そのやわらかな魂に刻印された
祖父の粗野ではあるが真実の教え、
祖母の愛、
山や草木やけだもののたちとの語らい。
シェイクスピア『マクベス』を読んでもらったときなど、
古いお城が目に浮かび、
魔女たちが生きかえって
小屋の壁に影を映しているのが見えた。
ぼくは祖父の揺りイスににじり寄った。
刃傷沙汰の場面になると、
祖父は揺りイスを止め、意見を言いはじめる。
もしマクベス夫人が女性らしく従順にふるまい、
夫のすることなすことに鼻を突っ込みさえしなければ、
そんな事件は起こらなかった。
マクベス夫人はどうも貴婦人さに欠ける。
どうして彼女がレディーと呼ばれるのか、
さっぱりわからない・・・・・・・・・。
祖父は興奮ぎみにそんなことを口にした。
あれこれ考えたあげくだろう、
数日祖父は、
あの女(もうマクベス夫人をレディーと呼ばなかった)は
絶対頭がおかしかったのだ、と言い出した。
そして こうつけ加えた。
一度、サカリのついた雌鹿を見たことがある。
そいつは相手の雄鹿が見つけられないので
頭に血がのぼり、
狂ったように森を走りまわったあげく、
自分から川に飛び込んでおぼれ死んだ。
ミスター・シェイクスピアがはっきり言ってくれないから、
よくはわからないが、
あの女があんなふうになったのは
ミスター・マクベスのせいだ。
そう思えるふしがある。
彼は、なににしても面倒を引きずっていたらしいから。
祖父はその問題でだいぶ頭を悩ませていたが、
やがて、やっぱりマクベス夫人に
一番大きな落ち度があったという結論に落ち着いた。
マクベス夫人はサカリのついたときの
いらいらを 殺人なんかではなく、
もっと別の方法、
たとえば壁に頭を
ぶちつけてまぎらすことだってできたはずだ
というわけである。
祖父はシーザーの死について
同情的な立場をとった。
ミスター・シーザーと意見が食いちがっているのならば、
はっきり話し合いでけりをつけるべきじゃないか。
この件でひどく興奮をしている祖父を、
祖母はなだめなければならなかった。
「わたしたちだってミスター・シーザーが殺されたのに
同情しているのよ。あなたと言い争う気なんかないわ。
それに、ずっと昔のできごとじゃないの。
今さらどうしようもないわ。」
最も頭を悩まされたのは、ジョージ・ワシントンの本を読んだときだった。
祖父がどんな反応を示したか語る前に、
祖父の負っていた背景について
少しばかり説明を要する。
父が死んでから1年後、母も死んだ。
そのためぼくは祖父母と暮らすことになった。
ぼくは5歳だった。
祖父はチェロキー族の血が半分、
祖母のほうは完全なチェロキーだった。
*チェロキーとは北米南東部のアラパチア山脈南端に住み、
農耕と狩猟生活を営んでいた森林インディアン。
1838年~39年、オクラハマ州に強制移住させられたが、
山奥に隠れてとどまったり、
逃げ帰った人たちもおり、
現在では遠く離れた二つのグループに分かれている。
リトル・トリーは、
本来の故郷であるテネシー州にとどまったグループの子孫に属する。
暖炉の前できゃしゃなからだつきの
祖母が揺りイスをきしませ、鼻歌を歌いながら、
モカシン・ブーツ(インディアンの平底のやわらかな革靴)を
つくっていた。一足のブーツを仕上げるのに、
夜だけの手仕事だが、一週間はかかった。
鉤ナイフで鹿皮を切り裂いて細いひもにし、
へりの部分の皮布にぐるっと縫いこんでゆく。
こうして靴ができあがると、
こんどはそれを水にひたす。
ぼくの仕事は、濡れたままの靴をはいて
部屋の中を行ったりきたりしながらかわかすことだった。
かわくにしたがって靴はピッタリ足に合い、
空気をはいているみたいに軽くなる。
ある朝、飛び起きるなりぼくは急いで胸当てズボンをはき、
上着のボタンをとめ、
モカシン・ブーツに足を滑りこませた。
あたりは暗く、冷たかった。
木々の枝をふるわせる朝の風もまだ吹き始めない時刻だ。
前の晩祖父は、もし明日の朝起きられたら、
山の上へ連れていってやろう、と言った。
起こしてやる、とは言わなかった。
「男は、朝になったら自分の意思で起きるもんじゃ。」
ぼくを見おろし、ニコリともしなかったのである。
だが、祖父は自分が起きるときにいろんな物音をたてた。
ぼくの部屋との境の壁にぶつかったり、
いつもより大きな声で祖母に話しかけたりした。
ぼくはその音で目が覚めたのだ。
ひと足先にぼくは外に出て、
犬たちといっしょに暗がりの中で祖父を待った。
「おお、ここにおったか」祖父は驚いたようすだった。
「はい。待っていました」あらたまった口調で、
ぼくは誇らしく返事をした。
祖父は、まわりで跳ね回っている犬たちに向かって
指を立て、命令した。
「おまえたちは来るんじゃねえ」
しっぽを巻きながらも、
犬たちはせがむように鼻を鳴らした。
マウド婆さんがほえはじめる。
それでも、犬たちはそこに残って、
ついてこようとはしなかった。
しょんぼりとかたまり合って、
祖父とぼくが切畑を抜けてゆくのを見送っている。
ぼくはそれまでに、
もっと下の登り道を登っていったことがあった。
泉の湧き水が流れる小川に沿って
曲がりくねった土手道で、
そこをたどっていくと、突然草地が広がっている。
祖父はそこに家畜小屋を建て、
ラバと牛を飼っていた。
だが、今朝登っていくのは、その道をすぐに右に折れ、
山腹を巻いていく上の道だった。
谷間を見おろしながら、
道はどこまでも上へ上へと続いている。
急な傾斜を全身で感じ取りながら、
ぼくは祖父のあとを小走りについていった。
ぼくはほかのこともいっぱい感じとっていた。
祖母が言ったとおりだった。
母なる大地の感触がモカシンをとおしてぼくの足に伝わってきた。
土の凸凹やなめらかな感触、
血管のように大地の体内を這いまわる木の根、
さらに深いところを流れる細い水脈の生命さえも。
大地は暖かく弾力があり、
ぼくはその厚い胸の上をピョンピョン跳ねているのだった。
すべてが祖母の話していたとおりだ。
空気は冷たく、吐く息は小さな雲になった。
ぼくらの谷間ははるか下の方だった。
裸の木の枝には歯が生えたように氷が張りつき、
ときどき水滴を落とす。
登るにつれて、道に残る氷の量はしだいに多くなる。
空にぼんやりとにじみだした光が、
闇をゆっくりと押しのけていく。
祖父が立ち止まり、道のわきを指さした。
「ほら、いるぞ。これは七面鳥の通り道じゃ。見えるか?」
ぼくはしゃがんでその足跡を見つめた。
ひとつひとつ、小さなまるいくぼみを中心に、
細い棒で短く引っ掻いたような筋が放射線状についている。
「どれ」祖父は言った。
「わなをしかけるか」祖父は道をそれて林にはいってゆく。
ぼくもすぐあとに続く。
まもなく切り株を取り除いたあとの穴が見つかった。
ぼくたちは穴をきれいにした。
まず積もった落ち葉を掻きのける。
それから祖父は長いナイフを取り出し、
ふわふわした土に突き立てる。
土を掻き退けてはわきの落ち葉にぶちまける。
穴がどんどん大きく深くなってきたので、
ぼくがその中にはいりこんで、土をすくい出す。
とうとう穴のへりから目を出すことができないくらい深くなったとき、
祖父がぼくの手を引っぱり上げた。
細い木の枝を集めて、穴の上にさし渡す。
さらにその上に落ち葉を振りまく。
こうしてワナの準備ができると、
祖父はナイフで落ち葉を掻きのけながら、
さきほどの山七面鳥の通り道と穴の間に、
細い道筋をつけていった。
次にポケットから赤いインディアン・コーンを取り出し、
その道筋にパラパラとまく。
穴の中にもひとにぎりのコーンを投げ入れた。
「これでよし。さあて、行こうか」そう言うと、
祖父はまた道を登り始めた。
土の表面から砂糖菓子のように吐き出された氷が、
ひと足ごとに音をたててくだける。
向こうの山がぐんと近づいてきた。
見おろすと、
谷間は細長い裂け目のそこに
鋼のナイフの刀のような谷川が沈んでいるのが見えた。
ぼくたちは道のわきの枯葉の上に腰をおろした。
ちょうど谷向こうの山の頂上に太陽の最初の光が触れた。
祖父はポケットからサワー・ビスケットと鹿肉を取り出す。
山を見ながらぼくたちは朝食を食べた。
太陽の光は山頂にぶつかってははじけ、
大気中にまばゆい光の矢をシャワーのように射放っている。
氷をまとった木々はキラキラと輝き、
見ていると目が傷つきそうだ。
太陽が夜の影を下へ下へと追いやるにつれて、
樹氷郡のきらめきも波頭を立てて山腹を滑り降り広がっていく。
斥候役のカラスが一羽、
大気を裂いて鋭い鳴き声を三回あげた。
ぼくたちがここにいることをなかまに知らせているのだ。
今、山は身じろぎをし、ため息をついている。
吐き出された蒸気は白くにごって小さなかたまりとなって漂う。
太陽が氷を融かし、
死の鎧から木々を開放してゆくと、
ピシッピシッという鋭い音、
またブツブツという低い音があちこちから聞こえてくる。
ぼくらは目をこらし、耳をそばだてていた。
木々の間を笛のように低くうなりながら朝の風が吹き始めると、
山の音はいっそう高まってきた。
「山は行きかえった」目を山に向けたまま、祖父が低くつぶやいた。
「はい」ぼくは緊張して答えた。
「山は生きかえりました」そしてそのとき、
ぼくにはわかった。
祖父とぼくは、だれも知らないひとつの秘密について
理解を分け合ったのだと。
なごりの闇が退いていくと、小さな原っぱが向こうに現れた。
草が生いしげり、一面に朝日を浴びて光っている。
その草原は山の腕にすっぽりと抱きかかえられているようだ。
祖父が指をさした。
見ると、一群のウズラがバタバタ飛び交いながら
草の種をついばんでいる。
今度は祖父は氷りついたように青い空を指差した。
空は雲ひとつなく晴れわたっていたが、
初めぼくはそこになにも見つけることができなかった。
だがすぐに、小さなしみのようなものが
山の端の空に浮いているのが目にはいった。
それはどんどん大きくなっていく。
一羽の鳥だった。
前方に自分の影を落とさないよう
太陽と真正面に向き合いながら
木の梢の上空へ近づいてくると、鳥は翼を半ば閉じ、
スキーヤーのように身構え、次の瞬間、
褐色の弾丸となって草原のウズラめがけて急降下した。
ウズラたちはあわてて飛び上がると、林に逃げ込む。
だが、一羽だけがおくれた。
鷹が空中で鋭い爪の一撃をくらわせた。
羽根がパッと舞い上がる。
二羽の鳥はひとつのかたまりとなって地上に落ちた。
鷹は激しく頭を振り上げ振りおとして、
死の攻撃を加える。
一瞬ののち、鷹は死んだウズラを爪に引っつかんで、
山の端沿いに上へ上へと翔けのぼっていった。
ぼくは泣き声さえあげなかったが、
きっと悲しい顔をしていたのだろう。
祖父が言った。
「悲しんじゃならんぞ、リトル・トリー。これがおきてというもんじゃ。
鷹はのろまな奴だけつかまえる。
のろまな奴はのろまな子どもしか生めねえ。
いいか、地ネズミはウズラの卵を食っちまう。
のろまなひなにかえる卵だろうと、
すばしこいひなにかえる卵だろうと、おかまいなしさ。
鷹はその地ネズミをたくさん食ってくれる。
鷹はおきてに従って生きている。
ウズラを助けてやってもいるんじゃ」
祖父はナイフで地面を掘り、一本の根っこを抜き取った。
皮をむくと、冬越しのためにたくわえられたジュースが粒になって盛り上がり、
したたり落ちる。
それを半分に切り、太い方をぼくにくれた。
くわえると甘みが口の中に広がった。
「おきてというものがあるんじゃよ」祖父は静かに話を続けた。
「必要なだけしか獲らんこと。
鹿を獲るときはな、いっとう立派な奴を獲っちゃならねえ。
小さくてのろまな奴だけ獲るんじゃ。
そうすりゃ、残った鹿がもっと強くなっていく。
そしてわしらに肉を絶やさず恵んでくれる。
パー・コーというピューマのことじゃがな、
あいつでさえよくわかっている。
だから、わしらもおきてをわきまえなきゃいかんのさ」
「もっとも蜂のことじゃがな、
あいつらは食べきれないくらい蜜を貯めこむ。
だから熊とかアライグマ…そう、チェロキーにも盗まれる。
人間にもそんなのがおるじゃろうが?
使いきれないくらい貯めこんで、ぶくぶくとふとったのが。
そこで取り合いになる。
戦争がおっ始まるんじゃ。
必要でもねえのに、ちょっとでも多くふんだくってやろうと、
長い話し合いが始まる。奴らの言い分はな、
こうやって最初に旗を立てたんだから、
おれたちにはこうする権利があると、こうなんじゃ。
・・・人間は言葉だとか旗のせいで死んでいく。
・・・じゃがな、おきてを変えるなんてことはだれにもできやしねえのよ」
ぼくたちは道をもどることにした。
ちょうど太陽が頭の上高く来るころ、
山七面鳥にわなをしかけた場所に着いた。
そばに近寄らないうちに、彼らの声が耳に入った。
わなにかかったのだ。
ゴロゴロのどを鳴らすかと思うと、警戒の金切り声をあげている。
「おじいちゃん、どうして?入り口はしまっていないのに、
どうして七面鳥は頭をかがめて出てこないの?」
祖父は腹ばいになり、穴の中に上半身を突っ込むと、
けたたましくわめきたてる大きな山七面鳥を一羽引っぱり出した。
その足をひもでしばり、ぼくを見上げてニヤッと笑った。
「七面鳥はどこか人間に似てるな。こいつら、何でも知ってるつもりになって、
自分のまわりになにがあるか
ろくに見ようともせん。
いつも頭をおっ立ててふんぞりかえってるから、
なにもわからずじまいになっちまうんじゃな。」
祖父は足をしばった山七面鳥を地面に並べた。
全部で六羽だった。
「こいつらはみんなだいたいおんなじ年じゃ。
頭のいぼの厚さを見りゃわかる。
わしらには三羽もあれば足りるな。
おまえが選んでごらん、、リトル・リー」
ぼくは獲物のまわりをゆっくりと歩いてみる。
しゃがみこんで、じっくり観察する。
起き上がってもう一度まわりを歩く。
慎重にやらなければならなかった。
ついには四つんばいになって這いまわりながら一羽ずつ見比べた。
そしてやっと、小さめの三羽を選んだ。
祖父はなにも言わず、残りの三羽の足のひもをといた。
彼らは大あわてで羽を広げ、
下のほうへバタバタと飛んでいった。
祖父は二羽を肩にかつぐと、最後の一羽を指さして言った。
「そいつはおまえがしょえるかな?」
「はい、おじいちゃん」ぼくは緊張して答えたが、
hかんと正しいのを選んだかどうか自信がなかった。
祖父の骨ばった顔にゆっくりと微笑みが広がった。
「もしおまえがリトル・トリーでなかったら、
リトル・ホーク(小さな鷹)と呼ぶところじゃがな」
祖父のあとから道をくだっていった。
山七面鳥はずっしりと重たいが、肩に当たる感触は心地よい。
太陽はもう遠い山の方に傾き、
道のわきの木の間を漏れる光が、
ぼくたちの足もとに燃えるような金色の縞模様を落としている。
夕方になって風はやんだ。
前を行く祖父が鼻歌を歌っている。
ぼくはこの時間がいつまでも続くことをどんなに願ったことだろう。
というのも、ぼくが祖父を得意な気持ちにさせていることに
気づいたからだ。
ぼくはおきてを学び取ったのだ。