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チョーサン8278さんFreepage List
みなさんこんにちは 背番号31を始めるよ
四代目ミスターとも呼ばれた掛布さんが着けていたことで 今ではタイガースの中でも取り扱いの難しい番号になってしまってるけど 実際どんな選手たちが着けてきたのかなと気になる人も多いとおもう
掛布さんの前はカークランド選手だってことはご存じの人もおおいとおもうのよ
ちょうど今並行して「猛虎異人伝」で紹介してるから読んでくれてる人はわかってるはずね
今回は戦前に「31」を着けた2名の選手を紹介するね
球団創立の1936(昭和11)年の時点では監督の番号が「30」だったのでそれより大きい番号はなく 「31」が初めて使用されたのは1939(昭和14)年です 第1号となったのは堀尾文人という選手よ 変わった経歴の人なんだ!
堀尾 文人 外野手
日系二世で本名ジェームズ・フミオ・ホリオ。アメリカ合衆国ハワイ準州マウイ島の出身でスイッチヒッターの外野手。
アメリカ本土でメジャーリーグの野球選手になりたいという夢を抱き、1928(昭和3)年21歳の時にロサンゼルスへ。日系人で構成するチームでプレーを続けながらメジャーからのオファーを待ったが声はかからず、サウスダコタのマイナーリーグチームだったカナリーズに移ってチャンスを待っていた。
1934(昭和9)年にアメリカ選抜チームが日本へ遠征することを伝え聞くと、全日本選抜チーム入りを思い立ち妻とともに日本へ。「日本代表チームでプレーすれば自分の実力をメジャー関係者にアピールすることができるかもしれない」と考えたからだという。
全日本チームの監督・三宅大輔に売り込みをかけテストに合格して全日本入りを実現すると、同時に新たに創立予定の「大日本東京野球倶楽部」(のちの東京巨人軍)への採用が決まる。同年11月にはベーブ・ルースやルー・ゲーリックを擁する全米代表と対戦し本塁打1も記録した。
1935(昭和10)年、逆にアメリカ遠征に参加し好成績を挙げる。遠征終了後に2Aのサクラメント・セネターズからオファーが来たため契約しアメリカに残ったのはまだメジャーへの未練があったからだろう。
1936(昭和11)年シアトル・インディアンズに移籍し、アメリカ遠征に来た東京巨人軍と対戦した直後にカナダのマイナーチーム行きを言い渡されたため、さすがにメジャーへの夢はあきらめる。
同年5月、全日本監督を辞めて創立間もない阪急軍の監督に就任した三宅大輔の誘いに応え、阪急軍への入団を決意する。堀尾は29歳になっていた。
阪急軍には1936年から1938(昭和13)年までの3年間在籍している。アメリカでも評価の高かった外野の守備は当時の日本球界ではナンバーワン。怪力で後楽園球場の場外へ特大のホームランも打っているが足も速く、3イニング連続かつ3打席連続3塁打というNPB唯一の記録も持っている。
阪急時代の3年間で169試合624打数145安打9本塁打84打点31盗塁54四球63三振、打率 .
232という成績を残している。
1938年を最後に三宅監督が阪急を退団したため堀尾も退団したところ、大阪タイガースに在籍していた同じ日系二世の若林忠志から声をかけられ入団を決める。
こうした経緯で堀尾は1939(昭和14)年から3年間、タイガースでプレーしている。背番号は「31」。この番号を着けた第1号の選手となった。
タイガースでは1938年末に俊足巧打の外野手だった山口政信が軍に応召されて苦境に立っていたところを埋める形になり、1年目の1939年が96試合、1940(昭和15)年も98試合にでている。ときに4番も務めるなどレギュラーとして活躍した。
しかし、1941(昭和16)になると日米関係が悪化して双方が戦争準備態勢になってくる。同年6月14日、堀尾に対しアメリカ軍から召集がかかり、28試合に出たところで退団を余儀なくされてハワイへ帰っている。
タイガースでは222試合895打数214安打13本塁打109打点48盗塁74四球74三振、打率 . 239の数字を残した。
1945(昭和20)年までハワイの地元チームで野球を続けて39歳で現役を引退。その後骨肉腫を患い1949(昭和24)年、42歳の若さで亡くなった。
玉置 玉一 外野手(再掲)
玉置さんはすでに背番号14―2及び15-1で紹介してるんだけど 公開したのが2023年だったので もう一度全文を再掲するね
玉置は静岡県浜松市出身。「たまおき」ではなく「たまき」。少年時代から有望選手と評判で、スカウトにより越境して愛知県の東邦商業(現東邦高校)に進んでいる。1940(昭和15)年の夏に甲子園に出場し、1941(昭和16)年の選抜ではエースとして優勝に導いている。
ところが日中戦争の激化と太平洋戦争に備えてか1941年の夏の選手権大会が中止になり、春夏連覇を目指していた玉置はやけになって暴力事件を起こしたことで秋に高校を中退してタイガースに入団する。最初に着けた背番号はアメリカ軍に召集された堀尾が着けていた「31」だった。
1年目となった1942(昭和17)年は10試合に登板して1勝3敗で防御率2 . 06の成績だったが、もともと打撃にも才能があり、野手としても55試合に出場して打撃成績は134打数27安打4打点2盗塁という数字が残っている。玉置自身は投手としてはこの1年で限界を感じ、翌年からは野手として生きることになる。
1943(昭和18)年は、おもに三塁手として81試合に出場しているがシーズン途中で軍に召集されて終戦まで兵役についている。
1946(昭和21)年にタイガースに復帰すると、心機一転のため背番号を「14」に変更、1947(昭和22)年からゲームに出ている。
復帰した当時は本職にしようとおもっていたサードに藤村がいたため、玉置は定位置を確保するのに苦労しており、投手以外の8つのポジションすべてをこなしながら最後はファーストに落ち着いた。
1947年から1950(昭和25)年までの4年間、毎年100試合以上に出場しており、ダイナマイト打線の7番として活躍している。この間の1949(昭和24)年に「玉置」から「安居」に改姓している。
特に1950年は背番号を「15」に改めた年で、437打数131安打60打点11本塁打で打率 . 300の好成績だった。
ところが玉置は1951(昭和26)年1月3日に自由契約となって退団。その後大洋へ入団してしまう。これによりわずか1年で背番号「15」は御園生に戻された。
大洋では2年間在籍し、その後は国鉄~近鉄~大映と渡り歩いて1957(昭和32)年を最後に引退した。タイガースを退団したのちに在籍した他球団で通算7年間プレーしたわけだが、その間に出場が100試合に満たなかったのは1年だけであり、移籍したすべての球団でレギュラーになっている。
通算成績は13年1392試合で4854打数1298安打569打点70本塁打116盗塁。通算打率は . 267だった。
戦争による3年のブランクもあることを考慮すれば、非常に優秀な選手だったと言えるだろう。なぜタイガースを自由契約になったのかは資料が見つからず謎である。
2002(平成14)年に79歳で逝去。
まとめ
こうした歴史を見てくると 日本のプロ野球は創世期から昭和30年代前半ぐらいまで ハワイから来た日系の選手たちに引っ張ってもらった印象があるよね
受け売りだけど 日本に「スライディング」を持ち込んだのは与那嶺要さんだそうよ これは日本の野球に革命的変化をもたらしたって言われてる
堀尾さんもそういった選手たちの一人ね 戦前の日本にはスイッチヒッターという概念もなかったので 堀尾さんが日本国内でのスイッチヒッター第1号なのよ ただ左ではあまり長打力がなかったらしく日本ではほとんど右打席だったらしいけどね タイガースを退団した理由がアメリカ軍からの徴兵って激動時代を感じるわ
玉置さんについては15-1のまとめでも書いてるように好いバッターなのよ 通算13年のうち100安打以上が8シーズンあるわ しかも戦争を挟んで4年間のブランクもある上での数字だから大したものよ ただし5球団を渡り歩いてるのは「元祖オレ流」みたいだよね 協調性がなかったのかな?
入団から1943年まで「31」を着けた玉置さんが兵役に行くと 1949年まではだれも着けてないのね
プロ野球が2リーグに分裂した1950(昭和25)年から3人目の「31」の選手が登場するけど誰だか分かりますか? 2代目は全く知らない人でした
背番号31-2につづく
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