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列伝27 ランディ・バース⑤
さて前回に引き続き1985年のバースさんを追いますよ
優勝したとは言っても 楽して勝ったわけじゃないのね 何度も首位から落っこちてるし どちらかと言えば広島や巨人との三つ巴の混戦と言うべきかな そこから抜け出せたのはバースさんのおかげ
では85年シーズンの後半を見ていこうね 少し長くなるよ
(14)晴天の霹靂!8月12日の日航機事故で中埜社長が犠牲に
8月のロードに出てから首位に返り咲き絶好調に酔いしれる阪神。しかし第3の危機は突然おとずれる。
8月12日、帰省客を満載した日航ジャンボ機が墜落し、乗員乗客520名が亡くなり生存者は4名という史上最悪の飛行機事故が起こった。その犠牲者の中に、阪神球団の中埜球団社長が含まれていたのである。 
「二人三脚でタイガースを再建しましょう」と手を取り合って頑張ってきた吉田監督は外出先で連絡を受け「食事の場所から次のところへ移ろうとしたときに、社長のことを聞きましてん。あわてて帰ってきました。けど、ほんまですか? 信じがたい。ほんまに事実なんですか?」と動転して記者たちに詰め寄ったという。
中埜社長の告別式を弔問したタイガースの選手たち
この大事故の一報が現場にどれほどのショックを与えたのかは想像できないが、1984年オフ、吉田監督の就任と同時に球団社長に就任した中埜氏の突然の訃報はチームに暗い影をもたらしたかもしれない。
現実に阪神は翌13日から6連敗の泥沼に落ち込んでしまい、広島、巨人に次々と抜かれ、3位に転落してしまったのである。
(15)最大の危機を救ったのはバース、そしてリーグ優勝!
この大ピンチを救ったのは、またしてもバースだった。甲子園にもどった8月21日の大洋16回戦から25日のヤクルト18回戦にかけて4試合連続ホームラン。
緊張の糸が切れそうなチームをしっかり支え、首位戦線からの脱落を土俵際で食い止めた功績は計り知れない。8月27日に首位に返り咲いた阪神は、二度とその座を明け渡すことはなかった。
9月4日に山本和行がアキレス腱を断裂して戦線離脱。直後の9月7~8日の対広島2連戦が優勝への最後の試練となった。
ここでもバースのバットが火を噴き、7日の21回戦で43号、8日の22回戦では44・45号を連発し、「眼下の敵」だった広島を蹴落とす。
その一方で巨人が大洋に3連敗したため、あっという間に三つ巴から抜け出し、9月11日に「マジック22」が点灯した。
ゴールが見えてからの阪神は着々とマジックを減らし、10月16日のヤクルト25回戦 (
神宮 )
で21年ぶりのリーグ優勝を達成、大歓声の中、吉田監督が宙を舞いタイガースファンは歓喜の涙を流した。
(16)シーズン55本の本塁打日本記録に挑む
バースは優勝を決めた10月16日の試合で52号を打っていたが、このとき阪神はまだ5試合を残していた。
しかも翌10月17日に53号が出るに及んで、日本中が騒然となったと言っても過言ではない。1964 ( 昭和39 ) 年に王貞治が打ち立てた55本塁打というプロ野球記録が、完全に射程内に捉えられたからだ。
10月20日の中日26回戦、バースは8回表に小松から54号2ランを放って、ついに日本タイ記録に王手をかける。ところが、残る2試合はいずれも巨人戦。しかも当時巨人の監督は記録保持者の王だったこともあって、国民的な注目が集まった。
10月22日の甲子園での巨人25回戦は2打数1安打、ほかの2打席は明らかに勝負を避けた敬遠気味の四球だった。阪神ファンからは抗議のブーイングが巻き起こったが結局ホームランは出ず、バースは残された最終戦に望みをかけることになった。
10月25日、注目の巨人26回戦は後楽園球場で行われた。この日の巨人投手陣は前回より露骨に勝負を避けてきた。
第1打席、第2打席ともに四球。3打席目に、バットの届きそうな球を打ちにいったが、センター前ヒットが精一杯。あとの第4打席、第5打席ははっきり分かる敬遠で、残念ながら偉業は成らなかった。
勝つための敬遠は作戦としてあるわけだが、記録を作らせないための敬遠は了見が狭くセコイ。決して王が命じたものではなかったと信じたいが、その後もタフィ・ローズやアレックス・カブレラが、王監督率いるダイエー・ホークスの敬遠攻めでいずれもタイ記録で終わったのを見せつけられると・・・後味の悪さが残る「黒歴史」の一つになって王のキャリアに傷を残している。
最後の2試合が巨人戦だったことがバースの不運と言うほかない。ここで比較をしてみるが 、王が日本記録を作ったシーズンは140試合制(王は全試合出場)だったのに対して、 バースは130試合制(出場は126試合)で54本をマークしたことを考えると、実はすごい記録なのである。出場数に14試合の差があり、85年シーズンのバースなら4〜5本は追加できただろう。
あと一歩で大記録を逃がしたバースだったが、打率3割5分、134打点、54本塁打という抜群の成績で、前年のブーマー・ウェルズに続く外国人選手2人目となる三冠王に輝いた。さらに、最多勝利打点・最高出塁率のタイトルも獲得し、文句なしでセ・リーグMVP、ベストナイン一塁手にも選ばれている。
(17)日本シリーズでもMVP、「神様バース」の称号
バースが「神様」とまで呼ばれるようになったのは、レギュラー・シーズンの成績ではなく、日本シリーズで見せた驚異的な勝負強さによるものだろう。
1985年の日本一を決する西武ライオンズとの選手権は、秋たけなわの10月26日、西武球場で幕を開けた。西武・松沼博久、阪神・池田親興の先発で始まった第1戦は、緊迫した投手戦になり、7回を終わって両チーム無得点。8回表、阪神が無死一・三塁のチャンスをつくり、打席にバースを迎えたところで、広岡監督はリリーフに工藤公康を投入してきた。
その5球目、バースは外寄りのカーブを読んでいたように、逆らわず左方向へはじき返すと、風に乗った打球は、決勝3ランとなってレフトスタンドに吸い込まれた。先発の池田はこの3点の援護を守りきって西武打線を完封し、阪神がシリーズの先手を取った。
他のチームメイトが、シリーズ独特の雰囲気に緊張して動きが硬いなかで、「試合前から左方向へ強い風が吹いていたからね。」と左狙いを冷静に意識していたバースの「平常心」がもたらした勝利だった。
バースは続く第2戦でも、攻守にわたって勝敗を左右する働きをしている。石毛宏典のソロで1点を先制された直後の4回表、一死一塁で高橋直から逆転2ラン。
2-1で迎えた7回裏の一死一・三塁のピンチでは、辻のプッシュバントに素早く反応したバースは素手でボールをつかむと執念のバックホーム。
本塁を突いた三塁ランナーの秋山を、間一髪で刺して1点のリードを守るビッグプレーで阪神が2連勝する原動力になった。
歓喜の絶頂に達した阪神ファンの間で「神様・仏様・バース様」の声があがったのは、このバックホーム・タッチアウトのときだったと言われている。
第4戦以降、西武はバースのホームランを封じることには成功した。しかし、今度は緊張が解けて目覚めた阪神打線の大爆発をとめることができず、2勝2敗から第5戦・第6戦に圧勝した阪神が、4勝2敗で初の日本一を勝ち取った。
1・2戦におけるバースの働きがなければ、ひょっとすると阪神の4連敗で終わっていたかもしれない。シリーズタイ記録の3試合連続ホームラン、6試合で打率3割6分8厘、9打点の成績を残したバースが、文句なしでMVPに選ばれている。
ランディ・バース⑥へつづく
1985年は凄い1年だったんだね 何度も大きな連敗があったし 社長さんの事故死 バースさん本人も剥離骨折 広島も巨人もしぶとく強かった
落っこちそうになるけどチームを救うのはいつもバースさんのバット それは日本シリーズでも一緒だった すべてのタイガースファンが文句なしで選ぶMVPだよ
最多本塁打記録については腹立たしいよね 敬遠はコーチの指示だったって言われてるけど黙ってたってことは王さんも容認したわけでしょ! 本当のスポーツマンシップがあれば自らマウンドへ行って「勝負しろ」って言わなきゃ 王さんはシーズン中にもバースさんが松脂スプレーをスイートスポットにまで吹き付けてるって審判団に因縁つけたって言うじゃない 国民栄誉賞に恥じる行いはダメよ!
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