タイガース非公式サイト2代目

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2024年01月08日
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背番号18の第1回目です

球団創立時からある背番号よね プロ野球の世界ではいわゆる「エースナンバー」と呼ばれることが多い「18番」

タイガースでは1936(昭和11)年の創立時に当時のエース若林忠志さんが着けました 実は若林さんが大活躍したことで「18」がプロ野球界で「エースナンバー」と呼ばれるようになったんだよ!

その後も投手が着ける番号だったのは間違いないんだけど タイガースでは意外に大エースと呼べるほどの選手は出ていないのよ 藤川球児さんが着けてたのは覚えてる?でも1年だけなのよね とにかく順番に見ていくと若林さんのあとは「あまり知られてない人が続くなあ」って感じがするよ

若林忠志 投手

アメリカ合衆国ハワイ出身の日系二世。ハイスクール時代に親善試合で来日し剛速球が評判となって1932(昭和7)年に法政大学へ進む。
 日本の環境に慣れてきた大学2年時の秋のリーグ戦では優勝に貢献したが、3年時には肘や肩を痛めたことでサイドスローに変え、のちに「七色の変化球」と呼ばれる技巧派への転機となった。

1シーズン制となった1934(昭和9)年には全15試合に登板して11勝3敗1引分と鉄人のような活躍を見せ優勝、大学通算で87試合43勝28敗という成績を残した。大学卒業後は一旦日本コロムビアに入社する。

1936(昭和11)年、職業野球の創設に伴って読売、阪急、タイガースなどから勧誘され、「契約金」を要求する若林の意向を汲んだタイガースへの入団が決まり背番号「18」を着ける。契約金は「3000円」だったという。
​  まず若林の現役生活において、戦前の1936年から1944(昭和19)年までの9年間の数字を見てみる。

355試合に登板し、177勝86敗、2357 で自責点432、防御率は1 . 65だ。その内214試合に先発し176完投しており、完投率が8割を超えることがすばらしいし、300㌄以上投げたシーズンが5シーズンもあり、1943(昭和18)年には415回2 / 3で年間10完封を記録している。

さらに驚くのは1943(昭和18)年は39試合に先発して39完投、1944(昭和19)年も24試合に先発して24完投。つまり先発した試合では全て最後まで投げ切っているという驚異的な数字だ。
 戦前最後の1944年シーズンは35試合しか行われなかったが、そのうち31試合に登板して阪神を優勝に導き、最多勝・勝率1位・防御率1位とMVPを獲得している。この年、すでに36歳になっていたにもかかわらずチーム勝利27勝のうち8割以上の22勝を稼ぎ、2位巨人のチーム勝利数(19勝)より多かった。

こんな投手は他にはいない。背番号「18」がエースナンバーと呼ばれるのにふさわしいことを数字が証明している。まさに大エースだった。後にエースとなる小山正明も先発完投にこだわる投手だったが、この若林の影響を受けているのは間違いないだろう。

「七色の変化球」と異名をとっていたが、実際には4種の変化球に緩急と微妙な変化を加えて、 七色 どころか、無数の変化球があるように打者を幻惑していく「投球術」に長けた投手で、駆け引きが抜群に上手かったと言われる。

1942(昭和17)年からは現役監督となって背番号は「30」を着けている。戦争による中断の間は妻の実家の水産会社に勤めており、終戦後は年齢も年齢だけにプロ復帰は考えていなかった。しかしプロ野球再開後の運営に苦しむ藤村富美男の説得に応えて1946(昭和21)年にタイガースに戻り再び背番号「18」を着ける。

翌1947(昭和22)年から現役監督となって1949(昭和24)年までの3年間、背番号「30」を着けている。この3年間も26勝12敗、17勝20敗、15勝14敗の成績を残しており、1949年は41歳のシーズンだった。

1950(昭和25)年、2リーグ分裂に伴ってパリーグの毎日オリオンズへ移籍する。もともとアメリカ出身だけに、2リーグ制への移行推進の支持者であったためでもあるが、当初パリーグの中心となるはずだったタイガースが豹変してセリーグに残ったことでフロントと対立し、最も高く評価してくれた毎日への移籍となったという。

毎日へ移った1950年には42歳になっており、シーズンは4勝に終わったがリーグ優勝。第1回の日本シリーズでは第1戦の先発投手として日本シリーズ史上最初の勝利投手になった。第6戦では奇策ともいうべきノーアウト満塁での敬遠というこれもプロ野球初の珍プレーを記録している。

毎日では3年間プレーしたが1年目に4勝したのみ、44歳で現役を退く。現役最後の年になった1952(昭和27)年に2試合登板して1三振を取り通算1000奪三振を達成している。

通算成績は528試合237勝144敗1000奪三振、3557回1 / 3で自責点786、防御率1 . 99。特に327試合に先発して263試合に完投しているのは凄い。最多勝2回、最優秀防御率2回、勝率1位1回のタイトルも取っている。

またタイガースで6シーズン、毎日で1シーズンの一軍監督経験があり、タイガースの監督として2回の優勝も記録している。
 2リーグ分裂の際にダイナマイト打線の主力だった別当薫・土井垣武・呉昌征が若林と行動を共にしたことから、タイガースにおいては長く「裏切者」扱いを受けることになったが、タイガースにおける通算233勝は今なお球団最多勝利記録である。

1964(昭和39)年に野球殿堂入りしているが、その翌年の1965(昭和40)年3月5日に57歳の若さで亡くなった。

 若林は社会貢献活動の先駆者でもあった。自費で子供対象のファンクラブを立ち上げ、少年野球の発展やファンの開拓に尽力。孤児らの施設への慰問など慈善活動にも精力的に取り組んでいる。

タイガースは2011(平成23)年3月5日、チーム内で多大な社会貢献をしたものを表彰する「若林忠志賞」を創設し、長年のわだかまりを払拭するとともに若林の名を顕彰している。

まとめ

今回はタイガースにおける背番号「18」の元祖で この番号が「エースナンバー」と呼ばれるきっかけとなった若林さんだけにしました

それだけ輝かしい実績を残し貢献しているのよ ミスターと呼ばれる村山実さんの222勝を超える233勝をタイガース時代に記録してる大エース

素晴らしい投手だったのに2リーグ分裂時のごたごたでタイガース内部では評価が下がってしまったのね 本来なら「ミスター」と呼んでもいい選手だよ

これからも背番号18を背負う選手は あらためて若林さんのことを知り その遺志を受け継いでいく名選手になってほしいとおもう

現役タイガース選手では2023年まで馬場皐輔投手が着けていたんだけど 現役ドラフトで巨人に行っちゃったので これを書いてる2024年1月現在は「空き番」になってる 次に誰が着けるんだろうね?

簡単にはもらえない番号だし もらったら責任が重い 2代目は村上投手が適任だと思うんだけど みなさんはどう思う?

背番号18―2に続く









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Last updated  2024年01月11日 09時37分37秒
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