PR
Calendar
Category
Comments
New!
クラッチハニーさん
New!
虎党団塊ジュニアさん
New!
ヒロくん2010さん
New!
チョーサン8278さんFreepage List
背番号34(その6)
背番号34の第6回目です 今回紹介する3名の選手も覚えてる人って希少じゃない?3人とも覚えてるよって人はほぼいないとおもうよ 2代目は3人とも全くわかりませんでしたよ
名前を聞いても頭に浮かんでくるものがないのよ 「ホントにタイガースにいたの?」という感じだね 3人目の投手は第1期岡田監の時に入ってきてルーキーで活躍してるんだけど2代目の記憶にはないのよ・・・
とにかく読み進めてみてください
青森県上北郡七戸町の出身。青森県立七戸高校時代は県下有数のサウスポーと して知られる存在だったが甲子園経験はない。
卒業後は東京農大へ進むが当時はリーグ2部。4年時にようやく1部へ上がったが2勝5敗、防御率1.95という数字しか残せなかった。
大学を出ると社会人のプリンスホテルに入社。1989(平成元)年の都市対抗本戦ではブルペンの柱として貢献、同社の初優勝に大きく貢献した。同年秋のドラフト会議で福岡ダイエーホークスの3位指名を受けプロ入りしている。
1年目の1990(平成2)年の当初はローテーション投手に育てようと前半戦では6試合に先発しているが結果が出ず、その後はリリーフとして投げており、20試合(先発6)で51回2 / 3を投げて1勝5敗、防御率5.57に終わる。
2年目も同様に当初は先発で起用されるものの1年目の繰り返しのようなシーズンになってしまい、17試合(先発7)で44回1 / 3、1勝4敗、防御率5.48の成績しか残せなかった。
球団は先発投手として見切りをつけ、3年目、4年目はリリーフ登板しかさせていない。結局ダイエーでは先発・リリーフともに実績を残せず、1993(平成5)年のオフに西武ライオンズへトレードされてしまう。
西武へ移った1994(平成6)年のシーズンは22試合の登板で1セーブを挙げたに過ぎなかったが、移籍2年目からワンポイントを得意とするリリーフ投手として大ブレイクする。
1995(平成7)年に58試合に登板すると、2001(平成13)年まで7シーズン連続で50試合を超え、ワンポイントでの起用を中心に大車輪の働きをしている。1995年、1997(平成9)年、1998(平成10)年はいずれもリーグ最多登板数だった。
ところが2002(平成14)年に伊原春樹が監督に就任すると状況が一変する。ワンポイントリリーフに否定的な伊原監督はほとんど橋本を使わなくなり、5月27日にはタイガースのトム・エバンスとのトレードで放出してしまった。
タイガースではエバンスの背番号「59」を引き継ぐが、体力的な衰えも目立ってきており、タイガースでもワンポイントで15試合にしか投げることができず、打者36人に対し14安打を浴び、6四球、自責点8で、防御率13 .
50の数字ではもう戦力外に近い存在と見做されてもやむを得なかった。エバンスが西武で活躍したこともあって橋本は肩身が狭かっただろう。
2003(平成15)年には引退した星野伸之の「34」を継承して残留したものの、シーズン開幕の約1ヶ月後、4月22日に吉田篤史との交換でロッテに移籍する。
ロッテでは23試合に登板したが、防御率6 .
75ではリリーフ投手として役に立たっていない。限界を感じた橋本は10月13日に引退を発表。続けていた連続試合救援登板記録は 526
試合でストップした。

プロ通算記録は560試合(先発13)、12勝22敗20セーブ、482回2 / 3を投げ216四球、374奪三振、自責点199、防御率3 .71 だった。
2010(平成22)年から4年間、西武でコーチを務めるが2013(平成25)年に退団した。
吉田 篤史 投手
新潟県新潟市の出身(生まれたのは東京都豊島区)。右投右打ちの投手だが日本文理高校時代も全国的には目立った存在ではなかった。
高校を卒業後、ヤマハ発動機に入社して実力が開花し、1990(平成12)年には都市対抗本戦の優勝に貢献、胴上げ投手となり橋戸賞、若獅子賞を受賞。これによりプロからも注目されるようになる。
翌1991(平成13)年にも都市対抗本戦に出場しており、ドラフト上位候補に目されるようになった。同年のドラフト会議では千葉ロッテマリーンズから1位指名を受け、入団している。
ルーキーイヤーの1992(平成14)年は先発として期待され、登板した21試合中19試合が先発だった。7勝9敗で防御率4 . 07の数字を残しと次のシーズンに期待を抱かせた。
ところが2年目が7試合、3年目が2試合と低迷し、4年目の1995(平成7)年から5年間は中継ぎ専門にチェンジしてそれなりの成績を挙げた。

2000(平成12)年には12試合の先発もこなすなど39試合で7勝8敗の成績を挙げる。2001(平成13)年から2002(平成14)年は再び中継ぎに転じ、2年続けて40試合以上を投げたが敗戦処理などが多く衰えは隠せなかった。
2003(平成15)年になると登板が無いまま4月22日に橋本武広とのトレードが成立してタイガースへ移籍している。背番号「34」を引き継いだ。
しかし移籍直後、二軍調整中に右脹脛痛を発症し1年を棒に振る。2004(平成16)年も引き続き在籍したが登板機会はなく、公式戦終了後の10月6日に戦力外を通告されたため引退している。
通算成績は292試合(先発39)に登板し26勝37敗6セーブ、536回2 / 3を投げて226四球、336奪三振、自責点220、防御率3 . 63だった。
引退後は横浜ベイスターズやオリックスバファローズで7年間コーチなどを務めたあと、独立リーグや社会人の指導者として頑張っている。
橋本 健太郎 投手
大阪府八尾市で出生し、小学3年次に京都府綴喜郡田辺町へ転居。中学時代から右本格派投手としてエースとなり、府立久御山高等学校へ進むが甲子園とは全く無縁だった。
高校卒業後は東北福祉大学へ進学。大きな大会での登板は少なかったが大学時代に147キロを計測する。
その後社会人の日本新薬へ入社し、軟投型の投手にイメージチェンジ。2004(平成16)年の都市対抗本戦でベスト8に勝ち進み、優秀投手賞を受賞している。
同年秋のドラフト会議でタイガースが4位指名し入団、引退した吉田篤史から背番号「34」を引き継いだ。
ルーキーイヤーの2005年、岡田彰布監督は橋本を中継ぎとして51試合に起用している。社会人時代と打って変わって大学時代のスピードボールを取り戻した橋本は期待に応え、2勝2敗1セーブ9ホールド、66回2 /
3で67三振を奪い防御率も2.30とリーグ優勝に大きな貢献をした。日本シリーズでも第1戦と第3戦に投げたが、チームは4連敗で日本一を逃している。
2年目の2006(平成18)年は当然飛躍が期待されたが、前年の登板が影響したのか1年を通じて右肩腱板炎に悩まされ続け、わずか2試合しか登板できなかった。
2007(平成19)年は復活して46試合に投げることができた。49回1 /
3を投げて3勝2敗6ホールド。特に61奪三振という数字を残したのは注目された。しかしコントロールは悪く、防御率4 .
74は1年目に比べると1試合換算で倍の点を与えていることになる。
そして2008(平成20)年、中継ぎエース渡辺亮が成長したことで出番もなくなり、10試合しか投げていない。相変わらず三振は取るが失投も多く、防御率は5 . 54と悪化してしまった。
一旦は契約更改したが、年が明けて2009(平成21)年3月4日に千葉ロッテの久保康友との交換トレードが成立して移籍することとなる。
ロッテでは2013(平成25)年まで在籍するが5年間で24試合の登板しかできず0勝1敗2ホールド、防御率5 .
16の数字しか残せなかった。
2013年10月3日に戦力外を通告され引退。2014年からタイガースに戻って打撃投手としてチームを支えている。(打撃投手では背番号「110」を着けている)
プロ通算成績は133試合6勝5敗1セーブ17ホールド、153回を投げ75四球、161奪三振、自責点67、防御率3 . 94である。
まとめ
今回は橋本さんが2人出てきたけどどっちも覚えがないのよ 1人目の橋本武広さんはタイガースでは足かけ2年いたけど実質15試合で敗戦処理みたいなものだったようね
つぎの吉田さんは皆さん覚えてる?トレードでタイガースに来たけど一軍の試合で1度も投げてないから見たことない人が大半だよね
正直2代目は第1次岡田監督のころ それほどタイガースに熱中してたわけじゃないのよ(20年くらい前でしょ?まだ2代目も小中学校くらいかな?) ということで観ていたとは思うんだけど橋本健太郎さんの記憶は残ってないわ でも活躍したのがリーグ優勝の年だったのはよかったね
背番号34-7につづく

タイガース背番号史 35-4 2025年11月14日 コメント(4)
タイガース背番号史 35-3 2025年11月13日 コメント(2)
タイガース背番号史 35-2 2025年11月11日 コメント(2)