がベールに包まれたまま公式戦に入る。(3)意外にも好打者? しかし6月に古傷が再発1981(昭和56)年4月4日、オルトは開幕戦となったヤクルト1回戦に7番・ファーストで先発出場して初安打・初打点を記録すると、その後もよく打ち、期待以上にミートがうまいことがわかってきた。打順も5番に上がり、右肘痛で冴えないデードとは対照的に4月の成績は19試合で打率3割2厘、4本塁打と合格点がつけられるものだった。向かって左がオルト 真ん中が中西監督 右がポール・デード 4月末から藤田平がファーストに入り、オルトは慣れないライトに回される。それでも打撃は好調で、ホームランは2本だったが5月も3割台をキープし、5月14日からは4番に座って打撃ベスト10にも顔を出した。ところが、6月に入ると足の故障が悪化し調子は急降下、欠場が目立つようになった。6月はわずか7安打、月間打率も2割5厘と低迷している。チームは開幕からつまずき、4月は一時最下位に落ちたが、その後じわじわと3位まで順位を上げていた。しかし6月にはデードの登録抹消やオルトの不振も響いて、なかなか勝率5割の壁を越えることができない状況が続いていた。(4)夏場に調子を上げたとたん骨折のアクシデント7月5日の中日12回戦で打順を7番に降格されたオルトは、この日を境にして6月とは人が変わったように猛打を振い始める。ここからの24試合で、74打数31安打20打点7本塁打をマークし、その間の打率は実に4割1分9厘だった。まさに「恐怖の7番」という表現がピッタリで、チームも貯金ができて2位に浮上している。ところが「好事魔多し」とはよく言ったもので、絶好調のオルトにアクシデントが起こる。8月7日の中日17回戦で曽田康二から死球を受け、左手小指を骨折して戦列を離れてしまった。悪いことは重なるもので、オルト不在の間に、江本孟紀の退団騒動が起こり、チーム内のムードは最悪になっていく。この「江本事件」にも若干触れておかなければならないだろう。(5)悪いことは重なる? 江本の時限爆弾がさく裂江本は、前年オフから「トレード要員」と噂されたり、中西監督と藤江投手コーチの間で意見の対立があって開幕まで先発か抑えかの結論が出なかったりと、不安定な立場にあった。シーズンに入っても当初は救援、6月からは先発に回されている。こうしたことが伏線となって、球団や首脳陣に対する不満が増幅しており、いっきに爆発したのが8月26日のヤクルト19回戦だった。試合は7回を終わって阪神が4対1とリード。7回表までヤクルト打線を1点に抑えていた江本は、この時点で体力的に限界を感じており「マウンドを譲りたい」と主張した。ところが首脳陣の判断は続投。江本は8回表にピンチを招き、内野陣がマウンドに集まりベンチの方を見て指示を仰ぐが、ベンチからは誰も出てこない。中西監督はベンチ裏へ入ってしまっている。結局この回3点を失い、同点にされたところで降板させられた。怒った江本は報道関係者の前で「俺は限界だったのに続投を命じられ同点にされた。ベンチがアホやから野球ができへん!」と発言し、翌日の新聞に大きく報じられてしまった。事態を重くみた岡崎代表は27日、球団事務所に江本を呼んで事情を聞いた。この話し合いで江本は発言の責任をとって退団を申し入れ、球団側もこれを即座に了承し、任意引退の手続きがとられることになったのである。江本の潔い態度にはチーム内で同情の声も聞かれ、この事件をきっかけとして、中西監督と選手たちの間に亀裂が生じてきたことは否定できない。シーズン終了後、中西監督が辞任し安藤体制へ移行する引き金ともなった出来事だった。さて、全治4週間と診断されたオルトは、およそ1ヶ月を棒に振る。オルトを欠いた8月は、代役で一軍にいたスティーブン・ラムも暑さで不振。阪神は一進一退を繰り返すだけで5割をキープするのが精一杯だった。(6)オルトは9月に復帰 1ヶ月のブランクを感じさせない好成績オルトは9月3日の中日21回戦で代打に出て復帰し、翌日のヤクルト戦からスターティングメンバーに戻る。9月は出場した17試合のうち15試合で安打を記録、月間打率は3割8厘と好調だった。月間ホームランは2本だが、いずれも勝ちゲーム。守り慣れたファーストに入る機会が多かったのも好結果につながっていたかもしれない。この1ヶ月の間に、阪神はコツコツと貯金を5つまで増やした。1981年9月ごろの練習風景右がオルト真ん中はデードの解雇で緊急補強したゴンザレス左はスティーブン・ラム阪神は10月に貯金を9まで伸ばし、5年ぶりにAクラス3位を確保してシーズンを終了しているが、オルトの功績も少なからず認めなければならない。絶好調のときに死球を受けたのがひびいて規定打席には到達しなかったが、そうした中での326打数100安打で打率3割7厘、ホームラン18本は十分残留を検討するに値する数字だ。もし中西監督が留任していれば、おそらくオルトも残留したであろうことは想像に難くない。しかし現実には、「江本事件」の責任を取って中西監督は辞任。後任監督は当時二軍監督だった安藤統男が昇格する。安藤新監督は次期構想として「走る野球」「守り抜く野球」をスローガンに掲げ、ラム以外の外国人選手は「走れる選手」に入れ替える方針を打ち出したため、オルトは解雇される運命となった。(7)完全燃焼できずに終わった惜しい助っ人オルトは大リーグ時代の成績に比べると、日本の野球によく順応できた選手だろう。ただし、9月から10月にかけてホームラン7~8本の上積みが欲しかった。そうなればフル出場した場合30発以上を期待できるから、いくら安藤監督に代わったとはいえ残留の目があったかもしれない。死球による骨折のブランクもあったうえに、本来の専門であるファーストに藤田がコンバートされたことで外野守備に回った負担もあわせて考えると、オルトの打撃成績にはもう少し高い評価が与えられてもよかったのではないだろうか。スタントンの場合と同じで、もう1年見てみたかった選手である。ダグラス・オルト[完]オルトの年度別打撃成績 オルト選手は2004年12月22日に自殺されたそうね。まだ54歳だったのに 自殺の原因については現在もはっきりとわからないみたいなの お安らかに・・・ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年09月02日
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列伝35 トーマス・オマリー③(9)幻となったオリックスへの金銭トレード問題のある言動が増えたオマリーに手を焼いた中村監督は、9月から三好球団社長と協議を重ね、シーズン終了前にはすでにオマリーを来季の戦力構想から外すという結論に達していた。1994(平成6)年10月17日早朝、球団からオマリーに対しFAXにより「来季の契約は結ばない」という旨の通知がなされる。一方でオマリーを敵に回したくないことから、移籍先をパリーグに限定したオマリーのオリックスへの金銭トレードによる譲渡もほぼ決定し、オマリーの代理人に打診した。ところがオマリーは強い「セリーグ志向」を持っており、「オレにはセ各球団の投手のクセを熟知しているという宝物がある。試合のために移動していく町にも慣れている。これを無駄にする手はないだろう」と言ってオリックス移籍プランを一蹴し、阪神の保有期限11月30日が過ぎるのを待った。 晴れて自由契約選手となったオマリーは12月17日、ヤクルト・スワローズと契約する。4年連続3割を記録している好打者をみすみす放置する野村監督ではなかった。同一リーグ、なおかつ2年前には優勝を争ったヤクルトへの移籍には阪神ファンも困惑し不安視した。そしてそれは翌年現実のものになる。(10)1995年シーズンは野村監督の指導で別人に阪神在籍4年ですっかり「わがまま放題」になっていたオマリーに対し、野村監督はキャンプで厳しくメニューを与え消化させ、根気よくチームプレーの大切さを説いた。次第に野村の考えを理解したオマリーは若手に混じって5000メートル走もこなすほどになり、公式戦で結果を見せる。本拠地が甲子園球場から狭い神宮球場に変わり、強い浜風もない。この環境の変化もオマリーにとって大きなプラス要因になった。 本拠地の初戦となった1995(平成7)年4月11日の中日1回戦では、ヤクルト球団としても12年振りとなる3打席連続ホームランを放ち、野村監督をして「ワシがキャッチャーでも抑えられんよ」とまで言わしめた。4月28日からの対阪神3連戦(甲子園)では3試合連続ホームランで阪神ファンを奈落に落とす。ヒーローインタビューは「ヤクルトファンノ、オウエン、クダサーイ!」に変わり、阪神ファンを落胆させている。 高打率に加えてホームランまで量産したオマリーが、この年のヤクルトの独走の原動力だったのは疑問の余地がない。125試合に出場して打率3割2厘、31本塁打、87打点の成績だが、フォアボール96個が効いて4年連続で最高出塁率のタイトルに輝いた。打ち取りにくい打者として他球団から恐れられ敬遠が増えて23個を記録(球団新記録)している。ヤクルトは9月30日にリーグ優勝を決め、オマリーはリーグMVPを受賞した。(11)日本シリーズでもMVP、伝説的な「小林・オマリーの14球」オマリーは日本シリーズでも全5試合で安打を放ち、19打数9安打4打点2本塁打7四球という抜群の成績で貢献してMVPに輝く。 中でも第4戦で見せた「小林・オマリーの14球」は日本シリーズ史に花を添える逸話となっている。それはヤクルトが3連勝で迎えた第4戦。2年ぶりの日本一を前に神宮球場は揺れていた。試合は同点の11回裏、1アウト1・2塁という一打サヨナラの場面でオマリーに打席が回ってくる。オリックスのピッチャーは5人目の小林宏でこの年、先発として8勝を挙げていた。オマリーは2球で追い込まれるが、そこからファウルで粘り7球目にあわや日本一を決めるサヨナラホームランとなる大ファウル。 その後、両者は一歩も譲らずフルカウントのまま14球目に低めの変化球をオマリーが空振り三振してしまう。この対決は今も『小林・オマリーの14球』と語り継がれている球史に残る名勝負だった。試合は延長12回表にオリックスが1点を勝ち越して逃げ切り、一矢を報いて対戦成績はヤクルトの3勝1敗となった。オマリーは後年、この打席を次の様に振り返っている。「お互いに全て持っている力を出し切った勝負だったよ。日本シリーズは優勝できたけど、あそこで三振してしまったのは今でも少し悔やまれるね(笑)」この手に汗握る対決は動画が残ってるよ 約13分と長いけど興味ある人は次を観てね(1995年 日本シリーズ第4戦 オマリー小林の14球 - YouTube)(12)1996年も3割を記録するが野村監督の我儘で解雇1996(平成8)年、オマリーは打率3割1分5厘18本塁打97打点と活躍している。タイガース時代から6年連続の3割越えだった。しかし、シーズンオフに落合博満が巨人を退団すると、野村監督の興味はそっちに行ってしまう。オマリーは落合に4番の座を空けるために10月24日に戦力外の憂き目を見ることになる。野村は自ら2度も落合と交渉に臨んだが空振りに終わり、落合は日本ハムと3億円で契約している。思ったようにはいかなかった。(13)その後のオマリーオマリーは日本でプレーする中で日本人の持つ好い習慣が身に付き、のちに指導者になってからも役に立ったと語っている。 「時間に余裕を持って行動するんだ。早く来るのが当たり前。時間通りに来るようじゃ遅刻。遅刻するくらいなら来ない方がマシってね。若い頃から良い習慣を身に付ければ、後々に人生の助けにもなるからね。」2002(平成14)年に星野監督の就任とともに特命コーチとして2年間若手選手の指導や外国人選手のケアにあたってチームに貢献し、2003(平成15)年のリーグ優勝につなげている。 2004(平成16)年から2009(平成21)年まで阪神の駐米スカウトに就任したが、推薦したルー・フォードやケビン・メンチなどが全く当て外れに終わったため退任している。なお、2004年6月に勃発した近鉄とオリックスの合併問題に伴う球界再編で、楽天とライブドアが名乗りを上げたとき、もしライブドアが承認された場合にはオマリーが監督に就任することが決まっていたが、楽天が認められたため立ち消えになっている。 2013(平成25)年10月に打撃コーチ補佐に就任、2016(平成28)年まで務め、マット・マートンやマウロ・ゴメスへのアドバイスもしていた。 トーマス・オマリー[完]オマリーの年度別打撃成績 アメリカではメジャー9年間で466試合2割5分程度の選手だったのに 日本に来て大化けしたね これは驚きだわ「ホームランが少ない」という評価については運悪くラッキーゾーンが1991年オフに撤去されたのが響いてるかもしれない 入団1年目だけしかゾーンがなかったのよね 最初からヤクルトに入っていたら毎年30本以上打ったとおもうこの当時のオマリーさんを実際に見てた先代が言うには守備も下手じゃなかったんだってね 膝の具合さえ悪くなければかなり上手かったらしいわ 肩もだけどスナップが凄く強くてサードからの送球も正確だったと言ってるよブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月25日
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背番号15(その4)背番号15の第4回目です背番号「15」は谷村さんが5年着けたあと 赤松一郎さんが2年ちょっとで故障し引退 そのあとの上田次朗さんもわずか数か月着けただけで引退 その翌年の1983(昭和58)年は誰も着けてないのね ちょっと危なっかしい番号になってきましたその後もこの番号はしばらく輝くことがなかったのよ この4回目では「15番」の黒歴史がつづいてます稲葉 光雄 投手古くからのタイガースのコアなファンであっても、稲葉がタイガースに在籍したことを忘れてしまっているのではないか? 稲葉光雄は静岡県清水市出身、静岡県立清水工業高校から社会人の日本軽金属に進んでいる。1968(昭和43)年のドラフトでは広島から6位指名を受けるが拒否。1970(昭和45)年補強選手として大昭和製紙の優勝に貢献してドラフト2位で中日ドラゴンズへ入団している。 プロ野球の投手と思えない174センチ67キロという小柄で華奢な体格だったが、ボールにはキレがあり、ルーキーの1971(昭和46)年にいきなり21試合に登板して6勝0敗、防御率1.06の好成績を挙げた。 2年目の1972(昭和47)年は周囲が驚く飛躍を見せる。38試合で20勝11敗、リーグトップの8完封勝利が光る。261回1/3を投げて防御率も2.76と素晴らしく、星野仙一を押しのけてエースの活躍だった。 しかしこの大車輪の活躍は、体格に恵まれない稲葉にとっては負担と疲労の積み重ねであり、翌1973(昭和48)年に6勝13敗と大きく負け越すと、29年振りに中日がリーグ優勝した1974(昭和49)年はひじを痛めてしまいわずか4勝と貢献できなかった。その後も7勝、3勝と低迷が続いたため1976(昭和51)年のオフに島谷金二、大隅正人とともに交換トレードで阪急ブレーブスへ放出される。ところが阪急に移った1977(昭和52)年に見事な復活を遂げる。ローテーションに組み込まれて30試合に登板、17勝6敗1セーブの好成績で防御率は2.45、勝率.739で最高勝率のタイトルも獲得した。 翌年からも10勝、11勝、5勝、11勝、7勝と貢献し、通算104勝のうち阪急時代に58勝を挙げている。しかし最後は衰えが目立ち戦力構想から外れた。 1984(昭和59)年、金銭トレードでタイガースに移籍、空き番だった「15」を着けたが、結局一軍の試合で投げることはなく引退。何のために獲得したのかわからないままタイガースを去った。 引退後は中日や日本ハムでコーチを務めるほか野球解説でも活躍したが、2012(平成24)年8月11日に63歳で亡くなった。嶋田 章弘 投手和歌山県有田市出身。簑島高校2年時の1983(昭和58)年には吉井理人の控え投手として夏の選手権に出場、翌年はエースとして出場したが2回戦で敗退した。速球派の右腕投手として評価されたが、俊足で左打席でのバッティングも好く、いわゆる万能選手だった。1984(昭和59)年のドラフト会議では広島とタイガースが指名したため抽選となり、タイガースが交渉権を獲得し入団する。背番号は前年稲葉が着けていた「15」。この番号を着けた2人目のドラフト1位選手となった。また、同ドラフトでタイガースは社会人住友金属にいた実兄・嶋田宗彦を4位指名で獲得し、兄弟同時入団で話題になっている。 ルーキーイヤーの1985(昭和60)年8月にプロ一軍デビュー。この年は高卒1年目ながら10試合(先発3試合を含む)に登板しており、球団の期待のほどがうかがえる。9月15日の中日戦では8回までノーヒットに抑える快投も見せたが、この年は0勝0敗に終わる。 翌1986(昭和61)年は11試合に投げたが2敗、シーズン中に右肩を痛めてしまい、1987(昭和62)は登板なし。1988(昭和63)年にアメリカで手術を受け復活を目指すが、やはり一軍登録されるまでに至らず、オフには任意引退扱いとなる。 1989(平成元)年には背番号を「60」に替えたが、この年も翌1990(平成2)年も投手として復活することはできず、プロ6年目が終わる。 だがさすがにドラフト1位だけに球団も簡単に見捨てることはなく、1991(平成3)年にはもともと評価の高かったバッティングを生かして外野手転向に挑戦させ、一軍公式戦で27試合に出場し68打数15安打の成績を残す。しかし翌年はたった2試合でノーヒットに終わり、1993(平成5)年には59試合で158打数39安打を記録したものの、外野は新庄や亀山が台頭して居場所はなくなり、シーズンオフに米崎薫臣とのトレードで近鉄バファローズに放出されてしまった。 近鉄でも野手として登録されたが2年間で25試合33打数3安打の成績に終わり、1996(平成8)年には中日へ移籍。最後のチャンスだったがわずか4試合しか出場機会はなく、現役を退いた。引退後7年間中日に残ってスコアラーを務め、2004年にはタイガースに復帰して2023(令和5)年現在もチーフスコアラーとして貢献している。鶴見 信彦 内野手 この選手を覚えている人がいたら相当なタイガース党ではないだろうか?ドラフト2位でありながらタイガースには2年間しか在籍していない。2年目のオフにトレードに出されるが、行った先は読売ジャイアンツという非常に珍しい経歴だ。タイガースと読売の直接選手交換によるトレードは鶴見以降は2023年現在まで例はない。 鶴見は神奈川県相模原市出身。向上高校では右投げ左打ちの遊撃手としてクリンナップで活躍し、三菱自動車川崎へ進む。社会人時代は怪我が多かったが、その広角打法が「篠塚二世」などと呼ばれるほど評価の高いショートストップだった。 1988(昭和63)年のドラフト会議でタイガースが2位で指名するも、重要な戦力であるため三菱自動車側が移籍拒否を表明したため、他の指名選手が合同入団発表を済ませた後も交渉が難航する。最終的に鶴見は会社の慰留を振り切って自分の意思でタイガースと契約し、12月27日、たった一人の入団発表会見に臨んでいる。背番号は嶋田章弘から「15」を譲られた。 入団までに大変な騒動だった鶴見はプロでは全く振るわなかった。タイガースでの1年目1989(平成元)年は一軍登録されず、ウェスタン54試合で打率.221の10打点。1990(平成2)年も一軍に上がることなくウェスタンで36試合、打率.205の6打点という成績しか残っていない。この年のオフに読売との間で石井雅博との交換トレードが成立しジャイアンツに移籍した。しかし読売ではイースタンですら1試合しか使ってもらえず、1年で自由契約となって引退している。まとめ稲葉さんねえ・・・このころのタイガースを見ると1981(昭和56)年に高橋重行さん 1982(昭和57)年には永尾泰憲さん・上田次朗さん1983(昭和58)年は野村収さん 1984(昭和59)年が一番多くて稲葉光雄さんのほか弘田澄男さん・岡義朗さん・山内新一さん・太田幸司さん というように他球団で不要になったベテランを次々獲得してるのよ この傾向は1985(昭和60)年の長崎啓二さん、1986(昭和61)年の柏原純一さんなどと続くけどね 確かに活躍してくれる選手もいたけどその期間は短いし 役に立たない選手のほうが多いわ 稲葉さんなんて戦力になるとおもって獲得したのか怪しいよ? はっきり言って引退の花道を飾る球団になってるわ! 嶋田章弘さんは残念な選手だったみたいね 高校時代にトップクラスの大活躍はしてないけど高い将来性を評価されて1位指名になった選手ね ほかにも源五郎丸洋さん・安達智次郎さん・遠山昭治さんなんかがそんな感じね こういう未完の大器はなかなか育てるの難しいんだろうな・・・ 鶴見さんはなんて言ったらいいのか・・・大騒ぎしてタイガース入りした割に一軍登録すらないままトレードされて通算3年で引退って何だったの?三菱自動車の判断に従ってたほうが身のためだったような・・・さすがに一軍の試合に一度も出てないから写真は見つからないよ背番号15ー5へ続く
2023年11月15日
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さて予告したように猛虎異人伝のバースさん 7回連続一気に公開するよ列伝27 ランディ・バース①Randy. William.Bass (1983~1988)生年月日:1954年3月13日背番号44 右投左打・一塁手出身地:アメリカ合衆国オクラホマ州球 団:阪神(83~88)表彰等:日本シリーズMVP(85) セ・リーグMVP(85) 首位打者2回(85、86) 本塁打王2回(85、86) 打点王2回(85、86) 最高出塁率2回(85、86) 勝利打点王(85) ベストナイン3回(85~87)オールスター出場3回(85~87)阪神在籍:6年 614試合2208打数743安打486打点202本塁打5盗塁 打率.337 (1)新助っ人バースの入団と登録名の一工夫1982(昭和57)年12月9日、阪神の新しい外国人選手の入団内定が発表された。その名は「ランディ・バス」。ツインズ~ロイヤルズ~エクスポス~パドレスと移籍を繰り返し、当時はテキサス・レンジャースに所属していた。大リーグ経験は6シーズンで、130試合に出場しているが、通算打率2割1分2厘、9本塁打42打点という並以下の成績でまったく無名の選手。ただし、3Aではデンバー時代の1979年に36本、1980年に37本の本塁打を記録した長打力は捨てがたい。2年目の安藤監督にとっては十分に魅力のある選手だっただろう。年齢も脂が乗ってくる28歳、背番号は「44」、年俸は2500万円だった。パドレス時代のサイン入り野球カード184㎝・95㎏、ちょっと太めの巨体で名前が「バス」ときては、いかにも鈍重なイメージで好ましくない。阪神はバス事業も運営しており、打てなければ「阪神バス急ブレーキ」などと不名誉な見出しにされそうだ。そのため契約後の登録名は「バース」になった。間を伸ばしただけなのに、不思議と精悍な響きを感じる。「神様バース」の誕生である。(2)バース入団にまつわる信じられない裏話 最初にバースの阪神入団までの裏話を紹介しておきたい。日刊スポーツの取材に対し元阪急ブレーブスのブーマー・ウェルズが明かしたもので、2023年8月7日に配信されているので以下に要約してみる。1982年のオフ、最初にバースと交渉したのはヤクルトで、実際に獲得寸前まで話が進んでいたらしい。ところがバースは膝の故障でファーストしか守ることができないという情報が入った。ファーストに大杉勝男、杉浦享と大砲が2人もいるヤクルトは獲得を断念、代わりに阪急を退団したボビー・マルカーノ内野手の獲得に転じた結果、助っ人市場にバースが売れ残る。一方阪神の編成部は3か月にわたって担当を渡米させ、最終的にヤクルトが断念したバースとブーマー・ウェルズの2名に絞り込んだ。同じ一塁手のため二者択一となったわけだが、当時の阪神は岡田彰布、真弓明信ら右打者が多く、左の主砲は掛布雅之だけという状況だった。そこで打線のバランスを考え、左打ちのバースを選んだという。仮にどちらか一方が他のポジションを守ることができていれば、球史に残る名助っ人2人は阪神でチームメートになっていたのだ。現実には右打ち外野手が本職のスティーブ・ストローター(猛虎異人伝26 スティーブ・ストローター | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ)を選択することになり、これが貧乏くじだったわけだ。3人の三冠王 (落合・ブーマー・バース)ここに意外と知られていない事実がある。守れなかったはずの外野を、来日後のバースとブーマーは、ともに守っていたのだ。1983(昭和58)年のバースは52試合で外野守備についた(左翼1試合、右翼51試合)。当時の阪神は藤田平が一塁手として出場を続けていたため、首脳陣は危なっかしい守りに肝を冷やしながらもバースを外野へ送り出していた。一方のブーマーも、通算6試合で外野を守っている(左翼5試合、右翼1試合)。1984年には右翼と左翼で1試合ずつ先発出場も果たしている。もし両大砲が阪神に入っていたら、どちらかが外野に回っていたことは間違いない。守備の不安に目をつぶれば、夢の超絶クリーンアップが誕生していた。3番バース、4番掛布、5番ブーマー。そして1番真弓、6番岡田が脇を固める。空前絶後の強力打線が、球界を席巻していた可能性があったという話である。(3)オープン戦で死球!左手首骨折で出遅れたバース1983(昭和53)年2月、マウイキャンプから参加したバースは「一塁手専門でやってきたが、言われれば外野でもOK。ホームランは30本以上が目標だ。」と語っている。大口を叩かない優等生的な答えは、終始一貫したバースのスタイルだ。ハワイ・マウイキャンプの紅白戦で140メートル弾を放って周囲を驚かせると、日本に戻ってのオープン戦第一戦では、早くも「バースらしさ」を見せる。3月6日の大洋戦に5番・ファーストで先発したバースは、5回に広瀬からソロを放つと、9回には増本からこの日2本目を放り込み、結果は5打数4安打2打点。ホームランは、いずれも2ストライクと追い込まれてからのものだった。特に2本目はフルカウントから、3球続けてファウルで粘った末に打ち込んでいることに注目すべきだろう。破壊力に加えて、選球眼の良さ、勝負強さも兼ね備えていたことが分かる。 順調に調整が進んでいたバースを不運が襲ったのは3月18日のロッテ戦だった。5回裏、三宅宗源の投じた力のある球を左手首に受けて亀裂骨折。全治3~4週間を要するという診断で開幕一軍は絶望となり、結果的には約1ヶ月を棒に振った。この間、極度のホームシックに悩んでいたリンダ夫人の精神的ケアのため、一時帰国するなど、バースは公式戦出場を前に大きく躓いてしまった。やむを得ず、開幕当初は残留していたアレンと新入団のストローターで臨んだ阪神だったが、アレンは長打力に欠け、一方のストローターはオープン戦から不振を引きずってベンチを暖めるという始末。4月15日、焦った首脳陣はストローターを抹消すると同時に、まだリハビリが済んでいない状態のバースを一軍に上げざるを得なかった。ランディ・バース②へつづく1年目のバースさんは すぐに注目される選手というわけではなかったようね 3月4月は怪我の不運があってろくに試合にも出られなかったから無理もないか 1983年の写真とわかるものはWEB上でも見つからないよ 85年以降のものや引退後のものはいっぱいあるのに・・・ 初めはそういう程度の注目度だったわけよ このバースさんが2年後に大爆発するなんて 当時のタイガースファンは想像もしてなかったんだろうなあ 第2回では来日1年目のバースさんがどんな働きをしてくれたかを詳しくお伝えするね!ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月04日
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タイガース脇役物語(3)池辺巌池辺巌(いけべいわお)1944(昭和19)年1月18日生 出身 長崎県長崎市経歴 長崎海星高校大毎、東京、ロッテ(1962~1974)阪神(1975~1978)近鉄(1979)右投右打 外野手背番号 34 (阪神在籍時) 池辺の現役としてのピークはオリオンズ時代の1967年から1972年にかけて。70年と72年にはホームラン20本以上を打っている。また、この6年間のうち5シーズンで2けた盗塁を記録した俊足でもある。長打あり、足もありと相手投手が一番嫌がるタイプの選手だった。 金田正一監督の就任と同時に、背番号34(金田氏現役時代の番号)をはく奪されて不仲になり、2年後にトレードに出されたと言われている。阪神では再び34を付けた。 阪神に来た時は30歳を越えており、ベテランの域に達していたが、4年間、ほぼレギュラー外野手としてチームを支えている。 1976年、吉田阪神が新ダイナマイト打線と呼ばれて旋風を巻き起こした。そのなかで、ラインバック、田淵、ブリーデンという破壊力あるクリンナップに続く東田、池辺の脇役下位打線は地味ながら相手チームを苦しめた。下位とはいえ二人とも2けた本塁打を打てるパンチ力があり、中軸を打ち取ってホッとした相手投手に手痛い一撃を加える厄介な存在だった。 特に池辺は守備でもチームに貢献した。派手ではないが勘がよく、打球を予測して何でもないように処理する。2度ゴールデングラブ賞をとっているが、そのうちの1回がこの76年である。豪快なホームランに目を奪われがちだが、優勝争いができたのは池辺の存在が大きい。 1977年4月29日には池辺の人柄を表す一つの出来事があった。大洋3回戦の9回裏、大飛球を追ったレフトの佐野仙好が川崎球場のコンクリートフェンスに激突した時、「ただ事ではない」と直感してひたすら担架を要請したのがセンターの池辺である。このときは試合を止めなかった審判の対応にも批判があった。 しかし、インプレー状況と判断した以上、仮に池辺がタイムを要求しても受け入れなかったと思われる。この結果同点とされて引き分けに終わったが、佐野は実際に頭がい骨骨折の重傷。池辺が試合進行を無視して佐野の安否を優先し、救援を求めたのは適切で人道的な判断だと称賛されるべきだろう。 そして最も忘れられないのが、佐野激突事件の翌日、4月30日の大洋4回戦だ。阪神が5対2とリードして迎えた7回裏大洋の攻撃。まず正捕手の田淵幸一がファウルチップを股間に受けて悶絶退場。急きょ代わった控え捕手の片岡新之介も、ファウルが右手中指に当たり腫れあがるというアクシデントに見舞われた。 この回は1失点で乗り切ったが、片岡の指は骨折しているらしくもう投げることすらできない状況。しかもベンチに捕手登録の選手はいない。それなのにまだ2イニング守らなければならなかった。 頭を抱えた吉田義男監督が指名したのはベテラン池辺だった。長い野球人生で捕手経験は全くない。それでも池辺は受けた。 リリーフした古沢憲司との急造バッテリー間のサインは直球のグーとスライダーのチョキだけ。古沢もほとんど直球しか投げなかったが池辺は捕るのがやっとだった。 「あまりにも手を突き出して捕球するので、ミットをぶっ叩かれて打撃妨害になった挙句に大怪我するんじゃないかとはらはらしていた」と、ベンチから見ていた江本孟紀が語っている。とにかく8~9回を1失点で切り抜け、辛くも5対4と守り切ったとき、池辺と古沢は精根尽き果てていた。 池辺の阪神時代は4年間にすぎない。また飛びぬけて目立つ成績でもなかった。それは器用すぎて便利に使われたせいもあるからだろう。けれども本質的には野球センスが抜群だったと思う。阪神では全盛期を過ぎていたがいぶし銀の働きだった。今も「頼りになるおっさん」というイメージで私の記憶には鮮明に残っており、とても好きな選手だった。(当時はマジでおっさんだと思っていた) 1979年、トレードで近鉄に移り、1年で引退した。
2011年09月05日
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背番号35(その3)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 背番号35の第3回目です 1人目の交告(こうけつ)弘利さんは2代目と同じ岐阜県の出身 中津川市だから県でも一番東にあたり 中央高速道路の恵那山トンネルを抜けると向こう側は長野県ね 残念だけど5年間在籍して公式戦は通算12試合にしか出てないわ 情報も少ないし写真もない今回は交告さんを含め2名の紹介にします 2人目の選手はすでに「猛虎異人伝10」で紹介した助っ人外国人選手だよ 覚えてるかな?交告 弘利(こうけつ ひろとし)投手実は2代目の地方にはこの苗字って珍しくないのよ 「纐纈」という字を使ってる場合も多いよ 同じように「こうけつ」って読むんだけどね 初めて見る人は絶対読めないだろうね 余談でした岐阜県中津川市出身。高校は岐阜短期大学付属岐阜高等学校(現・岐阜第一高等学校)。180センチ75キロの恵まれた体格のサウスポーで、高校2年時にはすでに東海地区ナンバーワンの逸材とみられていた。知恵袋に入団前後の情報記述が残っているので少し長いが掲載しておく。東海地方で本格派の速球投手ナンバー・ワンの折紙をつけられている岐阜短大付属高二年生、交告(こうけつ)弘利投手(17)は、地元中日をはじめ、近鉄、阪急、南海、大洋から誘われていたが「中退~プロ入り」に踏み切り、このほど家族会議の結果、阪神入りときめた。同投手は2年生ながら、上背があり、左腕から投げおろす速球は超高校級の球威をもっている。今春近鉄がいちはやく目をつけ、岐阜県中津川の自宅を訪ねた。その後、中日、阪神、南海、大洋が名のり出て激しい争奪戦となった。今夏の予選前まで中退する考えはもっていなかったが、予選後中日の攻勢が激しくなり、中日は本多スカウトが連日自宅参りして口説いたため、中退に傾いた。中退に踏み切った1963年7月20日すぎごろには、スタートの早かった近鉄と、地元の中日が有力だった。とくに巻きかえしの強かった中日に傾きかけたが、家族の「地元ではあまりに身近すぎるので遠い球団の方が本人に独立性がもてる」という意向から中日の縁はうすくなった。近鉄江田スカウトが都市対抗野球で東京に出かけたスキに阪神が強力に話を進め、30日夜自宅を訪ねた中日本多スカウトに父親が「阪神入り」の意思を明らかにしたもの。180センチ75キロ、左投左打。高校2年生に対してものすごい争奪戦だが、ドラフトの無い自由競争時代はこんな感じのスカウト合戦が日常だったのだろう。交告は1963(昭和38)年のシーズン途中での入団で、背番号はとりあえず仮番号の「69」を経て「58」番をもらうがこの年の登板はない。翌1964(昭和39)年、福浦健次の退団に伴って空いた「35」を受け継ぐことになる。しかし事実上のプロ1年目と言えるこの年、当時の阪神の投手コーチだった杉下茂も惚れ込んだ逸材と言われるが、実際に目の当たりにすると横手投げに近いフォームはギクシャクしており、ボールの伸びや切れは感じられなかったらしい。現実は体が硬く修正が難しい投手でプロでは伸び悩むことになる。初登板は1965(昭和40)年になったがシーズン5試合に投げただけ。次の1966(昭和41)年も5試合、1967(昭和42)年は2試合になってしまい、もう伸びしろはないとみなされたようだ。1968(昭和43)年も在籍したが登板はなく、シーズン終了後自由契約選手となってプロから身を引いた。通算成績は12試合(先発3)で0勝2敗、18回2/3を投げ被安打18、11四球、9奪三振、自責点8,防御率3.86だった。ジョー・ゲインズ 外野手ゲインズ選手はすでに「猛虎異人伝」で先に紹介してるわね なのでそちらから短縮版として転載させてもらうね1969年1月14日、戸沢球団社長が自らロサンゼルスに赴いて、当時ツインズ傘下の3Aデンバーに所属していた黒人選手ジョー・ゲインズ外野手と契約した。ゲインズはレッズ~オリオールズ~アストロズでメジャーを経験しており、通算362試合に出場、771打数186安打95打点21本塁打の成績を残している。マイナーリーグの通算949試合で打率2割9分8厘、76本塁打という記録を見る限りでは好打者だ。 1968(昭和43)年は、3Aハワイ・アイランダース(過去にバッキーやカークランドも在籍)に所属し、打率2割8分7厘、8本塁打で25盗塁という数字を残している。どちらかと言えば俊足のアベレージヒッターだろう。ゲインズは1969年2月14日に来日、入団時の年齢は32歳で、身長183cm、体重83kgの体格は、日本人に混ざってもそれほど目立たない感じだった。このときのコメントでは「変化球打ちには自信がある。打率2割9分以上、80打点、本塁打は15本プラス・アルファーが目標数字だ。」と語っており、本人にも中距離打者という自覚があったようである。背番号は引退した交告から「35」を引き継いでいる。ゲインズは、3月2日の対阪急オープン戦に代打で初出場、そのままレフトの守備についたが無安打だった。3月8日の南海戦には3番・レフトで先発出場し、盗塁を決めたが、3回の守備で果敢に飛球を追ってレフトのフェンスに激突してしまう。右顔面を強打して大阪厚生年金病院に運ばれ、検査の結果、右頬骨の骨折でそのまま入院という事態になったが、3月10日の精密検査で経過は良好との診断で退院を許される。 ここからがゲインズの頑丈さの驚くべきところで、3月15日の対ロッテ戦で早くも先発出場し、オープン戦初安打を放つ。3月20日の対近鉄戦の初回には、エースの鈴木啓示に先制3ランを浴びせ、大怪我を感じさせない回復ぶりを見せて周囲を安堵させた。ただし、オープン戦での打点は鈴木から打ったホームランによる3打点のみ。打率は1割5分7厘と振るわず、不安は残った。1969年4月12日、対大洋の開幕戦は3番レフトで先発出場し、公式戦初安打を記録。翌日のダブルヘッダー第2試合で2安打、続く15日のアトムズ1回戦でも1安打を放つと初盗塁も決め、順調な滑り出しを見せた。ところが4月19日の中日戦以降、ヒットは2試合に1本のペースに落ち、完全に失速してしまう。ゲインズが目覚めたかと思わせたのは、5月27日の対アトムズ(現ヤクルト)4回戦だった。この日の阪神打線は記録的な猛打を振るっている。3回表に1点を先取、5回表に2点を加えて3対0とリードして迎えた6回表、打者18人を送る猛攻で1イニング日本タイの12安打を浴びせ、挙げた13得点は日本新記録。 この中で、ゲインズの来日第1号2ランも飛び出した。前日までの成績が、打率1割8分3厘、打点1、本塁打0という内容で、信用を失いかけていたゲインズだったが、チームの勢いに便乗して来日第1号を含む2安打4打点と活躍したのである。翌日にも第2号2ランを放ってようやく調子が上向くかに見えた。しかし、6月に入ると1日から6試合連続ノーヒット。この間にチームも首位から転落し、ゲインズは6月中旬から7月上旬まで約1ヶ月間、試合を遠ざかる。スタメンに復帰した7月12日の中日戦で、第3号3ランを放ったが、これが日本での最後のホームランになった。オールスター後の後半戦では代打要員としてベンチを温め、結局シーズン通算では、出場わずか51試合、打率は2割5厘、11打点、期待された盗塁も4個に終わっている。公式戦終了後の10月23日、戸沢球団社長は梅田の電鉄本社にゲインズを呼んで戦力外を通告し、本人も了承し退団が決まった。ゲインズはあまり活躍できなかったので写真がほとんど残ってない。そのかわり当時のテレビアニメ「巨人の星」の第117話の中で登場シーンがある。その試合のスコアボードの画像と合わせて掲載しておく。まとめ交告さんは高校2年の時から争奪戦が始まってたっていうから凄い選手のように聞こえるけど 入団してみるとすぐに評価が下がってるみたいなのね 投球フォームが横手投げに近いとか伸びとかキレなんて高校在籍時にわかりそうなもんだけど?争奪戦になって目がくらんだのかな?それとも中日にとられるくらいなら妨害してやれってことだったかもしれないねゲインズさんは「異人伝」の方で もうすこし詳しく紹介してるので見てない人は読んでみてね(猛虎異人伝10 ジョー・ゲインズ | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ)背番号35-4につづく ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月13日
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背番号35(その7)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 背番号35の第7回目ですさてあと4人になったわ 今回まとめて紹介するってことで最終回にしますね今回は最後に才木浩人投手が登場しますが 実はこのブログを今まとめてるのが日本シリーズ初戦の10月25日なのよ 多分ブログの公開は1ヶ月くらい先の11月末くらいになるとおもうから メジャーなのか残留なのか騒がしい時期になってるかもね(予定より若干早くなりました)では4名の選手を順に見ていきますが あまり好い番号と言えなかった35番に光をともしてくれたのが才木投手・・・それでも一時期は育成になって「121」を着けてるから 一筋縄でいかないのがこの35番みたいですねルー・ポート 投手 ルイス・ウィリアム・ポート。アメリカのイリノイ州クック郡エバーグリーンパークの出身。1990(平成4)年のドラフト29巡目でサンフランシスコ・ジャイアンツから指名されてプロ入りしている。1999(平成11)年にアナハイム・エンゼルスに移籍し、同年メジャーに初昇格。4年間で127試合4勝4敗6セーブ6ホールド、の成績を残している。星野監督2年目の2003(平成に15)年にジェフ・ウィリアムスとともにタイガースに入団した。背番号は退団した舩木が着けていた「35」を引き継いでいる。メジャーでの数字を比べる限りウィリアムスよりも良く、150キロの速球とスプリットが武器で、中継ぎやクローザーを経験してきていることもあって、タイガースでも守護神候補として期待される。 しかしふたを開けてみると、一軍で投げたのはわずか8試合。9回1/3で16安打を浴び、防御率9.64と使い物にならない。故障もあってファームで飼い殺し状態になり、シーズン終了後に解雇されている。これというエピソードもなく、書くことがない。成績は8試合0勝1敗1セーブ。9回1/3で1四球8奪三振、防御率9.64。タイガース退団後はアメリカの独立リーグや台湾プロ野球などを転々としてプレーを続けたが2011(平成23)年に現役引退している。40歳まで現役を続けたのはある意味立派だった。牧野 塁 投手東京都出身で高校は山梨学院大付属高校。甲子園大会への出場はできなかったが三振がとれる大型右腕としてプロから評価され、1992(平成4)年のドラフト会議でオリックスから3巡目に指名されて入団している。オリックスには11年在籍し、中継ぎとして働いてはいるが安定感がなく、登板数が2桁だったのは4シーズンしかない。ストレートは150キロが出せるしスライダーも悪くないが、コントロールが思うに任せなかった。 岡田監督1年目の2004(平成16)年、斉藤秀光・谷中真二との2対2の交換トレードで、葛城育郎と共にタイガースへ移籍してきた。背番号はポートが着けていた「35」に決まる。移籍1年目は27試合に登板して1勝0敗、32回2/3を投げて33奪三振で防御率2.48と戦力になっている。 しかし2年目の2005(平成17)年はわずか2試合。2イニングで防御率9.00で終わり、3年目はファームでくすぶっていたところ、シーズン中に坂克彦とのトレードがまとまり、東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍する。楽天では先発もこなすなど1年目にプチブレイクしたが長続きせず、2008(平成20)年の7月に佐竹健太との交換トレードで広島東洋カープへ移籍。 広島では2009(平成21)年までプレーし、同年10月に戦力外となり、12球団トライアウトに参加したものの獲得球団がなく引退している。 実働17年という細く長いプロ野球人生で222試合(先発27)に登板しており、通算13勝23敗2セーブ4ホールド、388回2/3を投げ、175四球337奪三振、自責点187で防御率は4.33の数字を残した。多分トライアウトで声がかかればまだ投げ続けたのだろう。やれるところまでやり抜いたという意味で評価したい。 引退後は独立リーグなどで監督などをしていたが、2023(令和5)年にスカウトとして古巣オリックスに復帰すると、翌年に投手コーチ、2025(令和7)年から二軍投手コーチとなっている。坂 克彦 内野手・外野手茨城県新治郡出島村(現かすみがうら市)の出身。中学までは軟式野球部だったが常総学園高校に進むと1年生からレギュラーに抜擢される。内外野どこでもこなせるオールラウンダーで3年連続夏の選手権で甲子園に出場している。 3年時の2003(平成15)年夏には決勝に進み、ダルビッシュ有を擁した優勝候補ナンバーワンの東北高校を破って全国制覇を成し遂げている。高校通算35本塁打と長打力も十分。 2003(平成15)年のドラフト会議では大阪近鉄バファローズから3位指名されて入団している。 ところが2004(平成16)年のルーキーシーズンが終わると球団が消滅。分配ドラフトにより2005(平成17)年から東北楽天に移籍するが、この年も一軍の試合に出ることがないまま過ごした。 2006(平成18)年6月に牧野塁とのトレードでタイガースに移籍する。もらった背番号は「35」だった。このシーズンに初めて公式戦の出場機会を得るが、わずか2試合5打数0安打1三振に終わっている。タイガースに来てから6年間は守備要員の役割が色濃く、出場も2010(平成22)年の28試合が最多だった。 ところが2012(平成24)年に和田監督が就任するとスタメンでも起用されるようになる。実際にバッティングは柔軟性があり広角に打てる。2012年こそ18試合だったが、2013(平成25)年には111試合に起用され、2014(平成26)年も88試合、2015(平成27)年も87試合と出場機会は多かった。 ところが2016(平成28)年に金本知憲が監督になると、二軍に置かれたまま一度も一軍に呼ばれず、完全に戦力外の扱いになってしまう。実際にシーズン終了後の10月2日戦力外を通告され退団して自由契約選手になる。12球団トライアウトに挑んだが獲得球団はなく、NPBを去る。タイガースでは10シーズンで背番号35を着けておりこの番号を着けた最長の選手だ。プロ通算成績は、376試合455打数96安打45打点5本塁打37四球108三振、打率.211だった。坂の素質からすればもっと好い数字が残せたはずだが生かせないまま終わったのは残念だ。高校を卒業して入った近鉄が1年で消滅。訳が分からないまま楽天に移籍し、半年もしないうちにタイガースへトレード。高校からプロ入りしたばかりの青年には過酷な環境の変化だった。もし安定した球団に指名されていたら、まったく違った人生になっていたのではないか。2017(平成29)年から独立リーグの大阪ゼロロクブロスでプレーしながらコーチ役も務めた2019(令和元)年から生まれ故郷の茨城に戻り、BCリーグ茨城アストロプラネッツの監督に就任し、背番号35を着けている。才木 浩人 投手 2025(令和7)年現在「35」を着けているのは、兵庫県神戸市西区出身の才木浩人。野球を始めた当時は捕手。中学2年のときに投手へ転向している。才木が中学3年だった時のエピソードを能見篤史が語っているので掲載しておく。2025/9/8 スポニチアネックス 能見氏は現役時代に参加した野球教室で当時中学3年生だった才木に出会ったといい「僕は覚えてます」。能見氏は才木に「背が高くてフォームがきれい。スカウトに言っておく」と伝えたといい、当時の才木について「こんなに理にかなった投げ方する子いるんだって、その時凄く印象的だった」と振り返った。ただし能見氏のような目で見れる指導者は少なく、高校野球界では特に目立った選手として見られてはいなかった。そのため強豪校からの勧誘も無かったので神戸市立須磨翔風高校へ進学している。高校でも全国的な大会には出ていないが、ストレートは148キロを出しており、日本だけでなくMLBの球団もチェックする投手に成長した。 2016(平成28)年のドラフト会議でタイガースから3位指名されて入団し、背番号「35」を着けることになる。ルーキーイヤーの2017(平成29)年は2試合ながら一軍で投げており、中継ぎで1ホールドを記録している。 2年目は22試合で14試合に先発、6勝10敗1ホールドと活躍。82回で85個の三振を奪って素質の高さを証明した。2019(令和元)年も5月に一軍に上がり2勝を挙げたが、3試合目でノックアウトされて降格となり、5月19日のウェスタン広島戦の試合で肘に違和感を感じたことから降板し以後は治療とリハビリでシーズンを終える。2019年に先代が鳴尾浜で撮った才木投手当時はワインドアップだったのね 2020(令和2)年になっても肘の状態は改善する様子がなく、11月にトミー・ジョン手術を受けることになった。以後回復に専念するため12月8日に支配下から外し育成選手契約となって背番号は「121」となる。 2021(令和3)年はファームでも全く試合に出ることはなく治療に専念し、年俸は700万円まで下がってしまう。2022(令和4)年2月に実戦復帰すると4月12日のウェスタンでは150キロを計測し、5月4日に支配下契約に戻り、再び背番号「35」を着ける。7月3日に一軍に上がり、以後9試合に登板して4勝1敗と復活を遂げた。三振も47イニングで43個を奪っており球速も上がっている。2023(令和5)年、岡田監督が就任しローテーションの一角を担うことになるが、まだ1年を通じて投げ切る体力がなかったのかシーズン中に腰痛を発症するなど延べ2カ月程度ファーム調整の期間もあったため19試合で8勝5敗1ホールドと納得のいく数字ではなかった。2024(令和6)年、前年MVPとなった村上頌樹を目標に置き、万全でシーズンに臨むと25試合すべて先発登板して13勝3敗、防御率1.83の成績を挙げる。2025(令和7)年も24試合登板して12勝6敗、防御率1.55で初タイトルとなる最優秀防御率投手に輝いた。 2023年3月6日に行われたWBC強化試合で、大谷翔平に対して投げた会心のフォークを片膝をついて片手でバックスクリーンへ放り込まれたことが発奮材料になったのか、急激にメジャー志向が強まり、現在は球団にその意志を伝えている。まとめみなさんいかがでした これで「35」はひとまず終了となりました 最後まで読んでくれてありがとうポートさん覚えてた?多分みんな忘れちゃってるよね 活躍してないし牧野さんもねえ・・・第1次岡田監督のころだし、2年いたけど2試合しか出てないし 子供だった2代目にはまったく記憶にありません坂さんは覚えてる 12~13年くらい前かなあ 結構出てた気がする 終盤の守備固めみたいなのが多かったけど バッティングも好かった記憶があるわ最後は才木投手 手術からよく立ち直ってきたよね 一時期育成契約になってしまって「35」が途絶えたんだけど 復活してまた着けてくれてますメジャー行きの気持ちはもう揺るがないんだろうね でもタイガースにいる間は戦力としてしっかり貢献してくれるとおもうよ背番号36につづく では次回からだけど 息抜きに「ガールズバンド」を1つはさませていただき そのあとはしばらく「猛虎異人伝」を掲載する予定 背番号史はちょっと一休みするけど「36」も一気読みしてもらえるよう現在最終チェック入れてるところです 待っててね 才木投手もテル君も来季は残留決まったね 来季はリーグ連覇してもう一度日本選手権に挑戦してほしいわブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月17日
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列伝36 マーヴェル・ウィンMarvell.Wynne (1991)生年月日:1959年12日17日背番号40 左投左打・外野手出身地:アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ球 団:阪神(1991)表彰等: 特になし阪神在籍:1年 123試合453打数104安打44打点13本塁打6盗塁18四球96三振 打率.230(1)オマリーと同時入団で期待度は高かったウィンウィンは1983(昭和58)年にピッツバーグ・パイレーツに入団し、3年間ほぼレギュラー級の地位にいた。2年目の1984(昭和59)年は154試合に出場して653打数174安打39打点24盗塁で打率2割6分6厘を記録しているが、これだけ打席に立っているのにホームランが0というのが気になる。パイレーツ時代には3年間で9本塁打しか記録していない。 1986(昭和61)年にはサンディエゴ・パドレスに移籍し、3年間規定打席には及ばないものの準レギュラーとして過ごしたが4年目となった1989(平成元)年のシーズン途中にシカゴ・カブスにトレードされている。 1990(平成2)年までメジャー8年で940試合2693打数664安打244打点40本塁打、打率2割4分7厘。同年入団のトーマス・オマリーが9年466試合1213打数310安打131打点13本塁打、打率2割5分6厘だから、数字の上ではウィンに期待する声が多かったのは頷ける。ウィンの年俸は約1億4000万円、一方のオマリーは約6500万円だったことが当時の評価を物語っている。ただしウィンは早打ちであまりフォアボールを選ばない選手だった。オマリーが通算133四球で151三振なのに対し、ウィンは通算191四球で398三振というところに大きな違いがあった。オマリーはウィンの約2倍のペースでフォアボールを選んでおり、逆に三振は半分以下だ。(2)1年を通じて出場し規定打席もクリア・・・メジャーでは主に1番を打つことが多かったウィンだが、阪神は開幕からオールスター前まで3番オマリー・4番岡田彰布・5番ウィンというクリンナップを組んでいる。しかしウィンはメジャー通算13本塁打のオマリーよりホームランが少なく、打率も2割2分7厘で確実性もなかった。 そのため後半戦では3番岡田・4番オマリー・5番真弓明信というクリンナップに切り替え、ウィンは6番や7番に下げられている。前半戦で7本塁打だったウィンは最終的に13本塁打に終わり、打率も2割3分0厘でセリーグ規定打席到達者では最下位。相変わらず打撃向上は見られなかった。しかも当初から危惧されたように、選んだフォアボールがわずか18個なのに対し三振は96個と選球眼が全くないこともメジャー時代と変わっていない。(3)全力プレーはファンも評価したが1年で解雇ウィキペディアににも掲載されているが、5月19日の中日9回戦のあわやサイクルヒットのエピソードがある。第1打席で2ベース、第2打席で3ベース、第3打席で3号2ランを打って王手をかけた第4打席。打球は長打コースに飛びウィンは全力疾走で2塁まで行ってしまう。これはメジャー流のチームプレーだろう。第5打席は回ってこず記録達成はできなかったが、4打数4安打3打点の活躍だった。 怠慢プレーが目立つオマリーに対して、1塁への全力疾走などウィンはチームプレーを実践していたようだ。これは長くレギュラー級でメジャーを過ごしてきた選手ならではのプライドでもあるだろう。逆にオマリーは3Aが主で手抜きを覚えてしまっていたものと思われる。しかし結果は数字がすべて。3割20本80打点をクリアしたオマリーは残留、総合的にはるかに劣るウィンは1年で解雇されてしまった。マーヴェル・ウィン[完]ウィンの年度別打撃成績ウィン選手は123試合にでてるからシーズンを通して使われてるんだけど 2割3分でホームラン13本では来年また使おうって気にはならないよ 18個しかフォアボール選んでないし それでいて96三振だからメジャー時代と傾向は変わってないわ 早打ちでブンブン振っていくタイプ 日本の野球に順応しようという気持ちがなかったんじゃないかな? 1億4千万円は高い買い物だったねブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月26日
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2代目タイガース非公式サイトです 2025年2月15日のブログで予告した「猛虎異人伝」の連載を始めるよ 当分の間は先代が綴った文章をぞのまま掲載していくことになるわ 段落分けしたり小見出しを付けたりした以外は先代の記述です 対象が古いところだからよく知らないことが多いのよ 修正するなら調べ直さないといけないのでやんない ということで先代だとおもって読んでね 最初はソロムコ選手 今回は2日続けて掲載するよ 列伝1 マイク・ソロムコ①Mike Solomko (1960~1963)生年月日 : 1936年7月24日背番号 : 56 右投右打 外野手出身地 : アメリカ合衆国ペンシルバニア州トループ球団 : 大阪-阪神タイガース(60~63)、東京オリオンズ(64~65)表彰等 : オールスター出場2回(60、63)阪神在籍 : 4年 453試合1475打数369安打212打点74本塁打151四死球364三振53盗塁 打率.250 (1)内野は厚いが外野は薄い昭和30年代の阪神は、投手力と守備力に優れた守りのチームだった。守りの中でも内野陣はすばらしく、因みにマイク・ソロムコが入団する前年、1959(昭和34)年の布陣を見てみると、一塁・藤本克巳、二塁・鎌田実、三塁・三宅秀司、遊撃・吉田義男の顔ぶれで、個人成績は次のとおり。 藤本 127試合 450打数 125安打 81打点 24本塁打 4盗塁 打率2割7分8厘 鎌田 106試合 360打数 86安打 17打点 2本塁打 1盗塁 打率2割3分9厘 三宅 130試合 497打数 133安打 63打点 18本塁打 30盗塁 打率2割6分8厘 吉田 130試合 467打数 127安打 32打点 5本塁打 13盗塁 打率2割7分2厘藤本は馬力のある長距離砲。鎌田は非力だったが守備は職人芸。三宅・吉田は好守・好走・好打の三遊間コンビ。それぞれに個性がある充実した内野陣だ。その一方で、外野陣は昭和20年代後半こそ全盛期だったが、1957(昭和32)年には金田正泰と後藤次男が引退。1958(昭和33)年には渡辺博之が近鉄へ、1959(昭和34)年には田宮謙次郎が大毎へそれぞれ移籍するなど過渡期にあり、レギュラークラスで打力のある選手は並木輝男以外見当たらない。選手層が薄く、明らかに攻撃力は他球団に見劣りしていた。 (2)開幕直前に入団テスト1960(昭和35)年、金田正泰監督は春季キャンプ当初から、藤本を外野にコンバートし、若手有望株の遠井吾郎を一塁で使う構想を練っていた。ところがオープン戦では期待の遠井が伸び悩み、頼みの並木の調子も上がらず、外野手がどうしても足りない状況に追い込まれた。こうした台所事情から、急遽ソロムコの入団テストが実現することになった。マイク・ソロムコは、駐留アメリカ軍兵士として1958(昭和33)年に来日し沖縄の座間キャンプに所属していた。在日中に大の日本びいきになり、ちょうどこの時期にタイミングよく除隊したこともあって、前年まで阪神の監督を務めていたカイザー田中氏(下の写真)が仲介する形で入団テストに臨んでいる。もともとアメリカでは3Aの経験しかない無名の選手。その上、兵役によるブランクもあって打撃には粗さが目立ったが、長打力もあるし足も速く、近い将来には十分使える感触が得られた。ポイントになったのは可能性を秘めた24歳という若さと、極めて真面目な性格だろう。とにかく「打てる外野手」の補強を急いでいた阪神は、ソロムコの採用を即決し、こうしてハワイ日系人以外では球団史上初の外国人選手が誕生したのである。最初のシーズンとなった1960年、ソロムコは開幕当初ベンチを暖めていたが、10試合目にして初めてチャンスが与えられた。4月16日の巨人戦(甲子園)で6番・レフトとして、先発出場の機会を得たのである。このデビュー戦は2打数無安打に終わるが、翌17日のダブルヘッダーもスタメン起用され、第1試合で4打数2安打。続く第2試合でクリーンアップの3番に抜擢されると、4打数3安打の固め打ちで期待に応えている。4月19日の中日戦で初打点、23日の対国鉄1回戦では第1号本塁打(投手:森滝)が出たが、その後しばらくの間は代打出場に甘んじた。しかし、5月11日の中日戦でスタメンに復帰すると、翌12日には再び3安打固め打ちを演じる。この頃は与えられたチャンスで確実に結果を出しており、評価は徐々に高まっていった。そして、5月15日の対巨人7回戦(甲子園)、5回を終わって1-0と阪神がリードしていたが試合は膠着していた。 この試合でソロムコは6回、巨人先発の堀本からレフトのポール際へ満塁ホームランを叩き込み、勝負強さと長打力を強烈にアピールすることになる。この一発については時代を共にした本間勝氏が月間タイガースで詳しく記述しているので引用してみる。「昭和35年の出来事である。5月15日、日曜日の対巨人7回戦だった。ダブルヘッダーの第一試合。舞台は本拠地、甲子園球場。五回裏タイガースの攻撃。スタンド、ベンチの期待を一身に集めて打席に立ったのが、マイケル・ソロムコ選手だった。塁上は本間、三宅秀の連打と並木の四球ですべてが埋まっている。一死満塁の大チャンス。相手投手は、新人ながらエース格の堀本律夫氏。カウントは1ボール2ストライクと追い込まれていたが、その4球目。ソロムコ氏がバットの芯で捕らえた打球は、打った瞬間それとわかる満塁弾。しっかと見届け、本人以上に飛び上がって大喜びしたのは私だった。通算95ホーマーも放っている中から、何故この一発に注目したか。読者の皆さんごめんなさい。何を隠そう、私の都合上の問題です。大感激したあの一発、いまだ私の脳裏に鮮明に焼き付いているのは、実を言うと、プロ入り初勝利をアシストしてくれたホームランだったからです。」(月間タイガース2013年10月号)この劇的なグランドスラムで首脳陣を納得させたソロムコは、完全に外野のレギュラーポジションを獲得することになった。 このシーズンはおもに1番を打ち、出場99試合でチーム2位の17本塁打を記録する。その活躍は関係者やファンにも認められ、1年目にして監督推薦でオールスターゲーム出場も果たしている。阪神はリーグ戦3位に終わったが、ソロムコの加入で打線に厚みが加わった年だった。(3)タイガースの主力選手として活躍1961(昭和36)年、タイガースはこの年の4月、球団名を「大阪」から「阪神」に変更している。ソロムコはほぼ1年を通じてクリーンアップの5番を任され、21本塁打70打点でチーム内の2冠王になっている。ところが阪神は、エース・小山や主砲・藤本の不振もあって低迷したことにより、金田監督がシーズン途中で休養し、藤本定義が監督代行を務めるなど混乱した。結局2リーグ分裂以来はじめて勝率5割を切り、最終成績も4位に終わっている。せっかくのソロムコの活躍もチーム成績には結びつかなかったようだ。1962(昭和37)年、阪神は正式に就任した藤本監督のもと、開幕の巨人戦に連勝して勢いに乗り、好スタートで首位に立った。5月中旬、打撃陣の不振で首位から落ちると、阪神・大洋・巨人が三つ巴で争うという混戦の展開に変わる。しかし、7月22日に再び首位に返り咲くと、巨人を蹴落とし、最後は大洋との激しいデッドヒートを戦い抜いて、ついに念願のセリーグ初制覇を成しとげた。そんな中で3年目のソロムコも、要所で持ち前の勝負強さを発揮し、シーズン中盤の大事な場面で優勝に貢献している。その中でも、7月28日から始まった後半戦最初の巨人3連戦で見せた働きは渋く、彼の持ち味である勝負強さが十分に発揮された。この時点で、首位阪神と3位巨人との差は6ゲーム。巨人はこの3連戦がペナントレース生き残りの正念場であり、絶対負けられないという意気込みで甲子園に乗り込んできた。まず第1戦は緊迫した投手戦になり、0対0のまま迎えた9回二死、ソロムコのバットからサヨナラ2ランホームランが飛び出す。これで勢いに乗ったソロムコは、続く第2戦では同点ホームランを放つと、その次の打席はしぶとく決勝点となる勝ち越しの犠牲フライ。 第3戦でも8回に劣勢の試合を引き分けに持ち込む貴重な同点タイムリーを放ち、2勝1引き分けで巨人を返り討ちにした。この結果ゲーム差は8に広がり、巨人は優勝争いから完全に脱落。ライバル巨人に引導を渡したソロムコの大活躍に、つめかけた甲子園の阪神ファンの熱狂はすごいものだったという。ただしシーズンを通してみると、ソロムコらしい勝負強さを見せた場面は少なく、どちらかというと一発狙いの強引な大振りが目立った。そのため三振は前年の93個から121個に急増、逆に本塁打は21本が14本に減っており、阪神在籍中では最低の成績に終わっている。10月13日甲子園で始まった東映フライヤーズとの日本シリーズは、幸先良く阪神が2連勝する。ところが16日の第3戦、勝てそうなゲームを延長13回の末に、日没引き分けとし、これが勝負の別れ目となってしまった。その後はズルズルと4連敗し、惜しくも日本一にはなれなかった。ソロムコはシリーズ7試合で25打数5安打2打点3四球9三振とやや精彩を欠いておりホームランも出ていない。第1戦から第4戦までは6番、第5戦は2番とスタメンに入っていたが、正念場となった第6戦と第7戦ではスタメンを外されている。マイク・ソロムコ②へつづく 次はこちらです よろしくね!(猛虎異人伝1 マイク・ソロムコ② | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ)
2025年02月24日
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背番号33(その4)みなさんこんにちは 背番号33の4回目です前回の3名も地味というか あっという間に退団した人もいたし 読んでてもホントにタイガースにいたの?って感じだったね今回はある程度の年代の方は聞いたことあるんじゃないかという選手2名が出てきます 2名ともそれなりに数字を残した選手なんだけど そのうち1名は最近になってショッキングな犯罪を犯してしまったのよ ってことでさっそく本編に入りますね池内 豊 投手香川県大川郡志度町(現:さぬき市)の出身。地元県立志度商業ではエースとしてチームを支えたが予選ベスト4が最高で甲子園組にはなれなかった。1970年のドラフト会議では将来性が認められ南海ホークスから4位指名を受けて入団している。ルーキーイヤーの1971(昭和46)年、10月9日の近鉄戦で初登板するがこの年はこの1試合だけ。1972(昭和47)年が3試合、1973(昭和48)も3試合と少しずつ経験を積んでいく。その後の2年間は伸び悩み まったく一軍で使ってもらえない状況になっていたところ、1976(昭和51)年1月、タイガースの江夏豊と南海の江本孟紀のトレードにからんで複数交換要員に入れられてタイガースへの移籍が決まり、道が拓ける。 タイガースでは大和田の引退で空いていた背番号「33」を引き継ぎ、在籍した9年間をとおして着けている。1年目となった1976年のシーズン、南海時代に試行錯誤していた池内はフォームをスリークォーターに変えてブレイクしていく。吉田監督に高く評価されて中継ぎとして好く起用され、21試合(先発1)に登板した。成績は1勝1敗、防御率4.83だったがプロ初勝利も挙げることができた。タイガースでの2年目からは8年連続で30試合以上に投げている。そのうち50試合以上投げたシーズンが4回あり、中でも1980(昭和55)年の56試合と1982(昭和57)年の73試合はリーグ最多登板数だった。後藤監督で最下位になった1978(昭和53)年は、先発投手の不足から14試合の先発もこなしている。多くの三振を取る投手ではない代わりにコントロールが好く、特にシュート系のボールに好いものを持っており 胸元へ食い込む球やシンカーなどを駆使してゴロを打たせるのが特徴。スタミナもあるので3~4イニングのロングリリーフにも対応できる使い勝手の好い投手だったようだ。1984(昭和59)年オフ、大洋ホエールズの長崎啓二との交換トレードで移籍していったため、1985(昭和60)年のリーグ優勝・日本一を味わえなかったのは残念だろう。(交換で来た長崎が代わりに戦力になった)1985(昭和60)年、大洋では23試合に登板したものの1年で戦力外となって自由契約。阪急ブレーブスの入団テストを受けて採用されたが、1986(昭和61)年のシーズンはわずか5試合しか登板機会がなく、シーズン終了後に引退した。プロ通算では452試合に登板、31勝31敗30セーブ、782回2/3を投げて227四球364奪三振、自責点341、防御率3.92。引退後は阪急に残り1999(平成11)年まで打撃投手やスコアラー、二軍投手コーチなどを務める。さらに2000(平成12)年から中日ドラゴンズに移って2005(平成17)年までコーチやフォーム解析など育成面で功績を上げている。大野 久 外野手茨城県取手市出身。取手二高の2年時に夏の選手権で外野手として甲子園を経験。3年の夏はエースピッチャーとして甲子園の土を踏んだが1回戦で敗退している。東洋大学へ進学するとバッティングセンスと俊足を生かすため野手一本に専念し、東都大学リーグでは通算95試合に出場して337打数96安打37打点8本塁打で打率.285という好成績を残した。大学卒業後は社会人の日産自動車に入社し、1984(昭和59)年の都市対抗本戦では優勝している。大野は決勝戦でホームランを打つなど活躍し、アマ世界野球の日本代表入りも果たした。同年のドラフト会議でタイガースから5位指名されて入団。池内の移籍で空いた背番号「33」を継承している。ルーキーイヤーは1985(昭和60)年。リーグ優勝から日本一に上り詰めたシーズンで、大野も一軍の舞台を経験している。6月に初出場し、初安打や初本塁打なども記録したが、年間で14試合・15打席に過ぎず、基本的に役割は代走と守備固めで、盗塁は2個記録している。2年目の1986(昭和61)年も一軍公式戦の出場は24試合で、打席数は1年目より少ない13打席しか立てなかった。3年目、1987(昭和62)年はチームが最下位、吉田監督が辞任に追い込まれる中で、大野は82試合に使われている。役割自体は変わらなかったが信頼感が増してきた結果だろう。1988(昭和63)年、村山実が2度目の監督に就任する。バースの退団、掛布の衰えなどから長打力に頼ることができず、大野をセンター、和田豊をセカンド、中野佐資にはレフトとポジションを与えてレギュラーに育てようと「少年隊」と名付けて起用してくれるようになる。大野は主にスタメン1番に起用されて全130試合に出場し、512打数130安打42打点7本塁打、盗塁24も決め、打率.254ながらポジションを取ることができた。1989(平成元)年には125試合で打率.303を記録、自身のプロ生活で唯一の3割越えだった。1990(平成2)年は中村勝広が新監督に就任、大野は117試合に出たものの全体に数字を落としており、チームの改革を目指す中村監督の次期戦力構想から外れて、シーズンオフにトレードでダイエー・ホークスへの移籍が決まる。 タイガース側が大野の他、池田親興、渡真利克則、岩切英司の計4名。ダイエー側からは藤本修二、吉田博之、西川佳明、近田豊年、右田雅彦の5名というトレードだった。 主力級になっている池田や大野を出してしまったことと、来た選手があまり戦力にならなかったことから、返って暗黒時代をより深刻にしてしまうトレードだったとも言われている。大野はホークス移籍1年目の1991(平成3)年、全130試合に出場し456打数132安打25打点1本塁打で打率.289の活躍を見せ、42盗塁を決めて盗塁王のタイトルまで取った。一方の中村阪神は2年連続最下位、タイガースファンの怒りは相当なものだった。1992(平成4)年からガクンと成績を落とした大野は、1994(平成6)年のオフに戦力構想から外れて自由契約となり、中日ドラゴンズの入団テストを受けて採用される。しかし、1995(平成7)年、中日でもわずか28試合しか出場機会はなく、1年限りで引退に追い込まれた。通算成績は833試合2257打数584安打160打点23本塁打、204四球424三振、打率,259だった。引退後は中日でコーチなどを務めた後、オーストラリアへ渡って指導者の資格を取り、U15やU18などの代表チームのコーチや高校での野球指導などをしていた。また2018(平成30)年にはアメリカで独立リーグのチームのコーチに就任するなど順調に第2の人生を送っているように見えた。ところが2019(令和元)年に驚くようなニュースが報道された。以下に紹介するが、ちょっと信じられない内容だった。元阪神の大野久が妻と共謀し、金3キロを密輸「仕事あったら紹介して」と知人に頼む 2019/03/14/ 10:44 AERAデジタル プロ野球阪神などでプレーし、ダイエー(現ソフトバンク)時代には盗塁王にも輝いた大野久・元選手(58)が金地金3キロ(1350万円相当)を香港から密輸しようとしたとして、関税法違反や消費税法違反などの罪で略式起訴されたことがわかった。 大野元選手に対し、2月19日付で大阪地裁堺簡裁が罰金50万円の略式命令を出している。 詳細はこちらで確認いただきたい。 元阪神の大野久が妻と共謀し、金3キロを密輸 「仕事あったら紹介して」と知人に頼む | AERA DIGITAL(アエラデジタル)まとめ池内さんについては先代がよく覚えてて教えてくれたわ ちょっと変則な横手投げに近いモーションで右打者には強かったらしいのね 当時は福間さんもそうだけど中継ぎはロングリリーフ出来て当たり前の時代で 池内さんも1978年と79年は先発もかなりやらされてるから2年続けて規定投球回を超えてる スタミナがないと中継ぎをやれなかった時代だね大野さんはトレード先で大ブレーク 野田浩二さんも同じ感じで 中村監督時代は放出した選手が他所で活躍し 代わりに来た選手があまり働かないから批判も多かったようね オマリー選手の移籍も痛すぎたし(同一リーグで活躍されたからなあ)最後の大野さんの事件についてはウィキペディアには記述がないわ あえて誰も記述しないのかな? でもWEB上では発見できるよ 上に参考ページのアドレス張っておいたから確認してみてね背番号33-5につづく ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年09月01日
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2代目タイガース非公式サイトですタイガースで4年 スワローズで2年 タイガースでは背番号1を着け とても印象深い選手だったオマリーさんなんだけど 最初に先代が背番号史の公開を始めた頃はひどくあっさりした記述になっているのね 先代は参考資料などはたくさん収集してるんだけど 各背番号についてブログ3~5回くらいに収まる感じで進めてたみたいなのね そのために個々の選手の紹介の文章はごく短いわ 要はいろんな逸話などを削ぎ落してしまってるオマリーさんほどの実績ある選手を簡略化してしまったのは惜しいので 先代が集めた資料や下書きメモから詳細な記事に構成しなおして3回に分けて掲載するよ ぜひじっくり読んでみて! 列伝35 トーマス・オマリー①Thomas.Patrick.O'Malley (1990~1994)生年月日:1960年12日25日背番号1 右投左打・内野手出身地:アメリカ合衆国ニュージャージー州オレンジ球 団:阪神(91~94)、ヤクルト(95~96)表彰等:首位打者1回(95)、最高出塁率4回(92~95)、最多勝利打点2回(95・96) ベストナイン1回(95)、ゴールデングラブ賞1回(92)、セリーグMVP1回(95) 日本シリーズMVP1回(95)、オールスター出場3回(93,94,96)、同MVP1回(93)阪神在籍:4年 490試合1721打数548安打304打点74本塁打6盗塁 315四球298三振 打率.318(1)パリッシュ引退の穴を埋める補強ランディ・バースを解雇した翌年の1989(平成元)年にセシル・フィルダー、1990(平成2)年にはラリー・パリッシュといずれも長距離砲を補強した阪神だったが1年づつの綱渡りになっている そのあとを受けて1991(平成3)年に入団したのがトーマス・オマリーだった。ところが後年になって、非公開だった事実をオマリー自身が語っている。「1990年、メジャーでプレーする私に阪神から誘いがあったんだ。これは後から知ったんだけど、その2年も前から阪神は私にオファーしてくれていたんだ。その頃の私はメッツであまりパッとせず、このままメッツに残るか、もっと試合に出られるチームに移籍するか悩んでいたんだ。それでシーズン終了後に思い切って阪神に電話したんだよ。あれは人生で最高の決断だった。」ということはフィルダーを選んだ当時、オマリーにも打診していたということになる。突然決めたわけではなく、すでに2年前からオマリーの才能を評価していた阪神スカウトの眼は確かだったわけだ。(2)成績が伸びず移籍を繰り返したメジャー時代オマリーは1979(昭和54)年にサンフランシスコ・ジャイアンツからドラフト16巡目で指名され高校卒でプロ入りしている。サンフランシスコ・ジャイアンツ時代ね まだ少年だ!1982(昭和62)年にメジャーデビューすると、翌1983(昭和58)年には135試合に出場しており、410打数106安打45打点5本塁打、打率2割5分9厘の成績を残し、このままレギュラーへ近づいていくかに見えた。ところが期待されて迎えた1984(昭和59)年は伸び悩んだうえに成績も不振、シーズン途中にシカゴ・ホワイトソックスへ放出されてしまう。ここから放浪が始まり、1985(昭和60)年にはボルチモア・オリオールズ、1987(昭和62)年にテキサス・レンジャース、1988(昭和63)年にモントリオール・エクスポス、1989(平成元)年にはニューヨーク・メッツという具合に1~2年ごとに移籍を繰り返した。 成績も低迷したままで、1983年以外は100試合以上出場したシーズンはなく、選手として長期間くすぶっている。大きな変化を求めて阪神のオファーに応じる決断になったというのが真相のようだ。メジャーで実働9年の実績があり、阪神に来た1991年は31歳だった。(3)阪神1年目に全130試合出場、3割・20発を達成1990年10月25日に契約と同時に入団が正式発表される。背番号は「1」に決まり、1年目の年俸は50万ドル(日本円でおよそ6500万円)だったという。1991(平成3)年の春季キャンプ当初からバッティングでは尋常でない選球眼とミート能力が高く評価された。ただし長打力については物足りなさを指摘する声が多かった。ポジションはサード。守備範囲は広くないが、スナップスローが素晴らしく、捕球してしまえば糸を引くような送球でアウトにする場面が見られた。隣は同じ1991年に入団したマーヴェル・ウィン選手シーズンに入ると変化球の多い日本人の投手に対し広角に打ち返す器用さを見せているが、バッティングに関してオマリー本人は相手投手が右投げのときは重いバット、左投げのときは軽いバットを使っていたと語っている。「右投手用のバットは910~920グラムで左投手用のバットは900グラム。左右の差は10から20グラムだったと思う。左投手は外に逃げて行く変化球を投げるので、バットが軽い方がボールをギリギリまで引き付けてライトへ引っ張ることができた。科学的根拠はないが、それでいい結果を残せていた」1年目に130試合476打数146安打81打点21本塁打で打率3割7厘を記録したオマリーだったが、ファンからはロバート・レッドフォードやビル・クリントン米大統領に似ているという方で人気者になっている。(4)対戦した谷繁元信が認めた好打者オマリー実際に対戦した谷繁氏が「配球が難しかった」と感じた5人の外国人打者の一人としてオマリーの名を挙げ、「5人には技術があって、ピッチャーだけでなくキャッチャーのことも考えて打席に入っている」という共通点があったと証言している。特にオマリーについては次のように語る。「バットコントロールがうまくて、ストライクゾーンの中ならどのコースでも芯に当ててくるようなイメージがすごく強かったですね。実際、そういうバッティングが多かった」「引っかけさせてセカンドゴロか、ショートゴロを打たせる。だから、基本は低めの曲がり球です。右ピッチャーならシュートやフォーク、左ピッチャーだったら外に逃げるスライダー。手を出させながら、凡打に打ち取りたい。でも、配球を読んでいてボール球にはなかなか手を出してくれないんですよ」 谷繫の言うことは実際に数字にも表れていた。まだ特徴をつかめていなかった1年目はフォアボールが57個だったが、2年目以降は94個、75個、87個となっている。ヤクルトに移ってからも96個、74個だ。 これはバッテリーが攻めあぐねて歩かせることが多かった証拠と言える。特にスコアリングポジションにランナーがいる場合は状況に応じたバッティングをしてくるため、警戒して最悪歩かせることが増えた結果である。トーマス・オマリー②へつづく次回は2年目から4年目のオマリーさんです ずっと3割打ってるんだよねブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月23日
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三成の逡巡~決戦地は関ケ原へ 慶長5(1600)年9月14日に徳川家康が岡山に入り、杭瀬川を挟んで前哨戦があったのち、大垣城の石田三成陣営では、島津義弘が「陣営整わぬ東軍に対し、今宵のうちに夜襲を仕掛けるべし」と進言します。 三成が防備堅固な大垣城に居ることが大きく、家康が時間のかかる城攻めを避けたいと思っているのは想像がつきます。大垣での激突は望んでいないだろうと考え、逆にここで決戦に持ち込んで長期戦に引きずり込んでしまおうというのが、義弘の進言だったのではないでしょうか。岡山本陣周辺の東軍配置図 しかしながら、家康側は岡山を引き払って西進する様子を見せます。おそらく大垣城下にもそのような情報を流したのかもしれません。三成としては、このまま秀頼の居る大阪へ攻め上られてはたまったものではないし、国境を超えた近江には三成の居城・佐和山城があり、これを落とされてもいけません。 家康が西に進軍するそぶりを見せたのは、長期戦となる城攻めを避け、得意の野戦に持ち込みたいという誘導だったのではないかと推量できます。 三成は義弘が進言した岡山攻撃を避け、関ケ原に先回りをして迎え撃つ戦略を選択しました。家康側の思う壺だったような気がしてなりません。一方、義弘は三成に対し不信感を抱き、急速に戦意をなくしていきますが、これは別に島津の関係で書きます。家康現地最初陣地「桃配山」 西軍は暗いうちに大垣城を出て関ケ原に移動し布陣します。 この動きを見て家康も軍を動かし、本陣を岡山から桃配山(ももくばりやま)へと移しました。 両軍が移動したとき、関ケ原盆地は深い霧に包まれていたと伝えられます。9月15日午前8時ごろに霧が晴れ、東軍井伊直政、松平忠吉の軍勢が、西軍の宇喜多秀家隊に襲い掛かって戦いの火ぶたが切られました。 ということで桃配山の家康本陣跡です。JR関ケ原駅から東へ2キロほどで、国道21号線沿いにあります。激戦地からは直線で3キロ近く離れています。 少し上に登っていくと、見晴らしのいい平らな場所に出ます。そこが家康の本陣です。 ここには「最初陣地」と刻された碑があります。前のブログで書いたように、非公式サイトは赤坂の岡山を最初陣地と考えていますが、桃配山は「関ケ原での決戦」という切り口で見た場合の最初陣地と言っても間違いではないでしょう。 家康が腰かけたとされる腰掛石やテーブル状の石があります。でも、落ち着いて腰かけていられたのかどうか? 確かに椅子とテーブルだと言われると、そのようにも見えます。 ここにも、関ケ原町が設置した立派な説明プレートがありますよ。 桃配山の本陣から決戦地の方角を眺めてみましたが、大きな木が邪魔をして視界を妨げていました。 当時は見えたのでしょうけど、やはり遠いですね。 実は、桃配山は安全とは言えない場所です。東後方2.5キロの南宮山(なんぐうさん)には、西軍の毛利秀元が1万3千の兵を率いて陣取っています。毛利軍は西軍の「鶴翼の陣」の右翼であり、家康の本陣は敵の陣形の中に突っ込んでおり、前方約3キロには小早川の松尾山、後方に毛利の南宮山という位置関係にあるわけです。 しかし、家康は毛利が動かないことに関して、確信に近いものがあったらしいのですね。 これについては毛利秀元関連で書きたいと思っています。
2017年08月15日
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突然ですが みなさん「どぐされ球団」という漫画をご存じですか? ある程度の年代の人は覚えていると思います。竜崎遼児さんが月間ジャンプに1978年から約5年間連載していた野球漫画です。単行本は全19巻、概要は次のような感じ。 主人公は鳴海真介といって、高校野球界では江川2世などと呼ばれた剛腕投手でスラッガーでもありました。甲子園準決勝でデッドボールで右手人差し指を失い、投手生命を断たれて故郷長崎で漁師でもやろうとしていたところ、明王アタックスに代打専門としてスカウトされ入団します。 明王アタックスとは架空の球団で、セリーグは7球団という設定です。この球団の強欲な水流オーナーは、過去に試合で殺人をしてしまったとか、少年院にいたとか、片眼を失明してしまった元バスケット選手など様々な過去を持ち、他球団からは声が掛からないが一芸に秀でた選手を安くスカウトし、一人前になったら高く売るという順位度外視の商法をしていました。主人公の鳴海もその一人です。 鳴海はハンディを克服しながら、持ち前の長打力で成長していきますが、チームメートの人生や、ライバルたちとの戦いの中で、いろいろなドラマにかかわっています。最終回はトレードか引退かをかけて打席に入り、快音を残して打球が飛んだところで終わっています。とても感動的でした。 この物語は巨人の星やドカベンなどとは趣が違い、球団経営、監督、コーチ、スカウト、トレード、 グランド整備員、審判、公式記録員、番記者などプロ野球に携わる様々な関係者の裏事情など、プレーだけではない逸話が盛り込まれ、非常によく取材して描かれているなと感じます。 野球機構の了解のもと、他球団の選手はすべて実名で登場しているので、現実味のある物語になっています。今読み返してもとても面白い漫画です。竜崎先生はちょっと長嶋を美化しているところがありますが、当時のプロ野球というものがいきいきと描かれていますね。 次のブログで、自分が良く覚えている、とても感動した回について書きます。きっと興味を持たれるんじゃないかなと思いますので読んでみてください。 にほんブログ村
2016年05月11日
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背番号17(その3)背番号17の第3回目です前回紹介した3名はわずかな期間しか背番号「17」を着けてなかったよねこれまでは一番最初に着けた門前さんの通算10年というのが最長ね 3回目では長い人も出てくるんだけど なかなか門前さんを超えないわ 今回の最初に出てくる富恵さんなんて今まで聞いたことなかったし富恵 一(とみえはじめ)外野手富恵は山口県出身で県立萩高校では外野手と投手を兼ねる二刀流だった。関西大学に進むと外野手に専念し、通算50試合157打数45安打で打率.287、2本塁打の成績を残している。1964(昭和39)年にタイガースへ入団するとファームで3割を超える打撃を評価され、一軍でも24試合に出ているが32打数6安打2打点、打率.188が1年目の成績。プロ入り初本塁打1本を記録しているが、実はこれがプロ在籍唯一のホームランだった。1965(昭和40)年はわずか9試合で1安打のみの0打点。1966(昭和41)年には7試合ノーヒット1打点に終わる。1967(昭和42)年にはついに出番がなくなって戦力外とされ引退している。通算40試合49打数7安打3打点1本塁打、打率.143というさびしい結果だった。プロ生活は4年間と短かったが背番号「17」で通した。1974(昭和49)年6月5日、32歳の若さで逝去。伊藤幸男 投手 伊藤は大阪府大阪市出身。大鉄高校時代に右の本格派エースとして選抜に出場するも1回戦敗退、卒業後は社会人積水化学に進む。1962(昭和37)年の都市対抗に補強選手として出場している。同年途中に近鉄バファローズに入団し、一軍のゲームに5試合登板したが勝敗は付いていない。基本的に防御率は平均4点台の投手で、近鉄での6年間で通算142試合に登板(うち26試合の先発がある)9勝16敗 340回2/3で自責点159 防御率4.20の成績だった。1968(昭和43)年にタイガースへ移籍し、背番号「17」を継承して引退まで5年間着ける。1969年には26試合(うち先発13)に登板、8勝4敗・防御率2.46と自己最高の成績を挙げる。翌1970(昭和45)年も25試合6勝2敗と働いたが、徐々に成績は落ちていく。1971(昭和46)年が25試合2勝3敗、1972(昭和47)年には6試合2勝1敗と衰え、1973(昭和43)年に一軍登板がないまま引退に追い込まれた。桑野 議(くわのはかる)外野手桑野については「脇役物語」で紹介しているが、改めて掲載する。福岡県北九州市出身。左投げ左打ちで九州工業時代は投手だった。 1967(昭和42)年のドラフト5位指名でタイガースに入団している。最初にもらった背番号は「40」。1974(昭和49)年に「17」に変えて8年間背負っている。投手としての入団だったが、1968(昭和43)年、1年目のキャンプ中に小鶴打撃コーチがバッティングの才能に着目して打者に転向させている。しかし簡単には芽が出ない。1年目は3試合出ているが4打数1安打0打点。2年目の1969(昭和44)年は1年間ファーム暮らし。3年目の1970(昭和45)年も20試合21打数4安打2打点と伸び悩んでしまう。 1971(昭和46)年にようやく70試合に出場、107打数24安打7打点1本塁打を記録したが、翌年はまた6試合出場にとどまる。その後も50試合未満の出場しかない状況が続き、だんだん先が見えて来たところ 1975(昭和50)年に就任した吉田義男監督がシャープな打撃を生かすため「代打専門」として起用すると、79試合で110打数27安打13打点3本塁打と貢献。翌1976(昭和51)年には76試合125打数33安打で21打点をたたき出すキャリアハイを記録している。打率は2割少々だが好い場面で打っているので印象が強く、代打専門になってからは非常に人気があった。1981(昭和56)年を最後に引退するが、約6年間、代打専門に近い起用をされた。タイガースの代打の系譜は桑野に始まったといえる。これは吉田監督の選手起用の特徴でもあり、第2次で川藤、第3次では八木を代打専門として再生し成功させている。脇役物語は「タイガース脇役物語9-2 代打の切り札 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)」を参照。まとめ 富恵さんはプロのレベルじゃなかったんだろうね 成績を見ても3年であきらめざるを得ないわ しかも早くお亡くなりになってるのよね・・・伊藤さんは近鉄でも大した数字を残してないし タイガースは期待して獲得したのかなあ?ちょっと良かったのは2年だけであとは下降線だった 探してみたけど富恵さんと伊藤さんは写真は残ってなかったなあ・・・桑野さんを語る時の先代は嬉しそうな顔するのよ 大好きな選手だったみたい もっとスタメンで使ってほしかったって言ってるけど 4打席立つより1打席の集中力のほうがあるって監督が見抜いてたのかもしれないね予告 次回は源五郎丸洋さんが登場するよ!17の4へ続く
2023年12月20日
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2025年10月28日日本シリーズ第3戦 阪神1-2ソフトバンク 阪神1勝2敗(甲子園)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんばんは なんとなく歯車が狂ったかなという印象を持ちながら3戦目を見ました 才木投手は普通の出来だったとおもう ただ警戒してフォアボールも出してたから球数は多くなっていったわね モイネロ投手はそんなに好くなかったとおもうんだよね 特にストレートはあまり走ってなかったし 才木投手と同じように球数も多かった でもなんだかんだで簡単に得点はくれないのよね テル君 3戦連続タイムリー才木投手が1回表を3者凡退で抑えてあとの裏の攻撃 一死から中野選手がライト前ヒットで出塁します 森下選手三振のあと4番佐藤選手の打席2球続けてストレートでカウント0-2と追い込まれるんだけど 3球目が高めのカーブ モイネロ投手は投げミスかな?もっと低く投げたかったんだとおもうよ この球を見逃さず打ちに行くとライトの頭を超えるタイムリー2ベースとなって中野選手がホームまで帰ってきました 1点先行! 第2戦で目覚めた「どすこい」の一発4回表一死ランナー無し 4番の山川選手を迎えてちょっとイヤな感じがしたのよねえ 第2戦のホームランも2ベースも完ぺきにとらえていたからなあ才木投手は外角カーブから入って行き低めに外れてボール そして2球目が真ん中少し外寄りのバットが出やすいところへ135キロのスライダー!待ってましたとフルスイングされてバックスクリーン左まで持っていかれちゃったわ 今日の才木投手はストレートの率が多かったのに ここで変化球続けていった意図はどうだったのかな?まあコースや高さを見ると投げミスかもしれない でも早い段階で同点にされてしまって痛かったよこれ才木投手こらえきれず6回に失点1-1のまま迎えた6回表 先頭の柳田選手にライト前ヒットが出て周東選手の送りバントで一死2塁とされますここで迎えた柳町選手カウント2-1からの4球目は高めいっぱいのストレートだけど147キロ 少し球威が落ちてきていたのかな いつもなら空振りかフライアウトなんだけど真っ芯でとらえれた打球はレフト線へライナー性の当たり これがタイムリー3ベースとなって1-2と勝ち越されちゃいました この後山川選手を歩かせてしまったところで及川投手に交代 栗原選手をセカンドゴロゲッツーにとって追加点は防いでくれたねタイガース打線の脆さを露呈タイガースは上位に比べて下位打線がからっきし打てないのよ 代打も大した人いないし そこへもってきて大山さんも不調だから得点できるパターンが限られるのね グッチさん入れてないのも監督のミスだわ 短期決戦ではベテランの力も必要なのよ4回裏は一死1・2塁で6番途中出場の熊谷選手に回って三振 次の坂本さんが浅いセンターフライでチェンジ6回裏は無死1・2塁のチャンスで不調の大山さんがセンターフライ 仕方なく送った代打ヘルナンデス選手がピッチャーフライ 坂本さんがショートフライでチェンジ これでは厳しいわよ シーズン中も役に立たなかったヘルナンデス選手をこんな大事な場面で使わなきゃならない 打てる感じ無し まったく右の代打がいないのね 井上くん使ったほうがマシよ8回裏は二死から大山さんがデッドボール 島田選手にヒットが出て1・2塁になるけど 坂本選手がショートゴロでチェンジリリーフ陣は勝ちパターンを投入 6回のピンチを切り抜けた及川投手は7回も3者凡退に抑えます 8回表は岩崎さんがヒットと2つのフォアボールで満塁のピンチを招くんだけど切り抜けました そして9回表は石井さん きっちりと3者凡退に抑え 1-2のまま9回裏の攻撃ですさあ9回裏よ!小幡選手倒れて一死になってピッチャーのところで木浪さんが代打で登場 ソフトバンクの杉山投手がコントール定まらずフォアボールで出ます そして1番に帰って近本さんが三遊間へ見事な流し打ちで一死1・2塁 同点のランナーが2塁に進みました 中野選手がセンターフライで2アウト 迎えるのは3番森下選手 大きな期待がかかったけどショートゴロで試合終了! 対戦成績は1勝2敗 しかも悪い負け方疑問の才木投手先発に始まって 結果的に負け試合に勝ちパターンのリリーフをつぎ込んで なにしたのかわかんないようなゲームにしてしまったね 終わってみれば2代目は怒りに震えてますよ 大山さんは不調のままだし 下位打線と代打陣は弱わっちいと相手に見抜かれてしまっただろうね これで精神的にもソフトバンクが優位に立ったとおもう 非常に厳しい展開になったんだけど 切り替えなきゃいけないわ ソフトバンクはどこからでもチャンスを作れる打線で下位打線も力があるわ その点は真似できないから タイガースはやっぱ森下選手や佐藤選手がホームラン打たなきゃ打開は難しい それに大山さんが寝たままだと3番4番が勝負を避けられてしまうよクリンナップの爆発を期待してるよ!ちょっと・・・じゃなく凄く不機嫌ですブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月28日
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列伝33 ラリー・パリッシュ②(6)フィルダーに逃げられた阪神が緊急補強1989年に38本塁打をマークしたセシル・フィルダーの引き留めに失敗した阪神は焦っていた。このままでは前年5位というチームを任される新任監督の中村勝広がか細い戦力で戦わなければならない。そこへ入ってきたのが「野村ヤクルトがパリッシュを解雇」というニュースだった。まさかの本塁打王解雇は阪神にとって朗報ですぐにオファーを出した。 のちにわかったことだがパリッシュ側はひざの故障を考慮して、パリーグの球団からの打診を待っていたようだ。指名打者制があれば1年もたせる自信があったのだろう。パリーグ球団から話が来たかどうかは明らかではないが、そうなっていたらまた40本を超えるホームランを打っていたかもしれない。結局パリッシュは年が明けた1月13日、阪神と年俸100万ドル(約1億4500万円)で1年契約を結ぶ。背番号はなぜか「44」を選ばず「45」を着けることになった。乱闘事件も水に流してチームメイトに(7)阪神ファンは大歓迎 パリッシュも期待に応える 1990(平成2)年、36歳を迎えたパリッシュは、いきなり関西マスコミから「バースの再来」と熱烈な歓迎を受けた。フィルダーがいなくなってガックリしたところへ、前年のホームランキングが来たわけだから当然の反応だった。ペナントレースが始まると「4番・ファースト」で存在感を見せ、落合博満(中日)と本塁打と打点のタイトル争いを繰り広げた。 6月に調子を落とし、一時的に打順降格もあったが、7月は9本塁打で再び落合を突き放し、7月23日時点で25本塁打、69打点で二部門のトップに立っている。1990年のセリーグは巨人が独走したため、夏場には野球ファンの興味はパリッシュと落合による個人タイトル争いに移った。(8)ついに膝の爆弾が破裂しかし8月中旬、ついにパリッシュの左膝が限界を迎えてしまう。膝に補強器具をつけているためじん帯の痛みがひどく、担当医から「手術が必要だが、リハビリしてもプレーできるかどうかは5分5分」という診断が下った。パリッシュは「あと25試合、ごまかして我慢すれば打撃タイトルの出来高ボーナスも手に入るかもしれない。だが、どうしても打席で体重の移動がスムーズにいかない。残念ながらもう限界だ…」と観念する。そして8月22日の大洋20回戦の試合後、中村監督に次の様に伝えたという。 「左ヒザが痛い。休ませてほしい。タイトルにはこだわっていないから、チームの将来のために若手を使ってもらっていい」8月25日から甲子園に戻ってヤクルトとの3連戦まで出場。「3番・2塁」で先発した3戦目の27日の試合前、「申し訳ないが、もうプレーできない」とチームメートにも涙を浮かべながら別れの挨拶をしている。 しかし、阪神球団側は「明日(28日)、本人と話し合う」とコメントしただけで、実質的な引退試合にもかかわらず、本拠地に集まったファンに対し、セレモニーもなく静かにパリッシュは最後の試合を終えた。8月29日にようやく球団事務所で会見を開き、パリッシュは正式に現役引退を発表している。引退の理由については次の様に語っている。「8歳からずっと野球をやってきた自分にとって野球は人生そのもの。しかし、内角の速いボールを打てなくなったときに、もう現役としてやっていけないと思った」8月29日時点で、28本塁打はセ・リーグのトップ。ホームラン王のまま、元大物メジャーリーガーらしくユニフォームを脱いだ。その気さくな性格は日本でも愛され、8月31日の帰国時には、見送りにいった記者たちから馬のぬいぐるみがプレゼントされたという。荒々しく見えるパリッシュだが、故障でポテンシャルが低下した状態でプレーし続けることを良しとせず、若手を使ってくれと譲る潔さなどは、さすがメジャーの大物は紳士だと感じさせてくれた。(9)補足・ワニについて「ワニ? まさか、ワニを食べると言ったことが日本であんなにセンセーショナルに伝えられるなんて、想像もしていなかったよ。だって、私はフロリダでは毎日、ワニに会っていたからね。フロリダにはたくさんの川、池、沼があるんだ。水辺があれば、そこには必ずワニがいる。ゴルフ場にもいるよ。彼らはグリーンによく寝そべっている。きれいに刈られた芝は、ワニにとって寝心地がいいんだろうね(笑)」ラリー・パリッシュ[完]パリッシュの年度別打撃成績パリッシュさんのメジャーでの実績ってすごいじゃん ホームランは通算250本超えてるんだよ 日本に来たメジャーリーガーの中でも上位クラスよね ①で紹介したように1年目にヤクルトで全試合出場してホームラン王になってるから 「ヤクルトの助っ人」というイメージが強いかなあ タイガースでは中途半端になっちゃったからあまり印象が強くないわ惜しかったのは膝の故障だよねえ でもこれがなければそもそも日本に来てないかな? メジャーで選手生活を全うしてたとおもう 痛い膝で1年目に42本でホームラン王 タイガースでも8月中旬での28号はリーグトップだったわけだから メジャーの実績がウソをつかなかった選手 現役バリバリの時代を見てみたかったなあ ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月21日
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列伝35 トーマス・オマリー②(5)2年目は優勝争い 新庄のフィーバーのきっかけもオマリー入団2年目の1992(平成4)年は「亀新フィーバー」が巻き起こり、阪神の長い暗黒時代で唯一の優勝争いをしたシーズンだった。亀山努はすでに開幕から起用され、その俊足を生かした盗塁とトレードマークとなるヘッドスライディングで人気者になり、4月25日の中日4回戦ではチャンスの場面で岡田の代打として打席に立つなど、世代交代の象徴になりつつあった。 一方の新庄剛志のフィーバーのきっかけはオマリーが作った。オマリーは5月に入って右手を骨折したことで戦線を離脱。5月26日の大洋6回戦で新庄がオマリーに代わって7番サードでプロ初のスタメン出場すると、2回裏の第1打席で初球をレフトスタンドに運び鮮烈なデビューを飾った。6月にオマリーが復帰しても、新庄はセンターに守備位置を変えてそのままレギュラーをつかんでいる。(6)ファンも優勝を確信したが最後の最後で失速し2位オマリーは大洋で4年連続3割を記録しながら解雇されて阪神に入団したジム・パチョレックや成長著しい八木裕などと中軸を担い、最後まで優勝争いを面白くしてくれた。最終的に打率3割2分5厘の数字を残し、最高出塁率のタイトルに輝いている。OPSは.993とハイレベルだった。残念なのはホームランが1年目の21本から15本に減ったことだが、出場試合数が130に対し111だったことやラッキーゾーンが撤去されたことを考慮すれば、かなり好い数字だろう。セリーグは阪神、巨人、ヤクルトが争う展開で9月を迎え、阪神は9月9日から19日までの8試合で、引き分け1(八木の幻のホームランが出たヤクルト18回戦)をはさんで7連勝を記録し2位巨人に3ゲーム差をつけて首位に立っている。ところがこの19日の大洋戦の試合後のインタビューが問題だった。翌日から13試合の長いロードに出るにあたって、中村勝広監督は5万5千人の大観衆を前にして「大きな土産を持って帰ります」とやってしまう。球場はファンの大歓声に包まれたが、これはまだ言ってはいけないセリフだった。 案の定、ロードに出たとたんに4連敗。結局13試合のロードは3勝10敗に終わり、10月7日にヤクルトに逆転負けを喫して首位を明け渡すことになる。そして迎えた10月10日、甲子園でのヤクルトとの最終戦は荒木大輔を打ちあぐみ、2-5で敗れて目の前での胴上げを許すことになってしまった。 最後の詰めが甘かった阪神は2位タイでシーズンを終了している。9月11日のヤクルト18回戦で八木の放った「幻のホームラン」に原因を求める声が多いが、その試合の10回から18回までの9イニングを一人でリリーフしたヤクルトの岡林洋一を攻略できなかった阪神がふがいなかったというべきだろう。(7)すっかり溶け込んだ3年目「ハンシンファンはイチバンやーっ」在籍3年目の1993(平成5)年はすっかり阪神に溶け込み人気者になっている。7月11日のオールスター第2戦(グリーンスタジアム神戸)では4打数4安打、4回には佐藤義則から2ランホームランを放つ大活躍でMVPになり、ヒーローインタビューで「ハンシンファンはイチバンやーっ」が飛びだし、その後は恒例となる。 松永浩美の加入でファーストにコンバートされたこともあって1年を通じて体調面の問題もなく125試合に出場し打率3割2分9厘で首位打者になっている。ホームランも阪神在籍で最多の23本、OPSは前年を上回る.994の数字を残した。 その中で首位打者争いは最後までわからなかった。10月20日終了時点で、大洋のロバート・ローズがダブルヘッダーの2試合を残して480打数157安打で打率は3割2分7厘1毛、オマリーは1試合残して432打数141安打で打率3割2分6厘4毛だった。決着は10月21日。オマリーは1打席目にヒット、2打席目もセーフティバントを決め、打率を3割2分9厘4毛に上げてベンチに下がる。一方のローズはダブルヘッダー第1試合で4打数1安打、打率は3割2分6厘4毛に下がってしまう。そのまま第2試合に出場したローズが1、2打席で凡退し望みがなくなった時点でオマリーの首位打者が決定した。(8)「ヤンチャ坊主がそのまま大人になったような男」は戦力外にオマリーは3年間よく働いてきたが、4年目の1994(平成6)年になると緩みがでてくる。現場ではまだまだ頼りにしたいオマリーだが、フロント側からの視点で見ると問題点も見えてきたようだ。 ポジションはサードに入ることが多かったが、ひざの故障を理由にバントシフトのダッシュを拒否したり、「気が散るから自分の打席の時にはランナーを走らせるな」というようなプレー上の注文が増えたほか、「新外国人選手にどうか」と言って自分の知り合いの選手を売り込んだりと、我儘な言動が目立つようになる。実際に選手からも「今までいろんな外国人選手と付き合ってきたけど、あれだけ愛想の悪い男は初めてや」という声まで聞こえたという。外からは分からない一面があったようだ。オールスターゲームでは、監督を務めた巨人の長嶋茂雄に対し「ライネンキョジン(来年、巨人)」と移籍をアピールしたことも久万オーナーの耳に入り、「ヤンチャ坊主がそのまま大人になったような……」と不興を買っている。 公式戦では124試合で打率3割1分9厘、15本塁打でそれなりの数字だったが、ホームランが減ったことと、それ以上にそれまでの3年間が29本、30本、32本だった二塁打が18本に減ったことの方が深刻だった。明らかに膝の状態が悪化しており、出塁してもまともに走れないでないでは後続の打者の成績にまで影響する。表向きは本塁打が少ないこと、守備が緩慢であることを理由にしているが、シーズン終了後の契約更改交渉でオマリー側が高額な年俸と複数年契約を要求してきたために阪神側があきれ果て、戦力外となったらしい。34歳になり前年より成績が落ちたにもかかわらず、すでに約2億円になっていた年俸以上を要求されてはやむを得ない。オマリーは1995(平成7)年からヤクルトでプレーすることになるが、そのまえにちょっとしたゴタゴタガあったようだ。それについては③で記述する。トーマス・オマリー③へつづく ①~②はタイガース時代のオマリーさんを見てきました 次回3回目がオマリーさんの最後になるけどヤクルト時代を紹介します タイガースファンにとっては苦い思い出かもしれないけど我慢して読んでみてねブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月24日
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